ウマ娘にとって”不治の病”と称される繁靭帯炎を発症し、文字通り全てを失った私に敬愛するおばあ様が示してくれた──最後の可能性。
それは、常識では考えられない不思議な力を持った、とある
おばあ様が私に示して下さったトレーナーは、その不思議な力を用いて教え子を世界一のアイドルウマ娘に育て上げたのだそうだ。
……そう。
過去に一度、本格化を迎える以前の私に走りの特訓をして下さった”あの人”である。
あの人が持つ特別な力を借りれば、私はもう一度レースの世界に戻ることが出来るかもしれない。
生家の悲願を果たせず、志半ばで前へ進む足を失い、信頼を寄せていた人から捨てられた私にとって。
まさしく、藁にも縋るような思いであった。
「……」
だがしかし、おばあ様が示したように……あの人という存在は本当に、
というのも。
あの人は二年前に発生した史上最悪の故障事故”星の消失”以降、所属していたチームから失踪し、消息不明となってしまっていた。
あの人は今、どこにいるのか。
そもそも、あの人はまだ生きているのか。
それすらも分からない状況だったのだ。
でも、縋る前から潰えているような可能性をおばあ様は諦めなかった。
私がもう一度レースの世界へ戻れる可能性を繋ぐために、おばあ様は持てる力の全てを駆使してあの人の捜索にあたってくれた。
そして、決して諦めないおばあ様の執念が、一つ目の奇跡を起こしたのである。
この広すぎる世界の中から、あの人の存在を辿ることに成功したのだ。
その奇跡の背景には、おばあ様があの人の捜索にあたる遥か以前から同様の活動に着手していた、とある資産家の存在が大きく貢献していたのだという。
何がともあれ、あの人が発見されたことで私に残された可能性はぐっと高まったと言えるだろう。
あとは過去に面識があることを利用し、諸々の事情を説明して協力を願えば……!
……しかし、そんな虫の良い話など、残念ながらこの世界には存在しない。
”星の消失”後、約二年間におよぶ失踪を経て……あの人の心は完全に壊れてしまっていたのである。
あの人の行方を辿る過程で、私は色々と彼に関する情報に触れる機会があった。
あの人の生い立ちを調べ、経歴を知り、思い出を振り返り、担当ウマ娘を喪失した彼の心境を悟った。
故に私は、気付いてしまった。
これから私があの人に対してお願いしようとしていることが……心に深い傷を負った彼にとって、どれほど悍ましい意味を持つのか。
私の自分本位な行動が、あの人の壊れた心に対する残酷な追い討ちに他ならないことに気付いてしまったのだ。
だから私は咄嗟に──
それが、あの人に対する罪悪感から生じたものなのかは分からない。
……多分、打算だったのだろう。
あの人に近づいた本当の目的をばか正直に打ち明けたら、絶対に断られてしまう。その時点でおばあ様が繋いでくれた可能性は潰えてしまう。
私に残された可能性はもう、あの人しか残っていない。
彼という可能性に縋らなければ、私はもう生きていていくことなんて出来ない。
脚に特大の爆弾を抱えたウマ娘の面倒を見てくれるトレーナーなんて、この世界には存在しない。これは既に、身に染みて痛感していることだ。
門前払いの窮地に立たされている状況の中で、私はまず何としてでも、あの人の懐に飛び込まなければならなかった。
だから私は、嘘をついた。
『トレーナーになりたい』
……なんて、見え透いた嘘で彼を騙した。
***
トレセン学園を休学し、メジロ家の療養施設で繋靭帯炎の治療に専念すること約八ヶ月。
地獄のようなリハビリを何とか乗り越えて、ようやく私は来月の七月から学園へと復学する目処が立った。
復学二日前。私は大変お世話になった療養施設を後にしたその足で、羊蹄山の麓に所在する本邸へと顔を出した。
絶望の連続によって心が壊れた私に、可能性を示して下さったおばあ様へ感謝の気持ちを伝えるためだ。
「──失礼します」
西日が差し込む荘厳な書斎の扉を数回ノックして、私はその中へと足を踏み入れる。
息が詰まるような緊張感、秘めた思考が筒抜けになっているかのような錯覚を覚えることは相変わらずだが……。
