半年ぶりにあの人の姿をトレセン学園で見かけて以来、あたしは彼と接触する機会をひたすらに窺い続けていた。
理想としては、学園の敷地内でさりげなく接触することが一番良いだろう。
出会い頭を装えば、わずかな動揺につけ込んで会話に持ち込むことが出来るかもしれない。
「…………」
しかし残念ながら、二千名以上が在籍するトレセン学園の敷地内において、都合の良い偶然がそうそう起こってくれるはずも無く……。
「……? キタちゃん。ここ最近元気ないけど、何かあった?」
あの人の元へ直接赴く勇気を出せないヘタレなあたしは、何も行動を起こせないまま無為に時間を浪費していた。
あの人の姿を学園で見かけてから、早くも一週間が過ぎている。
「……ぇ、あ、ああっ、ごめんねダイヤちゃんっ。少し、ぼーっとしてた……あはは」
午前の授業が終わったお昼休み。
昼食を共にするダイヤちゃんからも、あたしは心配の眼差しを向けられてしまう。
「キタちゃん、あんまりお腹空いてないの?」
ダイヤちゃんの視線が、あたしの前に置かれた料理──ほとんど手がつけられていない──に落とされる。
ダイヤちゃんと同じ料理を頼んでいたはずなのに、皿の上に乗っているその量には半分近い差が生まれつつあった。
「う、ううんっ。ちょっと、考えごとしてただけ」
慌てて料理を口に運ぶあたしだけれど、ダイヤちゃんの指摘通りあまりお腹は空いていなくて。
箸を動かす右手が、少しだけ億劫だった。
「ダイヤちゃんは最近、よく食べるよね」
「えっ、そ、そうかな……」
あたしとは対照的に、ダイヤちゃんは注文した料理を軽快に口へと運んでいく。
三学期の始業式辺りから、ダイヤちゃんは毎日がとても楽しそうだった。
その理由は何となく察していたけれど、本人に直接聞いてみようとは思えなかった。
「キタちゃん。もし何か思い悩むことがあったら、気分転換とかしてみると良いんじゃないかな」
「気分転換……」
ダイヤちゃんの提案は最もだ。
心が沈んだ状態で何かに取り組んだとしても、パフォーマンスが低下してロクなことにならない。
「散歩とか、カラオケとか、ゲームセンターとか。クレーンゲームとか楽しいよ!」
「あ、あたしはゲームとか、あんまり上手じゃないからなぁ……」
そういえば、テイオーさんもゲーム上手だったよね。
ダイヤちゃんはチームが違うから予定とか合わないだろうし、また今度テイオーさんに連れて行って貰おうかな。
「じゃあ私が教えてあげる! キタちゃん、今日の放課後って何か予定ある?」
「今日、は……あ、トレーニングかも」
「あ、そっか。……やっぱり、小学校の頃みたいにはいかないね」
「仕方ないよ。でもありがとう。あたしのこと、心配してくれて」
ダイヤちゃんの心優しい気遣いを噛みしめながら、あたしは料理を一口含む。
「ダイヤちゃんはトレーニングがオフの日って、何やってるの?」
「ん〜、基本的にはレースの勉強とか、授業で出された課題とかかな。あ、でも今日はゲームセンターに遊びに行こうと思ってて!」
ダイヤちゃん曰く、行きつけのゲームセンターに新しい
「兄さまも誘ったんだけど、仕事しなきゃーって断られちゃって。せっかく勇気を出したのに、兄さまのいけず……」
「あ、あはは……。中央のトレーナーさん、みんなとっても忙しそうだからね」
「そうだよね……はぁ。少しは、休んで欲しかったんだけどなぁ」
さりげなく惚気をこぼすダイヤちゃんに苦笑を返しながら、あたしは皿の上に乗った料理に箸を伸ばす。
「…………あ」
残りの料理を口に運ぶダイヤちゃんを見ていた時、彼女の言葉が今一度あたしの脳裏をよぎる。
ダイヤちゃん、今日
なるほど。
……そっか。
***
チーム・スピカでのトレーニングを終え、制服に着替えてチームメイトと別れた後、あたしは校舎別棟のとあるフロアへと足を運んだ。
少しだけトレーニングが長引いたため、時刻はもうじき十九時を迎えようとしている。
真冬の季節であるため日没も非常に早く、足元は窓から差し込む月光だけが照らしていた。
普段の賑やかなトレセン学園とは異なり、夜の校舎は少し不気味だ。
防寒対策として制服の上からコートを羽織っているとはいえ、寒さが堪える。
凍える指先を吐息で温めながらも、あたしは目的地への歩みを止めなかった。
静まり返った校舎別棟の廊下を進むことしばらく。
「…………」
隙間から微かな光が溢れる扉の前で、辺りに響き渡るあたしの足音が止んだ。
目線を少し上げると、『アルデバラン』というチーム名が記された掛札が視界に飛び込んでくる。無意識に、スクールバッグの持ち手を握るあたしの指先に力がこもった。
「…………」
……ダイヤちゃんのトレーニングがお休みだと分かった瞬間、あたしは内心でチャンスだと考えた。
トレーニングがオフである以上、あの人のチームに所属する担当ウマ娘達は各々の時間を過ごしている確率が非常に高い。
