どこまでも広大に続く砂漠の戦場に発砲音が鳴り響き、銃弾が飛び交う軌道が網を描く。
私の仕事はパーティ同士がぶつかる前線より後方に身を潜め、スコープの中心に捉えた対象に鉛弾を撃ち込むこと。私たちが襲っているパーティは今しがたダンジョンから出てきて、アイテムやゴールドを貯め込んだ後の言わば宝箱。普通にダンジョンをクリアするよりも、こうやって不意打ちをした方が効率がいい。
これは運営よりPvPが推奨されているからこその手法であり、私は卑怯だなんて思っていない。実際、私だって初心者の頃は何度か襲撃されたこともある。しかし、瞬間的な怒りこそあれど、ずっと根に持つなんて野暮なことはしなかった。
回想もほどほどに、スコープから覗く景色に意識を集中させる。相手パーティはダンジョンのモンスター用に光学銃を持っていて、これは対光学銃防護フィールドによって無効化されてしまうためPvPには向かない。対してこちらはプレイヤーを襲撃するために実弾銃持ちのみで構成されている。撃ち合えばこちらが圧倒的に有利なのだが、上手く岩陰に隠れられてしまったせいでジリ貧になっている。
そこで私の出番。私は前線の後方に聳える半壊した建物の中にいて、そこからは岩の奥が狙える。
私の役割はスナイパーだ。アサルトライフルやハンドガンで近、中距離で戦闘するのが主流のGGOにおいて、私の戦い方は最初の頃、かなり揶揄された。けれどスタイルを貫き続けて、今となってはゲーム内でそこそこ名を馳せる有名人にもなっている。
その誇りを銃弾に乗せ、心臓の拍動に合わせて大小が変化するレティクルを見定める。そして、それが最小に縮まった瞬間、
対物ライフルらしい轟音が鳴り、発射された弾丸は視認する間も無く、敵1人の頭を貫いた。ボルトを引いて戻して薬莢を排出、次弾を装填し、再び狙いを定める。
仲間が突然撃ち抜かれて相手方は混乱し、その隙に私のパーティメンバーが距離を詰める。
理想のパターン、のはずだ。それなのに、この騒めきは何だろう。一言で表せば嫌な予感というやつなのだろう。それが頭の隅に引っかかっている。
照準を別のプレイヤーに移したとき、その正体が分かった。敵の内の1人。やけに落ち着いているあの男だ。まるで最初から私がここから撃つのが分かっていたように冷静に戦況を見ている。
グレーアッシュの髪、スチームパンク風のワイドゴーグル。そして、両腕に装備されたガントレット。
友人に聞いて知っていた。どうして今まで忘れていたのだろう。強力なプレイヤーには畏怖の念を込めて異名が贈られることはままある話だ。私が狙った獲物を必ず死に至らしめるため『冥府の女神』と呼ばれているように、彼にも渾名がある。
「まずい……!」
あのパーティに彼がいるとは聞いていない。金を積んで護衛に雇ったのか。それを知らずに仲間達が距離を詰めていってしまう。どうにかしなければ、と最優先の排除対象をその男に据えたとき。スコープの中の彼の輪郭がぶれた。
次いで鳴った音は、ショットガンのそれだった。遥か向こうで有利に立ち回っていたはずの仲間が、次々と奴の餌食になっていく。頭でなくてもいい、胴体にでも当てることができればいいと狙うけれど、絶えず不規則に動き回るそのその体を捉えることができない。
そのまま数十秒が経ち、六人も居たはずのパーティメンバーがあっという間に私1人になってしまった。
六人の死体がポリゴンの欠片になって宙に溶ける中で、ようやく彼は足を止めた。狙うなら今だ、とその頭に照準を合わせる。
口が、動いていた。仲間に何か言っているのだろうかと思うが、どうやら違う。
何をしているのかと疑問を抱え、トリガーを引くのが一瞬遅れただけなのに、その一瞬だけでスコープの中から彼は消えた。
目を離して肉眼で景色を見下ろすと、恐るべき速さで奴が私のいるビルまで迫ってきている。それはあの闇風にすら匹敵する速度だ。狙おうにも弾道予測線のせいで当たる可能性は限りなく低い。
こちらは私だけ。対するあちらも、実弾持ちは奴だけ。こちらはスナイパーで、あっちは接近戦のスペシャリストとして名を馳せる化け物。
