抱えきれない未練と絶望に押し潰され、目の前で感情を剥き出しにしながら泣きじゃくる彼女の姿を見て、俺はふと思った。
まるで──
「………………どう、して?」
凍えるような冷たい雨に全身を打たれ、泥に塗れながらへたり込むマックイーンが、前髪のわずかな隙間から俺のことを覗いてきた。
おずおずとした様子で、青ざめた唇を震わせながら彼女が問うてくる。
「サトノさんの……レースは…………?」
マックイーンはどうやら、俺がこの場に立っているという現状に疑問を抱いているようだった。
マックイーンの指摘通り、今日は俺の担当ウマ娘であるサトノダイヤモンドが目標としていた重賞レース──きさらぎ賞の開催日だ。
彼女がそのことを疑問に思うのは、しごく当然のことであった。
「たづなさんに、ダイヤの引率をお願いしたんだ。突然のお願いだったけど、たづなさんは快く引き受けてくれてさ……本当に、あの人には頭が上がらないよ」
きさらぎ賞が開催される二日前、それもレース場が所在する京都へ移動する前日のこと。
ダイヤとの会話を終えた後、俺は以前までチーム・アルデバランの代理監督を勤めてくれていたたづなさんに連絡を取って、無理を承知で彼女に引率をお願いした。
突然の申し出なので断られて当然だと考えていたが……蓋を開けてみれば、たづなさんは文句ひとつこぼすことなく俺の要求を聞き入れてくれたのである。
左腕につけた腕時計で現在時刻を確認すると、すでにきさらぎ賞の結果が出ているような時間帯であった。
ちょうどその時、ずぶ濡れになったズボンのポケットにしまっていたスマホが振動し、通知が届いたことを教えてくれる。
俺に連絡を送ってきてくれたのは、つい先程きさらぎ賞に出走した担当ウマ娘のダイヤであった。
その内容に一通り目を通して、俺は安堵のため息をこぼす。
「……ダイヤ、一着だってさ。しかも、勝ち時計はレースレコードだって」
俺の心配はまったくの杞憂だったようだ。
本当に、彼女はたくましい成長を遂げてくれた。この何物にも代え難い喜びは、トレーナー冥利に尽きる。
「…………そう、ですか」
ダイヤからの報告を受けて、前髪で隠れたマックイーンの表情がわずかに柔らかくなったような気がした。
「…………トレーナーさん」
だがしかし、それはあくまでも一瞬だった。
必死に絞り出すように声を震わせて、マックイーンが再び俺に問いかける。
「どうして……私がここにいると、分かったのですか?」
「え? ああ、それは……」
俺が今いる場所は、本土から離れた地図にも載っていないような無人島だ。
どういった経緯で、俺がマックイーンの元へと辿り着いたのか。
ちゃんと説明しなければ、彼女にモヤモヤを残してしまうことになる。
「しらみつぶしに探したんだ」
「…………え?」
「君の一族が所有している療養施設とか、娯楽施設とか。情報を集めて、片っ端から」
「……」
俺はたづなさんにダイヤの引率をお願いした後、真っ先にマックイーンが以前利用していたという山奥の療養施設へと足を運んだ。
療養施設に勤務する使用人の方々はどうやら、マックイーンが失踪したという事実は把握していても、失踪先の居場所までは知らないとのことであった。
一つの当てが外れた俺は、使用人からメジロ家が管理する施設の所在を聞いて、手当たり次第に彼女を探した。
しかし、覚悟していたことではあるが当たり前のように一筋縄ではいかず、時間的にも体力的にも限界が来てしまった。
「まぁでも……当然、何の当てもなく探し回ったところで痕跡すら掴めなくて。その時、痛感したよ。俺はマックイーンのことを、本当に何も知らなかったんだなって」
これがもし、物語の主人公だったとしたら。
失踪したヒロインの居場所には当然のように心当たりがあって、自らを顧みず、誰よりも先にその人のことを見つけ出していただろうに。
俺は、マックイーンのことを何も知らずに接し続けていた自分を恥じた。
彼女の心の叫びを聞き取ってあげられなかった指導者の自分が、本当に情けない。
「だから俺は、マックイーンの居場所を一番知っていそうな人に直接聞きに行ったんだ」
