これであなたはサトノ家行きです   作:転生した穀潰し

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49:私の素顔

『メジロ家定例旅行』という名目でアメリカを訪れてから約二週間が経過し、私達はついに明日、現地を発って日本へと帰国する。

 

「──へぇ〜! つまりマックちゃんは、家族に恩返しをするためにレースに出たいんだね!」

 

 最終日も普段と同じく走りの特訓に取り組み、使用した器具の片付けをしていた時の話だ。

 

 片付けの途中、チームのミーティングに参加する必要があると言ってトレーナーさんが席を外した。

 

 最近ではトレーナーさんとミライさんの中に私が混ざり、三人で行動することが多かったのだが……そういえば、ミライさんと二人きりになる機会もあまり無かったように感じる。

 

 ミライさんと共に片付けを進める中、彼女は私を退屈させないためにと様々な話題を振ってくれた。

 

 レースに関する内容であったり、チームで経験した思い出話であったり。

 

 あとはトレーナーさんに関する愚痴と、それを圧倒的に上回る惚気話。

 

 中でも特に盛り上がったのは、生きていれば誰しもが抱く──夢に関する話題であった。

 

 私はミライさんに夢を聞かれ、考えるまでもなく天皇賞の制覇であると答えた。

 

 ミライさんは人の話を聞くのが非常に上手な方で、気付けば私は、自身の大きな夢を意気揚々と彼女に語っていた。

 

 天皇賞というレースが、敬愛するおばあ様にとって思い入れのあるものであるということ。

 

 メジロ家が一丸となって、天皇賞制覇という悲願を果たすために一生懸命活動していること。

 

 そんな一族の期待を一身に請け負って、私は大切に育てられてきたということ。

 

「うんうんっ、とっても素敵な夢だと思う!」

 

 そんな背景の中で、私は自身の成長と共に天皇賞の制覇という夢を育んできた。

 

 この夢はもはや、私という存在の一部になっている。

 

「ミライさんは、どのような夢を持ってレースの世界へ飛び込んだのですか?」

「私? うーん、私はマックちゃんみたいに立派な夢じゃなかったからなぁ。強いて言うなら……みんなの憧れになりたかった、とか?」

 

 ミライさんに聞かれたことを私がそのまま聞き返す。

 

 すると彼女は恥ずかしそうに頬をかいて、自身の夢を打ち明けた。

 

「いいえ、とっても素敵な夢だと思います」

「えへへ、そうかなぁ〜」

 

 他者を寄せ付けない圧倒的な実力で世代の頂点に立ち、現在進行形で歴史に偉業を刻み続ける最強のウマ娘。

 

 今や”星”という異名で世界中から親しまれ、多くの人々に夢と希望を与え、多くのウマ娘にとっての憧れの存在となっている。

 

 ミライさんに憧れを抱くウマ娘からの返事を受けて、彼女は泥にまみれた屈託のない笑顔を浮かべていた。

 

「夢を叶えた時、ミライさんはどんな気分になりましたか?」

「うーん。それがね、最初は全然実感が湧かないの。私の夢が漠然としすぎてるっていうのもあったかもしれないけど」

 

 未だ夢を追いかける身である私は、夢を叶えた後の景色を知らない。

 

 だから、夢を叶えたミライさんに聞いてみたくなった。

 

「私、ファンと交流する機会があまりなくてさ。レースの後とか、ライブの間とか、それくらい。でもその瞬間に広がる景色を見て……あぁ、夢が叶ったんだなって実感が湧いてきて、嬉しくなっちゃって……見てたでしょ? 私の大号泣ライブ」

「もちろん、特等席から見ていました」

「……ぁあ! 恥ずかしいなぁ! 放送事故だよ、放送事故!」

 

 ミライさんがやけくそになりながら話題に取り上げた、大号泣ライブ。

 

 というのも、先日開催されたアメリカクラシック三冠の最終戦──ベルモントステークスで見事優勝し、偉業を成し遂げたミライさんが、全世界が注目する晴れ舞台で号泣してしまうという珍事件が起こった。

 

 ミライさんの言葉通り、確かに放送事故ではあるのかもしれないが……今となっては”ミライ”というウマ娘を象徴する瞬間として親しまれている。

 

「……まぁでも、あの瞬間はやっぱり忘れられないなぁ。夢を叶えて、たくさんの人から応援してもらって……あぁ、ここが私の居場所なんだなって思った」

「居場所……」

 

