初めて彼女と共に走った時も、私の前にはこうして彼女の背中があった。
チーム・スピカへの加入を渋る私を強引に連れ回して、彼女は堅物の私を青春の世界へと引きずり込んだ。
勝気な態度と生意気な言動が目立つ彼女だったけれど……走ることに関しては、常に背中で語るウマ娘だった。
天才的な素質で他を圧倒し、弛まぬ努力の積み重ねによって、夢の実現まであと一歩というところまで迫った強かなウマ娘だった。
そんな彼女の背中を追いかけ続け、唯一無二のライバルであると認められた瞬間は、言葉では到底表現出来ないような喜びがあった。
短くも濃厚な青春をライバルとして共に駆け抜け、苦楽を共にした末に抱いた彼女への感情は……底知れない後悔だった。
──諦めちゃったの?
嘘で塗りたくった仮面越しに見た、彼女の悲しみに暮れた表情が忘れられない。
仕方無いんだと自分を正当化して彼女を騙し、それを真正面から受け止めた友達の顔が脳裏に焼き付いて離れない。
「…………っ」
波乱の展開が立て続けに巻き起こる天皇賞(春)は、早くも最終直線を残すのみ。
はるか五バ身先を進む彼女の背中を、バ群の中から私は見つめる。
……あぁ。
私達は常に肩を並べて走ってきたライバルだったのに、今では彼女の背中があまりにも遠いと感じてしまう。
沈黙に包まれた世界を走っていると、研ぎ澄まされた私の五感が色々なものを無意識にとらえてくる。
──私の研ぎ澄まされた聴覚が、後悔と罪悪感に苛まれる心の声を聞き取った。
ごめんなさいと、涙ながらに謝り続ける私の声が聞こえた。
私に期待し、可能性を示してくれたおばあ様に謝りたかった。
無条件の信頼を仇で返してしまったにも関わらず、再び私に手を差し伸べてくれたあの人に謝りたかった。
私をライバルと認め、共に育んできた友情を裏切ってしまった彼女に謝りたかった。
──私の研ぎ澄まされた味覚が、口の中を刺激する鉄の味を感じ取った。
激しい転倒を経験し、私の身体はすでに泥まみれ、擦り傷まみれの満身創痍であった。
全身を強烈な衝撃で打撲し、不治の病が再発してしまったと自覚してもなおレースを続けられているのは……きっと、痛みを忘れてしまうくらい
その奇跡の代償があとで跳ね返ってくると思うと、ちょっとだけ怖い気もする。
──私の研ぎ澄まされた触覚が、鈍い風を逆撫でるような不快感を主張した。
スタミナに自信がある私といえど、あれ程のロスを経た状態ではさすがに限界が近い。
生ぬるいそよ風が、いつしか心にぽっかりと空いた穴の隙間を吹き抜ける。
──私の研ぎ澄まされた嗅覚が、自身の置かれた現状を冷静に分析した。
極限まで荒れた第四コーナーの最内を突くことで、私は十バ身以上という絶望的な差を埋めることに成功した。
だがしかし、バ群に飲まれる現状においては内側の進路を選択したことが逆に仇となり、末脚の伸びに拍車をかけることが出来ない状況に追い込まれている。
もう少し進路を外に持ち出してからでなければ、先頭を進む彼女を捉えることは出来ない。
でもその展開は残念ながら、一杯になりかけている隣のウマ娘が邪魔で実行することは難しい。
ひたすらに焦りが募る。末脚に限界が近い状態では、どうしても進路を外側へ変更しなければならない。
天皇賞(春)に決着がつくまで、残り三百五十メートル。まだ、外側は開かない。
……万事休す、か。
最強の彼女を躱すためには、少しでも外目から攻め上がる必要がある。だから今は、ひたすら好機を窺うしかない。
残り、三百三十五メートル。
残り、三百二十メートル。
……残り、三百メートル。
外は…………まだ、開かない。
(…………く、うぅ……っ)
敗北という絶望的な未来が脳裏をよぎり、あまりの恐怖に目尻から涙がこぼれ落ちる。
(…………まだ……あきら、めない)
瞳を濡らす水滴を、私の脳裏にまとわりついた恐怖と共に右腕で拭い払う。
(まだ、諦めない…………っ。諦めない、諦めないあきらめないあきらめないっ!)
