私の左脚に繁靭帯炎の発症が確認されてから、今日で約一週間。
私はトレセン学園を休学し、メジロ家の療養施設で長期的な療養に勤しむ運びとなった。
色々な意味で現実味の湧かない感覚を抱えながら、私はぼんやりとした毎日を過ごしていた。
「…………」
ふとした瞬間に私の脳裏をよぎる、日常の全てが一転したあの日の光景。
悪い夢ならどうか覚めてほしい。
だけど残念なことに、私の心に刻まれた癒えない傷が、紛れもない現実であることを否応なしに突きつけてくる。
沖野トレーナーとの関係に関しては、私の友人であるテイオーが彼を説得するために動いてくれているとのこと。
正直、どのような顔で彼と向き合えば良いのか分からないでいた私にとって、テイオーの申し出はありがたかった。今回ばかりは、彼女の厚意に対して素直に甘えることにする。
テイオーは療養に尽力する私を気遣ってか、毎日たくさんのメッセージを送って来てくれる。
そんなに心配しなくても良いと伝えたのだけれど、テイオーは甲斐甲斐しく連絡を取り続けてくれていた。
私の復帰を心待ちにしているテイオーのためにも、一刻も早く繋靭帯炎を克服し、あるべき場所へ戻るとしよう。
***
繋靭帯炎の発症から約二週間が経過した。
療養生活は相変わらず退屈で、変わり映えのしない日常の繰り返しであった。
朝日を浴びて目が覚めて、朝食をとって身支度を済ませ、学業に遅れが生じぬよう家庭教師の授業を受ける。
起床後、もはや日課になっているテイオーからのモーニングメールに返信し、私は自分の足を使ってベッドから起き上がった。
前日に用意した衣服に着替えて、身支度を整えようとした矢先──。
「──いっ……!?」
床に足を下ろした私の表情が、突然の痛みを受けて苦悶に歪んだ。
一体何事かと、私は痛みを感じた左脚に視線を向ける。
包帯でぐるぐる巻きにされた、見掛け倒しの左脚。
患部が熱感を帯び、腫脹が収まる気配はないが、発症からしばらくが経過しても外傷が悪化したような傾向は見られない。
先程の全身を突き抜けるかのような鋭い痛みは、私のただの勘違いかもしれない。
私は恐る恐る足先を伸ばして、親指から慎重に体重を預け──。
「──ッ!?!?」
鋭利な針で滅多刺しにされるような激痛が、再び私の身体に襲いかかってきた。
「……い、今のは…………?」
身体を動かしていないにも関わらず動悸が激しくなり、脂汗で湿った髪が私の肌にまとわりつく。
肩で不規則な呼吸をくり返し、私は冷静な思考を無我夢中で手繰り寄せる。
数分間をかけてゆっくりと平常心を取り戻すと、これまで私の中に存在していなかった実感がふつふつと湧き上がってきた。
ウマ娘にとって不治の病と称される──繋靭帯炎。
これまで私の奥底で鳴りを潜め、ただの違和感に過ぎなかった小さな綻びが……ついに凶悪な本性を現す。
延々と魘され続けている悪夢からは、まだまだ目覚められそうにない。
***
私が長期療養に努めるようになってから、一ヶ月が過ぎた。
繁靭帯炎の症状が悪化したことにより、治療はおろか正常な歩行すらままならない状況が続いていた。
慣れない松葉杖の使用に悪戦苦闘しながらも、私はいつか訪れる復帰の瞬間を心の拠り所にして懸命に日々を過ごしている。
そして今日、私は繁靭帯炎の根絶へ向けて大きな一歩を踏み出すこととなった。
「……本日は、よろしくお願い致します」
私が繁靭帯炎の治療手段として選択したのは、再生療法の一種である──幹細胞移植療法。
幹細胞移植療法の概要としては、以下のような流れとなる。
最初に、自身の胸骨から正常な幹細胞を取り出し、数週間をかけて細胞を培養させる。
その後、必要十分な量に達するまで細胞を増殖させた後に、損傷部位に移植させて靭帯の機能回復を図る。
繁靭帯炎が不治の病と称される所以は、その異常なまでの再発率の高さ。
というのも、損傷した靭帯が自然治癒によって修復される場合、損傷した細胞組織とは異なる構造を成す
そして厄介なことに、この瘢痕組織は損傷部位の代替に過ぎず、本来の機能を持ち合わせているわけではない。
強靭な耐久性もなければしなやかな伸縮性もないので、運動の負荷になど到底耐えられず、結果的に再発を招く原因となってしまう。
