失踪したマックイーンの元へ無事にたどり着いた俺は、その先で彼女がひた隠しにし続けていた仮面の下の素顔を目の当たりにした。
抱えきれない未練を背負ったマックイーンに対して自身の覚悟を語り、俺は彼女の手を引いて本土へと帰還する。
来たる目標を三ヶ月後の天皇賞(春)に定めた俺達は、トレセン学園へ戻って来た瞬間からその達成に向けて行動を開始した。
まず最初に、俺はマックイーンの活動拠点をトレセン学園からメジロ家の療養施設へと移行した。
というのも、繋靭帯炎を患った状態で負荷の掛かるトレーニングをする場合、俺の"体質"があるといえど常にリスクと隣り合わせな時間が続くこととなる。
最悪の事態が発生した場合には、迅速な措置を施さなければならない。
メジロ家の療養施設にはそれらの設備が一通り揃っているため、トレーニングの安全性を少しでも高めることが移行の最たる目的であった。
それ以外にも、現状のマックイーンは様々な不幸が重なってしまったことが原因で、心身共に非常に不安定な状態が続いている。
極力周囲からの干渉を避け、傷付いた心を少しでも癒すための憩いの場を設ける必要があった。
これから俺は一心同体の覚悟でマックイーンの指導に臨むわけだが……俺にはまだ、彼女と同等の情熱を注いで支えなければならない教え子がいる。
「……マックイーンさん」
マックイーンと同じく、来年度の春に開催されるクラシックレースの重要な開幕戦──皐月賞を次走に控える担当ウマ娘のサトノダイヤモンド。
互いに大切な夢が眠るレースを前にして、俺は片方の担当ウマ娘だけに傾倒することなど出来ない。
そこで俺は、ダイヤをメジロ家の療養施設に招いて、一時的に彼女の活動拠点すらもこちらへと移し変えてしまおうという決断に踏み切った。
事の経緯を秋川理事長やマックイーンの婆さんに包み隠さず説明し、その点に関しては承諾を得ることが出来た。
二人の学業面に関しては、メジロ家が専属の家庭教師を配属してくれるとのことなので、俺達はその恩恵に素直にあやかることに。
……そして今、療養施設に訪れたダイヤは、数週間ぶりにチームメイトと再会の瞬間を迎えていた。
「……サトノさん。私は、あなたに謝らなければならないことがあります」
再会早々。
チームへと戻って来たマックイーンが、ダイヤに向けて深々と頭を下げた。
そしてそのまま、マックイーンはチームメイトに対して一連の騒動を謝罪すると共に、彼女がひた隠しにしていた真実を包み隠さず打ち明けた。
このような謝罪の場を設けてほしいと願い出たのは誰でもない、マックイーン自身であった。
「……そう、だったんですね」
「私はずっと……サトノさんに、嘘をついていました。本当に、申し訳ありません……」
一連の騒動を経て、マックイーンの性格は大きく変わってしまっていた。
繋靭帯炎の治療に伴う長期療養を乗り越えて学園へと復学したマックイーンは、自身の壊れた心を守るために用意した
しかし、嘘で塗り固めた仮面が壊れてしまったことで、演技を続けられるような状態では到底無くなってしまったのである。
今こうして俺達の前に立っているのは、憔悴した素顔を覆い隠す術を失ってしまった、本当のメジロマックイーン。
「マックイーンさん、どうか顔を上げてください」
「……」
マックイーンから全ての告白を聞き入れたダイヤが、頭を下げる彼女に対して柔らかな声音で語りかけた。
「私、とっても嬉しいです。マックイーンさんと一緒に走ることが出来るなんて、夢みたいです」
「……怒って、いないのですか? 私はサトノさんをずっと、騙していたというのに」
「当たり前です。マックイーンさんはこれまでの姿を嘘だったと否定されましたが……当時の私を気にかけて下さったマックイーンさんの姿勢は、紛れもない
ダイヤの指摘に対しては、俺も全く同じ意見を抱いていた。
本心を偽り、周囲を欺くために用意したマックイーンの目標が全て、嘘であったとしても。
彼女から指導を受けたダイヤは、著しい成長を遂げるに至った。
そしてその成果は、ダイヤがレースで残した優秀な戦績がきちんと証明してくれている。
「マックイーンさん。兄さまが不在の間、私達のことを導いて下さって、本当にありがとうございました」
マックイーンが罪悪感に苛まれながら繰り返していた、サポーターとしての行為。
だがしかし、別の視点から物事を捉えれば。
マックイーンは顧問が不在のチームを半年間支え続け、そこに所属するウマ娘達をたくましく成長させていたのだ。
「…………そう、ですか」
「ですからこれからは、私がマックイーンさんの力になります。なのでどうか、これ以上ご自身を責めないで下さい」