止めどなく溢れてくる雫を、今度は左腕で拭い取る。涙の代わりに泥が付いた。それを一緒に落とそうとして、さらに顔が泥で汚れる。
それでも、私は諦めない。
レースはまだ終わっていない。
だから私は下を向かない。
突きつけられた絶望にめげてはいけない。
だから私は、ただひたすらに前を向く。
その瞬間。
私はこの目で……確かに見た。
──私の研ぎ澄まされた視覚が、沈黙のスタンドから
そのウマ娘の姿には心当たりがある。
──メジロドーベル。
人前に出ることが苦手で、目立つような言動を極端に嫌うウマ娘。
そして……私の使命を押し付けてしまった、血の繋がりを持つ姉妹である。
そんな彼女が一体どうして、自ら注目を浴びるような行為に乗り出したのか。
そんな疑問を思い浮かべる前に、ドーベルは沈黙を切り裂くような大声で私に言ったのだ。
──頑張れ、マックイーン。
自身の荒ぶる息遣いとがむしゃらな足音だけが響く世界に、彼女の声がじんわりと染み込んでいくような感覚だった。
周囲の視線を気にすることなく声援を送り続けるドーベルを見て……私は少し安心した。
大きなコンプレックスを長年抱え、周囲から突然手のひらを返すように期待の眼差しを向けられたドーベルのことが、私はずっと心配だった。
ドーベルは常に妹の私と比較され、その度に苦しい思いを強いられてきたことは知っている。
姉妹としてドーベルの力になってあげたい気持ちはあったけれど、その同情が彼女を余計に苦しめてしまうことは目に見えていた。
だから私はずっと、彼女の問題に対してさりげなく気にかける程度に留めていた。
……でも。
あの様子だともう、私がドーベルのことを心配する必要は無いだろう。
ドーベルは自分自身でコンプレックスの殻に亀裂を入れた。それは彼女にとって、あまりにも大きな成長だ。
頑張れ、頑張れって……そんなに何度も言わなくたって、ちゃんと声は届いているのに。
──頑張って下さいっ! マックイーンさんっ!
沈黙を食い破るドーベルの声援に連なるように、チームメイトのサトノさんが声を張り上げた。
サトノさんは、かつて”名優”であったメジロマックイーンに対して強い憧れを抱いてくれていたウマ娘だ。
トレセン学園に入学を果たし、後輩という関係になった彼女に対しても……私は嘘の仮面を被って接し続けていた。
罪悪感はあった。それでも私はもう、後に引くことなんて出来なくて……。
全ての魂胆が明るみになり、何もかもを捨てて逃げ出した弱い私を……サトノさんは、一緒に頑張ろうと励ましてくれた。
罪悪感に苛まれる弱い私に……心の優しいサトノさんは、一緒に恩返しをしようと提案してくれた。
その約束に、私が一体どれほど救われたことか。
──マックイーン。
ドーベルと一緒にスタンドから身を乗り出し、彼女と共に沈黙を吹き飛ばす声量で私の名前を叫ぶ──あの人の姿を見た。
あの人は、”不治の病”に苦しむ私に残された最後の可能性だった。
教え子の喪失に傷心した彼をこの世界に引きずり戻してしまった後悔と罪悪感は、私の心に永遠と刻まれ、生涯消えることはないだろう。
抱えきれない未練に追われる私に手を差し伸べ、あの人は嘘つきな私を受け入れてくれた。
ウマ娘としての存在価値を無くし、壊れた心を守るだけで精いっぱいだった弱い私を助け、無条件の信頼を注いで導いてくれた。
そして、
──走れ。
あの人は足を失ったちっぽけな私に……もう一度夢へ挑むための、