だがしかし、幹細胞移植療法を用いればこれら全ての懸念点を払拭し、再発率の低下を期待することが出来る。
幹細胞が持つ分化能と自己複製能の特性を利用し、損傷した組織に限りなく近い細胞で靭帯を修復する。
明確な治療法が確立されていない繁靭帯炎ではあるが、現状ではこの幹細胞移植療法が最も治療に有効であるとされていた。
生涯で初めて経験する、重要な手術。
恐怖が無いかと言われれば嘘になるが、私は名門メジロ家のウマ娘。
こんな志半ばで、弱音を吐くわけにはいかない。
***
幹細胞を移植する手術が無事に終了し、繁靭帯炎の発症から完全休養を取ること約二ヶ月。
超音波検査による診断の結果、幹細胞を投与した損傷箇所の順調な回復を確認することが出来た。
今後の予定としては、歩行能力を回復するためのリハビリを経て、運動強度を徐々に上げつつレース復帰を目指すといった段階を踏んでいくこととなる。
そして、本日からは主治医による指示のもとで、私は最初の段階である歩行能力の回復に取り組んでいく。
松葉杖に頼り切りだった状態から、まずは平行棒を用いた自力での歩行を試みる。
「……いっつ、ぅう…………っ」
完全休養を挟んだおかげで以前のような激痛を感じることは無くなったが、痛みが無くなったわけではない。
平行棒を強く握り、体重を両腕で支えながら地面を撫でるように左脚を軽く踏み出す。
少し前まで当たり前にこなせていたことが出来ないというのは、かなり精神的に来るものがある。
私の表情が苦悶に歪んでいるは、なにも物理的な痛みだけが原因ではないのだろう。
リハビリの時間は、一日約十分から十五分程度。この段階で無理をすると簡単に症状が再発してしまうため、焦りは禁物だ。
リハビリを済ませた後は普段通り家庭教師の授業を受けて、自由時間はひたすら天皇賞(春)に関する情報をかき集める。
その他には友人のテイオーとメッセージをやりとりしたり、密かに最近人気のスイーツについて調べてみたり。
復帰までの道のりは至って順調だ。
この調子で、辛いリハビリも頑張ろう。
***
繁靭帯炎発症から三ヶ月。
新年を迎え、シニア級に突入してからしばらく経った時期である。
残念なことに、リハビリの進捗が芳しくない。
歩くだけならすぐに元通りになると楽観視していたが、どうやら私の考えは浅はかであったようだ。
歩行時に痛みを感じることは少なくなったのだけれど、どこかまだその足取りはぎこちなく。
これで快復に向かっているのかと問われると……正直、程遠いレベル。
不自由な制限に囚われる日常生活にも随分と慣れてきて、現在では松葉杖を手足のように使いこなすことが出来るし、何なら一人で入浴することだって出来る。
「ふぅ……」
今日も辛いリハビリに耐え、長かった一日が終わろうとしている。
無造作に身体をベッドへ投げ出して、ぼーっと天井を眺めた。
私は眠りにつく前に、何となくスマホを手に取ってロックを解除する。
今日はテイオーからの連絡が数十件きていた。それら全てに一通り目を通し、私は短いメッセージと共にスイーツのスタンプを添えて返信する。
あ、そうだ。テイオーといえば。
最近はリハビリに集中したくて頭の片隅に追いやっていたけれど……私と沖野トレーナーの関係は今、どうなっているのだろうか。
沖野トレーナーを説得すると言っていたテイオーだけれど、その件に関しては数ヶ月間メッセージのやり取りをしてきた中で一度も触れられていない。
さすがのテイオーでも、沖野トレーナーを説得することは出来なかったと考えるのが妥当だろう。
リハビリを乗り越えてトレーニングを再開し、トレセン学園に復学したらまずは……そうだな。所属するチームを探すところから始めないと。
あ、そういえば……二年前の入学式で受け取ったトレセン学園チームリストが、寮から持ち出した荷物の中に眠っていた気がする。
「確か、この辺りに…………ありましたわ」
随分と埃を被り、紙も黄ばんで変色が進んでいたが、まぁ参考程度にはなるだろう。
私は菊花賞を制覇したGⅠウマ娘だ。例えどのチームに移籍を希望したとしても、引くて数多だろう。
……このことは、もうしばらく後に考えれば良いか。
なんだか今日はどっと疲れた。
