シニア級〇年目のライスと朴念仁系お兄さまと時々同期や後輩の話 作:ブルーペッパー
タグにR-15追加しました。
特にそういうシーンのつもりはありませんが、見方によってはそう思う方もいるかも?ということで念のためです。
その異変は、こともあろうに皐月賞当日の朝に起きた。
朝から移動と最後の仕上げの準備をしていた私のスマホが鳴った。電話はエルからで、慌てた彼女から聞かされたその内容に私は飛び出すように駆け出した。
美浦寮の前で外で待っていたライスと合流、押しかけようとするも玄関でヒシアマゾンに止められた。やきもきしながら待っているとやがてエルに肩を預けたグラスが降りてきた。
彼女の左足は腫れていた。
「トレーナーさん……」
申し訳無さそうに呟く彼女を談話室横の椅子に座らせ、触診する。
「骨膜炎か……」
ソエとも呼ばれる、骨に起こる炎症の一つだ。主に骨が化骨しきっていない若いウマ娘が過度なトレーニングをしたことに起こると言われる。
十二月にグラスが骨折したのは右脚だ。無意識にそちらを庇い、逆の左脚に過負荷がかかったのか?
昨日までは異常は見られなかった。表に出るギリギリのところで、疲労が日を跨いだ瞬間に噴出しただろうか。
どうして、よりにもよってこのタイミングで……!
「……トレーナーさん」
グラスが絞り出すように口を開く。
「私、走れます……!」
「グラス……」
「皐月賞は十一レース、パドックの準備があるとしても午前一杯は時間があります。アイシングして痛み止めを飲んでギリギリまで休めば……!」
「ちょっと待ちなグラス、無茶なこと言うもんじゃないよ!」
「皐月賞なんです! 一生に一度しかない、クラシックなんです……!」
悲痛な叫びに流石のヒシアマゾンも二の句が継げない。
グラスの言う通り応急処置でなんとか出走までもっていくことは可能だろう。末脚は鈍るかもしれないが、そも彼女のポテンシャルを考えたら好走できるかもしれない。
しかし、確実に彼女の選手生命は終わるだろう。
一生に一度のレースに出るために、その後の一生を棒に振らせる判断など私にはできない。
「……グラス」
なんと言えばいい。無情に諦めろと告げるか、次があるさと無責任に慰めるか、すまないと無意味な謝罪をするのか。
思考するうち、無意識に固く握りしめた彼女の手に己が手を重ねていた。
グラスの青い瞳と目が合った。それだけで、聡い彼女は私の想いを察したようだ。
「ああ……ああぁ!!」
端麗な顔が歪み、しわくちゃになった目から熱いものが零れていく。
身を震わせ嗚咽を漏らし、私にしがみ付いてくる少女を、私は静かに抱きしめることしかできなかった。
◆
『最後の直線に入った! セイウンスカイ、セイウンスカイが先頭だ!! 猛追するキングヘイロー、スペシャルウィークは追いつけるのか!?
残り200m! 先頭は変わらず! キングヘイローが迫るが、届かない!
逃げ切った、逃げ切ったぞセイウンスカイ! 皐月賞を制したのはトリックスター、セイウンスカイだ!!』
割れんばかりの歓声が中山レース場を揺らします。
まさに熱戦、激戦、最後まで目を離せないレースでした。
いつもは飄々とした態度のセイウンスカイさんが満面の笑顔で手を振り声援に応えています。
二着に敗れたキングヘイローさんも表向きは毅然として態度を崩しておりませんが、デジたんには分かります。悔しい気持ちがいっぱいだけど自分が志す一流の姿を保とうと歯を食いしばっているのです。
三着のスペシャルウィークさんはいつもの天真爛漫さが鳴りを潜めて自分の力不足を痛感したような悲しそうな表情です。
……何故でしょう。どれもこれも大好きなウマ娘ちゃんの尊い姿なのに、これっぽっちも興奮できないのは。
「……もしも」
あたしの呟きに、一緒に見に来ていたライス先輩とエル先輩がこちらを向きます。
「もしも、グラス先輩が出ていたら……」
「ダメだよデジタルさん」
