向正面を駆け上がっていた身体が不自然に傾いた瞬間、私は悟った。
……これはきっと、嘘つきな私に跳ね返ってきた報いだったのだ。
『──まっ、マックイーンにアクシデント発生っ! 懸命な追い上げを見せたメジロマックイーンがっ、左脚を庇いながら大きく後退していきます……ッ!!』
一族の期待を裏切り、ありったけの嘘と演技で自分を偽って。
残された可能性に縋ることが何を意味するのかを分かった上で、親切な彼を騙して。
大切な人達と交わした約束を散々裏切ってでも、強い自分であり続けることが正しいんだと言い聞かせ、壊れた心を慰め続けた。
……だって、仕方なかったのだ。
そうでもしないと、私はもう生きていくことなんて出来なかったから。
私の左脚に鋭く刺すような痛みがぶり返した瞬間……私は無意識に、隣を走っていたウマ娘に視線を向けた。
その刹那に垣間見た
少しずつ速度を落とすたびに、私と彼女の距離が大きく開いていく。
いつの間に、彼女の存在があんなにも遠いと感じるようになってしまったんだろう。
そのようなことを漠然と考えている内に、私はずるずると順位を落として行った。
その途中、私の朽ち果てていく姿を見た者達は総じて、瞳に動揺の色を浮かべていた。それとも、同情の色だったのだろうか。
残念だけど、これで私の夢は終わってしまった。
全速力で風を切って走ることは、もう二度と出来ないんだと悟った。
私は自身のスパートが生み出した速度を上手く殺しきれず、ついに傾いた重心が濡れた芝の上で滑り、体勢を大きく崩してしまった。
「……ぃ、……や、だ…………っ」
咄嗟に出たその言葉は、果たして何に対する拒絶だったのだろうか。
私の夢が終わってしまったことだろうか。
私を救ってくれたあの人への恩を、責任という仇で返してしまうことだろうか。
それとも……大切な人達と交わした約束を、全て台無しにしてしまったことだろうか。
──私を……おいて、いかないで…………っ。
多分、全部だと思う。
しかし、抵抗はすでに無意味だった。
私の身体は迫り来る衝撃に備えて
身体の主導権を手放してしまったことで、私にはなす術が無くなってしまう。
やがて居場所を失った私の意識は暗闇の中をさまよい、いつしか、とっくの昔に壊れてしまった心の中へと溶け込んだ。
…………。
……。
壊れた心の中で私が目にしたのは。
「…………」
膝を抱えて弱々しく泣きじゃくる、
彼女の左脚は痛ましい包帯に覆われていて……とてもではないが、芝の上を走れるような状態ではなかった。
怪我に苦しんでいた当時の私は、誰もいないところに隠れてよく泣いていたことを覚えている。
悲しみから心を守るように泣きじゃくる彼女の背中に、私は何か声を掛けてあげるべきだろう。
「…………」
抱えきれない未練に押し潰されている彼女へおくる言葉は、すらすらと私の心に浮かび上がってきた。
慰めの言葉をたくさん用意し、私は意を決して彼女の背中へと近づいていく。
……しかし、その時だった。
──え。
両膝に顔を埋めて泣いていた女の子がふと、顔を上げたのだ。
すると女の子は止めどなく溢れる涙を両腕で拭い払って、近くに落ちていた松葉杖を取るために身を捩った。
そのあまりに無様で滑稽な姿を前にして、私は彼女へ届ける言葉を失ってしまった。
女の子は慣れない様子で松葉杖を両脇に挟むと、たどたどしい足取りで私の真横を通り過ぎていく。
「…………」
その瞬間、私は確かに見たのだ。
絶望のどん底に突き落とされて、途方もない真っ暗闇の中を一人で歩いていく女の子の瞳に宿った──強かな決意の光を。
壊れた心の中にいた
松葉杖をつきながら暗闇の中を進んでいく私の背中を見て、胸の奥に何かが染み渡るような感情を覚えた。
ぼろぼろになった心の中で、私は愚直なほどひたすらに夢を追いかけ続けていたのだ。
歩き疲れたらさっきのように立ち止まって、元気になったら先の見えない未来を信じてまた歩く。
「…………」
段々と遠ざかっていく彼女の背中姿を見届けて、私は切に祈る。
辛い現実や悲しい気持ちを乗り越えて進んだ先に待つ景色が、どうか素敵なものでありますように。
