理外の理、物外の物。超越幾何の第四次に触れた冒涜者たちの探り合い。

※「小説家になろう」様とのマルチ投稿。


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プリミティブ・サンサーラ

 

 土を捏ね、

 形を整え、

 焼きを入れ、

 以って生活に欠かせない、様々な道具を作り出す。

 古式ゆかしい土器製作の風景だった。

 

 ただひとつだけ異様な点は、この作業に従事するにつき、作業員らはまず須らく、汲まれたばかりのニワトリの血を頭のてっぺんからぶっかけられねばならないことか。

 

(いや、異様と感じているのが私ひとりである以上)

 

 おかしいのは、むしろ私の方なのだ――ペルネの胸を哀切と、それからもちろん恐怖の念が疼かせた。

 

(少なくともエルムタガのひとびとは、このシキタリを当然のこととして受け入れている)

 

 どういう由来があるのかはよくわからない。

 ただ、この工程を経ることにより、土器の強度は飛躍的に上昇し、末永く使用に耐えるばかりか、盛られためしにも特別な霊気が充填されて、鮮度は落ちず栄養価も高くなる――早い話がいいことずくめなことになる、と、この原始民族の間では無邪気に信奉されているのだ。

 

 ――わからないなあ、どうしてニワトリなんぞの血にそんな効果があるんです。

 

 むかし、母親の目の前で。喉元までせり上がって来たそんなセリフを、必死の思いで呑み込みなおした苦悶の記憶がよみがえる。

 

 この場合、疑問は危険であった。

 

 信仰の本質とはわけもなくただひたひたと信じ続けることであり、我と我が身を御本尊へとすり寄せてゆくことであり、その盲目ぶりが甚だしいほど熱心な信徒と讃えられる性質な以上、わけ(・・)を求める研究的態度とはそもそもの相性が非常に悪い。ペルネは、孤立を恐れた。

 

(臆病ではない)

 

 聚落を一歩離れればたちどころに瘴癘の気渦巻いて、腹を空かせた猛獣どもが練り歩き、自分たち以外のあらゆる部族を奴隷化したいと念願している未開民族の跋扈する、このような地で孤立するのはほとんど自殺と変わらなかった。

 

(恐れない方がどうかしている。――それにまんざら、迷信とも言い切れないのだ)

 

 なんといってもペルネ自身、神秘体験としか言い表しようのないことを既に味わって此処にいる。

 

 彼女には生まれる前の記憶があった。

 

 宇宙全体の規模から観測()れば芥子粒よりも更に小さな、天の川銀河のそのまた片隅、太陽系第三惑星地球にて、慎ましながらも半世紀ほどを生きた記憶が。

 

 ――まさか魂が実在するとは。

 

 物心ついて、いの一番に考えたのがそれである。

 同時に科学の未熟さを知った。

 あれほどの高みに到達し、既に進歩の限界に差し掛かった如き観さえ窺われた地球人類文明にも、まだまだ未開の領域があった。少なくとも自分に起きたこの現象を説明するに、既存の物理法則では何の役にも立ちそうにない。

 

 ――世は広く、人間の智慧はまだまだ浅い。

 

 片や南極から北極へ、

 片や赤道をぐるりと巻いて、

 ふたつの地溝が十字を描く月の麗姿を、未熟な瞳で仰ぎつつ、そんな思考に浸ったものだ。

 

(だから私の常識で、無闇矢鱈と切って捨ててはならんのだ。ひょっとするとこの行為の裏側にも、私をこの地へ導いた、ある種不可知の効力が働いているのやもしれぬ)

 

 そのような理屈で、ペルネは感情を説き伏せた。

 自分の番がやって来る、ほぼ寸前のことだった。

 

 エルムタガの社会に於いて粘土を捏ねるは女の指の役割であり、十歳の峠を越すか越さぬかのあたりから、誰もがそれに従事する。

 ペルネにとって、今日が初仕事の日であった。

 初めて、真紅に染まる日であった。

 

(来た。――)

 

 司祭(シャーマン)の一族に連なる女性が、後ろに立つのを気配で感じる。

 その手にあるのは海亀の甲羅、人間の赤ン坊くらいゆう(・・)に収まる窪みの中に、今は新鮮なニワトリの血がなみなみと湛えられているはずだ。

 

 女性の手がゆっくり動く。

 なまあたたかい液体が、寸分の狂いもなくペルネのつむじに落下した。

 

(ひどいにおいだ)

 

 額を伝い、

 目蓋を濡らし、

 鼻翼を経て、

 おとがいに向かう。

 その生臭さのかたまりに、ペルネの意志というよりも、生理の方が悲鳴を上げた。眉の筋肉が痙攣し、深い皴が刻まれる。

 

