新学期が始まり、私がチーム・アルデバランに移籍してから約一週間。
あの人に本心を打ち明ける絶好の機会は、意外にもすぐに訪れた。
私は昨日のトレーニングの際、あの人から教えてもらった内容を認めていたノートを部室へ置き忘れてしまったことに気がついた。
本来であれば次に部室へ足を運んだ時に回収出来れば良いと思っていたのだが、不明瞭だった箇所を無性に復習したい衝動に駆られてしまったのだ。
時刻はすでに十九時を回っているが、寮の門限を迎えるまで部室棟への出入りは許可されている。
私は部屋着を脱いで制服に着替え、防寒対策にその上からコートを羽織って栗東寮を出た。
普段の賑やかなトレセン学園とは異なり、夜の校舎は穏やかな静寂で満たされていた。
周囲に人の気配はなく、上履きの足音が私の足遣いに合わせて一帯に響き渡る。
他人の視線を意識して常に気を張り続けてきた私にとっては、まさしく安らぎのひと時であった。
静まり返った校舎別棟の廊下を進んで、私はチーム・アルデバランの部室を目指す。
「……?」
部室と廊下を隔てる扉に近づくと、私はその隙間から微かな光が漏れていることに気が付いた。
誰かいるのだろうか。
私は自身の仮面が剥がれていないかをしっかりと確認した後、静かに扉をノックする。
しかし、どれだけ待っても部屋の奥から反応が返ってくることは無かった。
そのことを怪訝に思った私は、顔を覗かせる程度の隙間を開けて中の様子を確認する。
「……あ」
最初は電気の切り忘れかと思ったが、部室には施錠がされていなかったため、誰かがいるのは確実だった。
周囲を見渡すと、普段の業務に取り組むデスクに突っ伏して、静かな寝息を立てているあの人の姿を捉える。
「トレーナーさん」
暖房が付いているとはいえ。この季節に何も羽織らず突っ伏してしまっているあたり、きっと業務中に寝落ちしてしまったんだなと思った。
今日はトレーニングがオフの日であったため、彼にとっては自身の仕事を片付ける絶好の機会だったのだろう。
約半年に及ぶ休職期間の穴を必死に埋めようとしているのか、ここ最近のトレーナーさんは少々、根を詰めすぎているように感じた。
「トレーナーさん、起きて下さい」
普段のスーツ姿のままで眠っていては、彼が風邪を引いてしまう。
私はトレーナーさんの身体を優しくゆすって、起床を促した。
しかし、残念ながらどれだけ身体を揺さぶっても、彼が目覚める気配はない。
結局、私は連日の激務で疲弊しているトレーナーさんを無理やり起こすのは良くないと判断し、部室に備え付けてあるブランケットを彼の肩にかけてあげることにした。
トレーナーさんの睡眠の妨げにならないよう、私は部室へ来た目的を淡々と果たす。
しばらく部室を物色して、私は自身の忘れ物を見つけ出すことが出来た。
このまま部屋を出て行っても良いのだが……そのとき私は、ふと思った。
──これはもしかしたら、
辺りに人がいないため会話を盗み聞きされる心配がなく、トレーニングがオフであるためチームメイトが部室を訪れる可能性もほとんどない。
私の夢が眠る天皇賞(春)の開催は、今から約四ヶ月後。
今年の開催を逃してしまったら、おそらく私に次はない。
来年の天皇賞(春)を目標に掲げれば、確実に繁靭帯炎が再発してしまうだろう。
「……」
だったら、今しかない。
あの人に私の本心を打ち明ける絶好の機会は、今この瞬間だ。
不意に訪れたまたと無いチャンスに、心臓の鼓動が大きく跳ね上がる。
私は自身の正念場を前にして、平静さを取り戻すために一度適当な席に腰掛けた。
しばらく深呼吸を繰り返した後、私は彼が目覚めるまでの間、読書をして気を紛らわせることに。
当然、内容なんて何も入ってこなかった。本に綴られた文章を目で追っていても、意識はずっと静かに寝息を立てるあの人へと向いていたからだ。
