今は亡き教え子が眠るアメリカから無事に帰国した翌朝のこと。
俺は普段通りの日常をおくるため、きびきびと身体を動かしてベッドから起床する。
朝日が昇り始めたばかりの午前五時。
運動しやすいジャージに着替えて、俺は静かにトレーナー寮を出る。
最初こそ眠気との葛藤があった早朝のジョギングも、今ではすっかり健康的な習慣となっていた。
ここ数ヶ月間はメジロ家の療養施設を拠点に活動していたためか、近所に広がる河川敷の景色が何だかとても新鮮に感じる。
冬から春へと季節が移り変わったこともあり、最近では気温の上昇が著しい。
軽く走っただけでも汗が出てくるし、すこぶる喉も乾く。
俺は普段折り返しの休憩場所で飲料水を購入するのだが、以前よりも目に見えてその頻度が増えている。
いい加減水筒を持参し、節約を図るべきだろうか。一回の出費は微々たるものでも、積み重なればそれなりの額になる。今度空いた時間に店へ寄って調べてみよう。
しかしとにかく今は喉が渇いたので、俺は乱れた息を整えながら自販機の元へと歩み寄る。
その途中、
「──ぁっ」
視界の端に映ったベンチに腰掛ける少女が、俺の姿を見て小さく呟いた。
「ぉ、おはようございます! トレーナーさん……っ」
濃い鹿毛の髪をツーサイドアップでまとめ、情熱を灯したルビーのような瞳を持つウマ娘。
緊張で微かに表情をこわばらせつつも、尻尾を高く振りながら駆け寄ってくる少女──キタサンブラック。
俺が担当するサトノダイヤモンドの親友であり、トレセン学園でも最強と名高いチーム・スピカに所属するウマ娘だ。
「おはよう、キタサンブラック。今日も朝練?」
「ぇ、あっ、はい! 朝練です!」
早朝ジョギングの場面において、朝練に打ち込むキタサンブラックと出会うことは多々あった。
けれど、前述したように俺は先日までメジロ家の療養施設で活動していたため、この時間帯で彼女と顔を合わせたのは二月初旬が最後だったと記憶している。
過去のいざこざによって、複雑な状況下にある俺とキタサンブラックだが。時間が経つにつれて、現在ではこうして軽く挨拶を交わす程度には良好な関係性を築くことが出来ていた。
以前に二人で交わした"折衷案"のおかげも相まって、俺達の間に漂っていたギクシャクとした雰囲気はだいぶ和らいだように感じる。
当然、キタサンブラックに対する負い目が無くなったわけではないが……。
「そっか。キタサンブラックは努力家だね……あ、これ良かったら」
一足先にベンチに腰掛けていたことから、キタサンブラックは朝練の休憩中だったのだろう。
自分用の飲料水と一緒にキタサンブラックのものを自販機で購入し、彼女に手渡した。
余計なお節介かもしれないが、俺だけぐびぐびと水を飲むのは何だか気が引けてしまう。
「あっ、ありがとうございます! いただきます!」
俺のお節介を笑顔で受け取ってくれたキタサンブラックに内心安堵しつつ、揃ってベンチに腰掛ける。
ペットボトルに口をつけて、彼女と共に一息つく。
「こうしてお会いするのは、えっと……ひ、久しぶりですね」
「そうだね……三ヶ月ぶりくらい?」
「な、何だか緊張しちゃいますね……えへへ」
キタサンブラックは恥ずかしさをごまかすように笑みを浮かべながらも、俺に対して積極的に話しかけてくれた。
数ヶ月前と比較すると、俺はキタサンブラックの笑顔を見る機会が目に見えて多くなったように感じる。
以前のキタサンブラックは目元に大きなクマを抱えていたりと疲弊した様子が目立っていたが、ここ数ヶ月の間で彼女は年相応の快活さを取り戻しているように見えた。
キタサンブラックの中で何か、気持ちに変化があったのかもしれない。
それはきっと、彼女にとって良い傾向に繋がっているのだと思う。
「あ、あの……トレーナーさえよろしければ、一緒に戻りませんか? 寮の方向も、ここからなら一緒ですし……」
しばらく雑談を続けた後、隣に座るキタサンブラックが遠慮がちにそう提案してくれた。
この河川敷から帰路に着くとなると、俺が住まうトレーナー寮と栗東寮は同じ方角に位置している。
キタサンブラックが俺に気を遣ってくれているのなら申し訳ないと感じるが、提案自体は合理的で断る理由は特に無かった。
「そうだね。せっかくだから、一緒に戻ろうか」
「……っ、はいっ!」
空になったペットボトルをゴミ箱に捨て、簡単なストレッチを挟んだ後に俺達は一緒に駆け出した。
雑談に興じる余裕を残しつつ、帰り道は先程よりも少しだけ速度を上げる。
「あ、あの、トレーナーさん。以前よりもペースが速い気がしますけど……大丈夫ですか?」
