シニア級〇年目のライスと朴念仁系お兄さまと時々同期や後輩の話 作:ブルーペッパー
12話へ感想いただいた方々には、3章終わりしだい返したいと思います。
ハーメルンの仕様をよく分かっておらず、夜遅くに通知が届いたようでしたら失礼しました。
ジャパンカップ。
正式名称はもっと長いが、おそらく皆がこの名で呼ぶ。
世界に通用するウマ娘を育てることを目標に掲げ、その実力を確かめるための国際招待競走だ。
その権威はいわゆる八大競争の枠外ながらも同格の扱いとされ、世界各地からこのレースに出るために来日するウマ娘陣営も多く注目度は極めて高い。
未だ高い壁とされる海外のウマ娘と競うことは日本のウマ娘にとって栄誉であるし、勝つことが出来れば英雄視されても大げさではない。
つまるところ、女帝たらんとするエアグルーヴが走る舞台にはピッタリであった。
(風もなく穏やかな晴れ。バ場の状態も良い。コンディションもしっかりと整えてきた……)
深く息を吸うと、冬の冷たい空気が身に染みた。
整備員の尽力によって整えられた青々とした芝に、エアグルーヴは力を十全に発揮できると確信する。
敬愛する生徒会長、シンボリルドルフが勝利し日本ウマ娘の実力を世界に示したレース。皇帝と呼ばれるかの三冠バに続かんと、エアグルーヴは燃えていた。
さらに天皇賞(秋)で自分を下したマチカネタンホイザも出走している。リベンジの意味も加わり、エアグルーヴのやる気は絶好調であった。
(今度こそ勝つ。最強のリギルに所属するものとして、私が目指す女帝にふさわしいウマ娘になるために!)
傍から見れば気負い過ぎとも思えるが、常に理想高く己を律している自分にとってはこれくらいの重圧の方が力を発揮できると自覚していた。
もっとも、
「おお! 紅葉の季節を逃してしまったと嘆いていたが、こんなにも美しい華がターフに咲いているとは! 出走した甲斐があるというものだ!」
世界とは、そんな彼女の都合などお構いなしに回るものである。
珍妙なことを言い出すウマ娘を怪訝な目を向けるが、相手はお構いなしだった。
「麗しきアイシャドウの君。どうか名を聞かせて欲しい」
「なんのつもりだ貴様……」
「ああ、日本では先に名を名乗るのが礼儀だったか?
では名乗ろう! 私こそ、君という華に会うため遥か海の向こう、欧州より馳せ参じた蝶! その名もピ『ゲート準備が完了しました。出走準備に入って下さい』……おやなんともタイミングが悪い。
いいだろう。まずは名より走りを焼き付けるとしよう。ではまた、ゴール板の向こうで語り明かそう、麗しきアイシャドウの君!」
言いたいことだけ言ってそのウマ娘はゲートへと向かって行った。
「なんだったんだあいつは……」
興が削がれる思いだった。頭を振って雑念を払い、今一度レースへの闘志を燃やす。
そして、
『内を走るエアグルーヴ! 並びかけてきた! 先頭は欧州からの刺客! 今、エアグルーヴが並んで、並んで………外からマチカネタンホイザだ!
秋の天皇賞に引き続き物凄い末脚! 三人が横並び!』
それは天皇賞秋は決してまぐれではないと証明する走りだった。
海外勢と走るこの大舞台。出る以上は皆祖国の代表であろうとし、プレッシャーから差はあれど萎縮するもの。
しかしマチカネタンホイザの走りはそんな重圧を感じさせない、力強い走りだった。彼女を支えるのは経験、エアグルーヴや海外の名バたちがどれほどの人脈や金銭をかけても手に入らない、長く走り続けた故に彼女が培ってきたものだ。
コースの特徴を調べ、競争相手を調べ、対策を講じてトレーニングで実践して修正する。足りないものを積み上げ、弱点を克服する。当たり前のことを当たり前に、腐ることなく積み上げてきた。
そんな彼女だからできる走り。
どんなレースでも、コースでも、相手でも、彼女の走りはブレることなく積み上げたものを十全に発揮する。
『エアグルーヴか、マチカネタンホイザか、それとも……ああタンホイザだ! マチカネタンホイザ抜け出した! 他の二人は追いつけるか!?