あたしの妄言を切ったのはライス先輩でした。
「考えるのは仕方ないかもしれない。でもそれを言葉にしたり、誰かに答えを求めちゃダメ。
それは勝ったスカイさんにも、勝てなかった他の子にも、出ることを止めたグラスさんにも失礼だから」
「そう、ですよね……すみません変なこと言って」
先輩の言うとおりです。セイウンスカイさんが勝ったのは間違いなく彼女の努力と奮闘によるもの。それに水を差すなんて……デジたん、反省。
「ま、まあまあ二人とも、重たい話はそこまでデス! 残りのレースが終わったらウイニングライブ、来られなかったグラスとトレーナーさんの分も応援するデスよ!」
「そ、そうですよね! 暗い気持ちでライブを見るのも皆さんに失礼ですよね! あ、あたしペンライトいっぱい持ってきたんですけど何本持ちます?」
なんとかテンションを上げていきます。
お二人も笑顔でしたが、やはりどこかで、この場にいない二人のことを考えているようでした。
本当に、グラスさんは大丈夫でしょうか。
◆
セイウンスカイが皐月賞を制する瞬間を、私とグラスはチームルームで見ていた。
脚は病院で診てもらったが、安静にしていれば治癒する程度のため、入院はせず学園に戻ってきたのだ。
ライスたちも残ると言ってくれたが、エルやデジタルには現地でレースを直接見てほしかった。エルには今後競うであろう同期の走りを、デジタルには競技者となって改めてGⅠの空気を感じて欲しかった。
「セイちゃん、凄かったですね……」
「ああ、ミホノブルボンやサイレンススズカとは違う、レースを支配する逃げだった」
以前エルに教えた型にハメ込むなら策謀型か。
ペースをわざと途中で落とし、脚を残しつつ後ろのペースを乱した。スタミナ配分や仕掛け時を誤らせた。
クラシック級でこんな展開をつくれるとは、黄金世代の一角は伊達ではないということか。
「次は日本ダービーですね」
「……ああ」
グラスのケガは以前の骨折に比べればまだ軽い。高負荷なものさえ控えればトレーニングもすぐ再開できる。
……が、日本ダービーは一ヶ月後。グラスの快復は間に合わないだろう。
頂点を目指す少女の夢は、一時の脚部炎症という小石のような事象で塞がれた。
「グラス……」
「大丈夫ですよ、トレーナーさん。私は、大丈夫です」
涙の痕が残る顔で、無理矢理笑う彼女の姿が私の胸に焼き付いていた。
◆
気づけば日が暮れていた。
中山レース場ではそろそろウイニングライブだろうか。
「グラス……あれ?」
ソファに座っていたはずのグラスに声をかけるが反応がない。
というか、彼女の姿が見えなかった。気づかぬうちに寮へ戻ったのだろうか。
「グラス? ……うわっ!?」
ソファを覗き込んだら伸びてきた腕に引きずり込まれた。
視界が回転し、天井が見えた。背中に伝わる衝撃は革張りのソファのもの。
思考が一瞬見真っ白になるが、すぐに押し倒されたのだと気づいた。
誰に? いや、この部屋にいるのは他に一人しかいない。
「トレーナーさん……」
栗色の長い髪が私の顔をくすぐる。ベールのように垂れた栗毛の向こうにグラスの顔があった。
仰向になった私にグラスが跨っていた。普段から大和撫子たらんとするおしとやかな彼女からしたら考えられない行動だった。
「トレーナーさん……」
蠱惑的な声とともにグラスの白い指が私の腹を撫でる。腹から胸へ、そして首、顎を通って私の頬に触れた。
くすぐったい感触に身をよじるとグラスが妖しく笑い、身体を預けてきた。
グラスの頭が私の胸に置かれる。耳が動き、心臓のある位置にピトリと触れた。
「ふふ……心音、ちょっと速いです」
「どうしたんだグラス? その……珍しいね?」
「そうですね。トレーナーさんと二人きりは珍しいですね」
違う、そうじゃない。
私の意を理解しないまま、グラスの顔が上がってくる。
互いの鼻が触れ合うほどに彼女の顔が近い。