「最近、頑張って身体を鍛えてるんだ。体調不良で教え子達にこれ以上迷惑をかけたくないし……何より、君が退屈してしまうだろうと思って」
これは以前にも述べたことだが、人間とウマ娘でジョギングの平均速度を比較した場合、ウマ娘は軽く走っても人間の二倍近い速度が出る。
速度を意図的に抑えてまで鈍い風を切りたいと考えるウマ娘など、まず存在しないだろう。
……本当にキタサンブラックのことを思うのなら、先程の提案を断るのが最善なのかもしれないが。
せっかく良好な関係性が形になりつつある状況で、彼女からの提案を断るのは少々、気が引けてしまう。
「以前までは向こうで……あ、少し前までメジロ家の療養施設にいたんだけど。設備が充実してたから、体力作りの一環でよく運動に使ってたんだ」
「……あ、そういえば確かに。マックイーンさんの病室で触れたトレーナーさんの身体、
教え子達と心の距離を縮める目的で、トレーニングの一環である身体作りを一緒にしていたのだが……まさか意外にも、このような場面で生きてくるとは。
「それでもウマ娘の速度には到底及ばないんだけどね……やっぱり、退屈じゃないか? 俺と走ってて」
「い、いえいえ! あたしからこうしてお願いしているわけですから! あたしはとても嬉しいです!」
「……そっか、ならよかった」
隣を走るキタサンブラックに視線を向けると、彼女は心の底から楽しそうに微笑んでいた。
本当に走るのが好きなんだなぁと思いつつ、俺は彼女と共にトレーナー寮までの道のりを走る。
そして、寮まで残り半分程度の距離に至った頃だろうか。
頭の片隅でこの後の動きについてぼんやりと考えていたら、俺はふと
「……あっと。すまない、キタサンブラック」
俺はその瞬間から徐々に速度を落とし、一緒に走るキタサンブラックに対して断りを入れた。
「は、はい……えっと、どうかしましたか?」
突然立ち止まった俺を見て、キタサンブラックは案の定困惑した様子で問うてきた。
「ごめん、少し用事を思い出してしまって……今日はここまででも良いかな」
「……ぇ、ぁ、わ、分かりました」
キタサンブラックの両耳が分かりやすく垂れ下がる。
ジョギングを楽しんでいた彼女に対して、俺は水を差すような発言をしてしまったのかもしれない。
「ちなみに、その……用事というのは?」
申し訳ないことをしてしまったかなと思いつつ、俺はキタサンブラックの疑問に答えた。
「
「……え?」
「ちょっと今、冷蔵庫が空っぽでさ……週末、アメリカに行ってたから。買い出ししてなかったの、すっかり忘れてて」
「……ぁ、ああっ! なるほど!!」
河川敷から少し離れた場所に二十四時間営業の業務スーパーがあるため、ジョギングのついでに寄っていこうと考えていたのだが……キタサンブラックと出会ったことで、俺の頭からすっかりと抜け落ちてしまっていた。
「──あのっ! もしよろしければ、
「え?」
「冷蔵庫が空っぽということは、それなりの量を買いますよね? ひ、人手は多い方が良いと思います!」
「いや、でも……わざわざ荷物持ちなんてお願いするわけには……」
「心配しないで下さい! あたしはウマ娘ですから、荷物はたくさん持つことが出来ます!」
人助けは当然だと言わんばかりに荷物持ちを申し出てくれるキタサンブラック。
その積極性はとても嬉しいが……俺としては少々、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
ただでさえキタサンブラックの朝練を潰してしまっている状況で、この後トレセン学園で授業を控える教え子の親友に対して、雑用をお願いするなんて。
「目の前でトレーナーさんが困っていたら、あたしは見過すことなんて出来ません。だって、その……それが、あたしとトレーナーさんの関係……じゃないですか」
キタサンブラックの発言を受けて、俺は二人の間で交わした約束を思い出す。
互いに抱える罪悪感を減らし、より良好な関係を築くために結んだ、俺とキタサンブラックの”折衷案”。
キタサンブラックの厚意を無碍にして余計に罪悪感を抱えるのは……確かに彼女の指摘通り、俺達の関係性に反しているのかもしれない。
「……そう、だった。それじゃあ、えっと……お願い、しようかな」
「……っ! はいっ!」
改めてキタサンブラックに付き添いをお願いすると、彼女は嬉々としてそれを受け入れてくれた。
「時間も迫ってきていますし、早速向かいましょう! えっと、ここから近い業務スーパーといえば、あそこしかないですよね!」
キタサンブラックは先程のジョギング以上に軽快な身のこなしで俺の手を取り、勢いよく駆け出す。
