肩で息をする華恋の背中を左手で撫でつつ、俺は職員室から出た。右手には相馬先生から回収したブレザーのボタンが握られている。改めて見ると少し特徴的に傷がついている。まるで荒れたアスファルトに強く擦りつけたみたいに、ボタンに深く跡が残っていた。なんにしても強い力がかかって外れたことは間違いないみたいだ。
「あのクソ教師、あとで絶対仕返ししてやる」
「やめとけよ。手玉に取られるだけだ。あの人そういうのにはめっぽう強いってお前もわかってるだろ」
「……そうだね。頭に血が上っていたみたいだ。調査に戻ろう」
華恋は「はぁー」と、深く呼吸をした後に両手で頬をパチンと叩いて気を引き締めた。劣化したリノリウムを数歩踏み、通報に使用された電話ボックスを見た。
そう、屋外に出ているわけでもないのに電話ボックス。おそらく会話を聞かれないようにするための配慮なのだろう。でも、半透明で誰が話しているか丸見えだった。
「これだと、見られただけで一発アウトだな」
「だから人払いをする必要があったんだろうね。でも、この電話ボックスの影に隠れていればすぐに見つかることもない」
華恋が身をかがめて電話ボックスの裏に姿を隠す。職員室の入り口付近に立ったままの俺からは彼女がそこにいるのか分からなかった。
自分で職員室への電話で人払いをして、それから公衆電話を使う。その姿を想像しつつ、電話ボックスの中に入る。
受話器を取って、緊急通報用のボタンを押す。仕草だけ真似をして、受話器を戻す。動作が単純すぎる。電話帳をめくる必要もない、メモを取る必要もない。証拠は当然残るはずもない。警察のように指紋を調査出来たら別だけれど、持ち合わせはないしな。ため息を付いて、電話ボックスから出た。
「なんもないな」
「だろうね。今までの“彼”の傾向からして余計なことをするとも考えにくい」
「そうなると残るは逃走経路か?」
「いや、パターンが多すぎて絞りにくい。昨日は水滴が残っていたかもしれないけれど、今となってはどこを通ったなんてわからないよ」
それもそうだ。クソッ……情報が決定的に欠けている。まるで買ったジグソーパズルの半分が入ってないような理不尽さを感じた。
俺が奥歯を噛み締めると華恋は不敵に笑う。
「でもその逆、侵入経路については検証をしていなかったよね」
「プールへの、か?」
「そう。元を辿ればそれが目的で活動をしていた訳だし。今は鍵も締まってることだし、丁度良いだろう?」
「お前なぁ……それって、俺に不法侵入しろってこと?」
「やらないのかい?」
「いや、やるけどさ」
真相を知るためには必要なことだし。むしろこの程度の無茶で済むなら安い。前に警察に通報された時と比べれば……。いや、感覚が麻痺してるな。
そんなことを考えながら階段を下り、プールへと戻ってくる。日はすっかり傾き、あれだけたむろしていた水泳部員たちの姿はもうない。遠くから聞こえていた野球部とサッカー部の声も聞こえなくなっていた。
今ここは昨日の事件発生時に最も近づいていると言っても良いだろう。
コンクリートでできた入口兼、更衣室。金網越しに見える二十五メートルプール。夕焼けに染まっても尚、中の様子は確認できる。この調子なら昨日、皇が落ちた様子も鮮明に見ることができたはずだ。
もし、俺がこの場から助けに入るとしたら走って更衣室に向かったと思う。でも、“彼”はそうはしなかった。ではどうやって中に入るか、だが……。
ちらりと金網の上の有刺鉄線を見る。まだ錆びておらず、金属光沢がキラキラと夕焼けを反射した。まだ真新しく緩んでいるところも見られない。あれに触れようものなら皮膚に深々と突き刺さるだろう。想像するだけで鳥肌が立つ。
「ひとまず、フェンスを一周回ってみようか」
華恋の言葉に頷いてぐるりと周囲を回る。入り口側から時計回りに、隙間や穴が無いか確認していく。入り口と反対側に来た時、華恋が足を止める。
「相馬先生の話だとこの向こう側にあのボタンが落ちていたんだよね」
