シニア級〇年目のライスと朴念仁系お兄さまと時々同期や後輩の話   作:ブルーペッパー

31 / 76
30話 ライスと宝塚記念

 気付けばターフの上を走っていた。

 芝の匂いはなく、スポットライトが当たったように自分の周りだけが見えていて前も後ろも闇だった。

 これは夢なのだと、ライスシャワーは自覚した。

 それでもウマ娘の本能か、彼女の脚は走ることを止めなかった。

 しばらくして走っている場所に覚えがあることに気づいた。

 

 ここは京都レース場、そしてこのコースは宝塚記念だ。

 

 ライスシャワーにとって因縁深いレース。それを、宝塚記念の直前で夢に見るとはなんの因果か。

 克服したつもりだった、痛ましい記憶が蘇る。

 それと同時に足元の影が蠢いた。

 

「これは……」

 

 影から黒い靄が噴き出し、やがて形を成していく。

 首が少し長い、四足のナニか。眼窩と思わしき箇所には蒼い鬼火が灯っていた。

 漆黒の生物がライスシャワーと併走を始める。

 これは一体何だ。

 ウシか、キリンか、しかし頭の奥でいずれも違うと否定されるアンノウン。

 未知を前に、どうしてかライスシャワーに恐怖は無かった。

 危険はないと知っているかのように落ち着いていた。

 

 ──終わりだ

 

 声は、ウマ娘と同等の速さで駆けるソレから聞こえた。

 

「終わりって?」

 

 答えはなく、影は静かに前を見た。

 坂がある。あの坂だ。

 そして思い出す。あの瞬間、ライスシャワーが見たものを。

 

「そうか、あなたは……」 

 

 坂へと突入する。

 身に沁みついた動作。登坂のために脚へ力を込める。

 そして───

 

 そして、目が覚めた。

 

「…………夢、だよね」

 

 堪らず脚を触る。

 大丈夫。折れていない。痛みも熱もない。日々のトレーニングで鍛えたいつもの脚がそこにある。

 安堵の息をついたが、良くない夢だった。

 じっとりとした汗を掻いており、髪や寝間着が張り付いて気持ち悪かった。

 四月から同室となったゼンノロブロイを起こさないよう、静かにベッドから出てタオルを探す。

 汗を拭い、ついでに水を飲んで一息ついてからベッドへ戻った。

 

「…………」

 

 時刻は深夜三時。起きるには早い。けれども寝直そうにも変に目が冴えてしまった。

 手持ち無沙汰でスマホを弄る。光が漏れて同室が起きないよう、布団を被った。

 意味もなくLANEを起動した。

 最近一気に増えたトーク相手を眺めながら、ある人物のところで止まる。

 

(迷惑、だよね……)

 

 深夜だ。普通なら既に寝ている時間だ。

 彼の仕事は世間的には花形だが、その実激務でもある。

 故に睡眠は貴重な休息だ。それを自分の気まぐれで邪魔することは憚られた。

 でも、

 

(きっと気づかないよね)

 

 LANEの通知音はあまり大きくない。バイブレーション設定にしていることも多い。

 寝ているのなら、きっと気づかない。

 明日の朝通知を読んで、練習の時にアレは何だったの? と聞かれるだけ。笑い話だ。

 だから、

 

『起きてる?』

『起きてるよ』

 

 すぐに既読がついて、すぐに返信が来たのは驚いた。

 心臓ごと体が跳ねた気がした。

 

『眠れない?』

 

 続けて来た。向こうでは既読がついただろう。

 すぐに返事をする。

 

『ちょっと目が冴えちゃって』

『気になることでもあった?』

『ううん、大丈夫。緊張しちゃってるのかも』

『もうすぐだからね』

『宝塚記念だね』

 

 既読がつく。さきほどまですぐに来た返信が、まだ来ない。

 

(やっぱり……)

 

 彼の中ではまだあのレースの傷が残っているのだ。

 ライスシャワーの脚は完治した。しかしその脚が砕ける瞬間を見た彼の心は未だ治り切っていない。

 病院で、打ちひしがれ憔悴した彼の様子を思い出す。

 

『今度は大丈夫だよ』

 

 思わずそんな言葉を送っていた。

 彼の不安を少しでも軽くしたかった。

 

『頑張ろうね』

 

 少しして、そう返事が来た。

 

『うん。おやすみなさい』

 