加えてトレーナーという職業に従事する方々は、担当ウマ娘を指導するほか、トレセン学園の事務作業をいくらか請け負っているとのこと。
沖野トレーナーの話によると、学園の事務作業はトレーニングがオフの日に集中して片付けることが多いそうだ。
以上の要素を組み合わせると……あの人は大半の生徒が下校した時間帯でも、自身のトレーナー室に残って仕事をしている可能性が高い。
あの人と接触する機会を窺い続けていたあたしだったが、この一週間で”偶然”に頼ることの無力さを痛感した。
周囲の視線を気にしなくて良い時間帯ということも相まって、この瞬間はまさしく絶好のチャンス。
"勢い"に任せてあの人のトレーナー室へ足を運ぶと、案の定その扉からは照明の光が溢れていた。
扉の取手に手を伸ばし、あとはなけなしの勇気を振り絞って一思いにそれを引くだけ。
「……すぅ…………はぁ…………っ」
深呼吸を繰り返して緊張を和らげる。暴れる心臓を必死に宥め、あたしはついに決意を固めた。
その時である。
「──ッ!?」
極限まで敏感になったウマ娘の聴覚が、はるか遠くから響き渡ってきた足音を捉えた。
「だ、誰か来たっ」
カツンカツンと穏やかな足音が背後の階段を登って、こちらの方向へと近づいてくる。
あたしは極力物音を立てずにその場を離脱し、咄嗟に突き当たりの角へ身体を隠した。
その場で息を潜めて足音に注意を向けていると、廊下の奥からひとりの女性が現れる。
トレセン学園の制服にコートを羽織った生徒には、心当たりがあった。
「マックイーン、さん……?」
レース界の名門、メジロ家の令嬢──メジロマックイーン。
菊花賞出走後に繋靭帯炎を発症し、約八ヶ月間の長期療養でトレセン学園を休学していた先輩ウマ娘。
復学を果たしたその後、あの人が顧問を務めるチーム・アルデバランへと移籍し、新たな目標に向けて邁進している立派な方だ。
マックイーンさんが、つい先程まであたしがうじうじと佇んでいた扉の前に立つ。
数回のノックを挟んだ後、彼女はあっさりと部屋の奥へ入っていった。
「……行っちゃった」
廊下の角から顔を出し、あたしは部屋の様子を外から窺う。当然、中がどうなっているのかなんて分かるはずがなかった。
こんな時間帯にトレーナー室を訪れたマックイーンさんのことだから、何か大事な用事があるに違いない。
残念だけど、寮の門限もあるため今回は諦めるしかないか。
「…………い、いやでも、せっかくここまで来たんだし」
しかし、この瞬間に訪れた絶好のチャンスが次にいつ回って来るか分からない。
今の勢いを失ってしまえば、きっともう勇気なんて振り絞れそうにない。
……決めた。少し寒いけれど、マックイーンさんの用事が終わるまでしばらく待っていよう。
あたしは持参したスクールバッグからあの人への興味を認めたメモ帳を取り出し、今一度彼と話したい内容を頭の中で整理した。
窓から差し込む月光とスマホのライトを併用して、メモ帳に記された文字に視線を巡らせる。
隠しきれない期待感と暴れ回る緊張感がせめぎ合う中で、あたしはペラペラとページをめくった。
それから大体、一時間以上が経過した頃だろうか。
「……ぅ、けっこう寒いなぁ」
最初は無視することが出来ていた寒さだったが、いつの間にか我慢出来ないくらいまで身体が冷え切っていた。
厚着した上半身はまだしも、下半身から覗く素肌は凍ってしまいそうなほどに冷たい。
トレーニング後に急いで着替えたものだから、ちゃんと汗を拭き取ることが出来ていなかったようだ。今更になって、汗に体温が奪われていく。
……あ。あたし今、ちょっとにおうかも? 対策はちゃんとしてるはずだけど……大丈夫かな。
寒さを必死に我慢していると、今度は無性にお手洗いに行きたくなってしまった。
最後にお手洗いへ行ったのはトレーニングが終わった直後だったし、一瞬ならこの場所を離れても平気だろう。
あたしは屈んでいた身体を起こして、一番近くのトイレへ駆け込む。手早くお手洗いを済ませたあたしは、すっきりとした感覚を抱いたまま先程の場所へ戻った。
水で洗った手をハンカチで拭きながら、あたしはあの人のトレーナー室へ視線を向ける。
「……え?」
その瞬間、あたしはトレーナー室から照明が消えていることに気がついた。
どうしてこんなタイミングで……っ、と、あたしは
トレーナー室の扉を確認するも、案の定それは施錠された後であった。
「追いかけないと……っ」
あの人達が部屋を出てから、それほど時間は経っていないはず。今から追いかければ、ギリギリ間に合うはずだ。
あたしは焦燥に駆られた勢いを使って走り出す。
階段を下り、昇降口でローファーに履き替え、大慌てで校舎を飛び出した。その段階ではまだ、あの人の背中姿を捉えることは出来なかった。
校門を抜けたあたしは、このチャンスを逃してはいけないと、迷わずトレーナー寮がある方角へ走る。
そして、素早く行動したことが功を奏したのか。
「あっ」
あたしの視線の先で、求め続けていたあの人の背中姿をついに捉えることが出来た。
