これであなたはサトノ家行きです   作:転生した穀潰し

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XX:キタサンブラック4

 約二ヶ月に渡る夏合宿が終了し、ウマ娘にとって重要なシーズンである二学期が始まった。

 

 ジュニア級メイクデビューを一着で快勝したあたしは、沖野トレーナーと相談して年末に開催されるGⅠ重賞──ホープフルステークスへ出走するという目標を定めていた。

 

 ひとまずは条件クラスに出走して昇格に必要な獲得賞金額を増やし、段階を踏んで進んでいこうというのが今後の方針である。

 

「…………はぁ」

 

 目標が明確になったことは良いのだけれど……残念ながら、前向きな方針に対してどうにもあたしの心がついて来てくれなかった。

 

 ここしばらく寝不足な状態が続いていて、何をするにしても集中力が持続しない。

 

 今日もベッドの上で横になり、浅く目を瞑ってただじっとしていただけ。

 

 自室で過ごすがなんだかとても億劫に感じるようになってしまったあたしは、朝のホームルームが始まる一時間以上前からトレセン学園に登校していた。

 

 スクールバッグから取り出した教材を机に移した後、手持ち無沙汰になったあたしは暇を潰す目的で例の雑誌を卓上に広げた。

 

 読み込みすぎてページに癖がついた月刊トゥインクルを開いて、そこに綴られている文字をぼんやりと目で追いかける。

 

 あの人に関する情報は、それなりに集めることが出来た。

 

 だけどあたしは、雑誌に記載された以外の情報をまだ何も知らない。

 

 なんでも良いから、あたしはあの人のことが知りたかった。

 

 例えば、あの人の好きな食べ物とか、休日にしていること……とか。

 

「……そういえば、ネットに記事とか上がってたりしないかな」

 

 あたしはスカートのポケットに忍ばせていたスマホを取り出して、あの人の名前をネット検索に掛けてみた。

 

「えっと、あの人の名前は……」

 

 苗字と名前を打ち込んだ後、複数の予測検索がアプリ側から提示される。

 

『アルデバラン』『誰』『正体』『都市伝説』『ミライ』『サトノダイヤモンド』などなど……。

 

 ダイヤちゃんのメイクデビューから二ヶ月以上が経過したこともあり、ネットの海は膨大な情報量でごった返していた。

 

 適当な記事に飛んで目を通してみるけれど、真偽不明の情報が玉石混交していて何を信じれば良いのかあたしでは判断がつかない。

 

 信憑性に欠ける情報を鵜呑みにするくらいなら、本人に直接確認した方が確実で手っ取り早い。

 

 そんなことは分かっている。

 

 分かっているんだけど……。

 

「勇気、かぁ…………」

 

 夏合宿の最中、談話室で先輩ウマ娘のグラスさんから貰った助言を思い出す。

 

 このまま何も行動を起こさなければ、現状が変化することはない。

 

 だがしかし、あたしに今を変えようと立ち上がる勇気があるのかと問われると、こうして顔を伏せている時点でお察しである。

 

 せっかくグラスさんがあたしの悩みに寄り添ってくれたというのに……こんなヘタレな自分が嫌になって仕方がない。

 

「というかそもそも、ちゃんと謝るところから始めなきゃだよね……出来るかなぁ、あたしに」

 

 何がともあれ、最優先で取り組むべきなのはあの人との間に存在するギクシャクとした雰囲気を払拭することだろう。

 

「はぁ…………」

 

 ため息が重い。それだけじゃない。身体も、心も、ぜんぶ……。

 

「──おはよう、キタちゃん」

「──ッ!?!?!?!?」

 

 周囲への注意が完全に散漫になっていたあたしは、横から突然掛けられた声に対して過剰な反応を示した。

 

 あたしの身体がビクンッと跳ね上がったあと、脊髄反射のような勢いで手にしていた雑誌を閉じる。

 

 挨拶の言葉が飛んできた方角へ慌てて視線を向けると、そこには少しばかりきょとんとした表情を浮かべるあたしの親友が立っていた。

 

「お、おはようダイヤちゃんっ」

 

 苦笑を浮かべて動揺を誤魔化しつつ、あたしは手に持っている雑誌をさりげなくダイヤちゃんの視界から隠そうと試みる。

 

「あ……それ、月刊トゥインクルだよね?」

 

 しかし、彼女の視界にバッチリ捉えられた状態でそれをしたとしても、逆に彼女の不審感を煽るだけだろう。

 

「う、うん……親友のダイヤちゃんが特集された記事だから、絶対に手に入れなきゃと思って」

「そっか。ありがとう、キタちゃん!」

 

 あたしは雑誌を机の上に戻した後、あらためて二ヶ月ぶりに再会したダイヤちゃんと向き合った。

 

「ダイヤちゃん、あっという間に有名人になっちゃったね」

「あ、あはは……」

 