それらは全て、おばあ様がもたらす愛情の表れであることを私は知っている。
「マックイーン、足の調子はどうですか?」
書斎の奥で静かにこちらを見つめるお婆さまが、故障を経験した私の左脚に目線を移して問いかけた。
「はい。療養に専念した甲斐もあり、問題なく日常生活を営める水準まで回復しています」
表面上は繋靭帯炎を克服し、健康そのものに見える私の左脚。
しかしその裏では悍ましい病魔に蝕まれ、起爆寸前の爆弾が無慈悲に埋め込まれている。
いつ壊れるか分からない。
もしかしたら、次に一歩を踏み出した瞬間に、私の可能性は潰えてしまうかもしれない。
「足のことなら、あなたが気にする必要はありませんよ」
「も、申し訳ありません……おばあ様」
仕切りに足元へ視線を向けてしまう不審な私の様子を見て、おばあ様が労いの言葉をかけて下さった。
「以前あなたにお話しした件ですが。数日前……二人共々、彼から承諾の言葉を頂きました」
死んだ足を抱えて今日を生きる私に、おばあ様は可能性を繋いでくれた。
そして、おばあ様の言葉からも分かる通り、彼女はあの人に対して
生家の悲願を果たすことなく力尽き、一族の期待を一身に背負った"名優"は志半ばで朽ち果ててしまった。
行き場を失った一族の悲願は、必然的に私の後進へと引き継がれることとなる。
その矛先は、”本格化の遅延”という現象に苦しみ、ステイヤーとしての適性がお世辞にも高いとはいえない私の実姉──メジロドーベルにも向けられていた。
おばあ様が、私と共にドーベルを
「あなたの要望通り、本来とは異なる目的を彼宛の手紙に記しました。……本当に、よろしかったのですか?」
「はい。この件は私の口から、直接伝えるべきであると判断しました」
私は門前払いになってしまう可能性を危惧し、口実をでっち上げた。
私の提案に対して、おばあ様は当然のように渋った。
けれど、今の私がバカ正直に魂胆を告白したところで受け入れてくれるはずがないと、過去の経験をもっておばあ様に強く提言した。
結局、最後はおばあ様が折れる形で、あの人へ依頼の手紙を差し出すこととなったのである。
「……そうですか」
この行為が後々、自身の首を絞めることになるのは明白であった。
しかしそれでも私は、何としてでも可能性を繋げなければならなかった。
「彼が業務に復帰するまで些か時間を要するとのことですが」
……なんて。
本当はこれもきっと、弱い自分を守るためについた
先の見えない長期療養の中で、私はひとり抱えきれない未練に押し潰され、八方塞がりの状況に狼狽し、他人と関わることに強い恐怖心を抱いた。
高潔で強かな矜持に満ちた私の心なんて、とっくの昔に壊れている。
自身の血筋を誇りに思い、一族の名に相応しい物腰と品格を備えたメジロマックイーンは、もうどこにもいない。
じゃあ一体、ここにいる私は何者なのか。
「あなたならきっと大丈夫です。だからどうか、悔いの残らないように……」
砕け散った心の破片にありったけの嘘を塗りたくり、かつて”名優”の異名を冠した過去の姿を演じて、壊れたそれを取り繕った。
嘘と演技で作られた仮面を被ると、不思議と気持ちが穏やかになる。
何故ならこの仮面があれば、鏡に映った自身の素顔ですら簡単に欺けてしまうのだから。
「──しっかりやりなさい、マックイーン」
おばあ様の激励を受け、私は静かに口を噤む。
私が死んだ足を抱えて明日を歩むために、壊れた心の奥底で強かな決意を固める。
おばあ様が可能性を繋いでくれた。
下を向くことなんて、私には許されない。
何故なら私には……。
「はい、おばあ様」
──どうしても諦められない、夢がある。
***
約八ヶ月間の長期療養が明け、私は晴れてトレセン学園へと復学を果たした。
これだけ長期間学園を離れていれば自然と周りの状況は変化し、私だけが過去に置き去りにされたかのような錯覚に陥ってしまう。
その最たる例として挙げられるのは、学年に関するものだろう。
長期療養の間に学年が一つ繰り上がったことで、自覚は薄いが私は現在中等部三年生という扱いになっている。