ダイヤはマックイーンの両手を優しく包み込んで、強かに言い放つ。
「…………ありがとう、ございます。サトノさん」
「これから、一緒に頑張りましょう。マックイーンさん」
「……はい」
紆余曲折を経て、俺はバラバラになったチームの欠片を一つ回収することが出来た。
その過程でチームとしての関係性はより一層親密なものへと成長し、さらなる躍進を期待することが出来るだろう。
「それじゃあ、二人とも。今日から改めて、よろしく頼む」
「はいっ! よろしくお願いします、兄さま!」
「よろしく、お願いします。トレーナーさん」
ここから続く三ヶ月間は彼女達だけでなく、俺にとっても大事な正念場だ。
この二人の担当ウマ娘の命運は、担当トレーナーの俺に全てがかかっている。
***
メジロ家の療養施設にチーム・アルデバランの活動拠点を移して、約一週間が経過した。
療養施設を利用させてもらう中で衝撃的だったのは、設備の充実度が俺の予想を遥かに上回っていたことだろう。
様々な設備の中で特に驚いたのは、老朽化した簡易ターフを取り壊し、増設という形で作られた新緑のターフ。
ターフには全国に所在するレース場と同等の規格が採用され、照明設備も完備されているという充実ぶり。
どうしてこんなアクセスの悪い田舎の療養施設にターフを増設したのか、甚だ疑問ではあった。
……だがしかし、このターフの建設に取り掛かった時期を
ターフの建設が開始されたのは去年の二月頃。その時期はちょうど、マックイーンが繁靭帯炎を発症してから約四ヶ月後と重なるタイミングだ。
つまりこの施設は、マックイーンがレースに復帰出来る可能性を愚直に信じ続けた彼女の婆さんが、孫のために私財を投じて建設されたものなのだと想像がついた。
さすがはレース業界の名門メジロ家というべきか。勝利に対する執着心の規模が常軌を逸している。
……いや、これはきっと、孫を想う婆さんの一途な愛情の表れなのだ。
そのような背景を持つ療養施設のターフで二人を指導して、特に、決死の覚悟でトレーニングに臨むマックイーンに関して色々と分かったことがある。
良い傾向と悪い傾向の、両方だ。
「マックイーン」
「はぁ……、はぁ……っ、…………はい」
「やっぱりまだ、走るのが怖いか?」
マックイーンを指導する中で掴んだ悪い傾向は、彼女の心に備わる防衛本能が繁靭帯炎の再発を恐れ、走ることに対して恐怖心を抱いてしまっているということだ。
俺の指示に従ってターフを数周走り、息を切らした様子のマックイーンに歩み寄る。
「……ごめん、なさい。分かってはいるのですが……どうしても、恐怖心が身体にまとわりついてしまうんです」
申し訳なさそうに自身の気持ちを報告するマックイーン。
それほど負荷が掛からないトレーニングを指示しているためスタミナの消費は少ないはずだが、発汗が普段よりも激しかった。
マックイーンの走りが、無意識の内に左脚を庇うような姿勢へと変化していることからも、その傾向は明らかである。
「焦らなくて良い。木陰で少し休憩しよう」
「……はい」
俺は疲弊したマックイーンを周辺の木陰に連れてきて、その根本に腰を下ろしてもらった。
「左脚、触ってもいい?」
「……お願いします」
その行動には、マックイーンが心を休める時間を確保すると共に、俺自身が彼女の身体の状態を確認したいという意図があった。
俺は着用していた薄手の革手袋を脱いで、マックイーンが差し出した左脚に優しく触れる。
「…………ん」
こうして俺が身体を触ることに対して、最初の数日は羞恥心を覚えていたマックイーンだったけれど。
今ではこうして、すっかり従順に脚を差し出してくれるようになった。
俺の特異な"体質"を駆使することが目的ではあるが、やっていることは普通の触診と同じだ。
「……うん。今日は身体の調子が良さそうだから、もう少し頑張ってみようか」
”体質”による診察の結果、異常なしであった。
俺はいつものように、マックイーンの身体に生じる微細な変化をノートに書き起こして、彼女と同様に木陰で休憩を挟む。
トレーニングの最中は常に極限まで気を張り巡らせているため、メリハリを意識して休める時にはしっかりと休んでおきたかった。
「トレーニングを始めてから約一週間が経ったけど……最近、どう?」
俺は彼女との心の距離を少しでも縮めるために、体操座りをしながらぼーっとしているマックイーンに話題を振った。
「……不思議な気持ちです。もう一度走ることが出来て、この上なく心が満たされるような感覚と……怪我の再発を恐れるあまり、走ることを怖いと感じてしまう感覚が入り混じっていて」
「……そうか」
