『快晴の天候に恵まれた中山レース場。十一万人を超える大観衆の大本命。今年もついにこの季節がやってきました! 生涯一度の晴れ舞台、クラシックレース開幕戦──GⅠ皐月賞!』
中山レース場を埋め尽くす大衆の大歓声に迎えられて、栄光の晴れ舞台に上がる十八名のウマ娘達が地下バ道から姿を現した。
『”最も速いウマ娘が勝つ”と言われる皐月賞。今世代の優駿ウマ娘達が一堂に会し、トゥインクル・シリーズ三冠路線の開幕戦を制すのは果たして、一体誰なのでしょうか。実況は私──』
各々の想いを込めた勝負服に身を包んだウマ娘達がターフに降り立ち、返しを行いながら芝の感触を確認している。運命のゲートインまでは、もう少しといったところ。
「──あ、トレーナーさん。こちらにいましたか」
「ああ、たづなさん。応援に来てくれたんですか?」
軽快な様子でターフを走るダイヤの姿を眺めていると、ふと隣から聞き覚えのある声がかけられた。
緑色の事務服に身を包んだトレセン学園理事長秘書兼、チーム・アルデバラン代理監督の駿川たづな。
「はい、大切な教え子の晴れ舞台ですから。それに……この場にいないマックイーンさん達の分も、しっかりと応援しなくてはいけませんから」
「そうですね」
たづなさんが俺へ向けていた視線をターフに移し、出走するウマ娘達の姿を微笑ましい様子で見守っていた。
『それでは改めて、皐月賞に出走するウマ娘達の紹介を行っていきます。一枠一番──』
皐月賞の出走時刻まではあと、十分ほどの間がある。会場に訪れた観客や中継を視聴する人達を手持ち無沙汰にさせないために、実況席が出走ウマ娘の解説を行っていた。
実況席の解説を聞いた限りでは、世間から注目されるウマ娘達は俺の予測と大方当てはまっていた。
ダイヤを除く出走ウマ娘達の中で、最も皐月賞制覇を有力視されていたのはやはりチーム・リギル所属のドゥラメンテ。
ジュニア級GⅠを制覇し、皐月賞の前哨戦である弥生賞を圧勝した彼女は今回、二枠四番での出走となる。
ドゥラメンテの強靭な末脚を如何にして封じ込めるかが、皐月賞制覇の要となってくる。
その他にも、逃げの作戦を得意とする八枠十六番のリオンディーズや、後方からの差し切りや捲りを得意とする二枠三番マカヒキ、三枠五番リアルスティール、四枠七番キタサンブラックなどなど。
中山レース場の地形的特徴や出走ウマ娘の傾向からして、終始スローペースの展開になることは簡単に予測出来る。
前走のきさらぎ賞から作戦と戦術を大きく変えて挑むダイヤだが、それが果たして吉と出るか凶と出るか。
『さぁそして、待ちに待った一番人気の紹介です。今年のクラシックレースの主役を飾るウマ娘といえば、彼女しかいないでしょう! 世界中の期待を一身に集め、かつての”星”をも超える存在となり得るのか。六枠十一番から世代の頂を目指す、チーム・アルデバラン所属──サトノダイヤモンドです!』
実況席からダイヤの名前が取り上げられるのと同時に、会場が大いに湧き上がった。
『本レースにおいても圧倒的一番人気に推され、三冠ウマ娘の誕生は確実かと言われているサトノダイヤモンドですが……その一方で、世間からは偉業達成を不安視する声も挙がっています』
『と、言いますと?』
『サトノダイヤモンドを輩出した業界有数の一大コンツェルン──サトノグループには、不思議な
『ジンクス、ですか?』
『レース文化の発展に大きな貢献をもたらしたサトノグループですが……その一族からは未だ、GⅠタイトルを獲得したウマ娘が輩出されたことはありません。その事実が転じて、”サトノのジンクス”と呼ばれるようになりました』
ダイヤが世間から注目されるのと同時に、彼女の一族に伝わる不名誉なジンクスが度々取り上げられるようになった。