 ミライさんは夢を叶えて、自分の居場所を見つけた。

 

 私もいつか、見つけられるのだろうか。

 

 天皇賞の制覇という夢を叶えたその先にある、彼女のような素敵な居場所を。

 

「あとは……夢を叶えて、()()()()()()()()()()()()()()()

「え?」

 

 ミライさんの言葉を受けて、私は不思議に思った。

 

「新しい夢、ですか?」

 

 私達ウマ娘においてこれ以上ないほど素敵な夢を叶えたミライさんに、新しい別の夢があるだなんて。

 

 夢を追いかけて、夢が叶って、夢の実現を噛み締めて……それで終わりだと思っていた私にとって、ミライさんの発言は衝撃的であった。

 

「うん! 大きな夢を叶えた実感で心が満たされて、その感覚がそのまま新しい夢になったって感じ……かな?」

「それはとても、素敵だと思います」

「えへへ〜、そうでしょそうでしょ〜!」

 

 夢を叶え、再び夢を追いかける身となったミライさんの笑顔は、見ているこちらが微笑ましくなってしまうくらいの幸福で満たされている。

 

「ちなみに……ミライさんの新しい夢は、どんな内容なのでしょうか?」

 

 その笑顔を見て、私の中に眠る年相応の好奇心が刺激されてしまった。

 

「え〜、そうだなぁ……せっかくだから、マックちゃんには特別に教えてあげちゃおっかなー」

「本当ですか!」

 

 世界的アイドルウマ娘が秘める、未だ誰も知らない新しい夢。

 

 そんなの、気にならないわけがない。

 

「誰にも言わないって、約束できる?」

「はい、ミライさんとの秘密にします!」

「じゃあ良し! マックちゃん、ちょっと耳貸して」

 

 ミライさんに言われるがままに、私は彼女の口元に耳を近づけた。

 

「私の新しい夢はね…………」

 

 ミライさんの囁くような優しい声音が、私の鼓膜を揺らす。

 

 そして私は、ミライさんが抱く新しい夢の内容を聞き取った。

 

「……えへへ、どうかな?」

「……はい。とっても、とっても……素敵だと思います」

 

 この世界で私だけが知っている、ミライさんの新しい夢。

 

 私とミライさんだけで共有する、二人の秘密。

 

「えへへ……ありがと、マックちゃん。そう言ってくれて嬉しい」

「私、ミライさんが夢を叶えられるように、精いっぱい応援しています!」

「うん! 私も、マックちゃんの夢が叶うように、ずっと応援してるからね!」

 

 お互いの夢を心の底から応援し合ってからしばらくして、チームのミーティングに出席していたトレーナーさんがこちらの方へと戻ってきた。

 

「マックちゃん」

 

 トレーナーさんが私達のところへ辿り着くまでの間に、ミライさんがもう一度私の名前を読んだ。

 

「私、マックちゃんにどうしても伝えたいことがあるの」

「なんでしょうか?」

 

 私はそれに応えるように、隣に立つ彼女へと視線を向ける。

 

「夢を叶えるまでの過程は……多分、楽しいことよりも、辛いことの方が多いんだよね」

「当然、覚悟はしています」

「夢を見るのは、とっても素敵なこと。でもそれは、世界中のみんなが平等に与えられた幸せで……場合によっては、誰かが夢を叶えるために、誰かの夢を壊しちゃうことだってあるの」

「……」

「私達の世界なんて、まさにそう。本当に残酷で、苦しいよね。私が叶えた夢も、途中で破れていったたくさんの夢の上で輝いてる」

 

 ミライさんの着眼点は、客観的に見れば至極当然のことであり、ある意味仕方のない話であった。

 

「私が夢の実現に一歩近づくたびに、誰かの夢が破れて涙を流す人達をたくさん見てきた。それが、とっても辛かった」

「…………」

「……でもね、マックちゃん」

 

 だがしかし、ミライさんはそんな悲しい語りを一蹴するかのように、強かに言い放つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──絶対に、諦めちゃダメだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢を叶えたウマ娘からおくられる激励が、私の芯に対して強烈に響く。

 

「遠慮なんかしちゃダメ。たとえそれが、誰かの夢を引き裂くことになったとしても……ううん、それだけじゃない」

 

 ミライさんが私の小さな手を握ってくれた。

 