あの人からもらった宝物のような言葉の数々は、壊れた心の中に残った本当の私が、絶対に忘れないようにと大切に抱きしめてくれている。
ありがとうございます。
本当に、ありがとうございます。
(……あぁ。私はなんて……なんて、
ドーベルの声援が、限界だと感じていた私の足をさらに先へと突き動かす。
サトノさんの優しさが、満身創痍な私の身体を癒すように染み渡る。
あの人の差し伸べてくれた手が、夢へと駆ける私の背中を押してくれる。
「………………っ」
喧騒を取り戻した大観衆の歓声に迎えられ、私はバ群の中で一度大きく息を入れた。
春の王者が君臨する瞬間まで、残り二百五十メートル。その時間にして──約十七秒。
追いかけ続けた彼女の背中はまだ遠い。
それでも私は今、彼女と同じ舞台に上がって、彼女と共に夢の続きを見ようとしている。
私は決して俯かない。だって、前を見ていないとその瞬間を逃してしまうから。
荒れた息遣いを整えながら、私はひたすら好機を待つ。
その途中、孤独にひた走る彼女の背中が、心の声をぽとりと落として私に訴えかけてきた。
──”ついて来てよ”、って。
いつか見た光景が、私の脳裏に鮮やかに蘇る。私は内心で静かに微笑んで、そしてついに……。
──その瞬間は、やってくる。
バ群の中で外側を併走するウマ娘が一杯になり、後方へと垂れていく。
栄光のゴールまで、残り二百メートル。この好機を──私は決して逃さない。
「──ッ!!」
大きく息を止めて間を割り、限界を振り絞って私は駆ける。
『──ッ!! 残り二百メートルでメジロマックイーンが勝負に出たッ!!!! バ群を彼方へ置き去りにして、メジロマックイーンが不屈のラストスパートッ!!!!!!』
……あぁ。
私はこの瞬間を、どれほど待ち望んでいただろうか。
(……トレーナーさん。本当に、ありがとうございます)
あなたが手を差し伸べてくれたから、今の私はここにいる。
──良いかい、マックイーン。
彼女の背中を追いかける途中、あの人がくれた宝物のような言葉の数々が、私の心の中で走馬灯のように蘇る。
──君はもう、自分のことだけを考えて走れば良い。
あの人の言葉が繰り返されるたびに、私の心から無限の力が湧き上がってくる。
──自分のためだけに走って。
強い想いが脚の回転数を爆発的に引き上げて……私は、ずっと孤独に突き進んでいた彼女の背中をついに
──あの世界に忘れてきた大切な夢を。
先頭をひた走るウマ娘との距離は、残り二バ身。限界を超えて生み出されたラストスパートに想いを乗せて、私は最後に大きく息を吸い込んだ。
──もう一度、取り戻しにいくんだ。
そして、心に秘めたありったけの感情を込めて、私は叫ぶ。
「──トウカイテイオォオオオオオオオオオオーーーッ!!!!!!!!」
ねぇ、テイオー。
今更だけど……やっと、戻ってこれたよ。
約束したよね。
私がテイオーの夢を……
***
波乱の展開が巻き起こったトゥインクル・シリーズGⅠ重賞:天皇賞(春)。
晴れ舞台の幕が下りる瞬間に訪れたその沈黙はまるで、主役の凱旋を迎え入れる喝采の前触れ。
『は、春の王者に君臨したのは……っ』
五月一日、日曜日。
澄み渡る快晴のターフに立ち尽くすウマ娘の瞳から、一筋の雫が静かに頬を伝う。
その瞬間に立ち会ったものは皆、口を揃えてこう語るのだ。
『──”不屈の名優”、メジロマックイーンです!!!!!!』
俺達はその日──