そして、私が部室を訪れてから大体一時間くらいが経過した頃だろうか。
デスクに突っ伏していたトレーナーさんの身体が、もぞもぞと動いた。肩に掛かっていたブランケットがするりと、地面に落ちる。
寝ぼけ眼を擦りながら室内を見渡すトレーナーさんと、目があった。
「お目覚めですか?」
「……マックイーン?」
彼の起床を確認した後、私は手にしていた本をパタリと閉じた。
「暖房が付いているとはいえ、何かを羽織らなければ風邪を引いてしまいますよ」
床に広がったブランケットを手にして不思議そうな眼差しを向けるトレーナーさんに対し、私は優しく言及する。
「ありがとう、マックイーン」
「少々、根を詰めすぎではありませんか? 頑張ることは素晴らしいですが、身体を壊してしまっては元も子もありません」
やっぱり、どんなことをするにも身体は大事にしなければならない。
これは私が、身をもって経験したことだ。
「返す言葉がないよ」
トレーナーさんは苦笑を浮かべながら、ブランケットを畳む。
「マックイーン。わざわざオフの日に部室に来るってことは、何か用事があったんじゃないか? もしかして……けっこう待ってた?」
「いえ、昨日部室に忘れ物をしてしまったので。それを取りに来ただけです」
そう言って、私は先ほど回収したノートをトレーナーさんに見せる。
「じゃあどうして、こんな時間まで?」
それは今この瞬間が、私の本心を打ち明ける絶好の機会だと判断したからです。
「トレーナーさんがあまりにも無防備でしたので、私が見守っていて差し上げようかと」
……なんて。
素直に言えたら今頃、私はこんな風に葛藤を抱えてなどいないだろう。
「トレーナーの業務が多忙であることは重々承知ですが、しっかりと休息を挟んでいますか? 食事や睡眠は十分に摂れていますか?」
「……う」
私の畳み掛けるような言及に、トレーナーさんは言葉を詰まらせて分かりやすく視線を逸らした。
「その様子を見る限りでは、聞くまでもありませんわね」
「じ、自炊もしているし、ちゃんとベッドの上で寝てる。何も問題はない」
「言い訳は結構です」
トレーナーさんの絞り出したような弁解は、言い訳の域を出ない。
「休職されていた期間の埋め合わせをしようと、必死に努力されているのは理解できます。サトノさんが出走するきさらぎ賞まで三週間を切り、気性難のドーベルを担当してくださっているわけですから、大変であることも重々承知です」
私は彼の苦し紛れの言い訳に呆れながらも、仕方の無いひとだなと、無性に微笑ましい気分になった。
「……ですが、それとこれとは話が別です」
「……おっしゃる通りで」
「どうしても休息が取れないというのでしたら、トレーナーさんを特別に、メジロ家の別荘へご招待しましょう」
「べ、別荘……?」
「本土から離れた無人島を開拓した、豊かな自然が溢れる素敵な別荘です。疲弊した心身を休ませるには、うってつけのスポットです。いかがですか?」
私がトレーナーさんに紹介した無人島の別荘は、メジロ家が複数保有するそれの中でも、休養を取るには最適な場所である。
透き通るような青い海に囲まれ、生い茂る緑に満ちた空間に建てられた大きな別荘。
ちなみに、島の一角には簡易的なターフが整備されており、人目を気にせず悠々自適に走ることだって出来る。
そんな、素晴らしい場所だ。
「い、いや……遠慮しておこうかな」
だがしかし、私の提案に対してトレーナーさんは分かりやすく顔を引き攣らせた。
「……そうですか」
「こ、コーヒーでも淹れて一息つくことにするよ」
「ではその間、私がトレーナーさんの話し相手になって差し上げます」
「そこまで気を遣ってくれなくても良いんだけど……」
「これは監視です。チームのサポーターを務めるウマ娘として、当然の義務です」
それらしい口実を作って、私は図々しく部室に居座った。
この機会を逃すわけにはいかない。
