今年もよろしくお願いいたします。
今後の更新に関してなのですが、申し訳ありません。リアルの都合でしばらく不定期になります。
XX:キタサンブラック3
かつて、”星”という異名で一世を風靡した世界的アイドルウマ娘──ミライが所属していたチーム・アルデバラン。
二年前に開催された凱旋門賞の悲劇、通称──”星の消失”と共に表舞台から姿を消した世界最強チームが突然、ひとりのウマ娘を引き連れて日本のトゥインクル・シリーズに凱旋した。
トゥインクル・シリーズでの活躍を夢見る年頃のあたし達は特に、ミライというウマ娘への憧れが最も顕著な世代であった。
日本中のウマ娘が”星”の輝きにあてられた。世界中の少女がミライの走りに魅せられた。
当然あたし──キタサンブラックも、ミライさんに魅了されたウマ娘のひとり。
チーム・アルデバランがレースの世界に戻ってきたという知らせを受けた瞬間、あたしは我を忘れるほどに歓喜した。
だってあたしは昔、ミライさんを育てたあの人と約束したんだから。
きっとあの人は、日本まで成長したあたしのことを迎えに来てくれたんだ。
そうに違いない。そうに決まってる。
逸る気持ちの赴くままに、あたしは阪神レース場のターフを一望出来る観覧席へと駆け込んだ。
数万人越えの大観衆が押し寄せる荒波のようなメインスタンドへ視線を巡らせ、あたしはあの人の面影と重なる人物を血眼になって探した。
観覧席とターフを隔てるガラス越しの世界から、あたしは食い入るようにあの人の痕跡を辿る。
「──っ」
それからしばらくして、歓喜と興奮の渦に包まれるスタンドを縦横無尽に駆け回るあたしの視線がピタリと止まった。
それはまるで、理屈では説明できない不思議な何かに導かれるような感覚であった。
胸の奥からこみ上げてくる抑えきれない熱が瞬く間に全身を巡り、あたしの心臓が手綱を引き裂いて暴れ出す。
その形容しがたい感覚に、強いて名前をつけるとするならば。
きっと……。
その感覚に明確な名前をつけてしまったら、きっとあたしは止まれなくなってしまう。
でも、自分の気持ちに愚直なまでに正直で、本能的な衝動を抑えられない自身のコンプレックスから、あの人はあたしの長所を見出してくれた。
数年前に交わした子供の頃の口約束だけれど、あたしにはミライさんから貰った耳飾りがある。
今は栗東寮の自室に眠っているけれど、それを渡せばきっと、あの人はあたしのことを思い出してくれるはずだ。
思い立ったら即行動。あたしは即座に踵を返し、衝動に駆られるようにその場から走り出そうとして……。
「……あ、ダイヤちゃ──」
あたしは、気付いた。
「………………………………ぇ……う、そ」
おぞましいほどの熱量に取り憑かれた今のあたしの、おめでたいほどの──盲目さに。
かつて、成長したあたしを迎えに行くと約束してくれたあの人の──正体に。
「………………………………なん、で?」
熱に浮かされた夢見がちなあたしは、あまりにも盲目だった。
過去の愛しい記憶に刻まれた面影を辿るあまり、目の前に広がる現実を直視出来ていなかった。
今だってそうだ。
数万人を超える大観衆の中からあの人の姿を見つけた。
だけどあたしが見つけたそれは、”思い出”というフィルター越しの世界から眺めた”あの人”という記憶の曖昧な面影に過ぎなかった。
思い出のフィルターを取り外し、全身が底冷えするような冷静さを取り戻した状態で、あたしは今一度目の前に広がる現実と向き合う。
ターフの世界で輝く新たな”星”の光に照らされて泣き崩れる、スーツ姿の男性。
そんな男性を優しく抱きしめ共に涙する、彼の担当ウマ娘。
そんな彼らの絆が固く結ばれる瞬間を呆然と見つめていると、何故だか突然、足腰に力が入らなくなってしまった。
その場にとすんと尻もちをつき、あたしは立ち上がる気力を失ってしまう。
そんな状態でも、釘付けにされたあたしの視線は相変わらずふたりを捉え続けていた。