グラスのまつ毛一本一本がよく分かる。息遣いの音がやけに大きく聞こえる。
「トレーナーさん。スカウトの時、私に言ってくれたことは覚えていますか?」
「……覚えているさ」
「まだ、あの言葉は変わりませんか?」
彼女をスカウトするときに言った言葉、グラスワンダーを一番強くできるのは私だ。
その想いに変わりはない。揺らいだことなど、一度もない。
「では、証をください」
「証……?」
グラスが体起こす。右の指が私の身体を這い、スーツのボタンを外していく。
「ちょっ、グラス……!?」
「じっとしててください……」
困惑する私を無視して、グラスの左手が自分の身体を這って制服を脱いでいく。
蛇のような淫靡な舞に、体が石化したように動かない。
やがて私の衣服ははだけ、グラスも白い肌が露出する。
「刻んでください。私は、グラスワンダーは貴方だけのものだと……」
グラスの身体が再び倒れてくる。彼女の顔は私の眼前に迫る。
栗色の髪が幕の様に垂れ、視界から彼女以外が見えなくなる。
「トレーナーさん」
甘く、思考を蕩かするような声が耳朶に滲みる。
そして私とグラス、二人分の影は重なって――
「うーんなんか違う、解釈違いかな」
タブレットの上を滑らせていたペンが止まりました。
時間はすでに夜。ウイニングライブも終えて寮へと戻ったあたしことアグネスデジタルは、皐月賞とそのウイニングライブで滾ったパトスを抑えようと、迸る情念を創作により発散していました。が、いざ冷静になると心理描写がちぐはぐな気もしてきました。
削除しようかと思いましたが、すでにラフからペン入れに入りあとはトーンやベタをするだけ。かかった作業量的に消すのはもったいない気がします。
「ま、残しておいてもいいか。どうせ誰かに見せるものでもないし」
書きかけですが、これ以上進めても納得するものにはなりません。
箪笥の肥やしもといドライブの肥やしになること覚悟で保存、ペンタブの電源も落とします。
「あー皐月賞すごかったなー! ……でもなーやっぱりなー!」
ベッドに倒れこみジタバタ。
毎年見てきた皐月賞はデビューを目指す身として改めて見ると、レース場の空気やウマ娘ちゃんたちの信念が別の角度から見えました。
トレーナーさんが見ておいでと言った理由が分かります。
しかし一方で胸に渦巻くモヤモヤもまた強くなりました。
ライス先輩には釘を刺されましたがどうしても考えてしまいます。
今日の皐月賞、グラス先輩が走っていたらどうだったのかを。
「はあ~~~~~でもなあ~~~~ああ~~~」
「おやおや、随分と大きなため息だねぇ」
タキオンさんが部屋に戻ってきました。鼻を刺激する薬品の臭い。今日も今日とでタキオンさんはなにやら調合か実験をしてきたようです。
「悩みの原因は皐月賞かい? 君のチームの先輩がケガで出走取り消しになったとか」
情報が早いですね。いや、出走取り消しは公式に発表されていることなので知っていておかしくありませんが。
「……あれ? あたしチームに入っているって言いましたっけ?」
「堂々とGⅠウマ娘に混じってトレーニングをしていて何を言うのやら。まあ正式な手続きを踏んでいるようだし、無理に隠すものでもないがね」
当たり前です。ウマ娘ちゃんたちが頑張っているのに後ろめたい手段でチーム入りするとか解釈違いです。
……ってああ、話がそれてしまいました。
「タキオンさんに聞きたいんですが……」
「んー、なんだい?」
「大事なレースに当日にケガや病気をしてしまったら……どうしますか?」
「さあねぇ。その時にならないと分からない」
「ええ……」
迷いのない即答に絶句してしまいました。
「デジタル君が悩んでいるのはグラスワンダーがケガを押して皐月賞に出たらどうなっていたかということだろう? 残念だが、そんなことを考えるのは時間の無駄さ。友人の言葉を借りるのなら、ロジカルじゃない」
「タキオンさん友達いたんですか!?」
ロジカルって何ですか?