心臓の鼓動が暴れ出すのを感じた。
この半年間で、あの人と対面する際のシミュレーションは完璧だ。
あとは勇気を振り絞ってあたしから話しかけるだけ。
ここで行かなきゃ、あたしはヘタレな自分のことが本当に嫌いになってしまう。
勢いに任せた足を止めてはいけない。うじうじして蹲っているくらいなら、もういっそ
そして、あの人との距離があと僅かに迫った頃だろうか。
「……?」
厚手のコートを右腕にかけて歩くあの人の様子に、あたしは違和感を覚えた。
肌寒さが最高潮に達しつつある時間帯にも関わらず、あの人はスーツの上に何も羽織っていない。彼はもしかしたら、暑がりなのかもしれない。
帰路に着くあの人の足取りもどこか覚束なくて、今にも倒れてしまいそうな…………。
え。
「──っ!?」
突然、あたしの前を歩くあの人の身体が大きく傾いた。
不自然に左右に揺れるその様子は、倒れてしまう自身の身体を必死に支えているようであった。
しかし、そんな抵抗も虚しく、重力に逆らえなくなったあの人の身体がゆっくりと倒れていく。
「と、トレーナーさん……っ!?」
あたしは走る速度を限界まで引き上げ、地面に倒れ込む寸前だったあの人の身体を支えることに成功した。
「あ、あのっ、大丈夫ですか、トレーナーさんっ!」
血相を変えて声をかけるあたしだったが、荒々しい呼吸を繰り返す彼には届いていないようだった。
様子がおかしい。あたしの身体に支えられている彼は今、意識を失ってしまっている。
「ど、どうしよう……っ」
あの人の身体に触れていて気がついたのだが、全身が異常なまでに熱っていた。
彼の額に手を当てると、発熱の症状をありありと確認することができる。
あたしはひとまず、彼を安静な場所へ送り届けなければならない。
真冬の季節に屋外で身体を横にすることは論外だ。トレーナー寮へ付き添うことが最善の選択だが、あたしはあいにく、あの人が住まう寮の部屋番号を知らない。
それなら、あたし達が普段生活している栗東寮はどうだろうか。いや、それだと間違いなく騒ぎになってしまって、彼だけに限らず大勢の人達に迷惑を掛けてしまう。
となると残された選択肢はもう、学園の保健室しかない。あそこなら、彼の身体を安静にするためのベッドがあるはずだ。
「すぐ楽になりますからね、トレーナーさん」
焦燥に駆り立てながらもしばらく考えた末、あたしは意識を失ったあの人の身体を横抱きにし、来た道を急いで引き返した。
***
保健室のベッドにあの人の身体を下ろしたあたしは、近くに置いてあった背もたれのない丸椅子に腰を下ろして彼の様子を見守っていた。
寝苦しそうに唸されている彼の身体に毛布と布団を重ね掛け、襟元のボタンをそっと外す。
「……………………」
その途中、あたしは彼の顔が目と鼻の先にあったことに気付いてしまう。
いつの間にか彼の整った顔立ちを食い入るように見つめていたことに気付いたあたしは、ハッと我に返って距離を離した。
熱に魘されている彼が自然に目を覚ますまでは、少なくともあたしが見守っていなければならない。
彼を保健室まで運んできたあたしには事情を説明する義務があるし、何より、苦しんでいる彼を放っておくことなんて出来なかった。
掛け時計の秒針が大仰に響く中、あたしはただ静かにあの人のことを見つめ続ける。
ここ一週間ほどあの人の様子を遠目から見ていたあたしだったが、その過程で彼の
一番大きな変化としては、彼のまとう雰囲気だろう。
半年前と比較すると表情がとても豊かになって、担当ウマ娘のダイヤちゃんと話している瞬間なんかは特に嬉しそうに微笑んでいた。
今の彼から感じ取った雰囲気は、あたしの記憶の中に残っているあの人と瓜二つ。
あの人がミライさんに向けていたそれと、全く同じ眼差しだった。
少し、親友のダイヤちゃんが羨ましかった。
「……あ、ダイヤちゃんに連絡しないと」
彼はダイヤちゃんの担当トレーナーなのだから、このままだと彼女も心配してしまうだろう。
スカートのポケットからスマホを取り出して、あたしはダイヤちゃんに連絡を送った。
幸いすぐに返信が来て、大急ぎでこちらに向かってきてくれるとのこと。
彼が目を覚ました際、あたしだけでは気まずいと思う。彼が意識を取り戻す前にダイヤちゃんが来てくれたら、大人しく入れ替わるべきだろう。
彼の様子を見守る傍ら、あたしは改めて手帳を広げて時間を潰す。
部屋の電気は付けずとも、周囲を照らすのは窓から差し込む青白い光でこと足りる。
本当はこんな状態の彼と話すのは良くないと分かってるけれど、二人きりという絶好の機会はもう二度と訪れない可能性が高い。
少しだけ、少しだけでもいいから話がしたい。
そんな想いで手帳をめくり、あたしは彼と話したい内容を整理していった。
それから、大体三十分程度が経過した頃だろうか。
緊張のせいか、あたしは先程から喉の渇きを感じていた。
普段から持ち歩いている水筒の中身はトレーニングの最中に飲み干してしまったし、追加で買ったスポーツドリンクもとっくに空っぽだ。
