華恋はポケットからあるものを取り出した。それは昨日相馬先生に頭を下げてまで手に入れた品。ブレザーのボタンだった。強く傷がついていることが遠目で見ても良くわかる。華恋は他の三人に向けてボタンを掲げた。
「まず一つ目の条件。これは昨日、皇君が助けられた後の現場で発見された物だ。見ての通り表面に深く傷がついていて、何か固い物に擦りつけられたように見える。このようにブレザーのボタンに満遍なく傷をつけるためには路上でヘッドスライディングでもしないといけないと思っていたのだけれど……」
華恋が堂林をちらりと見る。先日彼が見せた侵入方法。侵入後、彼の腹部はコンクリートに擦れて、ジャージには汚れが付着していた。
もし侵入した時に制服を着ていたのならば、コンクリートに擦ってボタンが外れても不自然ではない。ボタンの傷跡も説明がつく。
「だけど昨日堂林君がプールに侵入する様子を見て気が付いたんだ。屋根伝いにプールに侵入するとき、必ずと言っていいほど腹部をコンクリートに擦ることになる」
「つまり侵入した時にボタンが擦れて外れ、証拠として外に転がっていた……というわけか。だったら昨日正体をくらませた奴はやっぱり堂林で決まりだな」
魚見の視線は射貫くように堂林を見つめていた。彼には何か思い至るところがあるのかもしれない。その真意を探るために俺は魚見に問いかける。
「魚見、何でそんなことが言える?」
「見ればわかるだろ? 堂林のブレザーの一番下……ボタンが外れているぜ」
チラリとみると堂林の制服には金色のボタンが付いていなかった。
昨日あのボタンを堂林に見せた時のことを思い出す。彼はボタンを見るなり自分の腹部を抑え、あの場から走り去った。あの時は疑問にも思わなかったけれど、今の制服の状態を見れば彼の意図は明確だ。あの外れたボタンの存在を知られたくなかったのだろう。
「魚見君の言う通り確かに堂林君は怪しい。正直に言って第一候補だ。けれどまだ彼がやったと確定したわけじゃないんだ」
「片桐さん、それはまだ候補者がいるってことかな?」
「その通りだよ、皇君。ここで二つ目の条件が重要になってくる。……彼は如何にしてこの場を抜け出したのだろうか?」
その疑問をここに居る人間に向けて投げかけた。真っ先に食いついたのは堂林で、彼はバツが悪そうに視線を斜め下に向ける。
「もう一度更衣室の屋根に上って出ればいいだろ? 昨日やって見せたじゃないか」
「それも方法の一つだね。堂林君や皇君と同じ水泳部員だったのなら侵入だけじゃなく脱出も更衣室の屋根を使っただろう。でも“彼”はそうしなかったとも考えられる」
「片桐、何が言いたい」
「相馬先生、簡単なことですよ。ここには別ルートで脱出した形跡も残っている。ねぇ? 玲二」
華恋の言葉に俺は頷いて、プールサイドを少し移動する。向かう先は昨日発見した不自然な痕跡。新品の有刺鉄線に一か所だけ存在する異質な変色。俺はそれを指差した。
「皇、これなんだと思う?」
「……錆、かな?」
「確かにそのようにも見えるけど俺はこれを血痕だと思っている。もしそうならば“彼”は負傷覚悟で有刺鉄線を乗り超えて脱出した……ということになる。ボタンが近くに落ちていた理由にも説明がつく。乗り越えるときに有刺鉄線にひっかけたんだ」
加えて本当に血液ならば堂林への疑いは一気に白紙だ。なぜなら彼には痛々しい傷は無いのだから。逆に最前線に躍り出るのはあいつしかいない。
視線を移す。この場所で唯一負傷している人間。今も痛々しく包帯が右脚に巻き付いたままの“彼”。そいつは俺と目が合うとふてぶてしく笑った。
「そうだろ、魚見」
「俺を疑っているのか? まず俺がそんな怪我するリスクを払ってまで人を助けると思うのか?」
「思うよ。逆にお前が助けない理由が無いだろ」
俺は知っている。魚見がどれだけ自分の夢に真摯に向き合ってきたのか。自分の理想を追求してきたのか。昔から自分の在り方を曲げることは決してしなかった。だからそんな言葉は嘘だと一蹴できる。
俺の言葉を受けて、魚見は困ったように肩をすくめる。
「……どうかな。だいたい、お前が血痕だと勘違いしているだけで本当は錆なのかもしれないだろ」
「そうかもな。でも不自然だとは思わないか? 周りの有刺鉄線は全て新品なのに、一か所だけ錆びているなんて。まさかここだけ古いままってことは無いだろう?」
「確かに不自然だ。けれどそんなこと俺たちで議論していたって仕方が無い。目で見て錆か血痕か判断できるわけが無いんだから」
そう言われるのは分かっていた。逆の立場なら俺だってそう反論する。だからそれに対抗する手段を用意していた。