「こん罰当たりもんっ」

 

 年頭の女性がすかさず起って、ペルネの頬を張り飛ばしていた。

 小さな身体はひとたまりもなく、棒の如く横倒しにぶっ倒された。

 

(畜生。……)

 

 大地に爪を立てながら、ペルネは暗澹たる気持ちに駆られる。

 前世の記憶などという荷厄介な代物が、なんだってこの頭蓋の中にこびりついていたのだろうか。

 

「失せい!」

 

 みじめなことになった。

 ペルネは、作業場から叩き出されてしまったのである。

 

 

 

(この陽気ひとつをとってもそうだ)

 

 ココナッツファイバー――ヤシ殻繊維を編みつつ思う。

 

 村の裏手の、掘っ立て小屋の中だった。

 

 小屋には明かり取りと呼ぶには大きすぎる窓が穿たれ、その向こうには畑の畝が広がっている。監視小屋なのだ。農作物を野生動物、あるいは盗賊の害から防御するべく、ここに人員を配置しておく。不審な動きを認めたならば鳴子を使い、それで相手が引き退がればよし、退がらなければより直接的な手段として投げ槍も用意されている。

 

 これはこれで部族のために、大事な役目に相違なかった。

 

 が、いかんせん、暇である。

 業務時間の九割は、変化のない単調な景色を見詰めて過ごす破目になる。

 

 これが辛い。人生の無駄遣いをしてるんじゃないかと、わけもなく気が焦るのだ。

 そういう不安を紛らわすため、ちょっとした内職を試みるのはべつにペルネだけでなく、エルムタガ一般のならわし(・・・・)だった。

 

(年がら年中、糞熱い。最高気温が30℃を下回る日なぞ、いちにちだって無いんじゃないか。湿度の方もむごいばかりだ。べたべたするこの感じ、70、いや、80%は確実にある(・・)

 

 ペルネの指は一本一本それ自体に独立した意志があるかの如く縦横無尽に駆動して、ばらばらの繊維を是非なく束ね、捩じりを利かせ絡ませ合わせ、みるみるうちにたくましい縄へと成型してゆく。

 付け焼き刃でない、堂に入った仕草であった。

 

(この陽気の中でエルムタガのひとびとはさても溌溂と生きている。暑熱自体に無上のストレスを感じているのは、やはり私だけなのだ。――細胞自体は私と彼らで何の違いもないはずなのに)

 

 すっと我が手に視線を落とす。

 温帯のコンクリートジャングルでキーボードを叩いていた嘗てとは似ても似つかぬ、熱帯での生存に最適化された、褐色肌の手であった。

 

(精神が肉体に及ぼす影響、よもやこれほどのっぴきならぬものだとは。骨も脂肪も脳味噌も、なにもかもをとっかえて、それでも習慣は抜けぬのか)

 

 単純作業をひたすら繰り返し続けていると、次第に頭がぼーっとしてきて瞑想的な気分に入る。

 ペルネの上にも、その効果が起きつつあった。

 

(……水沫(みなわ)なす(もろ)き命も栲縄(たくなわ)千尋(ちひろ)にもがと願ひ暮しつ)

 

 だからだろう。意識の底から、とうに忘却したはずの万葉の歌など湧いて来たのは。

 

 縄が十分な長さになった。

 

 とぐろを巻かせ脇に置き、更に一から新たな縄を綯おうとする。

 

「大したものじゃ」

 

 しわがれた声が首筋を逆撫でしていったのは、ちょうどそんな瞬間だった。

 

「――!」

 

 皮膚を粟立たせると同時にペルネの身体は跳ね飛んで、壁を背にして立つようになる。

 

「ホ」

 

 小屋の真ん中、東西南北いずれにも一寸たりとて偏していないその場所に、小柄な老婆が佇んでいた。

 戸の軋み、土を摺る音、ペルネの鼓膜はその一切を捉えていない。地から湧いたとしか思えぬほどに、老婆の出現は唐突だった。

 

はしこい(・・・・)のう。まるで猫かむささびじゃ」

「これは、ハラファラ様――」

 

 我ながら不得要領な声が出た。

 見たからだ。老婆が握る硬木の杖、螺旋の模様で埋め尽くされたそれを握る有資格者は、エルムタガの地にただひとり。

 

 その名、すなわちハラファラ・デレート。すべてのシャーマンの頂点に立つ、神々の意思の代弁者。姓すら持たぬペルネとは、地位に於いて文字通り月亀の差異がある。跪き、その威光を畏れていますと全身で示さねばならない相手だ。