──サトノのウマ娘は、GⅠレースに勝てない──。
GⅠレースに勝利し、一族の悲願を果たすことこそ。
サトノダイヤモンドがその身に背負った使命であり、彼女自身の夢だと語った。
「サトノさんのことが心配ですか?」
「レースに絶対はありませんから」
「そうおっしゃる割には、ちょっと楽しそうですね」
「俺も、ダイヤの熱烈なファンですから」
一度教え子を晴れ舞台に送り出してしまえば、指導者である俺にはもう、何もしてあげることが出来ない。
でも、それまでの過程で俺に出来ることは全部やったつもりだ。
「あとは、ダイヤが一番最初に帰ってくる瞬間を信じて待つだけです」
「ふふふっ、そうですね」
たづなさんと会話を続けているうちに、いつの間にか出走ウマ娘達のゲートインが始まっていた。
ダイヤが満を持して夢に挑む。
出走の時間は近い。
***
『各ウマ娘のゲートインが始まります』
トゥインクル・シリーズ最高峰のGⅠレースを華やかに飾る盛大なファンファーレの後、規則に従って各ウマ娘達が指定のゲートに収まっていく。
皐月賞へ挑むウマ娘達がゲートの前に集合し、互いの様子を牽制し合うように確認している。
ドキドキと落ち着かない心臓をよそに、私は精神統一を図りながら今一度頭の中で情報を整理していく。
(返しでバ場の状態を確認した感じ、ちょっと内側が荒れてて終盤は伸びにくそう)
兄さまの警告通り、中山レース場のバ場は内ラチ沿いが非常に荒れている傾向にあった。
最終直線では進路を少し外めに持ち出して、荒れたバ場を避けるのが賢明だろう。
(返しの様子を見た限り、どのウマ娘も完璧に仕上げてきてる。今までのレースとは雰囲気も緊張感もまるで違う。これが、GⅠ……)
兄さまから事前に警戒するよう指示されていたウマ娘達を、私はこの場で一通り確認する。
その中でも、チーム・リギルに所属するドゥラメンテさんは一人だけ別格のような印象を受けた。
ドゥラメンテさんの前に立つのは、ただただ単純に怖いと感じた。彼女のことは警戒しなければならないと、私の本能が訴えかけてきている。
だが私とて、彼女の武器を封じるための作戦はしっかりと立ててきている。
(このライバル達の中で、私がマークしなきゃいけない相手は……)
私はチラリと目線を動かして、獲物を狙い澄ますように焦点を定めた。
(……うん、大丈夫。兄さまが信じてくれた私なら、絶対に大丈夫)
ついに私のゲートインの順番が回ってきて、静かに息を吐き出しながら出走の瞬間を待つ。
全てのウマ娘がゲートに収まって、爆発的な会場の喧騒が嘘のように凪ぐ。
私は心臓の鼓動に身を委ねるように瞳を閉じて、おもむろに利き足を後ろへと引く。
『優駿ウマ娘達によるクラシックレース開幕戦──GⅠ皐月賞、ゲートイン完了』
自分の意識が深く深く沈んでいくような感覚をひたすらに研ぎ澄ませて。
静かに、ただ静かに前だけを見つめて瞳を開く。
『──今、スタートが切られましたッ!』
さぁ、行こう。
***
『──各ウマ娘が好調なスタートを切って飛び出していきます。十一番サトノダイヤモンドも軽快にゲートを出ていきました』
十八名のウマ娘が揃ってゲートを飛び出して、二千メートルの戦場に開け放たれた。
序盤に注目となる位置取り争い。逃げや先行を得意とするウマ娘達がバ群の好位につくために、脚を使って一斉に坂路を駆け上がっていく。
『バ群の先頭に躍り出たのは十二番と十六番のリオンディーズ。その後ろにピタリとつけて、十一番サトノダイヤモンド…………え?』
実況席から届く声が突然途絶えると共に、中山レース場が一際大きなどよめきに包まれる。
誰もが予想だにしなかったであろう展開に、至る所から驚きの声が上がっていた。
