私の彼が歌ってばかりいる件について。   作:厠坂

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第5話「殺したよ」

 

 

 予選ブロック準決勝が終了したとき、待合スペースでは未だに決着のつかない試合の映像が数々のモニターによって映し出されている。俺は威織やシノンの姿をその中から探し出そうとしていた。

 最初に見つけたのはシノンだった。あの綺麗な青髪は目を引く。潜伏しなければならないスナイパーとしては目立ちすぎるんじゃないか、とは思ったが、視認できない超超長距離に伏せて敵を待つのであれば、それも関係はないのかもしれない。

 

 一方で、威織の方は見つけづらい。彼は髪や装備をグレーや黒で統一していて、それは退廃的なイメージで構築されたGGOの世界観によく馴染む。つまり、良いカモフラージュになる。放棄されたビル街のようなステージであれば、コンクリートと同化する彼の姿を見つけるのは、かなり困難だろう。

 それでも、戦闘が始まってしまえば、彼の発見にかかる時間は一瞬だった。やたらにアクロバティックに動く画面は、とてもよく目立つ。シノンとはまったく対極である、至近距離一メートル以内から銃弾が発射される瞬間は、見る者を駆り立てる。

 

 アサルトライフルだろう銃の連射を避ける、捌く。弾道予測線と、彼自身のセンスによって、その灰色の体を銃弾の方が避けていくようだ。

 思い出してみれば、イオリは昔から攻撃を受けることが極端に少ないプレイヤーだった。あれだけ大きな鎌を持ちながら、パリィではなく回避を主体とした戦い方だった。加えて対モンスターもさることながら、対人戦にめっぽう強かった。SAOのベータテストで開催されたデュエル大会に彼はいなかったが、もし参加していたら優勝していた可能性は大いにある。回避と対人、それら二つの経験が、今も活きているのだろうか。

 

 そして、銃弾が当たらない相手は焦り、苛立つ。冷静さを忘れ、狙いがブレる。威織はさらに避けやすくなって、接近できる。

 射程距離内に入られてしまったら終わりだということは、次に発射されるガントレットの銃口から爆ぜた閃光でありありと伝わってきた。

 彼の戦い方はやはりエンターテインメントとしても優れているのだろう。俺も普通にGGOを楽しんでいる状態であれば、自分と同じように超接近して敵を薙ぎ倒していく姿に目を奪われ、拍手なんかしていたのかもしれない。

 けれど、俺が今、抱いたのは、その鍛え上げられたステータスや戦闘センスに対する関心であると同時に、彼の動く口元が俺に突きつけた罪悪感だった。

 

「お前、今も歌ってるんだな」

 

 ところどころから聞こえた「シンガー」という言葉。それが彼を指していることは明白で、同時に、威織というプレイヤーが普段から歌いながら戦っていることを指し示してもいた。

 忘れようなんて思えなかったのだろう。俺はアスナやユイとの生活が幸せで、現実に帰ってきてからの日々も楽しかった。色んな奴に囲まれて、ALOで友人も増えた。幸せが罪を薄めていく気がして、無意識に忘れようとしてしまっていた。

 威織は、それを始めてしまってからSAOが終わる瞬間まで、きっと心が休まる瞬間なんて無かったんじゃないだろうか。支えてくれる人もいなくて、たった一人で戦った。帰ってきた彼は、そのことを誰かに打ち明けたのだろうか。カウンセラーには話したのかもしれないし、それすらしていないのかもしれない。

 歌うのは、あのときの記憶を失うことができないからなのか。鮮烈な思い出を薄めてくれるほどの出来事が彼には無かったのだろう。

 

 画面の内側では、相手の胴体を思い切り吹っ飛ばした威織が立っている。左手のガントレットから硝煙が昇り、それと同じ色の曇った空に溶けていく。

 俺は過去にイオリと戦ったことはない。イオリは趣味と呼べるほどやたらに決闘をやっていたが、クラインなんかがボコボコにされているのを横で見るだけで、その相手に俺が立ったことはなかった。全力で戦おうなんて息巻いてはみたが、正直な話、勝てるビジョンはほとんど浮かばない。

 