 そう返してスマホを手放して瞼を閉じた。

 夜更かしして明日に響かないように。

 レースに勝つために。

 勝って、彼の傷を埋められるように。

 

 次の宝塚記念は、そのためのレースだ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 厭な夢を見た。

 よりにもよって、ライスの宝塚記念が近いこのタイミングでなぜこんな。

 ライスの脚が砕けて倒れたあの時のことを見るのだ。

 小さな体が崩れ落ち、ターフが赤く染まったあの瞬間を。

 

「いや、考えるのは止めよう」

 

 わざわざ陰鬱になる必要もないだろう。

 しかし嫌な汗をかいた。

 ライスからLANEが届いたのはそんな時だった。

 もしや何かあったかと肝が冷えたが、そんなこともなかったようだ。

 気が紛れればと思いメッセージ上で会話する。

 何度かやりとりしていると、ライスからの返信を見て文字を打つ手が止まった。

 

『宝塚記念だね』

 

 そうだ。もうすぐ宝塚記念がやってくる。

 彼女が倒れた、あのレースが。

 ……大丈夫だ。ライスの脚は完治した。

                  本当に?

 彼女の調子も良い。

 強敵こそ多いが、勝ち目がないわけではない。

                  本当に?

 昨今、中距離のGⅠ制覇の実績は重要だ。

           それで、彼女が今度こそ壊れたとしても?

 ……黙れ。彼女と相談して決めたことだ。

 なによりも、ライス自身が走ることを望んでいる。

 

 あの時も、そう思って送り出したはずだ。

 

「……………」

 

 頭を振って、迷いを払う。

 トレーナーの不安はウマ娘にも伝わる。不安や迷いを抱えた者の指導を喜ぶウマ娘がいるものか。

 これまでのライスの頑張りを、私が信じないでどうするのだ。

 そう決意して、返事を打とうとして、

 

『今度は大丈夫だよ』

 

 また手が止まった。

 どうやら私の考えはライスにはお見通しらしい。

 

「成長したな、ライス……」

 

 昔の彼女は自信が持てなくて、大丈夫なんて台詞は私が言っていたのに、今は逆に言われるようになってしまった。

 彼女は変わった。そして今、過去を一つ乗り越えようとしている。

 だったら、

 

『頑張ろうね』

 

 私も乗り越えるのだ。

 彼女が大丈夫と言ったのだから、私が信じなくてどうする。 

 おやすみなさい、というライスの返信を最後にLANEを閉じた。

 目はまだ冴えている。動き出すには早い時間だが、もう一度寝直すのも惜しかった。

 PCを起動し、宝塚記念の出走ウマ娘たちへの対策を再考する。

 あのレースは私たちにとって大きな転換点となった。

 だから、今度もあのレースを機に変わるのだ。

 

 恐れるのは、これが最後だ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 時間と場所は変わり、栗東寮。

 談話室でミホノブルボンは掲示板の前に佇んでいた。

 そこには学園からお知らせや新聞部やサークルが作った記事やチラシなどが張られ、機械と相性の良くないミホノブルボンにとっては貴重な情報源だった。

 ここ数日、彼女は毎朝掲示板のある記事を見ることが日課となっていた。

 ミホノブルボンが見つめているのは春のファン大感謝祭で行われたトレーナートークショーの記事だ。ライバルであるライスシャワーのトレーナーがファンからの質問に答える催し。

 同室のニシノフラワーが言うには、SNSでもGⅠウマ娘のトレーナーから話を聞ける機会として好評だったらしい。

 記事にはトレーナーが答えた質問が要約した形で箇条書きされており、ミホノブルボンはそのうちの一つを凝視していた。

 

Q.ライスシャワーの今後の予定と、警戒しているライバルは誰ですか?

A.宝塚記念を考えています。

  警戒しているのはサイレンススズカでしょうか。

 

「………………」

 

 次走、宝塚記念で警戒するのはサイレンススズカ。ライスシャワーのトレーナーはそう言ったのだ。ミホノブルボンではなく。

 異を唱える気はない。

 事実、ミホノブルボン自身が大阪杯でサイレンススズカに敗北している。

 だから彼の判断は間違ってはいないし、ライスシャワー自身に面と向かって言われたわけではない。

 なのに、どうして胸の奥が痛むのか。

 

(ステータスに異変。これは…………嫉妬?)

