これであなたはサトノ家行きです   作:転生した穀潰し

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XX:キタサンブラック7

 トレセン学園の三学期が明けてから、今日で約一か月。

 

 あたしは現在チーム・スピカのトレーナー室で、チームメンバーと共にきさらぎ賞へ出走するダイヤちゃんのレースを観戦していた。

 

 今年のきさらぎ賞はチーム・アルデバランに所属するサトノダイヤモンドと、半年前のメイクデビューで激戦を繰り広げたロイカバードの再戦ということもあり、世間から大きな注目を集めている印象だった。

 

 ウマチューブのLive映像が表示されている液晶画面を、あたしの他に先輩ウマ娘のスペシャルウィークさんとテイオーさん、ゴルシさん、沖野トレーナーが見つめている。

 

 ダイヤちゃんが出走するレースを観戦する目的は、親友の応援と同時に、共に競い合うライバルとしての偵察である。

 

 お互い順当に成績を残していけば、ダイヤちゃんとは来年度のクラシック戦線──三冠路線で激突するはずだ。

 

 強力なライバルに打ち勝ち、数多のウマ娘が目標とするGⅠタイトルを獲得する。

 

 そのためにはダイヤちゃんの特徴や武器を研究し、勝利を掴み取るための戦略を練り上げる必要があった。

 

 現在時刻は十五時三十五分。

 

 ゲートにはすでに九名のウマ娘達が指定の場所に収まっており、出走直前独特の静寂と緊張感が画面越しにヒシヒシと伝わってきた。

 

『──回、きさらぎ賞。スタートしました!』

 

 京都レース場第二コーナー奥のポケットからレースはスタートし、ダイヤちゃんは洗練された身のこなしでゲートを飛び出していく。

 

 ダイヤちゃんは基本的に後方からのレース展開を得意としていて、きさらぎ賞においてもそのスタンスは変わらなかった。

 

 ダイヤちゃんは後方から四番手の位置に落ち着き、メイクデビューの雪辱を狙うロイカバードは彼女の背後を追走している。

 

 向正面から高低差約四メートルをほこる淀の坂を順調に駆け上がり、外回りコースの第三コーナーへと突入していく。

 

『ここで先頭のウマ娘が前半千メートルを通過、その時計は五十九秒六。平均よりもやや早いペースで流れているでしょうか』

 

 淀の坂頂上から第四コーナーにかけて形成される緩やかな斜面を下っていき、残り六百メートルを通過した直後、展開に大きな動きがあった。

 

 後方四番手を担っていたダイヤちゃんが、進路を外目に持ち出しながら順位を二つ押し上げ、先頭集団へと食らいついていく。

 

 この展開は、ダイヤちゃんが現状もっとも得意とする戦術だ。

 

 下り坂の勢いと、最終コーナーの遠心力を利用して温存していた末脚に拍車をかける。

 

 進路を外目に持ち出したのは、前を走るウマ娘達が壁になることを嫌ったため。これはおそらく、彼女が前走の反省を活かした立ち回りなのだろう。

 

 満を持して最終直線に躍り出たダイヤちゃんは、温存していた末脚を解放してグングンと順位を押し上げていく。

 

 瞬く間にバ群のハナを奪い取ったダイヤちゃんは、爽快感すら覚える速度で最終直線を駆け抜ける。

 

 残り二百メートルを切った時点で彼女の勝利を疑うものは誰一人としておらず、映像越しに伝わる会場の熱狂具合は凄まじいことになっていた。

 

 トレセン学園のトレーナー室からダイヤちゃんを応援するあたし達も例外ではなく、もはや偵察の目的を忘れて彼女の走りに釘付けだった。

 

 しかし、ダイヤちゃんの晴れ舞台はこれだけでは終わらなかった。

 

 残り百メートルを通過した瞬間、ダイヤちゃんはまだまだ余裕と言わんばかりに()()()()()()()()()()()()()()()

 

「えぇっ!?」

 

 ダイヤちゃんが更なるスパートを仕掛けた事実に、あたしは愕然とした。

 

 脚の回転数が爆発的に引き上がり、彼女のストライドが更に大きく広がっていく。

 

 その明確な変化を確認した瞬間、先程まで見せていた彼女の加速が本当のスパートでは無かったということを直感的に理解した。

 

『完全に抜け出したサトノダイヤモンドッ! これぞ煌めく新星の逸材だッ、サトノダイヤモンド完勝ッ!!』

 

 その事実に驚愕したあたし達はポカンと口を開けたまま、ダイヤちゃんがバ群を突き放してゴール板を通過する瞬間を見つめることしか出来なかった。

 

 きさらぎ賞の走破タイムは一分四十六秒九と、ダイヤちゃんはレコード記録を塗り超える堂々たる結果で公式レース三連勝を飾った。

 

「わぁ……す、すごいレースでしたね」

 

 あたしの隣で共にレースを観戦していた先輩ウマ娘のスペさんが、ダイヤちゃんの走りに感嘆の声をこぼす。

 

「私も去年走りましたけど、勝ち時計に四秒以上の差が生まれるなんて……」

 

 去年のダービーウマ娘であるスペさんは、ダイヤちゃんと同じくきさらぎ賞を制している。

 

 同じレースに出走した選手だからこそ、ダイヤちゃんの生み出した記録がいかに圧倒的であるかを痛感しているのかもしれない。

 

「…………これは」

 

 そして、ダイヤちゃんのレースを目の当たりにして驚愕しているのは、顧問である沖野トレーナーも同様であった。

 

「メイクデビューの時もそうだったが……終盤の末脚が本当に凄まじい。これが、新人の育てたウマ娘か……」

 

 最終直線で彼女が見せた驚異的な末脚に着目し、沖野トレーナーがおとがいに手を当て、ふむ……と唸る。

 

「……あのおみ足、一度で良いから触れてみたいもんだ」

「オメェは相変わらず変態だな、ぶっ飛ばすぞ」

「あ、あはは……」

 