 久々に言葉を交わしたダイヤちゃんと何を話せば良いのか少し迷った。

 

「……ねぇ、ダイヤちゃん」

「うん?」

「ダイヤちゃんのトレーナーさんって、すごい人だったんだね」

「……うん」

「ごめんねダイヤちゃん。あたし、何も知らなくて……二人に迷惑かけちゃった」

 

 断片的に二人の背景を知った今、真っ先に飛び出してきたのは彼女達への謝罪の言葉だった。

 

 親友と向き合っている状況ではあるけれど、あたしの目線はダイヤちゃんを直視出来ずに雑誌の表紙へと落ちている。

 

「迷惑だなんて、全然思ってないよ。それに兄さまも、キタちゃんに謝りたいってずっと言ってたから」

 

 気にしないでと、優しい言葉を掛けてくれるダイヤちゃん。

 

「…………そっか」

 

 そんな彼女達の優しさを、あたしは素直に受け取ることが出来なかった。受け取ってはいけないと思った。

 

 ダイヤちゃんは自身の担当トレーナーであるあの人のことを、『兄さま』と呼んでいる。

 

 ダイヤちゃんが選抜レースを走った翌日。彼女本人から聞いた話によると、どうやら二人は互いの過去を知る”昔馴染み”という関係なのだそうだ。

 

「…………」

 

 胸の中がもやもやした。

 

 ()()()()、という感覚だった。

 

 あたしはあの人のことを何も知らない。

 

 でも、ダイヤちゃんはきっと、あの人のことをたくさん知っている。

 

「……ねぇ、ダイヤちゃん」

 

 雑誌を握りしめるあたしの手に、ぎゅうと力がこもった。

 

「良かったら、トレーナーさんのことについて聞かせてくれないかな」

 

 そのお願いは、今のあたしが振り絞ることの出来るせいいっぱいの勇気だった。

 

「兄さまのこと?」

「どんな些細なことでも良いんだ。少しだけ、どんな人なのかなって気になっちゃって……あはは」

 

 勇気を振り絞ったあと、あたしは恥ずかしくなってダイヤちゃんから視線を逸らしてしまう。

 

 彼女の返答を待っているまでの間が妙に落ち着かなくて、自身の髪を指で梳かしながら気を紛らわせていた。

 

「好きな食べ物とか、休日にしていること、とか……本当に、何でも良いんだけど…………」

「え? んーっと、そうだなぁ」

 

 そんな些細な質問を投げかけて、あたしは少し後悔した。

 

 こういった状況では普通、どんなトレーニングをしているのとか、指導中に心掛けていることはあるのかとか。そういった方向性の質問を投げかけるのが一般的だろうに。

 

 案の定、ダイヤちゃんは一瞬虚をつかれたような表情を浮かべていた。

 

 変な風に、思われていないと良いんだけど……。

 

「うーん、好きな食べ物じゃなくて飲み物になっちゃうけど……」

 

 あの人のことを語る瞬間のダイヤちゃんは、胸が弾んで仕方がないといった様子であった。

 

 キラキラとした瞳であの人の話をする彼女の表情には、不思議と既視感がある。

 

 確か、三年前のジャパンカップであの人のことを紹介してくれた瞬間のミライさんも、こんな感じの表情を浮かべていた。

 

 ダイヤちゃんの口から嬉々として語られるあの人の情報は……当たり前だけど、あたしは何一つ知らなくて。

 

「……ぁ、ごっ、ごめんねキタちゃん。こんな話、聞いてて何も面白くないよね……っ」

「そんなことないよ……面白い人なんだね、ダイヤちゃんのトレーナーさんって」

 

 少しでもあの人のことを知ることが出来たのは、勇気を出したことによる大きな収穫だった。

 

「ありがとう、ダイヤちゃん。あたしのわがままを聞いてくれて」

「こんなことで良ければ、いくらでも聞いてくれて良いからね!」

「……そっか」

 

 ダイヤちゃんと話をしていると、いつの間にかホームルームが始まるような時間帯になっていた。

 

「良かったらまた今度……色々と聞かせてほしいな」

「うん!」

 

 自身の席へと戻っていくダイヤちゃんの背中を眺めながら、あたしは今後のことをぼんやりと考える。

 

 あの人はどうやら、砂糖をふんだんに入れたコーヒーを嗜むらしい。つまり彼は、微糖が好きということだろうか。

 

 次に学園であの人を見かけたら、勇気を出してあたしから話しかけてみよう。

 

 そうすれば、あたしは彼のことをもっと知ることが出来るかもしれない。

 

 あの人があたしと対面したら、彼はきっと居心地の悪さを感じてしまうだろう。

 

 そんなあの人にコーヒーを差し出せば、少しは彼の心が穏やかになってくれるかもしれない。

 

