これであなたはサトノ家行きです   作:転生した穀潰し

56 / 69
54:わすれもの

 クラシックレース開幕戦──GⅠ:皐月賞を制覇し、ダイヤが見事一冠を達成した日から二週間が経過した。

 

 皐月賞の後から著しく不安定な天候が続き、連日の豪雨が過ぎ去ったばかりの曇天が、京都レース場のターフを覆い隠している。

 

 五月一日、日曜日。

 

 京都レース場第十一レース──GⅠ:天皇賞(春)。

 

 十万人を優に超える観客が会場へと押し寄せ、どんよりと澱んだ空気を吹き飛ばすような盛り上がり具合を見せている。

 

 天皇賞(春)の出走時刻は十五時四十分。

 

 パドックへの登壇を間近に控えたウマ娘達が待機する控室の一室。

 

 大切な想いが込められた勝負服に身を包み、彼女──メジロマックイーンは静かに座してその瞬間が訪れるのを待っていた。

 

「──お願いします。トレーナーさん」

 

 マックイーンの担当トレーナーである俺は今、そんな彼女の前に立膝をついて出走の準備を進めていた。

 

「自分で脱がなくて大丈夫なのか?」

「はい。トレーナーさんに、お願いしたいんです。ダメ、でしょうか……?」

 

 俺はマックイーンの足元から彼女の表情を見上げる。

 

 白磁のように透き通った肌をほのかに赤く染め、紫水晶の瞳を不安げに揺らしながらも、その提案は俺に対して強かな決意を示しているように見えた。

 

「分かった」

 

 俺はマックイーンの意志を受け取って、勝負服に包まれた彼女のおみ足へ手を伸ばす。

 

 黒を基調としたブーツと膝丈のハイソックスを丁寧に脱がし、マックイーンの柔肌を慈しむように触れる。

 

「もし痛かったら、その時は遠慮なく言ってほしい」

「……はい」

 

 俺は最後に一言断りを入れてから、改めてマックイーンの素足にそっと触れた。

 

 そして俺は、彼女の左脚の状態を確認するのと並行し……ゆっくりとした動きで、患部をテーピングしながら覆っていく。

 

 激しい運動に支障をきたさないよう伸縮性のある素材を選びつつ、怪我の再発を防止し、最大限に負荷を軽減できるような形で硝子の足を補強する。

 

 時間をかけて左脚への措置を終えた後、違和感がないかどうかを確認し、再びハイソックスとブーツを通す。

 

「ごめん。本当は、華やかな勝負服を汚したくは無かったんだけど……」

 

 続いて俺は彼女の()素足に触れて、先程とは別の箇所にテーピングの措置を施していく。

 

 繁靭帯炎の再発が危ぶまれる左脚とは異なり、マックイーンは右脚を怪我しているというわけではない。

 

 ただ、マックイーンは再発の恐怖心と向き合う過程で、無意識に患部を庇うような走り方の癖をつけてしまった。

 

 その影響で身体の重心が少しだけ右側に傾き、健康的だった右脚に皺寄せが来ているといった現状である。

 

 俺の”体質”を用いた診断によればさして問題はないのだが、他者の干渉を激しく受けるレースでは何が起こるか分からない。

 

 不測の事態を極力避けるためにも、着地のバランスを矯正し、怪我の予防は徹底しておきたかった。

 

 左脚の場合はテーピングした箇所をハイソックスで隠せるのでまだマシなのだが、右脚のそれは彼女の膝を覆ってしまっている。

 

 最近ではテーピング機能が施されたタイツもあるにはあるが、それこそ勝負服の華を著しく損なってしまうため、残念ながらその選択を取ることは出来なかった。

 

「良いんです。こうしているとなんだか、トレーナーさんに守られているような気がして……安心出来るんです」

「……そうか」

 

 テーピングの措置を終え、俺は再度両の足に違和感がないことをマックイーンに確認する。

 

 特に問題は無いとのことだったので、俺はその場から静かに立ち上がった。

 