心の中に沈殿した何かを根こそぎ吐き出すように泣きじゃくるスーツ姿の男性には、当然のように心当たりがある。
かつて、世界的アイドルウマ娘を育成し、ちっぽけなあたしに長所を見出してくれたひと。
……あたしの身勝手なわがままによって、心をぼろぼろに壊されてしまったひと。
そんな彼が再び立ち上がり、ひとりの担当ウマ娘を引き連れてターフの世界へと凱旋した。
あの人のぼろぼろになってしまった心へ寄り添うように勝利を捧げた彼の担当ウマ娘にも……あたしはもちろん、心当たりがある。
彼女の名前は──サトノダイヤモンド。
この世界に数多と存在するウマ娘の中からあの人が手を差し伸べた、大切なパートナー。
お門違いだと分かっていても、あたしは動揺を隠すことが出来ない。
あたしはあの人に選ばれなかった。彼の心を追い詰める元凶となったあたしには当然、選ばれる権利なんて残っているはずがなかった。
あの人が選んだ相手は。
あの人が手を差し伸べた相手は。
──あたしの一番大切な、親友の女の子だった。
***
誰もが予想だにしなかったチーム・アルデバランの凱旋劇に立ち会ったその後、どうやってトレセン学園へ帰ったのかは正直よく覚えていない。
呆然とした意識のまま何とか栗東寮へ戻り、あたしはさながら亡霊のような足取りで自室のベッドに倒れ伏した。
脳裏に焼き付いた衝撃的な光景がよぎるたびに、あたしは取り返しのつかない後悔に苛まれる。
いつの日だったか、互いの意見がぶつかり合って言い争いに発展した苦い記憶。
その中に出てくるトレーナーさんの姿が、今となっては愛しい記憶の中に存在していたあの人と重なってしまって仕方がない。
どうして気付けなかったのかと、あたしは過去の自分自身に問い詰めた。
どうして気付かなかったのかと、あの人の心を壊してしまった今の自分を捲し立てた。
なんで、どうして……なんて後悔を繰り返したところで、本当は分かっている。
「…………」
全部、夢見がちなあたしが招いた自業自得だった。
あたしはただの、世界的アイドルウマ娘に憧れを抱いた数多と存在するファンのひとりに過ぎず。
少しだけ特別なリップサービスを真に受けてしまった、本当に残念なウマ娘だったのだ。
あたしはその日、手遅れとなってしまった後悔に苛まれ続け、結局一睡もすることが出来ずに翌日を迎えてしまった。
「──、……ちゃん? ──っ」
翌日の学園は当然のように凱旋したチーム・アルデバランの話題で持ちきりで、注目の渦中にいるダイヤちゃんが登校してきた瞬間にクラスメイト達が彼女のことを取り囲んでいた。
あたしもその輪に入って色々と聞きたいことがあったけれど、ガラス越しに眺めた前日の景色が繰り返し脳裏をよぎり、快活が取り柄だったあたしの身体を鉛のように重くする。
それからあたしは散漫した注意力が原因で普段以上に多くのことをやらかし、その度に先生から注意を受けてしまった。
トレーニングの時だって、集中力を欠いて危うく転倒しかける瞬間が何度もあった。
「──ちゃんっ。キタちゃんっ!」
何をするにしてもどこか上の空で、全身がぼんやりとした浮遊感に包まれているような、お世辞にも心地良いとは言えない感覚。
……ほら、今だってそうだ。
「……わ、あわわっ!」
夏休みを利用した、チーム・スピカでの約二ヶ月に渡る長期間の夏合宿。
海岸沿いの長い砂浜を用いた往復ダッシュを終えた休憩時間、あたしはその一角に設けられたビーチパラソルの下で日差しを遮りながら膝を抱えていた。
さざなみの音を聞きながら物思いに耽っていると、ついつい周囲への気配りがおろそかになってしまう。
「すっ、すみませんテイオーさんっ……ちょっと、ぼーっとしてました」
声の持ち主をたどって視線をさまよわせると、あたしの頭上に見知った先輩ウマ娘の顔があった。