「それ、は……」
「君の婆さんだ」
何の手がかりも掴めない状況で捜索を続けても埒が明かないと判断した俺は、思い切って彼女の実家である北海道に飛んでいった。
北海道後志地方南部に聳える羊蹄山の麓へ赴き、俺はメジロ家の現当主であるマックイーンの婆さんを訪ねた。
「婆さんに事情を説明して、君の居場所を聞いたんだ。そして親切にも、俺をここまで連れてきてくれて」
マックイーンの婆さんと最後に顔を合わせたのは、今から約五年前。
彼女とコンタクトを取ったのは、去年の六月に手紙をもらったのが最後である。
「マックイーンの居場所を教えてもらったのと同時に……婆さんから、
マックイーンに打ち明けた通り。
婆さんは本邸を訪れた俺に対して、今回の騒動に関する全容を包み隠さず話してくれた。
彼女に深々と頭を下げられた時は、どうすれば良いのかよく分からなくなってしまったけれど……。
「すべ、て…………そう、ですか」
マックイーンが繁靭帯炎を発症してからの経緯を聞いて、彼女が一人で抱え込み続けてきた切実な想いを知った。
「…………」
俺の言葉を受けて、ターフの上にへたり込んだマックイーンが自身の腕を弱々しく抱きしめる。
「……ごめんなさい」
そして、マックイーンは小さく丸めた肩を震わせながら、謝罪の言葉を絞り出した。
「
俺は彼女の赤裸々な告白に、静かに耳を傾ける。
「トレーナーになりたいという目標も、あなたが認めてくれた強かな私も……全部、弱い自分を守るための嘘で…………演技だったんです」
「……うん」
「私にはもう……あなたしか、いなかったんです。あなたという可能性に縋らないと、私は立ち上がることすら出来なかった…………っ」
一人では到底抱えきれない未練を背負ったマックイーンを前にして、俺は思った。
未練はきっと、志半ばで破れてしまった大きな夢の成れの果て。
晴らしようのない未練に絶望し、もがき苦しむ感覚は胸が締め付けられるくらいによく分かる。
嘘で塗り固めた仮面の下で、壊れた心を必死に抱きしめていた本当のマックイーンは……まるで鏡写しのような存在だった。
未練を抱えたマックイーンの姿に、”ミライ”という未練に縋り続けていた三年前の俺の姿がぴったりと重なる。
俺の目の前で静かに涙を流す彼女を見て、同情を覚えてしまうのはもはや仕方のないことだ。
「ごめんなさい……っ、ごめんっ、なさい…………っ!」
そして、幾度となく謝罪の言葉を繰り返すマックイーンの姿に重ねてしまっていたのは……未練に溺れる俺の過去だけでは無かった。
マックイーンが抱く未練の正体は、大切な夢を失って、もう一度挑戦するという選択肢を剥奪されたが故に生まれてしまったやるせない心の叫び。
そんな彼女の姿には、不思議と心当たりがあった。
──私ね、みんなが憧れるようなウマ娘になりたいんだ!
……そう。
俺が抱えきれない未練の中で生み出していた、賢明な選択肢の先に進んでしまったミライの
「…………」
俺は今一度、未練に縋りついていた頃の俺自身に問いかけた。
マックイーンの姿を前にした上でもまだ、お前は過去の選択が間違っていたと言えるのか?
ミライの心をズタズタにへし折って、大切な夢を奪い取った後の世界で……彼女は本当に笑っていられたと言い張れるのか?
そんなの、
全ては俺の未練が生み出した、都合の良い未来の押し付けだったのだ。
「…………」
マックイーンはこれから、抱えきれない未練を背負って長すぎる余生を生きていく。
未練に追われる日常の息苦しさと、終わりの見えない絶望を永遠に強いられながら生きていくのだ。
そんな彼女を、全く同じ地獄を二年間経験してきた俺が果たして無視できるというのか。
見て見ぬふりを、し続けるというのか。
……そんなこと、できるわけがない。
未練に蝕まれて壊れてしまった俺の心は、ダイヤの健気な行動の積み重ねによって救われた。
ダイヤというかけがえのない存在がいなければ、俺は今頃どうなっていたことだろう。それは、想像もしたくないことだ。
俺の心はダイヤに救われた。
……じゃあ、マックイーンの心は誰が救う?