どんな困難に直面しても決してめげずに自分を信じる強い姿を見て……あぁ、と私は悟る。
──私にはやっぱり、夢を諦めることなんて出来なかった。
***
衝撃に備えて意識を手放してしまったが故に──。
その行動を引き起こしたのは、私の意志ではなかった。
「──」
宙へと投げ出された身体の主導権を奪い取ったのはきっと……骨の髄まで染み込んだ夢への未練と、私の壊れた心の奥底で燻り続けた──その本質を共にする■■■■■。
速度を殺しきれずに身体が地面へと叩きつけられる寸前、
「──ッ!!」
手前に畳んだ右腕を出して地面との間隔を測り、衝撃が全身に襲いかかるその瞬間を見極める。
右腕が地面の感触を掴んだ刹那。限界まで背中を丸めた状態で回転する全身に衝撃を巡らせ、残った腕と脚を駆使して芝を思いっきり叩きつけるように蹴り上げる。
力加減を一切しなかったことで柔らかい芝が豪快に抉れ、周囲一帯を浸していた泥水が爆発するように舞い上がった。
全身を強く打撲しながらも、四肢で芝を蹴り上げた勢いとその衝撃で、私の身体は再び空中と投げ出される。
身体の主導権を牛耳る
平衡感覚の維持を司る耳と尻尾を駆使して投げ出された身体を即座に立て直し、着地のタイミングを極限まで見計らって利き足で芝を踏み締める。
しかし、一度の受け身で体勢を立て直すには至らず、私の全身は再び激しい衝撃を経験した。
まるで本能に突き動かされるように、私の身体がすかさず二度目の受け身を取る体勢を作り出す。
その過程で全身が泥に塗れ、片方の視界が激しく霞んだ。
痛覚が途絶えているせいで、身体の状態がどうなっているのかはよく分からない。
でも、動いているからきっと大丈夫。
そして、三度目の受け身によって身体が投げ出された状態で、私の利き足がついに芝の感触を掴んだ。
複数回の受け身によって減速したスピードと、芝を蹴り上げる利き足の力が、まるで歯車が噛み合うかのようにピッタリと重なった。
私は、身体が前へと倒れる寸前にすかさず
再び覚醒した私の意識はついに、置き去りにされたバ群の背中を視界に捉えた。
人間離れしたウマ娘の運動神経を極限まで引き出したことで、私はこの瞬間、一つの窮地を脱出する。
しかし私はそれでもまだ、絶望の渦から抜け出すことなど出来ていない。
向正面終盤から再度追い込みを図った時点で、大きな塊となったバ群の既に第三コーナーへと突入している。
絶望という言葉で表現するのが生ぬるい状況で、それでもその中から希望を見出そうとするのなら……。
尋常でない速度が出た状態で受け身を成功させたことによって、私とバ群の距離がまだまだ捲れる範囲に収まっているということ。
突然の事態に皆が動揺し、レース展開がわずかに遅れたということ。
中盤まで可能な限りスタミナを温存していたことで、脚にはまだまだ余力が残っているということ。
私が元々、道悪のバ場を得意としていること。
私の身体を蝕む病魔が物理的な骨折ではなく、”不治の病”と恐れられている──繁靭帯炎であるということ。
そして何より、
──私が、
苦難はひたすらに私を襲う。
幾度となく失意のどん底に突き落とされ、度重なる不幸に散々打ちひしがれてきた。
たくさん転んで、膝を抱えて涙を流して……それでも私は前を向き続けてきた。
私が絶望的な窮地に立たされているのだとしても、それは山のように降り積もった不幸のほんの一部に過ぎない。
どれだけ限界だと感じても……私にはまだ、前へと進むチャンスがある。
どれだけ辛いと嘆いても……進んだ先には叶えたかった夢がある。
たとえ、振り出しまで引きずり落とされてしまったとしても。
たとえ、運命のいたずらに惑わされてしまったとしても。
「──もう一度、
私は絶対に──
***
──奇跡、という言葉を意味を問われたら。
『いっ、一体何が起こっているのでしょうか……っ』
今のアタシは間違いなく、”
『マックイーンは……っ、向正面で悲劇に見舞われたメジロマックイーンはまだ……ッ!』
バ群のはるか後方から猛然と迫る、泥まみれの勝負服をはためかせたウマ娘。
力強く芝を踏みしめる足音はまるで、烈々と打ち鳴らした心臓の鼓動のよう。