 そのように振る舞いかけたペルネの動きを老婆は微笑(わら)って押しとどめ、

 

「口開けてみせい」

 

 邪気なく命じた。

 そのようにするとハラファラは、すかさず濡れた粘膜をじろじろ眺め、

 

「切れとる、切れとる。痛むかえ」

 

 先刻、張り飛ばされた際、はずみで負った内頬の裂傷。

 そのことを言っているのだ。

 口を開けたまま、ペルネはこくんと頷いた。

 

「なあに、ヌシの若さならすぐによくなる。若者はいいのう、多少の無茶や失敗なぞは物の数ではないんじゃから。そういう力、みずみずしさが、総身にくまなく満ちとる時期よ」

「……」

 

 ペルネは、訝しんだ。

 

(慰めてくれるのか)

 

 それ自体はありがたい。

 言葉の裏を探るなら、単に切り傷のみならず、神聖な儀式の最中に不快感を露わにした失態をも不問に処すと、そういう含意もあるだろう。次回粘土を捏ねる際にも、ペルネの席は変わらず用意されていそうであった。

 

(だが、それを伝えるためだけに、これほどの殿上人が態々ここへ?)

 

 そこに疑念を抱かず済むほど、ペルネは自己肥大に()かれていない。

 

(有り得ないことだ)

 

 不安であった。

 不安をよそにハラファラは、ペルネの綯った縄を持ち上げ二三度しごく(・・・)

 強度を確かめる仕草であった。

 

「先にも言うたが、大したものじゃ。ようけ出来とる」

「光栄至極に存じます」

「ヌシの歳でこれだけ洗練された技を持つのは、わしの目にさえ珍しい。せいぜい六人、おったかどうか」

「六人、ですか」

「おおさ、五百七十四年に及ぶわしの生での」

「ご……」

 

 ペルネは、絶句した。

 

虚喝(はったり)か)

 

 霊感霊能の自称者がみずからの神秘性を増さんがために、大袈裟な表現を用いるのは珍しくない。

 やれ十一次元の住人だとか、やれ絶対観測者の端末だとか、本人自身言葉の意味する真のところは掴んでいないに相違ない馬鹿げきった大風呂敷を、地球に居た頃うんざりするほど見聞きした。

 

(こいつもそういう手合いかな?)

 

 すっと瞼が細まって、そこで視線がかち合った。

 

 老婆の瞳は澄んでいた。

 

 皴と染みとに占領された顔面の中、双眸だけが童女の如く無垢である。

 

(やばいなあ)

 

 こういう目ができるのは、よほど有徳な聖哲か、さもなければ根っからの狂人かの二つに一つだ。

 どちらであろうと、あまり関わりたい手合いではない――ペルネのように、誰にも言えない大きな秘密を腹の底にしまい込んでいる者にとっては。

 

「その六人と比べても、やはりヌシは特別じゃよ。あやつらの誰とも似ておらん」

「おたわむれを。私は根が単純ですから、舞い上がってしまいそうです」

「たわむれなものか。こうして接していよいよ募るわ、ヌシが如き魂の相、わしはこれまでただの一度も見たことがない――」

「えっ」

 

 聞き逃せない単語であった。

 老婆は杖を持ち替えて、その先端でガリガリと、土に何かを描いていた。

 ひとつの螺旋の末端が、屈曲してもうひとつの螺旋に繋がる――S字螺旋とか同心円状弓紋様とか呼ばれる図形だ。

 

「これがわかるか」

「なんのことです」

「もそっと近う寄ってみよ」

 

 再度杖を持ち替えて、図形のそばをコツコツ叩く。

 微かに砂ぼこりが舞った。

 日光を受け朧に煌めくその塵埃が、いつ飛沫(・・)へと変わったか。

 ペルネにはまるでわからなかった。

 気付いたときには、としか言いようがない。

 気付いたときには宙に浮かんで、逆巻き荒ぶる渦潮を俯瞰している自分がいたのだ。

 

 

 

(幻覚――いや、催眠術の一種だろうか。途轍もない腕前だ)

 

 五円玉のゆらめきも、液晶画面の発光も、耳元での囁きもなく、たったあれだけの動作によって――と。

 破裂しかける精神を、既存の知識をあらん限り並べることでどうにか守護(まも)る。

 鼻腔には潮の香りが満ちて、海鳴りの音は耳を聾さんばかりであった。

 

 と、渦の辺縁に笹の葉のようなものがある。

 

(なんだろう)

 