抱えきれない未練に追われる彼女を、一体誰が解放してあげられるというのだろうか。
「…………」
幾度となく後悔を繰り返しては未練を生み出してきた生涯を振り返り、俺はその中で、自分という存在を象徴するどうしようもない本質を悟った。
その本質を受け入れなければ……俺はミライと過ごした幸せな日々を、ミライが叶えた大切な夢を全て否定してしまうことになる。
もう俺は、俺自身の心に嘘をつけない。
幾度となく後悔を繰り返してきた失敗の中で、俺は見つけたのだ。
──誰かの笑顔に、寄り添える存在でありたい。
──誰かの夢を、全力で支える存在でありたい。
──誰かの苦悩を、共に背負う存在でありたい。
それが俺という人間のどうしようもない本質から導き出された、指導者としての理想の在り方。
俺の抱いた想いが正しいということは、大好きだったミライの笑顔が教えてくれた。
俺達に残された選択肢はきっと、どれを選んだとしてもやるせない後悔と未練が付きまとってくることだろう。
そんな絶望的な窮地に陥るまでに、俺達の現状は追い込まれている。
それでも当時の俺と決定的に異なるのは、マックイーンにはまだ──
どの選択肢に進んでも、俺達は必ず後悔する。
再び大きな未練を抱えることになる。
──だったらせめて、明日の俺達が少しでも笑っていられる選択肢を選ぶべきだ。
「マックイーン」
俺は目の前でへたり込むマックイーンの傍へと歩み寄り、濡れた芝に躊躇わず立膝をついた。
泥に塗れたマックイーンの前髪を右手で少しかきあげて、雨と涙で滲んだ彼女の瞳を見つめる。
「今まで、よく頑張った」
マックイーンへおくる言葉に迷いは無かった。
「たった一人で辛いことを全部背負って、本当によく頑張った」
何故なら俺と彼女は、
「もう大丈夫だ。マックイーンはもう、一人じゃない」
「………………ぇ」
俺の言葉を受け取ったマックイーンが、耳を澄ませなければ聞き落としてしまう程に小さい呟きをこぼして、ずっと俯いていた表情をゆっくりと上げた。
マックイーンの憔悴した瞳に、俺の姿が映り込む。
俺はもう、マックイーンの心から目を逸らさない。
「どうか、聞いてほしい」
鈍色にくすんだ瞳を真っ直ぐに射抜いて、俺は彼女に覚悟を語る。
「抱えきれなくなったマックイーンの未練は全て、この俺が一緒に引き受ける」
抱えきれない未練に追われるマックイーンのことを、心に同じ傷を抱える俺だけが救ってあげることが出来る。
「マックイーンが風を切るために不要なものは、この俺が全部背負ってやる」
助けを求めるマックイーンの心の声を、同じ悲しみを叫んだ俺だけが聞き取ってあげることが出来る。
「もう大丈夫。マックイーンはもう、つらい思いを一人で抱え込まなくて良いんだ」
俺の”
「だから──」
未練を抱えたマックイーンへおくる次の言葉は、彼女がひた隠しにし続けた本心に対する素直な返事であり、
「──今度は俺と、一緒に走ろう。マックイーン」
同時に、臆病な自分自身へ向けた強かな決意の宣誓である。
「…………ぁ、………………ぁあ」
涙で滲んだマックイーンの瞳が、俺を覚悟を受けて大きく見開いた。
激しく声を震わせながら、彼女が俺に再三問うてくる。
「……そ、それっ、が……っ、あ、あなっ、あなたにとって……一体、どういうことを意味するのか、分かっているのですか…………?」
「ああ、もちろん」
「こ、後悔は……しないの、ですか……っ」
「後悔は……すると思う。でもそれは、今の俺達にとって最善の後悔だ。だから、大丈夫」
「わたっ、私を……見捨てるという、賢明な選択肢があるはずです…………」
「それは俺が、真っ先に捨て去った選択肢だ」
「………………」
俺の素直な言葉を受けて、マックイーンが押し黙ってしまう。
マックイーンは自身の頬を伝う大粒の水滴を拭うこともせず、やがて意を結したように固く噤んだ唇を震わせた。