「パドックの登壇時間まで……あと十分弱か」

 

 道具を片付けながら、俺は腕に巻いた時計を仕切りに確認する。

 

 もうそろそろ控室を移動し始める必要があるので、俺の心に少しばかりの焦りが募った。

 

……というのも。

 

 俺は今朝からずっと、この控室に()()()()()が訪れる瞬間を待ち続けていたからである。

 

 事前にメッセージを送り、返信がくることは無かったが既読はつけられていたため、相手が内容を確認していることは分かっていた。

 

 だがしかし、いつまで経っても彼女が控室に姿を見せる気配はない。

 

 残念だけどここは潔く諦めて、マックイーンをパドック会場へ連れて行こうとした……矢先のこと。

 

 

 

 

 

──コンコンコンッ。

 

 

 

 

 

 控室の外側から、扉を遠慮がちにノックする音が聞こえてきた。

 

 俺はそのノックに軽く返事をして、控室へ訪れた相手に入室を促す。

 

 おそるおそる、とびきりおもむろに扉を開きながら、制服姿の女性が姿を見せる。

 

 

 

 

 

「…………こんなところに呼び出して、一体何がしたいわけ?」

 

 

 

 

 

 怪訝な眼差しで俺を射抜き、身体の前で腕を組んだ鹿毛のウマ娘──メジロドーベル。

 

 これから天皇賞(春)に出走するメジロマックイーンの実姉であり……俺が取りこぼしてしまった、大切な元担当ウマ娘である。

 

「来てくれてありがとう、ドーベル」

「別に、来たくてきたわけじゃないから。変な勘違いしないで」

 

 棘のある言動で周囲を寄せ付けない性格は相変わらず……いや、以前よりもその態度に拍車が掛かっているような感覚を覚えるのは、気のせいではないだろう。

 

 聞いたところによると、ドーベルはチーム・アルデバラン脱退後から、未だに移籍先のチームを見つけられていないのだそうだ。

 

「……それで、アタシをここに呼び出した理由は何?」

 

 俺に突然呼び出された意図を掴みかねているらしく、不機嫌を宿した鋭い眼光がドーベルから飛んで来る。

 

「ああ、そのことなんだけど……応援してほしいと思ったんだ。マックイーンのこと」

「応援って……」

 

 俺の返答に心底呆れた様子で、ドーベルは深いため息をこぼす。

 

 そして彼女は俺から視線を少し逸らし、椅子に腰掛ける勝負服姿のマックイーンに意識を向けた。

 

「……ねぇ、正気なの? そんなボロボロの脚で、本気で走れると思っているの……?」

 

 マックイーンの右脚のハイソックスから覗く、勝負服の華を汚す無骨な布地。

 

 ドーベルの瞳に映ったそれは、彼女の端正な表情をいとも容易く苦悶に歪めた。

 

「俺に出来ることは全てやった。だからドーベルも一緒に、応援してくれないか? マックイーンが、無事に走れるように」

「……何それ。そんなの、無責任じゃん」

「無責任、か……。うん、確かに……そうかもしれない」

 

 一度教え子の背中を叩いて晴れ舞台へと送り出してしまったら、指導者()はもう、彼女達に何もしてあげることが出来ない。

 

 トレーニングという手段を用いて担当ウマ娘に徹底した教育を施し、レースという一番重要な舞台では彼女達自身の判断に全てを委ねる。

 

 そのような視点に立って考えると、トレーナーという職業はある意味で究極の無責任を体現したような存在なのかもしれない。

 

「でも……今の俺にはもう、マックイーンを信じてあげることしかできない。職業柄、それは仕方のないことなんだ」

 

 当然、左脚に特大の爆弾を抱えた状態でマックイーンを晴れ舞台へ送り出すため、彼女が背負うリスクは他の者達の比にならない。

 

 何度も繰り返しになるが……担当トレーナーの俺に出来ることは、晴れ舞台へ送り出した担当ウマ娘のその前と、()()()の責任を取ってあげることだけ。

 

