二週間に及ぶ基礎トレーニング期間が終了したため、俺達は次のステップに移る。
普段と同様に準備体操と柔軟を入念に行う。俺は基礎トレの一部を行うよう指示して、ダイヤの身体を温めさせた。
そしてついに、俺はダイヤを二週間ぶりにコースの中へ入れる……その前に。
「今日もこの靴を履こう」
基礎トレーニングでも使用した、蹄鉄の重量を調整したシューズ。俺は今日もこれをダイヤに履かせた。
最初は片方十キロの蹄鉄だったが、筋肉の発達具合に応じて現在は片方十四キロとなっている。
「俺はこれから、ダイヤの走行フォームを矯正する」
ダイヤの現状の走行フォームについて、浮き彫りになった課題を簡単に整理する。
矯正すべきポイントは以下の三つ。
一つ、走行中の力みが生んだ全身の硬い動き。
二つ、コーナーを曲がる際に生じる軸のブレ。
三つ、地面を蹴った後に背後へ流れる足。
当然、一度に矯正することは不可能だ。
加えて順を追わなければよりフォームが複雑なものとなってしまい、身体にかかる負担が倍増するリスクがある。
俺は矯正点を一つずつ、丁寧にダイヤへ伝える。目の前の課題に向き合わせ、余計な情報に惑わされて頭がパンクすることを防ぐためだ。
「一度、その靴を履いた状態で千メートルを一本。全身の力を抜いて、ランニング感覚で走ってみろ」
基礎トレーニングに時間を割くという体で、俺は二週間ダイヤに一切走らせることをしなかった。
この千メートルで、ダイヤは身体に染み込ませてしまった"走る感覚"を簡単に取り戻すだろう。
その感覚の中に、矯正の"種"を一つだけひっそりと植え付ける。
「準備は良いか?」
「いつでもいけます!」
意気揚々と踏み出した、その一歩目。
「…………っ!?」
ダイヤの表情が、分りやすく違和感の色に染まった。
例えるなら、悠々と大地を疾走する豹が両足に枷をかけられ、自由を奪われたかのような。そんな感覚で顔を歪めた。
俺の言いつけ通り、ダイヤは全身の力を抜いて千メートルを走り切った。
「走ってみて、どうだった?」
「……あんまり、気持ち良く無かったです。走るたびに、足に違和感を感じてしまって……」
当然だ。
「ダイヤが今の走りで感じた違和感。これをメイクデビュー前に全て払拭する」
それが、ダイヤの走行フォームの問題点なのだから。
「今まで気付かなかったと思うが、ダイヤは走行中、無意識に全身を力ませていたんだ」
「そう、だったんですか……」
「そのせいで身体にある筋肉の一部しか使えず、全身のしなやかなバネが活かせていない。筋肉の緊張がスタミナを奪い、やがては思考すらも侵食する。悪循環の根源だ」
要約すると、ダイヤは身体の使い方が下手くそなのだ。
「まずは、肩の力を抜いて走る感覚を身体に叩き込む。その過程で、自然と走りが最適化されていくはずだ」
俺が適宜アドバイスを送りつつ、ダイヤ本人が納得出来るまでひたすら反復練習。
これが、今後のトレーニングの中心となる。
「焦る必要は無い。ゆっくりと深呼吸を繰り返して、まずは全身が脱力する感覚を掴むんだ」
チグハグだった身体の歯車が、ガチッとはまる感覚。
この感覚を得られるだけでも、彼女の走りは飛躍的に向上することだろう。
***
トレーニング開始から約一時間。
「兄さま! 最初よりも力を抜いているはずなのに、身体が前に進んでいるような感じがします!」
目に見えて、ダイヤの身体から不自然な力みが抜けていた。
感覚を掴むまでもっと時間を要すると踏んでいたが、どうやら俺はダイヤの成長速度を見誤っていたようだ。
「……予想以上だ」
こいつはすごい。
心の中で、俺は強い手応えのようなものを感じた。
「よし、次のステップに進もう。次はもっと難しいぞ」
「はい、お願いします!」
全身を脱力して走る感覚を得たダイヤに対して、俺が次に教えるのは。