明日も歩行のリハビリが待っているし、翌日に備えてもう寝よう。
せめて夢の中では、自由に走り回りたいな。
…………。
……。
***
繁靭帯炎発症から四ヶ月が経過した。
起床から身支度を済ませ、用意された朝食を一人で食べる。その後は家庭教師の授業を受けて、相変わらず歩行のリハビリに取り組む。
ルーティン化した日常を過ごしていると、毎日に新鮮味を感じなくなって物足りなさを覚えてしまう。
「…………」
現在はリハビリに指定されている時間だが、私は無断で屋内施設を抜け出し、木々に囲まれただだっ広い空間の隅で膝を抱えていた。
最近、私はリハビリをサボることが増えた。
以前は毎日毎日真剣に歩行のリハビリに取り組んでいたけれど……今は、どうだろう。
別にリハビリの時間に施設を抜け出したからといって、私を強く咎めようとしてくる者は誰もいない。
設けられた時間をとうに過ぎた後に施設へ戻っても、お帰りなさいませと、使用人はただただ優しい言葉をかけてくれるだけ。
彼らはおそらく、私の心情を気遣ってくれているのだろう。そんな素晴らしい方々に囲まれて日々の生活を送れるだなんて、私は本当に恵まれている。
こうして広場の隅に出来た木陰にぼんやりと腰を下ろして、どれくらいの時間が経過しただろうか。
スマホの画面をつけて、現在時刻を確認する。
十六時四十二分。授業が終わったのが十三時だったから……大体、三時間半くらいか。
特に誰からの連絡も来ていなかったので、私はそれの画面を暗転させてポケットにしまい込んだ。
連絡が来ないとは言っても、そもそも私のスマホに登録された連絡先は全て削除されているのだから当然のことなのだけれど。
何故だかついつい、スマホの画面と通知音に意識が向いてしまう。ルーティンというのは存外、恐ろしいものなのかもしれない。
「…………」
だだっ広い広場を眺め続けていると、私は無意識の内にイメージの世界をそこに重ね合わせていた。
空想のターフの上を駆け抜けるウマ娘の姿には、生憎心当たりがある。
軽快な足取りで疾走し、瞬く間に風を置き去りにするウマ娘──天皇賞を走る私の姿だ。
想像の私と競り合っている相手は誰だろう。この場所からだと表情を窺うことは出来ないけれど……彼女の背中姿から察するに、とても楽しそうだ。
「…………」
以前まではこのように、空想のターフを眺めて復帰へ向けたイメージトレーニングをひたすら繰り返していた。
ターフを駆ける未来の自分に胸を膨らませて、リハビリのモチベーションを保つ。
この行為も、復帰を目指す私にとって重要なルーティンであった。
「…………」
だけど、私がこうしてリハビリをすっぽかすようになってからは、擦り切れた心に虚しさが募るだけ。
それでも無意識に行為を続けてしまっているのは……やっぱり、本心では戻りたいのだろう。
あるべき場所へ、使命を果たすために。
けれど今の私には分かっている。
ひたすらにイメージトレーニングを繰り返したところで、それはただの現実逃避に過ぎないのだということを。
「…………」
両脚を抱え込む私の腕に、力がこもった。
左脚を覆う包帯と無骨なサポーターが、私に過酷な現実を突き付ける。
四ヶ月間に及ぶ懸命なリハビリの成果は、松葉杖の補助無しで数メートルを歩けるようになった程度。
想像以上に怪我の治りが遅く、当初の復帰プランが現在進行形で後ろ倒しになり続けている。
仮に私がめでたく復帰を果たした場合でも……繋靭帯炎の再発率は八割を超え、一歩間違えたら全てが振り出しに戻ってしまう。
そんな絶望感な再発率を奇跡的に乗り越えたとして。
次に私に立ちはだかるのは、所属するチームの壁である。
URAが運営するトゥインクル・シリーズに出場するためには、出場条件を満たしたチームへの所属が不可欠。
元々所属していたチームのトレーナーからは、あっけなく捨てられてしまった。
新しいチームへの移籍を検討しようにも、脚に特大の爆弾が埋め込まれたウマ娘の面倒を見てくれるトレーナーが果たしているだろうか……いるわけがない。
「…………」
繋靭帯炎を発症してしまった時点で、私は既に詰んでいたのだ。
私に悲願達成の使命を託したメジロ家の方々は既に後進の育成へ尽力しており、朽ち果てた"名優"に変わる新たな存在の誕生を待ち望んでいる。