「……それじゃあ、お願いしようかな」
「ええ♪」
結局、私の圧に屈する形でトレーナーさんが折れてくれた。
それからはトレーナーさんが淹れてくれたコーヒーが完成するまでの間、私の本心を打ち明けやすい状況を作るため、彼へ色々と話題を振った。
「……私、トレーナーさんにずっとお聞きしたいことがあったんです」
「ん?」
「何故、私達の移籍を認めて下さったのでしょうか?」
その中には、彼に対する純粋な疑問も多く混じっていたような気がする。
「これはダイヤにも話していないことなんだけど……」
そんな疑問を投げかけて……私は後悔した。
私達の移籍を受け入れて下さった理由をトレーナーさんの口から直接聞いて、私の中に残っていた良心が微かに痛んだ。
彼の過去と現在に至るまでの経緯を断片的に聞いて、不覚にも嘘で塗り固めた決意が揺らいでしまった。
「…………そう、ですか」
私は今まで、こんなにボロボロの人を騙していたのか。
私はこれから、こんなに優しい人を利用しようとしているのか。
「マックイーンはトレーナーを目指すためにチームへ移籍してくれたんだから、俺は当然、君の夢にも真剣に向き合う。分からないことや困ったことがあったら、何でも相談してほしい」
何でも。
なんでも、か……。
「……ありがとうございます。ではお言葉に甘えて、何かあれば相談させていただきますわ」
「ああ!」
そんな言葉をトレーナーさんから掛けられて、私はしばらく考え込む。
その間に、どうやら彼が作っていたコーヒーが完成したようだ。
コーヒーが注がれたマグを、彼から受け取った。
「ありがとうございます」
「砂糖やミルクはいるかい?」
「頂きます」
実を言うと、私はあまりコーヒーを飲んだことがない。彼がコーヒーを好んでいることは事前にサトノさんから聞いていたので、ちょっと冒険してみたくなったのだ。
しっかりと味を調整し、私はトレーナーさんと揃って一息ついた。
「俺が業務に復帰するまでの半年間、チームを任せる形になってしまったけれど。マックイーン、君は本当に優秀なウマ娘だよ」
「……っ!?」
何の脈絡もなく彼から突然褒められて、私は手にしたマグを思い切り揺らしてしまった。
喉を通って行ったコーヒーが、変なところに入ってしまった気がする。
「と、唐突に私を褒めるのはやめて下さいまし。びっくりしますでしょうが」
ちょっと身体が熱ったように感じてしまうのは、きっとこの温かい飲み物のせいだ。
「誰かに物事を教えるのも上手だし、人に指示を出して器用に動くことも出来る。おまけに勤勉で、レース経験も豊富。非の打ち所がまるでない。君は必ず、立派なトレーナーになれるよ」
ベタ褒めだった。
「あ、ありがとうございます……」
これまでの行為はすべて本心を隠すための
それ以降の会話も私に対するベタ褒めが続いて、正直、聞いていて恥ずかしくなってしまった。
「──こ、コホンッ……この話題は、ここまでにしましょう」
しかし、さすがに羞恥心が全身に巡ったので、私は強引に話題を逸らす。
恥ずかしさを紛らわせるために別の話題を持ってきた私だったが、話の最後で雰囲気を暗くしてしまったことを少しだけ後悔した。
私は対面するトレーナーさんから視線を逸らし、部室の時計を確認する。
時刻は既に二十一時を回っており、私が寮を出てから実に二時間以上が経過していた。
寮の門限も迫っているため、ここにいられる時間はあとわずか。
「…………」
この絶好の機会を逃したら、次はいつ巡ってくるか分からない。
「…………っ」
本心を打ち明けるのは──今しかない。
「あ、あのっ、トレーナーさん」
「うん?」
デスクに広げていた荷物をまとめ、部室の戸締りを確認しているトレーナーさんに向けて、私は声を発した。
こちらを振り返ったトレーナーさんが、穏やかな表情を浮かべながら私の言葉を待っている。