逃げるという選択肢は最初から無い。ゲームの中でくらい逃げるなんて行動は取りたくない。ならば、答えは決まっている。
足音が近付いてくる。鉄板で出来た階段を、ブーツの鋲が叩く音だ。へカートⅡをアイテムストレージに収納し、腰のハンドガンを握った。音を立てずに部屋の入り口の横の壁に背をつけて立つ。奴が入ってきたとき、不意打ちで銃弾を喰らわせる。
固唾を呑んで息を潜めていると、大きくなる足音に加えてもう一つ、戦場には不釣り合いなものが聞こえてくる。
世間の話題に疎い私でも知っているヒットソングを歌っている。戦いの最中、今から撃ち合おうというのに。
これが彼の最たる特徴だ。殺し合いの中で歌う。初めて友人にその存在を聞かされたとき、ゲームとはいえ、命のやり取りをしているに関わらず歌うなんてふざけていると思った。その考えは実際に体験した今も変わらない。こいつにだけは負けたくないという感情すら湧き上がってくる。
足音は私がいる部屋の前で止まった。扉を開けて中に入って来たなら私が先制を取れる。私の前に姿を現したその瞬間、眉間に風穴を開ける。殺すことはできないが、せめて一発。
「え?」
なんて間抜けな声だろう、と後になって思った。けれど仕方が無いとも同時に思った。気付けばショットガンの轟音が背後で鳴り、分厚い壁を突き破った弾丸が私の胸の辺りを貫いていた。
視界にあるHPバーがブルー表示から一気にレッドまで持っていかれ、尚も減少を続ける。壁があったとはいえ、至近距離で高威力の銃撃を受けてしまえばこうなるのも当然だ。
考えを読まれ、直接に顔を合わせることもなく殺されてしまう。不意に襲撃をしてこの様では誰がどう見ても完敗だ。
それでも、このまま足掻こうとしないのは弱い者のやることだ。現実では私なんて弱者以外の何者でもない。でもゲームの中でくらい、強者であり続けたいのだ。
背中の衝撃によって前に倒れ込みながら、無理矢理に後ろを向いた。HPは今も減り続けている。それは裏を返せば完全にゼロになるまで猶予があるということ。握っていたハンドガンを前に突き出し、壁の穴から向こう側の奴を狙う。現実では胴体を貫かれた瞬間にショックで死んでしまうかもしれないけれど、痛みの無いVRだからこそ可能なプレイ。
HPの減り具合からトリガーを2度引く余裕は無い。ほとんど直感でそう判断すると、躊躇うことなく人差し指に力を込めた。
ライフルやショットガンに比べて軽過ぎる音。けれど放たれる銃弾は確かに凶暴さを秘めている。倒れながらだが、この近さなら外す方が難しい。銃弾は狙い通りの軌道を飛び、男の眉間に吸い込まれていく。
「——うそ……?」
結果、私の銃弾は空を切った。彼は頭を右の方に倒して弾を避けた。相手は完全な不意打ちを成功させ、1撃で私のHPを削り切った。私が相手なら反撃される可能性は考えなかったし、考えていたとしてもこの距離では弾道予測線と銃撃のタイムラグは無く、躱すなんて不可能に近い。
無慈悲にゼロになったHPバーを睨み付けることもせず、私は目の前の彼の強さにある種の尊敬すら覚えていた。
グレーアッシュの頭髪が揺れ、ワイドゴーグルの曇ったレンズの奥の瞳は消えゆく私を真っ直ぐに見ている。その口からは歌声が溢れている。
プレイヤーネーム《威織》は、『
***
グロッケンにリスポーンし、運良く大事なアイテム達をロストしていなかったことを確認した私は、現実世界の時間を思い出してそのままログアウトした。
意識が急激に引き戻され、感覚が2本の脚で立っていたものからベッドに仰向けになっているものへと移行する。暖房によって暖められた空気に肌が触れる心地の良さを感じながら、ゆっくりと目を開けた。
アミュスフィアのブラウンのゴーグル越しの視界は、さっきまでの砂漠の戦場とは違っている。ワンルームのアパートの質素な内装。それは紛れもなく現実に帰ってきたのだと認識させてくれる。