まるでトレセン学園入学初日を想起させるような緊張感を覚えながら、私は迷路のような廊下を歩いて割り当てられた自身の教室を目指した。
しばらく進むと、新しくお世話になる教室の掛札が視界の端に映る。
「……」
私は教室後方の扉に手をかけて、それを引く前に一拍置いた。
なんてことはない。ただの心の準備である。
メジロ家の令嬢として英才教育を施されてきた私といえども、環境の変化に緊張を覚えてしまうのは仕方のないことだ。
深呼吸を一回挟んで、私は一思いに扉を引いた。
割り当てられた教室へ入ってまず、私は周囲を一瞥する。
学年が繰り上がったということは当然、クラスメイトの顔ぶれも一新されていた。
見知らぬ生徒の数々に、私は新鮮な感覚と一抹の孤独感を覚える。
新学期が始まってから既に三ヶ月が経過していることもあり、友人関係の輪は大方構築されつつあるだろう。
ひと目見た感じでは、複数あるグルーブがそれぞれ別の雑談に花を咲かせているような印象だった。
だがしかし、クラスの輪に上手く溶け込めるかといった俗っぽい悩みに心労を割く余裕など、今の私には残っていない。
そもそもクラスにおける私の立ち位置なんて、療養前とさして変わらないのだけれど。
教室の端でこのまま突っ立ているわけにもいかないので、私は自身の机が置かれた窓際後方へと歩みを進める。
その途中に感じた周囲の視線は、おそらく気のせいではない。
彼女達の認識としては、季節外れの転校生を見ているような感覚だろう。
私は持参したスクールバッグから教科書やノートを机に移し替え、窓の外に広がる景色をぼんやりと眺めながら始業の鐘が鳴るのを待った。
***
私がトレセン学園へ復学した当日の放課後。今日はこれから、チーム・アルデバランに所属するメンバーとの顔合わせが控えている。
おばあ様の話によると、あの人は現在、秋川理事長が紹介した病院で自分自身の心と向き合っているのだそうだ。
彼が退院するまでの期間は、理事長秘書のたづなさんがチームの代理監督を務めるとの情報を事前に受け取っていた。
終業の鐘が鳴った後、私は姉のドーベルと合流し、チーム・アルデバランの部室がある別棟へと向かう。
ドーベルとの合流場所は、三女神像の噴水が鎮座する中庭を選択した。
教材を詰めたスクールバッグを肩に掛けて、私は静かに教室を後にする。
トレセン学園は他の一般的な学校と異なり、放課後以降が最も活気づく時間帯となる。
生徒達の活動が一層活発になり、がやがやと賑わう本校舎の廊下を歩いて、私はドーベルとの集合場所を目指した。
「──マックイーン」
その道中である。
「……?」
おもむろに目的地へ向かう私の前方から、一人の生徒が歩いてきた。
その生徒は私の存在に気付くと、歩みを止めて私の名前を小さく呟く。人よりはるかに優れたウマ娘の聴覚が、その呟きを正確に捉えた。
私の名前を呼んだ生徒へと意識を向けて、彼女の容姿を一瞥する。
鹿毛の長髪を後頭部でまとめ、鮮やかな天色の瞳が特徴的な小柄のウマ娘。
……最後に彼女と顔を合わせたのは、約八ヶ月前だったか。少しだけ、身長が伸びたように感じる。
「テイオー」
生徒の名はトウカイテイオー。チーム・スピカに所属するウマ娘で、私の元ライバルである。
あ、そういえば。療養期間中に学年が一つ繰り上がったことで、彼女は私と別のクラスに振り分けられていたっけ。
「お久しぶりです。お元気でしたか?」
約八ヶ月ぶりの再会ともなると、何を話せば良いのか分からなくなってしまう。
なので私はとりあえず、当たり障りのない挨拶から入ることにした。
「……」
だがしかし、テイオーとの会話はすぐに途切れてしまう。
「……? どうかしましたか?」
テイオーの態度に少し違和感を覚え、私は首を傾げる。
特に用事が無いのであれば、集合時間が迫っているので道を開けてほしいのだけれど。
「…………噂」
「……?」
「噂、聞いたんだけど……」
テイオーはどうやら、私に何か問い質したいことがあったようだ。
「噂……?」
彼女が口にしたそれには、全くと言っていいほど心当たりがない。