あたしと同じ学園指定の水着に身を包み、明朗快活な性格が魅力的なテイオーさんが、少しだけむすっとした表情でこちらを見下ろしている。
「もぉ、どうしちゃったのさキタちゃん。最近、よくぼーっとしてるけど」
テイオーさんはあたしにとって、昔から強い憧れを抱いているウマ娘のひとりだ。その熱量は、かつての世界的アイドルウマ娘に対するそれに勝るとも劣らないほど。
「夏合宿が始まってから一ヶ月くらい経ったけどさ。なんかキタちゃん、心ここにあらずって感じだよね?」
「え、ええっと……その…………」
六月末の出来事からあたしは後悔に囚われ続けており、そのことが原因で周囲に迷惑をかけてしまっていることは自覚していた。
でも、そんな簡単に割り切れるような問題でなければ、おいそれと他人に打ち明けられるような悩みでもなくて。
「何か、悩みごとでもあるの?」
そんなあたしの苦悩は当然というべきか、残念ながら周囲に筒抜けだった。
あたしのことを心配してくれたテイオーさんが、隣によいしょと腰を下ろす。
「な、悩みとかそんな、たいそうなものじゃないですよ! ちょっとトレーニングで疲れちゃって、ぼんやりしていただけですからっ」
あたしは取り繕った言い訳と共に、笑顔を作ってテイオーさんに返事をする。
「……そっか!」
少しの間を置いて、テイオーさんは納得したような笑みを返してくれた。
「まっ、何かあったら相談してよねー! 悩みごとの一つや二つ、このボクにかかればあっという間に解決しちゃうんだからさ!」
「それはとっても頼もしいです!」
あたしの知っているテイオーさんはいつも快活な笑顔を浮かべていて、彼女のそれから元気を貰うことも少なくない。
テイオーさんはすごいウマ娘だ。
無敗の二冠ウマ娘としてトゥインクル・シリーズにその名を轟かせ、不幸な故障を完全に乗り越え、破竹の勢いで春の天皇賞を制覇した経歴を有している。
昔はその背中にただただ憧れを抱くだけだったけれど……同じターフの世界に飛び込んでみて初めて分かった、彼女の強さ。
そんなテイオーさんと同じチームに所属出来ていることは、今更ながら、奇跡に近いんじゃないかなって思う。
そのことを自覚した瞬間。
「…………ぁ」
あたしはふと、至極当たり前のことを思い出した。
あたし──キタサンブラックは、チーム・スピカに所属しているウマ娘。
チーム・スピカの顧問を務める沖野トレーナーにその脚を評価され、トレセン学園において非常に人気のあるチームに籍を置かせてもらっているウマ娘だ。
そんな現状でこの悩みに心労を割くということは、あたしを選んでくれた沖野トレーナーに対していくらなんでも無礼が過ぎるのではないだろうか。
「……? どうかしたの?」
「い、いえっ! なんでもありません! たった今、悩みごとが吹き飛んだような気がします!」
「へぇ〜っ、そっか! これも、ボクが近くにいたおかげかな! にししっ」
あたしはすでに、実力のあるチームに所属しているウマ娘。
子供の頃の口約束や、昔の思い出を振り返って感傷に浸っている余裕なんて、今のあたしにはこれっぽっちも無い。
今は沖野トレーナーやテイオーさん達の元で実力を伸ばし、トゥインクル・シリーズで結果を残すことを最優先に考える。
そしていつかGⅠタイトルを獲得して、みんなから注目される立派なウマ娘になったら。
あの人だって、きっと……。
(……っ、いやいや、たった今割り切ったばっかりなのに……っ。あたしったら…………はぁ)
清々しい感覚を噛み締めていた矢先に込み上げてくる、どうしようもない自己嫌悪。
あたしの中に根付いた複雑な感情と折り合いをつけるには、もうしばらく時間が必要なようだ。
「……あ、そうだ。キタちゃん、今日の午後って何か予定ある?」
「午後ですか? 特にはありませんけど……」
「だったらさっ、街の方に遊びに行こうよ! 気分転換の意味も込めてさ!」
今日のトレーニングは午前中で終了するため、午後は完全にフリーの時間帯である。