 これはとても、難しい選択だ。

 

 選択の末には必ず結果が伴い、それを振り返って初めて、過去の選択に対する是非が導き出される。

 

 

 

 

 

 

 

 その選択の結果を、最初から知ることができれば良いのに。

 

 

 

 

 

 

 

 その選択の結末を知っていなければ、心が壊れてしまうほどの後悔に蝕まれなくて済んだのに。

 

 

 

 

 

 

 

 これはとっても、難しい選択なんだ。

 

「でも……そんな無責任なわがままだって分かった上で、ドーベルはここに来てくれた」

「…………」

 

 腕に巻かれた腕時計に、俺はチラリと意識を向ける。

 

 もうそろそろ、控室を出なければならない時間が迫っていた。

 

「マックイーン、そろそろパドックへ移動する時間だ」

 

 俺は一度ドーベルから視線を移して、椅子に腰掛けるマックイーンの足元でもう一度立膝をつく。

 

 俺が彼女に直接声を届けることが出来るのは、おそらくこれが最後の機会。

 

「良いかい、マックイーン」

 

 俺は緊張して微かに震えるマックイーンの両手を包み込んで、不安に揺れ動く彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。

 

「今まで本当に、よく頑張った。マックイーンが俺のことを信じてくれたおかげで、俺達はここまで来ることができたんだ」

 

 俺を静かに見下ろす彼女の瞳に、かつて”星の消失”と共に失ってしまった情熱を灯した男の姿が映り込む。

 

「今の俺がマックイーンにしてあげられることはもう、『頑張れ』って無責任な言葉を掛けることだけなんだ。その感覚がとてももどかしくて、とても心苦しい」

「…………」

「だから君はもう、自分のことだけを考えて走れば良い。自分自身のためだけに走って、あの世界に忘れてきた大切な夢を……もう一度、取り戻しに行くんだ」

 

 俺はもう、マックイーンに対して頑張れと言ってあげることしかできない。

 

 俺はもう、マックイーンのことを信じて送り出してあげることしかできない。

 

 だからせめて、俺は彼女のことを全力で信じて、心の底から応援をする。

 

「それじゃあ行こうか、マックイーン」

 

 俺は椅子に腰を下ろしたマックイーンの手を優しく引いて、姿勢を起こす。

 

 パドック会場を目指して控室を出る途中、勝負服を身にまとったマックイーンが制服姿のドーベルの前で立ち止まる。

 

「……ドーベル。私は、あなたにもたくさんのことを謝らなければなりません」

 

 そして、彼女はドーベルの前で深々と頭を下げた。

 

「私があなたに対して、嘘をついていたこと」

「……」

「私が、あなた達の知る『私』を演じ続けていたこと」

「……」

「私の使命を……あなたに押し付けてしまったこと」

 

 切実な嘘で塗り固めた仮面を被って素顔を覆い、輝かしい過去の姿を演じ続け、マックイーンは自身の心を必死に守っていた。

 

 だがしかし、血の繋がった姉妹にすら本当の姿をひた隠しにし続けていた彼女が今、こうしてありのままの自分をさらけ出している。

 

 そんなマックイーンを見て、ドーベルが果たして何を感じて、何を思っているのか。

 

 彼女のことをまだ何も知らない俺にとっては……残念ながら、想像することすら敵わない。

 

「……私、そろそろパドックへ向かいます。ドーベル。会場は大勢の観客が押し寄せていますから、私のことを無理に応援して下さる必要なんてありませんよ」

 

 最後にマックイーンは穏やかな微笑みを残して、控室から一人、パドック会場へと続く廊下を歩いて行った。

 

 静寂が訪れた控室で、俺はぽつんと佇むドーベルと向かい合う。

 

「……これが、アタシを呼び出した目的?」

「マックイーンにとっては、そうだったかもしれない」

「……そう。じゃあ、アンタは?」

「ドーベルと、話がしたいと思って」

 