「どんな困難にぶつかったとしても、もうダメだって思った時も、胸が張り裂けそうなくらい辛い現実を突きつけられたとしても……」

 

 その温もりを感じて、私は顔を上げる。

 

「絶対に、諦めちゃダメ」

 

 私の隣で、ミライさんが微笑みを向けてくれた。

 

「これが私の、夢を叶える大事な秘訣。一生懸命夢を追いかけるマックちゃんの役に立ってくれたら、嬉しいな」

 

 ありがとうございます。

 

 そんな気持ちを込めて、私はミライさんの手をぎゅっと握り返した。

 

「お互いの夢が叶うまで……一緒に頑張ろうね、マックちゃん」

「はい、ミライさん」

「がんばって、一緒に幸せ掴もうね」

 

 ミライさんから大切な言葉をもらった。

 

 憧れの方から夢を叶えるための大事な想いを受け取って、私はこれから夢に挑む。

 

「……よしっ、そろそろ片付け真面目にやろっか!」

「……あ、すっかり忘れていました」

 

 二人だけの秘密を共有し、憧れの方とかけがえのない約束を交わした最後の思い出。

 

 ミライさんが私の背中を押してくれた。

 

 ミライさんから貰った大切な言葉を心に刻んで、私の夢へ向かってひた走る準備が整った。

 

「ミライさん」

 

 だから最後に、ありったけの感謝の気持ちを言葉に込めて。

 

 私は言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──私に勇気をくれて、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ごめんなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──私()、あなたと交わした大切な約束を守ることが出来ませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 もういっそ、こんな世界から消えてしまいたいと思った。

 

 一族の期待を裏切って、志半ばで前へ進む足を失い、信頼を寄せていた人からも捨てられて……最後に残された可能性すら、自分自身の手で潰してしまった。

 

 愛情を注がれながら生まれ育ったメジロ家のウマ娘としての存在価値を喪失し、思い出がたくさん詰まったトレセン学園からは居場所を失った。

 

 弱い自分を覆い隠していた仮面が無くなってしまったことで、私はもう過去の強かだった”名優”の姿を演じることが出来なくなってしまった。

 

 その後、私は剥き出しになった過敏な心を守るように他人という存在から逃げ続け、都会を抜けて地図にすら載っていないような辺鄙な土地を目指す。

 

 自分の足が無意識に向かう行き先には、心当たりがあった。

 

 メジロ家が複数所有する別荘の一つで、本土から離れた無人島を開拓した、豊かな自然に囲まれる静謐な場所。

 

 アクセス手段が非常に不便であることから、別荘の管理を担う使用人以外はめったに訪れない場所である。

 

 しかし裏を返せば、他人との関わりを絶つことが出来る……現状の私にとっては、うってつけの空間であった。

 

 この過酷な世界を一人で生きていくことなんて、到底出来ない。

 

 だから私はおばあ様にお願いして、もう誰にも迷惑を掛けないことを約束し、特別に別荘へ住まわせてもらえる運びとなった。

 

 極端に本数の少ない地方の鉄道を乗り継ぎ、年季の入った田舎のバスに揺られること数時間。

 

 少し濁った海が広がる港町へ到着し、メジロ家が所有するクルーザーに乗船して本土を飛び出した。

 

 これでもう、私は自身を蝕む心の苦しみから解放されるんだ。

 

 そのことを理解した瞬間、私の中で張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れたような音がした。

 

 そして私は、別荘が所在する無人島に到着するのを待たずして、まるで冬眠でもするかのように深い深い眠りの底へと落ちていった。

 

 次に目が覚めたのは、別荘へ到着してから大体三日後くらいの夜であった。

 

 

 

***

 

 

 

 私が全てを捨てて無人島の別荘へとたどり着いてから、一体どれほどの時間を過ごしただろうか。

 

 朝日を浴びて目が覚めて、朝食を摂ったら特に目的もなく自然の中を散策し、陽が沈んだら床に就く。

 

 平穏な毎日だった。

 

 鮮やかな緑が生い茂った山の小道を歩くと、どこからともなく爽やかな小鳥のさえずりが聞こえてくる。

 

 どこまでも透き通った青い海を眺めていると、穏やかなさざなみが波打ち際を行き来して、私の足跡を静かにさらう。

 

 まるで、時間の流れが止まっているかのような空間だった。

 

 白い砂浜に何となく腰を下ろして、潮風を肌で感じながら物思いに耽る毎日。

 