「次は、身体の軸だ」
走行中に乱れる上半身の矯正だ。
「身体の真上から、真っ直ぐな線が通っていることを意識して一本走ってみろ」
これは先程の矯正よりも難しくはない。
「それだけで良いんですか?」
「ああ」
意識するだけで改善出来る内容。
しかし、それが決して簡単だとは言っていない。
俺の指示通り、ダイヤは身体の軸を意識して一本を走った。
そんな彼女に、俺はアドバイスをかける。
「ダイヤ。
「……!」
身体の軸を意識して……つまり、全身がブレないように
「全身を脱力させつつ、絶対にブレない強固な軸を生み出す」
一見矛盾を抱えた、違和感に塗れた言葉。
しかし意外と、解決方法は単純だ。
「まぁ、今は頭の片隅程度に留めておけ。基礎トレで身体を作れば自然と出来上がってくる」
基礎トレーニングを継続し、筋肉量と体幹を強化する。
「今のダイヤの身体は軸が通っていない。だから特にコーナーを走る際に上体がブレて、力が外に逃げてしまうんだ。これが矯正する二つ目の点だ」
「なるほど」
続いて、俺は矯正するポイントの三つ目をダイヤに伝える。
「そして三つ目の点。ダイヤは今、全身を脱力させて走る感覚を身につけた。その反動が押し寄せるように、最初に走った時よりも脚が重くなったと感じないか?」
「……よく分りますね。さすがです、兄さま!」
全身の力みが抜けたからといって、大きくフォームが変わることは無い。
同じ脚の使い方、動かし方をしているのに、脚だけが何故か重たくなった。
「これがダイヤの走行フォームの大きな問題点の一つ。言葉で表現すると、脚が後ろに流れている状態だ」
ダイヤは地面を蹴った後、脚を背後に置き去りにしてしまう傾向があった。
「重心が先端に偏ったものを持ち上げようとすると、重量以上の重さを感じることがあるだろ?」
「つまり、身体から足が離れるほど重りがより重く感じる……ってことですか?」
「そういうことだ。地面を強くインパクトして得られた力が、身体の後ろに逃げていく。その感覚を、俺は感じやすい”重量”に置き換えてダイヤに体験させた」
より綺麗なフォームで、より効率的な力を得るために必要な要素をダイヤ自身で把握して欲しかった。これが、今日のトレーニングの意図である。
「基礎トレでトモを直角に上げて上下させたり、ジャンプして左右の脚を入れ替える練習をやっただろ? それがここで活きてくる」
足を後ろに流すのではなく、地面を蹴った瞬間に強く上に引き上げる。
「地面から得られる力を逃すな。蹴った脚の膝を、真っ直ぐ身体の前へ持ってくるような感覚で走ってみろ」
上手くいけば、靴の重りの存在が意識の中から薄れてくるはずだ。身体の近くで足を引き上げる分、重心が身体に寄ることになるのだから。
「何度も言うが、焦ってはダメだ。これは習得までに時間がかかる。根気良く続けていくことが、案外最短だったりするからな」
ダイヤが怪我をしないための走り方を習得するまで、俺は一歩も先へ進まない。
彼女が、今後の競走人生を歩むために。
俺はそれが、最善の選択だと思っている。
***
午前のトレーニングを終えた私は、兄さまを昼食に誘った。
あまり乗り気では無かった兄さまだったが、最後は私の勢いに根負けしたようだ。ため息をこぼしながら、今回だけだぞと頷いてくれた。
意気揚々と食堂へ足を運ぶと、そこにはちらほらとウマ娘やトレーナー達の姿があった。
「みなさん、休日も熱心なんですね」
「ウマ娘も俺達も、休日なんてほとんど無いからな」
私は適当な席を見つけて、兄さまと座る。
「普段飯は購買で済ませるから、そういえば食堂で飯を食べたことは無いんだよな」
「そうなんですか? だったら、私のおすすめを紹介します!」
この前キタちゃんと食べた『特大にんじんハンバーグ』なんて、もうほっぺたがが落ちるくらい美味しいんですよ!