残り200m! 先頭はまだマチカネタンホイザ!
今、マチカネタンホイザが一着でゴール! マチカネタンホイザが、海外勢を抑えてジャパンカップを制しました!
秋の天皇賞に続いてGⅠ二連勝! 秋シニア三冠へ王手をかけました!』
エアグルーヴは三着。天皇賞(秋)に続いてマチカネタンホイザの末脚に差し切られ、レース前に素っ頓狂なことを言ってきた海外ウマ娘にも負けた。
侮ったつもりはない。レースにも集中できた。それでも届かなかった。
(認めるしかない。彼女は強い……!)
長く走り続けるウマ娘というのは、結果が出せずもがいているものが多い。しかし彼女は違う。積み上げてきた努力が、培ってきた経験が、今マチカネタンホイザの全盛期となって花開いたのだ。
エアグルーヴは夢である女帝という高みに目指すうえで乗り越えるべき壁として認識する。
次こそはと闘志を燃やす。
「いやいや大輪の華に見惚れるあまり、野に咲く花を見逃すとは。私もまだまだだな」
「…………おい」
「何かな麗しの君」
「何故私の肩に手を回している?」
「敗北に悲しむ君へ手を添えているのだ。君が悔し涙を流した時誰がその真珠を掴むと思う?」
「誰が悲しむか! 泣くか! むしろ、超えるべき相手が出てきて闘志を滾らせているところだ」
「素晴らしい! やはり君は私が見惚れた通りのウマ娘だ! 我が審美眼に狂いはなかった!」
「おい待てやめろ。腰に手を回すな手を取るな跪くな手の甲に口づけしようとするな!
なんなんだ。何を考えているんだ貴様!」
「率直に言おう。アイルランド国籍に興味ない?」
「あるかたわけ!!」
◆
マチカネタンホイザのジャパンカップ勝利という大金星、GⅠ二勝目、日本総大将の文字列がメディアを賑わす裏で、私たちチーム・マルカブもまた順調に勝ち上がっていた。
グラスとエルは圧勝したデビュー戦に続けてOP戦を勝ち上がり、重賞への出走を決めた。
グラスは翌年のクラシック級を占うGⅠ朝日杯フューチュリティステークスの前哨戦となるGⅡデイリー杯ジュニアステークス、エルはジュニア級を締めくくる最後のGⅠホープフルステークスへと繋がるGⅡ東京スポーツ杯ジュニアステークスへと出走。
もとより同期の中でも素質が頭一つ抜けた二人だ。夏の合宿を乗り越え、デビューからOP戦と実践を積んだ二人に敵うウマ娘はおらず、危なげもなくGⅡ勝利を掲げた。
ライスも復帰からのGⅡ連勝や天皇賞(秋)の好走が評価され、一年の締めくくりとなる有馬記念への出走が決まった。
これでチーム・マルカブのメンバー三人全員が、冬のGⅠへ出走することとなる。
まず最初に走るのはグラス。ジュニア級王者を決める朝日杯フューチュリティステークスだ。
「トレーナーさん、どうでしょうか私の勝負服は」
十二月、阪神レース場。
控室で着替え終わったグラスがくるりと一回転した。
夏合宿の頃からデザインを考えていたが、ついに今日でお披露目となった。
いや、正確にはフィッティングやレース前のインタビューで何度か見ているが、公式なレースの舞台で見るのは初めてだ。
青と白を基調としたセーラータイプ。グラスのおしとやかさを表しながらも、明るい色合いで少女らしい活発さも押し出している。
「似合っている。素敵だよグラス」
「ありがとうございます」
グラスがたおやかに微笑んだ。しかし、すぐに真剣な表情へ変わる。
「トレーナーさんのおかげでついに着ることができた勝負服です。このご恩に報いるため、粉骨砕身の想いでレースに臨みます」
「本当に想いだけで頼むよ。
あと、気負い過ぎないように。今日はGⅠ、これまでとちがって出走するウマ娘は全員ジュニア級を勝ち上がってきた選りすぐりだ」
出走者は十二人。グラスが競ったことがあるウマ娘もいるが半数近くは初めて。その半数とはグラスとは別のレースで勝ち上がり、GⅠ出走を決めてきたウマ娘なのだ。
