冬の夜はいつにも増して静かだと思う。空気が澄んでいると聞くが、それなら遠くからの音もよく聞こえてくるはずなのに。
東京の雑踏は耳を障るが、吐く息すら白く凍って霧散するのであれば、人々は活動のレベルを低下させざるを得ない。
夜になれば尚のことで、カーテンを開けて星の見えない夜空を見上げるだけで時間が潰せるほど、私は文京区の冬が嫌いではなかった。
今夜も多分に漏れず冷える夜で、温めた牛乳が入ったマグカップを両手で包み込んで暖を取っている。手足の末端が冷えてしまったとき、痺れながら指先の冷却が帳消しにされていくのが好きで、よくこうやって暖めている。
ホットミルクを少しずつ減らしていく間、私は今日の出来事に思いを馳せていた。いつも通り威織と合流した後、キリトという見目麗しい少女——のような少年に出会った。初心者ながら別ゲームからコンバートを経てBoBへの出場をしたいと言う勇敢な男に、私たちは自分が初心者だったころを思い出した。
途中、キリトが名乗ったとき、如何とも言い表し難い空気が充満したことは覚えていて、まだ日の浅い私と威織の日常が音を立てて崩れていく気配がした。
その予想は的中してしまった。BoB予選一回戦を終えた私を待っていたのは、それぞれの健闘に労いを送り合う時間ではなく、憧れだった一人のプレイヤーが瓦解している場面だった。
あの威織の顔が頭から離れない。ちくちくと胸の辺りが痛む感覚は勘違いではないようで、私はブロック二回戦から決勝を勝ち抜くまでの間、敵の装備やステータス予測、動き、位置、狙撃ポイントを考えるためにフル回転する脳内のほんの片隅に、彼のことを思い浮かべていた。
決勝を勝ち抜いた後もそれを払拭することはついにできず、私は久しぶりに気分の悪いままアミュスフィアを脱いだ。
初めての経験だった。人の顔が頭から離れないとだけ表現すれば、私を日頃から苦しめる記憶もそうだろう。けれど、それと今回とではまったく違うということも私には理解できていた。
GGOの世界で超接近戦を可能にし、トッププレイヤーにまでは届かないが面識の無い人々の世間話に登場するくらいには有名な男。それほどの強さを持ちながら、彼の内心を大いに揺さぶるほどの何かが起こった。
それが何なのか、威織に話してもらえなかった自分が情けない。話されるだけの関係だという気になっていた自分が恥ずかしい。
そんな思いがあることも間違いではなかったが、それ以上に、私は相応しくない感情を抱いていた。
「だめだ、わたし」
威織と初めて会って、完膚なきまでの敗北を喫した日も、私はこんな風にベッドの上で膝を抱えていた。
あの日も今も変わらない。私は強くなりたいと宣いながら弱いままだ。彼の強さを体現する背中を追い続けていれば、きっと強くなれると思っていた。
けれど、数時間前の彼は私の理想に反していた。何かに怯えるようにも見えた無表情が、やはり私の頭から離れない。
芽生えたのは、あの戦いで彼に空けられた胸の風穴に巣食う、抱いてはいけない感情。
過去を乗り越えられないのは自分の弱さが故。だからこそ、シノンという幻想を作り出し、演じ抜き、そして最終的に真の強さを手に入れた仮想現実を朝田詩乃に重ねる。そうすれば現実での私も強くなれる。もう銃のイラストまでもを恐れる必要はなくなり、私は背筋を伸ばして歩くことができる。その一心で、私はへカートⅡを撃ち放してきた。
でも、アミュスフィアを外した後、顔を洗うために毎日のように洗面台の前に立ち、鏡を見る。そこにはいつも、ただの朝田詩乃が立っている。時間が経つにつれて——つまり、仮想の銃撃戦においてシノンが強さを更新し続けるにつれて、綺麗な青い髪の戦士と、血に濡れた黒い髪の少女との乖離は大きくなっていく気がする。
最近は、これでいいのだろうか、という気持ちがほんの少しづつ膨張しているのだ。強くなっていくシノンと弱いままで有り続ける詩乃。
GGOで敵を撃ち殺しても、強くなっているのはシノンだけ。朝田詩乃が強者になることは絶対に無い。そんな底知れぬ不安が足元から近付いているのが分かっていた。
BoBへの出場はそれを否定するためでもあったのかもしれない。私がつぎ込んできたもの、時間。その全てが、ゲームへの還元に終わってしまう。そんなことがあっていいはずがない。