そう私が強く主張したら、兄さまは顔を引き攣らせながら苦笑した。
「さすがにその量は食えん」
「……そうですか、美味しいのに」
私は兄さまが受け入れてくれなかったことにシュンと落ち込んで、せめて一口だけでも食べてもらおうとこのメニューを注文する。
対して兄さまは、一般的な量の唐揚げ定食を頼んでいた。
「…………まじかよ」
テーブルに料理を並べると、そのボリュームの差に兄さまが驚愕していた。
「え、それ……食えるの?」
「え? はい」
逆に兄さまこそ、その食事量で足りるのかと言及したくなる。
「一口食べますか?」
「いや、いらない。見てるだけで胃がもたれそうだ……」
「そうですか……」
ハンバーグを小さく切り分けて、口に運ぶ。
こんなに美味しいのに。
「それで、今日はどうかしたのか?」
食事中、兄さまが私に唐突に話題を振ってきた。
多分、私が兄さまを昼食に誘った理由を聞いているのだろう。
理由かぁ。
別に、大した理由なんてないのだけれど……。
「一緒にご飯を食べたかっただけ……では、理由になりませんか?」
強いて言うなら、昔みたいに仲睦まじく同じ時間を共有したかったから……かも?
「だって……兄さまと八年も離れ離れで私、寂しかったんですよ?」
再会を果たしたその日から、私達は必要最低限の会話しかしてこなかった。
私はそれがすごく寂しいと感じていた。
昔のように、気楽な関係ではないかもしれない。
雇用者と被雇用者、指導者と教え子といった義務的な関係なのかもしれない。
それでも私は、彼との仲を深めたかった。
だから今日、私はこうして彼を食事に誘った。
「今は少し、甘えたい気分なんです」
「……そうか」
「ふふふっ。兄さま、照れてますね? お顔が真っ赤ですよ?」
冗談混じりに本音をさりげなくぶつけて、兄さまをからかってみる。
平静を装おうと必死になっているせいで、私が今どんな表情をしているのか、彼には分からないだろう。
「兄さま」
「……何だよ」
「私、嬉しいです。兄さまが私のトレーナーになってくれて」
「……俺は今猛烈に後悔しているよ」
「まぁ、ひどいです。兄さま」
こうして再び兄さまと顔を合わせて話すことが出来ているのも、彼が私との約束を守ってくれたからである。
嬉しさをかみしめるように、私は他愛ない雑談にのめり込んでいく。
「兄さま。私、ずっと聞きたいことがあったんです!」
「何だ? 答えられる範囲なら答えてやる」
「兄さまがアメリカでどんなことを経験したのか、ずっと知りたいと思っていたんです!」
私は、私の知らない兄さまを知りたい。
彼の全てを知りたいと思ってしまうのは、傲慢なのでしょうか。
「……面白い話なんて出来ないぞ? ただ勉強してただけだし」
「聞きたいです!」
「……そうだなぁ」
私の熱意に押し負けて、兄さまは流されるように過去を語ってくれた。
渡米後は、ひたすら勉学に励んでいたということ。
勉学の内容が難しすぎて、危うく留年しかけたこと。
血の滲む努力の末、念願のトレーナーライセンスを獲得したこと。
レースに対する熱意をとあるトレーナーに買われて、サブトレーナーとして経験を積んだこと。
「別に、そんなに面白い話では無いだろう?」
「いいえ! とっても興味深いです!!」
過去の兄さまを知れば知るほど、私はもっと彼に興味を抱く。
一度に全ての質問は出来ないため、私は内容を吟味し、今一番気になっていることを兄さまに問うた。
「サブトレーナーって、どんな仕事をするんですか?」
「基本的にはチーフトレーナーの補佐だが……俺達の場合は、ウマ娘の面倒を見ていたな」
「面倒……担当とは違うのですか?」
「ああ。ウマ娘との契約は、あくまでチーフトレーナーが交わすものだからな」
兄さまのサブトレーナー時代。気にならないわけがない。
「兄さまが面倒を見ていたウマ娘って、どんな方だったのですか?」
私の純粋な疑問に、兄さまは言葉を詰まらせる。
「…………そうだな」
過去に想いを馳せているのか、しばらく俯いたあと、兄さまは苦笑を浮かべながら呟いた。
「……変な奴だったよ。落ちこぼれってバカにされても、平然と笑顔を振りまく女だった」
ルーキー日間1位に掲載されていました。
正直自分でも驚いています。
読者の皆さま、本当にありがとうございます。