四年前に開催されたトゥインクル・シリーズ国際招待競走──ジャパンカップ。
世界最強と名高いチーム・アルデバラン、その中でも”星”という異名で一世を風靡したアイドルウマ娘──ミライが出走するということもあり、当時のトゥインクル・シリーズの中でも異例の注目を浴びることとなったGⅠレースである。
全ウマ娘の憧れと言っても過言ではないミライさんの素敵なレースを見届けたあと。
あたしは彼女のウイニングライブを一番近くで見届けようと意気込み、会場で道に迷って、親切な男性に助けられ……そして、特別な思い出を経験した。
まさか、レースに出走していた本物のミライさんと話すことが出来たなんて。今でもちょっと、信じられない程の幸運だ。
ミライさんの控室を訪れ、そこであたしはなんと、彼女の宝物を貰ってしまった……っ!
ミライさんから
だがしかし、残念ながら幸せな時間というのは得てしてあっという間に過ぎ去ってしまう。
「──ミライさんっ!」
夢のような時間はもう終わり。
「あたし、これからもミライさんのことを応援しています!」
こんな幸運はもう二度と巡ってこないだろう。
「今日のウイニングライブ、とっても楽しみにしていますからっ!!」
だからせめて、悔いが残らないように自分の気持ちを伝えたい。
──あたしに夢をくれて、ありがとうござますっ!
ミライさんの控室を後にする寸前、あたしはめいっぱいの感謝を込めて言葉を放った。
言い残したことは無いか、思い残したことは無いか。
本当はもっともっと、話したいことや聞きたいことがたくさんある。だけど、あたしの心はもう十二分に満たされていた。
一足先に控室の外へ出ていたトレーナーさんのあとに続いて、あたしはミライさんに背を向ける。
その時だった。
「──ねぇ、ちょっと待って!」
ミライさんが部室から去っていくあたし達を引き留めるように、大きく声を張り上げた。
「……ん、どうかしたのか?」
ミライさんの声を受けて、あたしの先を進んでいた彼女のトレーナーさんが引き返してくる。
「せっかくだからさっ! 私、この子と写真撮りたい!」
……え、写真?
ミライさんの口から飛び出した突然の提案に、あたしの頭は再び真っ白になる。
「私の夢が叶った記念にさっ、ねぇ、良いでしょトレーナーっ?」
「気持ちはまぁ、分かるけど……写真は控えた方が良い、かな……流出とか、怖いし」
「ええ……そんなのつまんないじゃん! ねぇ、良いでしょ!?」
「……んん、で、でもなぁ。チーフからそういうことはあまりしないようにって言われてるし」
「はぁ〜っ! お母さんは心配しすぎなんだよもぉ! 良いじゃん別に、私だってファンともっと交流したい!」
ミライさんが判断を渋るトレーナーさんに近づいて、言い争いをしている(どちらかというと、ミライさんの一方的なわがまま)。
「──分かった、じゃあ私のスマホで撮る! それなら流出もしないし、私以外の誰かが見ることもないよね」
「………………まぁ、それなら」
痴話喧嘩のような言い争いをしばらく続けた後、どうやらミライさんのわがままにトレーナーさんが折れたようだ。
ミライさんはトレーナーさんから視線を外すと、満面の笑みを浮かべながらこちらに駆け寄ってきた。
「ねぇっ! せっかくだから私と写真撮らない? トレーナーがああ言ってるから、君には渡せないかもしれないけど……」
「い、いえっ、撮るっ、撮ります! あたし、ミライさんと一緒に写真を撮りたいですっ!!」
「よしっ! それじゃトレーナーっ、撮影よろしく! 可愛くとってよねっ!!」
……あぁ、何ということだ。
あの世界的アイドルウマ娘のミライさんと、流れでツーショットを撮ることになってしまうとは。
ミライさんからスマホを渡されたトレーナーさんが、仕方ないなと苦笑しつつ、それを構えてあたし達の前に立つ。
あたしとの身長差を気遣ってか。
ミライさんはあたしと同じ目線まで姿勢を低くし、とびきりの笑顔を浮かべた。
「あははっ、表情固いよっ。ほら、もっと笑って!」
「は、はひっ」
あたしも頑張って笑顔を作るけど、緊張しすぎて上手に笑える気がしない。
「それじゃあ、撮るよ」
「うんっ!」
ミライさんの耳飾りを手にしたまま、あたしは一生懸命表情筋を動かす。しかし結局、あたしははにかみ程度の笑顔しか作ることが出来なかった。