お世辞にも優雅とは言えないがむしゃらな走りは、自らの意志で仮面を投げ捨てた”名優”の本質を映し出している。
『──まだっ、大丈夫です……ッ!!!!!!』
目の前で巻き起こっている現実に、アタシの理解が追いつかない。
愕然とした沈黙が瞬く間に会場全体をのみ込んで、心の中をぐちゃぐちゃにかき乱す。
文字通り言葉を失った今のアタシに分かるのは、たった一つだけ。
──マックイーンが、走っている。
「…………ぅ、うそ……っ、そんな…………どう、して……っ」
彼女はレース中に疾患が再発し、転倒という最悪の幕引きで競走を中止したはずだ。
衝撃の激しさを物語るような泥しぶきが舞い上がる瞬間を見た。
地面に幾度となく身体を打ちつけるたびに、絶望的な泥しぶきにのみ込まれていく瞬間が網膜に焼き付いている。
それなのに、アタシの視界には歯を食いしばって懸命に走るマックイーンの姿が映っていた。
その不可思議な現象を説明しようとするならば……もはや、
『最後方から再びスパートを仕掛けるメジロマックイーンッ! しかし集団まではまだ、十バ身以上の差がある……ッ!!』
向正面から再度強烈な追い上げを見せるマックイーンだが、大きな塊となったバ群は彼女のはるか先を進んでいる。
序盤に温存していた末脚があるといえど、奇跡を起こした代償で彼女の身体はもうぼろぼろだ。
第三コーナー手前で生じた大差をひっくり返すことなど……どう考えても、出来るはずがない。
いくら長距離レースといえど、史上最悪とも言えるバ場状態の影響で生み出されたスローペースが、先行するウマ娘達に少なからず脚を残させている。
不思議と歓声は上がらなかった。
誰もがアタシと同じように手のひらを握りしめて、孤独にひた走る彼女の姿をただただ見ていることしか出来なかった。
『メジロマックイーンが懸命に追いかけるも、バ群の背中はまだまだ果てしないッ!!』
マックイーンは諦めない。
たとえ前との差が思うように縮まらなくても、彼女は全力でゴールを目指して走っている。
「…………なんで」
アタシの知るメジロマックイーンは常に華麗で、優雅な姿勢を貫き、完璧な存在であることを心に刻んでいた。
しかし、今のマックイーンはどうだろう。
ボロボロの勝負服の上から全身に泥を浴びて、優雅とは到底思えないような不恰好な走りで、完璧には程遠い姿を曝け出してでも……不屈の心に底知れない執念を灯して、彼女はひたすらに足掻いている。
『ここでハナを奪ったトウカイテイオーが第四コーナーを大きく回って最終直線へ! 一足先に抜け出した彼女に続いて、後続のウマ娘達も勝負を仕掛けに行くッ!!』
マックイーンの姉であるアタシだって、必死に足掻いてきたはずだった。
「…………」
才能がなくて、誰からも期待されなくて、落ちこぼれて……それでもアタシは誰かに認めて欲しくて、褒めて欲しくて、見て欲しくて。
アタシは必死に努力してきた。
一族の期待を一身に背負ったマックイーンと同じくらい、頑張って生きてきた。
それでも、常に評価されてきたのは妹の方で……アタシの努力は、”適性”や才能”といったありふれた言葉一つで簡単に掃き捨てられてしまった。
一体何が違うんだって、アタシはずっと妹に嫉妬していた。
羨ましかった。
頑張りを褒めてもらえる姿があまりにも眩しくて……ただただ、ずるいと思っていた。
アタシがマックイーンと接している時、その裏では常に煮えたぎるような嫉妬心と葛藤していた。
「…………」
……でも、それはお門違いだった。
底知れない執念を宿してターフの世界を駆け抜けるマックイーンを見つめて、アタシは気付く。
どうしてアタシ達の一族が、メジロマックイーンに悲願の成就を託したのか。
どうして日本中の人々が、メジロマックイーンに対してたくさんの期待を寄せていたのか。
彼らが見ていたのは、彼女の中に眠る”才能”では無かったのだ。
彼らが見ていたのは、おばあ様達が見抜いていたのは……。
──絶対に諦めないという不屈の心をその身に宿した、メジロマックイーンの
表面的な実力差や世間の評価に囚われて、アタシは根本的な部分を見落としていた。
みんな、メジロマックイーンというウマ娘が生涯を通して貫いてきた──その