 威織を映していたモニターが別の戦場に切り替わったことで、彼がもうすぐこのスペースに帰ってくることに気がついた。何も慌てる必要なんてないはずなのに、俺はびくり、と肩を震わせた。

 そのとき、腰に提げていた円筒形のアイテムが音を立てて揺れ、俺はその存在を思い出した。

 高出力レーザー刃を形成する光剣を手に持つと、あまりに頼りない質量に笑えてくる。こと威力に関しては、さすがビームサーベルといった具合で、当たれば勝ちという出鱈目な高火力である。比べてしまえば、エクスキャリバーを除いて俺が今まで握ってきたどんな剣よりも強い。それでも重さの無い刀身は俺好みではなく、加えて相手が使用してくるのは長距離武器ときたものだ。完全に慣れるには多少の時間が必要になりそうだった。

 この光剣が銃の世界での戦闘に慣れてしまった威織に対してのカウンターになればいいとは思うが、剣の戦闘を忘れていないとすれば、どうだろう。

 

 後方のスライドドアが開く音に反応して、ほとんど無意識に威織が入ってくるだろうことを予感して振り返ってた。

 先ほど、対戦の時間が訪れて転送を待つ威織はとても普通の雰囲気ではなかったが、どうやら一戦交えたことで、彼の触れてはいけない記憶がさらに刺激されてしまったようだった。

 その表情は相変わらずの無。焦点すら定まっていないような瞳でぼんやりと床を眺めながら、スペースの端の誰もいない場所に腰を下ろした。

 

 事情を知る俺にとっては、ログアウトせずに未だにアバターが存在し続けているのが驚くべき事実だった。

 俺があの立場だったら、どうなっていただろう。奴と、拭いきれない因縁の相手ともう一度顔を合わせるために決勝大会へ駒を進める。その目的のために邁進するのは変わらないだろうけれど、あんな風に華麗に戦えるだろうか。高い集中力を要求される戦闘において、不安定な精神状態にも関わらず銃弾が体を掠める程度のミスもしない。

 その末恐ろしい才能に眉の辺りが震える。これは本人にしか知り得ないことだが、あの黒い瞳が捉えるGGOの中の景色は、一体どんな色をしているのだろうか。

 

 考えてもわからないことを考える暇は無かったので、俺はずかずかと威織の方に歩いていった。足取りをわざとらしく大きくしたのは、そうでもしなければ最初の一歩目すら踏み出せそうになかったからだった。それ程までに威織は他を寄せ付けない雰囲気を纏っている。それは俺が歩みを進めても変わることはなく、彼我の距離が五メートルになろうと二メートルに近付こうと、虚無なる目が俺を捉えることはない。

 ついに威織の真横に辿り着いた俺はそのまま腰を下ろして、ほとんど終わってしまった準決勝試合を放映しているモニターのうち、もっとも動きが無い画面を指差した。

 

「アレがシノンだな。もう十分以上あのままだ」

 

 カメラは茂みに仰向けに伏しているカーキのジャケットを映し出していた。華奢なアバターが巨大で重厚なスナイパーライフルを構える姿は、アンバランスなようで様になっている。ほとんど身動きをしないが、その後ろ姿だけで彼女が狙撃手として並大抵の実力でないことは感じ取れた。

 どうやら試合は拮抗しているらしい。自分から責めて詰めて叩き斬る俺とは正反対に、シノンはスナイパーという都合上、待ちの作戦を選択しなければならない。腰に下げられた銃はど迫力なライフルと比べれば玩具のように見えるが、どうやらサブマシンガンらしい。それで接近戦もある程度はこなす事ができるもしれないものの、小銃を持つ敵に詰められたら、シノンの勝ち目が薄くなることは想像に難くなかった。

 

 そして、もう一つの予想通り、シノンという名前に反応した威織は、俺の指の先を視線で追っていた。

 

「彼女は、どうしてこんな無骨なゲームを?」

 

 少し失礼な言い方だったろうか。今の時代、誰がどんな趣味を持っていようと関係ない。俺の恋人だって普段の生活を見ていると、とてもゲームに興味があるような人には見えないのだから。

 この話の切り出しに特に目的があるわけではなかった。ただの世間話だ。友人と会話をするのに、いちいち意味を求めないのは当たり前のことだろう。

 

「強くなりたいらしい」

 