特に悪目立ちするような行動を取った覚えはないし、むしろ息を潜めるようにひっそりと授業時間を過ごしていたはずだ。
「マックイーンさ…………アルデバランに移籍したって聞いたんだけど、本当?」
「……? ええ。それが何か?」
移籍なんてよくある話だろう。
わざわざ復学初日に噂が流れるほど取り立てるような内容では無いと感じるのだが……。
「……そうなんだ」
「何かありましたか?」
「いや、べつに……」
私の言及に対して、テイオーはらしくもなく歯切れの悪い反応を示した。
以前の生意気だったテイオーと比較すると、現在の彼女からは随分と落ち着いたような印象を受ける。
様変わりしたテイオーの様子に月日の流れを実感する側で、私はその噂が蔓延した理由について考えていた。
私が移籍したチーム・アルデバランは、かつて世界の頂点に君臨した集団である。
二年前の”星の消失”によって表舞台から姿を消した後、あの人が引き継いだことによって先日、日本のトゥインクル・シリーズに凱旋。
現在のチーム・アルデバランには、あの人の昔馴染みであるサトノダイヤモンド──サトノさんが所属しており、メジロ家のウマ娘である私とドーベルの移籍が既に決定している。
私とドーベルがチーム・アルデバランに移籍することは、世間には公にされていない。
となると噂の出どころは……サトノさんか、ドーベル辺りだろう。別に隠していることではないので、その件は特に問題ない。
かつての世界的アイドルウマ娘が所属していたチームが突然、トレセン学園のチームリストに掲載された。
一世を風靡したチームなのだから当然、知名度は十二分。非常に激しい競争率となるのは想像に難くない。
そんな風潮の中で、突然復学してきたウマ娘──あろうことか競走能力を実質的に喪失している──が、その席を横取りした。
……ああ。なるほど、
「……マックイーン」
噂の背景をあらかた察知した私に、テイオーが不安げに唇を震わせて名前を呼んだ。
道中で私を引き留め、言い出し辛そうに視線を彷徨わせる彼女だったが……。
やがて意を決したように瞳の焦点を定めて、私を射抜いた。
「──
……。
テイオーの言葉に対して、私は何と返せば良いのか分からなくなった。
テイオーの質問の意図は理解した。
嘘で塗り固めた心の内側で、諦めるわけがないと、本当の私が叫んでいる。
諦めていないからこそ、私はチーム・アルデバランへと移籍したのだ。
だが、しかし……。
ここで彼女に本心を曝け出してしまえば、私の魂胆があの人に伝わってしまうかもしれない。
それは、私が現在想定しうる最悪の結末だ。
絶対に私の口から打ち明けなければ、今度はあの人からも捨てられてしまう。
だから私は、
「……そうですわね。これ以上見苦しい姿を晒すことは、メジロの名に泥を塗ることと同義ですので」
嘘をつかなければならなかった。
「………………そう」
私の嘘を受け止めたテイオーの表情を、どうしても直視することが出来なかった。
胸が締め付けられるような感覚に陥ってしまったけれど、私は仕方が無いと割り切った。
「それでは、私はこれで失礼します」
テイオーの目的は、噂の真偽を当人に直接確かめることだったのだろう。
時間も押しているし、何より今……彼女と向かい合うのがとても辛かった。
「……あ、マックイーン」
私がテイオーの横を通り過ぎた後、彼女が私の背中を引き止めるように言葉を放った。
「まだ何か?」
「いや、その…………ちょっと、印象が変わったなって思って」
「そうですか?」
「うん………………ちょっと、怖い」
怖い、こわい……か。
「……ごめん、今のは忘れて」
テイオーは最後に自身の発言を撤回して、そのまま足早に去っていった。
「…………」
私の思惑が周囲に露呈することを恐れて、少々意気込み過ぎてしまっていたのかもしれない。
もう少し、柔和な笑みと穏やかな物腰で立ち回るべきだろうか。
テイオーに指摘された通りなら、昔の私はもっと…………。
「………………えっと」
過去の自分を振り返ろうとして、私はふと思った。
──昔の私って、どんな風に笑っていたんだっけ。
***
──お久しぶりですっ、マックイーンさんっ!