「ふふ、分かってますよ。でも本気で臨むのは本当です。今日勝って私は……私が」
ちらり、とグラスが応援のため一緒に来たライスたちの方を見た。
「トレーナーさんの……いえ、チーム・マルカブ今年最初のGⅠを、トレーナーさんに捧げます」
瞳に炎を宿し、ターフへ向かうグラス。
彼女の残した闘志の熱気が、私たちの間で渦巻いていた。
「ヒュー! 聞きましたかライス先輩。グラスってば、初めてをトレーナーさんに捧げるそうデスよ」
「変な言い方するんじゃないよ。……グラス、やっぱり気負い過ぎてるかな」
「ううん。あれは良い方に働くと思うよ。……それよりもお兄さま」
「ん? なにかな」
「グラスさんの言うとおり、勝てたら今年チーム初めてのGⅠだね」
「まあそうだね」
「お兄さまの初めてのGⅠはライスの菊花賞だけど、グラスちゃんにとっては初めてのGⅠだよね」
「うん………うん? まあ、そのとおりかな」
何か、妙な圧のある一言だったぞライス。
「勝てたらグラスさんにご褒美あげないとね」
「ああ……まあその通りかな。しかしご褒美か……」
何がいいだろう。日本文化が好きというから和菓子とか?
阪神レース場近くに有名処があっただろうか。
学園に戻る途中で探してもいいが、折角関西圏まで来たのだからその圏内の方がいいだろう。
「物でも嬉しいけど、絶対にグラスさんが喜ぶものがあるよ」
「本当? 教えてくれないかなライス」
「それはね、お兄さまが思いつく限りのたっくさんの誉め言葉だと思うよ!」
「それは……」
贈り物を考えるよりも難しく、ちょっと気恥しいご褒美だなー。
◆
(……七番、グレイトハウス……八番、デュオシパルー……九番――)
グラスワンダーのレース前のルーティン、出走者の名前を心中で復唱していく。
名を上げるたび、このウマ娘に勝つのだと闘志が沸く。事前に研究した相手の情報が再生される。
気持ちがレースへの集中していく。弓が引き絞られるようだ。
(これは私がこの道を究めるための一つの分水嶺……)
もはやGⅠで才能だの天性の素質だけでは通用しない。この場に立つ以上、誰もが相応のものを持っているのだから。差があるとするなら、道を共にすると誓ったトレーナー。
(そして、チーム・マルカブの力を証明する場……!)
GⅠ勝利はウマ娘だけの栄光ではない。GⅠ勝利へ導いたという実績がトレーナーに与えられる。
ウマ娘の実力の証明に加えて。トレーナーの指導力が優れているという証左でもあるのだ。
――――君を、グラスワンダーを一番強くできるのは私だと思った。
(証明して見せます。トレーナーさんの言葉を。そして……)
貴方の期待に応えて見せる。
改めて胸に誓いを立て、グラスワンダーはゲートへと入る。
ファンファーレが終わり、風の音だけが耳に響く。
そして、ゲートが開かれた。
流石はGⅠ。流石は勝ち進んできたウマ娘たち。一切の出遅れなく十二人が横一列に飛び出した。
真っ先にハナを取りあう逃げウマ娘が二人。その後ろを位置取る先行勢が五人。中団に待機しようとするのはグラスワンダー含めて四人。後方に控える追込が一人。
「……くっ!」
早速、GⅠの洗礼がグラスワンダーに襲い掛かる。
先行集団の後ろにつけた彼女の位置を奪おうと二人のウマ娘がプレッシャーをかけてきた。
グレイトハウスとデュオシパルー。グラスワンダーと同じく差しを得意とするウマ娘だ。
朝日杯FSは1,600m。マイルであり瞬発力が求められる以上、彼女たちも少しでも前の位置を欲しがっていた。
小柄なグラスワンダーなら位置を奪えると思ったか。グラスワンダーは競ってくる二人の動きを見て内に火が灯るのを自覚した。このまま位置争いを制して見せると意気込みかけて、
(いけない。また熱くなっている……!)