 沖野トレーナーの意味深な発言を、ゴルシさんが冷静な一言で一蹴した。

 

 彼はウマ娘の足(特にトモの辺り)に対して、並々ならぬ執着心を持っている。

 

 あたしも彼からスカウトの声がかけられた時は、突然スカートの内側を弄られたので思い切り蹴り飛ばしたものだ。

 

 非常に頑丈な身体を持つ沖野トレーナーだが……実は最近、あまり元気が無かったりする。

 

 普段から飄々としていて掴みどころの無い性格をしているが、以前よりも窶れているように見えるため少し心配だ。

 

「…………」

「……? テイオーさん、どうかしましたか?」

「……ぇ、ぁあ、ううん。なんでもないよ。チーム・アルデバランって、やっぱり強いんだなーって思って」

 

 沖野トレーナーと同じく、先輩ウマ娘のテイオーさんも最近あまり元気がない。

 

 以前の明朗快活とした性格が嘘のようになりを潜め、とても大人しい雰囲気をまとうようになった。

 

(あの沖野トレーナーとテイオーさんが揃って元気を無くすなんて……ちょっと心配、何かあったのかな)

 

 二ヶ月後に開催を控える皐月賞へ向けてライバルへの対策を考える一方、あたしは覇気を失った二人のことが気になってしまう。

 

「キタサン」

 

 そんなあたしの心配は案の定顔に出ていたらしく、いつの間にか背後に立っていたゴルシさんに軽く肩を叩かれた。

 

 ゴルシさんは周囲に気を遣ってか、あたしの耳元まで口を近づけて小さく囁いた。

 

「あいつらも、お前と同じで抱えてるもんが色々あるんだよ。今は、そっとしておいてやってくれ」

 

 ゴルシさんは現チーム・スピカに所属する最年長のウマ娘であり、メンバーのことを一番よく知っている先輩だ。

 

 普段の破天荒すぎる奇天烈な行動の数々に意識を奪われがちだが、その実彼女は誰よりも観察眼に長けている方だった。

 

 あたしの耳元でそう口にしたゴルシさんは、帰り道が分からなくなったおじいちゃんを探しに行ってくると、よく分からない発言を残してトレーナー室を出て行ってしまった。

 

 ゴルシさんの言葉に対して色々と思うことはあるけれど、それを考えることはきっと今じゃない。

 

 そう結論付けたあたしは、気持ちを切り替えて来年度のクラシックレースへ向けた準備を進めるのであった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 きさらぎ賞の翌日。朝早く目を覚ましたあたしはいつものようにジャージに着替え、ジョギングを行うために栗東寮を飛び出した。

 

 今日のコースは河川敷周辺を選択し、その目的は今更語るまでもないだろう。

 

 最後にあの人と会話をしたのは三日前と、最近にしては珍しく期間が空いている。

 

 というのも、彼はここ数日、きさらぎ賞に出走するダイヤちゃんの引率で京都の方へ赴いていたからだ。

 

 開口一番の内容は既に考えてある。彼の担当ウマ娘であるダイヤちゃんのお祝いだ。

 

 河川敷の脇道にあるベンチに腰掛けて、あたしはジョギング中のあの人と接触するタイミングを図る。

 

 現在時刻は五時三十四分。あたしの予想が正しければ、彼はもうすぐこの辺りを通りかかるはずだ。

 

 ベンチに併設された自販機で飲料水を購入し、緊張する心を落ち着かせながらその瞬間を待つ。

 

 そわそわと期待に胸を膨らませながら、今日は彼と何を話そうかなって考える。

 

 例えばそうだな……この前に授業で受けた小テストの話をするのはどうだろうか。

 

 普段は赤点ギリギリを彷徨っているあたしだったけれど、トレーナーさんが補習をしてくれたおかげで点数が平均点を超えたこととか。

 

 この調子で期末テストも頑張りますとか、最近食堂に追加された新メニューがとても美味しいんですとか、息抜きに読んだネットの漫画がすごく面白かったんですとか。

 

 あ、そうだ。トレーナーさんが補習をしてくれたおかげで小テストに合格することが出来たのだから、あたしは彼に何かお礼をしなきゃだよね。

 

 だけどお礼と言っても……今のあたしには、彼の役に立つことなんてほとんど出来ないと思う。

 

 んん……あ、マッサージなんてどうかな。

 

 三日前に顔を合わせた時、彼の表情には疲労の色が浮かんでいた。当時の彼は何でもないよと口にしてあたしからの言及を避けていたけれど、中央に勤務するトレーナーの方々は仕事柄、ストレスを溜め込みやすいと耳にしている。

 

 昔はよく父さんや母さんにマッサージをしてあげたことがあるし、腕にはけっこう自信がある。会話の中で、このことについてもさりげなく触れてみよう。

 

 頭の中で話したい内容を整理し、さらにしばらく待つ。

 

 そして、あたしがベンチに腰掛けて三十分くらいが経過した頃だろうか。

 

「…………トレーナーさん、遅いなぁ」

 

 普段だったらとっくに顔を合わせているような時間帯にも関わらず、彼は未だに姿を現さない。

 

 別に落ち合う約束をしているわけでは無いし、あくまでも”偶然”という体で会話に興じていたに過ぎない

 

 もう三十分待つが彼が姿を見せる気配は一向に無く、どうしたんだろうなと考えている間に、さらに五十分が経過した。

 

 もう少しだけ待ってみようを何回も繰り返している内に、そろそろ寮へ戻らなければ朝のホームルームに間に合わなくなる時間帯へ突入していた。

 

「何か、あったのかな……」

 

 これ以上は限界だと判断したあたしは、重い腰を上げてその場から駆け出す。

 

 大慌てで栗東寮へ戻ることになってしまったあたしは、急いで身支度を整えて学園へ登校する。

 

 始業のチャイムが鳴る寸前に教室へ駆け込んだあたしは、何とか遅刻を免れたのであった。

 

 

 

***

 

