これであなたはサトノ家行きです   作:転生した穀潰し

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55:それでも、私は

 アタシには、メジロマックイーンという優秀な妹がいる。

 

 幼少の頃からメジロ家の悲願を一身に背負い、その名に恥じない矜持と圧倒的な実力で、一族の期待に応え続けてきた優秀なウマ娘だ。

 

 だがしかし、今でこそレース界の名門メジロが輩出した”最高傑作”と評されるマックイーンだが……実を言うと、彼女は走るのがとびきり()()()()だった。

 

 年子の妹として生まれたマックイーンは先天的に病弱な体質で、昔は何かと怪我や病気に悩まされることが多かった。

 

 姉妹達と共に少しターフを走れば発熱を起こし、激しい運動を行った暁には必ずと言っていいほど怪我を抱えてしまうなど。

 

 マックイーンの病弱体質は身体が成長し、本格化の恩恵を授かるにつれて克服していったのだが……当時のマックイーンを側から見ていた者としては、どうしても疑問に思ってしまうことがあった。

 

 おばあ様達は一体どうして、病弱なメジロマックイーンに期待の眼差しを向け続けていたのか……それだけがどうしても、理解出来なくて。

 

 怪我や病気で寝込むことが多かったマックイーンは当然、走ることに対する教育が他の姉妹よりも格段に遅れていた。

 

 アタシの方が速く走れる。

 

 アタシの方が長く走れる。

 

 それなのにおばあ様達は……妹のマックイーンを手厚く支え、温かみのある期待と愛情を注ぎ続ける。

 

 どうして?

 

 アタシの方が速いのに、アタシの方が強いのに。

 

 お父さんも、お母さんも、おばあ様もみんなマックイーン、マックイーンって……。

 

 その頃だっただろうか。

 

 アタシが妹のマックイーンに対して劣等感を……()()()と、思い始めるようになってしまったのは。

 

 アタシだっておばあ様達の期待に応えるために、毎日まいにち一生懸命努力を続けていた。

 

 身体が少しずつ大きくなるにつれて、タイムも早くなって。少しずつ、長い距離も走れるようになって。

 

 認めてほしい。

 

 誰でも良いから、みんなの期待に応えようと頑張っているアタシに気付いて欲しい。

 

 たとえ今は認めてもらえなかったとしても、いつかトゥインクル・シリーズのレースに出場して結果を残せば……きっとみんながアタシを見てくれる。

 

 だからアタシは一生懸命走った。アタシを育ててくれる優しい男性コーチの元で、精いっぱい努力を重ねてきた。

 

 そしてついに、目標であったトレセン学園への入学を来年に控え、自分の活躍する姿を想像しては期待に胸を膨らませていた……矢先のこと。

 

 普段のようにコーチの指導のもとで走りの特訓を行い、少しだけ物足りないと思ったアタシはもうしばらく自主練を続けていて。

 

 しっかりと身体を動かしたことで満足したアタシは、汗でベタベタになった全身を綺麗にするためにシャワーを浴びようと本邸に戻った。

 

 大浴場へと続く廊下を、意気揚々と人気アイドルウマ娘の鼻歌を口ずさみながら歩いていると……視線の先にちらりと、アタシの指導を担当するコーチの姿が映り込んだ。

 

 アタシはコーチに駆け寄ろうとしたけれど、彼は何やら神妙な面持ちで誰かと話をしている様子だった。

 

 大浴場へ行くためには、この廊下を通らなければならない。だがしかし、それではコーチ達の重要な会話を邪魔してしまう可能性がある。

 

 しばらく悩んだ後、アタシは彼らの話が終わるまで待っていることにした。

 

 廊下の影に姿を隠して、着替えとタオルを抱えた状態でしばらくやり過ごす。

 

「…………それで、どうだった?」

 

 アタシがいるこの場所は彼ら以外に人はおらず、とても静寂な空間であった。

 

 そのため、人よりも優れたウマ娘の聴覚が自然と、コーチ達の会話を捉えてしまう。

 

「この前実施した担当ウマ娘の”適性検査”。そっちも結果が返ってきているんじゃないか?」

 

 会話の中で取り上げられた”適性検査”という単語には、心当たりがあった。

 

 それは確か、一ヶ月ほど前に実施した身体測定の中で、ちらほらと周囲の大人達が話題に挙げていた単語であったと記憶している。

 