 目を凝らして驚いた。あれは独木舟ではないか。巨木をくり抜き設えられる、最も原始的な船の形態。その独木舟の船団が、渦潮の執拗な魔の手からどうにかして逃れんと死力の限りを尽くしているのだ。

 

 ――もどせ、もどせ。

 

 船員中に、とりわけ高く声を上げる者がいる。

 精悍な顔立ちの女性であった。

 四肢の動きは黒豹さながら、鞭の如くしなやかで、大自然の暴虐にあくまで抗う意志の焔が毛穴のひとつひとつから噴き出しているようだった。

 

「諦めるなや、生を見切るは早計すぎるぞ、腕を動かせ、骨が砕けて飛び出してもじゃ、漕げ漕げ、漕げば漕いだだけ、地獄の穴から遠ざかる、ここで一番、死神どもの鼻を明かしてくれようず――」

 

 いい檄だった。

 

 囂々たる海鳴りにかき消されない声量はもちろん、底に一定のリズムがあって聴いているうち自然と鼓動が高鳴ってくる。

 

 ――まるで即興の行進曲だ。

 

 ペルネは思った。扇動者として、欠かせぬ才の発露であろう。

 

「おお、おお、懐かしいわい」

「――っ、ハラファラ様」

 

 この老婆の出現は、今度もまた唐突だった。

 顔を上げれば、自分と同じ高さの宙に胡坐をかいて浮遊している。

 

「あれが最初のわしの姿じゃ。よき肉体であったのう、惚れ惚れするぞ我ながら。千波万波を遥かに超えて、今のこの地にたどり着き、エルムタガの根を下ろすまで。永い征旅に、よくぞ堪えてくれたわい」

「そのおっしゃりよう。まるで道具に対する褒め方ですね」

「そう聞こえるか」

「聞こえます。先刻縄を(けみ)した際とそっくりですよ、あなたの纏う雰囲気は――」

「ホ」

 

 老婆はぽんと膝を打ち、笑みをいよいよ深くした。

 

「よう見たわ。なるほど確かに次から次へと乗り継ぐと、そういう調子に視座が移るやもしれんなあ」

「乗り継ぐ、ですか。五百年を生きるのに、あなたが執った(すべ)とは、つまり」

「うむうむ、ヌシの想像通りであろうよ。肉体なぞはわしにとり、しょせん一時の仮の宿。いや、わしのみならず生きとし生ける総てにとって本来的にはそう(・・)なのじゃ。ただ、宿から宿へと移る折、厭な奴らが身包み剥がしにやって来る。智慧も情緒(おもい)も、前の宿で手に入れた何もかもを奪わんとする強欲どもがな。彼奴(きゃつ)らの(まなこ)を誤魔化す法をわしは知り、実践しているまでのことでの」

 

 余談となるが、輪廻転生の概念は、べつだん仏教の専有物にあらずして、アニミズムの色彩強い原始宗教の世界では往々にして顔を出す、いっそ定番といって差し支えなき発想である。

 

 たとえばザイールのバサンゴ族では人の死後、その霊魂は自然物――森林中の樹木であったり、水底の石であったりと、そういうものに飛び込んでゆくと思われていた。で、やがて女性がこの樹のつけた果実を食べたり、その石が潜む泉の水で身を清めたりなどすると、彼女の身体に霊が飛び込む。これが妊娠の原理であると、そのような解釈が大真面目に通用していたものである。

 

 煎じ詰めれば彼らにとって赤子とは、例外なくかつての祖先の再臨なのだ。

 

 生死の境を彷徨う者の口中に、石を突っ込む部族もあった。

 トドメではない。

 死後、彼の霊魂が何に宿るか、生者の側で指定するのが目的である。そういう石は「緑の宝石」とか「死者の心臓」とか呼ばれ、至極鄭重な扱いを受けた。

 

 輪廻を制御せんとする、大いなる挑戦の第一歩であったろう。

 

 その道をずっと進んだ場所に、ハラファラ・デレートは立っている。むろん本人の言い分を全面的に信じればとの、但し書きはつくものの――。

 

 

 

「幾多の身体を渡り歩いた。生と死の数え切れない交錯を、この瞳に焼き付けてきた。その余得での、魂に対して、わしは特別な感覚を持つ」

「…………」

「その感覚がな、告げるのよ。ヌシは違う(・・)と。既往、エルムタガの民として在った者ではないだとか、そういう末節の話ではない。根本じゃ。魂の質自体からして、ヌシはまるきり異なっておる」

「だとすれば」

 

 軋るような声が出た。

 我ながら厭な声だった。

 

