「ちなみに、理由を聞いてもいいか」
突拍子もなく告げられた皇の言葉。彼女があんなことを口にした理由が分からない。けれど、昨日あれだけ執着していた事象に対してこうもあっさりと引き下がるのならば、何かしら重大な理由があるはずだ。
「当然の疑問だね。まあ、端的に言ってしまえば資格がなくなったからだ」
「資格?」
「そうだ。私には想いを告げる資格が無い。なにせ、“彼”の大切なものを奪ってしまったからね」
皇は自虐的に、自分を貶めるようにそう言った。今にも崩れそうな弱弱しい表情で、自分に言い聞かせているようだった。彼女は進んで自分の心に傷をつけようとしている。
「“彼”って……皇、お前はあいつが誰なのか分かったのか」
「わかったとも。私を助けた人間は堂林君だ。彼以外に私を助けられる人物は存在しない」
堂林が皇を助けた人物。現時点でその可能性は否定できない。華恋の言っていたあと一つのピース。それを確認しない限りは。
だが、皇が“彼”の正体を堂林だと確信した理由はなんだ? 俺たちが見落としている証拠があったって言うのか? それが気になって仕方が無かった。
「何で、そう思ったんだ」
「君たちと別れた後、堂林君が言っていたんだ『もっと早く気が付いていればこんなことにならなかったかもな』って」
息を呑む。おそらくその後悔には「
情報を整理している俺に向けて皇は続ける。
「それだけじゃない。プールの密室を破る方法は水泳部しか知らない。彼はその条件を満たしている」
「ああ、俺も聞いた。更衣室の上を登っていくなんて想像もつかなかったよ。でも、何で最初に教えてくれなかったんだ? そうすればもう少し絞り込むのが楽だったのに」
「……水泳部が助けに来たと思っていなかったからね。私以外の女子水泳部は更衣室にいて、男子は休みで居ないはずだった。それに、部外者にああいう情報をポンポン渡すわけにもいかない」
「それはそうだな」
回り回って、そこいらの不良生徒にでも知られたら面倒なことになりそうだし。警戒するに越したことはない。納得のいく理由だ。
「だが、仮に堂林がお前を助けていたとしよう。それで? お前は堂林の何を奪った」
「部活をする時間だよ。水泳部がプールを使えなくなったなんて致命的だ。それも高校三年目、最後の大会の直前にだ。その原因が僕にある」
昨日、皇が職員室から去ったときのことを思い出す。明らかに士気を落として、自責の念に駆られていた。皇は自分のせいで水泳部全体に影響が出たことを許せないのだろう。
「……あれは事故だろ。気にするべきじゃない」
「それでも気にせずにはいられない。それに……他のみんなは恨まずにはいられないだろうさ」
「だから、依頼を取り下げるってことか」
「そうだ」と皇は頷いた。彼女の言っていることには筋が通っているように思える。例え悪気が無くても、本人の意思でどうにかできる範囲を超えていたとしても、人の悪意はそう簡単に遮断することはできない。もしその憎んだ対象が微笑んでいたとしたら、その幸せを壊してしまいたいと思うことだってある。
皇の判断はきっと正しい。憎まれ役として、部員たちの緩衝材になることは必要なのだ。けれどそれは
「だったら却下だ」
「なっ、どうして! 依頼者が取り下げるって言ってるのに」
「そんなの決まってるだろ。皇、お前の顔に『嫌だ』って書いてある」
俺は皇の額に向けて指を刺した。
どんな場合でも例外なく俺たちは依頼人を笑顔にする。この活動を始めた時に決めたことだ。それが約束できないのなら辞めてしまえと華恋には釘を刺していた。提案した以上、俺からその誓いを破るわけにはいかない。
「本当は止めたくないはずだ。周りの空気に流されてそんなことを言ってるんだろ? お前らしくない」
「……僕らしく?」
「そうだよ。俺の知ってるお前はもっと空気の読めない奴だったぜ。誰に何を言われても自分のことだけは曲げない。そういう信念を持っているように見えた」