 トレセン学園への入学試験を控えるにあたって、学力テストやタイム測定を実施し、確実な合格を掴み取るためという名目で行われた測定であった。

 

 アタシはその測定を実施した際、確かな手応えを感じていた。

 

 アタシは着実に強くなっている。メジロの名を冠するウマ娘として立派に活躍して、いつかおばあ様の悲願だって果たしてみせる。

 

「お前の担当は……ほら、昔から雲行きが怪しかっただろう?」

 

 コーチの担当……それはつまり、考えるまでもなくアタシのことだ。

 

 そして、相手の言う雲行きとは一体、何のことを指しているのだろうか。

 

「ええ、まぁ……あなたのお察しの通りかと」

 

 相手の言葉を受けて、アタシのコーチがため息をこぼして頭を抱えた。

 

 コーチに何か悩みごとがあるのなら、担当ウマ娘のアタシが力になってあげたい。

 

 今この場でコーチの悩みを知ることができれば、さりげなく彼のことを気遣うことが出来るかもしれない。

 

 そう思って、アタシは彼から放たれる言葉に、いっそう意識を集中させて耳を傾けた。

 

 

 

 

 

 

 

「──案の定、ドーベルの長距離適性は絶望的でした。もっとも、大奥様の悲願達成を……才能の乏しい彼女に期待していた者は少ないですから。大した問題にはならないでしょう」

 

 

 

 

 

 

 

……アタシは、コーチがこぼした言葉の数々を受け止めることが出来なかった。

 

 どうしても頭の理解が追いつかなくて、単語の一つひとつを噛み砕いて飲み込んでいくしかなかった。

 

 コーチが相手と笑いながら何かを話すその陰で……アタシは暴れる心臓を必死に押さえ付け、息を殺すように溢れ出る涙を堪えていた。

 

 アタシは誰からも期待されていなかった。

 

 アタシの血の滲むような努力の成果が、”適性”や”才能”といったありふれた言葉で掃き捨てられてしまった。

 

 アタシのことを大切に育ててくれていたコーチは、陰に隠れてアタシのことを嘲笑っていたんだ。

 

 そのことをようやく理解した瞬間。アタシの中にあった大切な何かが、音を立てて壊れてしまった。

 

 あまりのショックで、心がおかしくなってしまいそうだった。

 

 アタシはついに悲しみに耐えられなくなって、逃げるようにその場から走り去った。

 

 信じていた人達から裏切られたショックのせいなのかは分からないけれど、アタシはその日の夜、高熱を出して悪夢に魘され続けたことを覚えている。

 

 高熱は一週間程度続いた。

 

 そのことが原因で、アタシは以前から計画されていた『メジロ家定例旅行』に同行することが出来ず、憧れだったアイドルウマ娘のレースを現地で応援するチャンスを、みすみす逃してしまった。

 

 寝たきりの時間はとても退屈で、だけど今のアタシには走りたいという気力が全く湧いてこなくて。

 

 一族総出でアメリカへ旅行に行った姉妹達の帰りを、ぼんやりと外の景色を眺めながら待っていた。

 

 その時のアタシは、コーチが陰でこぼした”適性”や、”才能”という言葉の意味を色々と考えていたような気がする。

 

 その言葉達が指すものの意味を必死に考えたが、当時のアタシでは明確な答えにたどり着くことは出来なかった。

 

 けれど、アタシが風邪を引いてから二週間程度が経過し、姉妹達がアメリカから帰ってきた時。

 

 アタシは……その言葉が指し示すものの意味を、本能的に理解してしまった。

 

「…………なんで」

 

 

 

 

 

 アタシよりも格段に遅かった年子の妹が。

 

 

 

 

 

 アタシよりも落ちこぼれだったはずのメジロマックイーンが。

 

 

 

 

 

 

 

──二週間前とはまるで、別人のような存在に生まれ変わっていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 旅行先で彼女の身に何が起こったのかは分からない。

 

 ただ一つだけ確かなのは……アタシが今、本物の”才能”を目の当たりにしている、ということ。

 

 ただ、それだけだった。

 

 その事実が、アタシの中で積もりに積もった劣等感に追い討ちをかけた。

 

 ただでさえ弱りきっていたアタシの心を、その事実が容赦無く抉ってきた。

 

 

 

……でも、それでもまだアタシには、長年努力してきた自分だけの武器がある。

 

 

 

 才能は無いかもしれないけれど、アタシにはまだ”努力”という大きな武器が残っている。

 