 

 自覚してみればすっと腑に落ちた。

 自分は、ライスシャワーのライバルでいられないことに苛立っているのだ。

 クラシック級の時から、ミホノブルボンが逃げて、ライスシャワーが追ってきた。

 だが今は、ミホノブルボンより前に別のウマ娘がいて、ライスシャワーもその背中を追っている。

 それが、どうしても嫌だった。

 

「私を、見ろ……」

 

 トークショーの記事の隣には宝塚記念のポスターがあった。

 出走ウマ娘たちの名前には当然、彼女の名前もあった。

 

「私を見ろ。ライスシャワー……」

 

 サイレンススズカではない。

 あなたが追うべき背中は私のはずだ。

 

「私が逃げて、あなたが追う。今までだってそうだった。だから……」

 

 これからだって、そのはずだ。

 

 機械のようだと言われた彼女の瞳に、烈火の闘志が宿った瞬間だった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 トゥインクルシリーズの春シーズン、上半期を締めくくる宝塚記念。

 有記念同様、ファン投票による出走が可能なこのレースは例年通りの盛り上がりを見せていた。

 ドリームレースの看板を掲げるだけあって、出走メンバーも錚々たる顔ぶれだった。

 三度目の春の楯を手にしたライスシャワー、GⅠ含め五連勝中のサイレンススズカ。

 その両者へのリベンジに燃えるミホノブルボン、有記念以来のGⅠ出走となるエアグルーヴ。

 昨年ダブルティアラを獲ったメジロドーベル、春天ではあと一歩のところまで迫ったメジロブライト。

 そして何の因果か、ファン投票で七位に入り出走権を得たサクラバクシンオー。

 他シニア級から歴戦のウマ娘が集まり計十三名。出走ウマ娘の半数がGⅠウマ娘という豪華メンバーに観客も出走が今か今かと待っていた。

 そしてそれは、出走するウマ娘たちも同様だった。

 この一戦に特別な意味を見出すウマ娘は多い。

 ライスシャワー、ミホノブルボン、サクラバクシンオーにとっては悲願でもある中距離GⅠタイトル。

 サイレンススズカも勝てば六連勝となり、数の上ではあのオグリキャップに並ぶ大記録となる。

 メジロ家の二人も、宝塚記念は過去にメジロを冠するウマ娘が何度も勝利したレースだ。家名を背負う者として天皇賞(春)に次いで勝ちたいレースであった。

 刻一刻と近づく出走時間に比例するように、控室からはドア越しでも圧のようなものを感じられた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「……ねえ、お兄さま」

「どうしたライス?」

「脚……触り過ぎかなって……」

 

 脚を触診していた手が止まる。

 顔を上げると、困った顔でこちらを見下ろすライスと目が合った。

 見えないが、背後からも冷たい視線を感じる。

 

「………………そっか」

 

 立ち上がると、今度は私がライスを見下ろす形となる。

 

「ライス、大丈夫だよ?」

「ああ。分かっている……」

 

 本当だ。分かっている。今日のライスは万全だ。

 ……それでも万が一、億が一の悲劇が脳裏から離れない。

 

「ライス……」

 

 情けない。すでに復帰から一年が経ち、有記念も天皇賞(春)も制しているというのに、このレースだけは未だ不安が消えない。

 勝てなくてもいい。異常が起きたらすぐに走るのを止めてほしい。ただ、無事に帰ってきてさえくれれば。

 そんな弱音が浮かんでは言うべきでないと裡に押し込めていく。

 

「ライス、頑張るね」

 

 かける言葉を選んでいるうち、またもライスに先を越されてしまった。

 

「……ああ、頑張っておいで」

「私たちも精いっぱい応援しますね」

「頑張ってきてください!」

「……うん!」

 

 グラスたちの声にも力強く頷き、ライスは控室を出ていった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ここでチーム・マルカブの面々は二手に分かれた。

 一方はトレーナーの後に続いて客席へ向かう。そしてもう一方は、いや一人がターフへ向かうライスシャワーを追った。

 

「ライス先輩!」

 

 グラスワンダーから声がかかると、ライスシャワーは歩みを止めて振り返った。

 

「グラスさん……?」

「えっと……その……トレーナーさんのことです」

 

 ああ、とライスシャワーは苦笑いを浮かべた。

 

「トレーナーさんはまだ、その……」

「うん。まだ尾を引いてるみたい……。ライスもね、何度も大丈夫だよって言ってるんだけど」

「言葉にして、すぐ受け入れられるとは思えません」

 