 

 

「……え、今日ダイヤちゃんお休みなんだ」

 

 遅刻寸前で教室に飛び込み、自身の座席についたあたしは、教室にいるはずのダイヤちゃんの姿が無いことに気がついた。

 

 前日のきさらぎ賞を制覇したダイヤちゃんにおめでとうと言葉を伝えたかったのだが、担任の先生曰く、彼女はチームの都合で来年度の五月まで学園を公欠するとのこと。

 

 ダイヤちゃんの身に何かあったのかもしれないと、不安になったあたしはスマホを取り出して彼女に連絡を送った。

 

 しばらくすると、ダイヤちゃんから返信が送られてくる。『心配しなくて大丈夫だよ』という文字と共に、可愛らしい子犬のスタンプが添えられていた。

 

 その後のやり取りでダイヤちゃんは現在、チームメンバーと共に()()()()()()()()()に滞在していることが分かった。

 

 どうして彼女がメジロ家の療養施設に……と疑問に思っていたあたしだったが、スマホでウマッターを確認していると見知ったウマ娘の名前がトレンドに上がっていることに気がついた。

 

 ネット上で話題になっているのは、一年以上前に繋靭帯炎を発症し、長期療養のため長らくトレセン学園を休学していたメジロマックイーン。

 

 長期療養の意向が公開されて以来、それが事実上の引退宣言であるという認識でいたあたし達にとって、その情報は衝撃的だった。

 

 

 

 

 

 なんと……チーム・アルデバランに移籍したメジロマックイーンが、三ヶ月後に開催を控えるトゥインクル・シリーズ最長距離GⅠ重賞──天皇賞(春)への出走を表明したのだ。

 

 

 

 

 

 天皇賞(春)の開催は、来年度の五月一日。

 

 次にダイヤちゃんと会うことが出来るのは、おそらく四月十七日の皐月賞当日だろう。

 

 ダイヤちゃん達がメジロ家の療養施設に滞在しているということは、彼女達の担当トレーナーである彼も当然、そちらへ同行しているに違いない。

 

「…………」

 

 手にしたスマホに、ぼんやりとしたあたしの視線が落ちる。

 

 

 

 

 

 あたしはその事実を受けて、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 一体どうして、あたしの心にモヤがかかってしまったのか。

 

 

 

 

 

 その理由は、あたし自身でも分からなかった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 ダイヤちゃん達がメジロ家の療養施設へ活動拠点を移してから約二ヶ月が経過した、四月十七日。

 

 今日はトゥインクル・シリーズの中でも注目度が非常に高いGⅠレースである、クラシックレース開幕戦──皐月賞の開催日だ。

 

 先月に開催されたスプリング・ステークスで二着という成績をおさめ、あたしは無事に優先出走権を得た状態で皐月賞へ臨むことが出来た。

 

 総来場者数が十一万人を超える中山レース場の選手控室にて、あたしは現在、顧問の沖野トレーナーと共に作戦の最終確認を行なっていた。

 

 中山レース場の特徴を今一度押さえた上で、皐月賞に出走するウマ娘達の情報を再度頭に叩き込む。

 

 最も警戒すべきは当然、チーム・アルデバランに所属する親友のサトノダイヤモンド。

 

 先日のきさらぎ賞で垣間見せた異次元の末脚を対策しなければ、皐月賞を獲ることは絶対に叶わない。

 

 次点で注意する必要があるウマ娘は、チーム・リギルに所属するドゥラメンテ。

 

 ドゥラメンテとは去年のホープフルステークスで一度相まみえているが、彼女の末脚も同様に警戒する必要があるだろう。

 

 そして、当然のように本レースの一番人気に推されたダイヤちゃんだが……沖野トレーナーが独自に偵察した情報を整理した結果、彼女が()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 沖野トレーナーから偵察結果がまとめられた資料を受け取り、その内容にあらためて目を通す。

 

「以前も説明したことだが……これは新人がトレーナー業務に復職して以降、サトノダイヤモンドが昨年度の一月に実施していたトレーニングの内容だ」

 

 偵察によって入手した情報であるため鵜呑みにすることは出来ないが、沖野トレーナーはこの資料からダイヤちゃんが前走までとは異なる作戦──先行策に打って出る可能性があることを導き出していた。

 

「依然として、サトノダイヤモンドは末脚を武器に戦ってくる可能性が一番高い。だが一応、彼女が意表を突いて先行する展開も念頭に置いておくと良い」

「分かりました」

「たとえサトノダイヤモンドがどんな作戦を仕掛けてきたとしても、キタサンは常にバ群の後方に控えてスパートの瞬間を見極めることに徹底しろ。中山の直線は短い。歩幅一歩分の判断が、勝敗に直結する」

「はい!」

 

 沖野トレーナーと作戦の最終確認を終えた頃には、皐月賞の出走時刻まで残り一時間を切っていた。

 

 一足先に控室から退室した沖野トレーナーを見送った後、あたしは自身の想いが込められた勝負服に袖を通す。

 

 法被を模した情熱的な勝負服を身にまとうと、身体の奥から不思議と力が漲ってくるように感じる。

 

 出走時刻の三十分前からパドックが始まるため、あたしは遅刻しないよう時間に余裕をもって会場へ移動することにした。

 

「…………」

 

 パドック会場へ続く関係者用の通路は不気味なほど静寂で、一人で歩いていると、その先がどこまでも続いているんじゃ無いかと思わず錯覚してしまう。

 

 意識が飲み込まれそうになるのをぐっと堪え、あたしは努めて毅然に通路を進んだ。

 

 そして、突き当たりの一つ手前で進路を左に変えようとした時のことである。

 

 

 

 

 

 

 

「「あ……」」

 

 

 

 

 

 反対側から歩いてきたスーツ姿の男性と、あたしの視線が交錯した。

 

 両手に薄手の革手袋を着用した少し変わったファッションの彼とは、もちろん面識がある。

 