 だから、まさか彼が答えてくれるなんて思わなかった。心臓の一瞬の高鳴りと連動して首が動いた。威織の方を向くが、その表情は決して変わってはいない。

 それでも答えてくれた。

 

「強く、か。ゲームを始めたら誰しも思うことだけど、シノンの場合は逆なんだな」

 

 ついさっきの返答は奇跡だったのか、返ってくる声は無い。それでもいいかと思った。

 

「彼女が威織に憧れてる理由が分かるよ」

 

 そう言うと、今度は威織の方からこちらを向いてくれた。俺の言葉の何かがひっかかったのだろう、薄い唇をほとんど動かさずに、浅い呼吸のような声で呟いた。

 

「憧れ……」

 

 彼女の強くなりたいという願望の本質は、それが最強のステータスを完成させて高威力で高速連射が可能な銃を手に入れたいという、そういう種類のものではないのだろう。

 彼女が求めたものはきっと内面の強さ。それを威織の中に見て、背中を追いかけた。

 

 視界の端で何かが一瞬光った。目を凝らすと、ほんの数十秒前まで静止画のようだったシノンを写していたモニターの真ん中に、炎上する装甲車が抜かれている。ほとんど原型が無いがフロントガラスだろう部分が撃ち割られていて、隙間から少量の光の粒が漏れ出て行くのが見えた。シノンが狙撃を成功させたのだと分かると、その瞬間を見逃してしまったことに悔しさが募る。

 準決勝が終われば直ちに決勝が始まる。最後まで戦いを続けていた画面の中のシノンは、そのまま決勝の舞台へと転送されていく。

 つまり、俺たちの戦いも始まる。

 

 

 

***

 

 

 

 リンク・スタート時と似たような浮遊感が無くなった。転送が終了して、俺の身体は先ほどまでの待機スペースではなく、生い茂る木々の中に佇んでいる。

 上を見てみると、天蓋のように生えた枝葉の隙間から夕暮れ色の空が見える。前や横、背後には、ただ延々と薄気味の悪い不健康そうな色をした木が生えるだけの、ほとんど同じような景色が続いている。

 ブロック決勝のステージは『森林』だった。見晴らしが他のマップに比べて極端に悪く、どちらが先に相手を見つけるかでそのまま勝敗が決してしまいそうだ。

 

 まだ慣れたとは言えない対銃撃の戦闘、視界を奪われるマップ、極め付けは相手が威織だ。あまりの不安に今すぐ高火力の光剣のスイッチを入れたくなる。俺はそれを律して、装備の購入と同時に威織から百クレジットという、もはや無料と同等の値段で譲り受けた、スライドの部分にゴテゴテとした付属パーツが取り付けられている、変わった形のハンドガンを握り込んだ。

 貰ったあと、試し撃ちとここまでの数回の戦闘で撃った数は、おそらく数十発程度だろう。全て牽制に使用して、フィニッシュは全て光剣だったからだ。

 さらに、俺は光剣の一撃必殺に魅せられすぎて、このハンドガンの目玉機能を稼動すらさせていなかった。

 

 今のうちにおさらいしておこうかとも考えたが、一回戦で気付かないうちに敵に接近を許していた反省を活かして、俺は周囲の警戒に努めた。あのときは背の低い茂みに匍匐前進で近付かれたが、今回は立って歩こうと発見が困難なステージだ。より一層の集中力が必要になる。

 とはいえ、地面から飛び出た木の根が落ち葉や雑草に隠れているため、今回のマップはそもそもの移動が億劫だ。おまけに折れた枝なんかもご丁寧に散らばっている。走ったりすれば足を取られて転倒。そうでなくても無音は不可能だろう。環境音とイレギュラーノイズを聞き分けるテクニックは当然のように威織も身に付けているし、無闇に動けない。

 それは当然、向こうも同じだ。

 

「……あ」

 

 そこまで考えて、ふと気が付いた。

 威織の目的は、もう一度あの髑髏マスクに接触すること。そのための条件はブロック決勝まで勝ち進むこと。決勝進出者二名は本戦出場が確定し、見ようによっては消化試合を行う必要はない。

 彼が自身の側頭部を撃ち抜くかもしれないという考えが、急激に俺を駆り立てた。

 