本当は溜めこんでいた学園の課題を消化しようと考えていたけれど、先輩の気遣いを無碍にする礼儀知らずな後輩ではない。
「あ、それ良いですね! あたしもぜひご一緒させて下さい!」
この胸の中に溜め込んでしまったモヤモヤを吐き出すという意味では、テイオーさんの提案は最適だ。
「にししっ、それじゃあトレーニングが終わったら着替えて旅館の入り口で集合ね!」
ちょっとした悩みを抱えてしまっている今のあたしには、気分転換が必要だろう。
少しだけ狭くなった視野を広くするためにも、新鮮な刺激を受けることは重要だ。
***
午前中のトレーニングが一段落した後、あたしは私服に着替えて約束の場所でテイオーさんと合流した。
二人揃って旅館を出た後、あたし達はそこからしばらく離れた観光スポットへと足を運んだ。
テイオーさんに連れられてやってきたのは、全国各地から観光客が集まる有名な大型ショッピングモール。
昼食がまだだったのでフードコートで腹ごしらえをした後、あたしはテイオーさんと一緒に貴重なオフを満喫した。
最近若者の間で人気が集中しているアパレルショップで流行のファッションに触れてみたり、ゲームセンターでテイオーさんが驚異的な無双劇を披露したり、一緒にプリクラを撮影して容姿を盛りに盛りまくってみたり。
心に抱えた悩みごとを吹き飛ばす勢いで楽しみ尽くした後、あたし達は満足した感覚に浸りながら旅館への帰路についた。
そのまま旅館に直行するのが少し切ないと感じたあたし達は、帰路の途中に見かけた商店街へ寄り道をすることに。
既に太陽は西へと沈みかけ、夕日が景色を朱く染める時間帯になっているが、夏の季節は日没までの時間が非常に長い。
そのため、夕方の時間帯であっても商店街は多くの人達で賑わっており、あたし達のお祭り気分はまだまだ終わらなかった。
遊び疲れて小腹が空いたあたし達は、本能の赴くままに食べ歩きをすることにした。
手始めに、テイオーさんの大好物であるはちみつドリンク、通称──ハチミー。
はちみつレモン風味のすっきりとした味わいが魅力的なハチミーを片手に、各々の目にとまった食べ物をもう片手に握りしめる。とても幸福な時間だった。
そんな感じでテイオーさんと雑談に耽りながら食べ歩きを繰り返していると……。
「──あ、あのっ」
背後から不意に、あたし達を呼び止めるような声が掛けられた。
声の聞こえた方向を辿って、あたし達は揃って背後を振り返る。
「えっと、トウカイテイオーさんですよね……っ」
あたし達に声をかけたのは、三人組の女性であった。
「え、ああうん。そうだけど」
「やっぱり!」
テイオーさんの返事を受けて、女性達が歓喜の声を張り上げる。
「うわぁ、本物だぁ……っ」
「ちっちゃくて本当に可愛い! 生テイオーちゃんが目の前に……っ!」
「あの、握手してもらっても良いですか!?」
どうやら彼女達は、テイオーさんの走りに魅了されたファンのようだ。
「え、なになにっ、君たちもしかしてボクのファンなの〜っ?」
そして、彼女達に迫られるテイオーさんも満更ではない様子。
「ふっふっふっ、握手くらいお安い御用ぞよ〜!」
少し得意になったテイオーさんが、ファンを名乗る女性達と交流する。
……そういえばあたしも昔、彼女達と同じようにテイオーさんに迫っていたなぁ。
そんな微笑ましいやりとりを側から眺めているうちに、いつしか人が人を呼ぶような形で周囲に大きな集団が形成されていた。
テイオーさんは本当にたくさんの人達から愛されているんだなと、あたしはトウカイテイオーという存在の大きさを改めて認識する。
彼女を取り囲む注目が一段落するまで、あたしは両手に持った食べ物を頬張りながら待つことに。
それらを全て完食し、手持ち無沙汰になったあたしは時間を潰すために何をしようかなと視線をさまよわせた。
その瞬間……。
「………………ぁ」