「だとすれば、あなたはどうします。未知なるもの、()なるものは弾き出し、既知の調和に安息なさるか」

「禍を未萌に防がんとのみ欲すれば、それがおそらく最上じゃろうな」

 

 さらりと言うのだ。

 ハラファラが笑って人を殺害できる人間性の持ち主と、ペルネはついに頓悟した。

 

「摘むは容易い、今ならば。苔を払うほどの手間もかからぬ。しかし妙な具合いでの、容易ければ容易いほどに実行の気が失せるのじゃ。どうにも何かに、試されておる気がしてならん」

「試される? それは妙だ。誰があなたを試せるのです、これほどの(わざ)行使(ふる)うあなたを――」

「さあ、運命かな。アレは人を罠にかけては大喜びする性悪でのう。良かれと思って打った手が、ほどなくしてから目も当てられない惨事となって跳ね返ってくる様を、わしは何度も見てきたよ」

「見たばかりでなく、味わったこともおありのようだ」

「長生きしたぶんだけ、な。ゆえに考えねばならぬ。わが生涯を、五百余りの星霜を通してただの一度もなかったことが、何故いま、この機に於いて起こったか。ものごととは連鎖する。ヌシの出現もひょっとして、何か更なる大きな事態の前触れではなかろうか。とすれば、その本命(・・)が起きたとき、ヌシの存在のあるなしで結末が真逆になるやもしれぬ。かきたくないのう、吠え面は。……」

 

 ハラファラの声が、だんだん小さくなってゆく。

 それに合わせて周囲の景色も彩度を欠いて、ついには新月の夜さながらになった。

 

「思索にはしょせん限界がある」

 

 ぱん、と。

 干しぶどうみたくしわがれた掌が、意外に溌溂とした音を立てて打ち鳴らされた。

 

「その限界に、わしは達した。ならばどうする、決まっておろう、直接(つら)を合わせるのみよ」

「面を合わせて言葉を交わすに如くはない、と」

「その通りさね。だからこその、現況である」

「して、成果はいかがです」

「上々といってよかろうよ。わしの心は固まりつつある。あとひとつを得て完全となる」

 

 腰のあたりに溜まっている血が、一気に冷えた。

 過度の緊張の効能だ。おそらく次のやりとりこそが、自分の命運を余儀なく決する。それが察せた。ペルネは、奥歯を噛み締めた。

 

「答えておくれ、ヌシは結局、何処からやって来たのかえ?」

「――」

 

 すっとぼけるのは自殺行為だ。

 この老婆は間違いなく確信している。自分と同じく、ペルネもまた、生まれる前から継続した自我を有する特異体だと。

 

(喋るしかない)

 

 だが、問題は、どのようにして伝えるか。

 太陽系第三惑星地球を故郷としています、と言ったところで何が何やらちんぷんかんぷんに違いない。冗長なのも論外だ。求められたは「あとひとつ」。相手の常識に則って、一撃で、闇夜に電光はためくような理解を齎す切り口は――。

 

 一秒にも満たない刹那のうちに、夥しい数の言葉がペルネの脳裏を駆け巡り、そしてひとつに収斂された。利き腕をそっと持ち上げて、

 

「蒼穹から。――」

 

 頭上(まうえ)を指差し、告げたのである。

 

「蒼穹、とな」

 

 そして即座に後悔が来た。

 

 真顔なのである。

 

 老婆の貌から微笑が抜け落ちるのを、思えばペルネは、これまで一度も見ていなかった。

 

「月ではなく、か。夜空を(めぐ)る、十字からではないのだな」

「その、更に向こうの星羅より」

「ならばよし」

 

 何がいいのか、ペルネにはまったく理解できない。

 ただ、老婆の口の両端が再び柔和に緩んだことは確かであった。

 

 

 

 次に気付くと、ペルネの身体は元のまま、みすぼらしい監視小屋にたたずんでいた。

 

 独りである。周囲に人の影はない。下を見た。地面がむきだしになっている。自分以外の足跡も、あの奇妙な螺旋の形も、どこにも残っていなかった。

 

(白昼夢――「狐狸に化かされる」感覚とは、なるほどこういうものであったか)

 

 むかしばなしの登場人物に己を擬した。

 半ば無理矢理、やけっぱちの所作であったが、少しは呼吸が軽くなった。

 

 ふと思い立ち、手の甲をぺろりと舐め上げてみる。

 

(塩辛い。……)

 

 その塩辛さが、単なる汗の味なのか、それともしこたま潮風を浴びた所為なのか。

 ペルネには、むろん判別不能なことである。

 

 遠くの梢で、鳥が遠慮がちに鳴きだした。

 

 

 



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