「えっと、その…………」
言え。
言うんだ。
そのために、ずっとチャンスを窺っていたではないか。
「…………今日は、ありがとうございました。私のわがままに、付き合わせてしまって」
「わがまま……?」
……。
「いくら強引に休息を取るよう言いましたが、私と二人きりで話していては気が休まらなかったのではないですか?」
…………ああ。
「そんなことないよ。マックイーンとじっくり話すことって今まであまり無かったから、とても楽しかった」
……私にそんな度胸がないことなんて、最初から分かっていたはずなのに。
「そう、ですか…………それなら、良かったです」
私なら打ち明けられるって……どうしてそんな、自分にまで
「辺りも暗いし、寮まで送っていくよ」
「……ありがとうございます。お気持ちだけ、受け取っておきますわ」
「……そうか、分かった」
私は意外と、ヘタレだったようだ。
「じゃあ、マックイーン。また明日」
「…………ええ、また」
私は本当に、何をやっているんだろう。
自分の口から全てを打ち明けることが出来る、絶好の機会だったというのに。
私の前に巡ってきた、最初で最後のチャンスだったというのに。
後悔してからでは遅いと、私は身をもって経験したはずだったのに。
──一体どうして、私は同じ後悔を繰り返してしまうのだろう。
***
千載一遇のチャンスをみすみす逃してしまったあの夜から、約一週間が過ぎた。
あの人はどうやらその後、本当に風邪をひいてしまったようだ。
グループチャットの中で、私達に対する謝罪のメッセージと共に、翌日のトレーニングメニューが送られてきたことを覚えている。
疲労の蓄積によって低下してしまった免疫力に、仕事中の寝落ちが決定打となってしまったとのことだった。
幸い熱自体は処方箋の服用によってすぐに下がったそうなので、大事に至りはしなかった。
二日後、あの人は何食わぬ顔で出勤してきた。
そんな彼を見て胸をホッと撫で下ろした反面、何故だかとっても気が抜けたというか、呆れてしまったというか……。
どうしてそんな風に感じたのかは分からない。ただ、一人で熱に浮かされながら苦しむあの人の姿を想像してしまって、胸が締め付けられるような感覚に陥ったことが原因なのかもしれない。
だから快復明けのあの人と顔を合わせた時、私は口を酸っぱくして小言をぶつけていたような気がする。
私のありがた迷惑なお説教を受けて、あの人はばつが悪そうに視線を泳がせていた。
ただ、こうしてあの人に不満をぶつけてしまうのは、単純に彼のことが心配だったから……というだけでは無いのだと思う。
正直に打ち明けると……今の私は
理由は当然、一週間前に起きた部室での一件だ。
絶好の機会を棒に振ったあの日以降、私はひたすら仮面を被って演技に徹し、自白のタイミングを窺い続けた。
けれどそんなチャンスが都合良く訪れるはずも無く、私は過去の好機を逃した後悔に苛まれ続けている。
それに……私にはもう、時間が残っていないのだ。
約八ヶ月間に及ぶリハビリによって、一旦は繁靭帯炎の病魔から逃れることが出来たと言っていいだろう。
左脚に特大の爆弾が埋め込まれた状態であることに変わりはないが、一応は正常な機能を取り戻すことに成功している。
天皇賞(春)の開催まで、約四ヶ月。
今年の開催を逃してしまったら、おそらく私に次はない。
八割超えの再発率を伴う中で、約一年間のトレーニングを乗り越えられるとは到底思えない。当たり前のように病が再発し、振り出しに戻されるのは目に見えている。
だから本当に、あの夜は私にとって何としても物にしなければならないチャンスであったのだ。
「………………はぁ」
それが分かっていたのにも関わらず、勇気を出せずに引っ込んでしまったヘタレな私。
故に私は今こうして……昼休みの中庭でただ一人、激しい自己嫌悪に陥っていた。