「君、考えていることと言っていることが逆転していないかい?」
「え――ああ!? す、すすすすいません!」
「まあいいさ。ロジカルじゃない……つまりは正しい答えが出せない問題と言うことさ。先ほどの君の問いは、十人に聞けば十人が異なる答えを出す。しかしその中から正解を探り当てることはできない、なにせ回答者の感情や価値観によって左右されるからね。定量的に表すことのできないものは式においては考慮すべき変数ではなく排除すべきノイズだ。
……つまるところ、過ぎてしまったことのたらればなんて論じたって意味がないのさ。グラスワンダーはケガをした。今後を考えトレーナーは出走を見送った。グラスワンダーにとって皐月賞は今後の一生を賭けるものではなく、彼女は身を引いた。それが事実、それが全てでありそれ以外のイフはただの空想だ」
「ただの、空想……」
ああ、とタキオンさんが頷きます。
「受け入れるしかないのだよ。不幸も、不条理も、どんなに納得がいかなくともね……。
殻にこもって疑似的に時計の針を止めることはできる、歩みだして針を進めることもできる。……しかし針を後ろに戻すことだけは、どんな手を使ってもできないのさ」
何かを思い出すような彼女の言葉に、あたしはなにも言い返せませんでした。
◆
グラスワンダーは自室のベッドの上で目を覚ました。
ボーッとする頭が今まで何をしていたか記憶を再生していく。
チームルームでトレーナーと皐月賞を見て、セイウンスカイの勝利をこの目で見た。でもウイニングライブまで見る気はなれなくてすぐに寮へと戻り、現実から目を背けるように眠ったのだ。
手元のスマホで時間を確認する。門限の十分前だった。
部屋は暗く、同室のエルコンドルパサーの姿はない。クラスでセイウンスカイの皐月賞勝利のお祝いでもしているのか、それともクラシックの熱に当てられて自主トレでもしているのか。
(走れない私には、関係のないことですね……)
出走取り消しの原因である左脚に触れる。薬が効いているのか、今は痛みが引いている。それでも触れば分かる、腫れはそのままだ。
姿勢を変えて仰向けになると壁に貼った戦績表が視界に入った。
四戦四勝、うちGⅠを一勝。それが今のグラスワンダーの戦績だ。
同期の中では上澄みも上澄みだろう。特に無敗を貫いているのはグラスワンダーとエルコンドルパサーの二人だけだ。
しかし、それを誇れる気持ちは今のグラスワンダーには微塵もなかった。
「何が、無敗か。走らず守った無敗に何の意味が……」
例えるのなら、この身は芸術品として保管された刀剣だ。
美しさを保つために厳重に封じられ、不要な風にさらすことなくその身を守護される。
決して汚れず、錆びず、傷つかず。鉄の輝きを永久不変にするための処置だが、刀剣としての本懐を遂げることはない。
嫌だ。
走らずに無傷に終わるよりも、砕けようとも走りたかった。その生をターフの上で終えたかった。
…………もし、そうなったら、あの人はどうなるだろうか。
彼の過去は知っている。どうしてあれほどウマ娘のケガを重く受け止めるのか。次頑張ればいいの一言すら躊躇うほどに、少女の負傷を悲しむのか。
ライスシャワー、宝塚記念。学園にいれば一度は関連した逸話を耳にする。
彼の胸には青いバラが散る瞬間が今も深く深く突き刺さっているのだ。
もしも、それにとって代われるというのなら―――
「何を考えているのでしょう、私は」
落ち込み過ぎて思考があらぬ方向へと捩じれている。
シャワーでも浴びようかと起きようとしたとき、スマホが着信を知らせてきた。
画面に表示されるのは未だ戻らぬルームメイトの名前だった。
「エル?」
『ハーイ、グラス! 起きてたようで良かったです! これから体育館までこれますか?』
「体育館って、もう門限ですよ? エルこそ早く帰ってきなさい」
『大丈夫デース! もう寮長にも許可は取ってます! 待ってますから、必ず来てくださいね!』
そう言って通話が切れた。
「なんなんでしょう、いったい……」
◆
エルコンドルパサーの言う通り、ヒシアマゾンに話は通っていたようで寮を出ることを咎められることはなかった。
むしろ、「楽しんできなよ!」と背を叩かれるほどであった。
「楽しむ……なんでしょう、セイちゃんの祝勝会だと思いましたが」
だとしたら、皐月賞ウマ娘となった彼女には悪いが心から祝福はできない。
せっかくの誘いだが早々に引き上げるとしよう。
「エル、突然呼び出していったい……」
「あ、来ましたねグラス!」
電気のついた体育館に入ると、いたのはエルコンドルパサー一人だった。
いや、正確に言えば彼女の横に五台の仰々しい機械が並んでいた。
見たことがある。以前、リハビリの一環でグラスも使った機械だ。
「VRウマレーター?」
「はい! 今日は趣向を凝らして仮想空間でお祝いデース!