トレーナーさんが手にしたスマホから、パシャリとシャッター音が鳴り響く。
「これでどう?」
「……うん、ちゃんと撮れてる。ありがと、トレーナー!」
トレーナーさんが撮影した写真を確認した後、ミライさんは満足そうに微笑んだ。
「ごめんね、本当は君にもこの写真を渡してあげたいんだけど……」
「い、いえいえっ、あたしは一緒に写真を撮ったという思い出だけで十分ですから!」
「あははっ、そっか! じゃあ良かった、これは私の宝物としてちゃんと大事にするからね!」
ミライさんのスマホの中に、あたしの姿が刻まれている。
もうそれだけで、あたしはお腹いっぱいだ。
「ミライ。本当に申し訳ないんだけど、もう時間が無い」
「あ、そっか……引き留めちゃってごめんね」
ミライさんがあたしに対して、申し訳なさそうに謝った。
「い、いえっ、とっても素敵な体験をさせてもらいましたっ! 今日の出来事は、一生の宝物にします!!」
「あははっ、一生だなんて大袈裟だよ! ……でも、ありがとう」
最後に二人で笑いあった後、あたしはトレーナーさんに連れられて今度こそ控室を後にする。
それが、憧れのミライさんと出会った最初で最後の愛しい記憶。
四年前に体験した素敵な思い出は、今でも決して色褪せることなく胸の奥で輝き続けている。
***
「…………ん、んん……っ」
ぴたりと閉じた瞼越しに差し込む温かい日光を受けて、あたしはゆっくりと目を覚ます。
まだ少しだけ眠気が残っていて、うとうととした感覚が寝起きのあたしに襲い掛かる。
そのまましばらくぼーっとしていると、口から涎がこぼれていることに気がついた。
「………………ん……」
どうやらあたしは、知らないうちに熟睡していたようだ。
変な姿勢で寝続けていたのか、少し身体が凝っているように感じる。
それでも、こんなにぐっすりと眠れたのは随分と久しぶりだ。
「……あ、お、おはよう」
「はい……おはよう、ございます…………」
あたしの起床に合わせて、頭上から
その声の持ち主には心当たりがある。
えっと……彼は確か、親友のダイヤちゃん達を担当するトレーナーさんで……。
…………。
…………………。
………………………。
「……………………………………?」
そういえば、目が覚めた時から枕の質感が少し変だなって思ってたんだよね。
柔らかさもあるんだけど少しゴツゴツしてるっていうか、枕自体が熱を持っているように温かいっていうか。
あたしは少し身体を捩って頭を動かし、得られた感触を駆使してコレの正体を探る。
…………んん、なんだろこれ。
「あっ、ちょっ」
試しに顔を擦り付け、匂いを嗅いでみる。
とても安心する匂いだ。この包まれているような感覚のおかげで、あたしはぐっすり眠れたのかもしれない。
「ん、んん……っ、んふふ…………っ」
んぁ、分かった……これ、膝だ。
膝、ひざか……。
「…………………………、………………? …………??」
………………あ、あれ?
そういえばあたし、なんで膝の上で寝てるんだろう……。
そんなことを疑問に思った瞬間、あたしの中に残っていた眠気が一瞬で吹き飛んだ。
あたしは今一度身体を捩り、誰かの膝に深々と埋めていた顔を上向きにする。
「……あ、えぇっと…………おはよう」
その膝の持ち主と、ばっちり目があった。
「……えっと、これはその…………枕代わりになるものがこれしか無かったっていうか、さすがに
視界に飛び込んできた情報を整理してから、実際に身体が動き出すまですっごいタイムラグが生じた。
一体全体どうして、あたしは野外のベンチであの人に膝枕されているような状況に至ってしまったのか。
濁流のような緊張や動揺に意識を持っていかれそうになるあたしだったが、もはや一周回って冷静だった。
「えっと、その…………ここしばらく、ずっと気を張り詰めていたんじゃないか? よく見ると、目元に大きなクマがある」
「…………」
「相当疲労が溜まっていたんだろう。ベンチに腰掛けた瞬間、もうぐっすりだった」
膝元のあたしに落としていた視線を恥ずかしそうに逸らして、あの人が現在に至るまでの経緯を順を追って説明してくれる。
以前、病み上がりのトレーナーさんを寮まで送り届けるという大義名分を手に入れたあたしは、彼の優しさに甘えて帰り道を一緒に走った。