 トレセン学園に入学して、強いチームに所属して、必死に努力して結果を残せば。

 

 誰か一人くらい、アタシのことを見てくれるに違いない。

 

 誰でも良いから、アタシのことを褒めてほしい。

 

 頑張ったねって、頭を撫でてほしい。

 

 ただそれだけの切実な想いを抱いて、アタシはトレセン学園へ入学を果たしたというのに……。

 

「…………」

 

 “本格化の遅延”と呼ばれる現象に苛まれ、誰かを見返すチャンスすらアタシには与えられなかった。

 

 

 

 

 

 姉妹達が晴れ舞台に立って華々しく活躍する光景を、ただひたすら陰から眺めることしか出来ない日々。

 

 

 

 

 

 晴らしようのない劣等感と、やりどころのない嫉妬心になす術無く蝕まれ続けた結果……。

 

 

 

 

 

 アタシの擦り切れた心にはどうやら、限界が訪れていたようだ。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

『──各ウマ娘が一斉にゲートを飛び出しました。向正面で位置取り争いを繰り広げながら、まずは一周目の淀の坂を登っていきます』

 

 十六名のウマ娘達が鋭いスタートを切って、高低差約四メートルをほこる淀の坂を駆け上がっていく。

 

 各ウマ娘が激しい泥しぶきを巻き上げながら、不良バ場をものともしない速度で向正面を突き進む。

 

『濡れた芝に足を取られ、五番のメジロマックイーンが少し出遅れる形となったでしょうか』

『天皇賞(春)は三千二百メートルの長丁場ですから。彼女のスタミナと脚力があれば、バ群の好位につくことは難しくないでしょう』

 

 スタート直後、マックイーンが少し出遅れたようにゲートを飛び出したことで、周囲の観客からわずかに声が上がる。

 

『淀の坂を進んで、序盤の位置取り争いが落ち着きます。先頭からバ群を見ていきましょう。ハナに立ったのは四番ボストンキコウシ。二番、七番、十一番と続き、その後方に三番のホワイトストーン。十四番トウカイテイオーは先頭から六番手、外めの好位に落ち着きました』

 

 トウカイテイオーの背後に一番、六番、三番と続いて、ここまでが本レースの先行集団。

 

 先行集団から少し距離を置いて、後方からのレース展開を得意とするウマ娘達が続いていく。

 

『淀の坂を登り終えて間もなく第三コーナー、ゆっくりとしたリズムで坂を下っていきます』

『バ群がやや縦長になり、ウマ娘間の距離も開き気味ですね』

 

 京都レース場の第三コーナーから第四コーナーへと続く曲がり道は、淀の坂の頂上から一気に下降する急勾配となっている。そのため非常にスピードが出やすく、スパートによってポジションを上げやすい。

 

 だがしかし、現在の水浸しになったバ場状態で速度を出すのは非常に危険だ。それにまだ一周目ということもあり、全員が脚を抑えながら慎重にレースを進めている。

 

『バ群の中団、後方集団についても確認していきます。真ん中の位置につけてゆったりと進むのは十五番、十六番。先頭から大きく距離が開いて十二番、十番、九番。そして──』

 

 すらすらと続けていた解説陣が実況が一度、息を大きく吸うために遮られた。

 

 ターフビジョンに映し出されたバ群の中継映像を目の当たりにし、十万を超える大観衆の間に大きなどよめきが走る。

 

 それも、そのはず。

 

 

 

 

 

 

 

『──なんと……っ、()()()()五番のメジロマックイーンですっ。メジロマックイーンがなんと、バ群のしんがりを選択していきました!』

 

 

 

 

 

 

 

 持ち前の無尽蔵なスタミナを武器に先行し、バ群の好位から速攻を仕掛ける展開を得意としていたメジロマックイーンが……戸惑うそぶりを一切見せずに、最後方を走っているのだから。

 

『これは波乱の展開です! かつての菊花賞覇者メジロマックイーンが、戦い方を大きく変えて天皇賞(春)に挑むことを、一体誰が予想出来たでしょうか!』

 

 バ群のしんがりを走る理由が仮に、出遅れによる不利だったとすれば。

 

 マックイーンは第三コーナーから続く下り坂を利用し、改めて好位を狙っていくという選択をとっていただろう。

 