あたしの視界に偶然、とある書店の入り口に並んだ複数冊の
吸い寄せられるように身体が動いて、あたしは自身の意識を釘付けにしたそれに手を伸ばす。
あたしが手に取った雑誌の名は『月刊トゥインクル』。レース業界の情報を発信する大手出版社が発行している雑誌記事だ。
その表紙を目にした瞬間、この雑誌が月刊トゥインクルの最新号であると容易に判断がついた。
何故なら、その表紙を堂々と飾っていたのは……。
「…………ダイヤちゃん」
──あたしの一番大切な親友が、ターフの世界を一生懸命走る姿だったから。
あたしは無意識に雑誌の表紙を捲り、その一面を開く。
ゴール前を駆け抜ける瞬間のダイヤちゃんの魅力を、極限まで引き立てるように飾られた大見出し。
「最強の凱旋、”星”を受け継ぐ至高の原石……」
その大見出しを声に出して繰り返すのと共に、あたしは対談形式で綴られた文面に目を落としていく。
最初は異色の登竜門となったメイクデビューに勝利したダイヤちゃんの心境が語られ、その内容は次第に彼女が所属するチームの話題へと移り変わる。
「…………っ」
その中には当然、
あの人に関する情報が掲載されていると知った瞬間。
「…………」
雑誌を握るあたしの両手に力がこもった。
あたしは慌てて雑誌を閉じ、周囲の様子を仕切りに確認してから表紙が見えないように胸元へ抱え込む。
そそくさと店内で会計を済ませ、今度はそれを持参したエコバッグに忍ばせた。
決してやましいことをしているわけではないが……でも、なんでだろう。あまり、他のひと達には見られたくないなと思ってしまった。
「──いやぁ、お待たせキタちゃん。ごめんね、ファンのみんなが夢中になってボクをねだってくるから、つい時間を取られちゃって」
あたしが書店を後にするのと同時に、人混みから解放されたテイオーさんがこちらへとやってきた。
「い、いえいえっ、全然大丈夫ですよ!」
「人気者はツラいよね〜、にししっ。それじゃあキタちゃん、そろそろ帰ろっか!」
「はい!」
憧れの先輩と肩を並べて、あたし達は旅館への帰路に着く。
心に抱え込んでしまった悩みを発散する目的で気分転換に来たわけだけれど。
今のあたしは残念なことに、これ以上ないほど膨れ上がったあの人への気持ちでいっぱいだった。
***
「…………」
ダイヤちゃんの特集記事が掲載された月刊トゥインクルを入手した日以降、あたしは雑誌に穴があくんじゃないかと思うほどに一言一句を熟読していた。
客室として利用させてもらっている大部屋はチームメイトの視線があるためどうにも雑誌を開きづらく、それを読むのは毎回決まって、喫茶コーナーが併設された談話室の隅であった。
時間帯的には、一日のトレーニングを終えて間近に就寝時間を控えているような頃合いである。
静謐な談話室の空間に、おもむろにページをめくる音が響く。
雑誌記事を読み進めるたびに、凱旋したチーム・アルデバランの全容があたしの中で鮮明になっていく。
この記事によって得た一番大きな収穫は、ダイヤちゃんのトレーナーさんが、ミライさんを育てたあの人と同一人物であると確信が持てたことだろうか。
どうやらあの人は以前のチーム・アルデバランにおいてサブトレーナーを務めていたようで、元チーフトレーナーから正式にチームを引き継いでいたことも分かった。
「…………はぁ」
記憶の中にいたあの人の印象が補完されていく度に、あたしは重苦しいため息を我慢することが出来なくなっていった。
色褪せた思い出の中で曖昧だった部分が、みるみると明瞭になっていく感覚。それは決して悪いものでは無かったけれど、ごわごわとした息苦しさが胸の辺りから込み上げてくる。
あたしは一体、どうすれば良いのだろうか。
昔のことはもう忘れよう。
子供の頃の口約束を覚えてくれているはずがないんだから、すっぱり諦めよう。
……なんて、自分に言い聞かせるのは今日で何回目?