 ライスシャワーの大ケガは学園内でも有名だ。命をとりとめたことだけでも奇跡、さらにレース復帰するまで回復するなど当時の誰が想像できただろうか。

 

「そう、かもね……。ねぇグラスさん。ライスね、お兄さまと二回だけケンカしたことあるんだ……」

「ト、トレーナーさんとですか……!? いつもあんなに仲が良いのに……」

「えへへ……。そのうちの一回はね、ライスが宝塚記念でケガをした後なんだ。

 ……ライスがもう一度走れるようになりたいって言ったらね、お兄さまは『無理して走る必要なんてない』って言ったんだ」

「それで、ケンカを?」

 

 頷くライスシャワー。

 一方で、グラスワンダーには両方の言い分が理解できた。

 再起を目指す気持ちも、これ以上の大事が起きないうちに身を引かせようとする気持ちもだ。

 特に当時のライスシャワーはシニア級だ。GⅠも複数勝っている。辛いリハビリの日々を送るより、ここがいい区切りだと退くこともできたはずだ。

 

「どうして走り続けようと思ったんですか?」

「だって、そしたらお兄さまは悲しい気持ちのままだもん」

 

 そんな理由で、と零しそうになった。

 

「ライスにとってお兄さまは、絵本に出てきた『お兄さま』なの。だからライスも、お兄さまにとっての『青いバラ』になりたい。悲しいままじゃない。終わるのなら笑顔で終わりたかったの」

「……一命を取り留めただけでも、トレーナーさんは嬉しかったんじゃないですか?」

 

 言ってから後悔した。二人の決意を無碍にするような質問だが、ライスシャワーは気にした様子もなく頷いた。

 

「そうだね。でも、ライスが引退したらお兄さまの時間はあの宝塚記念で止まったままになっちゃう。ううん、今も止まっている。

 ……ライスは復帰できた。有記念も勝てた。三回目の春の天皇賞も勝てた。でも、お兄さまの宝塚記念はまだ続いている。悪夢の続きを、あの人はまだ見ている」

 

 どれほど元気にレースを走ろうと、勝って栄冠を得ようと、彼の脳裏にはまだあの光景が焼き付いている。

 

「だからライスが終わりにするの」

「ライス先輩……」

 

 ライスシャワーの覚悟を目の当たりにして、グラスワンダーは己を恥じた。

 トレーナーとライスシャワー、二人がこのレースに賭けた重荷を少しでも軽くできないかと声をかけたというのに、既にライスシャワーは過去の悲劇を昇華させて前に進む力へと変えていた。

 今更、グラスワンダーが出る幕などなかった。背伸びをして手助けをするつもりが、外様が弁えずしゃしゃり出た形となってしまった。

 

「グラスさん、ありがとうね」

 

 そんな少女の懊悩すら、ライスシャワーにはお見通しだったようだ。

 

「二人きりだから言うけどね、ライスとグラスさんはチームの中で一番似てると思うの」

「似てる、ですか? 先輩と私が……?」

「うん。どこがって聞かれると言葉にできないんだけど……こう、運命みたいな?」

「その……詩的ですね?」

「ふふ、ごめんね変なこと言って。でも、そう思っているのは本当」

 

 握って拳をそっと前に出すライスシャワー。

 

「だから見ててね。きっと、あなたも来年走るレースだから」

「……はい!」

 

 拳を軽く当てると、笑顔でライスシャワーはターフへと向かっていった。

 励ますつもりが、逆に励まされるというか二人の絆の深さを見せつけられてしまった。

 

「私も、まだまだですね……」

 

 いつか彼女のような強さを持てるよう、このレースを目に焼き付けよう。

 決意を新たに、少女もまた自分がいるべき場所へと戻っていった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

『票に託されたファンの夢、想いを力に変えて走る春のグランプリ宝塚記念! 私の夢、貴方の夢が走ります! 

 三番人気はミホノブルボン、是が非でも取りたい中距離GⅠ、ダービーウマ娘の意地を見せられるか!

 二番人気はライスシャワー、このレースには大きな因縁のあるウマ娘です。天皇賞に続き見事復活勝利を成し遂げられるか!

 一番人気は脅威の重賞五連勝、サイレンススズカ! 果たしてこの異次元の逃亡者を捕えられるウマ娘は現れるのか、それとも今日も見事逃げ切るのか!