三女神像の噴水が中央に鎮座する中庭は普段から生徒達の憩いの場として利用されており、気分転換や昼食をとる目的で私も良く足を運んでいる。
適当なベンチに腰掛け、私は購買で購入した昼食を一人で食べるのが最近の日課であった。
昔は騒がしい友人と共に食堂へ足繁く通っていたけれど、今はぼろを出さないために他人との接触を極力避けて生活していた。
当然、気の置けない友人などいない。最も、横取りのような形でチーム・アルデバランへと移籍し、クラスどころか学園から浮きまくっている私に対して好意的に接してくれる者がいるのかと自身に問うた時点で……お察しである。
ちなみに、私の今日の昼食はサンドイッチとアップルパイだ。
少し物足りないと感じてしまうこともあるけれど、最近は食欲不振で何を食べても味を感じなくなってきている。
今の私にとっては、昼食を取っているという認識の方が重要だった。
私は自動販売機で買った牛乳でそれらをゆっくりと胃に流し込み、午後の授業が始まるまでの時間を過ごす。
そして、昼休みが終了する十五分前に差し掛かった辺りで、そろそろ教室へ戻ろうかと私は重い腰を上げた。
途中で昼食をとった際に出たゴミをゴミ箱に捨てて、中庭を後にしようとした。
……その時である。
「…………よう」
どこからともなく現れた一人の男性トレーナーが、私の進路を阻むように立ち塞がってきた。
相変わらず棒付きの飴を咥え、ばつが悪そうに後頭部をかく締まりのない男性に、声を掛けられる。
その容姿をひと目見ただけで。
その声を少し聞いただけで。
「元気、だったか……?」
──自身の仮面に、亀裂が入るのを感じた。
「ええ」
私は何の前触れもなく現れたこの人を前にして、必死に平静を装う。
「あなたも、お元気そうで何よりですわね」
私は当たり障りのない言葉を取り繕って、この人に返事をする。
沖野トレーナー。
私を捨てた人。
「それで、この私に何か用事でも? 特に無いようでしたら、午後の授業が控えているので道を開けて欲しいのですが?」
この人を前にしても、私は意外と冷静でいることが出来た。
言葉の節々に棘があるように感じてしまうのは、多分仕方のないことだ。
「……あ、ああすまんすまん。中庭を通りかかったら偶然、マックイーンの姿を見かけたもんだからさ」
「そうですか」
偶然、か。
まぁ、そういうこともあるだろう。
「…………ぁあ、ぇっと」
その発言の後、この人はしきりに視線を彷徨わせて、私にかける言葉を必死に探している様子であった。
「………………はぁ。どうせ声を掛けるのでしたら、話す内容くらい準備してきてはどうですか?」
そんな姿をとうとう見かね、私はため息をこぼしながらもこちらから言葉を投げかけた。
「……すまん」
「どうせ、突発的に身体が動いたのでしょう? これでもあなたのことは、それなりに理解しているつもりですので」
私を捨てた人であるとはいえ、この人は私の元担当トレーナー。
私がトレセン学園に在籍している限り、このような機会がいつか訪れることはあらかじめ予測出来ていたことだ。
だから私は、内面の動揺をひた隠し、冷静沈着な外面を装うことに徹底できたのである。
「それよりも、私は以前からあなたのことを心配していたんですよ?」
「……俺の?」
「ええ」
この人とこうして取り留めのない会話に興じられるのも、そんな心構えがあったから。
この人とどうせ話を交えるのなら、一度聞いておきたいことがあった。
「スズカさんの脚は、もう大丈夫ですか?」
私がチーム・アルデバランへ移籍した後、去年の天皇賞(秋)で発生した故障事故──通称、”沈黙の日曜日”。
レースの最中に左脚部粉砕骨折を発症し、競走能力の喪失が危ぶまれるほどの怪我を抱えてしまった元チームメイトのことが、どうしても心配だった。
この人は見かけによらず、担当ウマ娘に対して強い情熱を注ぐトレーナーだ。
