01
「人魚姫は幸せだったと思う?」
文学部の部室にて幼馴染、
脈絡のなさはいつも通りで、すっかりと慣れてしまっている俺は今読んでいた本に栞を挟んで華恋を見る。彼女は艶やかに光を反射する黒い長髪の先をくるくるとオモチャのように弄っていた。質問してる癖にこっちに目を向けやしない。そんなんだから未だに友達が少ないんだよ、と心の中で突っ込んだ。
「今日読んでるのはアンデルセン童話か」
「そう。どうしても絵本の方に引っ張られて元の内容が思い出せなくてさ。今朝、原本を引っ張ってきたんだよ」
「絵本だと良くあるよな。最近のだと結構表現がマイルドになっていたり、ちょっと幸せなオチになってたりだとか」
具体例を挙げれば『カチカチ山』や『シンデレラ』なんかは原典がかなりグロテスクなのは割と有名だ。時代が進むにつれて子供に読み聞かせやすいようになっていったんだろう。
華恋が話していた『人魚姫』もそのうちの一つだったと記憶している。
「それで、どう思う?」
「どうって言われてもな……オチだって複数あるだろ? 最後の最後に王子と無事に結ばれることもあれば、泡になって消えていくこともあるんだから」
「今回は原作の方で考えて欲しいかな」
「となると泡になって消えた後に風の妖精になった方か」
華恋が頷いた。それを確認して僕は顎に手を添える。
「幸せではなかったと俺は思う」
「それはどうして?」
「王子に想いを告げられず、手柄を奪われて、失意のままに泡に消えたんだ。幸せだったなんて口が裂けても言いたくない」
華恋は俺の言葉に相槌を打って、次の言葉を吟味するために瞳を閉じる。
時間にして数秒。世界で俺だけが片桐華恋を独占できるこの時間が好きだった。窓から差し込む光に照らされた純白の肌。薄紅のどことなく上品な唇。彼女とはもう十年を超える付き合いになるけれど、その美しさは日に日に増すばかりだった。
「私もそう思う。でも改めて読んで、結末に満足はしていたかもしれないなと思ったのさ。だって最後の最後、彼女は王子をナイフで刺さなかった」
物語の終盤。人魚姫は五人のお姉から魔法のナイフを受け取った。王子の心臓に突き刺し、血を足に浴びることで人魚に戻ることができる品物だ。
既に泡に消えることが宿命づけられた人魚姫は王子と恋敵が寝ている寝室に忍び込み、ナイフを振りかぶるのだが、結局突き刺さずにナイフを投げ捨て、泡に消えた。
「どうかな? 人魚姫は自分の手を汚したくなかっただけかもしれない。王子を後悔させるために、呪いとして自ら命を絶った……なんてことも考えられる」
「相変わらず悲観的だな、玲二は」
「華恋がロマンチスト過ぎるんだよ」
「そうかもね」と華恋が微笑む。
「でも、王子への愛があったからこそ手を下せなかった。身を引くことで王子の真の幸せを願った――なんてことも考えられるんじゃないかな?」
それは僕だったら絶対にたどり着けない優しい答えだった。自分とは価値観が違う。遠く隔たりのあるように感じる。
現実は物語と違う。誰も彼もが報われるわけじゃない。夢の頂の下にはいくつもの屍が転がっていて、それらは決して日の目を浴びることはないのだ。
けれど、そんな野暮なことを僕は口にすることはないけれど。
「まあ、その辺は読み手の解釈次第ってところじゃないか。ここで言い合ったって答えは出ない。唯一答えを知っているかもしれないアンデルセンはこの世にもういないんだから」
「まあ、それはそうだ。死後に会えたらぜひ聞いてみたいものだね」
「……聞かない方がいいと思うけどな。読み手の解釈が狭まるし」
話がひと段落した所で再び本を手に取った。本からぴょこっと飛び出ていた栞のリボンを手に取ってページを一気に開く。中途半端に読んでいた文章を思い返した所でガラリと部室の扉が開く音がした。
俺と華恋の視線が一斉にそちらへ向く。突然の来訪者は顧問の相馬先生かと思ったけれど、シルエットから間違いだと悟る。
翻るスカート。百七十センチはあるかと思われる高身長にボブカットの茶髪。その奥に除く力強い瞳が印象的だった。
俺はこの人物を知っている。彼女はこの高校でも有名人だ。ボーイッシュな見た目ときざな言動から『王子様』とも異名をとる