「そうだったな」と相槌を打って、下から上に向かって緑色の金網目を辿る。少し途切れて有刺鉄線を見た。するとあれだけキラキラと光っていたはずなのに、くすんで見える場所があることに気が付く。
「あそこだけ錆びている」
「ん、どこ?」
「ほら」
俺は指差して、華恋は「本当だ」と呟いた。半周ほど回って、見てきた有刺鉄線はどれも真新しいものだった。視線を少しずらして、この先を見てもそれは変わらない。この位置だけ錆びついてる。
全面を張り替えているのなら、ここだけ張り替え忘れなんてありえない。逆に費用が多くかかるだろう。だとすれば──
「お前ら、そこで何している」
背後から声をかけられた。今日は何かと後ろから声をかけられることが多い気がする。振り返るとジャージ姿の大男、堂林が立っている。
「堂林君か。さっきぶりだね。私たちは調査の途中なんだ」
「調査?」
「ああ、依頼でね。昨日皇君を助けた人物を探している」
堂林は顔をしかめると、腕を組んでから俺たちを睨む。
「信じられないかい?」
「いや、そういうわけじゃない。ただ……」
「ただ?」
「なんでもない。お前らには関係のない話だ。それで、見つかりそうなのか? そいつは」
「残念ながら。まだ手ごたえは無くてね」
華恋が首を振る。
「特に“彼”がどうやって、この中に入ったのかがわからない」
「彼?」
「ああ、皇を助けた人物のことだ。そいつはプールに入口から入っていないみたいなんだ」
俺がそう補足すると、堂林は少し目線をそらす。首の後ろを手でなぞって決まり悪そうにする。
「心当たりがないわけでもない」
「本当か?」
「ただ……このことは他言無用で頼む。先生にばれると厄介だからな」
「それは勿論。約束するよ。私は口が堅いことで有名なんだ」
華恋、ゴシップ好きの奴がそれ言ってもあんまり説得力がないからな。
けれど堂林はその回答を信用したようで、背中を見せると「ついてこい」と短く言う。さっきまで来た道を引き返してコンクリートでできた更衣室まで戻って来る。
更衣室のコンクリートと、金網が直角に交わる場所。堂林はそこで、金網に足を引っかけて数歩分だけ登る。それから更衣室の屋根の淵に手をかける。後は懸垂の要領で強引に天井へよじ登った。そのままプールサイドへ飛び降りて金網越しに俺たちへ手を振る。ジャージの腹部がコンクリートで擦れて汚れていた。
手慣れた、あまりにも一瞬のことで俺と華恋は面を食らう。堂林は得意げに微笑む。
「あとは更衣室のカギは内側から空くから、あとはこのまま出るだけって寸法だ」
「……盲点だった。確かに更衣室の天井を使えば有刺鉄線も関係なく中に入れる」
「堂林、他にこの移動方法を知ってるのは?」
「水泳部員なら知ってるよ。他は分からないな」
もし“彼”がこの方法で移動したのなら、水泳部員である可能性が高い。だが……そうなると一つ、ロジックに不備が出る。
“彼”は部活をしていたから皇の事故に気が付いた。だけど、もし男子水泳部員なら昨日は部活が無かったはずなのだ。こんな時間まで残る理由はない。
纏まらない思考をプールから出てきた堂林の足音が中断させる。彼はさっきとは逆の手順で戻ってきたようだった。
華恋が頭を下げる。
「ありがとう堂林君。君のおかげで大事な手がかりが掴めた。少なくともプールには羽は落ちていなそうだ」
「……素直に空を飛んだわけじゃないって言えよ。堂林には伝わらねぇから」
「そうだね。すまない、堂林君」
「……謝られても困るけどな」
「それもそうだね」
華恋は腕を組んで、満足気に頷く。呆れながら、手に握っていたボタンを弄る。
「結局、このボタンはなんだったんだろうな」
「……あ」
堂林が目を見開いて、自分の腹部を抑える。さっきも見たけれどジャージがアスファルトについていた砂埃で汚れている。誤魔化すように彼はそれを手で払う。
「どうかした?」
「いや、なんでもない。悪いけど、俺はそろそろ帰るよ。さっさとしないと着替える時間が無くなる」