あの人の隣でジョギングをするということに味を占めてしまったあたしは、その日以降、偶然を装って彼と接触する機会を窺い続けていた。
幸い、彼は毎朝決まったルート──トレセン学園付近の河川敷周辺──を走っていたため、接触すること自体はそこまで難しくなかった。
あの人に極力怪しまれないよう数日の間隔を空け、ばったり出会う時間帯を巧みにずらし、「せっかくだから」と勇気を出して彼の隣にいそいそと並ぶ。
ちなみに今日、こうして彼と早朝ジョギングを共にしたのは
あたしがあの人と話せるタイミングは、この瞬間しか無い。
だからどうしても、今日は気持ちを我慢できなかった。
トレーナーさん曰く、休憩の途中に寄った河川敷のベンチに腰掛けた瞬間、あたしはそのまま寝入ってしまったのだそうだ。
……そういえば、あたしってどれくらい寝てたんだろう。
枕代わりにしていたあの人の膝から身体を起こして、寝ぼけ眼を擦りながら彼に問うた。
「あ、あの……今って、何時でしょうか…………」
「えっと……十二時三十分かな」
彼が腕時計を確認して、あたしに時間を教えてくれる。
十二時三十分。早朝に寮を出たのが五時辺りだったから、六時間くらい眠っていたってことか……。
…………。
………………。
……………………えっ。
「ぁ、ああっ! もうとっくに授業始まっちゃってる……っ!?」
今日は普通に平日であるため、あたしは学園で授業を受けなければならない。
時間帯的にはすでに四限目だし、何ならもうすぐ昼休みだし、ベンチで寝落ちしたあたしを見守ってくれていたトレーナーさんだって、本当は仕事をしなきゃいけない時間で…………ぁ、ぁぁ。
「ごっ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……っ!」
一体あたしは、どれだけ彼に迷惑をかければ気が済むのだろうか。
いっつも自分のことを考えてばかりで……そんな自分が本当に嫌になる。
あたしはすかさずベンチから立ち上がって、あの人の前で平謝りを続けた。
「お、落ち着いて……」
「すみません、本当にすみません……っ」
今更になって膝枕されていたことに対する羞恥心が込み上げてきた。眠気はもう完全に吹き飛んでいる。
度重なる罪悪感と極度の羞恥心に苛まれ、あたしはもうどうにかなってしまいそうだった。
「と、とりあえず顔を上げて……一旦、落ち着こう」
「で、でも……あたしは……っ」
「あぁっと……そうだ、喉乾いているんじゃないか? これ、良かったら飲んで。この前の、お返し」
あたしはベンチに腰掛けるトレーナーさんから、半ば強引にペットボトルを押し付けられる。
少しぬるくなった清涼飲料水を貰って、あたしは喉に流し込む。
勢い余って普通にむせた。恥ずかしくて顔から火が出そうだった。
「……落ち着いた?」
「はい……すみません。迷惑ばかり、かけてしまって」
ベンチの端に寄り、あたしは限界まで肩幅を狭くして腰掛ける。
この時点でようやく、あたしは失っていた冷静さを取り戻すことが出来た。
彼に迷惑をかけてしまったという罪悪感が、あたしの身体に大きくのしかかる。
そんなあたしの心境は、間隔を空けて隣に腰を下ろす彼に筒抜けだったようだ。
「……トレーナーの仕事ってさ、基本的に休みが無いんだよね」
「……え?」
彼が突然、脈絡のない話題を話し始めた。
「朝から夜までずっと働き詰めで、休日なんて無いし、トレーニングがオフの日は部屋にこもって学園の雑務を処理してる」
結構大変なんだよねと口にしながら、トレーナーさんが苦笑する。
「指導者の俺が言うのもあれだけど……少しくらいサボったって、何も問題ないと思うんだ」
「え、えっと……」
「それに俺、こう見えて結構優秀だから」
会話に冗談を交えて、トレーナーさんは場の空気を和ませようとしてくれていた。
この話題を振ってくれたのは、彼なりの優しさだったのだろう。
「だから、その……キタサンブラックは何も気にしなくて良い。君の事情についても、学園にはちゃんと連絡してある」
「あ、ありがとうございます……。何から何まで、本当にすみません」
結局最後まで、あたしは彼に迷惑をかけてばかりだった。
あたしの謝罪を最後に、しばらく続いていた会話が途切れる。複雑な沈黙があたし達の空間に訪れた。
「…………ぁ、あの、さ」