「でもやっぱり……嬉しいです。私はまだ、夢を諦めなくて良いんだって……そう考えると、少しだけ殻を破る勇気が湧いてくるような気がします」
「それは、良い傾向だな」
全身にまとわりつく恐怖心を払拭することは、まだまだ一筋縄ではいかないだろう。
だがしかし、それでもマックイーンは少しずつ前を向き始めているため、恐怖心を克服する日はさほど遠くないように感じる。
「トレーナーさん、ありがとうございます」
「お礼を言うのはこっちだよ。俺と再会するまで、夢を諦めないでいてくれてありがとう」
「……どういう、ことですか?」
俺の突然の言葉に対して、隣に座るマックイーンが疑問を浮かべた。
「マックイーンはずっと、もう一度走るための準備をしてきた。だから長期療養を挟んで現役から離れていても筋力の衰えは最小限だったし、体幹やバランス感覚、スタミナだって健在だ」
マックイーンの身体に触れて分かったことだが……彼女はもう一度夢に挑戦するため、いつでもチャンスを掴めるようにと身体の状態を保ち続けていたのである。
走ることが出来ない分、筋力は基礎トレーニングやトレーニング器具を用いて維持し、スタミナは主に水泳といった運動を駆使してそれの著しい低下を防ぎ続けていた。
その血の滲むような努力が身を結んで、マックイーンの身体はすぐさまトレーニングに復帰することが出来たのである。
「そのおかげで、当初想定していたプランをかなり前倒しすることが出来たんだ。本当に、感謝しかない」
「…………ただ、諦めが悪いだけです」
「俺はそんな諦めない気持ちが希望だったり、奇跡に繋がるんだって思ってる。諦めの悪さはきっと、マックイーンの大きな武器だ」
「……トレーナーさんは、口がお上手ですのね」
「指導者って、大体こんな感じだよ」
「…………そうやって、ミライさんを口説いたんですね」
「……」
マックイーンと共に長めの休憩を挟んだ後、俺は再び彼女に指示を出してトレーニングを再会する。
休憩前よりも少しだけ明るくなった表情でターフを駆けるマックイーンを見て、この調子なら大丈夫そうだと俺はしばし安堵した。
そして、マックイーンが俺の視界から段々と遠ざかっていく姿を見守っていると、
「──トレーナーさん。マックイーンさんの様子はいかがですか?」
背後からふと、馴染みのある女性から声を掛けられた。
「そうですね……この調子が続いていけば近いうちに、走ることに対して恐怖心を覚えてしまう現状を打破出来そうです」
「それは本当に良かったです」
「たづなさん、ダイヤの様子はどんな感じですか?」
俺に声を掛けてきたのは、以前チーム・アルデバランの代理監督を勤めてくれた理事長秘書の駿川たづな。
たづなさんは以前から、休職明けである俺のことを何かと気にかけてくれていて、最近はこうして療養施設まで足を運んでくれることも多かった。
「皐月賞へ向けて、とても期待が持てる印象でした。特にスタミナと根性に関しては、さすがと言ったところです」
たづなさんが療養施設を訪れた際は、今日のようの俺と二人掛かりでトレーニングを実施することもしばしば。
「ただ個人的にはもう少し、スピードと瞬発力が欲しいと思いました。先行策に出る場合は、末脚の切れ味よりもラップタイムを刻むことに重きをおいた方が良いかもしれません」
理事長秘書という役職に就くたづなさんだが、中央のトレーナーライセンスも当然のように持ち合わせているため、ウマ娘の指導に関しても彼女は一流であった。
「あとはそうですね……皐月賞に出走する場合、中山レース場の特徴である約二メートルの坂を二回超える必要がありますから、バ群の先団で息を入れるタイミングは掴んでおきたいです」
「なるほど、今後の参考にさせてもらいます」
そして、たづなさんの指導を受けていたダイヤなのだが……現在は近くの木陰でドリンクの入ったボトルを片手に突っ伏していた。
スタミナと息の入りに秀でた彼女が、たづなさんの指導でまさかあんな姿になってしまうとは……この後少し、声を掛けに行こう。
さて、それはそれとして、俺は隣に立つたづなさんに対してどうしても聞いてみたいことがあった。
「たづなさん。少し聞きたいのですが……」
「何でしょうか?」
「最近よくトレーニングに顔を出してくれていますが……理事長秘書としての業務は大丈夫なんですか?」
こうしてダイヤの面倒を見てくれていたたづなさんではあるが、本来の業務はトレセン学園理事長の補佐である。
トレセン学園からこの療養施設まで移動するだけでもかなりの時間を要するはずだが……彼女は一体どうして、チームの様子を見に来てくれるのか。