寸でのところで冷静さを取り戻した。
トレーニングでもよく言われたことだ。自分は勝負事で熱くなりすぎる。闘争心を持つことは大事だが、冷静さを失ってはいけない。
冷えた頭で考える。この位置を死守することと、下がって控えること。どちらが有利か。どちらが敗北につながるのか。
(答えは……)
グラスワンダーが下がり、他の二人に位置を譲り渡す。三人から二人に減ったところで、さらに位置争いをしていた。
それだけ激しく動いて、終盤の脚は残るのだろうか。
その答えはレースの後半を過ぎたところで見えてきた。
二番手集団が逃げを捕えようと動き出す。中団以降に控えていたウマ娘たちも後を追うように動き出すが、位置取り争いをしていた二人の動きが鈍い。
明らかにペース配分を間違えた。いや、これまでのレースではそれでも勝てたのだろう。自分に優位な位置を取り、終盤差し切るパワーがあった。しかしこれはGⅠ。自分だけが突出しているわけではないということを失念していたのだろう。
脚を溜めていたグラスワンダーは余裕をもって二人を超えていく。
先頭が最終コーナーへ入る。グラスワンダーも後を追うが、ちょうど先行組の一人が彼女の道を塞ぐ。
(この方、位置取りが上手い……!)
自身の優位は逃さず、かつ後続の最短ルートを塞ぐ走り。見事な技巧だと舌を巻いた。
しかし、
(道は一つではありません!)
最短、最速、最高効率。求めることは大事だが、固執してはいけないことも学んできた。
入れないと判断するとグラスワンダーはあえて外側へと向かう。
外に膨れる形でコーナーへと入る。
周りからは距離をロスするコースをわざわざ選んだように見えるだろう。
しかし、このロスを覆すだけの武器をグラスワンダーは持っている。
(ここから――!)
踏み込んだ足が沈み、芝の下の土ごと掻き上げる豪脚。グラスワンダーがスパートをかけた。
背後から聞こえた爆発音にも似た何かに、振り返ったウマ娘は面食らっただろう。
鬼気迫る顔のウマ娘がもの凄い速度で上がってきたのだ。しかも一人ダートコースを走っているのかと思うほどの土煙を上げて。
その猛加速を見て沸く歓声を浴びながら、グラスワンダーは一気に先頭へと躍り出る。
残り200mを切って、二番手との間もセーフティリードだ。
ここまで最後方から追込みが来る様子もない。勝負は決まった。普段ならば脚への負担をかけないようペースを落とすところだろう。
しかし、
「まだ――まだ!」
あえてグラスワンダーはペースを落とさない。
自分の力を見せつけるように、これがグラスワンダーだと観客の脳に焼き付けるような加速でゴール板を駆け抜けた。
掲示板に点灯する自分の番号。二着との差は二バ身半。そして表示されたタイムに、観客が再び喝采の声を上げた。
「レコードタイム……!」
表示されたタイムは、過去の朝日杯フューチュリティステークスの記録を零秒四上回るものだった。
誰もがグラスワンダーの実力を認める成果だった。
まだジュニア級とはいえ、大舞台GⅠの勝利とレコード更新。二つの偉業を成し遂げた少女に、惜しみない拍手喝采が向けられた。
打ち震えながらも客席に向けて礼をするグラスワンダーに、観客はさらに沸いた。
◆
グラスの勝利を見届けた私たちチーム・マルカブは地下バ道で彼女の帰りを待っていた。
未だ彼女の勝利を称える声は止まず、地下バ道までその興奮が伝わってくる。
「凄い歓声デス。まだ次のレースがあるとはいえ、もうグラスたちは退場しているのに……」
「これがGⅠさ。もっともジュニア級だからまだ大人しい方かな。クラシック級やシニア級のGⅠだともっと凄いよ」
「これより……もっと……」