沈黙の中で話題を必死に見繕っていたあたしであったが、先にそれを食い破ってくれたのは隣に腰掛けるトレーナーさんであった。
「は、はいっ」
彼は少々気恥ずかしそうに視線を右往左往させながら、あたしに声を掛ける。
対するあたしは、緊張して裏返った声を返した。
「キタサンブラックとこうしてゆっくり話す機会って、今まで無かったから……その、どうしても、聞きたいことがあったんだけど」
「き、聞きたいことですか……っ」
トレーナーさんは目線を正面へ固定して、あたしに問うてくる。
「あ、ああ……半年前から、ずっと思ってたんだけど」
優秀な彼がこんなにも口をもごもごさせるだなんて。
相当切り出しにくい話題なのかもしれないと、あたしは何となく悟った。
「キタサンブラックは、その、俺のことを……」
「……っ」
彼の口から先走って出てきた言葉を受けて、あたしはドキドキした。
だって、トレーナーさんがこんな表情で言い淀むってことは……つまり、
やばいっ、急にすごく緊張してきた……っ。
あたしは姿勢をピンと正して、彼の気持ちをひたすら待つ。
そして、彼は意を決したように手のひらを握りしめ、ついに言葉を放った。
「──本当は、
「…………………………は?」
彼が何を言っているのか、ちょっとよく分からない。
「だ、だってさ……半年前に俺はキタサンブラックに嫌われることをした自覚があるし、それから名誉を挽回する機会も無く休職して……そんな現状で、なんで俺のことを助けてくれたのかなって思って。ああいや助けてくれたことは本当に嬉しいんだけど、そんなに無理して俺に関わろうとしなくて良いっていうか、もっと自分の時間を大切にして欲しいっていうか。……あ、もしかして俺、ジョギングのコースがキタサンブラックの朝練と丸かぶりだったりする? ごめん、ちょっと配慮が足りていなかったかもしれない」
トレーナーさんがすっごい早口で捲し立てている。
「…………」
トレーナーさんは顔を真っ赤にしながら、先程までの沈黙がまるで嘘のように喋り続けていた。
対するあたしは、ポカンと空いた口が塞がらない。
「──って感じなんだけど……その、変に我慢せず、正直に言ってくれて良い。俺はこれ以上、キタサンブラックに迷惑をかけたくないから……さ」
一通り勢いに任せた彼の自論を聞いて、あたしはベンチからスッと立ち上がる。
同じベンチに腰掛けていたトレーナーさんの前に立って、「正直に言って良い」という彼の言葉に甘えることにした。
大きく息を吸い込んでいる間に、あたしは彼へ投げかける言葉を吟味した。
「……な」
「な……?」
あたしの全身に巡っていたはずの緊張感や羞恥心が、いつの間にかどこかに消えていた。
「……な……、……で──」
その代わりに湧き上がってくるのは、沸々と煮えたぎってくるような感情だった。
「──なんでそうなるんですかっ!?」
今のあたしは多分、ちょっと怒っている。
「あ、あたしは全然っ、トレーナーさんのこと嫌ってなんかいないです!!」
彼の指摘は見当違いも甚だしい。
むしろ、あたしは……。
「それならっ、トレーナーさんの方こそあたしのことが嫌いなんじゃないですかっ!?」
「な、何でそうなる……っ」
「だって、それは……あ、
あたしは彼にとって、過去の辛い記憶を呼び覚ます引き金になってしまった女だ。
普通に考えて、彼は問題ばかり引き起こすあたしのことを嫌っているに違いない。
「そ、それは……っ」
あたしの言葉にすかさず反論しようと、トレーナーさんもベンチから立ち上がろうとする。
だがしかし、膝を長時間あたしの枕代わりに使っていたせいで足が痺れているようだ。
少々気まずそうにベンチへ再度腰を下ろし、視線を逸らして小さく呟く。
「……これ以上、迷惑かけたくなかったんだよ……」
「迷惑だなんて思ってないです。どうして信じてくれないんですか?」
「どうしてって……俺は君に、手を上げてしまったわけだし。嫌われる要素しか、持っていないだろう……俺は」
どうやら彼は、意外と女々しい一面を持ち合わせているのかもしれない。
あたしと同じで、過去の後悔や未練を引きずってしまうタイプの人なんだと思う。
あたしがどれだけ嫌いではないと主張しても、簡単には信じてくれないだろう。
あたしが彼の言葉を、素直に受け取れないように。
「…………」
「…………」
あたしと彼は、変なところで似たもの同士なのかもしれない。