 彼は、あたしの親友であるダイヤちゃんを担当するチーム・アルデバランのトレーナー。

 

「お、お久しぶりです……トレーナーさん」

 

 実に、二ヶ月ぶりの再会であった。

 

「う、うん……久しぶり」

 

 不意にあたしと対面した彼は、少し恥ずかしそうに視線を逸らして頬をかいた。

 

 彼を前にするとあたしはどうしても、激しい緊張で言葉が詰まってしまう。

 

 こんな場所であの人と出会うことになるとは思ってもみなかったため、会話の内容を何一つ準備出来ていないあたしはおどおどしながら俯いてしまった。

 

 あの人に会えた嬉しさや緊張感が心の中でぐちゃぐちゃに渦巻いて、上手に彼へ視線を向けることが出来ない。

 

 トレーナーさんを前にして押し黙ってしまったあたしを見かねてか、今日は彼の方から話題を振ってきてくれた。

 

「生で見るのは初めてだけど……その勝負服、とても似合ってると思う」

「……っ!」

 

 彼の言葉を受けて、あたしはそういえばと気が付いた。

 

 自身の勝負服を彼に直接披露したことって、当たり前だけど今日が初めてだよね……。

 

「あ、あぁ……っ、ありがとう、ございます…………えへへ」

 

 彼に似合っていると褒められて、お世辞だと分かっていても内心では舞い上がってしまう。

 

 全身が茹で上がるように熱くなり、彼の視線を受け止めるのが途端に恥ずかしくなってしまったあたしは無意識に勝負服の裾を引っ張った。

 

 そういえば、この勝負服ってかなりスカート短かったよね。胸元も結構大胆に開いてるし、そんなまじまじと見られると……うぅ。

 

 スカートの丈、ちょっと攻めすぎたかな……と今一度思い直すあたしだったけれど、それはさすがに今考えることじゃないと首を振ってかき消した。

 

「キタサンブラックは、これからパドックか」

「は、はいっ。時間には、余裕があった方が良いと思いまして」

「そっか」

 

 今のあたしは彼を前にすると、気まずいというよりも()()()()()と言った感覚を抱くことが多くなったように感じる。

 

 その証拠に、今のあたしは俯くばかりで彼の顔を直視することが出来ていなかった。

 

「引き留めてごめん。それじゃあ俺は、もうスタンドに行くよ」

 

 偶然の再会を密かに噛み締め、垂れた前髪の隙間から彼の表情を盗み見るのも束の間。

 

 反対側から通路を歩いてきた彼にだって当然、教え子の晴れ舞台を見届けるという大切な使命が控えている。

 

 お互い今後に重要な用事を抱えているのだから、こんな場所で立ち止まるのは両者にとって不都合だ。

 

 色々と話したいことがあったけれど、今回ばかりは仕方が無い。

 

 最後に彼は別れの言葉を残し、押し黙って佇むあたしの横を通り過ぎていく。

 

 あたしもそろそろ、パドックへ行かなくちゃ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──あ、あの……っ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな彼の去りゆく背中を、無意識の内に飛び出したあたしの声が呼び止めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼が着用するスーツの左袖に……いつの間にか、()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………………ぁ、えっと、そのっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あたしは一体何をやっているんだと、頭が真っ白になった状態で後悔に塗れた自問を繰り返す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでも彼の袖へ伸ばしてしまった指先を離そうとしないのだから……本当に、どうしようもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 不躾に彼を引き留めているにも関わらず、あたしは何も言えぬまま俯いてしまった。

 

 彼はきっと、担当ウマ娘の晴れ舞台を一番良い場所から見届けたいに違いない。会場はただでさえ大勢の観客で溢れかえっているのだから、これ以上は彼に迷惑をかけてしまう。

 

 そんなことは分かっている。

 

「…………」

 

 分かっている、はずなのに……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………」

 

 ごめんなさいと、あたしは内心でひたすらに繰り返す。胸中で発せられた言葉は当然、あの人には届かない。

 

 自分が引き起こした行動の意図を理解出来なくて、あたしの心はその苦しみで今にも押し潰されそうだった。

 

 そして、そんなどうしようもないあたしをとうとう見かねたのか。

 

「……なんでだろう」

 

 今まであたしに背を向けていた彼が、身体を翻して言葉をかけてくれる。

 

「今の君を見ていると……ふふっ、何だかミライのことを思い出すよ」

「……ぇ」

 

 彼の口から唐突に憧れのウマ娘の名前が飛び出してきて、釣られるよう顔をあげた。

 

 ようやく目の前に佇むあの人を見ることが出来た瞬間。

 

 あたしの視界に飛び込んできたのは、優しさに満ちた彼の苦笑だった。

 

「本番直前になると、ミライはいつも緊張で顔が真っ青になる。チームを背負う重圧に耐えられず、陰で君のように泣いてしまうことだってあった」

「……っ」

 

 あたしは反射的に、勝負服の袖で目元を拭う。

 

「相当、()()()()()()()()()()。指先の震えがすごい」

 

 彼に指摘されて、あたしは気付く。ついさっきまでは何とも無かったのに、一体どうして……。

 

 彼は取り乱す寸前まで緊張していたあたしをあやすように、優しい声音で語りかけてくれる。

 

「皐月賞はウマ娘達にとって、生涯で一度きりの晴れ舞台だ。緊張するのも無理はないよ」

「…………」

「緊張が止まらない時は、深呼吸を数回挟むと良い。まずは身体に残った息を吐ききって、胸がいっぱいになるまで新鮮な空気を吸い込む…………うん、そんな感じ。そうしたら次は、長い時間をかけてゆっくりと吐き出す………………そう、とても上手だ」

 

 極度の緊張でがんじがらめになったあたしは、縋りつくような勢いで彼の言葉に全身を委ねた。

 

 深呼吸を何回か繰り返したことで、真っ白に染まったあたしの思考が少しずつ冷静さを取り戻していく。

 

……けれど。

 