ひび割れたリノリウムの床を踏みしめて数歩。皇は隙間ができないように扉を閉めてから改めて振り返る。彼女はわなわなと肩を震わせて、頬を紅潮させていた。
「ぶ、文芸部はここで間違いないだろうか?」
「ああ、合っているよ。ようこそ文芸部へ。本日はどのようなご用件で?」
華恋は芝居がかった口調でそう言った。皇は覚悟を決めたように。
「今日は相談しに来たんだ」
「それは嬉しいね。私は悩んでいる人間が大好きなんだ。何はともあれひとまず掛けておくれよ。大抵の場合は長話になるからね」
長机の中央に置いてあるパイプ椅子を華恋は指差した。皇は「失礼する」と言って腰を掛ける。入れ違いに俺は席を立って壁際のポットでお湯を沸かし始める。紙コップを三つ並べて、緑茶のティーバックを入れた。それから横目で彼女らが話すのを眺める。
「それで? えーと何さんだったかな。ひとまず自己紹介をして貰っても良いかい?」
「3-Aの皇優貴だ。僕、割と顔は広い方だと思っていたんだけどね」
「申し訳ないけれど、私は話してもいない人の名前を覚えるほど勤勉じゃないんだ」
華恋は息をするように嘘をついた。先週皇について話したことは記憶に新しい。大勢の女性を引き連れて歩く皇に対して華恋は「中毒性のある薬物でもを撒き散らしているんじゃないか」と苦言を呈していた。図書室に入りにくかったから、イラついていたのだろう。
まあ……そんなことをもう忘れているのかもしれないけれど。
「私は華恋。片桐華恋。この文芸部の部長をしている。それと彼は
「二人とも知っているよ。境君は同じクラスだし、片桐さんのことは女子の中では有名だからね。一日に一回は片桐さんの話を聞くぐらいには」
「へぇ、ちなみにどんな話かな?」
「そのどんな片想いでも成就させてくれる”魔女”だって」
「その呼び名は好きじゃないんだけどね。できれば専門家と言って欲しいものだ」
華恋はため息を付いた。
去年の秋頃からこの高校に流れ始めた噂『片想いを治す魔女』。その正体は俺の幼馴染、片桐華恋だ。彼女は多くの片想いを成就させてきた百戦錬磨の猛者である。先輩に後輩だけでなく先生までその恩恵に預かっている。その数はもう三十は超えていたはずだ。
最大の謎は根源である経験がいつ積まれているのか、だが……幼馴染である俺にも全くもって想像がつかない。正確に言えば怖くて聞けていないのが実情だ。笑うなら笑え。俺は蛇が出ることが確定している藪を突きたくはないんだ。
俺は自分のことを棚に上げて華恋に悪態をつく。
「片思いの専門家、ねぇ……。毎回思うけど、言葉だけ聞くと死ぬほど振られまくってそうだよな。いい加減止めないか?」
「な、何を言うか! 玲二は毎度毎度失礼な言い方をするな。私はこの道十年のスペシャリスト、大ベテランだぞ!」
「片想いの大ベテランかぁ……」
「この、馬鹿にしやがって──!」
我慢ならないと華恋は勢いよく立ち上がって、机越しに俺の胸倉を掴んで前後に揺さぶる。この調子で評判を落として、依頼なんて来なくなってしまえばいいのに。そうすれば俺たちはずっと二人きりで、本でも読んでいられるのに。そう思うけれど、口には出さなかった。
「あはは……随分と仲がいいんだね。二人は」
「十年以上の付き合いだからな。華恋、もう止めろ。依頼人が来てんだからさ」
「……そうだね。玲二への制裁は後にしよう」
華恋は僕の胸倉から手を離すと、再び腰を落ち着けた。何事もなかったかのように「さて」と華恋は両肘を机について皇と対峙する。
その立て直し方には随分と無理があるんじゃないだろうか。
「一人で来たとなると今回の相談内容は皇君の片想い……ということでいいのかな?」
コクリと皇は頷いた。彼女は俯いたまま、表情を見せない。けれど耳が紅く染まっているのが見えた。王子様と呼ばれる皇の少女らしい一面を初めて見た気がする。
「では早速だけれど、相手との馴れ初めを話して貰って良いかな?」
「昨日、助けてもらったんだ。放課後にプールに落ちて、溺れかけた所をね」
「へぇ、随分とロマンチックな出会いだ。憧れるね。それで一目ぼれ、とか?」
「みたいな物、かな?」
