私の彼が歌ってばかりいる件について。   作:厠坂

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第2話「風」

 

 

 総督府のログインポイント付近で待ち合わせながら空を見上げる。

 この空の景色は好きだ。総督府は巨大な宇宙戦艦が墜落して縦に地面に突き刺さり、その上に街が発展したという設定だ。面積はそこまで広くはないが立体的な構造で、高い建物同士のあちこちから蜘蛛の巣のように空中エスカレーターが伸びている。

 

「シノン」

 

 その1本1本をあみだくじのように目で辿っていると、横から声をかけられた。

 アッシュグレーの頭髪に、スチームパンク風のワイドゴーグルを首に下げる少年の姿があった。左のまぶたから鋭い目を縦断して頬まで伸びる傷が、歴戦の雰囲気を醸し出している。

 それは紛れもなく、あの日、圧倒的な強さを私に見せつけた威織に違いなかった。

 

「遅かったね」

 

「電源入れるの忘れてた」

 

 待ち合わせ時間を過ぎていることに対する疑問を口にすると、彼はこめかみの辺りを指で突いた。アミュスフィアを表すジェスチャーだろう。伊織が電源の入っていないヘッドギアに向かってリンクスタートを呟くところを想像して、少し破顔する。

 

「馬鹿ね」

 

 緩んだ口からそう言うと、威織はわざとらしく肩を竦める。

 

 あの夜、私を助けてナイフに貫かれた伊織の手は3週間が経とうとしている今も治ってはいない。治ったとしても、やはり後遺症が残るらしい。私のせいで生活を不便にしてしまったことに対する罪悪感は凄まじく、隣の部屋で彼が動かせない左手を煩わしく思っていると嫌でも考えてしまう。

 そして私は何を思ったか、彼に食事を作らせてくれと頼み込んでいた。玄関先でそのお願いを申し出たときは思い切り首を傾げられたけど、彼は結局、それを受け入れてくれた。

 伊織は朝食はパンを焼くだけだし、昼は外に出るから、必然的に私が作るのは夕食になる。最初は彼の部屋で彼の分だけ作り、私は部屋に帰って自分の分を作るという風にしていた。けれど伊織が「めんどくさくないか」と言ったせいで、同じ献立を彼の部屋で食べることになっている。それから徐々に一緒にいる時間が増え、今は学校から帰って自分の部屋で着替え、彼の部屋に入り浸るという生活を送っている。

 部屋が隣同士なのであまり実感はないが、改めて思えば半同棲と言っても差し支えない。無防備が過ぎるかもしれないが、1人でいるよりも伊織といた方が安心するし、何より彼の怪我の責任を取らなければいけなかった。

 最初は違和感があったが、時間が経った今となっては元々からそうやって過ごしてきたような気さえしてくる。それほどまでに彼との時間は心地良かった。

 

「……惚気みたい」

 

 誰にも聞こえないような小声で呟くと、軽く引かれる感覚があった。威織がいつもと変わらない無表情で私の服の裾をつまんでいた。

 

「ん、なに?」

 

「明日はパスタがいい」

 

 こういうことを、この男は恥ずかしげもなく口にする。私としても2人で部屋にいるときに何を言われても特段気にはしないが、今みたいに周りに人目がある場所では話が変わる。

 GGOは銃で撃ち合い、そこには魔法だとかそういう要素は介入しない。VRMMOの中でも最人気のALOが剣と魔法の世界なら、GGOは銃と血の世界。そういうゲームデザインだから、女性のプレイヤーは本当に少ない。

 そんな中で女性の私は自分の意思に関係なく、それだけで周りの目を引いてしまう。加えて幸か不幸かシノンの見た目は非常に美麗だ。ゲームの中でどれだけ可愛くても現実ではそうでもない、なんてことがザラにあるだろうに、男どもはそれを気にしないのか捨て身で言い寄ってくる。さらに私は実力もつけてしまった。自分で言うのは気が引けるが、私はGGOでかなり人気、らしい。

 