『な、なんとっ、十一番のサトノダイヤモンドが先行策を取っていきます! 逃げウマ娘をマークする形で、バ群好位からのレースを選択していきました!』
チーム・アルデバランに所属するサトノダイヤモンドの武器は、切れ味のある圧倒的な末脚。
自身にとって一番の長所を投げ捨ててまで先行策に出ると予想出来たものは、誰一人としていないはずだ。
『波乱の幕開けとなった皐月賞。バ群はやや縦長の展開となって、間もなく第一コーナーを曲がっていきます』
だがしかし、この晴れ舞台はトゥインクル・シリーズの最高峰GⅠレース。
ダイヤの奇策に動揺する様子を見せながらも、他のライバル達はすぐさま意識を切り替えて各々の走りに徹底していく。
「……よし、序盤の位置取りは完璧だ」
ダイヤは俺が提案した作戦に従って、スタート直後に一気に脚を使い、バ群の先行集団に飛び込んでいった。
『第一コーナーを抜けて、各ウマ娘が続々と第二コーナーへ突入。ここで今一度、順位を確認していきます──』
現在の状況を大雑把に確認すると、
この状況において注目すべき点は、逃げウマ娘達と先行勢を”集団”として一括りにすることが出来て、なおかつ──バ群に目立った中団グループが形成されていないということ。
『先頭から十六番のリオンディーズ。隣に並んで十二番、その後方にピタリとつけて十一番のサトノダイヤモンド。彼女に続くように十七番、二番、六番、九番、十四番と先行していきます』
『先行集団は見たところ、かなり飛ばしているような印象ですね。終盤の末脚を武器とする後方集団から大きく距離を離していきます』
少々異質な展開となった皐月賞に対して、困惑が入り混じったような歓声が湧き上がる。
『──三番マカヒキ、八番、そして四番のドゥラメンテが後方集団のしんがりを務め、レースは間もなく向正面へ』
ターフビジョンに映し出されるバ群全体の映像を見て、俺は小さく握りこぶしを作る。
「ここまで作戦がうまく決まる瞬間を見ていると……ふふっ、何だか笑っちゃいますね」
俺と同じくターフビジョンに視線を向けたたづなさんが、口元に手を当てながら微笑んだ。
たづなさんの言葉通り。
この少し異質な展開は全て、ダイヤが水面下で遂行している作戦の結果である。
「先行集団
***
──良いかダイヤ。皐月賞では、この二人の逃げウマ娘を徹底的にマークしてもらう。
勢いよく開いたゲートを飛び出した瞬間、私は真っ先に兄さまの組み立てた作戦を思い浮かべてバ群の先団へと食らいついた。
兄さまが立案した作戦を最初に聞いた時、とても強い衝撃を受けたことを覚えている。
──スタート直後に逃げウマ娘達の真後ろを陣取って、圧力をかけ続けるんだ。その場から、
私はその作戦に従って、バ群を先導する逃げウマ娘達をマークし、常に
「──ぇ、な、なんで……っ」
彼女達も、私の末脚を警戒して何かしらの作戦を立ててきたことだろう。
だがしかし、逃げウマ娘達は位置取り争いの途中で、バ群後方で息を潜めているはずの私が獰猛な牙を剥き出しにしながら背後に控えていることを知った。
私に意表を大きく突かれたことも相まって、彼女達の動揺は凄まじいものであっただろう。
そんな激しい動揺に理性を奪われたウマ娘は、一体どうなるのか。
「……ッ!!」
当然、掛かってしまう。
私のマークを振り払うため、逃げウマ娘達は脚を使って距離を離そうとする。これが、作戦を成立させるために必要な一つ目の種。
この時点で彼女達が速度を上げなかった場合、私はすかさず背後へと後退し、従来の末脚を活かした二の矢を放つ予定であった。
──掛かったウマ娘達にペースメーカーの役割を担ってもらいながら、次はそのハイペースに先行集団を巻き添えにする。
そして、作戦遂行に必要な二つ目の種……。
──巻き添え……ですが、一体どうやって?