ベッドに手をついて上体を起こし、髪の毛を挟まないように慎重にヘッドギアを抜き取った。電気をつけていなかったので部屋は真っ暗だ。GGOにログインしたのは夕方のことで、そのときは陽が窓から差し込んで明るかったためそのままゲームを始めたのだ。
枕の横に置いたアミュスフィアの側面をそっと撫でる。そうして、この機械が作り出す世界の中で起こったことを噛み締めた。
未だに信じられないものを見たという感覚だ。別に自分が負けたことを気にしているわけではない。このゲームでは殺すこともあれば同じだけ死ぬこともある。
問題なのは負け方だ。こちらから襲って、たった1人に返り討ちに遭い全滅させられた。私は基本的にソロプレイで、今回のような襲撃やクエストを遂行しやすくするために誘われてパーティに加入する。所詮は報酬目当てで愛着も何もあったものじゃないけれど、あそこまで一方的だと悲しくなる。
パーティメンバーの名誉のために言うと、彼らは弱くない。装備も技術もそれなりの中堅といった感じのプレイヤー達だ。それを赤子の手をひねるように蹴散らした『
「はぁ……」
思わずため息が漏れる。
私は、朝田詩乃は弱い。友人は少ないし、学校ではいつも1人だし、気は弱いし。典型的な日陰者だ。こうなってしまったのは、ひとえに私の過去に由来する。
鈍く重い引き金も、銃の反動で痛めた肩も。全ての感覚が昨日のことのように明瞭に体に残っている。その日から銃を見るだけでも情景がフラッシュバックして吐き気がこみ上げ、手で銃の形を作るだけでも気分が悪くなる。まるであの日のことを忘れるなと十字架にかけられたように、私は呪縛から逃れられない。
けれど、GGOの中では違った。ゲームの中でシノンとして生きている間だけは、私は朝田詩乃の呪縛から解き放たれる。手で銃の形を作るどころか、本物の銃を握っても撃ってみても吐き気を催さなかった。人を狙うことさえできて、初めて人を撃ったときも達成感の方が大きかった。
シノンは誰にも負けない強いプレイヤーになる。そうすれば朝田詩乃も強くなれるから。そうやって今日まで戦ってきた。それにちゃんと強くなった。GGO最強のスナイパーだという自負もあった。
それなのに、さっきの戦いでは手も足も出なかった。これでは誰にも負けないなんて夢見事だ。
「あっちでも、私を弱くするの……?」
無意識に口から出た言葉は、ひどく弱々しく震えていた。胸を貫かれたのはVR空間でのこと。当然、現実のこの体には穴も痛みも無いが、虚しさだけがそこにはあった。
数分間だけ、膝を抱えてベッドの上で丸くなっていた。自分の弱さを見ないようにするための逃避だったのかもしれない。
それを打ち切ったのは、お腹から鳴った気の抜けるような音だった。そういえば学校が終わって夕方に帰宅してから何も食べていない。冷蔵庫にはあまり物は入っていないし、買い物も済ませていなかった。既に時間は深夜だが、意識し始めると腹はどんどん減っていく。これでは眠れない。
重い腰を上げて、コンビニにでも行こうかと自分の格好を省みた。薄手のシャツにホットパンツ。冬ではないけれど、こんな薄着で夜に出歩けば寒さで震えるのは目に見えている。クローゼットから適当な上着を引っ張り出して羽織り、鍵と財布を持って玄関に向かった。
電気を消して扉を開けると、外の冷たい風が吹き込んでくる。上着を着たのは大正解だが、脚の方も着替えた方がよかったかもしれない。とは言え今更もう1度準備に戻るのも面倒くさいし、コンビニはすぐ近くなので耐えることにする。
扉を閉めて鍵をかけると、電子ロックの機械が青く光った。女子高生の自分が1人暮らしをするにあたって、セキュリティ面がしっかりした部屋を探した。思いの外、近場で安価な場所が見つかったので満足している。
何気無しにその機械を眺めていると、隣の部屋の扉が開いた。金具が軋む音で気付いて咄嗟にそちらを見ると、黒いパーカーを着た男の人と目があった。軽く会釈をされたので、慌てて私も頭を下げた。