 そんなことを考えているうちに、あたしの胸の奥からじわじわと温かい勇気が湧き上がってきた。

 

 今のあたしは、あの人との間にあるギクシャクとした雰囲気を払拭出来るのかという悩みよりも、彼のことをもっと知りたいという好奇心の方が大きくなっていた。

 

 あの人と話がしたい。

 

……そうだ。彼と会話をする瞬間に備え、粗相の無いようにあらかじめ内容を整理しておこう。

 

 知りたいこと、聞きたいこと、話したいことを思いつくたびに、あたしはどんな些細なことでも手持ちのメモ帳に書き込んでいった。

 

 そして、こんな感じであの人に対する興味をメモ帳へ認め続けているうちに……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつの間にか、二学期が終業していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 十二月末に開催されるジュニア級GⅠ重賞──ホープフルステークスに出走し、あたしは二着という結果をチーム・スピカに持ち帰った。

 

 その後、チームメンバー達と開催した忘年会を楽しんだあたしは、残りの冬休みの期間を利用して実家へ帰省することとなった。

 

 あたしの実家はトレセン学園からそれほど遠い距離にあるわけでは無い。

 

 送迎云々でわざわざ家の人達に迷惑を掛けたくないため、あたしは公共交通機関を利用して実家へと帰省することに。

 

 帰省ラッシュで混雑する電車に揺られ、最寄駅からバスに乗り換え、荷物を抱えて歩くことしばらく。

 

 あたしは、去年まで生活していた趣のある実家のシルエットを遠目に捉えた。

 

 あたしの実家は演歌歌手を生業とする父さんのお弟子さん達がよく集まるため、それなりの大きさがある。

 

 瀟洒な正門の前で一度呼吸を整えてから家に入ろうとしたけれど、大きな正門はすでに開いていて。

 

 

 

 

 

「「「「「──お帰りなさいませ、()()!!!!」」」」」

 

 

 

 

 

 さすがは演歌歌手のお弟子さん達というべきか、寸分のズレもない完璧な挨拶であたしの帰省を迎え入れてくれた。

 

 こぶしの効いた力強い声でありながらも、人情味あふれる優しさがこもった彼らの出迎えに対して。

 

 あたしは「ただいま!」と、元気な挨拶を返した。

 

「お嬢、荷物をお持ちします!」

 

 お弟子さん達の厚意に甘えて、あたしは彼らに荷物を預ける。

 

 父さんを慕うお弟子さん達には小さい頃から可愛がってもらっていたため、あたしは成長した今でもついつい甘えてしまう。

 

「あれ? そういえば、今日は父さんいないんだね」

「師匠は紅白の会場へ移動しています!」

「あ、そっか。もう年末か」

「トレセン学園入学ぶりの帰省っつうことで、奥様がお嬢の帰りを心待ちにしていやしたよ! 身体を冷やさぬうちに、ささ、中へ中へ」

「うん!」

 

 辺り一帯はすでに日が沈みかけ、冷え込みも段々と激しくなってきている。

 

 お弟子さん達に促されるまま家の中へと駆け込んで、あたしは真っ先に母さんの元へ挨拶に走った。

 

「──母さん、ただいま!」

 

 時間帯的には夕食がもうそろそろ出来上がるかなという頃合いだったので、あたしは一目散に大きな台所へと駆け込む。

 

 鼻腔をくすぐる美味しそうな匂いがしたので、あたしはそこに母さんがいると確信した。

 

 あたしの元気な声を受けて、台所に立つ女性のウマ耳がピクリと反応する。あたしと同じ毛色の尻尾を揺らしながら、彼女がこちらを振り向いた。

 

「おかえりなさい、キタちゃん」

 

 母さんと最後の顔を合わせたのは、トレセン学園の入学式が最後である。実家を離れてから一年も経っていないというのに、ここで暮らしていた頃がずいぶんと昔のように感じてしまう。

 

「あたしも何か手伝うよ!」

「帰ってきたばかりなんだから、少しはゆっくりしていけば良いのに……。それじゃあ、出来た料理を持っていってくれる? キタちゃんが帰ってくるから、ちょっと張り切り過ぎちゃって」

「はーい!」

 

 母さんのお手伝いをしていると、なんだか小さい頃に戻ったような気がして、ワクワクとした気持ちがあたしの胸に灯った。

 

 

 

***

 

 

 

「いやぁ〜食べた食べた! やっぱり母さんの作る料理は最高だよ!」

「ふふふっ、ありがとうキタちゃん。そう言ってくれて、母さんとっても嬉しい」

 

 家族やお弟子さん達と食卓を囲んだ楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、あたしは現在、母さんと一緒に食器洗いの手伝いをしていた。

 