 バ場状態の影響を加味したとしても、最後方の位置取りが不本意なものであるとすれば、彼女は何かしらのアクションを起こしているはずだ。

 

 だがしかし、当のマックイーンに掛かったような様子は一切見られず、悠々とした足取りで展開を進めている。

 

「……これが、アンタの言っていた作戦ってこと?」

 

 ドーベルはマックイーンの奇想天外な一手に驚いた様子で、そして……極めて怪訝な眼差しを向けながら俺に問うてきた。

 

「まぁ、そういうことになるな」

「マックイーンって、先行策が得意なんじゃないの? それにさっき、実況が後方からの展開は厳しいって……」

 

 作戦とは普通、事の成り行きを都合良く押し進めるために弄する策のことだ。

 

 しかし、俺が今回マックイーンに施した作戦はその()()

 

 得意としてきた既存の戦術を塗り替え、よりにもよって、現状における最悪の選択肢をかき集めて作ったような愚策に他ならなかった。

 

 ドーベル達が疑問に思うのも無理はない。

 

 三千二百メートルの長丁場。

 

 過去に類を見ないほどの不良バ場。

 

 これらの要素を加味すれば、()()()()()()超スローペースな前残りの展開が発生することは容易に想像がつく。

 

 先行策に乗り出すのが圧倒的に有利な状況下で、好位からの速攻戦を得意とするマックイーンを、わざわざ一番不利を強いられるバ群の最後尾に配置する。

 

 誰がどう考えても、とち狂ったような選択肢だ。

 

 当然、こんなアホらしい作戦を提案した俺ですらも理解している。

 

……でも。

 

「現状のマックイーンに残された選択肢は……もう、これしか無かったんだ」

 

 繁靭帯炎を発症し、”不治の病”にもがき苦しむマックイーンをもう一度晴れ舞台へ送り出してあげるためには……この選択肢を用いるしか方法がなかったのだ。

 

「繁靭帯炎の治療に一度は成功したが、マックイーンは依然として大きな脚部不安を抱えている。そんな状態で先行策を講じれば、他のウマ娘達から激しい干渉を受けてしまうことになる」

 

 以前ダイヤにも説明した通り、レースは複数名の競走相手がいて初めて成立するもの。

 

 競走相手による干渉がもたらす身体的負担は、彼女がこの日のために積んできたトレーニングの比にならない。

 

 いつ千切れてもおかしくない綱を渡って、マックイーンはこの晴れ舞台に立っている。

 

 マックイーンの左脚に埋め込まれた爆弾は、いつ爆発してもおかしくない。そんな危険を背負った状況下で、彼女にこれ以上のリスクを与えたくない。

 

「それにこれは、他のウマ娘達を考慮した面もある。マックイーンが得意な先行策を取って、バ群の好位につけたとしよう。そんな状況下で、万が一怪我が再発して転倒を引き起こせば……どうなると思う?」

「…………」

 

 想像するまでもなく、大勢のウマ娘達を巻き添えにした大惨事に発展してしまう。

 

 時速六十キロを優に超える速度で走るウマ娘達が玉突きのように転倒すれば、受け身どうこうの話では無くなってしまう。

 

 傷ついてしまうのは……本人だけじゃない。

 

「俺が一生を捧げてでも責任を取れるのは、マックイーン一人が限界だ。不測の事態が発生してしまった場合……少しでも被害を抑えるためには、可能な限りバ群から距離を置かなければならない」

 

 マックイーンに残されたわずかな選択肢を継ぎ接ぎにして生み出した、苦肉の策。

 

 実行する本人の首だけを絞めてしまう、呪いのような作戦。

 

 それでもマックイーンは、俺の提案を嬉々として受け入れてくれた。

 

 もう一度、走れるのなら……そう言って、微笑みを浮かべながら。

 

「……そう」

「この作戦にはまだまだリスクが残っている。でもそれは、今の彼女にとって一番安全なリスクと言える選択肢なんだ」

 

 これは、仕方のないことなんだ。

 

 そうしないと、マックイーンはもう一度夢に挑むことすら出来ないのだから。

 

『間もなく第四コーナーを抜け、一周目のホームストレッチに差し掛かります』

『どのウマ娘達も、やはり内ラチを大きく避けるような進路を選択していきますね』

 

 京都レース場外回りコースの長い下り坂を通過し、縦長のバ群はスタート直後に形成された形を保ったままホームストレッチへとやってきた。

 