「問題ありませんよ、これでも仕事の手際が良い方なので。それに私は一応、チーム・アルデバランの代理監督……サブトレーナーみたいなものですから」
「……なんか、すみません」
「謝らないで下さい。トレーナーさんにそんな顔をされると……どういう言葉を返せば良いのか、分からなくなってしまいますから」
たづなさんも色々と思うことがあって、わざわざ療養施設まで足を運んでくれているのだ。
お互いのためにも、余計な詮索はしない方が賢明なのかもしれない。
「ですが、そうですね……。確かに今の私は少し、トレーナーさんのチームに対して傾倒してしまっているかもしれません」
たづなさんはマックイーンが走るターフを見つめながら、自嘲するように言葉をこぼした。
「理事長秘書とは本来、中立の立場であるべき存在ですが……。繁靭帯炎を発症してしまったマックイーンさんを見て……何故だかどうしても、放っておけない気持ちになってしまって」
まるで自身の心の声に耳を傾けるように、たづなさんは静かに語る。
「怪我や事故で苦しむ子達を、私はたくさん見てきました。満足に走ることすら出来ず、涙を流しながら学園を去っていった生徒達を……私はたくさん知っています」
「……」
「ただその中でも私は、マックイーンさんだけに特別な眼差しを向けてしまったんです……これでは、理事長秘書失格ですね」
「それは、どうして……?」
故障を経験したウマ娘を数多く目にしてきたたづなさんが、何故マックイーンだけに対してそのような感覚を抱いたのか。
果たしてたづなさんがマックイーンへ向けているのは同情なのか、それとも、共感なのか。
たづなさんの心境を推し量ろうにも、俺は残念ながら彼女のことをまだ何も知らない。
「私自身でも、色々とその理由を考えたのですが。強いて挙げるとするなら、そうですね。私とマックイーンさんが……」
たづなさんは静かに瞳を閉じて、ゆっくりと言葉を吟味する。
その仕草はまるで、在りし日の記憶に想いを馳せているかのように純粋で……胸を締め付けられるような悲しみに暮れているかのようであった。
「──
***
メジロ家の療養施設に活動拠点を移してから、さらに約一ヶ月が経過した頃のことである。
「──わぁ……っ!!」
普段から明るい笑顔が印象的な担当ウマ娘のダイヤだが、今日に限ってはそんなテンションに一段と拍車がかかっていた。
しかし、彼女が全身で喜びを表現する理由は明白である。
「とっっても可愛いです……っ!!」
ダイヤは今朝方、彼女宛にトレセン学園から送られてきたそれ──特注の勝負服を抱きしめながら全力ではしゃいでいた。
URAが運営するトゥインクル・シリーズにおいて、最高クラスに位置付けられるGⅠレースへ出走する場合に限り、ウマ娘は自身を象徴する特別な勝負服を着用することが許可されている。
ウマ娘本人がデザインを考案し、それを基にして勝負服デザイナーの方々が特注の勝負服を製作する。
そして今日、来月にクラシックレースの開幕戦であるGⅠレース──皐月賞へ出走するダイヤの元に、完成した勝負服が届けられた。
丁寧に包装された一張羅の勝負服を夢中になって見つめるダイヤを、俺は微笑ましい気持ちになりながら眺めていた。
「ついに私も、勝負服を着ることが出来るんですね……っ!!」
専用の勝負服を身にまとってGⅠレースに出走することは、全ウマ娘にとっての憧れであり、夢であると言っても過言ではない。
「サトノさん。もしよろしければ、早速試着してみませんか?」
「えっ良いんですかっ!?」
俺の隣でダイヤのはしゃぐ姿を眺めていたマックイーンが、彼女に対してそんなことを提案した。
「療養施設のトレーニングルームには、ダンスレッスンをするために設置された大型の鏡があります。空間も清潔で広々としていますから、勝負服を汚す心配もありませんし」
「ぜひお願いしますっ!!」
マックイーンの提案に対してダイヤが食い気味に返事をすると、マックイーンは療養施設に勤める使用人に話を通して、勝負服の試着を手伝ってくれることに。
俺達は早速場所を移動して、試着をするためのトレーニングルームへと足を運んだ。
「兄さま、少しだけ外で待っていてくださいっ」
「分かった」
ダイヤとマックイーンが使用人の方々と共に部屋の奥へと入って行って、俺はしばらくの間手持ち無沙汰となった。
ダイヤの着替えが終わるまでの間、俺はぼんやりと外の景色を眺めながら時間を潰していた。
……ああ、そうだ。勝負服といえば。
かつての担当ウマ娘であったミライが初めて勝負服に袖を通した時も、ダイヤみたいに思いっきりはしゃいでいたっけ。
──ねぇねぇ見てよトレーナー! 私の勝負服、すっごく可愛いと思わないっ!? 特にこの耳飾りとかっ!!