「後片付けくらい、それこそ私一人で十分なのに。キタちゃんも疲れてるんだから、ゆっくりとお風呂にでも入ってきたら?」

「二人でやった方が早いから良いの! あ、あたし母さんと一緒にお風呂入りたい!」

「いつからそんなに甘えん坊さんになっちゃったの、もぉ……」

 

 母さんと他愛ない雑談に花を咲かせながら、料理が乗っていた食器を手際よく洗っていく。

 

 本格化の影響によって身体は大きく成長したけれど、あたしの心はまだまだ年相応の甘えん坊であった。

 

 やっぱり、若くして家族と離れ離れになって生活をすると、その温もりがどうしても恋しくなってしまう。

 

 水道から水が流れる音と、カチャカチャと食器が触れ合う音。台所の空間に置かれたテレビから飛んでくる特別番組の音を聞いていると、少し前まで当たり前だったことがとても新鮮に思えて仕方がない。

 

「ねぇ、キタちゃん」

「うん?」

 

 台所で隣に立つ母さんが、手にした食器に視線を落とした状態で藪から棒に問うてきた。

 

 

 

 

 

 

 

「──()()()()()()?」

 

 

 

 

 

 

 

 その一言を受けて、食器洗いを続けるあたしの手がピタリと止まる。

 

「…………どうして?」

「何か、抱え込んじゃってるのかなって思って。キタちゃんの笑顔をずっと見てきたんだから、ひと目見ればすぐにわかるよ。私の娘だもの」

 

……実家に帰省してから、あたしはずっと笑顔で過ごすことが出来ていたはずだった。

 

 トレセン学園に入学する前と何一つ変わらない、明朗快活なキタサンブラックでいれたはずだった。

 

「……」

 

 だがしかし、娘のことなんて何でもお見通しだと言わんばかりに母さんから指摘されて、あたしは二の句を継ぐことが出来なかった。

 

 会話に空白を作ってしまったあたしは必死に言葉を探したけれど、頭の中は図星を突かれて真っ白だ。

 

 どうしようどうしようと思い悩むあたしだったが……。

 

「……あら?」

 

 そんな時、思わぬ助け舟が通りかかった。

 

『──今年のトゥインクル・シリーズ総振り返りのコーナー! 六月の注目ポイントといえばやはり、この瞬間でしょう!』

 

 台所の空間に設置されたテレビに流れている、年末年始の特別番組。ちょうどコマーシャルが終わり、番組内でピックアップされたトゥインクル・シリーズのレース映像が放送される。

 

「ダイヤちゃんのメイクデビュー……っ! 凄かったよね、本当! 私、見ていて鳥肌立っちゃったもの!」

 

 半年前に阪神レース場で開催された、ダイヤちゃんのメイクデビュー。

 

 異色の登竜門として人々の印象に刻まれている親友のレースは、特番で取り上げられるのに相応しい内容であった。

 

 ダイヤちゃんの姿がテレビに映ったことで、興奮した母さんは液晶画面に釘付けになっていた。

 

『二年前、表舞台から忽然と姿を消したチーム・アルデバランの凱旋劇。サトノダイヤモンドのメイクデビューは日本のレース界に限らず、世界中から大きな注目を集めています!』

 

 そして、ダイヤちゃんのレースが取り上げられたということは……。

 

「…………ぁ」

 

『かつての世界的アイドルウマ娘、"星"のミライを生み出した天才トレーナーによって受け継がれた、新星チーム・アルデバラン。彼女達の活躍には、今後とも目が離せません!』

 

 もちろん、ダイヤちゃんの担当トレーナーであるあの人の姿だって、画面に映し出されるはずだ。

 

「…………あら、あらあら、まぁ……少し見ない間に、あんなに立派になっていたなんて……」

「……母さん?」

「……ぁ、ごめんねキタちゃん。ちょっと、テレビに夢中になっちゃった」

 

 普段からとても手際の良い母さんが、皿洗いの手を止めてしまうくらい惹きつけられてしまうとは。

 

「レース、か……懐かしいなぁ」

 

 あたしの母さんはかつて、トレセン学園に在籍する生徒だった。

 

 ダイヤちゃんのレースを見て、母さんの記憶の中に残っている思い出が蘇っているのかもしれない。

 

 どこか遠くを見るような目をしながら、母さんはその表情に柔和な笑みを浮かべていた。

 

「ねぇ、キタちゃん」

「う、うん……」

 

 それからしばらくして、夕食の後片付けが一段落ついた頃。

 

 あたしに対して、母さんが提案を投げかけてきた。

 

 

 

 

 

 

「せっかくだから……今から一緒に、お風呂入ろっか」

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 それなりの敷地を有するあたしの実家は、他の住宅と比較してお風呂場がとても大きい特徴がある。

 

 伸び伸びと湯船に浸かることが出来て非常に快適である反面、掃除がすごく大変だって母さんが嘆いていた。

 