「……どう?」

「……ごめんなさい。それでもやっぱり、震えが止まらないです」

 

 全身を強張らせる緊張は、残念ながら治まってくれそうに無かった。

 

「そうか……ふふっ。そんなところも、やっぱりミライそっくりだ」

「み、ミライさんに似ているところがあるのはとても嬉しいんですけど……ちょっと、複雑な気持ちです」

 

 垂れた前髪の隙間から、あたしは彼の表情をちらりと窺う。

 

 穏やかな苦笑は先程と変わらずだが、その双眸にはおそらく彼の大切な教え子が映っているのだろう。

 

 優しさの中に少しだけいたずらな感情がこもっていて、あたしは思わず視線を奪われてしまった。

 

「トレーナーさんは……えっと、その……。ミライさんの緊張を、どうやって解していたんですか?」

「え?」

 

 ミライさんを担当していた彼ならばきっと、彼女の緊張を完璧に解きほぐす手段を持ち合わせているはずだ。

 

 何故ならあたしの知っているミライさんは常に笑顔で、緊張とはまるで無縁のスーパーアイドルウマ娘なのだから。

 

「もしよろしければ…………その、ミライさんにしていた、緊張を和らげる方法を教えて……欲しい、です」

 

 彼はあたしを見て、かつての教え子であるミライさんにそっくりだと言った。

 

 それなら、緊張の解消法だってミライさんと重なる部分があるのでは無いだろうか。

 

「……緊張を和らげる方法は、ウマ娘ごとに大きく異なってくる。下手をすると、緊張を和らげるはずが、かえって逆効果になってしまう可能性だってあるんだ」

「で、でも……っ、あたしだけじゃもう……この緊張をどうすれば良いのか、分からなくて……っ」

 

 このままでは、あたしは世界中が注目するGⅠレースという晴れ舞台でみっともない姿を晒してしまうかもしれない。

 

 あたしに期待してくれている人達を、情けない走りのせいでがっかりさせてしまうかもしれない。

 

「…………」

 

 それなのにあたしは、複雑な感情が混ざり合って生まれたこの頑固な緊張を解消する術を何一つ持ち合わせていなかった。

 

 このままパドックへ向かってしまえばもう、あたしは一人だ。

 

「……そうか」

 

 だからあたしは、目の前の彼に縋るしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──キタサンブラックは今、()()()()()()()?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 突然、彼があたしに向かって分かりきった質問を投げてきた。

 

 どうして今更、彼がそんなことをあたしに今一度問うてきたのか。

 

 理由は分からない。

 

「……はい。とても、困っています」

 

 だからあたしはあの人の言葉に込められた意味を考えるよりも早く、()()()()()()()()()()

 

「…………分かった。それじゃあ一つだけ、約束して欲しい」

「約束、ですか……?」

「今から俺がすることは……その、君にとってあまり心地良いものじゃないかもしれない。こうすることでしかミライは落ち着かなかったから、俺は他のやり方を知らないんだ……あんまり怒らないでくれると、嬉しい」

 

 とても律儀な彼が緊張を解きほぐす具体的な方法を事前に語らない点に関しては、何か理由があるに違いない。

 

 緊張に対してなす術の無いあたしにとっては、彼の警告など無意味に等しい状態だった。

 

「あ、あたしは全然大丈夫ですっ! トレーナーさんの手を借りることが出来るのでしたら、あたしはどんなことだって──」

 

 あたしが彼へ向けて放った決意の言葉は、最後まで続かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 目の前に佇む彼に突然手を取られ、あたしの重心が大きく前方に傾く。

 

 

 

 

 

 

 

「…………………………ぁ」

 

 

 

 

 

 

 

 何が起きたのか理解が追いつかぬままあたしの身体が熱を持った何かにぶつかり、背中にゴツゴツとしたものが強引に回されて、身動きが完全に取れなくなってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

「……ミライはとてもわがままで、臆病なウマ娘だった。だからこうやって緊張から意識を逸らさないと、彼女は勝負服に袖を通すことすら出来なかった」

 

 

 

 

 

 

 

 あまりに予想外の出来事で頭が真っ白になったあたしは、衝撃のあまり言葉を失ってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

「……ぁあ、だめだな。こんな…………、……ような真似なんて」

 

 

 

 

 

 

 

 あたしの身体をぐいと()()()()()彼の腕が微かに震えて、力がこもった。

 

 

 

 

 

 

 

「それでも……なんでかな。緊張に苦しむ君の姿を見ていると、無性に心が苦しくなってしまう。どうしても、放っておくことなんて出来なかった」

 

 

 

 

 

 

 

 あたしの鼓動が際限なく高鳴り続けているのは、どう考えても先程の緊張だけが原因では無いはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 もしかしたらその鼓動の正体は、あたしのものですら無いのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 暗く塞がれた視界の中で、優しさに満ちた温もりと安心する匂いに包まれながら、誰かの鼓動にひたすら耳を傾ける。

 

 

 

 

 

 

 

「……嫌だったらすぐに離れる。そのまま突き飛ばしてくれて構わない」

「…………」

 

 あたしは彼の胸板に押し当てられた頭を()()()()()、一生懸命自分の意思を伝えた。

 

「……しばらくこうしていると、ミライはいつも、俺の背中を右手で三回叩く。それが、彼女の中から緊張が抜けた合図だった」

「…………」

 

 今度は首をこくこくと()()()()()、耳元で囁かれる彼の声に身体を委ねる。両腕を彼の背中に回し、縋るように力を込めた。

 

 それ以降互いに言葉は無く、あたしは彼が教えてくれた方法でひたすら深呼吸を繰り返し、緊張をほぐすことだけに集中する。

 

 無意識に踵が浮き上がるほど彼へ体重を預けていたあたしだったが、しばらくすると暴れ狂っていた心臓の鼓動が規則的なリズムを取り戻していった。

 

 胸の奥でつっかえていた息苦しさが段々と薄れていく。

 