突然のことで一瞬バランスを崩しかける俺だったが、最近鍛えた体幹を駆使して姿勢を立て直しつつ彼女に続いた。
困っている人を見たら、放ってはおけない。ダイヤはキタサンブラックのことをしばしば”お助け大将”と称しているが、しがないトレーナーの俺にも手を差し伸べてくれるなんて。
彼女は本当に、心の優しいウマ娘だと思った。
***
キタサンブラックに荷物持ちをお願いし、俺は彼女と共に行きつけの業務スーパーにやってきた。
時刻は午前五時五十分。
二十四時間営業の業務スーパーとはいえ、この時間帯の店内はやはりとても空いている。
店舗前に置かれたカートは「あたしが持ちます」と言って譲らないキタサンブラックに任せ、俺は彼女と揃って店内を見て回った。
「早朝のスーパーって、何だか新鮮ですね。トレーナーさんは、この時間帯によく行かれるんですか?」
人気のない店内を物珍しげに見渡しながら、キタサンブラックが問うてくる。
「基本的には休日だけど、トレーニングとかで行けなかった時はジョギングのついでに寄ることがあるかな……お、もやしが安い」
キタサンブラックに付き添ってもらっている以上、長居は禁物だ。スマホのメモ帳に書き記した食材を効率よくカゴに入れつつ、陳列された特売品などをチェックする。
「……トレーナーさん、食材を選ぶのが上手ですね。手練れって感じがします」
「自炊を続けてると、同じ値段でもやっぱり良いものを選びたくなる。特にこの業務スーパーは生鮮食品の品質がとても良いんだ。例えば、この林檎とか」
林檎は一般的に秋から冬にかけてが旬の食材であるが、産地や品種によってはこの時期に出回っていることも少なくない。
「色が深く鮮やかで、形の綺麗なものが揃ってる。値段もさることながら、旬の季節に負けないくらい甘くて美味しいんだ」
昔はよく、美味しい林檎を使って教え子の好物であったアップルパイを焼いていた。
せっかく良い林檎が手に入ったのだから、今度マックイーンのお見舞いにパイを焼いて持っていこう。彼女ならきっと、喜んでくれるはずだ。
「すごいです! トレーナーさん、食材にとっても詳しいんですね! 他の食材は何を基準に選んでいるんですか? あたし、もっと聞きたいですっ!」
ただ食材を選んでいるだけであまり面白くは無いと思ったが、キタサンブラックはとても興味深そうに瞳を輝かせて話題を掘り下げてくれた。
キタサンブラックが抱く興味の矛先が食材の選び方だと分かっていても……その輝く瞳を向けられると何だか、俺自身に興味を持ってくれているのでは無いかと錯覚してしまって。
「ん、そうだな……例えば──」
……俺はついつい、調子に乗ってしまった。
***
「──これだけ食材を揃えれば、しばらく買い出しに行く必要はありませんね!」
「…………すまない」
大量の食材で今にもこぼれ落ちそうになっているエコバッグを両手に下げ、キタサンブラックが嬉々としてこちらを振り返った。
「こんなに買うつもりじゃなかったんだけど……本当に、助かるよ」
かくいう俺もキタサンブラック同様両手が塞がれており、やってしまったと内心深く反省していた。
「いえいえ! トレーナーさんのお話をたくさん聞くことが出来て、とても勉強になりました!」
一人では到底持ち運べないほどの食材を買い込んでしまった要因は、俺の目の前で無邪気に微笑むキタサンブラックにあるといえる。
しかし、それは決して悪いというわけではなくて。
むしろ根本的な原因は、聞き上手なキタサンブラック相手についつい饒舌になってしまった
俺が売り出された食材を一つ手に取ると、キタサンブラックは興味津々といった様子で問うてくる。
すると彼女は俺の話を本当に楽しそうに受け止めてくれるため、職業柄、ついつい一を聞かれて十を教えたくなってしまったのだ。
その度に俺は手にした食材をポイポイとカゴに放り込んでしまったせいで、ふと我に返った時にはこの有様……。
想定よりも多くの時間を買い出しに要してしまったが、早起きしたおかげでまだ時間には余裕がある。
「これだけ買い込んでしまうと、走って帰るのは少し危ないかもしれませんね。トレーナーさんの寮まで大した距離ではありませんし、ゆっくり歩いて帰りましょう!」
キタサンブラックと並んで業務スーパーを後にし、トレーナー寮への帰路についた。
「トレーナーさん。荷物、重くないですか? もしよろしければ、あたしがお持ちしますよ?」
「いや、さすがにそれは遠慮しておくよ……大の大人が女の子に荷物を全て持たせるのはなんて言うか、体裁が……」