 この空間で過ごしていると、ふとした瞬間に自分が誰だったのかを忘れてしまうことがある。

 

 自分がどこで、何を成すために生まれ、何を教わりながら育ち、何から逃げてきたのか。

 

「……」

 

 大きな夢があったような気がする。

 

 自分の全てを捧げてでも叶えたかった、大切な夢だ。

 

 大きな夢と前向きな希望で満たされた心に、憧れの誰かから一歩を踏み出す勇気をもらって、私は夢に挑んだ。

 

 生意気だけど憎めないライバル、無神経だけど優しかったトレーナー。一癖も二癖もある仲間達に囲まれて、懸命に夢を追いかけ続けていた。

 

 夢を追いかける日々は、新鮮な出来事の連続だった。

 

 ライバル達と切磋琢磨し、共に臨んだ晴れ舞台で鎬を削る瞬間の数々に、私の胸は際限のない高鳴りを覚えた。

 

 当然、幾度となく挫折を経験し、苦しい思いをしたこともある。

 

 だけどそれは私にとって大きな成長の糧であり、今となっては苦渋を味わった経験すらも愛おしいと感じていた。

 

「……」

 

 もはや、ため息すらこぼれなかった。

 

 夢を追いかける日常が当たり前だと疑わなかった過去の私は、受け止められない絶望の数々に押し潰されて、とっくの昔にいなくなっている。

 

 純粋に夢を追いかけていた生活が一転し、抱えきれない未練に追われる日々が、今の私にとっての当たり前。

 

 壊れた心にありったけの嘘を塗りたくって、過去の栄光を必死に演じて弱い私をひた隠しにし、残された唯一の可能性に縋りついた。

 

 そんな惨めな姿を晒してでも叶えたかった夢は……一体何だったのだろうか。過去の自分に問いかけてみても、返事はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 私は抱えきれない未練から逃げてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 逃げれば楽になれると思った。

 

 

 

 

 

 

 

 今の私は果たして、楽になれたのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 砂浜に身体を投げ出して、澄み渡った快晴をぼんやりと眺める。

 

 西側からどこからともなく現れた雲がやってきた。とても大きな雲だ。

 

 壊れた心はとても穏やかだった。これはきっと、楽になれている証拠だと思う。

 

 そのことを自覚した瞬間、一際大きなさざなみが砂浜に押し寄せて、そこに横たわる私目掛けて襲いかかった。

 

……ああ、お気に入りの服が海水でびしょびしょだ。下着までぐっしょり濡れてしまっている。

 

 別にこのまま海を眺めていても良いのだけれど、この島に吹きつける風は意外と強くて、濡れた身体では肌寒さを覚えてしまう。

 

 私は重い身体を捩って姿勢を上げ、一度別荘へと戻ることにした。

 

 砂浜を抜けて山の小道をしばらく歩き、私はやがて生い茂る木々の一帯をくり抜いた空間にたどり着く。

 

 私の視界に広がっていたのは、目的地としていた別荘がある場所では無かった。

 

 私が別荘へ戻ろうとする度に……何故だかいつも、壊れた足が私を()()()()へと連れてくる。

 

 本格化を迎えたウマ娘がトレーニングに使用するにはいささか不十分で、小さな子供が駆け回る遊び場としては十分過ぎるほどに広い──無人のターフ。

 

 ここに来ると、無性に心がざわつくのだ。

 

 私の壊れた心の中で燻る、()()()()()()()()()()()()()()が懸命に叫んでいる。

 

 普段は気のせいだと無視し続けていたけれど、今日のそれは鬱陶しいと感じるほどに主張が激しかった。

 

「…………はぁ」

 

 私は仕方なく、その声に身を委ねて無人のターフへと足を踏み入れることを決めた。

 

 そこに一歩目を踏み入れた瞬間、懐かしい芝の感触が足裏から全身へと突き抜ける。

 

 芝の状態はトレセン学園やレース場のものと比較するとだいぶ劣化しているように感じるが、決して悪いわけではない。

 

 芝の匂いが私の鼻腔をくすぐるせいで、先ほどから身体がむずむずとして落ち着かない。

 

……どうやら私の身体は、この芝の上を走りたいようだ。

 

 最近は特に運動もしていなかったし、ジョギング程度ならきっと、病が再発することはないだろう。

 

 運動不足の解消という大義名分を得た私は、ぐしょぐしょになった服を着替えるために一度、別荘の自室へと戻った。

 