 それからさらに時間が経ち……もう大丈夫だと思ったあたしは寄りかかっていた姿勢を元に戻して、彼の大きな背中をとん、とん、とんと、三回叩いた。

 

「……よし」

 

 あたしの合図を受けて、彼が抱擁を解く。

 

 再びいつもの距離感であの人と向き合うあたしだが……()()()()()をしていた直後なのだから当然、彼の顔を直視できずに俯いたままだった。

 

「指先の震えが止まっている。その様子なら、きっと大丈夫だと思う」

「……ぁ」

 

 言われて自身の両手を確認すると、恐怖を感じる程に震えていた指先がすっかりと元通りになっていた。

 

「荒療治みたいな方法になってしまったけど、少しは効果があって良かった」

「…………」

「……ああ、いけない。もうすぐパドックが始まってしまう時間だ」

 

 あの人の呟きを受けて気付いたが、あたしは体感時間以上に彼の温もりを求めていたようだ。

 

「それじゃあ俺も、そろそろ移動するよ」

 

 彼があたしから身体を翻し、会場のメインスタンドへと歩みを進める。

 

 段々と遠ざかっていく彼の背中に、その場で佇むあたしは何も返事をすることが出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

「──キタサンブラック」

 

 

 

 

 

 

 

 すでに進み出していた彼が一度、歩みを止めて遠目からあたしの名前を呼んだ。

 

 あの人との会話はもう終わってしまったと思っていたあたしは、少し驚いて俯いていた顔を引き上げる。

 

「ダイヤは君と一緒に走ることを、心の底から楽しみにしていた」

「……っ」

「どうか、良い勝負をしよう。キタサンブラックの()()()()()()、君の走りが見れることを楽しみにしてる」

 

 そう口にして微笑んだのを最後に、通路を進む彼の歩みが止まることは無かった。

 

 去りゆく彼の背中を眺めるあたしは未だ、パドックの時間が迫っているというのにここから一歩も動くことが出来ないでいる。

 

「………………………………行かなきゃ」

 

 妙に熱った全身をそれでも何とか突き動かして、あたしはパドックへと続く通路を歩き出した。

 

 あの人が助けてくれたおかげで、あたしをがんじがらめにしていた緊張()彼方へと消え去っている。

 

 

 

 

 

 

 

 それ、なのに……何でだろう。

 

 

 

 

 

 

 

「…………心臓の音、止まらないよ」

 

 

 

 

 

 

 

 全身に駆け巡る心臓の鼓動があまりにもうるさくて、身体の火照りが治らない。

 

 

 

 

 

 

 通路の壁にもたれ掛かるように体重を預け、我慢出来なくなった身体の熱をなんとかしようとする内に、ずるずると姿勢が落ちていく。

 

 

 

 

 

 

 

 胸元に両手を押し当てて暴力的な熱の鼓動を鎮めようとしたけれど……きっと、()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

……あぁ、本当だ。

 

 

 

 

 

 

 

「…………トレーナー、さん」

 

 

 

 

 

 

 

 彼の、言ったとおりだ。

 

 

 

 

 

 

 

「こん、な……、こんなの…………」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………………………………()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 今年開催されたクラシックレース開幕戦の皐月賞は、相手ウマ娘全員の意表を突く形で先行策を実行したチーム・アルデバランのサトノダイヤモンドが制覇した。

 

 出走直後に仕掛けたダイヤちゃんの影響で展開が大きくかき乱され、彼女以外のウマ娘達は終始劣勢を強いられることとなってしまった。

 

 事前にダイヤちゃんがレースで先行する可能性を考慮していたあたしでも、まさか彼女が、掛かった逃げウマ娘達を嬉々として追いかけていくとは思わなくて。

 

 曲芸じみたダイヤちゃんの仕掛けについて行きたい気持ちをグッと堪えて好機を窺い続けるあたしだったが……十バ身以上の差が生まれた状態で疾走する道中は正直、地獄を味わっているような感覚だった。

 

 レース終盤においてもはや独走状態であったダイヤちゃんを捉えるため、第四コーナーから温存していた末脚を解放して猛攻を仕掛けるも、序盤の貯金を残していたダイヤちゃんにはわずかに届かず。

 

 あたしは最終的に皐月賞三着と奮闘し、表彰台に登ることは出来た。

 

 普段の地道なトレーニングによって着々と成長しつつあることを実感した一方で、やっぱり負けてしまったことに対する悔しさはとても大きかった。

 

 二千メートルの戦場を走り抜け、芝の上に倒れ伏したくなる気持ちをグッと堪えて乱れた呼吸を整えていると……。

 

「はぁっ、はぁっ…………はぁ……っ」

 

 不意に、皐月賞を獲ったダイヤちゃんの姿があたしの視界に飛び込んできた。

 

 ダイヤちゃんは自身の夢であったGⅠレースを制覇し、感極まっていたのだろう。

 

 ダイヤちゃんは大観衆が押し寄せていたメインスタンドの中から担当トレーナーの姿を瞬時に見つけ出し、あの人目掛けてすごい速度で突っ込んでいった。

 

 彼と共に夢を叶えた喜びを分かち合うダイヤちゃんの姿が、あたしの目にはとても眩しく映った。

 

「…………」

 

 幸せそうに彼を抱きしめるダイヤちゃんのことが、あたしはとても羨ましかった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 電光石火の皐月賞から二週間が過ぎた、五月一日。

 

 トゥインクル・シリーズ最長距離GⅠ重賞──天皇賞(春)の開催に立ち会ったあたし達はその日、本物の奇跡が巻き起こる瞬間を目撃した。

 

 かつて、ウマ娘にとって”不治の病”と恐れられている繋靭帯炎を発症し、実に一年半ぶりの復帰戦へと臨んだメジロマックイーン。

 

 後に、”不屈の名優”たるメジロマックイーンを象徴する瞬間として語り継がれることとなった衝撃的なレース。

 