「あははっ、そんなの誰も気にしないと思います! だってあたし、ウマ娘なんですよ?」
「そうは言っても……プライドがあるんだよ、男には」
それ以降も、彼女との会話は続く。
キタサンブラックとの接点は早朝ジョギングでたまに顔を合わせる程度であったが……俺は内心、本来快活であるはずの彼女が笑顔を取り戻しつつある現状にとても安堵していた。
キタサンブラックは俺の教え子であるダイヤの幼馴染であり、かけがえのない親友だ。
俺のような存在が原因で、彼女達の尊い関係性に亀裂が入ることなど決してあってはならない。
以前におかした自身の失態を繰り返さないためにも、彼女とはできる限り良好な関係性を築いておきたかった。
「トレーナーさんって、結構食べる人なんですか?」
「んん、どうだろう。最近は健康を意識してそれなりに食べるようにしてるけど、平均くらいだと思う」
俺は特に健啖家というわけではないし、一日の食事量も成人男性の平均程度だと思っている。しかし、ひと一人では到底食べきれない量の食材を買い込んでいる様子を目にすれば、誰だってそのような疑問を抱いてもおかしくはない。
今回は特に例外的だが……まぁこれだけ買っても案外、来週にはまた買い出しに行く必要があったりする。
「キタサンブラックは、よく食べるの?」
「あ、あたしですか? えっと、昔はそれなりに食べてたんですけど……最近はちょっと控えめで……あはは」
苦笑を浮かべてそれとなく言及を避けるキタサンブラック。
……あまり考えないで発言してしまったが、年頃の女の子に対してこの手の話題は振らない方が良かったかもしれない。
キタサンブラックと会話を続けながらしばらく歩くと、目的地であったトレーナー寮に到着した。
エントランスを通ってエレベーターに乗り、トレーナー寮の最上階へ。
俺の部屋はその突き当たりに位置しているから、特に迷うこともなかった。
「ここが……トレーナーさんのお部屋……」
「ああ。ここまで付き添ってくれてありがとう、本当に助かったよ」
扉の前に荷物を下ろしてもらい、俺は改めてキタサンブラックに感謝の気持ちを伝える。
「い、いえいえっ! また何か困ったことがありましたら、何でも言って下さいね! いつでも、どこにいても、あたしはすぐに駆けつけますから!」
「それはとても頼もしいな」
キタサンブラックの厚意に何もお返しできていないのが少し気掛かりだが、彼女にも予定がある。キタサンブラックに対するお礼は、また今度の機会にするとしよう。
「あ、トレーナーさんすみません。今何時かお聞きしても良いですか? あたし今、時計を持っていなくて」
キタサンブラックと別れる寸前、俺はポケットに忍ばせていたスマホを取り出して現在時刻を確認する。
画面に表示された時刻は、午前六時五十五分。
「分かりました! 教えて下さってありがとうございます!」
歩いて帰宅したせいか、体感以上に時間が過ぎているような気がした。
「……んん、どうしよ。この時間だともう、食堂は混んじゃってるよね。まぁ、購買で簡単に済ませればいっか」
キタサンブラックとの別れ際に、俺はその耳で彼女の独り言を捉える。
「それじゃあトレーナーさん、あたしはこれで失礼しますね!」
その言葉を最後にキタサンブラックは踵を返し、扉の前から去っていく。
彼女の独り言を耳にして、俺はふと考える。
アスリートにとって食事は非常に大切なものであり、中にはトレーニングの一環として重要視する人も少なくない。
以前、俺は偏った食生活を繰り返したことで体調を崩し、その重要性を痛感している。
しかし、俺の雑用に付き合わせてしまったことが原因で、今まさにキタサンブラックの食事が疎かになろうとしているわけで……。
…………。
「──待って」
キタサンブラックの左手を咄嗟に取って、去りゆく彼女の背中を引き留める。
「は、はい。どうか、しましたか?」
「あのさ。キタサンブラックは今、沖野先輩から食事制限とか受けてたりする?」
「沖野トレーナーからですか? い、いえ。そういった指示は特に受けていないですけど……」
「そうか。……それじゃあ、キタサンブラックさえ良ければなんだけど」
背後から突然俺に手を取られ、わずかに目を丸くしながら振り向いた彼女へ向けて、俺は言う。
「──朝ごはん、一緒に食べない? 買い出しに付き添ってくれた、お礼をさせてほしい」
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作者のモチベがめっちゃ上がります。
少し仕事に余裕ができたので、頑張って書きます。