その日のミライは一晩中勝負服を着用し続けて、デザインの魅力を何回も何回も聞かされた記憶がある。
騒がしくも鮮明に刻まれた教え子との思い出に頬を緩ませていると、どうやら意外と時間が経っていたようだ。
「──トレーナーさん、お待たせしました」
トレーニングルームの外で時間を潰していた俺に対して、部屋の扉から首を出したマックイーンが声をかけてくれた。
「もう入っても良い?」
「ええ。勝負服を着たサトノさん、とっても綺麗ですよ」
「それは楽しみだ」
マックイーンの言葉を受けて、俺の胸の中にある期待が否応無しに高まった。
実を言うと、俺はダイヤが制作に携わった勝負服のデザインを知らなかった。
というのも、ダイヤが勝負服デザイナーにデザインの原案を提出する際、俺は闘病生活を送るために学園を一時期離れていたからである。
自身の晴れ舞台を鮮やかに彩る勝負服に、ダイヤは一体どんな想いを込めたのだろうか。
はやる気持ちの赴くままに扉を開けて、俺は彼女が待つ部屋へと足を踏み入れる。
「──あ、兄さまっ」
部屋へと入ってきた俺の存在に気付いたダイヤが、嬉々とした様子でこちらを振り返った。
その仕草に呼応して、彼女の纏う勝負服の裾が煌びやかに靡く。
「…………」
初めて目にする教え子の勝負服姿に、俺は言葉を忘れて見入ってしまった。
綺麗だと思った。
全身を優雅に彩る豪華なフリルがふんだんにあしらわれた、ドレスのような勝負服。
胸元で燦然とした輝きを放ち、彼女という存在を象徴する純粋無垢な金剛石。
美しいと思った。
「ど、どうでしょうか……?」
硬直する俺の反応を窺うようにはにかむ彼女を見て……まるで、お姫様のようだと思った。
「…………」
「……兄さま?」
一向に感想を口にしない俺を不審に思ったのか、いつの間にか目前まで迫っていたサトノダイヤモンドがこちらをのぞき込んでくる。
目と鼻の先に近づいた端正な容姿に、うすらと化粧が施されていることに気が付いた。
期待と不安が混じり合う宝石のような瞳が、俺の心を貫くように揺れ動く。
薄紅をさした瑞々しい唇に視線を釘付けにされた俺の姿が、彼女のつぶらな瞳に映る。
「……あ、ああ。よく似合っているよ」
「……む、それだけですか? もうちょっと、言葉を工夫して下さい」
あまりに美しい教え子の姿に見惚れてしまい、俺は感想を絞り出すだけで限界だった。その反応は案の定、勝負服姿の彼女を不機嫌にしてしまう。
「サトノさん。トレーナーさんは今、あなたの姿に魅入られているんです。言葉も出せないくらいに」
「兄さま、私に見惚れてくれているんですか?」
ダイヤのむすっとした圧力に突き動かされるように、俺は彼女の言葉に対してひたすら首を縦に振る。
「そうですか……ふふふっ、じゃあ良いですっ」
マックイーンの気の利いたフォローのおかげで、俺はすぐに、損ねてしまったダイヤの機嫌を取り戻すことができた。
ダイヤは俺達の前から数歩下がると、勝負服を見せつけるような所作を披露して、その着心地を確かめた。
「何でしょう……勝負服を着ていると、身体の奥底から不思議な力が湧いてくるように感じます」
「勝負服とは自身の想いが凝縮した、分身のようなものですから。自然と力が漲ることでしょう」
部屋の側壁に設置された大型の鏡を眺めながら年相応にはしゃぐダイヤを見て、俺はようやく心の昂りを抑えることに成功する。
「とても素敵ですわ、サトノさん」
「ありがとうございますっ、マックイーンさん!」
俺の考えていることを全て代弁してくれたマックイーンには、感謝してもしきれない。
「せっかくなので、写真の撮影をするのはいかがでしょうか? 実は既に、腕利きの良いカメラマンを手配しています」
「本当ですかっ!?」
「ええ」
用意周到なマックイーンの提案に対して、ダイヤが食い気味に反応する。
「……あっ、でしたら! マックイーンさんも一緒に写真を撮りましょう!!」
「え?」
「一緒に勝負服を着て、
気分が高揚したダイヤの提案に、マックイーンはきょとんとした表情を浮かべていた。
「わ、私も……ですか?」
「だめ、でしょうか……?」
「い、いえ、そういうわけでは無いのですが……それではサトノさんが初めて勝負服に袖を通したという記念を損なってしまうのでは無いでしょうか?」
ダイヤの提案に対して、マックイーンはあまり乗り気ではないようだ。
「そんなはずありません! 私、勝負服姿のマックイーンさんと一緒に写真を撮りたいですっ!!」
「…………わ、分かりました。サトノさんが、そこまでおっしゃるのでしたら」
だがしかし、そんなマックイーンも最終的にはダイヤの熱意に絆されて、撮影に参加することを決意したようであった。
「……あの、トレーナーさん。申し訳ありませんが、今一度席を外していただくことは可能でしょうか?」
「ああ、分かった」
「ありがとうございます。それでは私は、自室に仕舞っていた勝負服を取ってきます」
俺はマックイーンと共に部屋を出て、彼女の着替えが終わるのをゆっくりと待つ。