 その道中で疾患が再発し、それでも自らの足で絶望を跳ね除け、不屈の心に底知れない執念を宿してターフの世界を駆け抜けるメジロマックイーンの勇姿に……あたし達の魂は釘付けにされた。

 

 泥まみれの勝負服をはためかせ、剥き出しになった闘志で満身創痍の身体を突き動かし、がむしゃらに足掻いてゴールを目指す。

 

 度重なる絶望に決して屈しない”名優”の在り方が、あたし達の心にたくさんのものをもたらした。

 

 ある者はメジロマックイーンから、憧れというかけがえのない大切な夢を。

 

 ある者は”不屈の名優”から、前を向いて突き進むありったけの希望を。

 

 そしてあたしは彼女から、臆病な自分に立ち向かう無限の勇気を。

 

 ”不屈の名優”が巻き起こした奇跡の復活劇をこの目でしかと見届け、未だ興奮冷めやらぬまま早くも一週間が過ぎ去った。

 

 先輩ウマ娘のマックイーンさんは現在、大きな奇跡を巻き起こした代償なのか、満身創痍の身体を癒すために都内の総合病院へ入院していた。

 

 天皇賞(春)が開催された翌週の月曜日、マックイーンさんのチームメイトであるダイヤちゃんから朗報を受け取った。

 

 一週間ほど前から意識を失っていたマックイーンさんがついに、目を覚まされたのだそうだ。

 

 あたしはかつて、ダイヤちゃんと共にお互い憧れのウマ娘であるテイオーさんやマックイーンさんを追いかけていた。

 

 その過程でマックイーンさん達からは何かと良くしてもらっていたため、放課後、彼女のチームメイトと共にお見舞いへ行こうという話になった。

 

 本来であればダイヤちゃん達と放課後すぐにお見舞いへ行きたかったのだが、あたしは生憎先日の課題テストで赤点を取ってしまい、担任の先生から補習用のプリントを受け取りに行かなければならなくて。

 

 ダイヤちゃん達とは現地で合流することを約束し、あたしは少し遅れてトレセン学園を出発した。

 

 公共交通機関を乗り継ぐこと数十分。

 

 総合病院に到着したあたしは、下手に動き回るよりも見晴らしの良い場所で待っている方が良いと判断し、エントランスホールのソファーに腰を下ろして彼女達と合流を図った。

 

 少し慣れない病院特有のにおいにソワソワしているあたしだったが……忙しない視線の先にふと、あたしは気になるものを見つける。

 

 それは現代人であれば誰もが手にしている便利な道具で、所有者の個人情報が詰め込まれたプライバシーの塊。

 

 最新型のスマートフォンであった。

 

「誰のだろう」

 

 ソファーの隙間に挟まるような形で落ちていたスマホは、ソフトタイプのケースで背面のみを覆ったごくごく一般的な特徴をしている。

 

 このスマホを落としてしまった持ち主は今頃、とても困っているに違いない。早く受付に届けてあげよう。

 

 そう意気込んだあたしは椅子から立ち上がり、拾ったスマホを抱えて受付へ向かっていた矢先のこと。

 

「あっ」

 

 スマホを手にしていた指が偶然、右横の電源ボタンに触れてしまった。

 

 暗転していた画面がパッと明るくなり、持ち主が設定していた待ち受けが表示される。

 

 プライバシーの関係で見るのはあまりよろしくないのだが、視界に飛び込んできてしまったので仕方がなかった。

 

「………………」

 

 

 

 

 

 その()()()()を見た瞬間、あたしはこのスマホの持ち主が誰であるかを瞬時に悟った。

 

 

 

 

 

 自撮りの角度で画面の中に映り込む、二人のウマ娘。

 

 二人は共に一張羅の勝負服を身に纏い、一人は重心を崩して動揺した表情を浮かべており、もう一人は対照的に完璧な笑顔でポーズを作っている。

 

 微笑ましい日常の一瞬を切り取った待ち受けに映るウマ娘達の姿には、当然のように心当たりがあった。

 

 二週間前に開催された皐月賞を制覇し、見事GⅠウマ娘に輝いたあたしの親友──サトノダイヤモンド。

 

 先日開催された天皇賞(春)において、奇跡の復活劇を果たした”不屈の名優”──メジロマックイーン。

 

 両者は共にチーム・アルデバランに所属するウマ娘達で、この特別な瞬間を切り取れるひとなんて、少なくともあたしは一人しか知らない。

 

「……届けてあげなきゃ」

 

 マックイーンさんはつい先程目を覚まされたとのことなので、彼女の担当トレーナーである彼が病院を訪れていている可能性は非常に高いだろう。

 

 使命感に駆り立てられたあたしはすぐさまその場から立ち上がり、エントランスホール一帯をぐるりと見渡す。

 

 彼は普段からスーツを着用しているため、視界に映ればあたしだってすぐに見つけられるはずだ。

 

 エントランスホールには……いない。

 

 心当たりがあるとすれば、マックイーンさんの病室かそれともお手洗いか……そういえば、この病院では確か開放的な中庭を自由に散歩することが出来たはず。

 

 あたしの取り柄は勢いだ。それが裏目に出ることも多々あるけれど、彼が認めてくれた確固たる長所であることに変わりはない。

 

 あたしはひとまず中庭へ移動するため病院の正面エントランスを飛び出し、進路を右へ変えた瞬間。

 

「えっ──」

 

 あたしの身体が何かに衝突した。

 

「きゃっ──」

 

 どうやらあたしは、誰かとぶつかってしまったようだ。その思わぬ衝撃であたしはバランスを崩し、背後に尻もちをついてしまった。

 

「え、あ、す、すみません……っ。だ、大丈夫で…………」

 

 少し勢いを出しすぎていたのかもしれない。あたしの元に駆け寄ってきてくれた男性が、申し訳なさそうな声をこぼした。

 

「あ、あはは……こちらこそすみません。あたしもちょっと、周りが見えていませんでした……」

 

 地面についたおしりをさすりつつ、あたしは手に握りしめたスマホに傷がついていないか確認しようとして。

 