 決勝は三十人が入り乱れるバトルロワイヤル形式で、威織と話す機会が訪れる可能性は高くない。菊岡に頼ればSAOサバイバーであるイオリの連絡先は手に入れられるかもしれない。それでも本戦は明日に開催される。時間が全く足りない。

 それでは駄目だ。根拠のない直感だが、今、ここでないといけない。

 

 音や木の根なんて気にしていたら間に合わない。幸い、未だに銃声や勝利を知らせるホログラムは確認していないが、落ち着くことはできなかった。

 一刻も早く彼を見つけ出さなければ——。

 

「——」

 

 何度か転びそうになりながら前進を続けていると、僅かに聞こえた。これはあのときの歌だ。森の中で聞くと、記憶が鮮明に蘇っていく。

 急ブレーキをかけながら光剣のスイッチをオンにすると、何本もあるうちの一本の木。その陰に、灰色が見えた。

 

 咄嗟に光剣を水平に振り抜いた。紫がかった青い軌跡が宙に帯を描くが、それは捉えるべき対象の頭上数センチを素通りしていく。

 俺が上を振りすぎたのではない。威織がいち早く反応し、膝の力を抜いて下に回避をしたのだ。

 光の刃は彼の代わりに辺りの木にぶつかっていったが、破壊不能オブジェクトである森林を薙ぎ倒すには至らなかった。

 

 威織が自害を選択しなかったことに喜んでいる暇は無かった。前屈みになるようにして俺の攻撃を躱しながら、その右腕は俺の腹部に伸びてきている。これが伸びきって拳が触れたら、俺のHPが消し飛ばされることは目に見えていた。

 

「ふ……っ」

 

 短い気合いを口から零して、光剣を振り抜いた勢いを殺さずに、胴体をその拳の進行方向から脱出させた。左脇腹を掠めて素通りした右腕から轟音と振動が伝わり、それが虚空ではなく腹を捉えていた場合をシミュレートして戦慄する。現実の肉体やALOのアバターと比較して細い腰のおかげで助かった。ログイン直後は落胆したが、この体も捨てたものじゃない。

 口角が引き攣り上がるのを感じながら、今度は右に斬り払っていた光剣を引き戻し、飛び込んできている威織の首めがけて振り落とす。

 

「——」

 

 瞬間、灰色の影が消える。跳躍して銃弾から逃れたということは分かっている。下に向いた視界から急速に上方向に動かれたらこうなることも理解できている。

 消えた影を追うことはしなかった。正面からやり合っても勝機は見えない。その場から跳び退がり、近くにあった木へと身を隠した。

 遅れて枝が踏み砕かれる音がした。威織が着地したのだ。すぐに追撃はしてこないようで、俺は止まっていた呼吸を再始動させた。

 

——自殺なんてとんでもない!

 

 GGO内にて畏れられる近距離ファイターは、これ以上無いほどに目の前のゲームに真剣だった。相手が誰だろうと、自分の事情がどうだろうと、勝利を収めるべく最善を尽くそうとしている。

 このままでは、もう一度の接近できっと、どちらかの敗北が決定されてしまう。ならば伝えるべきことはこの今、伝えるしかない。

 

「威織」

 

 呼びかけに歌声が滞った。

 話そうと考えていたことなのに、この期に及んで喉が締まる。意思は強い方だと思っていたし、以前から度重なる困難も何とか乗り越えてきたが、この告白は毛色が違う。

 それでも威織と話せる機会を無駄にするという選択肢は、頭に無かった。

 

「クラディールという男がいた。そいつはお前が壊滅させた笑う棺桶の残党だった」

 

 俺は話し始めた。そいつと俺との間に起こった出来事の全てを。

 目を閉じて、固く蓋を閉ざした記憶の奥底を探る。踏破されたダンジョン。そこには俺と奴、もう一人のプレイヤーがいて、訓練と称して結晶系アイテムは全て回収されていた。不必要な軋轢を生み出したくないという消極的な理由で、そんな指示に従ったのが馬鹿だった。

 結局、その訓練内容を考案したのはクラディールで、全ては俺を罠に嵌めるための奴の企みだった。俺たちは休憩中に飲んだ水から麻痺を施され、溌剌だった彼は真っ先に奴の餌食になってしまった。