すでにみんなもダイブしてますから、グラスも早く入るデスよ!」
「そういうことですか。だから体育館を……。エル、すいませんが私は」
「入るデス」
エルコンドルパサーには珍しい、有無を言わせない言動だった。
圧されてしまったグラスワンダーは仕方なくVRウマレーターのポッドに入る。
エルコンドルパサーは使うのが初めてのため初期設定からしているようだが、グラスワンダーは以前使った時の設定を引き続き使う。
(エルったら、何を考えているんでしょう……)
答えは得られぬまま、グラスワンダーの意識は電子の海へと沈んでいった。
◆
『ダイブが完了しました』
前回と同じ台詞が、
目の前に広がる視界に、グラスワンダーは思わず息を呑んだ。
「あ、グラスちゃんやっと来たー!」
「全く、このキングを待たせるなんて」
「グラスちゃーん、こっちこっち!」
勝負服を着た友人たちがいた。
グラスワンダーを加えた四人が立つのは芝のレース場、先に見えるゴール板やコースの形から中山レース場だと分かる。
観客席を見れば人影があるが、所謂NPCだと分かった。
「スぺちゃん、セイちゃん、キングさん……どうして」
「どうしてって、エルさんに聞いていないの?」
「あーさてはエルってば説明しないで無理やりウマレーターに押し込んだな」
「失敬な! これから説明するつもりだったんデス!」
声の方へ振り替えると、こちらも勝負服姿のエルコンドルパサーが現れた。
「エル、これは一体どういうことですか? セイちゃんの祝勝会をするのではないんですか?」
「祝勝会ならもう終わったよ。いやーみんなに祝ってもらえてセイちゃん満足満足。……でも、満足できてないウマ娘が一人いるっていうからさ」
「それは……」
セイウンスカイの言葉にグラスワンダーは視線を逸らす。
自分の管理不足が原因なのに、彼女の勝利を素直に祝えない自分が恥ずかしくなった。
「グラスちゃん……」
スペシャルウィークが前に立った。
「セイちゃんもキングちゃんも、当然私も、グラスちゃんと走るのを楽しみにしてたよ」
「スぺちゃん……」
「起こったことは変えられないし、やり直しだってできない。でも、別の形にすることはできる」
スペシャルウィークの手が、グラスワンダーへと差し出された。
「始めよう。私たちの皐月賞を」
「――――はい……はい!」
差し出された手を強く握る。
もう、少女の心から闇は消えていた。
グラスワンダーもアバターの衣装を勝負服に替え、五人でスターティングゲートへ向かう。
「そういえば、この企画はどなたがしてくれたんですか?」
「あれ、エルってばそこまで話してないの?」
「いやーグラスってば落ち込み過ぎてこっちの話聞く気無さそうでしたから、とにかくダイブ優先したんデス!」
「なによそれ……企画、というか話を最初に持ち出したのはグラスさんたちのトレーナーよ」
「トレーナーさんが?」
「うん。マルカブのトレーナーさんからスピカに電話あってね。グラスちゃんのために協力してくれないかって」
「そんなことを……」
「トレーナーさん、グラスのことすっっっごく心配してたんデスよ。それでグラスに元気になってもらうにはどうしたらいいか考えて」
「いっそのこと、仮想空間で気が済むまで走っちゃおうってね。あのトレーナーさん、結構凄いこと言いだすよね」
グラスワンダーはトレーナーたちのやり取りを想像する。
まさか、ケガで出走取り消しになったウマ娘のために仮想空間とはいえその日のうちにもう一度走ってくれなどと頼まれるとは思ってもみなかっただろう。
「すみません、私のために手間を取らせてしまって……」
「別にいいって。なにやら、この皐月賞ウマ娘のセイちゃんにリベンジしたいって子もいるみたいだしー?」
「どうしてこっちを見るのよ……ええそうよ! 今日のレースはスカイさんの策に嵌まってしまったけど、次はこうはいかないんだから!」
「わ、私だって次はセイちゃんには負けないんだから!」
「とまあ? こんな感じで、再チャレンジしたいなって声は他にあるわけだからあんまり気にすることないよ」
それに、とセイウンスカイがニヤリと笑う。
「グラスちゃんやエルともいつか走るだろうし、今のうちに手の内見ちゃおうっかなーってね」
「むむ! さすがセイちゃん、抜け目ないデス! しかーし、仮想空間でもエルが最強だと教えてあげます!」