 お風呂場の掃除に関しては父さんのお弟子さん達が担当しているため、雑用も率先してこなしてくれる彼らには本当に感謝している。

 

 あたしも実家に住んでいた頃はよく掃除のお手伝いをしていたのだけれど、本当に大変だったことを覚えている。

 

「母さん、あたしが背中洗ってあげるね」

「ありがとう、キタちゃん」

 

 風呂椅子に腰掛ける母さんの背後に回って、あたしはしっかりと泡立てたボディスポンジで母さんの背中を綺麗にしていく。

 

 たまに帰ってきた時くらい、親孝行はちゃんとしないと。

 

「……あのさ、母さん」

「うん?」

「さっきの、ことなんだけど……ほら、何かあったの? って」

 

 開口一番、あたしは率直に母さんへ問うた。

 

 本当は雑談か何かで場の空気を和ませた後の方が良かったのかもしれなかったけれど、今のあたしには気の利いた話題を考える心の余裕が残っていなくて。

 

「ごめんねキタちゃん。私の、余計な気遣いだったかな」

「そんなことないよっ。そんなこと、ない、けど……」

 

 母さんの指摘通り、今のあたしは簡単に割り切ることの出来ない大きな悩みを抱えてしまっている。

 

 グラスさんが以前、親しい間柄である相手ほど悩みを打ち明けるのが難しいと言っていた。

 

 家族のみんなに余計な心配をかけたくないからと、あたしは無意識に空元気を装ってしまう。

 

 これじゃあ、悩みを打ち明けることなんて出来るはずがない。

 

「今のキタちゃんを見てると……なんだか、昔の自分を思い出しちゃってね」

「昔の、母さん……」

 

 トレセン学園に在籍していた頃の母さんと聞いても、あたしはいまいちピンとこなかった。

 

 というのも、あたしは母さんの学生時代を全く知らないからである。

 

「私としては、キタちゃんがこの前のレースで負けちゃったことを引きずっちゃってるのかなって思ってるんだけど……」

 

 この前のレースというのは、数日前にあたしが出走したホープフルステークスで間違いないだろう。

 

 ゴール目前で惜しくもドゥラメンテさんに躱されてしまい、二着という結果に終わってしまった。

 

 レースに対して全く後悔が無いのかと言われたら嘘になるが、あたしの悩みの大きな原因は……もっと他にある。

 

「ま、まぁ……そんな感じ、かな……」

 

 ただ、あたしは自身の悩みの本質を母さんに打ち明けることが出来なかった。

 

 罪悪感はあったけれど、母さんを心配させたくないという気持ちがどうしてもあたしの中で勝ってしまう。

 

「あ、母さん。背中流すね」

 

 風呂桶に注いだお湯を優しく流して、母さんの身体についた泡を落としていく。

 

「ありがとう。じゃあ、次はキタちゃんの番ね」

「ええっ、あたしは良いよ別にっ」

「良いから良いから」

 

 母さんと入れ替わるような形であたしが風呂桶に腰掛ける。背後から、ボディーソープを泡立てる音が聞こえてきた。

 

「私が言うのもアレかもしれないけど……キタちゃんは、本当にすごいと思う」

 

 あたしの背中を母さんが優しく洗ってくれる。背筋に伝う少しくすぐったい感覚が、小さい頃の記憶を想起させた。とても懐かしくて、心がぽかぽかと温かくなる。

 

「まだデビューから一年も経っていないのに、勝負服を着てGⅠレースに出走できるなんて……十分、自信を持って良いと思うんだけどなぁ」

「そ、そうかな……」

「そうだよ。さすが、私の自慢の娘!」

 

 母さんに褒められて、別の意味でも少しくすぐったい感覚を覚えた。

 

「あ、あのさっ。あたし、母さんの学生時代の話が聞きたいなっ」

 

 あまり褒められることに慣れていないあたしは、気恥ずかしさを紛らわせるために強引な話題転換を図る。

 

「私の? あんまり、面白い話は出来ないけど……」

「別に良いの! あたし、母さんのことをもっと知りたい! レースのこととか、友達のこととか、あとは……恋のこととか!」

「……仕方ないなぁ。そこまで言うならまぁ、良い……かな」

「やった!」

「ただ先に言っておくけど、あまり明るい話は出来ないからね。私、全然強くなかったから」

 

 母さんに背中を洗い流してもらった後、その場にいては身体が冷えてしまうため二人揃って湯船に浸かった。

 

 湯船の側面を背もたれ代わりに身体を預けた母さんが、あたしに向かってぽつりぽつりと過去を語ってくれる。

 

「キタちゃんが生まれた頃よりもだいぶ昔だから……今からもう、三十年くらい前のことになるかな」

 

 母さんがあたしを産んだのは確か、三十路を迎える少し前だから……確かに、母さんの現役時代ってそれくらい前の話になるよね。

 

