夜。日付を跨ぐ直前。明日のための身支度を終えて、部屋の電気を消した。カーテンの隙間から差し込む月光が俺を寝床へと導いていた。
ひんやりとしたシーツの感触を確かめて体をベッドに預ける。瞳を閉じ、力を抜くと世界との境界線がぼやけていく。まどろみに抱かれる心地良さ。それを遮るように、スマートフォンが振動した。無粋なブルーライトが瞼の上から意識を覚醒させる。
古びた機械のような体を強引に覚醒させて、光源を断とうと手を伸ばすと『片桐華恋』の文字が見えた。受話器のボタンをスライドさせる。
「……もしもし」
『その声の調子だと起こしてしまったかな?』
「丁度ウトウトしていた所だ」
嫌味ったらしくそう告げる。華恋は『ごめん』と一言だけ謝罪する。
『でも逆に私は寝付けなかったんだ』
「だからって人を巻き込むなよ」
『正論だね。でも、玲二は許してくれるだろう?』
電話越しに華恋が笑ったような気がした。
全く、困った奴だ。昔からまるで成長していない。我儘で自己中心的で……一度ぐらい振り回される俺の身にもなって欲しいものだ。
でも、こうやって彼女が甘えてくることに悪い気がしない。そんな俺の気持ちを華恋は気づいている気がする。確かめる気にはなれないけれど。
「……明日はかけんなよ。二日連続で寝不足は勘弁願いたい」
「そうだね。考えておくよ」
「保留しないで了承してくれ。そうじゃないと電話を切るからな」
渋々華恋は「はいはい」とやる気がなさそうに返事をした。本当に理解しているのか不安になるけれど、言い出すときりがないので心の中で留めることにした。
「それで、何の用だよ」
『特にはないよ。ただ、眠たくなるまで話をして欲しいってことだけ。昔みたいにさ』
「昔っていつの話だよ。そんなことした覚えは……いや、結構あるな」
華恋の両親が出張でいないときや逆に俺の両親が長らく家を空けるときとか。
大きくなるにつれてそんなことも減っていったけれど、今でも俺たちの両親は仲が良い。
『あの時間、私は結構好きだったんだよ』
「俺は嫌だったな」
『どうして?』
「だって、俺が完全に目が覚めたタイミングでお前は寝入っているからな。強引に起こしてきた癖にさ」
『そうだったかな? 記憶にないね』
この野郎……都合のいいときだけそんなこと言いやがって。
「でも一回、絵本を読んでくれた時があったことは思い出したよ」
「ああ、それは俺も覚えてる。一回読んだら絶対寝ろって言ったんだ。でもお前結局寝なかったよな」
『だったね。何なら「二冊目を読んで」って
「昔からホント質が悪いな、お前」
我ながらここまで根気強く付き合ってやってると思う。他の人間なら音を上げているに違いない。
『そういえばあの時読んで貰ったのは「人魚姫」だったかな。今日はつくづく縁がある』
「縁……何が?」
『溺れた王子様に、それを助ける人魚姫。王子様はその正体に気が付かない……なんてね』
確かに。溺れた皇に、助けた“彼”。配役は男女逆だけれど状況は似ている。この場合俺たちは宮仕えになるのだろうか。
「結局、人魚の正体は誰にもわかりませんでしたって所まで踏襲されたら困るけどな」
『それは何としても阻止するさ。片想い専門家の名に懸けて』
「……やっぱりその名乗り止める気はないのか?」
『まさか。少なくとも目的が達成されるまでは止めないよ。分かりやすい看板があった方が客の集まりも良いからね』
華恋は断言する。
目的、この活動を始めてから華恋はこの言葉をよく使う。抽象的で、俺の頭には入ってこない言い方。彼女の本当の狙いを、意味を俺は理解できていない。
数々のゴシップを集めた果てに彼女は何を見出しているのだろう。
『まあでもともかく、目下のターゲットは皇君の依頼さ。それ以外は考える気はない』
「明日はどうするんだ? 学校は大方調べつくしたと思うけど」