『先頭のウマ娘が前半千メートルを通過、その時計は六十四秒八。かなりのスローペースです』

 

 四番のボストンキコウシがハナを突き進み、十四番のトウカイテイオーは先頭から六番手の位置につけている。

 

 バ群の最後方を走るマックイーンだが、慣れない作戦にも冷静に順応し、とても集中できているように見える。

 

 この苦肉の策を講じる上で救いだったのは、マックイーンが長距離を走ることに長けた生粋のステイヤーであり、道悪のバ場状態を非常に得意としていたことだろうか。

 

 今回の天皇賞(春)ほどでは無いが、かつてマックイーンが制覇した菊花賞も重バ場での開催であった。

 

 同じ京都レース場で開催された長距離レースを制覇していることからも、レース場に対する適性は高いと言えるだろう。

 

 その他の要素で現状のマックイーンに勝機を見出すとすれば……最大の障壁であるトウカイテイオーが道悪のバ場を比較的苦手としていて、ウマ娘としての本質が”中距離”にあるといった程度だろう。

 

 ひとまずは順調に進んでいると判断し、俺は静かに胸を撫で下ろす。

 

「ねぇ」

 

 隣からマックイーンの様子を見守っていたドーベルが、俺に対して短い言葉を投げかける。

 

「アンタさ、アタシに何か話したいことがあってここに呼び出したんでしょ?」

「ああ。どうしても、ドーベルに聞いてみたいことがあって」

「じゃあ、今話して」

 

 俺の方を向いて、ドーベルが当初の目的を果たすよう催促してきた。

 

「あんまり長い話じゃないんでしょ? アタシ、マックイーンのレースが終わったらすぐに帰るから」

「分かった」

 

 ドーベルの指摘通り、俺は彼女とほんの少し話がしたいだけだった。

 

 ただでさえ人混みが苦手なドーベルに、長話を強いるようなことをするつもりは毛頭ない。

 

 だから俺は余計な前置きを一切せず、いきなり本題から切り出すことにした。

 

「ドーベルが天皇賞(春)にこだわる理由を、ちゃんと聞いていないなと思って」

「……それ、前にも言わなかったっけ? 天皇賞の制覇は、メジロ家の悲願だからって」

「うん。でも俺は、使命だけでは説明出来ない理由があるんじゃ無いかって一緒に言及したはずだ。あの時ドーベルが濁した本当の答えを、聞きたいと思って」

「……」

 

 ドーベルが掲げる使命の奥に隠れた想いを理解すれば、彼女の確信に迫ることが出来るかもしれない。

 

 ドーベルがチーム・アルデバランを脱退する直前、俺は意を決して彼女に問うてみた。しかし残念ながら、当時はあまり覚えていないと言って答えを濁されてしまったが。

 

「…………どうしてそう思ったの?」

 

 俺の指摘に対して、ドーベルは肩をすくめながらため息をこぼす。

 

 そして、観念したかのように俺へ再び問うてきた。

 

「俺が職場に復帰して、初めて一緒にトレーニングをした日のことは覚えているか?」

「……それは、まぁ」

 

 当時のことは俺も良く覚えている。

 

 警戒心を剥き出しにした状態のドーベルに対してどうやって距離を縮めていこうかと四苦八苦した挙句、大喧嘩に発展してしまった苦い思い出だ。

 

「その時に実施したタイム測定で、ドーベルはマイルから短距離において素晴らしい結果を出した」

「それが何……一番重要だった長距離のタイムは、目も当てられないザマだったじゃん」

「ああ。でも、この三つは全然違う。まだデビューしていない状態にも関わらず、中距離に至ってはその走破タイムがメイクデビューの基準を大きく上回ってすらいた。これは才能だけで出せる結果じゃない。血の滲むようなドーベルの努力が反映されていた数字だ」

 

 もしドーベルが本当に天皇賞(春)の制覇を最終目標に掲げていたのであれば、短距離から中距離にかけての脅威的な記録が生まれることは無かったはずだ。

 

「なぁ、ドーベル。本当はもしかして……」

 

 そして、それらの情報から導き出される結論はただ一つ。

 

 

 

 

 

「──天皇賞(春)を制覇する以外に……どうしても叶えたい、()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 

 

 

 

 メジロドーベルが想い描いた大切な夢は、偉大な悲願の中に存在しないということ。

 

「…………」

 

 俺はドーベルから言葉が返ってくるまでの瞬間を、ただひたすら待ち続ける。

 