そんなとき、威織のあの姿を見た。誰よりも強いと思っていた威織。揺らぐことのない強い威織。目の前に何が立ちはだかろうとも、粉砕して突き進んでいく威織。
私の理想である威織は、何かに怯えたような無表情をしていた。以前から何かを隠している片鱗はあったけれど、あんなに露骨に態度に現れたのは初めてだった。
威織でも何かに怯えている。そう、威織ほどの人間でも。
「疲れちゃったかも」
それは彼で無理なら仕方がないという、ある種の赦しを受けた瞬間だった。
諦めてしまってもいいんじゃないだろうか。延々と続く成強の道。その果てこそBoBでの優勝だったが、確実ではない。息を切らして走り続けて、辿り着いたゴールは単なる幻想だった。そんなことがあれば耐えられない。
自分を保つ動機の根幹が揺るがされていくのを感じていると、不意にテーブルの上の携帯電話が鳴った。薄暗い部屋で一番星のように輝く画面の中には、短い文章が浮かんでいる。「話したい」というメッセージに、私は「そっち行くね」とだけ返した。
ベッドから降りて玄関までの足取りが軽い。普段なら暖房で温められていない廊下を歩くときは身を縮ませるのに、今は素足から伝わるフローリングの冷たさすら気にならなかった。
出してあったローファーに爪先だけを通して、電子ロックを内側から解錠して扉を押し開けると、肌を突き刺す冷気が無遠慮に私を撫で回していった。
そんな顔を顰めてしまうほどの寒さにも私は鈍感で、扉が閉まり切るのと同時に電子ロックをかけて、すっかり慣れてしまった手つきで隣の部屋のインターホンを押した。
すると、ほんの十秒もしないうちに解錠の音がして、伊織が中から顔を覗かせた。
「急にごめん。話したくなった」
「……そ」
私が入れるようにドアが大きく開かれる。頭を少し下げてから、その部屋の敷居を跨いだ。
「お邪魔します」
呟きながらローファーを脱いで上がり框を登る。先を行く背中を見つめながら、私は後ろ手で鍵を締めた。
私の部屋にあるものと同じスライド扉をくぐると、彼は既にベッドに腰掛けている。手招きされて、私はその隣に陣取った。
「今日も寒いね」
「うん。部屋は、寒くないか」
「大丈夫。あったかいよ」
「そうか」
「そうだ。明日、パスタがいいって言ってたでしょ。難しいのは作れないからね。簡単なやつで許して」
「作ってくれるだけありがたい。全部美味いし」
「そう言ってくれて助かるわ。あなたにご飯作るようになるまで、私、ほとんど料理なんかしなかったから」
「詩乃」
名前が呼ばれた。
「ゼリーだけ食べて済ませてた日もあってね。でも、今は調子もいいし、やっぱり食事って大事なんだって思う」
嫌だ。
「詩乃」
また、呼ばれた。
「そうだ。料理本とか買おうかな。伊織も美味しいものいっぱい食べたいでしょ。レパートリー増やさないと」
応えたくない。
「詩乃。俺は」
「やだ」
彼の呼びかけを、三度も遮った。
嬉しかった。私も話したかった。会いたかった。私が諦めることを、他の誰でもない彼に赦してもらいたかった。たったそれだけを話したかった。彼の秘密とか、私の過去とか、そんなことはお互いに知らないままでいい。
「お前と話したいことが——」
彼の言うことは聞かず、ただ自分の欲望に従うままに、私は伊織の体をしっかりと両手で抱いて、簡素なシングルベッドに押し倒した。
勢いよく叩きつけられた二人分の体重に悲鳴を上げるみたいに、普段はひとり分の重さしか知らないスプリングと金属フレームが軋む。
自分の行動に私自身ですら驚いているのに、彼はいったい、どれほど今の状況を呑み込めているのだろうか。
伊織の体にこんなにしっかりと、長く触れたのは初めてだった。服の上からでは分からなかったが少し筋肉質で、もう、このまま何時間でも過ごしていたかった。静かな冬の夜。部屋にあるのは、温風を吐き出す室内機と、壁にかけられた時計の針が盤面上を歩く音。暖められた部屋で、その首筋に密着させたこめかみから伊織の脈拍が伝わってくる。彼ならこんなときでも落ち着いて現状を考えているだろうか、という予想とは裏腹に、頭に響く心音の数は一分に百回を上回っていた。
忙しなく、それでいて心地のいい鼓動に目を閉じながら、私の右手は無意識に彼の背中から左肩、二の腕と降りていき、痛々しい傷がある左手の平に触れていた。