「ああ、それなんだけど。確認したいことがあるんだ。私の推測が正しければ、あと一つピースがそろえば“彼”の正体は看破できる」
「……あ⁉ 心当たりがあるのか!」
あんまりにもしれっと答えた華恋に食いついた。“彼”の正体に感付いている様子を見せていなかった。それだけに、俺の動揺は大きなものだ。意識が完全に覚醒してしまうぐらいには。
華恋は「フフッ」と声を漏らす。
『驚いてくれたようで何よりだよ』
「そりゃあな。だって検討もつかないって感じだっただろ。誰なんだ?」
『それは内緒。まだ確定しているわけじゃないからね。最後に確認したことでその人物がグレーから白へ変わるかもしれない。だからまだ語るべきじゃないって言うのが正直な所かな』
俺が帰り際に魚見に言ったことと同じようなことを華恋は言う。
疑わしきは罰せず。無論俺たちは別に裁きを下すためにこんなことをしている訳では無い。けれど、色恋沙汰というある種の進路相談を受ける以上は投げやりに結論を出すべきではないのだ。その道がどんなに面倒でも。
「それで? 後は何を確認するんだよ」
「ああ、それはだね……っと。その前に確認だ」
「確認の前に確認かよ」
「まあ、そう言わないでくれよ。確信は持っているからさ。玲二は趣味の一環で調査用の薬品を集めてただろう。────、持っていたりしないか?」
華恋に言われた薬品。それは推理小説なんかでは一般的な物だった。消された証拠の復元なんかにも使われる。その効果の対象から、彼女が何を調べようとしているのかも想像がついた。
「持ってるけど……、どこに使う気だよ。今回は殺人事件じゃねぇんだぞ」
「それは明日のお楽しみ。放課後開催、片桐華恋の推理ショーまでお待ち下さいってね」
「わかったよ。じゃあ明日持っていくようにする」
「頼んだよ。じゃあ、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
華恋の大きなあくびの直後、通話が切断される音が聞こえた。時刻はさっきより大幅に進み、一時半。どんなに寝着きが悪くても、朝から起きていれば限界を迎える時間だろう。
だけれど俺の意識に靄はかからず、まるで台風一過の空のように雲一つない明瞭さだ。このままでは……明日の授業は居眠り尽くしになってしまう。せめてもの抵抗として、布団をかぶって目を閉じるけれど、睡魔は一向にやってこない。
こんな所まで昔と一緒でなくてもいいのにと、俺は微笑を浮かべた。
▼
朦朧とした意識のまま学校へと向かい、机に突っ伏して授業を受け、菓子パン一個で昼を済ませて再び寝て、放課後を迎えた。
途中入った相馬先生の授業で叩き起こされたが、まあ大まかには俺の送った一日はこの描写で済まされてしまう程度の物だった。
ようやく研ぎ澄まされてきた意識を携えてちらりと皇の席を見る。彼女も丁度俺の方を向いていておそらく要件はお互いに同じなのだろうと察した。
廊下を指差して促すと皇は頷いて、廊下へと出る。俺もその後を追って、外に出た。窓際の壁に寄りかかる彼女と対峙する。
「おはよう、境君」
「皇。今はもうこんにちは、だろ」
「いや、ね。朝の
皇はおどけた調子でそう言った。昨日の帰り際、彼女が部活の休止を知ったタイミングでは笑顔も無く、活力を失っていたから少し安堵する。インターバルを置いて彼女は生来の活発さを取り戻してきたようだった。
「それは、昨日別れた後もいろいろと調査や検討とやることが多かったからな。おかげさまで夜の睡眠を昼補わざるを得なかったというわけだ」
嘘だ。部分的には正解だが、主な要因は華恋の電話にある。皇に責任を押し付けるのはお門違いだろう。
けれど、そんなことを知らない彼女はペコリと頭を下げる。