 この沈黙はきっと、彼女が自身の気持ちを整理するために設けた、大事な時間だと思ったから。

 

「……………………はぁ」

 

 しばらく続いた沈黙の末、ドーベルは一際大きなため息をこぼしてスタンドの柵へと力無くもたれかかった。

 

「……夢とかそんな、たいそうなものじゃない。アタシはただ、誰かに認めて欲しかっただけ」

 

 そして、ドーベルは観念したかのようにぽつり、ぽつりと、自身が秘めていた内面を打ち明ける。

 

「アタシに長距離を走る適性が無いことは、ずっと前から分かってた。だったらせめて、自分の得意な距離を走っておばあ様達の期待に応えたい。そう思って必死に努力してきたけど……結局、誰もアタシのことを見てはくれなかった」

 

 切実な過去を告白するドーベルの悲痛な声に、俺は静かに耳を傾ける。

 

「誰からも期待されなくて、誰からも認めてもらえなくて、みんなを見返す機会すら与えてもらえなくて……そんな時、マックイーンが繁靭帯炎を発症して、レースに出れるような状態じゃなくなった」

 

 これまで一族から悲願達成の期待を注がれ続けてきたメジロマックイーンが、予後不良に等しい故障を患い、引退同然とも言える長期療養に入ってしまった。

 

 となると、マックイーンが背負い続けた一族の使命は、必然的に後進のウマ娘達へと引き継がれていくことになる。

 

「その時初めて、みんながアタシに期待の眼差しを向けてくれた。でも本当は妹のブライトが本命で……アタシはただのおまけに過ぎないんだって、分かっていたんだけどね。それでも、嬉しかった」

 

 その矛先の一つに立っていたのが、彼女の姉であるメジロドーベルだったのだろう。

 

「だからアタシは、その期待に応えたいと思った。春の天皇賞に勝ってみんながアタシを認めてくれれば、アタシは憧れのウマ娘みたいに……なりたい自分に、なれると思った」

 

 ドーベルの赤裸々な告白を聞いて……その瞬間、俺はようやく彼女という存在の本質を垣間見ることが出来たような気がした。

 

「それが、天皇賞(春)にこだわる理由…………これで満足?」

「……ああ、ありがとう」

 

 最後に投げやりな言葉をぶつけられて、ドーベルとの話し合いは終了した。

 

 そして先ほどホームストレッチに突入してきたばかりのバ群は既に、第二コーナーの手前を通過し始めている。

 

 もうすぐレースは向正面へと進み、二周目の淀の坂に差し掛かろうとしていた。

 

 

 

***

 

 

 

『──こう着した状態が続くレースは間もなく、第二コーナーを抜けて向正面へと突入していきます』

 

 メジロマックイーンが最後方からのレースを選択し、波乱の幕開けとなった天皇賞(春)。

 

 コース全体が水浸しとなった不良バ場の影響で超スローペースとなった展開に、向正面序盤でわずかに動きがあった。

 

 これまで六番手につけていた無敗の二冠ウマ娘──トウカイテイオーがいつの間にか順位を二つ押し上げ、四番手の位置を走っている。

 

 進路をバ群の外めに持ち出したことでこの瞬間、トウカイテイオーはいつでもハナを奪える好位につけたと見て良いだろう。

 

 その他のウマ娘達も最終直線へ向けて続々と準備を始め、向正面を進みながら虎視眈々と仕掛けどころを窺っている様子であった。

 

『しんがりを務めるメジロマックイーンは依然として最後方に……いやっ、ここでメジロマックイーンに動きがあった! 進路を外へ持ち出して、向正面中間から先団を目指してスパートを仕掛けていきます!!』

 

 そしてそれは、メジロマックイーンも同様である。

 

 マックイーンによる掟破りのロングスパートを目の当たりにした大観衆が、一際大きな歓声を上げて会場を沸かす。

 

「……こんな場所からスパートを仕掛けて、大丈夫なの?」

 

 ドーベルが強烈な追い込みに打って出たマックイーンを心配するのは無理もない。

 

 何故なら、マックイーンがスパートを仕掛けた場所から栄光のゴールまで、まだ千百メートル近い距離が残っている。

 

「マックイーンが持つ一番の武器は、長距離を走ることに特化した無尽蔵なスタミナだ。序盤から好位につけて戦うことが理想だけど、今回のような脚質を選択した場合、彼女は大きくスタミナを余すことになってしまう」