何か言葉を交わすことも無く、彼はそのまま外階段を降りて行った。方向から察するに私と同じコンビニに用があるらしい。今出発したら着けているようにならないだろうか。なんて変な心配をするが、腹の虫はそんなときに限って元気に主張してくる。
やむを得ず外階段を降りる。アパートは2階建てで上と下の部屋数は同じなのだが、下の部屋のうちの1つの扉が開いていた。その前に部屋の住人と思われる男性が立っていて、今度も目があった。
この深夜の短い間に同じアパートから3人も外出なんて、珍しいこともあるものだ。そんなことを考えながら、先手は打たせまいと私の方から頭を下げた。
すると、男はずかずかと私に近付いてくる。何だろうと疑問に思うよりも速く、首に何か冷たい物が押し当てられた。
「う、うご、動かないで、ね、ね」
たどたどしい口調で私に言葉を投げかける男の持っている物。それがナイフだと気付くのにそう時間は掛からなかったし、命の危険だと理解するのにも時間は要らなかった。
「ずっ、ずっと、見てた、んだよ、詩乃、ちゃん」
男は不健康に痩せていて、眼孔は窪んでいる。息を荒げながら異常な笑みを携える口元の無精髭と黄ばんだ眼球が、幽霊なんかより不気味に見える。
その目が、口が、体が、表情が。あの男と酷似して見える。銃に撃たれて死んだ男。少女に撃たれて死んだ男。私に撃たれて死んだ男。私に殺された男。私が殺した男。
途端に吐き気がこみ上げる。手で抑えようとするけど、間に合わずにコンクリートに嘔吐してしまった。
「あ、あぁ、詩乃、ちゃん」
心配したような声を出すな。お前のせいだ。お前が私の前に現れたから。お前が銃なんて持って現れるから。お前がお母さんを狙おうとしたから。
——違う、よね。そんな風にこの罪を誰かのせいにして、逃げて、目を逸らして。そんなだからいつまでも乗り越えられないんだ。
吐瀉物が口の中に残って気持ち悪い。今すぐ洗い流したいけれど、それを許してくれるような相手ならこんなことはしないだろう。
ナイフを持つ手は震えているが、恐怖のせいではなく緊張と興奮のせいだろうと声色で分かった。
逃げなきゃ、大きな声を出して助けを求めなきゃ。冷静な私がそう言うけれど、体はそれを無視して冷や汗を流すだけだ。
男はそんな私の態度を見て、意気揚々と背中側に回り込んできた。肩を押されて前に進むように強要されると、当然、逆らうことはできなかった。嫌だというのに歩き出す自分の脚を恨みたい気分だ。
やはり、開いていた扉がこの男の住んでいる部屋らしかった。ゴミ出しの日は今日だったというのに、玄関には膨らんだゴミ袋がいくつか置かれている。
異臭すら漂う部屋の前で止まる。アパートは全ての部屋が同じ広さと間取りで構成されている。玄関から入り、真っ直ぐな廊下の向こうにもう1つ扉があってワンルームに続いている。玄関扉とその扉は開け放たれていて、外からでも部屋の中で男がどんな生活をしているのかが垣間見える。
吐瀉物の感触が残って胃酸で痛む喉を、声の鳴り損ないが通った。肺を2つとも握られて、心臓を万力で潰されるような恐怖が私を支配した。部屋の壁に大きな写真が貼ってある。それもアイドルやアニメのキャラクターなんかの写真ではない。
私。私だ。制服を着て、多分登校中の私だ。写真の中の私は全くカメラの方を見ていないから、あれは盗撮なんだろう。そもそも高校に入ってから誰かに写真を撮らせた記憶なんて無い。
「ちょっとだけ、き、汚い、けど、大丈夫、だよ。怖いのも、最初、だけだ、し、すぐ、楽しく、なるか、らね、ね」
刃物で人を脅しておきながら、どうして気休めを言おうとするんだろうか。
そんな腹立たしさすらも抱けないでいると、気付けば頬が濡れている。視界がぼやけていく。写真の中の私の輪郭が曖昧になっていく。
これから自分の身に訪れることが分かるから、或いは何をされるのか全く分からないから、怖くて子どもみたいに泣いている。
自分でどうにかする力は無い。助けを求めることもできない。シノンはあんなにも強くなっていたのに、私は結局、あの頃から何も変わっていなかったんだ。