クラスで見るありのままの皇のイメージをそのまま出力する。時に鬱陶しく感じることがあったけれど、その無遠慮さに救われた人間もいるはずだ。
俺はそんな皇のことを嫌いではなかった。自分にはできない事を平然とやる彼女に一種の憧れを抱いていたのかもしれない。だから──
「皇にそんな風に自分の気持ちを押し殺して欲しくない。それに、お前自身が言っていたはずだぜ。“傷だらけの人生にこそ価値がある”……だろ?」
最初、皇が文芸部に来た時に答えた言葉。華恋が依頼を受けることに決めた信念を表す言葉。それを笑って口にした。皇が目を見開いて、俺を見る。それから何かを確認するかのように一度目を閉じた。
「……そうか。そうだったね。まさか過去の自分に説得されるとは思わなかった。前言撤回だ。さっきの話は聞かなかったことにしてくれ」
「最初からそのつもりだよ」
俺は頷いてそう答えると、部室の引き戸を開けた。既に椅子に陣取っていた華恋を見ると口角が少し上がっていることに気が付いた。おそらく俺たちの話を聞いていたのだろう。気が付いていたのなら俺に加勢してくれれば良かったのにと心の中で愚痴を漏らす。
華恋は読んでいた本に栞を挟んで音を立てて閉じる。
「やあ、皇君。よく来たね。待っていたよ」
「ごめんね、片桐さん。待たせちゃったよね」
「ああ、いや。別に嫌味を言ったわけではないんだ。私が楽しみで仕方がなかっただけのことだよ」
華恋は席を立つと、皇が初めてこの部室に来た時と同じように黒板の前に向かう。それからチョークを手に取って昨日の調査結果を簡単に話す。
まずは当日犯人が行った行動の軌跡。まず更衣室の隣からプールに侵入。皇の救出を行い脱出。職員室に非通知で電話し、職員室の隣の公衆電話で救急車を呼んだ。
その後に関しては足跡を追えていないが、下校したのは間違いない。校舎にずぶ濡れの状態で残り続けるのはあまりにもリスクが高いからだ。
続いて、事情聴取した時の堂林の様子を話すと皇は「やっぱり」と呟いた。
「やっぱり堂林君が僕を助けたんだね」
「いや、そうとも限らない」
華恋が首を振る。皇は「どうして」と首を傾げた。
「確かに現状での最有力候補は彼だ。けれど、一つ不思議な物を見つけてね。調査結果次第では全てが引っくり返るかもしれない」
「片桐さん、それってどんな物なの⁉」
「そう焦らなくても実際に見せるよ」
食いつく皇を華恋は両手でなだめると、人差し指を立てて得意気に続ける。
「実を言うとね、人も場所も物も準備は済ましてあるんだ。どっかの誰かさんが一日使い物にならなかったから大変だったんだけれど」
「……悪かったな。それで? 場所はどこだよ」
「ホント玲二は察しが悪いな。真相の解明はいつだって事件現場だと、相場が決まってるだろう? 私たちが行く場所はプールさ」
華恋は人差し指を廊下に向けてそう言った。
▼
部室棟の階段を下って、俺たちはプールの前まで移動した。更衣室の手前、今は閉ざされている扉の前には三人の人物が立っている。
一人は我らが顧問、相馬先生。いつものくたびれたスーツ。ポケットに手を突っ込んでいる。
もう一人は堂林。部活が中断されたためか制服姿のまま、何か相馬先生と話し込んでいた。
そして最後の一人は魚見だった。部活の途中だったのかジャージ姿のまま、二人の話に耳を傾けている。右脚にはまだ包帯が巻かれていて、見るたびに痛々しく感じてしまう。
魚見の存在は皇にとって意外だったのか、ぼそりと彼の名前を口にした。華恋が軽く手を振って、彼らに近づいて声をかける。
「相馬先生、ありがとうございます。彼らを集めて頂いて」
「いや、俺は声をかけただけだ。礼ならこいつらに言っておけ」
「それもそうですね。悪いね、二人とも。急に呼び出したりして」
「俺は部活が無かったからな問題ないさ」
「俺も。部活サボれるしな」
堂林の言葉に魚見が続く。魚見……お前剣道部の主将だろう。そんなこと間違っても部員の前で言うなよ。
二人の了承を経て、華恋は相馬先生に再び向かい合う。
「先生。それで……鍵は借りられました?」