ベッドに横たわる彼がいつ目覚めるかは分からないけれど、発熱してしまった彼が意識を取り戻した後のことに備え、何か飲料水を用意しておいた方が良いかもしれない。
あたしは足元に置いたスクールバッグから財布を取り出して、保健室を後にする。購買は当然のように閉まっているため、あたしは保健室から一番近い自販機を探した。
少し歩いた先で見つけた自販機の前で立ち止まり、あたしはひとまず自身のお茶と彼用の飲料水を手に入れた。
「……あ、そういえば」
その場から踵を返した瞬間、あたしはふと思い出す。
(あの人って、たしか……コーヒーが好きだったよね)
ダイヤちゃんから教えてもらった、あたしの知る数少ないあの人の情報。
風邪をひいてしまった状態で渡しても良いのか少し迷ったけれど、あるに越したことはないだろう。
そこから、あたしの優柔不断が始まった。
「う、う〜ん……コーヒーの種類ってどれが良いんだろう。とりあえず全部の微糖を買って、一応無糖と……あ、ホットとアイスの二種類ある。んん……とりあえずどっちもかな」
小銭を投入して、ボタンを押す。
「風邪をひいた時はスポーツドリンクが良いって聞くけど、もしかしたらお茶の方が好きかもしれないよね。いや、それなら水? 白湯とか? 炭酸水だって好きかも……」
ピッ……ゴトンッ。
「熱があると口の中が不味く感じるから、暖かくて甘いおしることかが良いかも……? あ、トレーナーさんコンポタの方が好きかな」
ピッ……ゴトンッ。
ピッ……ゴトンッ。
ゴトンッ、ゴトンッ、ゴトンッ、ゴトンッ……………………。
***
「…………やっちゃった」
両腕に抱えきれないほどの飲み物を抱えたあたしは、トボトボとした足取りで来た道を引き返す。
こんなはずでは無かったのだけれど、買ってしまったものは仕方がない。それに、これだけ種類を用意すればあの人だって好みの飲み物を選べるはずだ。
購入した飲み物を落とさないよう、努めて慎重に廊下を歩く。そのため、保健室へ戻るまで少し時間が掛かってしまった。
扉を開けるのに苦労しながらも何とか部屋の中に入る。
余った飲み物をどうしようかと考えながら空間を隔てるカーテンを開けて、ベッドに横たわるあの人の様子を確認しようとした。
……その矢先のことである。
「………………あっ」
ベッドに預けていた背中を起こし、物憂げな表情で遠くを眺めるあの人が、あたしの視界に飛び込んできた。
青白い月明かりに照らされた彼の横顔を見て、心臓の鼓動が暴れ出すのと共に声がこぼれる。
「…………え?」
そんなあたしの呟きを捉えたのか、困惑の色を浮かべた彼がぼんやりとこちらを見つめてきた。
初めて彼と視線が交錯した瞬間、あたしの心に込み上げてきたのは強烈な安堵だった。
「……目を、覚まされたんですね。あぁ、よかった……」
「…………キタサン、ブラック?」
意識を取り戻したばかりで状況を把握しきれていないのだろう。少し震えた声音で、彼があたしの名前を呟いた。
「あっ、あたしのこと……覚えていて、くれたんですね」
彼があたしの名前を呼んでくれた。ただそれだけのことなのに、あたしの心はどうしようもなく舞い上がってしまう。
「どうして、君が……?」
「ぁ、あっ、えっと……そ、それは……っ」
冷静に状況を理解しようとしている彼とは裏腹に、あたしは緊張で声が裏返り、言葉を分かりやすく詰まらせた。
……落ち着いて、あたし。この瞬間のために、あたしはちゃんと準備してきたではないか。
「……ぐ、
あたしは声が裏返らないよう努めて冷静に、彼を保健室まで運んできた経緯を説明した。
「そう、か……ありがとう。俺のことを助けてくれて」
彼があたしに、お礼を言ってくれた。とても、とても嬉しい。
「意識が戻って何よりです。本当に、ほんとうによかった……っ」
涙ぐんでしまうほど舞い上がってしまうなんて、やっぱり今のあたしはおかしくなってしまっているに違いない。
このまま彼の前に突っ立っているのは失礼だと感じたあたしは、先程まで腰掛けていた丸椅子に体重を預け、勇気を出して積極的に話しかけた。
「あ、あのっ、喉は乾いていませんか? 飲み物をその、少し……かっ、買い過ぎてしまって」
あたしの言葉を受けた彼は、両腕に抱える飲み物の量に驚愕している様子であった。
「コーヒーがお好きだとっ、ダイヤちゃんから聞きました……っ」
「……うん。でも、その量は……?」
「どれが良いかなって悩んじゃって、気付いたらその…………あ、あは、あはは」
落ち着こう、一旦落ち着こう。
相手の気持ちを考えずに突っ走ってしまうのは、あたしの悪い癖だ。
「…………」
ほら見ろ、あたしが突っ走ってしまったせいで彼が思いっきり困惑しているではないか。
「…………ぁ、ご、ごめんなさい。あたしがこんなことしても、迷惑なだけでしたよね……」
……あぁ、またやっちゃった。
「迷惑だなんて、全然思ってない。……ありがとう、俺のことを気遣ってくれて」