「ああ。付き合わせて悪かったね、堂林君。助かったよ」
華恋がお礼をした直後に堂林は走り去ってしまった。落ち着きがあるのか、慌ただしい奴なのか良く分からない奴だな。
「玲二、私たちもそろそろ帰ろうか」
「そうだな。今日はこのぐらいが限界だろうし」
俺たちは部活等へ戻り、部室から荷物を回収する。華恋が「鍵を返してくるから先に帰っていていいよ」と言ったので、その言葉に甘えることにした。
校門へ向かって歩くとその途中、ジャージから着替えた魚見と遭遇する。ブレザーを羽織らずにワイシャツとズボンだけ。きっと、走っていたから熱いのだろう。
彼は手を挙げて俺に目線を向ける
「よう。今帰りか?」
「ああ、お前も?」
「勿論。調査は上手くいったか?」
「そこそこだな。まだ、解決したわけじゃないけど」
「そうか。ちょっと聞かせてくれよ。駅まではしばらく暇だしな」
今日の魚見はやけにこの話題に食いつく。何か心境に変化があったのだろうか。まあ、世間に無関心よりかはずっといいけど。そう割り切って、今日調査したことを共有する。
受けた依頼のこと。職員室でのこと。それから現場検証のこと。全てを聞き届けた魚見は他人事みたいに笑った。
「芝居が下手だな。堂林は。本当は隠し事なんてできないタイプなんだろうな」
「……どういうことだ」
「どう考えたってその流れじゃ犯人は堂林だろう」
魚見は確信を持ってそう言っているようだった。簡単な算数の問題を答えるように、つまらなそうに言う。
「そのタイミングで逃げ去ったのなら、少なくともボタンを落とした覚えがあったんだろうな。それでいて、これ以上口を開きたくは無かったに違いない。逃げ出した理由は分からないままだけど」
「まだ、堂林が犯人と決まったわけじゃない。言っただろ、ボタンが落ちていたのはプールサイドだ。魚見の言い方だとボタンはプールの外に落ちてるはずだ」
魚見の言うように堂林がボタンを落としたのなら、それは侵入前、つまりは更衣室の上によじ登る途中で腹を擦ったタイミングになる。
でも実際、ボタンが落ちていたのはプールサイドだ。それも更衣室とは反対側だ。辻褄が合わない。
「それは大して重要じゃない。大事なのは反応だ。実は見つかっていないだけで、ボタンは外に転がっていて、プールサイドにはたまたま落ちていただけかもしれない」
「それは、そうかもしれないな。でも証拠がない以上、疑うわけにはいかない。早まって誤認逮捕でもしてみろ。懲戒免職だ」
そんな結末を迎えたくはない。今なら華恋も道連れになっちゃうし。
「だから限界まで調べたいんだけど、本当に足取りが掴め無いんだよなぁ……」
「……厄介だな、その相手は。お前みたいだ」
「俺みたい?」
「そう、前に教えてくれたじゃないか。事件性のある電話ボックスの使い方だとか、そういったトリビアをさ」
「あれは……親父がグチグチと酒飲んで喋ってたのを聞いていただけだ。実行犯ってわけじゃない」
「そうだったな」と魚見は頷いて、俺と目を合わせる。それから何かを思い出したかのように「そういえば」と呟いた。
「境は今でも刑事になるのが夢なのか?」
「正直悩んでいるよ。小さな時の夢と、歳をとるごとに見えてきた面倒臭さを天秤にかけてる段階だ。お前だってそうなんじゃないの。救急救命士、だっけ? 命がいくつあっても足りないだろ」
「そんなこと良く覚えていたな」
「そりゃあ、な」
小学生ながらそんな具体的な実例を挙げたのはお前ぐらいだったから。忘れようにも忘れようがない。昔から魚見は冷徹に夢を現実に引きずり降ろしていて、その姿は同級生の中では異質だった。
「大抵の奴は消防士って言うだろう? 俺は初めて聞いた時ピンと来なくて調べたんだ。そんなこと初めてだったから、よく覚えているよ」
「そうだっただろうな」
「それで、お前は? 今でもその夢は変わらないのか」
俺は魚見にそう問いかけた。魚見は間髪入れずに「勿論」と言って、こう続けた。
「なんて言ったってカッコイイからな」