信じられないといった様子でエルが天井を見上げる。その瞳には自身が大舞台に立った時の想像をしているのだろうと思うとほほ笑ましい。
やがて、グラスの姿が見えた。
「ほら、お兄さま」
「あ、ああ……」
ライスに押されて一歩前へ。
グラスもちょうど私の前で足を止めた。彼女の顔はレース終わりの疲労と興奮で紅潮し、上下する肩からは熱い蒸気が上がっていた。当たり前だが、激走だったと分かる。
「GⅠ勝利おめでとうグラス。しかもレコード勝利だ」
「ありがとう……ございます」
息を整えながらの返答だった。
「前のレコードはね、チーム・マルカブにいたウマ娘なんだよ」
「そうなんですか……!? あ、いえ、すみません。先輩の記録を知らないなんて……」
「気にしなくていいよ。先代……私の師匠がチームを率いていた時代の話だ。それを私の担当するウマ娘が塗り替えるなんて、誇らしいよ」
「そんな、もったいない言葉です……」
「レースも冷静に展開できたのがよかった。位置取り争いも熱くならず冷静に下がれたのは良い判断だったね。あれで後半の脚を残せた」
「はい……」
「コース取りも、無理に最短を取らず視野を広く持てたね。トレーニングで学んだことをしっかり活かせていた」
「光栄です……」
「それもあって最後は素晴らしい末脚だった。やっぱりグラスは凄いウマ娘だよ」
「…………」
「GⅠの大舞台で舞い上がったり緊張したりで普段の力を出せない子もいる。だけどグラスはしっかりと力を発揮することができた」
「あの……」
「誰にでもできることじゃない。グラスはやっぱり――」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
止められた。
心なしかグラスの息が先ほどより荒く、赤みも増した気がする。
「ごめん、まずは休んだ方が良かったね。ドリンク飲むかい?」
「い、いえ大丈夫です……しかし!」
キッ、とグラスが顔を赤くしたまま上目づかいで睨んでくる。
「な、なんですかなんですか!? 突然褒め殺しなんて……! 普段はそのようなこと言っては……」
「ふふふ、ゴメンね。ライスのせいなんだ」
「ライス先輩……?」
「ライスがね、グラスさんが一着になったらいっぱい褒めてあげてって。それがグラスさんのご褒美になるよねって」
「そ、そうなんですね。もう……驚きました」
パタパタと手で顔をあおぐグラス。
その様子を見てはライスは優しく笑い、エルはニヤリと口元を歪めて笑う。
「グラス、照れてるデス!」
「て、照れてません」
「本当デス~? 褒めてもらって嬉しくなかったデスか?」
「嬉しいですよ当然。……ただ、ご褒美をくれるというのなら……」
ちらり、と今度は迷うような目でグラスがこちらを見てくる。
「何か欲しいものがあったかな?」
「物じゃないんですが……その……ライス先輩と同じように……」
言い切る前に、グラスがしぼむように口を閉じてしまった。
……ライスと同じ? ライスにご褒美と言って何かした覚えはない。少なくともグラスとエルをスカウトした後にはなかったはずだ。
考えていると、ライスが思いついたように私の袖を引っ張る。
「お兄さま、秋の天皇賞のことを言ってるんだよ」
「秋天? 確かあの時は……」
負けたライスに、無事に帰って来てくれたライスを、確かこうして。
「ひゃあ!? ち、違いますハグじゃないです! その……頭を撫でて欲しいな、と」
「ああそっちか。……じゃあ」
よかった。流石にハグだと気恥しかった。
要望通り、グラスの頭を撫でる。さらさらとした栗毛の髪。ライスとは少し違った手触りだった。
「ん……」
「いいなーグラス。トレーナーさん! エルも勝ったらお願いしマス!」