 

 追い込みという選択肢は、マックイーンがレースへ出走するために生み出された苦肉の策に他ならない。

 

 だが決して……苦し紛れの作戦だからといって、マックイーンが()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 終始レース展開を支配して好位から一気に抜け出す先行スタイルが、メジロマックイーンの一番の武器であることは事実。

 

 しかし、その作戦を実践できているのは、彼女の”無尽蔵なスタミナ”という強靭な基盤が根本にあってこそ。

 

 今回の作戦は、その基盤を別の形に組み替えて応用しただけに過ぎない。

 

「最後方の位置からメジロマックイーンの本質を活かそうとすれば、この距離からロングスパートを仕掛けるのが最善だ。彼女の無尽蔵なスタミナがあれば、絶対に届く」

 

 これは、様々な要因を加味した上で俺の”体質”が導き出した一つの結論であった。

 

『すごい脚だっ、凄まじい脚だッ! 不良バ場をものともしない強烈な勢いで順位を押し上げ、メジロマックイーンが猛然と先頭に飛びついていきますッ!!」

 

 当然、ロングスパートを仕掛けることに対する身体的なリスクは大きい。それでも競走相手からの干渉がもたらす負担と比較すれば、全然マシな選択肢である。

 

 マックイーンはバ群最後方から瞬く間に順位を押し上げて中団へ浮上。二周目の向正面終盤に差し掛かった頃には、一気に六番手までのし上がっていた。

 

「マックイーン、もしかしてこれ……本当に、いけるんじゃ……?」

 

 逆境を容易く跳ね除けるようなマックイーンの追い上げに、会場のボルテージが指数関数的に上昇して熱狂の渦を巻き起こしていく。

 

 一年半ぶりの復帰戦という劣勢をまるで感じさせないマックイーンの走りを前に、興奮する心の奥底で誰もが思った。

 

 

 

──もしかしたら彼女は、()()を起こしてしまうのではないか。

 

 

 

 約一年半の空白を挟んだウマ娘が春の王者に君臨するという、偉業を成し遂げてしまうのではないか。

 

 

 

 俺達は今、偉大な歴史が刻まれる瞬間の目撃者になろうとしているのではないか。

 

 

 

 そんな予感をひしひしと肌で感じている間にも、マックイーンはさらに速度と順位を押し上げて、五番手の位置につくウマ娘を追い抜かしていた。

 

 

 

 捲土重来の如き勢いで猛攻に打って出た彼女を前に、もはやその予感を疑うものは誰一人として存在しなかった。

 

 

 

 メジロマックイーンは、奇跡を起こすかもしれない。

 

 

 

 かつての消えた"名優"が、最高の晴れ舞台で復活劇の主役を飾るかもしれない。

 

 

 

『そしてついにッ! 最後方からスパートを仕掛けたメジロマックイーンが、トウカイテイオーの隣に並び立ったッ!!』

 

 

 

 再発率が八割を超える”不治の病”を乗り越えて、マックイーンは今この瞬間のために、綱渡りのようなトレーニングを続けてきた。

 

 

 

 抱えきれない未練に苦しむマックイーンを決死の覚悟で導いて、俺はもう一度彼女を晴れ舞台へと送り出すことが出来た。

 

 

 

 手の施しようが無い、絶望という言葉で表現するのが生ぬるい状況を突き付けられても、マックイーンは決して諦めなかった。

 

 

 

 そんな彼女の弛みない歩みの果てに、ついに報われる瞬間が訪れたのだ。

 

 

 

 このまま行ってしまえ。

 

 

 

 この世界に忘れてきた大切な夢を、自分の足で取り戻して来い。

 

 

 

 マックイーンの走りに魅了された大観衆と共に、俺は懸命に夢へ駆ける彼女にエールを送る。

 

 

 

 そしてついに、第三コーナー手前でバ群のハナに食らいつこうとした瞬間……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──先頭を目指して突き進んでいたマックイーンの身体が、()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………………………ぇ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのあまりにも不自然な挙動を目にして…………俺は、悟った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マックイーンの左脚に眠っていた、悍ましい病魔が……目を覚してしまったのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『……っ、ぁ、──』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 熱狂の渦に包まれた歓喜の瞬間が……一転。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『──まっ、マックイーンにアクシデント発生っ! 懸命な追い上げを見せたメジロマックイーンがっ、左脚を庇いながら大きく後退していきます……ッ!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あまりに救いようのない凄惨な結末に、誰もが目を覆い隠して、あちこちから絶望的な末路を想起させる悲鳴が飛び交う。