今一度自身の存在価値を己に問うた時、私は答えに詰まってしまう。
生家の悲願を果たせず、志半ばで前へ進む足を失い、信頼を寄せていた人からも捨てられた。
全てを失った私の手元に残ったのは……期待と矜持に満ちた偉大な夢が破れ、残滓のようにあっけなく散らばった抱えきれない未練の数々。
私はもう、考えることをやめた。
懸命にリハビリに取り組んだとしても……ただ、惨めになるだけ。
ぼんやりと広場を眺めてから、もうすぐ四時間が経とうとしている。
肌寒い風に晒され続けていると、心まで凍えきってしまいそうだ。
冬の季節は日が沈むのも早いし、今日はそろそろ施設へ戻ろう。
周囲の木々に立てかけていた松葉杖を取ろうと、私は懸命に身を捩る。
「──マックイーン」
そんな時にふと、頭上から私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
こんな私に声を掛けるなんて、一体誰だろう。
療養施設に勤める使用人の誰かが、いい加減自堕落になった私を叱りに来たのだろうか。
私は何気ない気持ちで落としていた顔を上げて、声が聞こえてきた方向に視線を向けた。
「──ッ!?」
その声の持ち主を前にして、私の心臓が凍りつく。
弛緩していた気持ちが急激に締め付けられ、強烈な窒息感によって胸が握りつぶされる。
わなわなと唇を震わせて、私は絞り出したような声音で言葉をこぼす。
「お、おばあ様…………っ」
私の生家であるメジロ家の現当主にして、数々の偉業を残してきた私の実祖母──おばあ様。
羊蹄山の麓に所在する本邸で暮らしているはずのおばあ様が、一体どうしてこんなところに……っ。
「もっ、申し訳ありませ──」
しかし、今はそんなことを考えている場合では無い。
尊敬する偉大なおばあ様の前で、私はあろうことか腰をついて座り込んでしまっている。
私は普段の優雅さや気品のかけらもない所作を晒しながら、大慌てで彼女への無礼を謝罪し、その場に立ちあがろうとする。
しかし、突然の来訪に思考が追いつかずみっともなく取り乱したせいで、私は自身が療養の身に置かれていることをすっかり失念してしまっていた。
不自由な左脚に力を込めてしまったことで私はバランスを崩し、立ち上がる寸前に激しく尻もちをついてしまう。
「…………マックイーン」
「ぁ、ご、ごめんなさいおばあ様っ……こ、これは、そのっ」
見るに堪えない醜態を晒してしまった私を前にして、おばあ様が再び私の名を口にした。
無様に腰が砕けた私を見下ろしながら、おばあ様がこちらに近づいてくる。
反射的に、私は
おばあ様が一歩を踏み込む度に私の動悸が激しくなって、全身から堪えきれない恐怖が込み上げてくる。
「…………ぃ、いや、……だ、……っ」
……多分いまの私は、他人と関わることに対して過剰な恐怖心を感じるようになってしまったのだと思う。
誰かに見限られてしまうことが怖くなって、必要最低限の人としか接点を持たなくなった。
ぼろぼろになった心をこれ以上傷つけないために、全ての連絡先を削除して他者との関係を断ってしまった。
自身の血筋を誇りに思い、一族の名に相応しい物腰と品格を備えた”メジロマックイーン”はもう、どこにもいない。
ここに蹲っていたのは抱えきれない未練に押し潰され、八方塞がりの状況に狼狽し、あらゆる恐怖から壊れた心を守るだけで精一杯な…………
きっとおばあ様も、一族の期待を裏切ってしまった弱い私を捨てるつもりなんだ。
「……こ、来ないでっ、下さい…………っ」
大好きだったおばあ様が近づいてくるたびに、私は呼吸の仕方を忘れながらも距離を取るために必死に後ずさる。
しかし、背後に植わっていた木に背中をぶつけ、これ以上逃げられないことに気付いた。
そしてついに、私とおばあ様の距離が手の届くところまで縮まってしまう。
「……マックイーン」
おばあ様が弱い私の名前を呼ぶ。
おばあ様は激しく取り乱して狼狽する私の前で静かに屈むと、こちらに向けて両腕を伸ばしてくる。
「や、やめっ──」
私はあまりの恐怖に心が耐えられなくなり、全てを拒むように強く目を瞑った。
「──一人にしてしまって、本当にごめんなさい」
私の身体が突然、懐かしい温もりを思い出した。