テイオーの指摘のおかげで、過去の私を知っているサトノさんと再会しても怪しまれない程度には、性格を修正することが出来た。
姉のドーベルと共にチーム・アルデバランの部室を訪れ、代理監督のたづなさんから今後の活動方針に関する説明を聞いた後、所属するウマ娘達による自己紹介へと移った。
ここでも私は、
「──私は既に自身の気持ちに折り合いをつけ、新しい目標を定めてゼロからスタートいたしましたわ」
言っていて、よくこんなにもすらすらと言葉が出てくるなと……自分に少し呆れてしまった。
あの人を支えるサポーターとしての移籍を希望した以上、彼からは事前に二人のトレーニングを支えるよう指示を承っている。
門前払いの窮地を避けるためについた見え透いた嘘ではあるが……私は当然、嘘をつくための準備は完璧に整えてある。
約八ヶ月間に及ぶ療養生活の中で、私はトレーナーとして要求される知識をひたすら詰め込んだ。
時々把握漏れもあるかもしれないが、私は現在、見習いの立場に置かれている身。仮にぼろが出てしまった場合でも、それは仕方のない話だ。
私はかつて、”
嘘が嘘であると悟られないために、私はどんな姿であろうとも──完璧に演じてみせる。
***
トレーナーという職業に就く者はもれなく、自分の芯に基づいた指導を行なっているということを学んだ。
その芯は指導者としての教育方針や、担当ウマ娘達との関係性に現れる。
トレーナーの数だけ多種多様な理念や信念が存在し、その中に確固たる正解は無い。
強いて正解を導くとするならば、担当ウマ娘がレースで結果を残したものがそれに該当するだろう。
自分の芯と言われても、いまいちピンとこない。
……そもそも、嘘に嘘を重ね続けている現状で芯を語るなど、トレーナーの方々に失礼だ。
しかし一応、指導にあたる上で一貫性は担保する必要がある。
そこで私は、自らの
「……コースを走る前に行う基礎トレーニングですが、サトノさん」
「はい、なんでしょうか?」
「サトノさんが普段取り組んでいるメニューを、私達に教えてほしいですわ。可能であれば、運動と同時に筋肉の動かし方とその効果を口頭で説明して下さるかしら?」
教うるは学ぶの半ば、ということわざがある。
これはかつて、私を担当して下さったトレーナーが担当ウマ娘のリハビリに用いていたメニューの一部であり、私も体験したことでその効果を実感した内容である。
そして私は、これを逆手にとって自らの糧とすることにした。
「分かりましたっ!」
サトノさんが取り組んでいる基礎トレーニングのメニューは、”星”のミライを育てたあの人が考案したメニューである。
左脚に特大の爆弾を抱えている以上、私は負荷の大きいトレーニングを実施することが出来ない。
そうなると筋力やスタミナの低下が心配になってくるので、どうにかして別の形でそれらを補うのが望ましい。
あの人が考案した基礎トレーニングを理解すれば、私も彼女達と共に成長することが出来るはずだ。
しかしそれだけでは、衰え続ける身体能力を補うには到底不十分である。
その点に関しては、脚部不安を抱えるウマ娘がリハビリに用いる水泳トレーニングを多く取り入れて補完するとしよう。
今年の夏は猛暑日が続くと予想されているので、水泳トレーニングの割合を多めに取り入れる口実はいくらでも作ることが出来る。
あの人が戻ってくるまでに、せめて体づくりだけは徹底しておきたい。
***
あの人の退院日が正式に決定した。十二月二十四日のクリスマス・イブだ。
復学から冬休みに至るまで、私は自身の魂胆を誰にも悟られることなく過ごすことが出来た。
私達は中途半端な時期にチームへ移籍したこともあり、キリの良いタイミングを見計らって三学期以降にあの人との顔合わせを行う運びとなった。
嘘を塗り固めて作った仮面を半年以上かけ続けていると、自分に対してだいぶ自信がついてきているように感じる。