 

 

 

 

 

 

 

 綱渡りのようなトレーニングを奇跡的に乗り越え、晴れ舞台へと舞い戻ったメジロマックイーン。

 

 

 

 

 

 

 

 だが、しかし。

 

 

 

 

 

 

 

 マックイーンの身体は俺の想像以上に……限界だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 左脚を庇い、マックイーンは苦悶の表情を浮かべながら歯を食いしばって、バ群の後方へと沈んでいく。

 

 

 

 

 

 

 

 悲惨な未来が待ち受けるメジロマックイーンに、唯一の救いがあったとするならば。

 

 

 

 

 

 

 

 速度を落としながら後退していく間に、他のウマ娘を誰一人として巻き込むことが無かったということだろうか。

 

 

 

 

 

 

 ロングスパートを仕掛け、時速七十キロを突破した状態で走行していたマックイーンは、左脚を庇って重心が大きく傾いた状態にも関わらず、懸命に減速を図っていた。

 

 

 

 

 

 

 しかし、それでも……。

 

 

 

 

 

 

 

『──……っ、………………ッ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 水浸しになった不良バ場に足を奪われて、()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 観客席からありありと確認出来るほど天高く巻き上げられた泥しぶきが、その転倒事故の凄惨さを痛切に物語る。

 

 

 

 

 

 

 

「…………………………………………ぇ?」

 

 

 

 

 

 

 

 奇跡の復活劇を予感し、誰しもが期待に胸を高鳴らせた矢先の……あまりに唐突過ぎる”名優”の最期。

 

 

 

 

 

 

 

 歓喜の瞬間に包まれていた京都レース場全体が動揺し、重すぎる沈黙が会場内を支配する。

 

 

 

 

 

 

 

 メジロマックイーンは……夢の旅路を駆け抜ける半で、終わってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 絶望的な未来の景色が、レースを目撃していた人々の脳裏に浮かび上がる。

 

 

 

 

 

 

 

 窒息するような沈黙が否応なしに最悪の結末を想起させ……もはや誰もが復活劇から目を背け、この場に佇む全員が"名優"の終幕を覚悟した。

 

 

 

 

 

 

 

 それでもまだ、沈黙の中でもレースは続く。

 

 

 

 

 

 

 

 向正面序盤でバ群の好位に持ち出していたトウカイテイオーが、第三コーナー突入直後に順位を押し上げる。

 

 後続のウマ娘達も不測の事態に動揺こそしたものの、既に気持ちを切り替えて仕掛けどころを見極める段階へと移っていた。

 

 縦長だったバ群がやがて一つの大きな塊となり、第三、四コーナーにかけての長い斜面を下っていく。

 

 歓声は上がらなかった。

 

 呆然とした沈黙が曇天のように重くのし掛かり、張り裂けそうな胸の痛みが非情な現実を突きつけてくる。

 

 彼女の最期を目撃してしまった者達はもれなく、抗いようのない”諦め”という感情に打ちひしがれた。

 

 この会場に居合わせた誰しもが諦めを受け入れ、目の前のレースから本能的に意識を背けてしまう。

 

 それは彼女の担当トレーナーである俺も例外では無く……呼び覚ましてはいけない類の何かから目を逸らして、必死に逃げていたように感じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──故に、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バ群のはるか後方から迫る、泥に塗れた小さな影。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天高く舞い上がった泥飛沫を切り裂いて駆け出す、満身創痍のウマ娘。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 絶望的な瞬間に立ち会った誰もが、一人残らず諦めることを受け入れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………………………ぇ、ぁ…………ぅそ……っ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だけど──幾度となく絶望を被り続けた()()()()()、決して諦めることを受け入れなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 沈黙が続く真っ暗闇な世界の中から、俺達は”星”のように輝く小さなきらめきを見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何度転んでも立ち上がり、度重なる不幸に打ちひしがれたとしても、決して夢を諦めない強かなウマ娘の姿を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 真正面から困難に立ち向かい、自らの足で逆境を跳ね除ける──”不屈の名優”の姿を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 絶望の中から希望を見出し、自らの力で奇跡を手繰り寄せる少女の勇姿を……俺達は、確かに見たんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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