「…………………はぁ〜……」
あたしは強張った肩の力を抜くように息を吐き出して、テーブルの上に突っ伏した。
雑誌を枕がわりにするように頭の位置を少しずらして、側面を底につける。
「──こんばんは、キタちゃん」
「えっ」
その瞬間、いつの間にかあたしの横に立っていた誰かとバッチリ目があった。
「こんな時間まで、熱心ですね。お勉強ですか?」
あたしと同じ旅館浴衣に身を包み、お風呂上がりなのかほのかに頬が上気した栗毛のウマ娘。
「ぐ、グラスさん……っ!?」
穏やかな笑みを浮かべてあたしを見下ろすチーム・リギル所属の先輩ウマ娘──グラスワンダー。
グラスさんはあたしのチームメイトであるスペシャルウィークさんと非常に仲が良いため、トレセン学園では昼食を共にしたりと、彼女とは以前から何かと面識があった。
そういえば、今年の合宿はチーム・リギルもあたし達と同じ旅館を使用していたっけ。
「え、ええっと、その……勉強というか、なんと言いますか…………あは、あはは」
あたしはテーブルに広げた雑誌をスーッと引っ張り、そそくさと膝の上に隠した。
「キタちゃん。ここ、よろしいですか?」
「え、あっ、はいっ、どうぞどうぞ!」
グラスさんの要求に首を振って応じると、彼女はあたしと対面する席に腰を下ろす。
「月刊トゥインクルの新刊は、どの書店でも売り切れが続出しているそうです」
「……っ!?」
「すみません、月刊トゥインクルは私のお気に入りの雑誌なんです。ですが、今月の新刊を中々手に入れることが出来ず、つい気になってしまって」
「そ、そうなんですね……あはは」
あたしは苦笑を浮かべながら、テーブルの下に隠してしまった雑誌を今一度卓上に広げる。
決してやましいものを読んでいるわけでもないのに、どうして咄嗟に隠してしまったのだろうか。
「あ、よろしければ読みますか?」
「いいんですか!」
あたしの提案に対して、グラスさんが珍しく食い気味に身を乗り出した。
「はい。あたしはもう、何回も読んでいますから」
あたしがグラスさんに手渡した雑誌には、分かりやすいくらいの開き癖がついてしまっている。
それが無性に小っ恥ずかしかったけれど、すでに彼女の手へ渡っているので諦めるしかない。
はらりはらりと、夢中になって雑誌を捲るグラスさん。
温厚篤実な性格で、大和撫子を彷彿とさせる清楚可憐な振る舞いが魅力的な彼女にも、このような雑誌を読む習慣があったことは少しばかり意外だった。
グラスさんの異なる一面を垣間見ることが出来て、あたしは少し微笑ましい気分になる。
「……私が初めて月刊トゥインクルを読んだのは、トレセン学園へ入学するためにアメリカから来日した翌日のことでした」
「……え?」
それからしばらくの時間が経過した後、グラスさんが雑誌を静かに閉じてあたしに語りかけてきた。
「この雑誌には、レース業界に関する様々な情報が掲載されています。中央を舞台とするトゥインクル・シリーズはもちろん、特別な催しや走行技術の解説。わずかではありますが、地方で開催されるローカルシリーズや、海外のレースに焦点が当てられたページも存在します」
ありがとうございます、という感謝の言葉と共に、あたしはグラスさんから雑誌を受け取った。
「最新の情報に対しては、常に敏感であるべきだと私は考えています。日々移り変わっていく情報の波に飲まれぬように、時代の流れに取り残されぬように。そして何より、成長に対して貪欲であるために」
グラスさんの言葉通り、最近はレースの世界のみに限らず流行の移り変わりが非常に激しくなっているように感じる。
「キタちゃんは、とても勉強熱心なのですね。ふふっ、素晴らしいです」