 

 宝塚記念……今、スタートしました!

 

 真っ先にハナを取るのはやはりサイレンススズカ! いや!? もう一人がすぐ横についた!

 ミホノブルボン、ミホノブルボンだ! スタート直後からサイレンススズカとミホノブルボン、逃げウマ娘同士の先頭争いだ!』

 

 サイレンススズカがハナを取るのは分かっていた。しかし、ミホノブルボンがそれについて行くことはライスシャワーにとって予想外だった。

 

(ブルボンさん……!)

 

 大阪杯では最後までサイレンススズカを捉えることができなかった彼女だ。同じ轍を踏まぬよう今度はサイレンススズカのペースに合わせていくつもりなのか。

 しかしそれは常識で考えれば無謀だ。

 一方で、無謀を貫かなければサイレンススズカを捕えることはできないという覚悟の現れにも見えた。

 ライスシャワーに二人の先頭争いについて行くだけの瞬発力は無い。

 

(ついてく……! ついてく……!)

 

 今は自分の武器を信じ、力を溜めるのだ。

 

『二人の逃げウマ娘が先頭を走る中、四バ身下がって三番手にはサクラバクシンオー、四番手にライスシャワーが続きます。

 メジロドーベルは五番手、エアグルーヴは中団にいます。メジロブライトは後方で待機した状態で第一コーナーへと入っていきます!』

 

 コーナーを曲がって向こう正面。

 先頭は未だミホノブルボンがサイレンススズカに食らいつき、激しく争っていた。

 ペースは明らかに早い。通常なら控えて先頭がバテるのを待つところだが、今先頭を走るのは常識が通じるウマ娘ではない。

 

(この差は……マズイか?)

 

 片や日本ダービーを逃げ切った怪物。片やその怪物から2,000mを逃げ切った逃亡者。 

 彼女たちを捕えるには、最終コーナーで仕掛けては遅いかもしれない。

 そう思ったウマ娘たちが少しずつ位置を上げ始めた。

 一方で後方に待機した、所謂追込みの脚質とされるウマ娘たちは動かない。終盤の末脚に全てをかけるが故、中盤でむやみに消耗するのを避けた形だ。

 中団と先頭集団が重なりながら第三コーナーへ。そして緩い下り坂のある最終コーナーへと差し掛かる。

 

(ここで……!)

 

『コーナーを抜けて最終直線! ここでエアグルーヴが仕掛けた!!』

 

 オークスを制した末脚が炸裂する。

 中団を一気に抜け出し、ライスシャワーとサクラバクシンオーを抜いて三番手に躍り出る。

 

「まだまだあ! 負けませんよお!!」

「……はあ!!」

 

 劣らず二人もスパートをかける。

 しかしエアグルーヴとの差は縮まらない。いや、徐々にだが差は開いていく。

 ライスシャワーが歯噛みするその先、先頭を走る二人は未だ互いを突き放せずにいるのを見た。

 

(ブルボンさん、スズカさんにここまで食らいついて行くなんて……!)

 

 改めてミホノブルボンの強さを見せつけられた。

 そして気づく。一瞬、刹那にも満たない僅かな時、ミホノブルボンの視線が自分に向いていた。

 一度だけではない。何度も、何度も。

 

(待っているんだ、ライスがそこに行くのを……!)

 

 ミホノブルボンはまだライスシャワーとの戦いを望んでいる。サイレンススズカに決して先を譲らないのもいずれ迫るであろう彼女との一騎打ちのため。

 

(だったら―――!)

 

 このレースはかつての悲劇を乗り越える意味があった。トレーナーの悪夢を消し去る大義があった。

 そこに加えて、ライバルが決戦を望んでいるというのならば、

 

「行くよ、ブルボンさん!!」

 

 烈火のごとく、力が湧くものだ。

 阪神レース場最後の坂を、黒い体躯が駆け登っていく。

 

 

 

 ◆

 

 

 

『ここでライスシャワーが上がってきた! エアグルーヴに迫る! 追いついた!

 そして、そして……抜けた! 抜けた! 抜けた! ライスシャワー三番手!!