 あたしの母さんはウマ娘ということもあって、今もかなり若々しくて綺麗だから正直驚きだ。

 

「今は廃止になっちゃったんだけどね。二十年くらい前までは、担当トレーナーと担当ウマ娘が専属契約を結んでレースに出走することが主流だったの」

 

 当時は現在と異なり、トレセン学園の生徒数がかなり少なく、対照的に学園側の人材には余裕があったのだそうだ。

 

 この業界が今のような注目を集めるようになったのはつい最近だし、トレーナー採用試験の難易度も現在と比較するとかなり優しかったとのこと。

 

 そのような背景も相まって、多くのウマ娘達が専属契約を結んだ状態でトゥインクル・シリーズに出場することが出来ていたのだろう。

 

「そうなんだ。じゃあ母さんも、トレーナーさんと二人三脚で頑張ってたの?」

「ううん。私はチームに所属していたウマ娘だった。チームっていう制度には色々なメリットがあったんだけど……当時はどちらかというと、"受け皿"っていう認識の方が一般的で、あまり好まれてはいなかったかな」

 

 遠い目を浮かべながらあたしに過去を語る母さんの表情は、心なしかウキウキとした印象であった。

 

「私のチームには当時、三人のウマ娘が所属しててね。そのひとりが、ダイヤちゃんのお母さん」

「えっ、そうなの!? あ、そういえば昔、ダイヤちゃんがそんなことを話してた気がする」

「トレセン学園を卒業してからしばらく疎遠になって、小学校の入学式で偶然再会したの」

 

 唐突に知っているひとが登場して、あたしはとても驚いた。

 

 あたしがダイヤちゃんと出会ったのは、小学校の入学式の日。

 

 やんわりとした記憶だが、入学式後に移動した新しい教室で、あたしとダイヤちゃんの母さん達が仲睦まじく話していたようなことを覚えている。

 

 アレって、そういうことだったんだ。

 

「それじゃあ、もう一人のチームメイトってどんなひとだったの?」

「もう一人はね、当時は誰もが知っている超名門のお嬢様。今で言う、メジロ家みたいな立ち位置かな」

「すごい! 母さん、そんなひとと同じチームだったんだ!」

 

 メジロ家という単語によってあたしが真っ先に想起したのは、メジロ家の最高傑作と称される、”名優”メジロマックイーン。

 

 それじゃあ母さんは、一昔前のチーム・スピカと同等のチームに所属していたってことか……っ。

 

「うぅ〜ん……すごかったのはダイヤちゃんのお母さんとその子だけで、私はどちらかと言うと落ちこぼれだったからなぁ」

 

 ダイヤちゃんのお母さんは発足から間もないサトノグループの令嬢で、とても強いウマ娘だったとあたしの母さんは語る。

 

 当時のトゥインクル・シリーズで名を馳せていた超名門のお嬢様と、今やレース界の一大コンツェルであるサトノグループの令嬢。

 

 一般家庭の出身である母さん曰く、どうして彼女達と同じチームに所属出来たのかは未だに謎、とのことであった。

 

「あたしはGⅠの舞台で奮闘する二人と違って、重賞に一勝するのがやっと。だから、私はデビューした瞬間から大活躍してるキタちゃんが本当にすごいって思ってる」

 

 ダイヤちゃんが一族にとって初となるGⅠ制覇を目標に掲げていることから察せられる通り、彼女のお母さんは善戦こそ続いたものの、悲願のGⅠタイトル獲得まではあと一歩及ばなかったのだそうだ。

 

 ちまたでは、ダイヤちゃんのお母さんは"シルバーコレクター"という称号で親しまれていたらしい。当人はとても複雑な心境を抱えていたと教えてくれて、あたしは苦笑した。

 

 ダイヤちゃんのお母さんに続いて、母さんは残りのチームメイトのことを嬉々とした声音で語る。

 

「私達のエースはとっても強くてね! 三歳年上の先輩だったんだけど、GⅠレースを二度も制覇したんだよ! 私の憧れの先輩だったなぁ……。あ、そうそう。先輩の性格は超堅物なお嬢様って感じだったんだけど、それがまた面白くって!」

 

 過去を振り返った母さんが、軽快な思い出し笑いを浮かべた。

 

「最初はレース以外に興味ありませんって澄ましてたのに、現役終盤ではもう私達のトレーナーに骨抜きにされちゃって! 最後は駆け落ちまでしちゃったんだから!」

「か、駆け落ち……っ!?」

 

 母さんの口から予想だにしない単語が飛び出して、あたしは顔が赤くなった。

 

「ちなみに、私とダイヤちゃんのお母さんは駆け落ちの共犯者だったり。ふふっ」

「え、ええっ」

「っていうのは半分冗談……あ、駆け落ちしたのは本当なんだけどね」

 

 駆け落ちって、ドラマとか漫画の中にしか出てこないと思っていたから、とてもびっくりした……。

 