そう考えると、彼と対面した時の肩の荷が少しだけ下りたような気がする。
「……あ、あのさ」
「……は、はい」
再びベンチに体重を預けるあたしだったけれど、隣に座る彼との距離が以前よりも心なしか近くなっていた。
「ずっと思っていたことがあるんだけど……」
「な、何でしょうか……」
先程までの会話がブツンと途切れ、すらすらと言葉が出てきていた雰囲気が嘘のように霧散した。
相変わらず、あたしと彼と間に漂う気まずい空気に飲み込まれてしまう。
「今の俺達には、多分……話をする時間が必要なのかもしれない」
それでも、今回ばかりは少し違った。
「お互いの言葉を信じられないのは……きっと、相手のことを知らないからなんだと思う」
左手に着用した革手袋の付け根をしきりに引っ張るトレーナーさんの姿を見るに……多分、彼もあたしと同じで緊張してるのかもしれない。
「キタサンブラックさえ良ければ、その…………俺は、君のことをちゃんと知りたい」
「……っ」
彼がこうして『あたしのことを知りたい』と口にするのに、一体どれほどの覚悟と勇気を要したことか。
あたしは隣に腰掛けるトレーナーさんの横顔をちらりと盗み見る。
視線の動きがあまりにも忙しなくて、頬どころか耳まで真っ赤にした様子で、彼はあたしの返事を待ち続けていた。
ドキドキした。
勇気を振り絞った彼の呟きが、あたしの胸の奥に突き刺さってしまった。
「あ、あたしもっ……」
彼が恐怖を振り払ってあたしに歩み寄ってきてくれた。
だったらあたしも……こんなダメダメなあたしだって、頑張って勇気を出さないと。
「トレーナーさんのこと…………たくさん、知りたいです」
彼へ向けたあたしの想いは、いつまで立っても届かない。
***
お互いに勇気を振り絞って関係を一歩前進させたあたし達の最初の会話は、半年前の出来事に対する謝罪から始まった。
あたしは、彼の厳密な教育方針を無視して親友のダイヤちゃんを自主トレに誘ってしまったこと。
対するトレーナーさんは、担当ウマ娘の親友であるあたしに手を上げてしまったこと。
当時の出来事について触れるのは、これで何回目になるだろうか。
お互い相手のことはとっくに許しているというのに、自身の中に込み上げてくる罪悪感同士が邪魔をして、結局ずるずると引きずり続けてしまう。
あたし達の性格上、込み上げてくる罪悪感を完全に拭い去ることは不可能に近いだろう。
そこで、二人揃ってちゃんとした話し合いをした結果。
あたし達同士で罪悪感を軽減し、より良好な関係を築くための”
折衷案と言っても、端的に換言すると『お互いに助け合おう』というものである。
相手を助け合う中でお互いのことを理解し、心に抱える罪悪感の払拭を目指す。これが、折衷案の大まかな概要だ。
期限については特に設けず、相談する内容も常識の範囲内で基本自由。ただし、トレーニングに関する相談の場合は、チーム・スピカの顧問である沖野トレーナーの了承を必ず頂くこと。
以上の条件を設けた上で、トレーナーさんが早速一回目の折衷案を提案してきた。
その内容は、二日前に倒れてしまったトレーナーさんを助けたお礼として、今日あたしが欠席してしまった授業の補習を行なってくれるとのこと。
中間、期末、小テストにおいて常に赤点ギリギリを彷徨うあたしにとって、彼の提案はまさに幸甚の至りであった。
彼曰く、補習はあたしのトレーニングがオフの日に実施してくれるのだそうだ。
折衷案の内容を取り決めた後、あたし達はベンチに腰掛けたまま少しだけ話をすることに。
お互いベンチの端に腰掛けるのは相変わらずだが、以前のように漂っていた気まずい雰囲気は多少和らいだように感じる。
「あの、トレーナーさん。一つ、聞いても良いでしょうか」
「うん?」
相手のことを知るために始めた会話の中で、あたしはどうしても、彼に聞いてみたいことがあった。
「ダイヤちゃんのメイクデビューが終わった後、トレーナーさんは半年ほど学園にいらっしゃらなかったですよね」
「あ、あぁ……えっと、それは……」
ダイヤちゃんのメイクデビューが開催された六月末から翌年一月の始業式まで、彼はトレーナーとしての仕事を休職していたと聞いている。
担当ウマ娘の衝撃的なデビューも相まって、これからというタイミングで休職したその理由を、差し支えなければ聞いてみたいと常々思っていた。