止まっていた体に後ろから圧力をかけられ、また進めと黙して命令される。多分、死にはしないと思う。思いたい。興奮で荒くなる息や、気持ち悪く紅潮した顔は私に欲情しているのがよく分かる。私を殺すことが目的ではないらしいから、死にはしない。
でも、死にたくなるようなことはされるんだろう。この男が自分のしたいことを、自分の欲を私にぶつけ終えた後。私はどういう選択をするかな。
うん——死のう、きっとそうする。
人を殺めた十字架を背中から下ろせず、周りからは好奇の目で見られて、最後は名前も知らない男の欲のはけ口だ。
そう思えば、本当に最低な人生だった——。
不意に、背後からの圧力が消えた。あれだけ恐ろしかった存在感が、首筋に当てがわれたナイフの感触が消えた。恐怖と気持ち悪さで耳も目もほとんど機能を忘れていたから、何が起こったのかを瞬時に理解できなかった。
蝋で固められたみたいに動きの硬い首をゆっくり左に回す。視界には何も無かった。今度は反対まで首を回した。
少し遠くに、蹲った人影が見える。右手にはナイフが握られていて、先までの興奮のせいではなく、痛みのせいで息を吐いているようだった。
本当に何が起こったのか分からない。人間がひとりでに吹き飛ぶわけがない。その原因を探して、さらに首を回す。
すると、もうひとり、男の人が立っているのに気がついた。見たことがある黒いパーカーを着ている。私の隣の部屋の住人だ。街灯に照らされた顔は、まるで手持ち無沙汰でやることが無いときみたいに無表情だった。けれど、口が動いている。
「ぼ、ぼく、僕の……!」
倒れていた男がゆっくりと立ち上がり、ナイフを逆手に持ち直した。その腕を高々と振り上げ不健康に細い脚をばたつかせて走り出す。
「ぼくだけのじのぢゃんだ!!」
眼をこれでもかと見開き、口の端から唾液を垂らして、冷静さを完全に忘れた様子でこちらに向かってくる。
黒パーカーの彼が私と男の間に体を滑り込ませてくれるが、肩越しに見える狂った顔に圧倒されて、ようやく脚が動いた。
けれどそれは逃走とは呼べないもので、脚の力が抜けて後ろに尻もちをついただけだった。さらに、その音に気を取られてこちらを見たため、黒パーカーの彼は襲い来るストーカーへの対応が遅れてしまった。
「ゔぁぁああああああああああああ!!」
大絶叫とともにナイフが振り下ろされる。彼が私から目を離して振り返った時には、街灯の光を反射する刃は彼の目前にまで迫っていた。
目の前で人が死ぬかもしれない。そう思っても体は動かない。目の前の光景がスローモーションに見えているが速く動けるようになったわけじゃないし、そもそも全身の筋肉が弛緩して動けない。
彼は迫りくるナイフを前に、躊躇わず自分の左手を盾にした。手のひらから甲までを、その刃が悠々と貫通する。
「あ……」
柄の部分は肉に刺さらずそこで進行は止まって顔にナイフが突き立てられる事態は避けられたが、それでも大怪我に変わりはない。
しかし、彼は痛みに叫ぶことものたうち回ることもせず、ただ小さく息を呑んで、口を開いた。
「———」
言葉が紡がれる。独り言かと思ったけれど、どうやら違う。その声は空気に溶け込んでしまうほど微かだったが、確かにリズムに乗っていた。それはちょうど、GGOであいつが歌っていた——。
いざ実際に人を刺して自分の行いに怯んでいるストーカーを尻目に、黒パーカーは無傷の右手を固く握った。肩の高さに拳を構えると、それを相手の顎に横から打ち込んだ。
予想外に平手打ちのような高い音が鳴り、ストーカー男の目の焦点が合わなくなる。次いで糸が切れた操り人形みたいに膝が折れ、拳を叩き込まれた衝撃でそのまま横に倒れた。
顎に衝撃を与えれば脳が揺れて力が抜けたり、気を失ったりすると聞いたことはあるけど、実際に見たことは無かった。
なんだかゲームの中の出来事みたいだと呑気に思っていると、立っていたパーカーの彼が刺された左手の痛みに耐え切れずにしゃがみ込んでしまう。
まだ言うことを聞いてくれない脚に鞭を打ち、両膝と手の4点で地面を這い進む。