「気が早いな。いいけれど」
「あ……」
手を頭から離すと少しグラスが名残惜しそうに声を漏らした。
しかし次のレースもある。いつまでも地下バ道にいるわけにもいかない。
「グラスもウイニングライブがある。まずはしっかり休もうか」
「はい……」
「大丈夫グラスさん? ライス、肩貸そうか?」
「大丈夫ですよライス先輩」
控室へ向かうグラスの足取りが遅いことを気にかけてライスが言った。
ライスの視線はグラスの脚を向いている。
最後の加速、あれで脚にかかった負担を気にしているのだろうか。
「後で触診してみるけど、痛みが出たら真っ先に言ってね」
「はい。お約束します」
戻った控室で触診するが特に異常は感じられなかった。
とはいえ念には念を入れて明日の検診を予約しておく。
その後、最終レースの後はグラスのウイニングライブで盛り上がり、ホテル近くの料亭で存分に彼女の勝利を祝った。
そして、
「っ! 足が……!?」
勝利の余韻を吹き飛ばす朝が来た。
◆
「右脚の骨折ですね」
予約していた病院にて、非情な診断が伝えられた。
「完全に折れているわけではありません。症状としては小さな亀裂がありました」
「亀裂……。ではレースに問題は……!」
縋るようなグラスに、眼鏡の医師が首を横に振る。
「程度として軽いと思うでしょうが、骨折は骨折です。中途半端な状態ではまた折れますし、癖になってしまいます。歯痒いでしょうが完治するまで療養をお勧めします」
「完治までにはどれくらいかかりますか」
「個人差があるので絶対とは言えませんが……早くても二ヶ月、大事を取るなら三ヶ月でしょうか」
「そんな!!」
思わず立ち上がりかけるグラスを抑える。とはいえ彼女の焦りも分かる。
今は十二月。二ヶ月後にはクラシック三冠に向けた前哨戦が始まり、三ヶ月後となれば一つ目のGⅠ皐月賞も目の前だ。
さらに二ヶ月間の療養となればレースのための筋力は確実に衰える。いや筋力だけでなく、これまで培ってきたレース感もさび付くだろう。
生命や日常生活に支障はないケガだったが、グラスのレース人生には大きな影を落とすだろう。
「なんとか……なんとかなりませんか?」
「グラス。無理を言うものじゃないよ」
「ですがトレーナーさん!」
「大丈夫だから……」
言っておいて無責任だなと思った。
何が大丈夫なのだろう。私に医師の診断を覆すような知識も技術もない。医師の言う通り彼女を安静に療養させるしかない。あえて何かできるとするなら少しでも体が衰えないようケアするだけだ。
ライスの時と変わらない。私たちトレーナーは、ウマ娘たちのケガに対して余りにも無力だ。
医師へ礼を言って診察室を出る。グラスが右脚を変にかばわない様に肩を貸す。
廊下に出ると、すぐにライスとエルが駆け寄ってきた。
「お兄さま、グラスさんの脚は……?」
「亀裂があるそうだ。二三ヶ月は療養になる」
「そんな! じゃあクラシックは……!」
エルの言葉に返すことができない。
諦めるしかないのだが、言葉にしてしまえば最も傷つくのはグラスだ。
無意味かもしれないが今は黙るしかない。
私の沈黙の意図を察してくれたのか、エルもそれ以上何も言ってこなかった。
待合室まで戻って空いた席に着くと周囲から視線を感じた。
周りの患者やその家族がグラスを見ている。昨日のGⅠ勝利は早速朝刊やネットニュースによって広まっており、多くの人がグラスの顔を知っていた。
そのウマ娘が病院。詳細など知らずとも、察することはできるだろう。
「みんなは先に外で待っててくれるかな? エルはグラスを支えて……」
「大丈夫です」
「だけどグラス……」
「お気遣いありがとうございます。でも、私は大丈夫ですから……」