 濡れた服を脱いで、身体から水滴を拭き取り、クローゼットの奥の奥にしまっていたジャージに着替える。

 

 化粧台の隣に置かれた姿見で違和感がないかを確認している途中、部屋の側面に飾られた日めくり式のカレンダーが目に留まった。

 

 二月七日、日曜日。

 

 使用人の方が毎朝めくってくれているので、日にちにズレはないはずだ。となると、私がこの島へ訪れてから二週間以上が経過したことになるのか。

 

 そして二月七日といえば、トゥインクル・シリーズのGⅢ重賞──きさらぎ賞が開催される日だ。

 

 きさらぎ賞は、後輩であるサトノさんが目標に定めていた重要なレースだ。現在時刻は十五時二十分と、出走までもう少し。

 

 きっと彼女なら、無事に勝利を掴み取ることが出来るだろう。私が今更心配する必要はない。

 

 身なりを整えた私は、水筒とタオルを持って別荘の玄関を出る。

 

「……雨」

 

 雲に覆われた空からぽつりぽつりと、私の身体に水滴が落ちてきた。

 

 先程までは晴れていたはずなのに、今日の天気は何だかとてもあまのじゃくだ。

 

 だがしかし、この程度の小雨なら運動に支障をきたすことはないだろう。

 

 私は小雨を無視してターフへ戻り、木陰に入って入念な準備運動を行った。身体に染みついたルーティンをこなした後、私は再びターフの中へと足を踏み入れる。

 

 最初は芝の感触を確かめるようにゆっくりと歩いて、慎重にも慎重を重ねて速度を徐々に上げていく。

 

 前後に軽く腕を振って、自分の足を駆使して前へと進む。

 

「……案外、何ともないではないですか」

 

 左脚を蝕む病に怯えていた私だったが、いざ走り出したとしても別にどうということはなく、普通に走ることが出来た。

 

 一度止まって左脚の状態を確認するが違和感や不調を覚えることはなく、ただただ普通という感想しか出てこなかった。

 

 ウマ娘にとって”不治の病”と称される繁靭帯炎だが、世間に流通する絶望的な認識に踊らされているだけで、本当は大したことないのかもしれない。

 

 得意になった私はそのまま、少しずつ速度を上げてターフを走った。

 

 自分の身体で風を切る感覚は、随分と久しぶりだった。運動不足を解消する目的で始めたジョギングだが、気付けばいつしか、私は走ることに夢中になっていた。

 

 そのまましばらく走った後、私は一度芝の上で立ち止まる。

 

 左脚の状態を仕切りに気にする反面で、身体の中にこもっていたモヤモヤが晴れるような爽快な気分を噛みしめていた。

 

 小さなターフを二周走った程度だが、運動不足を解消するという意味ではもう十分だろう。

 

 熱った身体に打ち付ける雨はとても心地良いが、このまま外にいては風邪を引いてしまいかねない。

 

 私は持参した荷物を持って、別荘へと戻ろうとする。

 

 

 

 

 

 

 

 だが、しかし……。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……もう十分でしょうに」

 

 先程から自身の心の中で燻る()()が、まだ足りないと私に駄々をこねてきた。

 

 段々とそれの主張が激しくなって、私にもっと走れと鬱陶しくせがんでくる。

 

 ターフを軽く走って晴らしたはずのモヤモヤが、より一層大きくなって私の全身に広がっていく。

 

 私の胸がそのモヤモヤに圧迫されるせいで、次第に息が苦しくなってきた。

 

 深呼吸を繰り返しても状態は変わらず、更なる圧迫感が追い討ちをかけるように押し寄せてくる。

 

「…………、……っ、あぁ、もうッ!」

 

 私は込み上げてきた苛立ちをついに抑えきれなくなり、手にした荷物を投げ捨ててターフへと戻った。

 

 胸にまとわりついた違和感を振り払うためには、さらに速度を上げて走らなければならない。そうやって、私の直感が訴えかけてきた。

 

 いい加減にしろと、私はそれの主張を一蹴した。

 

 私はもう、走れないウマ娘なのに。

 

 左脚を巣食う病魔はただ鳴りを潜めているだけに過ぎず、ふとした拍子に目を覚ましてしまうかもしれないのに。

 

 その瞬間がいつ訪れるかなんて、誰にも分からない。

 

 もしかしたら、私が次に一歩を踏み出した時がそうなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 そんな絶望的な状況の中で、()()は私にまだ……走れとせがむのか?