「…………………………ぁ」
一体何が起こったのかと、私はゆっくりと瞼を上げる。
視線を落とすと、おばあ様の背中が見えた。
目線を左へ動かすと、おばあ様の横顔があった。
「あなたが一番大変な時に、私は傍にいてあげることが出来ませんでした」
耳元から、おばあ様の優しい声が届く。
心が他人を拒絶したとしても、身体は大好きだったおばあ様の温もりを覚えていた。
──私は今……おばあ様に、抱きしめられているんだ。
「苦しい時は、どうか一人で抱え込まないで下さい」
私の背中に回されたおばあ様の両腕に、微かな力がこもる。
懐かしい温もりが、さらに大きくなった。
「マックイーン」
おばあ様がもう一度、私の名前を呼ぶ。
おばあ様の言葉に、私はせいいっぱい耳を傾けた。
「今まで、本当によく頑張りましたね。あなたの活躍を、私はずっと見ていましたよ」
「………………ぇ」
おばあ様から、労いの言葉をもらった。
「あなたは私達のために、本当に立派に育ってくれました。悲願のために、使命のためにと一生懸命走る。そんなあなたが、私はとても誇らしい」
おばあ様の骨ばった手が、私のくずおれた背中を優しく撫でる。
「……でも、ごめんなさい」
耳元から届いたおばあ様の謝罪と共に、彼女の温もりがもっと大きくなる。
「あなたは私達の夢を一身に背負ってくれました。ですがそのせいで……あなたは、どんな時でも強くあろうとしてしまう」
おばあ様は一度抱擁を解いて、呆然とする私の顔を見つめた。
「……良いですか?」
昔から自他ともに厳しくも、家族への思いやりに満ちていた方であったが……こんな風に柔らかく微笑むおばあ様を見たのは、今日が初めてだった。
温もりを灯したおばあ様の眼差しを一身に注がれて、私の憔悴した瞳が揺れうごく。
「マックイーン」
「本当に辛い時は──泣いても、良いんですよ」
その言葉を耳にした途端、私が心の奥底で蓋をしていたはずの感情が暴れ出してしまう。
「………………ぅ、うぁ、ぁあ……っ」
まるで堰を切ったように、我慢していた何かが涙と共に溢れ出してきた。
「うぅっ、ぁ、ぅう……っ、──ぁああっ!!」
私は今まで誰にも、それこそ家族にすらも弱い自分を曝け出したことは無かった。
何故なら私は、一族の期待を一身に背負ったメジロ家のウマ娘だったから。
「わっ、わたっ! わたくしは……っ、ぅ、ぁあ!!!」
誰にも仮面の下に隠した素顔を見せたことは無かった。
何故なら私には、涙を流すような軟弱な自分なんて必要なかったから。
だからこんな風に感情を爆発させたのは、初めてだった。
押し殺していた本当の気持ちが、心の底から叫び声を上げている。
その心の悲しみを代弁するように、私は声を上げて泣きじゃくった。
「私はまだっ…………まだ……っ!!」
私にはまだ、果たさなければならない使命がある。
私にはまだ、実現させなければならない悲願がある。
私には、まだ……。
「──走り……、たいのに…………っ!!!」
──どうしても諦められない、夢がある。
***
心に蓄積したたくさんのものを涙で洗い流すまで、おばあ様は私の背中を優しく撫で続けてくれた。
ずっと一人で抱え込んできたものを吐き出すと、それだけで随分と心が軽くなったように感じる。
「……ありがとう、ございます。おばあ様」
泣き腫らした目元を服の裾で拭って、私はおばあ様との抱擁を解く。
静かに鼻を啜った後、少し遅れて私の胸に羞恥心が込み上げてきた。
「辛いことは、あまり溜め込まない方が良いですよ」
「……はい」
尊敬するおばあ様に情けない姿を見せてしまい、私は無意識に視線を逸らしてしまう。
「……その、おばあ様。少し気になっていたのですが」
これ以上の醜態を晒したくはなかったので、私はおばあ様に対して異なる話題を振ることにした。
「おばあ様はどうして、療養施設へお越しになったのでしょうか?」
これはおばあ様の姿を見た瞬間から、ずっと疑問に思っていたことであった。
普段は羊蹄山の麓にあるメジロ家の本邸で暮らしているおばあ様が、一体どうして、こんなところに……。
「ああ、そうでした」
おばあ様の口ぶりから察するに、どうやら何か目的があって療養施設へ訪れたようだ。