 マックイーンの応援をして欲しいという名目でドーベルを呼び出したが、彼女が他人を……引いては不特定多数の観客が入り乱れる空間を苦手としていることは十分承知している。

 

 俺がこうしてドーベルと連絡を取った本当の目的は、彼女と直接話し合いをすること。

 

「この場所なら他人の視線を気にせず話し合いをすることが出来る。少しだけ、俺に時間をくれないか?」

 

 俺はマックイーンと同じように頭を下げて、ドーベルにわがままをぶつけた。

 

「……それはイヤ」

 

 今の俺とドーベルの関係は、元担当トレーナーと元担当ウマ娘。

 

 俺が彼女に何かをお願いする権利もなければ、彼女が俺のわがままを聞き受ける義理もない。

 

「……そうか」

 

 残念だが、失ったものを取り戻すのはそう簡単なことじゃない。これ以上執拗に迫ってしまえば、彼女のコンプレックスをさらに拗らせてしまう可能性だってある。

 

 色々と意気込んできただけに、俺は少しだけ肩を落としてしまう。

 

 そんな内心を悟られたくなくて、なんとか気丈に振る舞おうとする俺だったが。

 

「…………ねぇ、変な勘違いしないでよ」

 

 元担当ウマ娘には、付け焼き刃の態度などお見通しだったようだ。

 

 

 

 

 

「こんなところで話なんかしたら──マックイーンのレースが見れないって思っただけ」

 

 

 

 

 

 そそくさと控室から出ていくドーベルの背中姿をぼーっと見つめたあと、俺は慌てて彼女の後を追いかけた。

 

 

 

***

 

 

 

 シニア級最長距離GⅠ重賞:天皇賞(春)の出走を目前に控える京都レース場のメインスタンドは、相変わらず足が竦むような混雑具合であった。

 

 GⅠレースを観戦しにきた人々の往来にもみくちゃにされながらも、俺はドーベルと共に先頭を目指す。

 

「……あ、兄さまっ」

 

 俺達より一足先にスタンド入りしていた担当ウマ娘のダイヤが、こちらの存在に気付いて大きく手を振ってくれた。

 

 どうやらダイヤは、俺達のためにゴール板の真前の空間を確保してくれていたようだ。

 

「マックイーンさんの様子はいかがでしたか?」

「緊張はしていたけど、とても落ち着いている様子だった」

「そうですか……それは良かったです」

 

 俺からマックイーンに関する情報を聞いて、ダイヤは心の底から安堵したようなため息をこぼす。

 

「ドーベルさんも、お久しぶりです」

「……久しぶり」

 

 そして、ダイヤにとっても元チームメイトのドーベルと再会するのは数ヶ月ぶりだ。ダイヤは普段と変わらない態度で接しているが、対するドーベルはどこかバツが悪そうだ。

 

『──続きまして第十一レース、天皇賞(春)に出走するウマ娘達の紹介です』

 

 俺達がダイヤと合流を果たしたのと同時に、ターフビジョンにパドック会場からの中継映像が映し出された。

 

 曇天の空模様の中で開催されるパドックではあるが、各々の想いが込められた勝負服を身にまとって壇上へ上がるウマ娘達の表情は、とても晴れ晴れとしている印象だ。

 

『十六番人気を紹介します。六枠十二番──』

 

 ターフビジョンの映像を眺めながら、俺は今一度、天皇賞(春)の概要を整理する。

 

 会場に響き渡るアナウンサーの解説通り、今年の天皇賞(春)は合計十六名によるウマ娘達が春の盾を巡って争う構図となった。

 

 パドックに登壇する者達は皆、数々の重賞を制している優駿ウマ娘。

 

 トゥインクル・シリーズの傑物達が集結した天皇賞(春)の盛り上がり具合は、二週間前に開催された皐月賞にも引けを取らない。

 

『──続きまして、六番人気の紹介です。三枠五番、メジロマックイーン』

 