歯を食いしばり、絞り出すようにグラスが言った。
大丈夫とは思えないが、今は彼女の言葉を否定する真似は避けたかった。
「分かった。でも辛くなったら遠慮なくいってほしい」
「はい……」
「ライス。ちょっと学園に連絡を入れてくるから見ててくれないかな」
「うん。わかった」
スマホを片手に通話可能スペースへ向かう。
背を向ける直前、ライスと一瞬だけ目が合った。
大丈夫だよ、と彼女の口が動いた気がした。
◆
「私の不徳の致すところでした……」
トレーナーの背中が見えなくなったところで、グラスワンダーが絞り出すように呟いた。
彼女は俯き、ケガした右脚をジッと見ていた。両手は固く握りしめている。
「最後のスパート。あれが脚に大きな負担を強いたんです」
「グラスさん……」
冬で冷えた地面は固い。レース終盤でダメ押しとばかりにした加速の衝撃は芝で受け止め切れず、自身の脚を傷つけたのだろうとグラスワンダーは推察した。
「私が、自分の力を誇示するための行いがケガを招いた。自分の軽率さが一番許せない……」
「レースでのケガは事故みたいなものだよ。誰かにぶつけられたわけでもなければ、誰が悪いなんてことはないんだよ」
「ですが、世間はそうは思わないでしょう。私のケガの責任は、トレーナーさんへ向かうのでは?」
「それは……」
ケガをしたウマ娘を非難する者はいない。しかしトレーニングのケガの場合は非難の矛先がトレーナーに向かうことが多い。
ミホノブルボンのトレーナーである黒沼も、そのスパルタ故に彼女がケガした際はかなりメディアに叩かれたという。
トレーナーを同じ目に会わせてしまうと、グラスワンダーの思考が自己嫌悪の渦に沈んでいく。
「トレーナーさんのために、チームのためにGⅠを獲ろうと努力してきました。しかし、私のせいでトレーナーさんを困らせてしまった。本末転倒です。こんな、大切な人を困らせてしまう私なんて……」
「……じゃあ、走るのなんてやめちゃう?」
「……………………え?」
「ケッ!? ライス先輩!?」
声を上げるエルコンドルパサーを片手で制したライスシャワーがグラスワンダーの前に立つ。
跪いて、俯くグラスワンダーの顔を下から覗き込んだ。
「ウマ娘はみんな走るのが好きだけど、レース以外をしちゃいけないなんてことはないんだよ。走る以外でウマ娘が働く道はいっぱいある。レースに関わっていたいのならサポートスタッフになるための学科もトレセン学園にはあるし、コース整備やデザイナーになったり、大変だけどトレーナーを目指すウマ娘だっている」
呆気に取られるグラスワンダーをジッと見つめてライスシャワーが続ける。
「お兄さまは許してくれるよ。レースを辞めた後も、グラスさんがやりたいことをやれるよう精一杯協力してくれる。……ケガは怖いもんね。ライスもケガした時、お医者様からもう走れないかもって言われてとても辛かった。歩けるようになるためのリハビリも、元通り走るためのトレーニングも苦しかった。グラスさんに同じような目に会うかもしれないけど頑張れなんて、ライスは言えない」
それは慰めではなかった。同情でもなかった。
ライスシャワーは淡々と今後取れる選択肢を上げていく。
ウマ娘としてGⅠ勝利の栄光と、大怪我という挫折を味わった彼女だから伝えられる言葉だった。
「きっと似たようなことはこれからもあるよ。
勝ち目のないライバル。突然のケガ。思い通りにいかないレース。挫折、遠のく夢、理想と現実の差、自信を無くして、もう自分なんてって思うこともある。二人が入ってきたのは、そういう世界なんだよ。十数人が走って、栄冠を取れるのはたった一人。それも何度も何度も、何年も何年も続けていく。メイクデビュー、OP戦、重賞、そしてGⅠ。グラスさんたちは無敗で勝ち上がってきたけど、それはいつか終わって負けた側に行くこともある」