体調不良の彼に気を遣わせてどうするの。トレーナーさん、苦笑しちゃってる……。
ジェットコースターのように揺れ動く感情に弄ばれながらも、あたしは彼に対して微糖のホットコーヒーとスポーツドリンクを差し出した。
……絶対、こんな量いらなかったよね。
スポーツドリンクに口をつけた後、彼があたしに向かって申し訳なさそうに声をかけてきた。
「その、俺が言うのもアレかもしれないけれど……寮の門限は、大丈夫なのか?」
栗東寮の門限は二十二時に設定されている。
トレセン学園を出たのが二十一時を過ぎた頃だったので、今の時間は確か、えっと……………………。
「……あ、あぁ〜…………はい、大丈夫です!」
「……ごめん」
「大丈夫です、本当に気にしないで下さい。こう見えて、反省文は書き慣れているんです!」
以前も栗東寮の門限を破ってしまったことがあったけど……あの時の寮長さん、怖かったなぁ。
……でも、彼を助けることが出来たのだからあたしは満足だ。
彼と対面して余計に緊張してしまったせいか、余計に喉が乾いた。
あたしは右手に握っていた缶が何かも知らずにタブを開け、喉を潤すために一口含んだ。
「──ッ!?!?」
その直後、瞬く間に広がった強烈な苦味があたしの脳天を突き抜けた。
慌てて手にした缶を確認すると、それは彼のために用意していた無糖のコーヒーであった。
「くぅっ、──ッ! ……ぅぅ〜っ!! に、苦いぃっ」
無糖のコーヒーを飲んだのは初めてだったけれど、こんなにも苦いだなんて思ってもみなかった。
「…………大丈夫?」
あたしがコーヒーの苦味に悶えるせいで、またしても彼に余計な心配をかけさせてしまう。
「俺が貰ったのは微糖なんだけど……交換する?」
「……ぉ、おねがいします」
あたしは涙目になりながら手にしたコーヒー缶を渡して、彼から未開封のそれを受け取る。
口の中に蔓延る苦味を払拭するような勢いで、あたしは微糖のコーヒーを流し込む。幸い、これは微糖の中でもかなり甘い種類に分類されるもののようで、先程のような刺激を感じることはなかった。
そんな醜態を晒したあたしを見て、あの人は子供を見守る親のように苦笑していた。
落ち着きの足りていないあたしに続いて、彼が飲みかけのコーヒー缶に口をつける。
「…………」
……ん、ぁ、そういえば。
「──ッ!?!?」
これって……アレだよね。
「ぉっ、ぉおお──っ、……ッ!? ぐぅ”……ぅ”ぅ”う”」
間接、キス。
…………………………………………え。
う、うわわ……っ!?
「ゲホッ、げほ……っ! に、にが……っ」
缶に残ったコーヒーを根こそぎ流し込む彼の様子を見つめる傍ら、あたしは先程のそれとはまた別の意味で悶々としていた。
「はぁ、はぁ……ふぅ……………」
このまま感情が暴走してしまうのではないかと思うほどに内心で悶絶していたあたしだったが、ベッドに質量のある何かが倒れるような音が聞こえた瞬間、すぐに我に返った。
荒っぽい呼吸を繰り返す彼を見て、今一度浮かれていた自身の気を引き締める。
「と、トレーナーさん……大丈夫ですか?」
「……大丈夫。変な心配かけさせて、ごめん」
彼の返答を最後に、勢いに任せて続けていた会話が途切れてしまった。
あたしと彼の二人きりの空間に、気まずい沈黙が訪れる。
あの人と再び顔を合わせるまでの半年間で、あたしは彼と話したいことをしっかりと整理してきた。
だから後は、勇気を出してあたしから話しかけるだけ。
「……半年ぶり、ですよね」
最初はまず、他愛ない話題から。
「少し、印象が昔にもど……かっ、変わりましたね」
「そうかな……そうかも」
しかし、ここで一度会話が途切れた。
……これじゃあダメだ。あたしが彼から聞きたかった
「…………トレーナーさん。つ、つかぬことをお聞きしたいんですけどっ」
「うん?」
先程から尻尾が忙しなく揺れ動いて落ち着かない。
彼にその話題を切り出す勇気は準備出来ていないが……もう口に出してしまったのだから、後は勢いだ。
「あの……あたし達、昔どこかでお会いしたことって…………ありませんか?」
他愛ない話題の中でさりげなく探りを入れるのが理想だったけれど、勢いに任せたせいで直球になってしまった。
この質問はずっと、それこそダイヤちゃんのトレーナーさんが過去のあの人だと気付いた瞬間から聞きたかった内容だ。
もはや、この質問にあたしの全てが詰まっていると表現しても過言ではない。
「──え?」
ドキドキと返事を待つ時間すら無く、答えは簡単に返ってきた。
あまりに即答すぎて、あたしはポカンと口を開けたまま微動だにすることが出来ない。
「………………ぁ、ああえっとっ……あれですっ!」
不自然な間を作ってしまった後、我に返ったあたしは慌てて言葉を取り繕った。
「トレーナーさんの印象が、昔出会った人に似ていたので。つ、つい…………」
「それって、何年くらい前?」
彼がベッドから身体を起こして問い返してくる。