 

 

 

 

 

 

 

「…………ッ!!」

 

 ついに私はモヤモヤとする全身の圧迫感に耐え切れなくなって、気づけばしがらみを振り払うように駆け出してしまっていた。

 

「くっ、うぅ……っ」

 

 その瞬間、私の脳裏に過去の苦痛がフラッシュバックして、あまりの恐怖に目尻から涙がこぼれた。

 

 怪我の再発という言葉が真っ先に浮かんで、私は咄嗟に、暴走する自身の身体にブレーキをかける。

 

 だがしかし、私の全身はまるで()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、言うことを聞いてはくれなかった。

 

 私の切実な意思とは裏腹に、どんどんと景色が加速していく。

 

「い、いや……っ、やめてっ…………」

 

 私はもう、走りたくないのに。

 

 とっくの昔に壊れた心が、もうやめてよって泣いているのに。

 

「はぁ……っ、はぁっ、はぁ……ッ!」」

 

 息苦しさを覚える私の身体は一体どうして、心の悲鳴を無視して走り続けるのだろうか。

 

 足りない、まだ足りないと訴えて、さらに速度が跳ね上がる。

 

「──ッ!?」

 

 脳裏に過ぎった悪夢のような恐怖達が、絶望を告げる意地悪な声に形を変えて私に襲い掛かってきた。

 

 

 

 

 

 

 

──お嬢様。どうか落ち着いて聞いて下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 頭にこだまする、誰か声音を騙った恐怖の言葉。

 

 

 

 

 

 

 

──お嬢様は左脚に……繁靭帯炎を、発症いたしました。

 

 

 

 

 

 

 

 私が地獄の底へと突き落とされた瞬間が、恐怖を介して鮮明に蘇ってくる。

 

 

 

 

 

 

 

──マックイーン。どうか、落ち着いて聞いてほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 壊れた心に刻み込まれた絶望が、再び私から冷静な思考を奪い取る。

 

 

 

 

 

 

 

──レースはもう、諦めよう。

 

 

 

 

 

 

 

 今度はさらに別の誰かを騙った声音で、私に絶望のどん底を突きつけてくる。

 

 

 

 

 

 

 

──やっぱり、諦められないのか?

 

 

 

 

 

 

 

「…………さい」

 

 

 

 

 

 

 

──もしお前がどうしても、レースを諦めきれないというのなら……。

 

 

 

 

 

 

 

「…………るさい」

 

 

 

 

 

 

 

──俺はお前との担当契約を、破棄する。

 

 

 

 

 

 

 

「………………うる、さいっ」

 

 

 

 

 

 

 

 趣味の悪い悪戯だ。こんな回りくどい真似で私を苛立たせて、一体何がしたいのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 胸の中に生まれた不愉快な感情を炉にくべて、移り変わる景色がさらに、さらに加速していく。

 

 

 

 

 

 

 

──マックイーン。

 

 

 

 

 

 

 

 過去のトラウマを不躾に掘り起こすように、悪夢のような恐怖が私の大切なライバルの声を騙った。

 

 

 

 

 

 

 

 その言葉と共に浮かんでいた悲しげな彼女の表情が、今でも網膜に焼き付いて離れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──諦めちゃったの?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぁ、ああ……っ!

 

 

 

 

 

 

 

「うるさい……っ、うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいッ!!!!!!」 

 

 激情に身を委ねて乱暴な言葉を吐き出しながら、私は不快感を振り切るようにがむしゃらに走った。

 

 足元から悍ましい恐怖が込み上げてきても、視界が止めどなくあふれる涙で塗りたくられても、私の足は止まらない。どうしても止まってくれないんだ。

 

 どれだけの距離を走ったのかは、もう覚えていない。

 

 私の心がとっくに限界を迎えていたとしても、身体は狂ったように動き続ける。

 

 それはまるで、今まで押さえつけてきたあらゆる鬱憤を、身体から根こそぎ吐き出し尽くすかのような勢いだった。

 

 降り続ける雨がより一層強くなって、私の全身に打ち付ける。

 

「はぁ……っ、はぁ、はぁ…………っ」

 

 でも、どうやらさすがに、ずぶ濡れになって冷え切った運動不足の身体にも限界はあったようだ。

 

 徐々に速度が落ちていく。いつの間にか私は両膝に手をついて、荒々しい呼吸を繰り返していた。

 