「マックイーン。あなたの
「……っ」
おばあ様の口から『今後』というフレーズを耳にして、私の身体が激しく緊張する。
走る足を失った私の存在は、数々の名ウマ娘を輩出してきたメジロ家にとっての面汚しに他ならない。
「その前に一つ、あなたに確認しておきたいことがあるのですが……」
正直、もうどうなっても良いやという気持ちで、私はおばあ様の提案に耳を傾けた。
「──もう一度、レースの世界に戻る覚悟はありますか?」
「…………………………………………え?」
あまりに突拍子もないおばあさまの発言に、私は自身の耳を疑ってしまう。
「無理強いはしません。私達の悲願を押し付けているわけでもありません。ただ私は、あなたの意志を確認したいのです」
私の……意志。もう一度走りたいという、嘘偽りのない赤裸々な本心。
当然、レースの世界には戻りたい。
もう一度レースに出走して、果たせなかった夢を叶えたい。
「で、ですが私には……もう…………」
夢を叶える覚悟なら当然ある。
一族の悲願を果たすことこそが私の生まれた理由であり、私の存在意義であるのだから。
だがしかし、胸の内ではこうして強い気持ちを語っておきながらも、実際の私はおばあ様に対する返事を詰まらせてしまう。
何故なら私はこの四ヶ月間の療養生活で、絶望的な現実を嫌と言うほど突き付けられてきたのだから。
先が見えない地獄のリハビリ。
血の滲む努力を嘲笑うかのような疾患の再発率。
そして、スタート地点に立つことすら許されない現状に、私は為す術もなく無力感に打ちひしがれた。
この世界に希望が無いことなど、私の現状を見れば一目瞭然だ。
奇跡なんて、嘘だ。
ありもしない奇跡を信じたところで、一層惨めな思いを感じてしまうだけ。
私にはもう、走れる足がない。
死んだ足を抱えるウマ娘に、明日なんて存在しない。
「私が聞いているのは、あなたの現状ではありませんよ。レースの世界へ戻るという、強かな覚悟の有無を聞いているのです」
おばあ様は私の思考など筒抜けだと言わんばかりに、口調を鋭くして今一度私に問うてきた。
「奇跡は願うものではありません。あなた自身で起こすものです」
確信を持って断言するおばあ様の目には、一体何が見えているのだろう。
「希望が無いなどと嘆く必要はありません。何故ならそれは、あなた自身で見出すものだからです」
手の施しようがない、絶望という言葉で表現するのが生ぬるい状況で。
私にはまだ──諦めないという選択肢が残っているのだろうか。
「マックイーン。あなたが走ることを諦めないと言うのなら……私はあなたに、
「可能、性……」
おばあ様が口にした言葉を、私は無意識に繰り返す。
希望なんて無い。
奇跡なんて起きるはずがない。
それでも私にはまだ、可能性が残されているのだろうか。
おばあ様の語る可能性が一体何のことなのか、今の私には全くと言って良いほど見当がつかない。
しかし、強い口調で断言したおばあ様にはきっと、私には見えない
「…………おばあ様、私は」
おばあ様の言葉通り、もし本当に私の中に可能性が残っているというのなら。
「──もう一度、走りたいです」
私はそれに……縋りたい。
「分かりました」
私の決意表明を受けて、おばあ様は静かに微笑んだ。
おばあ様は短い言葉を残してその場から立ち上がる。
きょとんとする私をよそに、おばあ様はポケットに忍ばせたスマホを取り出して、誰かと通話による連絡を取った。
数回のコールがスマホから鳴り響いた後、その画面がパッと切り替わる。
『──ご無沙汰しております』
ウマ娘の優れた聴覚が、画面越しに聞こえてきた中年男性の声をぼんやりと聞き取る。
その男性の声には不思議と、聞き覚えがあった。
「突然の連絡になってしまい、申し訳ありません」
果たしてその声の持ち主は一体、誰だったか。
「少々お時間、よろしいでしょうか」
『ええ、もちろん。問題ありませんよ』
「実はあなたに、折り入っての頼みごとがあります」
淡々と会話を進めるおばあ様の言葉に意識を向けながらも、心当たりのある声の持ち主を脳裏で探る。
……あ、思い出した。
その声の持ち主は確か、トゥインクル・シリーズを運営するURAの……。
「──人探しの協力を、お願いしたいのですが」