だがしかし、そんな完璧に近い私の仮面が、不意に剥がれ落ちそうになってしまう瞬間があった。
それは、毎年年末にメジロ家が主催するレセプションパーティーである。
親戚や業界関係者を大勢招待し、社交や交流の場を設けるという意図のもとで開催されたそれは……はっきり言って、地獄であった。
このレセプションパーティーには、上記の目的以外にもメジロ家のウマ娘をお披露目するといった重要な側面が存在する。
華々しい成果をあげたメジロ家のウマ娘──私の姉妹達──が様々な方たちに囲まれて栄光を浴びる姿を、私は会場の隅からひっそりと眺めていた。
果たしていつの日だったか、トレセン学園の倉庫裏でサトノさんに詰め寄っていた生徒達から浴びせられた──
多くの夢と希望が行き交うこの空間にいると、その言葉の意味がよく分かる。
全員、私を腫れ物のように扱うのだ。
繁靭帯炎を発症した私の姿が視界に入ると、みんな揃って視線を明後日の方向へ逸らし、身体を翻す。
誰も彼もまるで、ここにいるはずの私があたかも存在しないかのように立ち振る舞う。
私は終わった。
かつての担当トレーナーから捨てられただけでなく、一族の期待を裏切った私にはもう、メジロ家の中にすら居場所なんてどこにもないのだ。
そのことに気付いてしまった瞬間、ありったけの嘘で塗り固めた仮面が剥がれ落ちそうになってしまった。
自分自身でもどうなっているのか分からない素顔をこの場で晒してしまえば、今まで積み重ねてきた
私は足早に会場を抜け出して、もう一度必死に嘘を塗りたくって仮面を付け直した。
そして、やっとの思いで素顔を覆うことが出来た時には、レセプションパーティーなんてとっくに閉会を迎えていた。
***
新学期を迎え、私と入れ替わるような形で休職していたあの人と、ついに対面する瞬間がやってきた。
最後にあの人と会ったのは『メジロ家定例旅行』でアメリカを訪れた以来だろう。実に、五年ぶりの再会である。
「──ご無沙汰しておりますわ、トレーナーさん。改めまして、メジロマックイーンと申します」
私は久々に目にしたトレーナーさんの姿から、過去の面影を感じ取った。
わがままな担当ウマ娘に振り回されていて、ちょっぴり頼りない苦笑が似合う穏やかな青年といった印象は、
今後の私の立ち位置としては、私以外の担当ウマ娘を指導するトレーナーさんをサポートし、その姿勢を徹底的に学ぶこと。
将来トレーナー職に就くことを目的とするウマ娘がチームに所属する最大の利点は、現職の方々の指導を間近で見ることが出来るといった点である。
このような貴重な経験を得ることが出来るのは、トレーナー養成校と提携を結んでいるトレセン学園ならではの強みだ。
……というのが、私にとっての表向きの移籍動機である。
「自己紹介が一通り終わったから、次は──」
ミーティングを順調に進めるトレーナーさんの姿を盗み見る限りでは、私に対して疑念を抱いているような様子は見られない。
トレセン学園に復学を果たしてからの半年間は、誰からも怪しまれることなく立ち回ることが出来たと断言して良いだろう。
だがしかし、私にとって本当に重要なのはここからだ。
門前払いの窮地を脱するためについた嘘を洗いざらい告白し、私が胸に抱いている本当の目的を、彼に対して
この前提条件をクリアしないことには、現状で延々と足踏みを続けることになってしまう。
「…………」
今後の算段と手筈を脳裏に思い浮かべて、私は膝の上に置いた両手を強く握り締めた。
大丈夫だ。
この分厚くなった仮面がある限り、私は絶対に大丈夫。
諦められない夢を追いかけてここまで来たのだから、私はもう止まることなんて出来ない。
チャンスは必ず訪れる。今は静かに息を潜めて、磨き上げてきた演技に徹底するのだ。
私に残された可能性は、もう手の届くところまでに迫っている。