 彼女がパドックに登壇した瞬間、会場内から大きな歓声が湧き上がる。

 

「あっ、マックイーンさんっ!」

 

 黒を基調とした気品溢れる勝負服に身を包んだマックイーンが、穏やかな様子で静かに手を振っていた。

 

『かつて、ウマ娘にとって”不治の病”と称される繋靭帯炎を発症し、一時期は引退も危ぶまれていた名門メジロが誇る屈指のステイヤーです』

『彼女にとって、実に一年半ぶりとなる復帰戦。チーム・アルデバランへと移籍し、かつての"名優"がついに──メジロの悲願、春の盾へと挑みます』

 

 マックイーンの生い立ちが簡単に説明されてからしばらくして、彼女がパドックの奥へと戻っていく。

 

 マックイーンの走りに魅了されたかつてのファンにとっては、待望の瞬間を迎えているといっても過言ではない。

 

 メジロマックイーンに対して強い憧れを抱いていたダイヤも、隣で感極まって大はしゃぎしている。

 

「……マックイーン、六番人気なんだ」

「人気と評価は時に、合致しないことがある。でも逆に言えば、一年半ぶりにレースへ復帰したにも関わらず、六番人気に推されている。これはとても、すごいことだ」

「……それも、そっか」

 

 マックイーンの復帰戦に世間の期待が寄せられているとはいえ、やはり、長期間の空白(ブランク)を挟んだ彼女が勝利することは厳しいという意見が一般的であった。

 

『二番人気を紹介します。二枠三番、ホワイトストーン』

『先行策を得意とするウマ娘ですね──』

 

 メジロマックイーンは繋靭帯炎を発症したことによって、以前のような強い走りを体現することは出来ないと専門家達の間で評されていた。

 

 だがしかし、メジロマックイーンの天皇賞制覇が困難であると言われる根本的な要因は別にあり……あまりに単純な話であった。

 

『──そして、待ちに待った一番人気の紹介です。七枠十四番、トウカイテイオー』

 

 トレセン学園最強チームの一角と名高い、チーム・スピカに所属する無敗の二冠ウマ娘──トウカイテイオー。

 

 彼女はかつて、クラシック二冠を獲得する過程でメジロマックイーンを二度も圧倒した経歴を持っている。

 

 シニア級に主戦場を移した後、トウカイテイオーはシニア級最長距離GⅠの天皇賞(春)や、天皇賞(秋)の盾を立て続けに奪取。

 

 現役四年目を迎えてなお無傷のトウカイテイオーは、今や現役最強のウマ娘と言っても過言では無い。

 

『去年の天皇賞(春)を制覇したトウカイテイオー。トゥインクル・シリーズの歴史に偉業を刻み続ける彼女が、満を持して春の盾連覇を目指します』

 

 かつて、名門が誇る"名優"を二度も下した無敗の二冠ウマ娘。

 

 天皇賞春秋制覇という偉業を成し遂げた現役最強のウマ娘が、高すぎる障壁として立ちはだかっていた。

 

「……ねぇ」

「どうした?」

「マックイーンに、勝算はあるの?」

 

 パドックの壇上で堂々と佇むトウカイテイオーの姿を目の当たりにして、ドーベルがおずおずとした声音で俺に問うてきた。

 

「…………どうだろう」

 

 ターフビジョンに映されたトウカイテイオーの様子を確認する限りでは、身体のコンディションを完璧に仕上げてきたように見える。

 

 片や、決死の想いで現役復帰にこぎつけた、病み上がりのウマ娘。

 

 片や、日本のトゥインクル・シリーズが誇る、現役最強のウマ娘。

 

 どっちが優勢の立場にいて、どっちが劣勢の窮地に追いやられているかなど……そんなもの、火を見るよりも明らかだ。

 

「作戦はあるの?」

「……まぁ、一応」

 

 それでも俺は、メジロマックイーンを担当するトレーナーとして、彼女を勝利に導かなければならない義務がある。

 