 そんな私がある日を境に男を、それもあの『歌う狂者(シンガー)』を連れているとなれば、目立たない方が無理だと言うものだろう。

 何より面倒なのが、当人である威織自身がこの状況を全く意に介していないところだ。

 

「分かったわ」

 

「やった」

 

 それを伝えてみても真顔で首を傾げられるというのは分かっているから、彼のリクエストを素直に受けることにする。表情は相変わらずだが、喜んでいるらしい。

 

 現実の伊織とGGOの威織の間には、ほとんど差異が無い。それこそ生身とアバターという違いだけだ。

 普通、程度の大小はあれど、ゲームというものをプレイするにあたって人々は自分の中で別の人格を作り上げ、その人格の思考に基づいて行動する。それはそうだ。現実のままの自分が、現実とは全く違う世界観と人間関係の中で生きていくのは難しい。実際、私も弱者であり日陰者の朝田詩乃と、強者であり有名で人気なシノンと2つの顔を持っているし、シノンと名乗っているときはいつもより背筋を伸ばして歩くし、誰かに声だってはっきり出せる。詩乃としては有り得ない話だ。

 

 けれど、威織を見ていると、そんなものは一切感じない。歩き方、声の出し方、表情の浮かべ方、普段からの言動。それらは現実の伊織のものと遜色が無い。そして、そこには微かなほどの違和感すらも無い。

 だから彼は本物の強者なのだと思い知らされる。夕原(せきはら)伊織として生きてきた時間、それらを否定せずに彼は『歌う狂者(シンガー)』の威織として成り立っている。

 私が到達したいと常に願いながら、裏腹にいっそ遠ざかっていってしまう生き方を、彼は生まれながらにして歩いているのだ。

 

 

 今日ログインしたのには大切な目的がある。第3回バレット・オブ・バレッツへのエントリーをするためである。

 GGO内で定期的に開催される対人戦の大会であり、腕に覚えのあるプレイヤー達がこぞって強者に成ろうと参加する一大イベントだ。

 私は第2回でベスト8まで残ったが、それは上にまだ7人もいるということ。誰よりも強くなるのが目標の私にとって、それは如何ともし難く煩わしい。今回の大会では当然、私は優勝を目指す。けれどそれが楽な道ではないことは重々承知だ。

 例えば前回準優勝の闇風は、AGI型最強理論の体現者及び完成形と言っていいほどのプレイヤー。今は命中精度の高い銃が登場し始め、防御力の低いAGI型の時代は終わりを迎えると言われている。しかし、その革命はまだ途上で、闇風が強いということに未だに変わりはない。あの速度で動き回られたら、スナイパーの私では戦いにくいだろう。

 

 それに、今回は威織も参加するという。強さを求める身としては越えなければならない壁なのだが、油断して掛かればいつかのように大敗を喫するのが目に見えている。

 彼は銃の世界であまりにも珍しい、超接近戦を得意とするプレイヤーだ。私が狙撃銃で最大一キロメートル以上、大半のプレイヤーがアサルトライフルで数百メートルの射程で戦う中、彼は僅か数メートルまで接近する。

 そんなふざけた戦法を可能とするのが、彼の鍛え上げられたステータスと戦闘センス。さらにGGOで威織だけが持つユニークウェポンである。

 彼のイメージに合わせてガンメタリックに塗装されたそれは肘のすぐ下から手の甲までを覆っていて、人差し指の付け根の上の部分に銃口が光っている。相手を殴ると同時に銃弾が発射され、至近距離で炸裂するという構造だ。2重射程ショットガントレットという武器で、一昔前のアメリカのアニメーション作品に登場した物を再現しているらしい。

 

「それの扱いにくさ、光剣と同じくらいでしょ。なんでそんなの使ってるの?」

 

 以前にそう聞いたとき、威織は次々と襲い来る敵対モンスターを薙ぎ倒しながら、

 

「銃は下手だったし、GGOで初めてのレアドロップだったから。それに」

 

 そう言うと、威織は自身の右肩の上の何も無い空間を掴むような動作をした。動作があまりにも様になりすぎていて、私には彼の背に剣の柄が見えた。

 数秒だけその姿勢のままでいた後、煩わしそうに手が振り払われた。

 