「それは失礼した。僕のために境君がそこまで頑張っているとは想像がつかなかった。クラスで見る君にはもう少し、なんというかその…… 投げやりな印象を持っていたからね」
「意外か? でも依頼だからな。真剣にもなる。俺が手を抜いたおかげで華恋が掲げた看板に傷がついたら何を言われるのか分かったものではないからな」
「へぇ、片桐さんのことだと真剣になるんだ」
「そうは言って……いや、言ったも同然か。ここだけの話にしておいてくれ」
「行こう」と声かけをして部室等へと足を運ぶ。俺の右斜め後ろ、距離半歩に皇が付いてくる。その途中、他の人間に聞こえないように皇は小さく、俺に言う。
「それを聞いた後だと合点がいった。実を言うと境君には親近感を覚えていたんだ」
「使う言葉を間違えているんじゃないか? 俺と皇にそんな共通項があるようには思えないんだけど」
「あるさ。共に想い人に自分の気持ちを伝えられていない──とかね」
「それは同じかもしれないけれど、原因が根本的に異なるだろ。事象が同じでも大きな違いだ」
俺は華恋に踏み込めない。
己がそれに足る資格があるのか分からないから。
皇は想いを告げられない。
相手の姿が見つけられないから。
皇はきっと“彼”を見つけさえすれば、躊躇なく想いを告げるだろう。資格がどうだとか、相手がどうだとかそんなことを、一切考えることはないのだろう。
彼女には絶対の指針がある。究極にも見える自己肯定感が常に彼女の後押しをしている。俺とは天と地ほど、いや、月と海底ほどに差があるのだ。
俺と皇が似ているだとか、同じだとか、そんなこと口が裂けても言えない。
「難しく考えすぎじゃないかな。お互い似た課題を抱えていて、障害も同じく一つ存在している」
「それはシンプルに考えすぎじゃないか」
「それぐらいシンプルに考えないと動くのが遅くなるからね。何事も早くするに越したことはないだろう」
重く、鋭い言葉だった。行動を未だ起こせない皇からすれば、俺の行動は酷く怠慢で、憎らしく映っているのかもしれない。俺は思わず眉間にしわを寄せる。
「……耳が痛いな」
「別に責めているわけじゃないよ。ただ、勿体ないと思っているだけ」
「勿体ない?」
「見ている限りでは片桐さんだって境君に気があるようにも見えるからね」
「……はぁ!?」
何を言ってるんだ皇は。華恋が俺に気がある? そんなこと有り得ない。十年来の幼馴染であいつの事を誰よりも知っている自信があるが、そんな仕草片時も見せたことが無いのだから。
尤も、そうであってくれたらと想像したことは何度もあるが……。
「リップサービスは止めろ。一銭の得にもならないぞ」
「そうでもないんだけどな。こう見えても僕、相談を持ち掛けられることも多いし、見る目にはそこそこ自信があるんだ」
「だとしたら自己評価が随分と過剰だ。修正した方がいいぞ。そのうち痛い目に会う」
「そうかな」
「そうだよ。“魔女の遣い”として断言してもいい」
俺が皇の戯言を斬って捨てた所で、文芸部部室の前までたどり着いた。引き戸に手をかけて、開けようとした際に後ろの皇が俺の肩に手を置く。振り返って見ると皇の表情は硬く、影が差していた。
「なんだよ」
「いや、少し話しておきたいと思って。さっき、言い出し損ねてしまったから」
「何を?」
「それは……その」
やけに歯切れが悪い。さっきまで無茶苦茶なことをズバズバと言って来るような奴だったのに。
「はっきりとしろよ。言ってくれなきゃ分からないだろ」
「それは……そうだね。その通りだ。一瞬言わないことも考えたけれど、それはあまりにも君たち二人に対して不誠実だ」
二人に、という言葉が引っかかる。俺だけじゃない。華恋に対しても告げたい言葉。さっき彼女が言った、俺の好意について以上に告げにくいこと。
そんなものあるとは思えなかったけれど、皇はいとも容易くそれを更新した。
「今回の依頼、取り下げさせて貰えないだろうか」