 私は咄嗟に、爆弾を抱える左脚の状態を確認しようと手を伸ばす。

 

「……っ!?」

 

 だがしかし、身体の主導権を奪い取った()()は左脚を労わる行為を許してはくれなかった。

 

 息が切れているにも関わらず、再び走り出そうと全身を突き動かす……その瞬間。

 

「ぃっ…………!?」

 

 私の意識と、私の身体を乗っ取る()()の意識が激しく衝突して、水気を含んでぬかるんだ芝に足を取られてしまった。

 

 鈍い衝撃が全身を襲う。跳ね返ってきた泥しぶきを頭からかぶって、容姿はもうひどい状態になっていた。

 

 そんな惨状になっていると言うのに、身体はまだまだ走ることを求めている。

 

「いい加減に……っ!」

 

 私は自身の左脚を強く押さえ付けて、身体の奥底から湧き上がってくる衝動を必死に抑え続けた。

 

 そのまましばらく葛藤を続けていると、やがてその衝動は疲れ果てたように抵抗が小さくなり、私の中へと引っ込んでいく。

 

 突然の発作のような症状は、ようやく落ち着いたかのように思えたが……。

 

 

 

 

 

「く…………っ、ぅ……、ぁあ……っ」

 

 

 

 

 

 その衝動が残していった爪痕は、私の壊れた心に大きな影響を与えてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

──もっと、走りたい。

 

 

 

 

 

 

 

 そんな単純明快な欲求が、私の壊れた心になだれ込んでくる。

 

 

 

 

 

 走りたい。

 

 

 

 

 

 ただ思いっきり、大好きな芝の上を走っていたい。

 

 

 

 

 

 あまりにも純粋で、普通であれば簡単に満たせるような衝動的な欲求。

 

 

 

 でも、そんな欲求だからこそ、私の胸は張り裂けそうなくらいに苦しくなってしまう。

 

 

 

「う、ぅうう……っあく……っ、──あああっ!!」

 

 

 

 止めどなく溢れる涙を拭うたびに、私は再三思い知らされる。

 

 

 

 私は、走ることが好きだったんだ。

 

 

 

 どれだけ嘘を重ねて自分を騙したとしても、完璧な演技で自分自身を欺いたとしても。

 

 

 

 この気持ちに嘘をつくことだけは、どうしても出来なかった。

 

 

 

 

 

 走りたい。

 

 

 

 

 

 もっと走りたい。

 

 

 

 

 

 思いっきり走りたい。

 

 

 

 

 

 押し殺していたはずの感情が、諦めてしまった赤裸々な本心が、まるで堰を切ってしまったように溢れ出して止まらない。

 

 

 

 壊れた心を剥き出しにしながら、私は声を上げて泣きじゃくる。

 

 

 

「…………っ……、…………れ、か……っ」

 

 

 

 嘘で塗りたくった仮面を被り続けた反動が。

 

 

 

 かつての強い自分を演じ続けた代償が。

 

 

 

「……っ、ぁああ…………だれ、か……っ」

 

 

 

 見て見ぬふりをし続けてきた本当の私に……抱えきれない未練に押し潰された弱い私に、受け止められない現実を著しく助長させながら跳ね返ってきた。

 

 

 

「だれか……っ、ぅ、ぁあ…………っ、だれか……っ」

 

 

 

 ”不治の病”に侵された私の足ではもう、自分自身の存在価値を示すことは出来ない。

 

 

 

 特大の爆弾を抱え込んだ私の足ではもう、大切に育み続けた夢を叶えることは出来ない。

 

 

 

 ぼろぼろに朽ち果てた私の足ではもう、ただ走りたいという本能すらも満たすことは出来ない。

 

 

 

「誰でも、いい……っ、だれでもいいから………ぁ」

 

 

 

 私はもう、走れないんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………私、を……………助けてよ………………」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなの、辛すぎるよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ねぇ、誰か……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だれでも、いいから…………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──マックイーン」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 優しい声音で誰かに名前を呼ばれ、私はぎこちない動きで背後を振り返る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………………………………なん、で」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 視線の先に佇んでいた男性の姿をみて、私は思わず自身の目を疑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冷たい雨に全身を打たれ、傘もささずにずぶ濡れとなったスーツ姿の男性は……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっと見つけた」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──今この場所に現れるはずの無い()()()に、不思議とよく似ていたような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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