それは既に、レースに出走する前からばら撒かれている。
──ダイヤに対する警戒心と、レースの定石を逆手に取る。位置取り争いの段階で、末脚を武器に戦ってくるだろうという相手の先入観を砕いた。意表を突かれたウマ娘達は、真っ先に何を考えると思う?
──えっと……私が先行策に打って出た意図を探るのではないでしょうか。
──そうだ。そして、皐月賞に採用されるコースの地形的特徴から、スローペースになることが多い。スローペースを作れば終盤に備えてスタミナを温存出来て、末脚を武器とするウマ娘達の対策にも繋がる。先行組にとってその展開は定石だけど……驚異的な末脚を持つ相手が相手なだけに、今回ばかりは話が違う。
私は逃げウマ娘達に徹底した圧をかけながら、周囲の様子をざっと確認する。
ハイペースとなった先頭の展開に引き離されまいと、”先行”集団のウマ娘達が脚を使って食らいついてきていた。
──逃げウマ娘達をマークして、スローペースという定石を崩す。好位から展開を進めたい先行組にとっては、ハイペースについていくか否かで大きな選択を迫られることになる。
おそらく先行集団のウマ娘達は、私から距離を置くことを嫌ったのだろう。
──普通だったら、自殺行為のような逃げウマ娘達のハイペースについていくっていう選択肢を取ることは無い。でも、この異質な展開の中心にいるのはチーム・アルデバランのウマ娘だ。それを理解した瞬間に、彼女達から”ついて行かない”という選択肢が頭から消え去る可能性が高い。
先行策を得意とするウマ娘は、好位につけて長く良い足を使うことを武器に戦っている。
その武器を磨くためのトレーニングを、彼女達は懸命に積み重ねてきたはずだ。
この集団単位のハイペースについていかなければ、好位外からの展開を強要されてしまうかもしれない。
このまま
混戦へ持ち込もうとするサトノダイヤモンドには、何か特別な作戦があるのかもしれない。
先行策に打って出たウマ娘達はきっと、そんな風に邪推してしまう。
そして案の定、彼女達は逃げウマ娘に追い縋る先行集団として、私が生み出したハイペースに巻き込まれていった。
仮に先行勢がハイペースに便乗しなかった場合でも、実のところ、私達が考案した作戦にはさして影響は無い。それはあくまでも、作戦に付随する
──この状況を生み出すことが出来れば、流れは完全に俺達のものだ。
先行集団が向正面中間を通過する頃には、後方集団から八バ身以上の差が形成されつつあった。
──後方集団が先行集団のハイペースについていこうとすれば、終盤に向けて温存しているスタミナを消費する必要がある。でもそうしたら、末脚に回せるスタミナが枯渇して本末転倒の事態を招く。だから彼女達は、先行集団と距離が開くことを許容せざるを得ない。
ハイペースの先行集団についていかないという選択は、この場合における最適解である。
だがその一方で、彼女達は自身の末脚が届かないかもしれないという恐怖心に苛まれながら、ゆっくりと展開を進めていくことを私に強要されてしまっている。
──ここまで来ればもう、相手のウマ娘達は詰んでいるも同然だ。
その間にも先行集団はどんどん加速していって、後方集団をさらに突き放していく。
──最後にこの作戦を実行するにあたって、俺から言うことはただ一つ。
この状況を一言で表現するならば、間違いなく……地獄であろう。
──良いかい、ダイヤ。
そして、ライバル全員を地獄に引きずり込んだ私が立っているこの場所も……。
──自慢のスタミナと根性を、思う存分発揮してくれ。