グラスワンダーとエルコンドルパサーの脳裏に蘇るのはメイクデビュー。自分たちは勝って喜んでいたが、一方で負けた他のウマ娘たちはどうだったか。俯き、肩を震わせ、涙する者もいた。笑うのは自分一人で、他の者たちは苦渋を飲んでいた。
いつか、自分たちもあんな思いをする日が来るのだろうか。
「そうなった時、あなたたちは同じ選択を強いられる。
目指した理想への道が狭まった時、描いた夢の閉ざされてと思うたびに。
……その時、二人はどうする?」
紫水晶の瞳は変わらずグラスワンダーを見ていた。しかし、その言葉はエルコンドルパサーにも向けられていた。
そしてそれは先達としての助言ではない。発破、檄文、つまりは挑発だった。
――――私は選んだぞ。走り続けることを。
――――私は選んだぞ。あの人のそばに立ち続けることを。
負けて、傷ついて、倒れて、挫けて、絶望して、泥にまみれて、目の前は真っ暗になって。
それでも私は夢を選んだ。大切な人を笑顔にする道を選んだのだ。
君たちは、どうする?
澱みのない瞳には、炎が宿っていた。
どんな暴風でも、どんな冷たい雨の中でも、折れず咲き続けるバラのように青い炎。
そんな視線に充てられて、グラスワンダーは胸の奥が疼くのを感じた。
痛みではない。チリチリと焦がすようなこの感覚は間違いなく。
「走ります……」
気づけば呟いていた。
胸の奥からこみ上げる衝動のまま、答えを出していた。
まだ、自分に誇れるものを残せていない。あの人に胸を張れる成果を出せていない。
このまま傷になるくらいなら、自分は――
「私はまだ走ります――!」
「ん、分かった。じゃあ頑張ろうね」
もう大丈夫だと確認し、立ち上がるライスシャワー。
グラスワンダーの瞳には、自分から移したように炎があった。
それでいい。
迷うことも、挫けることもあるだろう。一度足を止めたってかまわない。
ただ、熱さえあれば私たちは走り出せるのだから。
「うう~なんかよく分かりませんが、ライス先輩はグラスを慰めてくれたんです?」
「んーどっちかというと背中を叩いた感じかな?」
「ええ。しっかり叩かれました。もうバシッと、痕が残るくらい」
「ケッ!? い、いつからマルカブはそんな熱血スパルタチームに!?」
「あらあら、どうしますかライス先輩。エルには伝わっていないようですよ?」
「急ぐことじゃないよ。エルさんもいつか伝わると思うし」
「そうですか。では私の方から」
「ケッ? も、もしかしてかわいがりというやつですか……?」
「違いますよ。手を出してください」
言われるがまま手を出し差すエルコンドルパサー。
グラスワンダーはその手をそっと握る。
「私はしばらく走れません。だからこの想いを、一時あなたに預けます」
「グラス……」
自由になった手をエルコンドルパサーはジッと見つける。
変化はない。しかし僅かな熱を帯びていた。
グラスワンダーの掌の熱だけではない。彼女の言う、想いが宿ったために帯びた熱だ。
その熱は手を伝わり頭へ、胸へ、脚へ。エルコンドルパサーの芯を燃やしていく。
「うん……うん!」
グラスワンダーの勝利の熱、故障という痛み、悔しさからくる熱。
プラスの感情とマイナスの感情。それぞれが燃料となってエルコンドルパサーに注がれていく。
「グラスの想いはきっちりと受け取りました!」
最強を目指す少女へ、勝ちたい理由が一つ増えた。
飛び立つ先はジュニア級中距離の覇権、ホープフルステークスだ。
不死鳥と呼ばれる彼女の話を書く以上、このイベントは避けられませんでした。