「問題ない。名目上、事故の事情聴取ってことになってる」
相馬先生はポケットから鍵を取り出すと、人差し指でくるくると回す。またそれっぽい言い訳をでっちあげたのか。そんなことやって、怒られても知らないぞ。俺たちとしては大変助かるんだけどさ。
「じゃあ早速中に入ろう。時間は有限だからね」
華恋の号令で相馬先生は鍵を開ける。彼に続いて俺たちは靴を脱いで、プールサイドへ足を踏み入れた。揺れる水面が放課後の日差しを反射してきらきらと光る。漂う塩素の香りを嗅ぐとどこか懐かしく、ノスタルジックな気分になった。もっとも、先週に体育で使ったので懐かしむほど時間は経っていないのだけれど。
華恋がわざとらしく咳払いをして、注目を集める。
「では早速を始めようか。皇君がどのように助けられたのか……その立証をね」
「立証……片桐にはもうその答えが分かっているということか?」
「堂林君、それはまだだ。絞り込めているけれど確定はしていない。確定させるために君たちを呼んだんだよ。そうすることで結果的に皇君を助けた人物が判明するはずだ」
堂林の問いに華恋が答える。
華恋の言う通り、必要なのは立証だ。「たぶん」や「おそらく」ではいけない。曖昧なロジックでは狡猾な“彼”は煙に巻いて逃げてしまう。確定している真実を結び付けて、煙を閉じ込める檻を構築し真実を暴き出す。
ペタペタと素足の華恋がプールサイドを歩きだした。
「まず初めに、この事故はいつ、どこで起きたのか……玲二。復習がてら教えてくれよ」
俺を小ばかにしたように華恋は言う。いくら俺でもそれぐらいは当然わかっている。ため息を付いてから華恋を睨む。
「放課後、プールサイドで転倒だろ」
「そうだね。さらに細かく言えば、その時皇君は忘れ物の確認をしていた。部活の終わった後一人でね。ついでに聞くけれど、プールサイドのどこで転倒したのかな」
「それもわかってるよ。入り口とは反対側。つまり俺たちがいる所の二十五メートル先だ」
「正解。そこで足を滑らして、そのままプールへと転落した……だったよね、皇君」
皇が頷く。これは依頼を受けた時には聞いていることだ。それを改めて俺たち以外の三人に伝えたのだろう。
「その後、例の人物が助けに入る訳だけれど……まずは落ちた所を発見しなければ、助けようがない。では、魚見君。どこに居れば皇君がプールに落ちたと分かったと思う?」
「プールの外だろう。プールサイドに他の水泳部員がいなかったのなら当然だ」
「ご名答。しかし、外にいたのならば中に入らないと助けようがない。この金網と有刺鉄線で覆われたこのプールサイドに」
華恋は両手を広げて、プールサイドへと目線を誘導する。人間の身長よりも高い金網。ギラギラと輝く有刺鉄線。この二つの組み合わせは外界からの来訪者を拒絶する鉄壁の要塞のように思えた。けれど、その突破方法既には暴かれている。
「けれど堂林君、君は
「……片桐。あまり大きい声で言うなよ。相馬先生もいるんだから」
「堂林、あとで話があるから職員室に来い」
「……ごめん、堂林君」
華恋が全力で堂林から目をそらす。それから全てを無かったことにするように二回、咳払いをした。それで誤魔化すつもりなのかよ。堂林がかわいそうになってきた。
だけどまあ、主題には関係ないから起動修正しよう。
「ついでに言うのなら、その侵入方法を知っているのは水泳部ぐらいなんだよな?」
「そうだな。部外者には教える必要もないし……下手に広まったらこうやって怒られるからな。はぁ……」
「堂林、何か不満か?」
「いえ、なんでもありません!」
「……ならいい。まあともかく水泳部関係者の可能性が高いのは分かった。だがな、片桐。それだけじゃ足りない。団体から個人まで絞り込んでこそ立証だ」
相馬先生の言うとおりだ。俺たちの立証はまだ済んでいない。この段階で“彼”の正体を告げるのならば、サイコロを振るようなものだ。
華恋は「わかってますよ」と返事をすると、ブイサインを掲げる。
「だから、あと二つの条件でこの立証を仕上げて見せますよ」