「由緒ある家柄だと、やっぱり婚約者は親に決められちゃうものなのかなぁ」

「あ、あたしはよく分からないけど……それだけ、母さんのトレーナーさんが魅力的だったってことだね!」

「そうね……」

 

 現役時代を共に駆け抜けたパートナー同士が恋に落ちて、そのまま結婚するといった例は過去にもいくらか存在する。

 

「落ちこぼれの私を見捨てずに……最後まで可能性を見出そうとしてくれた、カッコよくて優しい人だったなぁ」

 

 母さんの意識が遠い過去へと遡っているのか、言葉尻が段々と小さくなっていく。

 

「母さんは当時、どう思ってたの? トレーナーさんのこと」

 

 母さんに投げかけた質問は、単純な興味本位だった。

 

「ん……それはまぁ、好きになっちゃうよね」

「わぁ……っ! それでそれでっ、告白はしたの!?」

「あはは、さすがに告白はしなかったかな。身の程は弁えていたし、何より先輩の邪魔をしちゃいけないなって思っていたから」

 

 あたしは母さんの言葉に少しだけ引っ掛かりを覚えた。

 

 その発言を解釈すると……本当は、トレーナーさんに対して想いを打ち明けたかったのではないだろうか。

 

「……母さんは、それで良かったの?」

「え? ……んん〜、まぁ、悔いは無いのかって言われたら嘘になるけど……いや、それなりに引きずったかな。ううん、めっちゃ後悔してた」

 

 今となっては良い思い出だけどね、と付け加えて母さんは笑った。

 

「二人がトレセン学園を去った当時、私はまだ高等部一年生でね。ダイヤちゃんのお母さんは他のチームに移籍して、私は自分の実力に見切りをつけて引退したんだ」

「そう、なんだ」

「そこから都内の大学に進学して、今のあの人と出会ったの」

「父さんと……あ、そういえばあたし、二人の馴れ初めとかまだ聞いたことない」

「あの人ひどいんだよ? 彼が告白してきたとき、私を好きになった理由を聞いたの」

「うんうんっ」

「真っ先に口走ったのが『顔』だった」

「……うわぁ」

 

 確かに母さんはとっても綺麗な人だけれど、それを告白の理由にするのはちょっと……。

 

「まぁ、そこから色々あって社会に出て、あの人と結婚して……キタちゃんが生まれてきてくれたの」

「話が飛躍しすぎだよ母さん……」

 

 あたしは正直、その過程に興味があるのだけれど。

 

 母さんはあまり、その辺りを話すつもりはないようだ。

 

「楽しかったこととか、辛かったこととか、後悔したこととか……色々なことがあったけど、今となっては良い思い出」

 

 熱いお風呂に浸かり続けていたことで、少し身体がのぼせてしまった。

 

 久しぶりに母さんと一緒の時間を過ごすことが出来て、あたしはとても満足だった。

 

「今のキタちゃんは何か、辛いことを抱えちゃっているのかもしれないけど……時間が経てばきっと、たくさんのことが素敵な思い出に変わると思う」

 

 最後に貰った母さんからの言葉で、彼女が昔話を通してあたしに何を伝えたかったのか分かったような気がする。

 

「これから頑張ってね、キタちゃん。私、一生懸命応援してるから」

「……うん。ありがとう、母さん」

 

 後悔も、辛いことも、いつかは思い出に変わる……か。

 

「……あぁ。昔の話をしていたら、なんだかまた会いたくなってきちゃったなぁ」

「会いにいけば良いと思う!」

「そうだね。せっかくのお正月なんだから、綺麗なお花を持っていかないとね」

 

 今のあたしが抱いている苦しい想いも、いつかはきっと、愛しい思い出になるのだろうか。

 

 

 

***

 

 

 

 帰省した実家で残りの冬休みを過ごし、今日からついにトレセン学園の三学期が始まろうとしている。

 

 ジュニア級を善戦という結果で締めくくり、あたしは今後、クラシック級に属するウマ娘としてトゥインクル・シリーズに出場していくこととなる。

 

 色々と割り切れない想いを抱えてはいるものの、せっかく新年を迎えたのだから少しは気持ちを切り替えるべきだろう。

 

 多少強引にでも心機一転とした想いを抱いて、あたしは栗東寮を後にする。

 

 制服の上からコートを羽織っているとはいえ、一月の朝方はかなり冷え込む。

 

 かじかんだ指先を温めるために息をはくも、気霜のせいであまりぬくもりを実感できない。手袋をつけてくるべきだったか。

 

「──あっ、キタちゃんおはよーっ!」

 

 一人で通学路を歩いていると、背後から快活な挨拶が飛んでくる。

 

「あっ! あけましておめでとうございますっ、テイオーさんっ!」

「あけましておめでとう! キタちゃん、今年もよろしくね!」

 