 先頭の二人にも手が届くか!』

 

 ライスが坂を登りだした時、思わず身を乗り出していた。

 柵を掴んだ手が汗で滑り、あわやのところをエルに引っ張り戻してもらった。

 後ろからエルたちの声が聞こえるが私の目はターフから離せない。

 

「ライス……」

 

 最後の坂をライスが駆けあがっていく。エアグルーヴを抜き去り、ミホノブルボンとサイレンススズカを捕えんとしていた。

 

「行け……頑張れ……!」

 

 走り切れればいい。無事に帰って来てくれれば。勝てなくとも。

 始まるまでそんなことを考えていたというのに、今は誰よりも彼女の勝利を望んでいる。

 なんとも都合の良い。でも仕方ないじゃないか。

 あれだけ頑張ったんだ。辛いリハビリを乗り越えて、今ここに戻ってきたんだ。

 少しくらい、夢を見ても良いじゃないか。

 

「頑張れライス……頑張れ!」

 

 聞こえるはずのない声に背中を押されたように、ライスが先頭の影を踏もうとしていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ライスシャワーが迫ってくるのを感じて、ミホノブルボンは歓喜した。

 競り合っているとはいえ、彼女が求めていた展開となった。 

 

(ですが、勝つのは……!)

 

 サイレンススズカを振り切り、ライスシャワーからも逃げ切る。

 そのために最後の力を振り絞ろうとして―――

 

 ―――その前にサイレンススズカが(かのじょのあしにくろいかげ)全てを振り切った(がからみついていた)

 

「…………!?」

 

 愕然とした。驚きのあまり声も出ない。

 まるで今スパートに入ったかのような加速に、栗毛の逃亡者の身体が一バ身二バ身と前に向かっていく。

 

『サイレンススズカが抜け出した! ミホノブルボンもライスシャワーも突き放す!!

 まだ脚が残っていたのか!? まさに逃げて差す!

 まさに異次元! 圧倒的な力の差を見せつけ、今ゴール!!

 サイレンススズカ!! 

 宝塚記念を制したのはサイレンススズカ!!

 これでGⅠ二連勝、そして重賞五連勝!! 秋シーズンの活躍が今から楽しみです!!』

 

 沸き立つ歓声。

 ミホノブルボンと終始競り合った挙句のラストスパートで圧倒。

 ライスシャワーやエアグルーヴからも逃げ切ったその速さに観客は興奮を隠せない。

 一方で、レースに従事するトレーナーやウマ娘たちは戦慄した。

 これまでのレースの常識を根底から覆す実力。

 彼女相手に、どんな対策をすればよいのだ。

 グランプリを制したスターウマ娘の誕生を祝福する中で、苦悩の声も確かに生まれていた。

 

「あれは……どうすれば……」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 地下バ道に向かうと、ちょうどライスも戻ってきたところだった。

 最後のスパートからの疲労か、顔には汗が浮かんでいた。

 敗北の悔しさから下を向いた少女へ声をかける。

 

「ライス……」

「あ、お兄さま……ごめんなさい。ライス、三着だった……。」

 

 猛スパートもミホノブルボンに届くことはなかった。

 ライスにとって中距離の壁は未だ高い。いや、むしろ世代が重なるにつれて高くなっている気すらする。

 でも、今はそんなことよりも伝えることがあった。

 

「おかえりライス」

 

 膝をついて少女と目線を合わせる。

 あの時は違う。

 ターフではなく地下バ道で。

 倒れた彼女ではなく、自分の脚で立つライスを。

 閉じた目ではなく、紫水晶の綺麗な瞳をみることができた。

 

「無事に帰って来てくれてありがとう」

「お兄さま……」

 

 手を取り感謝を伝えると、ライスの肩が小さく震え出した。

 

「ライス悔しいよ。勝ちたかったのに……勝って、勝ってぇ……!」

「そうだよね。悔しいよね」

 

 涙を浮かべたライスを抱きしめる。

 走ったことによるものとは別の熱を感じた。

 

「次は勝とう。ミホノブルボンにも、サイレンススズカにも」

 

 つくづく、我ことながら欲深い。

 無事に帰って来てくれたらなんて思っていたくせに、いざ無事に済めば今度は勝ちへの欲が湧いてくる。

 彼女の努力が、勝利という形で称えられることを望んでいる。

 

「一緒に強くなろう。私と、ライスと……マルカブのみんなで」

「…………うん!」

 

 二人で歩き出す。

 

 ようやく、私たちの宝塚記念は終わったのだ。

 

 

 






この流れで負けるとか。
でもこの段階でのスズカとかどうすれば勝てるのか……。

明日は番外編を投稿して一旦ストップ。また書き溜めに入ります。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。