「これ、痛むの」
「……今はあんまり」
「でも、動かないんでしょ」
きゅ、と手に力を込めても、握り返してくるのは親指だけ。あのナイフは神経を切り裂き、彼は自分の意志で他の四本を動かすことができない。それが時間の経過で治らないだろうことも、私は伊織からの説明で知っていた。
日常生活の中で手が使えないというのは、たとえそれが利き手でなくても、過度なストレスを要することになる。物を握れないので、食事の際は茶碗を持てない。右手に箸を持ったまま左手でコップを持つことができない。
それだけのハンデを負わせてしまった私は、多大な罪悪感と感謝の気持ちで今まで彼の生活を助けていた。
「私が一生、あなたの左側にいるから、あなたも私の側にいて……」
そのはずだったのに、私は何を言っているのだろう。伊織が左手を刺されたのは私を救うためで、その傷は彼を私と同じ場所に繋ぎ止めるためのものではない。
「私はもう強くなれない」
分かっている、これは。
これは独りよがりな、破滅の申し出だ。そして彼自身と、GGOで積み重ねてきた自らの努力を否定する喘ぎだった。
強さを持つはずの威織が予選一回戦の後、あんな風に佇んでいるのを見た。威織を知らない者からすれば、いつもの彼との差異には気がつけなかっただろうけれど、私は戸惑うと同時に、安心してしまった。だってその顔は、高倍率スコープ越しに彼と出逢う何年も前から、鏡で見ていたものだったから。
私にとって最も身近で強さの象徴だった『歌う狂者』も、私と同じ人間で、私と同じ闇を持つ。それに気が付けた。
それに、彼が弱くても私は彼をずっと見ていられる。乗り越え合う必要なんかない。弱いままで、両者の核心に刻まれた深い深い傷跡を舐め合えばいい。抱いてはいけない感情だと知りながら、その魅力に逆らうことは難しかった。
それなのに、扉を開けたとき、伊織の目には光が灯っていた。彼が話し始めるのを止めるために言葉を繋ぎ続けていたのに、時間を稼いでいる間、元に戻ってしまった伊織の振る舞いに、喉の奥が焼けるようだった。
そうだ。私に伊織を抱き倒させたのは、彼が私を置いて先に進んでいってしまうという焦燥感と、私が長年を懸けて成し得なかったことを、いとも簡単に遂げてしまったことに対する嫉妬。それに、彼を私の下だけに置いておきたいという、独占欲。
自分を綺麗だなんて思ったことはないけれど、今の私は、いったいどれだけ醜悪なのだろう。
「お前は、弱い」
頭の上から、言葉が降ってきた。握り合った手は神経が傷ついて感覚が鈍いとしても、それ以外に重なった体の大部分からは、私が冬の空の下にいるみたいに震えているのが伝わっている。震えだけじゃない。あれだけ吐いた弱者の懇願も、彼は一つ残らず聞き拾ってくれた。
もともと強くなんてなかったのに、私はとうとう諦観しようとしている。強さを再び手に入れようとするひとりの男に弱さを曝け出して、彼に付けた傷を言い訳に使っている。
「それは俺も同じだ」
ああ、認めてくれた。伊織は私を、今の朝田詩乃を受け入れてくれたんだ。
「……そう、強くなんか……ない……もう疲れたんだ……やっと、諦められそうなの……お願い、伊織……」
——わたしと一緒に諦めて。
その声が流れ出るはずだった私の唇は伊織の首筋に当てがわれていて、最後の一節が空気を震わせることはなかった。
冬場の湿度の低さによって乾燥した花唇から響く脈拍はさっきより遅くなっていて、甘美な味がする。
このまま食べてしまいたいくらい、愛おしい。
彼の頸動脈を血液が通るのが分かる。その熱を喰みながら、自分の心の栓が抜け落ちてしまったことを解している。
伊織は憧れで、打倒すべき目標だったから、この恋慕はかつての私の道には邪魔だった。彼にも自分にも嘘を吐き続けて押し殺していた濁流が、左心房を満たしていた。
そんな風に自身を騙していても、本心は変わらない。伊織は私を救ってくれた。最初にお互いを認識した日、ヒーローみたいに現れたあなたに目を奪われた。自分が傷を負っているのに、私の頭を撫でて、優しくしてくれた。それからの暮らしでも、あなたはずっと優しくて、強くて。そんなの、誰でも惹かれてしまうに決まっている。
あなたは自然の中に強かに咲く花みたいで、甘い蜜を内包しているから、そこに吸い寄せられたのは私だけじゃないでしょう。