「……………ぁ」

 

 

 

 

 

 あたしの視界に、探し求めていたあの人の姿が映り込んだ。

 

 

 

 

 

「……キタサンブラック?」

 

 あたしとばったり出会った彼は意外そうに目を丸め、確認するように名前を呟く。

 

 こんなにすぐ見つけられると思っていなかったあたしは、動揺して事前に用意していた言葉を忘れてしまう。

 

 それでも何とかあの人に話しかけようと奮起した瞬間、彼の方から声が飛んできた。

 

「それって……もしかして、()()()()()……?」

 

 彼の視線が、それを握りしめたあたしの右手に集中する。

 

 どうしてあの人のスマホをあたしが持っているのか、彼はきっと疑問に思っていることだろう。

 

「あ、えっと……エントランスのソファーの隙間に挟まっていたのを見つけたんです。それで、トレーナーさんに届けてあげなきゃと思って……」

 

 あたしは彼に事情を説明し、身体を起こしてスマホを手渡した。

 

「ありがとう、助かったよ」

 

 彼は手にしたスマホを一通り確認して、安堵のため息をこぼしていた。

 

 突然の出来事だったけれど、彼の役に立つことが出来て良かった。

 

 そうやってあたしが胸を撫で下ろしていると、

 

「それにしても……よく俺のスマホだって分かったな」

「え?」

 

 彼があたしに向かってぽつりと、純粋な疑問を投げかけてきた。

 

 あの人の疑問は最もだ。彼の使用しているスマホの外見は非常に一般的で、特徴的なアクセサリーなどは何もついていないため、一目で判断するのはとても難しい。

 

 このままでは、不可抗力とはいえあたしが彼のプライバシーを勝手に覗いてしまったことがバレてしまう。

 

 何とかして上手く取り繕わなければ、あたしは彼に嫌われてしまう……っ。

 

「……あっ、それは……い、以前、トレーナーさんが使われていたものと一緒だったので、もしかしたらと思って……っ」

 

 少々見苦しい言い訳になってしまったが、彼に勘付かれていないだろうか。

 

 俯きがちになった前髪の隙間から、あたしは彼の表情を盗み見る。

 

「本当に助かったよ。ありがとう、キタサンブラック」

「い、いえいえっ。トレーナーさんのお役に立てたのでしたら、とっても嬉しいです」

 

……良かった、何とかごまかせたみたい。

 

「そういえば……キタサンブラックは、どうしてこの病院に?」

「ダイヤちゃん達と一緒に、マックイーンさんのお見舞いに来たんです」

「そっか。ありがとう、マックイーンもきっと喜ぶよ」

 

 お互いに少し言葉を交わして、ここで一度会話が途切れた。

 

 そういえばと振り返るが、彼と対面したのは二週間前の皐月賞が最後だったか。

 

「……っ」

 

 あたしの脳裏に刻まれた当時の記憶が突然、鮮明に再生される。

 

「…………」

 

 皐月賞のあの日。静まり返った通路の死角で過ごした、誰にも言えない秘密の時間。

 

 極度の緊張で凍えるほどに強張ったあたしの身体を溶かしてくれた、あの人の優しい温もり。

 

 いけないことだと分かっているのに、この身体はあたしを助けてくれた彼の優しさを覚えてしまった。

 

 最近は軽減されつつあるとはいえ、普段は寝不足なあたしの身体が、彼の温もりがあると安眠できることに気付いてしまった。

 

 それでも彼はあたしの親友を担当するトレーナーさんで、彼にとってあたしは、担当ウマ娘の友人という立場にすぎなくて……。

 

 あたしは四年前のあの日、世界的アイドルウマ娘を担当していた彼に迫って、ありふれた約束を交わした。

 

 数多と存在するミライさんのファンの一人と交わした口約束なんて、彼が覚えていないのは当然のこと。

 

「……あの、トレーナーさん」

 

 以前、あたしはあの人から彼自身の過去を聞いて、その心に抱える底知れない後悔や大きな未練を知った。

 

 そんなあの人が大切な教え子達と手を取り合って、前を向いて進み始めているというのに。

 

 過去の思い出を抱えたあたしが、彼の決意に水を差すことなんて出来るというのか。

 

「…………」

 

 幼いながらに芽生えた夢の最期は……本当に、あっけない幕引きだった。

 

 それでも、たとえあっけない終わり方だったとしても、愛しい夢に想いを馳せていた瞬間は決して無駄ではない。

 

 何故ならあたしは、ミライさんから貰った夢のおかげで未来に大きな希望を抱くことが出来たのだから。

 

 あたしも良い加減……勇気を出して、前に進まなくちゃ。

 

 

 

 

 

 

 

「──あたし、次は負けませんから!」

 

 

 

 

 

 

 

 彼へ向けて放ったその一言は、過去の自分への決別の意志であり、未来のライバルへ向けた宣戦布告である。

 

「結果的に皐月賞は三着で、ダイヤちゃんの足元にも及びませんでしたけど……あたし、日本ダービーでリベンジします!」

 

 ライバルの打倒に燃える情熱を瞳に宿し、あたしは目の前の彼を見上げた。

 

「ダイヤちゃんに勝って、日本一のウマ娘になります。菊花賞だって、ライバルには譲りませんから!」

 

 皐月賞で惜敗を喫したライバルとの再戦は、三週間後のクラシックレース第二戦──日本ダービー。

 

 彼に語りかけるあたしの言葉は、トゥインクル・シリーズを駆け抜ける途中で新たに生まれた、かけがえのない大切な夢。

 

 あたしは絶対に、今度こそ自分の夢を叶えたい。

 

「ですから、トレーナーさん──」

 

 ダイヤちゃんに勝って、日本一のウマ娘になって、世界一のアイドルウマ娘になるんだ。

 

 だからもう、彼のことは諦めなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──あたしのこと、見ていて下さいねっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 諦めなきゃ、いけないのに……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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