 年末以来の再会となるテイオーさんは、新年から元気いっぱいだった。

 

 寒さなんかに負けないと言わんばかりの笑顔を浮かべるテイオーさんを見ていると、何だか元気を分けてもらっているような感覚を覚える。

 

「そういえば、今年はテイオーさんも実家に帰省していたんですよね」

「うんっ。だってボクが帰ってあげないと、パパとママが泣いちゃうからさー」

「素敵なご両親ですね!」

「にししっ、まぁね〜!」

 

 先輩のテイオーさんと雑談に耽りながら通学路を歩いていく。

 

 トレセン学園の校門へ近づくにつれて、学園の生徒やトレーナーさん達の姿が周囲に段々と増えてきた。

 

「キタちゃんも今年からクラシックかぁ。目標はもう決めてたりする?」

「はいっ。あたしはテイオーさんと同じ、クラシック三冠を目指します!」

「うんうんっ、それでこそボクのキタちゃんだよ!」

 

 クラシック級の狙いを三冠路線に定めたあたしの次走は、三月に開催されるGⅡ重賞──スプリングステークス。

 

 皐月賞トライアルとして定められているスプリングステークスは、上位三位までのウマ娘が優先出走権を獲得することが出来るレースだ。

 

 皐月賞が開催される中山レース場を舞台としたレースであるため、スプリングステークスは何としてでも獲っておきたい。

 

「テイオーさんは今年でシニア二年目になりますけど、次走の予定とかは考えているんですか?」

「ん…………とりあえず、阪神大賞典あたりかな」

「おおっ! 長距離ですか!」

 

 阪神大賞典は、トゥインクル・シリーズ最長距離GⅠ重賞──天皇賞(春)の前哨戦だ。

 

 つまりテイオーさんは、天皇賞(春)の連覇を目標に掲げているということだろう。

 

「あたし、テイオーさんのことを応援しています!」

「ありがと、キタちゃん」

 

 憧れの先輩とお互いの目標を宣言しているうちに、トレセン学園の校門が目の前までに迫っていた。

 

 外の空気はとても寒いから、早く教室へ行って暖まろう。

 

 二人揃って校門を通過し、校舎の昇降口へ向かおうとした矢先の出来事。

 

「──あっ、カイチョー! おはよ〜っ!!!」

 

 あたしの隣を歩いていたテイオーさんが唐突に、ルドルフ会長の名前を叫んで駆け出して行ってしまった。

 

 そんなテイオーさんの背中姿に、憧れの存在を追いかけ続けていたあたしの記憶が重なった。

 

 テイオーさんがルドルフ会長を前にした時のように。

 

 ミライさんやテイオーさんを前にしたあたしもきっと、彼女と同じく夢中になって尻尾を振り回していたのだろう。

 

 テイオーさんから少し遅れて、あたしは今一度歩み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 その瞬間──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………………………………ぇ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あたしは、呼吸のしかたを忘れてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 瞬きを忘れた視界に映った()()()()()姿()に、あたしの意識が釘付けにされる。

 

 

 

 

 

 

 

 先程までの寒さが嘘のようにかき消され、心をやき焦がす灼熱が全身にほとばしった。

 

 

 

 

 

 

 

……最後に彼と言葉を交わしたのは、一体いつだったか。そんなことを思い返している余裕など、今のあたしに残されていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 熱に浮かされた頭を働かせ、やっとの思いで理解出来たのは……たった一つの事実のみ。

 

 

 

 

 

 

 

「……………………ぁ……っ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──あの人が今、あたしの前にいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 耳を塞ぎたくなるほどうるさい心臓の鼓動が自分のものだと気付くまで、どれほどの時間を要したのかは分からない。

 

 

 

 

 

 

 

 やっとの思いで我に返ったあたしの視界には、もはやあの人の姿しか映っていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「……あっ」

 

 

 

 

 

 

 

 視線の先に立っていたあの人が校舎の方角へと走り去っていく瞬間、あたしは咄嗟に右手を伸ばす。

 

 

 

 

 

 

 

 当然のように虚空を掴んだ右手へ視線を落とすと、突然、全身が溺れてしまうような息苦しさに襲われた。

 

 

 

 

 

 

 

「………………」

 

 

 

 

 

 

 

……この半年間で、あたしはきっと()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 憧れの存在から夢をもらった、感謝の気持ちとか。

 

 

 

 

 

 

 

 あたしを見出してくれた恩人に対する、底知れない罪悪感とか。

 

 

 

 

 

 

 

 複雑な感情でぐちゃぐちゃになった心に、そのまま蓋を被せて放置し続けた結果……。

 

 

 

 

 

 

 

「………………トレーナー、さん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 拗らせ過ぎてしまったあの人への想いはもう、手の施しようがない段階まで至っていたようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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