でも、でもね。私はぜったい、他の人とは違うから。みんながあなたに群がったとしても、最後までそこに羽を休めるのは私だよ。
だって、私は綺麗に咲くあなただけじゃなくて、枯れ果てて泥に塗れたあなたでも、同じように愛すことができるから。
「諦めない」
真っ直ぐな声に耳が焼ける。大きく声帯を震わせたわけじゃない。きっと、普段なら生活音で掻き消されてしまうほどの小音だったと思う。
それでも、その一言は私の鼓膜を穿った。
何を言われているのか、私は諒解を拒否していた。だって、そんなことを言うはずがないから。つい数秒前、彼は自身と私の弱さを認めてくれた、受け入れてくれたから。
「俺はどうしようもなく弱いけど、向き合い続けることはやめたくない」
相変わらず意味の分からないことを言いながら、伊織は私の両肩を押し戻して、ベッドから起き上がった。一つに溶け合ってしまったと思い込んでいた体が離されて、人肌の温もりを失った。部屋は暖かいのに凍えてしまうほど、彼は熱かった。
それが単なる体温でなく、彼の内側に燃え盛る闘志という名前の炎から齎された熱情であることに、私は今更になって考え至った。
「俺はお前にも、そうであってほしい」
夕原伊織という男は朝田詩乃とは根本的に違う人種であることは、その直線的に飛来する視線が私に着弾したことで、まざまざと思い知らされてしまった。
それでも、こんなに差があるの?
私と彼の何が。同じものを食べ、同じ時間を過ごしたのに。どうして伊織はもがき続けられるの。酸素が供給されない沼の底で、私は手足に纏わりつく泥水に逆らうことに疲れてしまったのだ。抵抗すればするほど窒息は増していき、自分が何をしているのかすら分からなくなる。
そんな苦痛がいつまで続くのか、それ以前に終わりがあるのか。諦めてしまうに足る理由だ。そうした方がずっと楽だし、そのまま息絶えてしまうにしても、隣にはあなたがいてくれると、そう思っていたのに。
「できない……わたしは……ちがう……」
視界がぼやける。涙は光を歪めて、瞬きのたびに違う景色を私に見せた。彼のまっすぐな眼差しや、その曲がらない意思すらも屈折させてはくれないだろうか。なんて、馬鹿な妄想をしていても、次から次へと流れる落涙は、ただ私の脆弱性を表現する以外の役目を果たそうとはしなかった。
彼の前で泣くのは、これで二度目だ。一度目とは異なる意味を持ちながら頬を伝う雫は、確かに熱を持っている。それがシノンとして闘おうとしていたときの残滓だとすれば、ここで全て捨ててしまおう。
もう要らない。私には必要ない。
「詩乃、お前は」
「あな、あなたと、私は、違うのよ!!」
呼吸がうまくできない。肺が一度に充分な空気を吸ってくれない。先ほどまでフルダイブしていたのだから、急な大声なんて出したら喉が閉まって声が裏返るのも当然だ。
当然だけど、叫ばずにはいられなかった。囁きや呟きでは、この苛立ちと無力感の媒介として力不足だった。
「結局、
ベッドから立ち上がると、私は出口に歩いた。頭が痛んで足元がおぼつかなくても、ここから、彼の眼の前から一刻も早く消えたかった。
背後から制止する声が聞こえる気がするけれど、脳内は気持ちの悪さが渦巻いて満員だった。彼の言葉が入る隙間は用意されていなかった。
扉の作りは全部屋共通なので、何も考えられない状態でも内側からなら鍵を開けることができた。乱暴に開き放くと、外の冷気はやはり肌に刺さる。それに涙が冷やされて、顔が痛い。それを癒すためなのか、止め処なく新しい闘志の残骸が絞り出されていく。
自分の城に舞い戻った私は、彼が追って来られないように施錠し、扉に背を預けたまま崩れ落ちた。踵を踏まれて形の崩れたローファーの痛々しさにすら親しみを覚えてしまうほどに、彼の眩しさによって私は焼け爛れた。
かつては憧れた光。それが毒になってしまったのだとすれば、私は何を以て先の道を照らせばいいのだろうか。
何も分からないまま、夜が更けていく。
夏なら蝉が鳴き、春なら路上で誰かが騒ぐかもしれないけれど、冬の静かな夜は私に何も言ってくれはしない。唯一、私に向けて言葉を差し出してくれようとした相手を責め立てて、一人で泣いている。
テーブルの上では、冷めたミルクが白く揺れていた。