……あぁ。
そのことに気付いた瞬間。
アタシはもう、がむしゃらに走るマックイーンの姿から目が離せなくなっていた。
こんなにすごい在り方を堂々と見せつけられて、嫉妬なんて出来るはずがない。
……あぁ。
なんて、かっこいいんだろう。
どんな困難に直面しても、マックイーンは前を向いて突き進む。
その在り方に人々が惹かれ、その本質に多くのウマ娘が憧れを抱き、その走りを見ている者達に無限の勇気を届ける。
絶望の中から一握りの希望を見出し、わずかな可能性を信じてひた走る。
だから、マックイーンはその足で再び──とんでもない奇跡を巻き起こすのだ。
バ群から十バ身以上の大差をつけられた状態で突入した、第四コーナー。
極限まで荒れた内ラチを避けるために、集団が揃って遠回りの進路を選択したその瞬間──。
マックイーンはただ一人、何の躊躇いもなく──
『──ッ!?』
道悪なバ場をものともしない豪脚に、沈黙の中から彼女の走りを見守る全員が度肝を抜かれた。
ガラ空きになった内ラチの芝を泥しぶきと共に豪快に巻き上げながら、メジロマックイーンが突貫する。
その迷いの無い進路取りはまるで、一瞬の隙をはなから狙い澄ましていたかのようであった。
第四コーナーから最終直線へと至る刹那の間に、マックイーンは十バ身以上の差を嘘のように縮めてバ群の好位へと食らいつく。
だがしかし、一足先にバ群から抜け出していたトウカイテイオーは、残り四百メートルの時点で集団から五バ身以上先を進んでいた。
他のウマ娘達も消耗しているとはいえ、マックイーンの脚はきっともう限界だ。
あの絶望的な窮地を乗り越え、目も背けたくなるようなロスを帳消しにしたのだから。
それだけでも、十分奇跡だといえる。
しかし、それ程の奇跡を目の当たりにしたとしても、会場を曇天のように覆う沈黙は続いている。
「…………れ」
アタシの握りこぶしに、血が滲むくらいの力がこもった。
トウカイテイオーの背中は果てしなく遠い。
「…………ば……れ」
残り三百メートルを通過して、マックイーンは未だバ群の中。
圧倒的なスタミナを誇るマックイーンといえど、懸命に歯を食いしばる彼女の表情には限界の色が浮かび上がろうとしている。
「…………ッ!」
荒ぶる心臓の鼓動に駆り立てられるように、アタシはスタンドの柵から
普段は人前に出るのが苦手で、目立つことを極端に避けながら生きてきた。
それはもはやアタシの根本に染みついてしまった恐怖心であり、今更どうすることも出来ない。
だけどアタシは今、沈黙が帯びるスタンドの柵から身体を突き出し、あろうことか不特定多数の視線に自らの意思で晒されながら大きく息を吸っている。
他人の視線が苦手とか、注目されるのが怖いとか……そうやって、思わないわけでは無いけれど。
今はそんなことより、アタシは彼女にどうしても伝えたい言葉があったのだ。
世界一かっこいいウマ娘の晴れ舞台を、沈黙なんかで終わらせないために。
一生懸命走る妹の背中を、姉として精いっぱい押してあげるために。
決して絶望に屈しない”名優”の限界を、取っ払ってあげるために。
アタシは込み上げてくる感情の赴くままに──声を張り上げてひたすらに叫ぶ。
「──頑張れぇええええええええッ!!!! マックイーンンンンンンンン──ッ!!!!!!」
アタシのちっぽけな声援が、マックイーンに届いているのかは分からない。
極限の集中状態に突入しているマックイーンには、アタシの声なんてきっと聞こえていないと思う。
それでも良い。他人のことなんか気にしないで、マックイーンには自分の夢を叶えるためだけに走ってほしい。
会場内を覆い尽くしていた沈黙をかき消して、アタシはただひたすらにマックイーンへと声援を届ける。
その一声に呼応するように人々は喧騒を取り戻し、再び地鳴りのような歓声を巻き上げてウマ娘達を迎え入れる。
熱狂的な大観衆の声援にかき消され、もはや、アタシの応援は意味を成さないだろう。
それでも構わない。だって、アタシは誰よりも近くでマックイーンの姿を見つめて……気付いたのだから。
──奇跡はまだまだ、終わってなんかいなかった。