「随分ともったいぶった言い方をするな、皇君は。でも君みたいな少女が惚れる相手となると見た目も、性格もさぞ良い男なんだろう? 私は並んでいるところを見るのが今から楽しみで仕方がない。きっと絵になるだろうからね」
華恋はテンションが上がってきたようで、そう早口でまくし立てるとズイズイと皇に顔を近づけた。俺が「落ち着けよ」と肩を叩くと「コホン」と咳払いをした。
「それで? お相手のお名前は?」
「それが……分からないんだ」
「分からない? 何でだよ」
俺が割って入ってそう問うと皇は俯きながら話す。
「顔が分からないんだ。助けてくれた人がいたのは知っている。でも頭を打って意識が朦朧としていたから、ちゃんと見れなかった」
「ちなみに、名乗り出てきた人は居たかな? まあ……なんとなくは想像がつくけどね」
皇は華恋の言葉に首を振る。
「分かるのは、私よりも背が高いってこと。筋肉質だったから、たぶん男性って言うぐらいで……」
皇の声はだんだんと小さくなっていった。華恋は話を聞きながら自分の毛先をいじる。眉間にはだんだんとしわが寄っていた。
「つまり……皇君、君の相談は私にその相手を探せということかい?」
「……うん」
「随分と無理難題を言ってくれるね」
ため息を付いて、華恋は右手の中指でトントンと机を叩いた。
「でもっ、片桐さんはあの“魔女”なんだよね!」
「私は“魔女”なんかじゃないよ。専門家だ。魔法が使えるわけじゃない。私がやるのは情報収集と、状況を客観視してアドバイスを送るだけ。受け取り方は他人任せで、人探しは専門外。君に必要なのは私じゃなくて探偵だ。……もっとも、その探偵もここまで情報が少ないと依頼を受けてくれるかは怪しいところだけどね」
「そう……だよね。邪魔をした。無理難題を押し付けて悪かったよ」
皇はぽつぽつと、弱々しい声のまま言う。華恋は目を閉じて、皇と決して目を合わせなかった。
椅子の足が床をひっかいて音を立てる。皇が席を立って、僕たちに背中を見せた。これまで皇が見せていた力強い印象はずいぶんと弱々しい。
俺は見ていられずについ引き留めてしまう。
「皇、行くのか?」
「ああ。片桐さんのいう通り、頼る人を間違えているのは確かだしね」
「でも、華恋が言っただろ。探偵だって……」
「一人でも探すさ」
振り返った皇は力なく笑う。諦めと落胆を半々、そこに無理やり喜びを絞り入れて誤魔化したみたいな表情だった。
皇はまた背中を見せて、最初に入ってきた引き戸に向かって歩き、引き戸に手をかける。ガラリと音を立てて、出て行こうとした。そのとき華恋が皇を呼び止めた。
「皇君。最後に一つ、質問させてくれ」
「構わないよ」
「ありがとう。そもそも探し出してどうする気だい? ここまで頑なに正体を隠すということは……きっと相手は君に会うことを望んでいない」
華恋はそう断言する。皇を崖に叩き落とすような冷たい声色だった。それを受け入れられない皇は目を伏せて体を小さくした。
追い打ちをかけるように華恋は続ける。
「結末は君の望み通りにはならない。魔法は使えないけれど予言する。このまま忘れてしまった方がいい。その方が君のためだ。……なんて言ってもまだ探すつもりかな?」
華恋は目を開けて俯く皇をじっと見つめる。何かを見定めるように
チッ、チッと秒針だけが動く時間を乗り超えて、皇は華恋と目を合わせる。
「変わらないよ。あの人に望まれていないとしても、僕が望んでいる。ありがとうって言って、好きだと伝えなければ……この気持ちは死ぬまで収まらないだろうからね」
「その結果、君自身が傷つくとしても?」
「かまわない。傷だらけの人生にこそ価値があると僕は信じているから。それに、好きな相手に傷つけられるのなら本望だ」
皇の言葉を噛み締めるように華恋は聞き届けた。満足のいったように頷く。
「なるほど、どうやら君はただ他人任せで、傲慢な王子様というわけでもないらしい」
華恋は立ち上がって、皇に向かって歩く。ぶらりと揺れていた皇の左手を取った。
「その答え、気に入った。想い人探し、引き受けようじゃないか」
「良いのか? さっきまであんなに乗り気じゃなかったのに」
「ああ、玲二だって知ってるだろ? 私は片思いの専門家、片桐華恋。この手の話は大好物なんだ」
華恋は不敵に笑って、いつも通りそう言った。