もれなく、地獄である。
***
『先行集団が前半千メートルを通過していきます。その時計は何と──五十八秒二! とんでもないハイペースで展開を押し進めていきます!!』
当初想定していた作戦が順調に進み、後方集団と十バ身近い差が生まれた状態で、ダイヤが向正面を駆け抜けている。
早くも残り八百メートルの標識を通過し、外回りコースと接続する第三コーナーへと突入していく。
そしてこの辺りから、この異質なハイペースについていけなくなったウマ娘達が、少しずつ少しずつ速度を落としていった。
『第三コーナーをなだらかに下り、ここでバ群の形が大きく縦長に変化していきます』
『序盤から続いたハイペースが影響していますね。ですが、十一番のサトノダイヤモンドにはまだまだ余裕がありそうです』
ターフビジョンからダイヤの状態を確認した限り、彼女の脚色が衰える様子は無い。
スタミナと根性に秀でたダイヤだが、ハイペースの展開を維持してなお余力を残すことが出来ているのには、また別の理由がある。
それは、
ダイヤが行っているのはあくまで、逃げウマ娘達の徹底的なマーク。常識破りのハイペースを作り出しているのは、ダイヤの直前を走る逃げウマ娘達である。
息を入れる暇もなく逃走を続けている逃げウマ娘とは異なり、ダイヤは彼女達の真後ろにつくことで風の抵抗を極限まで減らし、スタミナの温存を図ることが出来ていた。
この作戦の本当の目的は、
『先頭が残り六百メートルの標識を通過し、勝負は間もなく第四コーナー! 運命の最終直線に向けて、後続のウマ娘達も続々と生まれた差を縮めていきます!!』
ダイヤが最終直線までに生み出した猶予はおよそ、十二バ身。
後続が温存し続けた猛攻の末脚から逃れるためには、更なる距離が必要だ。
そして、残り四百メートルを示すハロン棒を通り過ぎた瞬間。
ダイヤのマークから逃げ続けていたウマ娘の進路が、わずかに外側へと膨れ上がった。
仕掛けるなら──今しかない。
『さぁここで、サトノダイヤモンドがマークを外してハナを奪い取りますッ! 栄光のゴールを目指して、最終直線で堂々と先頭に立つッ!!』
地鳴りのような大歓声を浴びながら、ダイヤが全身全霊を込めたスパートを仕掛けてライバル達を突き放しにかかる。
ダイヤの脚色は未だ衰えることを知らない。自慢のスタミナと根性を存分に発揮して、自身の脚色に更なる磨きをかけている。
これはもう、決まったか。
鼓膜が裂けるような大歓声の中で、彼女の晴れ舞台を見守る誰もがそう思った。
だが、しかし……。
『──後続のウマ娘達が少し遅れて最終直線へと躍り出るッ! 各々が磨き上げてきた末脚を炸裂させて、先頭を逃げるサトノダイヤモンドに猛然と喰らいついていきますッ!!』
栄光の座を巡るレースはまだ──終わっていない。
***
先頭をひた走る逃げウマ娘の進路がわずかに膨れ上がった瞬間、私はそれを好機と捉えた。
ハイペースに巻き込まれた先行集団のウマ娘達が後方へと垂れていき、我慢せざるを得なかった後方集団が続々と牙を剥き始めている。
バ群の陣形が縦長になり、もうしばらくすればそれは大きな団子へと変化していくことだろう。
好位につける私の場所から、虎視眈々とスパートの瞬間を窺う怖いウマ娘達までは、およそ十二バ身といったところ。
「…………っ!」
私は先頭を突き進むウマ娘の影で大きく息を入れ、強かな決意を改めて胸に灯して腹を括った。
ハイペースな消耗戦の影響で、スタミナに自慢がある私といえどもさすがに限界が近づきつつある。