 それからクラディールは逆手に持った両手剣を、俺の腹に突き立てた。あのときの恐怖と、ペインアブソーバによって痛覚が遮断されているのにも関わらず強襲した、傷部の熱。思い起こし出せば、どうして忘れることができたのかと疑問を浮かべてしまうほどの衝撃の数々だった。

 記憶の追跡がひとつ、またひとつと当時の映像を脳内に紡いで、決定的な場面に近付いていく。その度に脈拍が大きくなっていく実感と、右手指に込められる力が増していく事実があった。

 

「ぎりぎりでアスナに助けられた。けれど彼女も反撃を許して、そして……俺は」

 

「言わなくていい」

 

 気が付けば傍に威織が立って、俺の肩に手を置いていた。音も無く近づいて来たのか、それとも俺が過去を振り返ることに脳のリソースを割き過ぎて、サウンドエフェクトを認識できていなかったのか。

 どちらでもいい。そんなことを気にする余裕は、先ほどまでとは打って変わった彼の意想外な態度で吹っ飛んでしまった。ゴーグルでその目は見えないが、いつもの無表情であることは真一文字の唇の形で分かった。そう、いつもの無表情だ。

 威織は俺の言葉を止めた。どうしようもない俺は一瞬、右手の力を抜きかけた。その優しさに甘えようとしたのだ。

 

「殺したよ、威織。俺がクラディールを殺したんだ」

 

 そんな阿呆な考えは即座に切り捨てた。

 幸せを享受して過去の罪を忘れようとしたことが、塗り重なった今の俺の罪だった。

 法律は俺を裁かない。裁けない。俺の殺人の責任は、そのほとんどがゲームマスターに行き着いてしまう。

 

「『お前の責任じゃない』なんて、言わないでくれよ。これは紛れもなく俺が背負わなきゃならない罪なんだ」

 

 図星だったのか、肩に置かれていた手が下された。威織のガントレットを着けたその手が離れた今、俺の肩にかかる重圧は無いはずだった。

 それなのに重さはある。むしろ今までよりもずっと。これが罪の重さなのだと俺は自分の体を抱くようにして右肩に触れた。きっとアバターの重量は一ミクログラムも変化していない。これは、つい先刻まで忘れていた咎を受け入れて、背負っていくと決めた故の感覚。システムには到底解析不可能の幻。これを支えるのはSTR値ではなく、向き合う力だ。

 

「向き合い続けること、考え続けること、忘れずに抱き続けること。それが俺たちにできる償いだって……お前は、とっくの昔に……」

 

 忘れよう、忘れようと意識して、遂には本当に記憶を閉ざしてしまった。そうやって目を逸らすことこそが罪科の肥大を継続させる。

 威織は最初から分かっていて、自分の過去に真摯に向き合っていた。戦い続けていた。けれど、手に握り込んだ魂と浴びた血はあまりにも膨大で、受け入れるには途方もない時間が必要なはずだ。

 受け入れることができないまま、あの男が現れてしまった。威織の意識は二年前の遥か彼方へと引き戻された。つまり、笑う棺桶を葬り去らなければならないという、地獄が継続されてしまった。

 

 それでも時折、その意識を僅かに引き戻す存在が彼の横にはあった。

 それがシノンという一人の少女だった。彼女と話す威織は軽やかで、楽しそうですらあった。

 だが、二人の間に何があったのか、どんな風に過ごしてきたのかを俺は知らない。威織はシノンを巻き込みたくないと考えているし、それを口に出すことは少し躊躇われた。

 

 それよりも確かに伝えなければならないことがある。本当はずっと昔に言わなければならないことだった。その一言がほんの些細でも彼の救いになるかもしれなかったのに、俺は怖くて逃げ出した。

 逃げないと決めたのであれば、俺は声に出さなければならない。

 

「俺たちは、お前を攻略から締め出して、全てを背負わせた。きっと笑う棺桶との戦いは、殺すか殺されるか……それ以外にあり得なかったのに。俺たち全員で覚悟するべきだったのに……結局、それを理解していたのはイオリだけで……俺たちはお前の行いを叱責しながら、それに甘えていたんだ」

 