俺はその途中、自身の部屋に眠っていた勝負服を大事そうに抱えて部屋へと入っていくマックイーンの姿を見た。
再び手持ち無沙汰になった俺は、先ほど網膜に焼き付けた教え子の勝負服姿を思い起こしながら、ひたすら感慨に耽っていた。
ダイヤと再会を果たしてから、もうすぐ一年が経とうとしているのか……とか。
選抜レースで悔し涙を流した彼女が、こんなにも立派に成長してくれたのか……とか。
過去を想起してすっかりと感傷に浸っていた俺だったが、扉の奥から入室の許可が下りたため、一旦思考をリセットしてから再び部屋へと踏み込む。
景色が変わった視線の先に、マックイーンはいた。
黒を基調とした気品溢れる勝負服に身を包んだマックイーンは、鏡の中に映る自身の姿を一心に見つめて……静かに涙を流していた。
「…………ぁ、トレーナーさん」
俺の入室からしばらく遅れて、マックイーンが自分の存在に気付いた。
「も、申し訳ありません……最近少し、涙もろくなってしまって」
「そんなこと、誰も気にしないよ」
頬を伝う雫を慌てて拭き取って、マックイーンは言葉を続ける。
「もう二度と、私はこの服を着ることが出来ないんだと思っていました。ですが今……私はこうして、思い出がたくさん詰まった勝負服に身を包んでいる。その事実が、どうしても信じられなくて…………」
この世界が現実であることを確かめるように、マックイーンは鏡に映る自身の姿を食い入るように見つめた。
そして、彼女は在りし日の記憶に想いを馳せるように、静かに頬を緩めながら独りごちる。
「この勝負服のデザインは……私が小さい頃、尊敬するおばあ様と一緒に考えたものなんです。一族の悲願と、私の夢と、在りたい自分を詰め込んだ、大切な勝負服なんです」
マックイーンの夢が眠る天皇賞(春)の開催を目前に、彼女はウマ娘にとって”不治の病”と称される繋靭帯炎を発症してしまった。
繋靭帯炎の発症によって当たり前だった日常が一変し、マックイーンは抱えきれない未練に苛まれながら生きてきた。
そして今、そんな彼女が絶望の淵からもう一度這い上がって、自身の夢を象徴する勝負服に身を包んでいる。
鏡に映る自身の姿を見て、マックイーンがいかなる想いを感じているのか。
それは決して、想像に難くない話だ。
「よく似合っているよ、マックイーン」
「はい……ありがとう、ございます。トレーナーさん」
マックイーンの勝負服姿を見ることは、今日が初めてではない。
だがしかし、あくまでそれは記録された映像越しの姿である。
実際に生で彼女の正装を目の当たりにすると、やっぱり漂う気品が違う。
華のような優雅さと、孤高の気品に満ちた本来の姿に、俺の視線が吸い寄せられてしまう。
「さぁマックイーンさんっ、早速一緒に写真を撮りましょうっ!」
「あ、ちょ、ちょっと待って下さい……化粧直しをさせていただけないでしょうか。今のままでは、さすがに恥ずかしいです」
涙の影響で少し崩れてしまったマックイーンの化粧を直した後、二人の撮影会が始まった。
積極的なダイヤに流されて撮影に参加したマックイーンだったが、それを続けるにつれて緊張がほぐれてきたようだ。屈託のないダイヤの笑みにつられて、彼女の表情が柔らかくなっていく。
そんな微笑ましい二人の姿を、俺は傍目から静かに見つめていた。
そして、撮影会が始まってから数十分が経ち、二人は満足した様子で俺の元へと戻って来た。
「兄さま、良い写真がいっぱい撮れました!」
「ああ、とても楽しそうだった」
「撮影した写真につきましては、後日印刷してサトノさんへお届けします」
「ありがとうございますっ!」
未だに興奮が冷めやらぬ様子のダイヤを見て、やはり勝負服というのはウマ娘達にとってかけがえのない大切なもの何だなと実感した。
「……あ、兄さま」
「うん?」
「今、スマートフォンをお持ちですか?」
「え、うん」
「一瞬、お借りしてもよろしいでしょうか?」
「あ、ああ。別に構わないけど……はい」
俺はスーツのポケットに入れていたスマホのロックを解除して、言われるがままにダイヤへと手渡す。
「少々、お借りしますね……マックイーンさんっ!」
「えっ、サトノさ──」
俺からスマホを借りたダイヤが、彼女の隣に立っていたマックイーンの腕を突然、ぐいっと胸元に抱き寄せた。
二人の距離が縮まった瞬間を狙って、ダイヤが右手を宙に伸ばしてスマホを構える。
そして、画面を内カメに設定した状態で、パシャリとシャッターが切られた。
そして、撮影した写真を見て満足そうに頷いたあと、ダイヤは少しだけスマホの画面を操作して、俺に返してくれた。
「ありがとうございます、兄さま」
「あ、ああ……」
いたずらに微笑むダイヤについていくことが出来ず、俺はただただ言葉を返すだけで精一杯だった。
ダイヤは一体、何をしたのだろうか。
そんな俺の疑問は、スマホの画面を付けた瞬間、すぐに分かった。
「いかがでしょうか?」
「……うん、すごく良いよ」
待ち受けに設定された世界に一枚だけの写真を眺めて、俺はしみじみと呟いた。