「私は……あなたにずっと、嘘をついていたんですよ…………? それなのに……な、何で、あなたは私に…………手を差し伸べて、くれるのですか?」
その疑問に対しては、もはや考えるまでもなく口から答えが飛び出してきた。
「それは俺が、マックイーンの担当トレーナーだからだ」
それ以外に、理由なんていらない。
「…………………………」
止めどなく溢れ続けるマックイーンの涙を拭き取ってあげたいけれど、あいにく俺も全身ずぶ濡れで、それをしてあげることは叶わなかった。
「良いかい、マックイーン」
だから俺は、自分から出せる言葉を使って、不安に怯える彼女を安心させてあげなければならない。
「今日から俺達の間には、絶対的な信頼関係が必要になってくる。今のマックイーンにとって、誰かを信じることはとても辛いことだと思う」
俺は今後、自身の”体質”を駆使して”不治の病”に侵されたマックイーンの身体の状態を完璧に把握し、再発の恐れがある限界ギリギリを見極めてトレーニングのメニューを考案する必要がある。
「でもそれは……俺達が山積みの問題を乗り越えるために必要な、最低条件に過ぎないんだ」
対するマックイーンは、俺が導き出した精密なトレーニングメニューを、寸分の狂いなく完璧にこなし続けなければならない。
並大抵の信頼関係では、もう一度夢の舞台へ上がる前にマックイーンの病が再発することなど目に見えていた。
鏡写しの俺達に必要なのは──
「俺達が築きあげる関係は、心に負った同じ傷の舐め合いじゃない──
ミライという取り返しのつかない過去に囚われ、彼女の存在しない未来を恐れて蹲ることしか出来なかった俺と。
戻れない過去に大切な夢を落とし、未練と後悔だけが積み重なった未来へ進むことしか出来なかったマックイーンで。
──底知れない絶望に塗れた、
「……でも、俺達を取り巻く現状はとても厳しい」
担当ウマ娘達と触れ合う中で生まれた新たな視点に立ち、俺は過去の後悔を振り返る。
大切な教え子を喪失した心の痛みを、俺は決して忘れてはいけない。
大切な教え子が叶えたかけがえのない夢を、俺は絶対に否定してはいけない。
大切な教え子と歩んだ宝物のような時間を、俺は受け入れなければならない。
大切な教え子に注いだ情熱を再び心に灯して──俺は乗り越えなければならない。
「……仮にマックイーンを、レースの世界へ送り出せたとしても」
いくら特異な”体質”を持つ俺であったとしても。
担当トレーナーとして出来ることには、残念ながら限りがある。
「左脚に大きな怪我を抱えている以上、以前と同じような走りをさせてあげることは出来ないかもしれない」
ありったけの情熱をマックイーンに注いだとしても、俺は彼女の抱える未練を
それほどまでに、俺達の状況は追い込まれている。
……それでも。
「マックイーンがもし、それでも構わないと言うのなら……」
俺はマックイーンの意志を確認するために、へたり込む彼女へと手を差し出した。
「──俺に、考えがある」
***
後日。
一年以上前に繋靭帯炎を発症し、長期療養へと移行した菊花賞ウマ娘──メジロマックイーンが、三ヶ月後に開催を控えるトゥインクル・シリーズ最長距離GⅠ重賞、天皇賞(春)への出走を世間に表明した。
長期療養の意向が公表されて以来、音沙汰が無いことから、それが事実上の引退宣言であったという見方が一般的だった。
そのような背景も相まって、唐突に出された正式な声明は、世間から大きな注目を浴びることとなったのだと思う。
そして、それとはまた別の視点からも、世間は大きな衝撃を受けているような印象であった。
その原因はおそらく、出走表明の際に公開された文章の端に記載された短い一文。
──チーム・アルデバラン所属:メジロマックイーン──。