少しずつ脚の反応も鈍りかけていて、思った以上に余裕が無くなってきていた。
しかしそれらの厳しい現状を、私は努めてポジティブに捉える。
ハイペースな消耗戦を経て、私は十二バ身というアドバンテージを獲得した上でスタミナを残すことが出来ている。
レースの序盤から長いスパートを掛けてきたのにも関わらず、私の脚にはまだ余力が残っている。
栄光が眠るゴールまでの距離は、残り四百メートル。
そして、この先には高低差約二メートルを超える中山の坂が、絶望を突きつけるように聳えている。
背後から怖い足音が聞こえてきた。
獰猛な末脚で芝を抉りながら、殺気のような鋭い眼光を飛ばして私の背中を滅多刺しにする。
あまりの恐怖に身の毛がよだつ。
全身が竦んで、血の気が引いていくような脱力感に襲われる。
「…………ッ!!」
だけどもう、私は後ろを振り向かない。
だって私の夢はもう、目の前にあるんだから。
大切な夢を叶えるために、私は今この瞬間を走っているのだから。
やってやる。
負けてたまるか。
差せるものなら差してみろ。
「──はぁああああああああああッ!!!!!!」
誰であろうと、先頭の景色は絶対に譲らない。
***
『──逃げて逃げてひたすら逃げるッ!! サトノダイヤモンドが懸命な粘りを披露していますッ!!!!』
独走状態で中山の坂を駆け上がるサトノダイヤモンドに、終盤までずっと息を潜めていた恐ろしいウマ娘達が襲い掛かる。
三百十メートルの最終直線へと突入した後続達が、音速の末脚を炸裂させて十バ二身近くあった差を瞬く間に縮めていく。
『二番手に躍り出たのはキタサンブラック!! リアルスティールとマカヒキもバ群を突き放して、坂道をものともしない剛脚でサトノダイヤモンドを追いかけるッ!!!!』
ウマ娘達の魂がぶつかり合う激戦に、中山レース場が震え上がる。
心臓が破裂するんじゃないかと思うほどの興奮が、大観衆のボルテージを極限まで引き上げ続ける。
『栄光のゴールまで残り二百メートルを切ったッ! 先頭は変わらず後続と八バ身差を離してサトノダイヤモンドッ!! さらに距離を縮めてキタサンブラック、リアルスティール、マカヒキが猛追ッ!! そして──大外からドゥラメンテッ!!!!』
ライバル達の鬼気迫る強烈な追い込みに抗うように、ダイヤは全身全霊を振り絞って、夢へと続く
『サトノダイヤモンドが四バ身のリードを死守して残り七十ッ!! キタサンブラックとドゥラメンテが瞬く間に距離を縮めて先頭に肉薄するッ!!』
残り五秒の間に繰り広げられる、手に汗を握るデッドヒート。
瞬きを挟んだ瞬間に、一バ身の距離が詰まる。
時計の秒針が刻まれるよりも格段に早く、もう一バ身の猶予が削ぎ落とされる。
誰もが呼吸を忘れ、心臓の鼓動を置き去りにして、五感の全てがウマ娘達の晴れ舞台に注がれる。
『サトノダイヤモンドが逃げ切るかッ! キタサンブラックが差し切るかッ! それもドゥラメンテが二人をまとめて撫で切るかッ!』
電光石火の皐月賞に決着がつくまで、残り十メートル。
二バ身というわずかな猶予も食い尽くされ、ついに三人が横一列に並び立つ──。
その瞬間を、ほんのわずかに待たずして。
『──サトノダイヤモンドッ!! サトノダイヤモンドだッ!! クラシックレースの開幕戦、皐月賞を見事に制したのは……チーム・アルデバランのサトノダイヤモンドですッ!!!!!!!!』
アタマ差のリードを死守したサトノダイヤモンドが、堂々たる走りを貫いて栄光の勝利を掴み取った。