「剣は嫌いだな」

 

 抑揚の無い声で告げられて、なんだか心臓の辺りがきゅっと締め付けられたのを覚えている。いつもの無表情だけど、それは彼が自分自身で笑うことを咎めているように感じられた。

 その発言の真意は気になるが、迂闊に踏み込んではいけない領域の話だと直感で判断して押し黙った。誰にでも話したくないことの1つや2つはあるものだ。かくいう私も、どうしても自分からは話せない秘密があるのだから。

 

 

 総督府の空を横切る無数の空中エスカレーターの1つに身を預けて、会話もせずに看板を見つめていた。架空の可愛らしい女の子が、水着で無骨なマシンガンを持っているという、なんともアンバランスな広告だ。新しい武器が追加されるという旨だが、それならば女の子も要らないし、ましてや水着である必要はあるのだろうか。男性の比率が大きいゲームと言えど、その感性には首を傾げる他は無かった。

 視線を移して威織の横顔を眺める。現実の顔とは違うが、切れ長の瞳、薄い唇、という風に表現すると共通点も少なくはない。

 GGOにはキャラメイクが無い。性別以外は完全にランダムでアバターの容姿が決定されてしまう。気にはしなかったが、初ログインの際にアバターを売らないかとしつこく声を掛けられた経験があるし、自分で見てもクールな表情が似合う美麗な顔だと思う。威織も当たりと言われる部類のアバターを引いているようだ。

 

「ん、どうした」

 

 じーっと見ていると、私の目線に気が付いた威織がこちらに振り返り、そのまま流れるような動作で頭に手を置いてきた。水色の髪を手櫛で梳かされ、無意識に目を細めてしまう。

 

「なんでもない」

 

 頬が熱くなっていくのを感じる。私は概ねこのゲームを気に入っているけど、この自分の意識とは別に行われる感情表現の類には不満を呈さずにはいられない。VRゲームは脳を直接刺激するという性質上は仕方がないらしいが、照れて顔が赤くなるのを耐えたり、涙を我慢したりということが難しい。

 そのため、現実なら内心だけで高揚を留められる彼の行動も、ここでは充分に致命傷だ。

 勘違いしないで欲しいのは、私はただこの歳になって頭を撫でられるということを恥ずかしいと思っているだけだ。他意は全く無い。

 

 心地良いのは間違いないので名残惜しいが、身を捩って彼の手から逃れる。実際は私の気持ちを察して手を引っ込めてくれたという方が正しい。

 何はともあれ赤面の原因から脱出し、長く息を吐いて手すりにしな垂れかかった。

 

「落ちないようにな」

 

「落ちないわよ」

 

 娘を心配する父のようなことを言われ、むっとなって言い返した。確かに地面まで10メートル程度はあるが、落ちるなんて馬鹿な真似はしないし、落ちたとしても圏内はダメージが発生しない。

 

「あ」

 

 身を乗り出して総督府上空を吹く風に髪の毛とマフラーを揺らしていると、威織が微かに声を漏らした。

 

「なに?」

 

「あそこ」

 

 首を傾げると、隣に立って指を差してくれた。

 男性アバターにしては少し細い人差し指が差し示す方向を凝視すると、遙か下のエリアを歩く1人のプレイヤーが目に入った。長く艶やかな黒髪が眩しい、見目麗しい美少女だ。

 

「あの子が、どうしたの」

 

 しまったと思った。自分でも驚くほど酷く冷たい声色で発せられた言葉に、慌てて口を塞ぐ。

 恐る恐る彼の顔を見ると、未だに視線を下に向けたままなにも気にしていないようだった。

 幸いだと内心溜息をつくと、威織が変わらない調子で返答した。

 

「迷ってるみたいだ」

 

「……本当ね」

 

 確かに、辺りを見回しながら拙い足取りで歩いている。服装も初期装備そのままだし、ゲームを始めるにあたって何かしなければいけないのに、何から手をつけたらいいのかが分からないといった具合だろうか。