あたしの質問に対し、横に座るトレーナーさんは少しバツが悪そうに言葉を詰まらせる。
「あっ、す、すみません……いきなりこんなこと聞いちゃって、失礼でしたよね……」
もっと別の話題にすれば良かったなと、彼の反応を見た後であたしは後悔した。
「いや、全然そんなことない…………そう、だな。キタサンブラックには、きちんと説明しなきゃいけない義務がある」
そう口にしながらぼんやりと空を眺めるトレーナーさんの目線が、隣のあたしに注がれる。
「……少し、長くて重い話になってしまうかもしれない。それでも良ければ……ちゃんと話すよ、俺のこと」
「それでも、あたしは……知りたいです。トレーナーさんのこと」
「……分かった。それじゃあ……どこから、話すべきかな」
それからトレーナーさんは、自身の過去をぽつりぽつりと打ち明けていった。
告白の冒頭は、三年前の凱旋門賞。史上最悪の故障事故──”星の消失”直後の内容であった。彼が体験してきた出来事を、時系列に沿って丁寧に教えてくれる。
トレーナーさんにとって最愛の担当ウマ娘であるミライさんが亡くなった後、彼はその絶望に耐えられず、心に深い傷を負ってしまった。
心に刻まれた傷はやがて複数の精神疾患に形を変えてトレーナーさんの人格を蝕み、約二年間に及ぶ失踪を経て自殺未遂を起こすまでに発展した。
心の病気を抱えたままこの世界に戻ってきてしまったトレーナーさんは、些細な出来事が引き金となってトラウマを再発させてしまい、件の問題を引き起こしてしまった。
そして彼は心に異常をきたした状態で職務を継続するのは困難であると判断し、周囲の多大な協力のもと、この半年間を闘病生活にあてていたのだそうだ。
「…………そう、だったんですね」
彼の口から語られた真実はとても重く、簡単に整理出来るようなものではなかった。
彼の言葉の節々から滲み出る過去への後悔と、かけがえのない教え子への想いが、痛いくらいに伝わってくる。
トレーナーさんの告白を聞いて、あたしは彼の掲げる教育理念の根底にあるものを悟った。
半年前、トレーナーさんが担当ウマ娘の自主トレを禁止していた本当の意味。
彼はそれを、自身の心の弱さを象徴する行為であったとして猛省していた。
そしてあたしも、彼の事情を知らなかったとはいえ、本当に悪いことをしてしまったなと猛省を繰り返してしまう。
「……」
「……」
案の定、この場の空気が重く澱んでしまった。
お互い話せば話すほど罪悪感が増すばかりで、折衷案を作った意味が無いなと二人揃って苦笑する。
「その……俺が休職していた半年間については、これで大体説明出来たと思う」
「はい。教えて下さって、本当にありがとうございます」
込み上げてきた罪悪感を整理するのはもう少し時間が掛かるかもしれないけれど、彼の本質的な部分を知ることが出来たのはとても嬉しかった。
「……ああ、いけない。もうこんな時間だ」
トレーナーさんは自身の腕に巻かれた時計を確認して、わずかに驚きの声を上げる。
「もうすぐ午後の授業が始まってしまう」
「……えっ、あ!」
彼との会話に夢中になるあまりすっかり失念していたが、今日は何でもないただの平日。
午前の授業はサボってしまったが、今から学園へ戻れば午後のそれにはギリギリ間に合うだろう。
「そろそろ学園へ戻ろうか。君は少し、急いだ方が良いかもしれない」
「そっ、そうですよね……っ」
この特別な時間が終わってしまうのは名残惜しいけれど、あたしはもう十二分に満足している。
午後の授業が目前に控えているため、残念ながら彼と同じ速度で学園に戻ることは出来ない。
最後にトレーナーさんへお礼の言葉を口にして、彼に背を向けた直後。
「キタサンブラック」
背後に立っていた彼が、去りゆくあたしの名前を呼んでその背中を引き留めた。
「もし次に同じようなことがあったら……その、今度は君のことを教えてほしい」
「えっ」
「聞きたいこととか、知りたいこととか……俺も、たくさんあるから」
「…………っ」
彼から飛んできた言葉を受けて、あたしは今が去り際で良かったと心の底から安堵した。
「…………はいっ」
あたしは彼の耳に届くように相槌を打ったあと、慌ててその場から走り去る。
少し、そっけない態度を見せてしまったかもしれない。
だって、仕方ないよね。
……こんな