 手が震える、膝が笑う。唇が戦慄いて、瞼が痙攣する。血の気が引いていく感覚がはっきりとあっだ。

 

「本当に、すまなかった」

 

 自身で並べた所業に嫌気が差す。消えてしまいたいほど情けない。

 

「それと」

 

 けれど、これが俺の言いたいことの全てではなかった。

 

 笑う棺桶の手口はダンジョンに潜み、入ってきた者を待ち伏せや罠で襲うこと。高レベルプレイヤー集団の攻略組が狙われる可能性は高くなかったが、自分たちの結成を高らかに宣言するような奴らだ。影響力を強めるために強攻策に出てもおかしくはなかった。

 ところが、イオリが戦ったせいで、笑う棺桶はその対応に追われたはずだ。自分たちを執拗に追い、躊躇いなく切り刻もうとする一人のプレイヤーに怯えたはずだ。結果として忌むべきレッドギルドによる犠牲者は、イオリが活動を始動する以前に比べて激減した。

 意識していなかった。帰還した六千数百人ののうち、何人がイオリによって間接的に守られていたのか。俺は偶然にもジョーカーを引いてしまったけれど、ソロで活動していた長期間、どれだけ恩恵を受けていたのか。

 

 威織がそれを罪だと言うのなら否定はできない。受け入れようとする彼の努力を無に帰すような言葉は吐けない。それでも、救われた人間が何人もいる。その事実もまた、消すことができない。

 だから、それを伝えるために俺が言うべきことは。

 

「ありがとう」

 

 たったそれだけでよかった。

 何も難しいことは存在しなかった。イオリは身を削り、魂すら削り、その上で未だ生を謳歌している命がある。ならば、その鼓動を打つ人々から彼に向けられるべきは忌避ではない。

 こんな簡単なことに気が付かなかったなんて、自分の浅はかさに笑えてきてしまう。

 

「何が、ありがとうだ」

 

 威織の声が一段低くなる。俺は反射的に身構えたが、莫大な攻撃力を内包するその両腕が振り上げられる気配は無い。

 まるで数秒前の俺が目の前で再生されているかのように、その手が、膝が、唇が震えていた。

 

「お前たちは結局、襲われて……一人は死んだ。俺はそいつを救えなかったし、キリトを救ったのも《閃光》とお前自身だ」

 

 そう言いながらも、威織は恐る恐るといったようにゴーグルを首元まで下ろして、両手の平を自身の顔に向けた。ほとんどフィメールタイプの俺や完全女性型のシノンのアバターとは違い、その肌は多少白いといった程度だ。少なくとも俺にはそう見える。

 本人にはどのように見えているだろうか。もしかすると、その手には赤の色が染み付いてしまっているのかもしれない。刻み込まれたものは刺青以上に消えることはない。

 

「でも、そうか」

 

 俺はその光景を忘れることはないだろう。

 あの日、俺が逃げ出した日。彼は暗い森の中で、全てを刈り取らんとする死神の如き様相を呈していた。空中に散布された赤いダメージエフェクトと、プレイヤー自身が砕けたことで生まれる青白いポリゴンの欠片。それらを立ち昇らせる姿は凶々しくも、いっそ神秘的ですらあった。恐怖と神秘は紙一重であると思う。どちらも、この世のものではない気がするから。

 

 今はどうだろう。同じ森の下、同じ少年。違うのは、まず風が吹き抜けたこと。その風に流されて、空とこことを断絶する分厚い木の葉たちが形を変えたこと。夜ではなく、柔らかく儚い夕陽が彼に降り注いだこと。彼が見るものが殺した人間ではなく、その手で守った生きた人間たちであること。

 

「俺は、誰かの助けになれたか」

 

 自分が振るっていたのが拳か、はたまた大鎌か、それすらも威織の蝕まれた意識は理解を拒んでいたのかもしれない。

 けれど、今は右拳を握って額に当てている。

 

 受け入れるには時間がかかるだろう。それでも、彼の時間は僅かずつ進み、二年前にはもういない。

 

「お前、もっと笑った方がいいぜ」

 

「いいよ、これが俺だ」

 

 ああ、そうだ。こんな会話をしていた。攻略組で唯一の同じ年齢同士、俺たちはこんな軽口を叩き合っていた。

 ずっと、そうするべきだった。

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