「兄さまにプレゼントです。私達だと思って、大切にして下さい……ね?」
もしかしたらダイヤは、過去に俺がスマホを壊してしまったことを覚えていたのかもしれない。
「ありがとう……あぁ、でもちょっと恥ずかしいな」
「は、え? 今の写真壁紙にしたんですのっ!?」
俺のスマホの画面を覗き込んだマックイーンが、顔を真っ赤にして声を荒げる。
「さ、サトノさんっ、それなら事前に一声掛けてくださいましっ! 心の準備というものが……ぁ、あぁ、なんて間抜けな…………」
マックイーンの言葉通り、確かに撮影された写真に写る彼女は驚いたような表情を浮かべており、対照的に撮影を企てたダイヤの笑顔は完璧に決まっていた。
「どんな表情のマックイーンさんも素敵ですよ?」
「ん"ん"ん"ッ……そういうことでは無くってですね…………はぁ、もう好きにして下さいまし」
今のダイヤに対して抵抗することが無意味であると、どうやらマックイーンは悟ったようだ。力無く項垂れて、俺達から少しだけ距離を置いた。
「でも、そうですね……マックイーンさんがどうしてもと仰るのであれば、撮り直しを検討しても良いかもしれません」
「珍しいな、ダイヤがそんなことを言うなんて」
「実は私も、この写真に物足りなさを感じていたんです」
ダイヤはスマホの画面に映る写真を眺めて、ぽつりと呟く。
「次に写真を撮り直す時は……
三人。
それは、俺が今に至る過程で取りこぼしてしまった、もう一つの大事な欠片。
「……あぁ、そうだな」
幸せな瞬間を切り取った二人の写真にぽっかりと空いた、虚しい隙間。
ダイヤの言葉を一度受けてしまうと。
この写真がどこか未完成で、主要なピースが欠けてしまった物足りなさを覚えてしまう。
俺はまだ、取りこぼしてしまった欠片を全て回収することが出来ていない。
まだまだ問題は山積みで、一体どこから手をつければ良いのか分かりかねているような状態だ。
それでも俺は、後悔や未練を繰り返してでも前へ進むと決めたのだから。
俺はもう、取りこぼしてしまった欠片の一つも諦めたくない。
***
私の夢が眠る皐月賞の開催まで、残り一週間を切った。
今年も四月に突入したことでトレセン学園は新学期を迎え、私は中等部二年生へと進級した。
ここ最近はメジロ家の療養施設を拠点にして生活を送っていたため、実を言うと、自分が進級を果たしたという実感はとても薄かった。
「──ん、んんん…………っ!」
皐月賞へ向けた調整用のトレーニングメニューをこなし、今は療養施設に設けられた露天風呂で身体の疲れを癒していた。
季節が春を迎えたということもあって、澄んだ空間に流れる夜風がだいぶ気持ち良いと感じるようになった。
「やっぱり、露天風呂って良いですよね……景色もすっごく綺麗ですし」
「ええ……サトノさんの、おっしゃる通りです」
マックイーンさんと一緒に夜景を眺めながら、私はしみじみと言葉をこぼす。
療養施設でお世話になる中で、私はこうしてマックイーンさんと共にお風呂に浸かることが多くなった。
約二ヶ月もの間生活を共にして、私とマックイーンさんの関係はとても親密なものになったような気がする。
いわゆる、裸の付き合いというやつだ。
「皐月賞の開催まで、ついに一週間を切りましたが……やはり、いくら強かなサトノさんといえど、緊張してしまうのですね」
「あ、当たり前ですよっ」
マックイーンさんの指摘通り。
私が抱いた夢に挑む瞬間はもう、間近に迫っている。
それも、条件レースやGⅢ重賞と言ったステップではない。目の前に私の夢が眠る──本番のGⅠレースなのだ!
「ついに私も、憧れるだけだったGⅠレースへ出走するんですよね……」
その事実に対して未だに実感が湧いておらず、私は口元まで深く湯船に浸かって、ぶくぶくと泡をこぼした。
「クラシックレースは、ウマ娘にとって生涯一度きりのレースですから。悔いが残らぬよう、サトノさんには思いっきり楽しんでほしいですわ」
「よ、余計な緊張を煽らないで下さいよっ!」
「ふふっ……ごめんなさい、サトノさん」
二人で冗談を交わし合う中で、マックイーンさんが静かに微笑んだ。
そんなマックイーンさんの姿を前にして、物申したい気持ちをすっかり忘れて私も一緒に笑った。
同じ時間をマックイーンさんと共に過ごす中で、彼女の心にも随分と大きな変化が生じたように感じる。
マックイーンさんの表情に笑顔が戻ってきたのは、ついつい最近のこと。
マックイーンさんが自然な笑顔を取り戻しつつあるということは、彼女の心に刻まれた傷が癒えてきた証拠なのだと思う。
それは、とても良い傾向であった。
「マックイーンさん」
「何でしょうか」
そして、私がマックイーンさんと再会を果たした瞬間からタイミングを見計らって、彼女にずっと伝えたかった言葉がある。
「
「……?」
マックイーンさんにはずっと、感謝の気持ちを伝えたいと思っていた。
「兄さまのことを、見つけて下さって」
「……」
かつて私達と共に、この世界から失踪した兄さまのことを探してくれたのは他でもない……メジロ家の方々だった。