 初めてログインしたときのことを思い出すな、と感じると同時に、彼女がいる環境に意識が向く。

 

「あそこ、あんまりいい場所じゃないわね」

 

 彼女がいるのは陽の光があまり届かない暗い路地。世紀末的なゲームデザインのGGOの中でも、さらにアウトローな雰囲気を好むタイプの人間が屯する治安の悪いエリアだ。あそこにいるプレイヤーは荒くれ者のロールプレイに没頭するあまり、ナンパすらも平気で行うような者たちで、私も威織を横に連れていないと歩けない程。そんなところに1人で飛び込んでしまった彼女の心中や如何に。

 長いエスカレーターを登り切って下まで行くのにどれくらいの時間が掛かるだろうと計算をしていると、

 

「ちょっと行ってくる」

 

「な、え、ちょっと!」

 

 躊躇無く手摺りに足をかけ身を乗り出す彼を止めることは出来なかった。下までは約10メートル。圏内なのでダメージこそ無いが、落下の恐怖までは圏外も圏内も変わらない。

 伸ばした手が空を切り、威織の背中が遠ざかっていく。

 

「……でたらめ」

 

 独り言が空気に溶け出すと、彼が着地したことによる爆発音じみたものが耳に容赦無く突き刺さった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 降りる分の時間が短縮されたため、彼女と合流したのはそれから数分だけ経った後だった。また掲示板に書かれそうな突飛な行動を見せた威織は、腹が立つほどいつもと変わらない顔で私の横に立っている。

 私たちが気にかけた女の子は、近くで見ると本当に可愛らしい見た目をしていた。腰の辺りまで伸びる夜空を切り取ったように流れる黒髪、愛らしさと凛々しさを兼ね備えた端正な顔立ち。胸こそ全くと言っていいほど無いが、それもスレンダーと言ってしまえば魅力になる。

 彼女がビギナーであるということは予想通りだったが、BoBに出場するために別ゲームからコンバートしてきたという情報には驚きを隠せなかった。行動力があると言っていいのか、はたまた無謀と表せばいいのか。

 ともあれ、自分の好きなゲームのプレイヤー人口が1人でも増えるのは喜ばしいことだ。

 

 ほんの少しだけはなしたが、度胸の方は中々のものを持ち合わせていそうだった。証拠に、自分の目の前に人が降ってきたというのに、初心者だろう彼女はそこまで驚愕している様子は無かった。話を聞くと、「昔、同じようなことをした人がいた」かららしい。

 

「威織以外にいるんだ、そんなバカな人」

 

「言い方」

 

 私の発言に怒った威織に指で軽く額を突かれる。表情は相変わらずだが、どこか不満の色が滲んでいるような気がする。彼と過ごすうちにこういう些細な違和を見つけられるようになったのは、自分だけの特権のようでなんだか嬉しい。

 

 笑みが溢れたままで彼女の方を見ると、何故か難しそうな顔をしている。いや、難しいというよりは、何か怖いものでも見て怯えているようだ。

 見る先にはやはり威織の仏頂面。左眉の上から頬まで伸びる傷跡と合わさって、如何ともし難い威圧感が溢れる彼は恐怖の対象になり得るらしい。

 そんな彼女の心中を知ってか知らずか、向かい合っていた威織は急に踵を返した。

 どうしたのかと目配せをすると、彼は今から歩き出そうとしているのだろう方向に顔を向けながら、

 

「装備が要るだろ」

 

 短く告げると、私たちを待たずにそそくさと歩き出す。

 つまり、BoBに参加するなら早いところ武器や防具の類を揃えなければならないだろうから、アイテムショップまで案内してやると暗に言っているのだ。分かりやすくそう言えばいいのにと常日頃から思うが、どうにも彼には難しいことらしい。

 呆気に取られて黒曜石のような瞳を丸くする彼女の横で、その不器用な優しさに苦笑する。

 

「彼、あれで良い人なの」

 

 着いてこない私たちに気付いて立ち止まった背中を眺めて出た声は、隣の彼女に伝えたいことのはずなのに独白のようになっていた。

 少し前の土曜日、現実でのことだ。いつも通りに部屋で私は本を読み、彼が横からそれを覗き込むという形で過ごしていた。外は少し寒かったから暖房をつけていたのだが、どうにも寒気があって少しばかり咳をした。