「え、えぇっとぉ…………はい、まぁ、そんな感じですね。あはは……」
あたしがこの雑誌を読んでいた趣旨とは方向性が多少異なるけれど、
「もう読まなくて大丈夫なんですか?」
「ええ。欲しかった情報がようやく手に入って、とても満足しましたから。ここから先は、自分自身で雑誌を買って読みたいと思います」
「分かりました」
手元に戻ってきた雑誌に、あたしの視線が無意識に落ちる。
「サトノダイヤモンドさん。とても、素晴らしい方ですね」
グラスさんが、あたしの親友の名前を話題に挙げた。
「私も彼女のメイクデビューを現地で拝見しましたが、とても強い衝撃を受けたことを覚えています」
ダイヤちゃんのメイクデビューと聞くと、もはや条件反射で当時の光景が脳裏に蘇ってくる。
「彼女は確か、キタちゃんのお友達でしたよね」
「……あれ? あたし、ダイヤちゃんと友達だってこと、グラスさんに言いましたっけ?」
「以前、トレセン学園のトラックでお二人が一緒にトレーニングしているところを見かけましたので。間違っていたら、ごめんなさい」
「…………い、いえ」
網膜に焼き付いた苦い記憶が蘇る。
「彼女の力強い走りを目の当たりにして……なんと表現すれば良いのでしょうか。すごく、魂が震え上がるような感覚を覚えました」
タイミングが悪く、あたしはダイヤちゃんのレースを生で見ることが出来なかった。
ウマチューブにアップロードされた動画を視聴してダイヤちゃんの走りを確認したが……レースに臨んだダイヤちゃんは、あたしの知っている彼女とまるで別人だった。
かつて、”星”という異名で一世を風靡した世界的アイドルウマ娘のミライが築き上げた、チーム・アルデバランという最強の肩書き。
最強の凱旋を予感させるサトノダイヤモンドの強烈な逆転劇はまさしく、”
「私も彼女のように、力強く走ることが出来たら……あ、ごめんなさい。少し、脱線しすぎちゃいましたね」
申し訳ありませんと一言断りを入れて、グラスさんは背筋を正す。
「キタちゃん」
「は、はい」
「これは私の勘違いかもしれませんが……何か、
「えっ」
グラスさんの唐突な指摘に対して、あたしは過剰な反応を示してしまう。
それが何よりも分かりやすい返答であった。
「最近よく、キタちゃんの口からため息がこぼれる瞬間を目にしていましたから。もしかしたらと、思いまして」
「あ、あはは……これでも周りのみんなには隠せているつもりだったんですけど……やっぱり、分かりやすかったですよね」
「こう言ってはあれですが……悩み事というのは案外、親しい間柄である相手ほど打ち明けるのが難しいものです。私でよければ、聞きますよ。雑誌を読ませてくれたお返しです」
「……いいん、ですか?」
「ええ、これでも先輩ですから。後輩がふさいでいる姿を見ると、どうしても放っておけないんです」
正直、この悩みを一人で抱え込むことに対して限界を覚えていた頃合いだった。
「そ、それじゃあ……お言葉に、甘えさせて……下さい」
「ええ」
「できればその……ここだけの、秘密にしていただけると…………嬉しい、です」
「もちろん、心得ていますよ」
決まり文句のような念押しを挟んだ後で、あたしはグラスさんに対して自身の悩みを打ち明ける。
ただ、ありのままを告白する勇気を振り絞ることが出来なかったあたしは、少しだけ悩みを濁してしまった。
「……なるほど。子供の頃に交わした約束を相手が覚えてくれているのか不安で、それを確認したくても、複雑な事情があって本人に直接聞くことが出来ない、と」
「はい。そんな、感じです……」
あたしがグラスさんに対して打ち明けた内容はこうだ。