彼の肩に手を置くと、痛みに僅かに歪んだ顔が振り向いた。
「あぁ……怖かったな」
開口して1番にそう言われて絶句した。いや、もともと声は出していなかったけど、明らかな怪我人に言われて言葉を失ったのは間違いない。
確かに怖かったけど、私は怪我もしていないし、ナイフで刺された自分の方が酷い目に遭ったはずなのに。
「わた、しは、だいじ……ようぶ、です」
この人は私を庇って大怪我を負った。私は何もされていないんだから、この件の被害者は彼だ。だから私が弱音を吐いてはいけない。
そう自分に言い聞かせ、水分を失って震える喉を絞って声を出した。途切れ途切れだったけど、伝わってはいるはずだ。
涙もどうにかして止めようと、眼鏡を上に押し上げて上着の布で目尻を拭う。けど、拭う度に新しく涙が垂れてくる。喉には水分が足りないのに、要らないところからは溢れてくることに苛立ちを覚えていると、頭の上に何かが乗った。
「あんなことされたんだから、大丈夫じゃなくていい」
ぼやけすぎて曖昧になっている視界だけど、彼が手を伸ばして私の頭を撫でていることは分かった。耳も優しい声を聞いている。
彼に言われて、ようやく良い意味で全身の力が抜けた。彼の言葉に甘えてしまって、涙を止めようという気にはならなかった。
私が無尽蔵に涙を溢れさせ、嗚咽を漏らす間、彼はずっと優しく、優しく頭を撫でてくれていた。
私が泣き止んだのは、多分、数分後のこと。
「ごめん、なさい。怪我が……」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃないです、それ……!」
彼は刃物が突き立った左手を振ってみせるが、見れば見るほど見事に貫通している。例え彼が大丈夫だと言っても、後遺症だとかそういう次元の話になっているだろう。
「なにか、できることありませんか?」
「え、じゃあ、笑え」
明らかに彼と私と「できること」に対する認識が違っている返答に、私は面食らって目を見開いてしまった。
そんなこちらを尻目に、お手本を見せたいのか不器用過ぎる笑みを浮かべた彼が、優しく呟く。
「似合うと思うから」
そう言われて、まだ涙の乾かない頬が動くのを感じた。多分、他人から見れば笑顔とは言えないような表情だったけど、確かに笑えている。
それを見た彼は一瞬だけ目を見開いて、すぐにさっきまでの不器用な笑みが嘘のように柔らかく微笑んだ。
「やっぱり似合ってる」
また、もう泣いていないのに頭を撫でられる。男の人に襲われかけると男性に対する嫌悪感が出来上がってしまい、触れることすら困難になるという話を聞いたことがある。けれど、私は彼に触れられるのが苦ではないどころか、ずっと撫でていてほしいとすら思えている。
目を細めて、髪の毛を優しく掻き分ける手の温もりを堪能していると、不意に現実問題へと意識が引き戻された。
警察と救急は彼が持っていた携帯電話で、混乱から覚めた私が呼んだ。救急に怪我の具合を説明すると、出血が酷くなるだろうからナイフを抜かないように指示された。警察には犯人が気絶している旨を伝えると、簡易的でもいいから拘束しておくように命じられた。彼の部屋にあったビニール紐で手首と足首を何重にも巻いて、そのままアパートの支柱に括り付け、警察の言う通りに遂行する。
「私、朝田詩乃っていいます」
外階段に2人して座り、横の彼に自己紹介をした。ここまでしてもらって名乗らないのは失礼だと思ったからだ。
「
彼がそう名乗り返した。
その瞬間、頭の中に断片的に散りばめられていた情報がパズルみたいに組み上がっていく。
彼は、伊織はさっき歌っていた。ナイフを持つ男と対峙して、命が危うかったというのに。あいつと同じ歌を。
それと彼の名前。
「……『
無意識に言っていた。名前が同じだというだけで、歌っていたという理由で決めつけてしまったが勘違いかもしれない。
けれど、続いて彼が呟いた言葉のおかげで、私は呆気なく確信した。
「GGOプレイヤー?」
これが朝田詩乃と、夕原伊織の出会いだった。