 それからトイレに立ち、戻ったとき。いつの間にかベッドに潜って眠り始めてしまった伊織を見て笑うと、テーブルの上にコップ1杯の水と風邪薬が置かれていた。

 遠回りで周りくどく分かりにくい。彼の優しさはそういうものなのだ。

 

「そう、なんですか……」

 

「ほら、行こう?」

 

 それでも浮かない顔をする彼女の手を引くと、観念したように脚を動かして離れて待つ彼の背中まで歩いてくれる。

 私たちが追いついたことを確認して彼はまた進み始める。威織のアバターは男性だけあって身長が女性の私よりも高く、その分だけ脚も長い。彼の歩幅なら1歩をもっと遠くに伸ばせるのに、私たちに合わせて狭い間を忙しなく動く姿に目が行ってしまう。

 

「自己紹介まだだったね。私がシノンで、こっちが威織」

 

 唐突に互いに名前を知らないことを思い返して、私は慌てて口を開いた。私以外の2人の間にある神妙な空気に耐えられなくなった、という理由も根底にはあったが、これから関わっていく相手の素性を未知とするのはあまりよろしくないと思ったのも本当だった。

 

「キリトっていいます」

 

 突然だったせいで微妙に反応が遅れたが、彼女はしっかりと応じてくれた。話しかけるまで威織の背中を複雑な心境を含む眼差しで、それこそ穴が開くほどに見つめていたキリトは、話す時も私を見てくれない。けれど、目の前の背中への視線は、何かを試すような色が混ざり込んでいる。

 

「へぇ、珍しむふ」

 

 感想を吐露した言葉が途中から日本語から逸脱したのは、急に歩みを止めた灰色の壁にぶつかったからだ。素っ頓狂な声を出してしまった自分を恥ずかしく思い、痛くもない鼻を押さえて立ち止まった威織を睨み付ける。

 けれど、視界の中の見知ったはずの顔は、今までに私に見せたことのない表情をしていた。漆黒の少女を凝視する灰色の瞳はこれでもかと見開かれ、少し開いた薄い唇に空気が薄く出入りするのが聞こえる。

 

 何も分からないまま、時間だけが過ぎていく。キリトと威織の間に会話は無いし、状況を理解できていない私が紡げる言葉も当然のように存在していない。

 2人を中心に渦巻く異常な空気感に胸焼けを起こしそうだった。充満する緊張感が針になって皮膚を刺してくるようで、錯覚だと分かっていても息が苦しい。

 

「い、威織……」

 

 拍動が速くなる心臓を落ち着かせたくて、わがままに彼の服の裾を握った。

 息が短く吸い込まれた音がして、威織はキリトを見ていた表情のまま私に向く。そうして目蓋を閉じて震えた深呼吸を終えてから、いつもの顔色を取り戻した彼は、吹雪の中で温もりを求めるように私の頭に手を置いた。

 

「ごめん」

 

 それは何に対する謝罪だろう。雰囲気を悪くしたことだろうか。それとも私に心配をかけたと感じているのだろうか。あるいは、もっと深い場所にあること。彼が剣を嫌う理由に繋がるもの。考えても仕方が無いのに、仮想の脳の中を思考が駆け巡る。

 

 思えば、あの夜に互いを認識するまで、私は隣に伊織が住んでいたことすら知らなかった。つまるところ、私の彼に対する理解はその程度なのだ。だと言うのに3週間過ごしただけで、心情の機微を把握しただけで、彼の隣に立った気になっていた。強い彼と共にいることで自分も強くなれると、強くなったという幻想に浸かっていた。

 本当に、嫌になる。

 

「……ううん、大丈夫」

 

 それでも1歩を踏み出せない自分が、嫌になる。

 

 総督府を吹き抜け、私の髪とマフラーを揺らした風はいつもと変わらないはずなのに。

 今だけ、嘲笑に似ていると思った。

 

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