やがてゲートへ入る。
ここから始まるのは、決して記録に残らない仮初のGⅠレース。
例え勝っても勝者として名乗ることはできない。
それでも悔いを、憂いを断つには十分だった。
「皆さん……」
ゲートの中でグラスワンダー呟く。
「次は、実際のレースで走りましょう」
『うん!』
ゲートが開き、少女たちは走り出した。
◆
何度走っただろう。
走る度に勝者は変わり、その度敗者がもう一度と言ってまた走る。
改めて、五人の実力が互角なのだと理解した。
いつまでも走っていたかったが、仮想空間でも疲労度は設定されており、やがて五人とも動けなくなった。
セイウンスカイとエルコンドルパサーは仰向けにターフへ寝転がり、キングヘイローは肩で息をしつつもなんとか平静を保とうとしている。グラスワンダーとスペシャルウィークはラチを背もたれにして座っていた。
「どうだったグラスちゃん、私たちの皐月賞は?」
「ええ……最高の気分でした。もう、悔いはありません」
そっか、とスペシャルウィークが返すと他の三人を笑っていた。
「さあて、結構走ったし、現実に戻ったらもう一回パーティしますか」
「何言っているのよ。門限はもう過ぎているんだから、すぐに解散よ」
「えー」
「エー」
「もうセイちゃんもエルも、いくら許可が出ているとはいえ遅くなりすぎると寮長たちが心配しますよ」
「うう、そうだよね。フジ先輩、もしかしたら帰ってくるの待ってるかもしれない……」
ヒシアマゾンもフジキセキも、責任感の強い寮長だ。
外出で遅くなった時はいつも寮の玄関前で待っている。もしかしたら、今回もレースが終わって帰ってくるのを寝ずの番で待っているのかもしれない。
「あーそれじゃあお開きとしますか」
「そうね。グラスさん、今日は楽しかったわ。本番で走れるのを楽しみにしてるわ」
セイウンスカイとキングヘイローがダイブを終えようとウィンドウを開いた。
他の三人も後を追う。
そして、
『ダイブを終了しますか?』
『ダイブを終了しますか?』
五人分の手元から電子音声が流れた。
……何故か、ひとつだけ男性のものだった。
「え?」
「ん?」
「あれ?」
「ケ?」
「……………………あ」
グラスワンダーへ、他の四人の視線が集中する。
当の少女の顔があっという間に真っ赤に染まる。
その反応で、勘の良い者はすぐに察した。
(ねえキング、今のって……)
(しっ! 滅多なことをいうものじゃないわ)
「ええ!? 今のってマルカブのトレーナーさんの声だったよね!?」
(はいさすが天然、ストレートでいったー!)
(………………あああ)
頭を抱えるセイウンスカイとキングヘイロー、そしてエルコンドルパサーが目を細め訝しい視線をグラスワンダーへ注いでいた。
「ハーン、ヒーン、フーン、へー、ホーン?」
「な、なんですかエル。変な声を出して……」
「べーつーにー? どうしてグラスの手元からトレーナーさんの声がしたとか、全然気になりませんけどー?
……あ、そういえばグラスってウマレーター使うの二度目でしたよねー?」
エルコンドルパサーの言葉に、グラスワンダーは首まで真っ赤になるのを感じた。もう少しすれば異常と判断して安全装置が起動するだろう。
いつの間にか四人が彼女の周りに集まっていた。
興味深そうに、イジれるおもちゃを見つけたように、心からの疑問を抱いていたり、そんな視線がひたすらに注がれていた。
「は……」
『は?』
「腹を切ります……!」
四人がかりで止めた。
なお、今回の催しのためにマルカブのトレーナーが他の三人のトレーナーに一晩中酒を奢ることになった話はまたいつか。
補足 他の黄金世代二人のトレーナーについて
スカイトレーナー:ちょうど中堅とベテランの間くらいの男性トレーナー。チームは作らず担当を常に2、3人に絞っている。おハナさんやたづなさんをちゃん付で呼ぶ数少ない人物。
キングトレーナー:まだ3、4年目の新人同然の若手女性トレーナー。父親が凄腕のトレーナーらしい。何かと父と比べられるのがコンプレックス。
元ネタは詳しい方なら五秒くらいで浮かぶであろうあの人たち。
そんな出番はないし、当時に合わせた年齢でもないのでフレーバー程度に捉えてください。
ツルちゃんは入院中のため不在ということで……。
次回、春天(前編)