「え、えっと…………三年から、五年くらい前だった…………はずです」
本当は違う。四年前だ。
四年前の、十一月二十五日。
世界的アイドルウマ娘が日本のレースに出走した、忘れられるはずのない特別な一日。
「…………ごめん」
明確に分かっていても回答を濁してしまったのは、きっと……
しばらく時間をおいた後、彼はあたしに対して申し訳なさそうに謝った。
「あたしこそすみません、突然こんなことを聞いてしまって。あたしの失礼な勘違いだったので、どうか気にしないで下さい」
元々淡い期待だったと覚悟は出来ていたのだろう。少しだけショックを受けたことは実感しているけれど、上手に笑ってごまかすことができた。
「…………」
「…………」
再び訪れた沈黙は、心なしか先程よりも重いと感じた。
申し訳なさそうに俯くあの人を見るに、あたしはまた余計な迷惑をかけてしまったのかもしれない。
この沈黙は彼にとって、とても居心地の悪いものに感じていることだろう。
あたしが何か、話題を振らなくちゃ。
なんでもいいから、話題を……。
「…………」
視線を彷徨わせながら真っ白になった思考を働かせ、あたしは必死に場を繋げようと話題を見繕う。
その途中……足元に置いていたスクールバッグの中身が偶然、あたしの視界に止まった。
「………………ぁ」
四年前のあの日、憧れの存在から託された彼女の形見。
いつか、いつか渡そうと大切に預かっていた、ミライさんの耳飾り。
再び学園であの人を見かけた瞬間から肌身離さず持ち歩いていたそれを見て……あたしの中に、大きな衝動がなだれ込んでくる。
「──あ、あのっ!」
誰かが背中を押してくれたような気がした。
「あ、あたし! 実は、あなたに……っ」
大きな勇気を握りしめたあたしは、椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで立ち上がって。
「ずっと……っ、お渡ししたかったものが──」
きょとんとするあの人へ向けて、あたしは大切にしていた宝物を──。
「──兄さまッ!」
差し出す寸前、血相を変えて保健室に飛び込んできた少女の登場によって、あたしの声は遮られてしまった。
空間を隔てていたカーテンが凄まじい速度で開かれ、息を切らした親友のウマ娘──ダイヤちゃんが姿を見せる。
「………………ぁ、ダイヤちゃん」
あの人へ向けていたあたしの眼差しが、制服姿のダイヤちゃんに移る。
「ダイヤ、どうして……?」
「キタちゃんから連絡を貰ったんです。兄さまが、倒れてしまったって」
「そうだったのか」
ダイヤちゃんの方へ向けれらていたあの人の視線が、今度は反対側に立つあたしに向けられた。
「あ、あたしと二人きりだとトレーナーさん、気まずいかなって思っちゃって…………ぁ、あはは」
大切なものを持った手をさりげなく背後に回して、あたしは彼の疑問に答える。
ダイヤちゃんの登場によって、この空間に漂っていた重苦しい雰囲気が嘘のように霧散した。
あの人とダイヤちゃんが会話する様子を傍観し、彼の表情をこわばらせていた緊張が和らいでいく瞬間を見届ける。
ダイヤちゃんが駆けつけて来てくれたため、あたしは自身の役目を果たしたと考えていいだろう。
……そういえば、”彼が風邪をひいている”という認識がいつの間にか、頭からすっかりと抜け落ちていた。
ずっと自分のことを話してばかりで……余計な迷惑を、掛けてしまったかもしれない。
「さてと……ダイヤちゃんが来たので、あたしはもう行きますね」
後ろ手に隠した耳飾りを足元のスクールバッグにしまって、あたしは今一度椅子から立ち上がる。
最後に彼へ一礼した後、あたしはそそくさと保健室を後にした。
「…………トレーナーさん、無事で良かった」
窓から差し込む月明かりを頼りに廊下を進み、門限を過ぎてしまった栗東寮への帰路に着く。
「うぅ、絶対寮長さん怒ってるよ……まぁでも、困ってるトレーナーさんを助けることが出来たし、罰掃除くらいどうってことないよね」
栗東寮へ戻る足取りが重く、億劫だと感じているのは残念ながら気のせいではないだろう。
調子に乗って買い過ぎた飲み物がバッグに詰まっていることも、その要因の一つかもしれない。
……ついさっきコーヒーをがぶ飲みしたせいか、またお手洗いに行きたくなってしまった。
学園から寮まで少し距離があるし、ここを出る前に済ませておこう。
正直、夜のトイレって一人だと怖いよね。
幸い、設置された照明が人を感知して点灯する仕組みになっているため、そこまで不気味では無いのだけれど。
現在地から一番近いトイレに寄って、手短にお手洗いを済ませる。
水道の水で手を洗い、ポケットに忍ばせていたハンカチで水分を拭き取った。
「…………あれ」
その時ふと、あたしは
濡れていた手をしっかりと拭き取ったにも関わらず……右甲の辺りには何故か、
おかしいなと思いながら水滴を拭うも、また上からそれが落ちてくる。
…………上?