 当然、レースに臨む以上、栄光を手繰り寄せるための作戦を考えなければならない。

 

 だがしかし、今回俺がマックイーンに施した作戦は……満身創痍の彼女に残されたわずかな選択肢を継ぎ接ぎして生み出した、()()()()に他ならなかった。

 

「それって、どんな作戦?」

 

 微かに興味を示したドーベルが、その詳細を問うてくる。

 

「……そうだな。言葉で説明するよりも、実際に走る姿を見た方が分かりやすいかも知れない」

 

 マックイーンに施した作戦は複雑な要因を継ぎ接ぎにした上で成立しているため、この場で説明するのは時間が掛かる。

 

「ただそれでも、極限まで噛み砕いてそれを説明するとしたら……」

 

 それでも俺は、作戦の概要を可能な限り突き詰めて、簡単な言葉でそれの全容を端的に表現する。

 

 

 

 

 

 

 

「──()()()()()()、かな」

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

『──曇天の天候に包まれる、荒れ模様の空景色。天邪鬼な鈍色の雲は、波乱をもたらす嵐の前触れでしょうか』

 

 京都レース場の会場に響き渡る、隠しきれない期待を含んだ実況席からのアナウンス。

 

『シニア級最長距離GⅠ重賞──天皇賞(春)。春の王者に君臨し、盾の栄誉を掴むのは果たしてどのウマ娘となるのか──』

 

 ここ二週間続いた悪天候が過ぎ去り、運よく曇り空での開催を迎えることとなった天皇賞(春)。

 

 偉業の更新、あるいは奇跡の復活劇の目撃者になろうと押し寄せた十万人越えの大歓声を受けて、十六名の傑物達が地下バ道から姿を表し、ターフの世界に降り立った。

 

『今年の天皇賞(春)は、レースファンにとって注目ポイントが目白押しです。まずはなんと言っても、繁靭帯炎の発症から約一年半に及ぶ休養期間を乗り越えてレースの世界に舞い戻った──メジロマックイーンの存在でしょう』

 

『彼女が元気に走る姿をもう一度見たいというファンも大勢いましたからね。かつての世界的アイドルウマ娘、”星”のミライを輩出したチーム・アルデバランへ移籍したという点も、熱狂的な注目具合に拍車を掛けているのでしょう』

 

 天皇賞(春)の出走時刻まで、残り十分程度。

 

 本バ場へと入場したウマ娘達が返しを行っている間、実況席が出走までの時間を繋ぐ。

 

『そして、トゥインクル・シリーズが誇る現役最強と名高いウマ娘──トウカイテイオーの存在も欠かせません。無敗でクラシック二冠を達成し、勢いそのままに翌年の天皇賞春秋を制覇。今年に開催された前哨戦の阪神大賞典も制覇し、満を持して偉業の更新に臨みます』

 

『トウカイテイオーが所属するチーム・スピカにはかつて、”TM対決”で日本中を熱狂させた因縁のライバル、メジロマックイーンが在籍していた過去があります。三度目となる世紀の対決は、非常に注目ですね』

 

 出走ウマ娘が返しを行う様子をスタンドから確認し、俺はふむ……としばし唸る。

 

「……どうかしたの?」

 

 そんな俺の仕草を怪訝に思ったドーベルが、率直に俺へ問うてきた。

 

「ん、ああ。返しの様子をざっと見た感じ、俺の予想通り悪天候の影響がもろに出てるなと思って」

「……?」

 

 俺の返答を受けて、ドーベルはしばし首を傾げる。

 

 そして、そんな彼女の疑問を解消してくれたのは、現在進行形で会場を盛り上げる実況席からのアナウンスだった。

 

『さて、今年の天皇賞(春)の注目点を一通り網羅したところで、本レースの特徴についてはいかがでしょうか?』

 