「”星の消失”が原因で兄さまが失踪して……私は、死に物狂いで兄さまを探しました。ですが私の家の力では、一年以上捜索を続けても、兄さまを見つけ出すことが出来なくて」
「……」
「当時の私はもう、兄さまのことをすっかり諦めてしまいました。ですが、メジロ家の方々が兄さまを探されているとの情報が入って、それから一ヶ月も経たないうちに痕跡を掴んで……そして、今の私がいるんです」
当時の私は、メジロ家の方々が兄さまの捜索にあたる目的へ目を向ける余裕がなかったが……今になって考えれば、お互いに切実な想いで彼に縋りついていたんだなと思った。
「ありがとうございます、マックイーンさん。私をもう一度、兄さまに会わせて下さって……本当に、ありがとうございます」
メジロ家の助力がなければ、今の私は一体どうなっていたことか。そんなことは、想像もしたくない。
兄さまが隣にいない世界なんて、胸が苦しくて生きていける気がしない。
「…………私には、誰かから感謝される権利なんてありませんよ」
私の心からのお礼を言葉に込めたつもりだった。しかし残念ながら、マックイーンさんがそれを受け取ってくれることは無かった。
「全て……打算だったんです。あの人の力を借りれば、私はもう一度走れるかもしれない。藁にも縋るような思いで、私は心に傷を負ったあの人を…………利用しようとしただけなんです」
マックイーンさんがこぼした、憂いを帯びる懺悔の言葉は。
かつて兄さまの期待を身勝手に裏切った私の心に、いつの間にか薄れてしまっていた罪悪感を再び呼び覚ました。
「結果的に、あの人は私のことを助けてくれました。もう大丈夫だと声を掛けて下さって……足を失った私の手を引いて、導いて下さる」
兄さまがマックイーンさんに施すトレーニングは、まるで魔法のようであった。
繁靭帯炎の再発率が八割を超えている状態にも関わらず、二ヶ月間に及ぶトレーニングを経てもマックイーンさんの脚が壊れる気配は見られない。
高い負荷のトレーニングを施したら、今度は軽いメニューを繰り返して身体に蓄積した疲労を抜き取る。トレーニング後のアフターケアも入念で、摂取する食事や睡眠時間すらも考慮してメニューを組んでいると、以前彼は言っていた。
マックイーンさんの身体の状態を完璧に把握したような奇跡の芸当に、私は驚愕の連続だった。
多分、今の兄さまはこの世界の誰よりも、マックイーンさんのことを理解しているのだと思う。
「あの人に対する感謝の気持ちが膨れ上がるたびに……私の中で、大きな罪悪感が芽生えてしまうんです」
「その気持ちは……私も同じです」
兄さまは自分の身を粉にして、私達のために尽くして下さっている。
それなのに私ときたら、兄さまの体調の異変に気付けずのこのこと危険に晒し、彼の優しさを享受するだけの存在になってしまっていた。
そんなこと、あっていいはずがない。
「……
「……え?」
「マックイーンさん。私、兄さまに恩返しをしたいです」
だから今からでも、兄さまから貰ったものを少しずつでも返していきたい。
「兄さまに世界で一番相応しいウマ娘になって、感謝の気持ちを立派な結果でお返ししたい」
私達はウマ娘だから。
私達に出来る最大限の栄光を、最高の形で兄さまに届けたい。
「皐月賞に勝って、GⅠウマ娘になって、日本一のウマ娘になって、無敗の三冠ウマ娘になる。そしていつか……ミライさんに負けないくらい素敵な、世界一のウマ娘になります」
私が夢を叶えて、兄さまに最高の恩返しをする。
そうでもしないと、私は彼の無条件の優しさに報いることなんて到底出来ないから。
「…………私は」
私の宣誓に続くように、マックイーンさんが慎重に言葉を吟味しながら決意を語った。
「私に出来ることは、そうですね…………レースに出て、無事にあの人の元へ帰ってくること……でしょうか」
喜びと悲しみが複雑に入り混じった言葉をこぼして、マックイーンさんは無数の星が輝く空を見上げた。
「本当は……私を支えて下さったあの人に、レースに勝利して応えたい。ですがそれは残念ながら、現実的な話ではありません」
マックイーンさんが兄さまの指導の下で二ヶ月間のトレーニングを積んだとしても、一年以上のブランクを完璧に埋めるにはまだまだ至らない。それでも彼女は、今あるもので戦わなければならない。
「何せ……私の相手は、未だ無敗のトウカイテイオー。レースの世界で偉業を刻み続ける、現役最強のウマ娘なのですから」
絶望的な現状を客観視して言葉を選んでいたマックイーンさんだったけれど、その声音は不思議と軽やかで。
「だからと言って、負ける気は毛頭ありませんよ。天皇賞(春)の制覇は、絶対に諦められない私の夢なのですから」
不敵に微笑むその姿は、私のよく知る憧れの方とそっくりだった。
「一緒に頑張りましょう、マックイーンさん」
「ええ、一緒に」
星空が見守る世界の下で小指を交わした、小さな約束。
私達はこれから夢へと挑む。
その長い旅路を支えてくれた大切な人の存在を、私達は決して忘れてはならない。