不思議に感じて頭上を見上げるも、この学園の校舎で雨漏りはさすがに考えられない。
じゃあ一体、この水滴は何なのか。
その答えは、あたしの目の前に設置された鏡を見た瞬間……すぐに分かった。
「…………あ、れ。何、なにこれ」
両手の甲を止めどなく濡らす水滴がまさか、自分の目尻からこぼれ落ちた
拭っても拭ってもそれが止まることはなく、自分が泣いていると自覚した瞬間に全身の力がふわりと抜けて、そのまま地面にへたり込んでしまった。
身体の過剰な反応に対し、心に込み上げてくる感情が全くと言っていいほど追いついていなくて。
その不可思議な感覚はまるで、泣きじゃくる自分自身を側から傍観しているようであった。
あたしの嗚咽が周囲に響き渡る中、どうしてあたしは泣いているのかと自身の心に問いかけた。
淡い記憶に想いを馳せ、無駄だと分かっていても期待してしまったどうしようもない自分を振り返って、あたしはようやく気付く。
長年見続けてきた大切な夢は……全部、あたしの勘違いだったのだ。
***
最後にぐっすりと眠ることが出来たのは、一体いつだっただろう。覚えている限りだと、ダイヤちゃんを自主トレーニングに誘った前日くらいだろうか。
ここ半年程度、不安や緊張で眠れない日が続いている。
ベッドに入って浅く目を瞑り、ただただその場でじっとしているだけ。ようやく眠れたと思って瞼を開くと、大体一時間も経っていないことが大半だった。
あの人と半年ぶりに会話をした日から、今日で二日。
保健室から退室したその後、門限を破ったあたしは案の定寮長のフジキセキさんにこっぴどく叱られた。
だがしかし、門限を破ったあたし達に罰が課せられることは無かった。そのことを不思議に思ったあたしだったが、共に門限を破ったダイヤちゃん曰く、あの人が一通りの事情を説明してくれたとのこと。
今日もいつものように朝早く目が覚めてしまったあたしは、ベッドから出て寝巻きを脱ぎ、学園指定のジャージに着替える。
睡眠という行為に対して億劫な感覚を抱くようになっていたあたしは、いつの間にか早朝にジョギングをすることが日課になっていた。
ジョギングの場所は気分によって様々で、今日は何となく河川敷の方向へ行くことにした。
どうせ眠れないのだから、身体を動かしていた方が気分が紛れる。
時間帯的には多くの人々が深い眠りについているような頃合いで、日が昇るにはまだまだ程遠い。
同室の子を起こさないように部屋を出て、憂鬱な感情を払拭するように暗闇の中をひたすら走る。
そして、ジョギングを始めてから一時間以上が経過した頃だろうか。
少し身体が疲れたと感じたあたしは、周囲にあった自販機で飲料水を購入し、併設されていたベンチで休憩を挟むことにした。
身体が心地良い疲れを感じているものの、残念ながら眠気が訪れることは無い。
ペットボトルを握りしめて、あたしはぼんやりと物思いに耽る。
モヤのかかった思考で考えるのは、漠然とした自分自身の今後について。
長年見続けてきた夢から覚めたあたしだが、それは結局、憧れという存在に盲目的だったあたしの勘違いに過ぎなかった。
あたしは数多と存在するミライさんに憧れたファンの一人で、少しだけ特別なリップサービスを真に受けてしまった残念なウマ娘。
故に、あの人があたしのことを覚えていないのは当たり前のこと。
あたしに耳飾りを託してくれたミライさんには申し訳ないけれど、これ以上図々しく彼に迫る気力は残っていない。
……ミライさんの耳飾りといえば。
最近、少し考えるようになったことがある。
長年大切に預かっていたミライさんの耳飾りだけれど……それを貰った人って、本当は、あたし以外にもたくさんいるのではないだろうか。
よくよく考えてみれば、あれってどう考えてもファンサービスの一種だったよね。
世界的アイドルウマ娘のファンサービスを本気にして、あたしはミライさんから想いを託されたんだって意気込んで……。
……あぁ、あたしってほんと、バカだなぁ。
それに。
それにもう、あの人の隣にはかけがえのない相棒が存在している。
二人の間に割り込むことなんて、負い目を抱えたあたしに出来るはずがない。
「…………はぁ」
あたしの口から白いため息がこぼれる。
人気の少ない河川敷のベンチに一人で腰掛ける自分が、惨めに思えて仕方がなかった。
「──あ」
そんな時である。
手元のペットボトルに視線を落としていたあたしの頭上から、少し驚いたような男性の呟きが聞こえたような気がした。
「え?」
誰だろうと思って、あたしは俯いていた顔をおもむろに上げる。
……まさか、こんなタイミングで彼と出会うことになるとは思ってもみなかった。
「ぁ、き、奇遇ですね……っ」
普段のスーツ姿とは異なる、運動しやすいジャージに身を包んだダイヤちゃんのトレーナーさんがあたしの前に立っていた。
少し汗をかいているは、彼もあたしと同じようにジョギングをしていたからだろう。
右手に持ったペットボトルを見るに、彼は今から休憩しようとしているに違いない。
「あっ、ここ座りますか? すみません気が利かなくて」
あたしは肩幅を限界まで小さくしてベンチの端に寄り、周囲に一つしかないそれを彼へ譲った。
本当はどこか別の場所に行った方が良かったかな。あたしって実は、結構気遣い苦手なのかも……。
ダイヤちゃんのトレーナーさんはあたしと反対側の端に、遠慮がちに腰を下ろす。
「……」
彼が飲料水を口にする姿を、あたしは横目でちらちらと盗み見ていた。
二人きりの空間に沈黙がやってくる。とても息が苦しくて、全身に激しい緊張が駆け巡った。
勇気を出して、あたしから声を掛けなきゃダメだよね。
でも……何を話せば良いのか、全然分からないよ。
「──キタサンブラックは、朝練?」
あの人を隣にして頭が真っ白になっていると、彼が唐突にあたしの名前を呼んだ。
彼からあたしに話しかけてくれたことって、そういえばあまり無かったような気がする。
「え、は、はいっ。最近、早く目が覚めてしまうことが多くて……トレーナーさんは?」