『やはり一番の特徴は、つい先程まで降り続いていた豪雨によるバ場状態でしょう。返しの様子に注目していただきたいのですが、ウマ娘が芝を踏み締めるたびに激しい泥しぶきが巻き上がっています』

 

 解説陣の言葉通り、駈歩程度の速度で返しが行われているにも関わらず、大きな水しぶきが飛んでいるのを確認することができる。

 

『それもそのはず。現在の京都レース場のバ場状態は、未だかつて類を見ないほどターフ全体が水浸しとなった”()()()()”であるという情報が発表されています』

 

 バ場状態は主に、コースに使用される芝下層の含水率によって四段階に分類されている。良バ場を基準とし、含水量が上昇するにつれて稍重、重、不良と変化していく。

 

 近年においては芝コース路盤に用いられる砂の品種改良が進み、排水性が非常に優れているため重バ場以下の状態が発表されることはほとんど無い。

 

『前走までの様子を確認する限りでは、特に第四コーナーのバ場状態が非常に悪く、”ノメり”を嫌って内ラチを避けながら通過する傾向が見られました』

 

 実際に、天皇賞(春)の開催が予定される第十一レース以前の結果を確認しても、不良バ場の影響は著しかった。

 

『非常にバ場状態が悪いことから慎重に進路を選択する必要があり、展開は確実にスローペースなものとなるでしょう。天皇賞(春)は三千二百メートルの長丁場ですから、スタミナ管理も重要です。これらの要素が掛け合わさった場合、先行集団による前残りが非常に起きやすい傾向にあります』

 

『先行策を得意とするトウカイテイオーやメジロマックイーンにとっては、それが逆に有利に働く可能性もありますね。差しや追い込みが決まりにくいバ場状態ではありますが、後続による仕掛けどころにも注目です』

 

 そして、解説陣による展開予測が行われている内に、いつの間にか出走予定時刻を間近に控え、盛大なファンファーレを鳴らす準備が行われつつあった。

 

『間もなく向正面にて、各ウマ娘のゲートインが始まります』

 

 メジロマックイーンの悲願が眠る天皇賞(春)の出走まで、あとわずか。

 

 この世界に忘れてきてしまった大切なものを取り戻すために、彼女は再び夢に挑む。

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 ターフの世界に降り立った私の前に、こちらを真っ直ぐに見つめながら佇むウマ娘がいた。

 

 白を基調とした高貴な勝負服は、『帝王』という彼女の名を象徴するに相応しい意匠である。

 

 彼女の冠名は──トウカイテイオー。

 

 かつて、幾度となく私の前に立ちはだかった因縁のライバルにして、同じチームの下で苦楽を共にした大切な友達である。

 

「……」

 

 テイオーを前にすると、私の壊れた心の奥底で燻り続ける何かが……()()()()()()()()()()()()()()が、どうにも騒ぎ出して止まらない。

 

「……」

 

 私と彼女の間に、言葉はない。

 

 色々と伝えたいことはあったような気がするけれど……それは今、この瞬間にすることではない。

 

 出走時刻を告げるファンファーレが鳴り響き、規則に従って各ウマ娘達が指定のゲートに収まっていく。

 

 テイオーよりも一足先に、ゲートインの瞬間がやってきた。

 

 彼女へ向けた視線をスターティングゲートに移し、私は身体を翻してそこの中へと歩みを進める。

 

 私と彼女の間に、今は言葉なんて必要ない。

 

 今はただ、良いレースをしたい。

 

 悔いの残らないように、胸が躍るような勝負をしよう。

 

『二マイル先に眠る盾の栄誉を目指して今、トゥインクル・シリーズに春の王者が君臨します──GⅠ天皇賞(春)、ゲートイン完了』

 

 胸元で静かに手を合わせて、私の中で長い間眠り続けていた感覚を呼び覚ます。

 

 おもむろに利き足を後ろへ引いて、閉じていた瞳をゆっくりと開く。

 

 もう一度走ろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『──今、スタートしましたッ!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの日に落とした大切なわすれものを、取り戻しにいくために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。