私は過去に、テイオーの骨折の原因が自分自身にあると疑わなかった姿を目撃している。
今回のスズカさんの一件で、この人は責任感に押し潰されて倒れてしまうかもしれない。
しかし、風の噂によるとどうやら、スズカさんはこの人の献身的な態度によって危機的な状況を何とか乗り越え、元気な姿を取り戻しつつあるそうだ。
スズカさんは誰よりも走ることが好きな方だったから、無事に快方へと向かっているようで本当に良かった。
「………………」
「……? どうかしましたか?」
私が投げかけた質問に対して、この人は何故かその場で押し黙ってしまう。
もうそろそろ教室へ戻らなければ、午後の授業に遅刻してしまう時間帯だ。
この人には悪いが、私は一刻も早くこの場から走り去りたかった。
「要件が無いようでしたら、私はこれで失礼します」
「ま、待て……っ」
そそくさと私が踵を返した瞬間。
彼は慌てたように声を上げて、去り行こうとする私の背中を引き留める。
「まだ何か?」
「俺はずっと……お前に、聞きたいことがあったんだ」
「聞きたいこと、ですか?」
本当はこの人の発言に耳を傾ける気なんて毛頭無かったのだが……変に引きずられるのはもっと嫌だったので、私は大人しく彼の言葉を聞くことにした。
「ああ。マックイーンがチーム・アルデバランに移籍したっつう噂を知った瞬間から、ずっと聞きたいことがあった」
……だが、しかし。
「新しい目標を見つけてもう一度歩み出せたお前のことを、俺は心の底からすげぇって思った」
私はこの人の言葉に大人しく耳を傾けるだけであって、決して冷静な自分であり続けられているわけでは無かった。
「でも同時に、少しだけ気になることがあったんだ」
この人の全てを見透かしているような言葉を受けて、嘘で塗りたくった分厚い仮面に入った亀裂が広がる。
「……なぁ、マックイーン」
やがてその亀裂は、縦横無尽に私の仮面を駆け巡って。
「お前が新人のチームに移籍した目的って……本当はもう一度、レースに──」
ついに、
「──あなたには何も関係ないでしょうッ!?」
壊れた。
今まで仮面の下に隠し続けていた一部の感情が、抑えきれなくなる。
「私がどのような意図でチームを移籍しようが、あなたには何も関係ないッ! そんなことを聞く権利なんて、あなたに残っているはずがないッ!!!」
この人と言い争っている場所が一体どこだったのか。
今が一体、どのような時間だったのか。
それ以外にも、この人がどのような背景を抱えて、契約破棄という決断に踏み切ったのか。
頭に血が上りすぎて理性を失った私には、そんなことに気を配る余裕なんてこれっぽっちも残っていなかった。
「あなたは走れなくなった私を無視して平然と捨てたッ!」
これまで積み重ねてきた
「あなたは夢を諦められない私を一方的に突き放したッ!!」
自分の
「私を捨てたあなたの顔なんて見たくないッ!! もう二度と、私に関わらないでくださいッ!!!!」
吐き捨てるように言葉を投げ、私は踵を返してこの場所から走り去った。
激情に身を委ねて中庭を飛び出した後のことは、正直よく覚えていない。
強いて覚えていることを挙げるとするならば、生まれて初めて授業をサボったということだろうか。
後悔に後悔を重ねた挙句、私の魂胆は考えうる限り最悪の形であの人に知られてしまった。
トレセン学園から居場所を失った私は、そのまま逃げるように学園から失踪した。
不思議と気分は晴れやかだった。
こんな事態を招いてしまったのは全て、あの人を身勝手に利用しようと企んだ私のせい。
身から出た錆……あまりに分かりやすい、ただの自業自得。
初めて嘘をついた瞬間から、こうなることは目に見えていた。
都合の良い現実しか見てこなかった自分に、ばちが当たっただけ。
いい加減、夢を見るのはもうやめよう。
もういい。
もう、疲れた。