たったそれだけのことで、あたしは内心舞い上がってしまう。
「最近、運動不足だったから……ジョギングをやろうと思って」
「そ、そうなんですね……」
だがしかし、会話は再びすぐに途切れてしまった。
話が続かない典型のような返事を繰り返してしまうあたり、本当にどうしようもないなと思った。
「キタサンブラック」
「は、はい……っ」
今度もまた、あの人の方から話しかけてきてくれた。彼の視線がこちらに注がれている。
次は一体何だろうと、あたしは両膝の上で握り拳を作った。
「──
何の脈絡もなく、突然、彼があたしにお礼の言葉を言った。
「…………ふぇ?」
あたしの口から、変な声がこぼれる。
突然彼からお礼を言われるなんて……あたし、彼に感謝されるようなことを何かしてたかな……。
「二日前のお礼が……まだ言えてなかったから。それを、伝えたくて」
二日前……ぁ、あぁ……。
「い、いえいえそんな……っ。当然のことをしたまでですからっ!」
そういえばトレーナーさん、体調を崩して風邪をひいちゃったんだよね。
「体調の方は……もう大丈夫ですか?」
「お陰様で、あの時は本当に助かったよ。キタサンブラックがいなかったら、俺は今頃どうなっていたか分からない」
彼があたしに向かって、頭を下げてくる。純粋な彼の感謝を、素直に受け取っても良いのかなとあたしは少し悩んでしまった。
「そう、ですか……。こんなあたしがトレーナーさんのお役に立てたのでしたら……とても、嬉しいです」
鏡を見るまでもなく、今の自分がだらしなくニヤけているのが分かる。頬をかいて気恥ずかしさをごまかした。
「朝練の邪魔になったら悪いから、俺はもう行くよ」
トレーナーさんがベンチから腰を上げる。
「それじゃあ」と最後に別れの言葉を残して、偶然出会った彼はその場所から走り出そうとする。
とても短い時間だったけれど、彼と話すことができて満足だった。
もしかしたら今日のように、”偶然”彼と話す機会がまた訪れるかもしれない。
次にその偶然が巡ってきたら、今度は時は何を話そうかな。
……次、つぎ…………か。
それって、いつなんだろう……。
「──あ、あのっ!」
……気付いたら、あたしは慌ててベンチから立ち上がって駆け出す瞬間の彼を引き留めていた。
「うん?」
彼の背中を図々しく引き留めたくせに、頭の中が真っ白なあたしは次に放つ言葉を何も考えることが出来ていなかった。
そんな状態にも関わらず彼を呼びとめてしまったのは……たぶん、あたしの中に未練が残っていたから。
……やっぱりあたしは、諦められなかったんだと思う。
「トレーナーさんさえよろしければ、その…………
気が付けばあたしは、彼に対しておかしな提案を口走っていた。
当然、あたしの提案を受けた彼の表情には困惑の色が浮かび上がっている。
「せっ、先日のように誰もいないところでトレーナーさんが倒れてしまったら……ダイヤちゃんが、心配しちゃうかもしれません」
あたしは咄嗟に、親友の名前を引き合いに出して発言の意図をでっち上げてしまう。
本当はただ、トレーナーさんと話がしたいだけ。
「気持ちは嬉しいけど……俺とキタサンブラックじゃ、走る速度がまるで違う。トレーニングの時間を割いてまで、君に迷惑をかけるわけにはいかないよ」
慌てて取り繕った言い訳なんて、彼の口から語られた常識という正論で一撃だった。
「………………………………そう、ですか」
思えばこの提案は、あたしが苦し紛れに振り絞った最後の勇気だったのかもしれない。
あっけなく砕け散ったあたしの全身は脱力感に苛まれ、そのまま倒れるようにベンチへ腰を落としてしまった。
今回の玉砕は二日前と違って、はっきりとした悲しみがあたしの心を蝕んだ。
「……………………ぅ、ぁ」
あの人が見ている前では、絶対に涙を流してはいけない。せめて彼がここから走り去るまでは、何としてでも我慢しないと……。
「……ぁ、くぅ……ぅう…………っ」
胸元でペットボトルを握りしめた両手に力を込めるけれど、込み上げてくる悲しみは止まってくれなくて、むしろどんどん大きくなっていって。
…………もう、無理だよ。
ねぇ、トレーナーさん。
なんで……なんで、気付いてくれないんですか。
言ってくれたじゃないですか。
あたしをスカウトしてくれるって、言ってくれたじゃないですか……。
自業自得だと分かっていても、あなたから避けられると胸が苦しくて仕方がないんです。
ねぇ、トレーナーさん。
あたしは一体、どうすれば良いんですか…………っ。
「──実は」
泣き顔を必死に隠すように俯くあたしに向かって、突然……。
「俺、病み上がりで運動したせいなのか、さっきから身体が妙にフラフラしてて」
あの人が何かを言おうとしていた。
「もしかしたら、俺……寮へ戻る前に、倒れてしまうかもしれなくて」
明後日の方向を見ながら革手袋の付け根を引っ張る彼の言い回しは、何だかとても不思議で。
「迷惑をかけちゃうかもしれないけれど……もし君さえ良ければ、俺のことを──
……そのお願いが彼の優しさであると気付くまで、あたしは一体どれ程の時間を要したことか。
「……………………ぇ、ぁ」
思わず呆けた表情のまま顔を上げると、恥ずかしそうに頬を紅潮させた彼と視線が交錯する。
羞恥心に染め上げられた彼の瞳に射抜かれたあたしは、少し遅れてその弱々しい言葉に隠された意図を悟った。
「は、はいっ、はい……! どうかあたしに、任せてくださいっ!!」
病み上がりの彼を寮まで送り届けるという大義名分を手に入れたあたしは、すぐに涙を拭って彼の
あの人と並んでトレーナー寮までの帰り道を走る途中、あたしは少しだけ彼と話をした。
会話と言っても大半はすぐに途切れてしまうし、緊張で声は裏返るし言葉も終始噛みまくるし、何なら沈黙していた時間の方が圧倒的に長かったように感じる。
けれど、次に何を話そうかなと必死に考える沈黙の瞬間は……おかしな話だけれど、ずっと心が踊っていた。
そんな不思議な感覚を覚えたのは、彼と一緒の時間を過ごした今日が初めてだった。