かつて、あたしはとある人気のウマ娘を担当していたトレーナーに対して、将来自分を担当してほしいと告白した。
結果的にトレーナーはその要求を受け入れてくれ、あたしは彼と再会できる瞬間を心待ちにしていた。
トレセン学園入学後、待望の瞬間が訪れた矢先に再会したトレーナーと関係が拗れてしまい、当時の約束を打ち明ける機会を完全に失ってしまった。
そして、残念ながらすでにそのトレーナーの隣には、絆を深めた別の担当ウマ娘の姿があった。
「…………」
現在あたしが抱えている悩みを要約したら、多分こんな感じになると思う。
胸の中のモヤモヤを吐き出しただけで心が軽くなったような感覚はあるが、それでも八方塞がりな現状であることに変わりはない。
「全部、自業自得だって……分かってはいるんです。諦めよう、諦めようって思っていても…………その度に、胸が苦しくなってしまって」
「そう、だったんですね」
この場の空気が重く澱んでいくのが分かる。口を開くのがだんだんと億劫になっていく雰囲気の中でも、グラスさんはあたしの悩みを真摯に受け止めてくれた。
「……実は私も、昔に似たような経験をしたことがあります。キタちゃんの言葉を借りて表現するなら……”独りよがり”、でしょうか」
「グラスさんも、ですか?」
「キタちゃんの場合とは多少、経緯は異なりますが……そうですね。胸の奥で育み続けた大切な想いが、ただの独りよがりであったと気付いた瞬間のショックは計り知れないものがありました」
「……」
「そんな後悔を引きずり続けて、私は常々考えるんです。私
グラスさんは在りし日の記憶に想いを馳せるような遠い目をしながら、あたしに語る。
「そうしてたどり着いた一つの結論なのですが……当時の私はきっと、相手がこちらを振り向いてくれることに期待しすぎていたんです」
臆病だったんですよと、グラスさんは自嘲気味に微笑む。
「自分自身の胸に秘めた想いは、言葉にしないと相手には伝わらない。他人の気持ちをエスパーのように汲み取ってくれる人なんて……多分、いないんです」
グラスさんが過去の後悔から学んだ教訓は、言ってみれば至極当然のことであった。
「待っていても、残念ですが何も始まりません。約束のことを本人に確かめたいのでしたら、キタちゃん自身が行動を起こさなければなりません」
「あたし、自身が……」
「……なんて。先輩風を吹かして偉そうに助言していますが、私には出来なかったことです。理想を並べても、私にはその一歩を踏み出す勇気を振り絞ることが出来ませんでしたから」
しかし、そんな当然のことに気付くまでの過程でグラスさんがどれほど辛い想いを経験したのかは、彼女の切なげな表情がありありと物語っていた。
「何があっても決して挫けず、何があっても決して屈することなく突き進む……”不退転”という言葉は、過去の後悔を経て、臆病だった私自身を奮い立たせるために心へ刻んだ教訓です」
「不退、転……」
「もし仮に、再び過去を取り返す機会が訪れたとしたら……今度はもう、臆病な自分でいたくはありません」
ありったけの勇気を振り絞って行動した結果、この現状がさらに悪化してしまう可能性だってある。
だがしかし、行動することによって状況がわずかに改善される可能性だってある。
「キタちゃん、どうか勇気を出してみて下さい。そうしたらきっと、何かが変わるはずですよ」
これらの憶測はあくまで、行動の結果がもたらす可能性の話に過ぎない。
それでも、今この瞬間から
それは……。
「ありがとうございます、グラスさん」
──勇気を出して行動を起こさなければ、現状は何も変わらないということだ。