俺は持って来ていたリュックサックから薬品を取り出す。この事件を収束させるための切り札。その出現に魚見が表情を歪めた。
「これはルミノール試薬。古くから血液の鑑定に使われる薬品だ。血液やその痕跡に吹きかけると青白く発光する。血痕の判別は可能だ。こんな風にな」
霧吹きを使って有刺鉄線に試薬を吹きかけると、錆のように見えていた物が青白い光を放ち始めた。この空間に馴染まない不自然な光。それを見た魚見は口早に言う。
「確かにそれは血液のようだが……俺の血液とも限らないだろ。俺の怪我は昨日の帰り、自転車で転んだ時の物だ」
「確かにそれは難しいな。DNA鑑定をしなきゃいけなくなる」
DNA鑑定なんてとてもじゃないが個人では行えるものじゃない。今すぐこの場で彼の血液と血痕が一致していることを証明できない。一見反証としては完璧だ。だけど大事なことを見落としている。
「お前らしくないな、魚見。その言葉……致命的だぜ」
「……何が言いたい」
「本当に自転車で転んだというのなら、その包帯の下を見せてみろよ。証言が本当なら擦り傷。有刺鉄線で負傷したなら切り傷ができるはずだ。先に言っておくが『見せない』は無しだぜ」
失言に気が付いた魚見が噛み締める。数秒の沈黙。目を伏せて、何も言えない“彼”に堂林が手を置いた。
「もういいよ、魚見。俺は大丈夫だから」
「……そうか」
魚見が堂林の言葉に安心したようにそう応える。不思議なやり取りだった。彼ら以外には意味が伝わらなかったけれど、きっと重要な意味を持っていたように思える。
魚見は伏せていた目を上げて俺を見ると、観念したように両手を挙げると「参った」と口にした。
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俺たちは文芸部の部室へと向かっていた。太陽はすっかり山に隠れて、茜色に染まった空が間接照明のように柔らかな光をばらまいている。
階段を上りながら、自分の頭上で揺れる黒髪を眺めた。華恋が足を止めて俺に向けて振り返る。
「それにしても、魚見君はなぜ皇を助けたことを黙ってたんだろうね」
確かにそれは気になっていた。俺たちが追及していたのは「誰がやったか」であり「何故やったか」ではなかった。まあ依頼内容から外れていたというのもあるけれど、気になるものは気になる。
「さてね。そういうのは本人たちだけが知っていればいいだろ。好奇心は猫を殺すって言うしな」
「それはまあ……そうなんだけどね。でもスッキリしないじゃないか。玲二だって気になるだろう?」
「それは、そうだけど……」
「まあ考察するぐらいは許されるだろう。いいや、報酬として許して貰おうじゃないか」
「……あることないこと言って回らないならいいか。噂は流すなよ」
自分の中で好奇心と倫理観を戦わせて、好奇心が辛勝した。俺の言葉に満足したように華恋は笑う。残った階段を数段跳ねるように登る彼女をゆっくりと追った。
部室棟の二階はやけに静かで、まるで俺たち以外の人間が滅びた後みたいだと思った。二人並んで廊下を歩く。華恋が人差し指を立てて、得意気に話を続けた。
「なぜ魚見君は助けた皇君から逃げたのか……私はね、“人工呼吸したのは良いものの、恥ずかしくなってしまった説”を推したい」
「頭の中真っピンク色かよ」
「なんだぁ、その不満気な感じは。そう言うからには玲二は説得力のあるものを挙げてくれるんだろうね!?」
ぐいぐいと詰め寄ってくる華恋に気圧されて俺は一歩後ろに引く。
こうも強く言われてしまうと全くもって考えていなかったとは言いにくい。現実味のある説を思案する。
魚見は少なくともお礼を言われることに抵抗があるタイプではない。何なら素直に受け入れるだろう。そんな彼が逃げなければならなかった理由があるとすれば──
「魚見は堂林と皇をくっつけたかった……とかかな?」
「そんなことあるかな」
「少なくとも、華恋の説よりは可能性はあると思うぜ」
「そう言い切るだけの根拠はあるんだろうね?」
華恋は眉間にしわを寄せて、不服そうに更に詰め寄る。半歩下がると廊下の壁が踵に当たった。俺はため息を付いて、頭一つ分低い彼女の身体を押して距離を取った。
俺の気持ちも知らないで、華恋は昔のままの距離で接してくる。それは嬉しい事なのだけれど、反面、これ以上の進展は望めないと言われている気もする。複雑な気分だった。
気持ちを事象から切り離して、議論へ引き戻す。
「魚見は堂林が皇を好きなのを知っていた。応援する立場だったんだ。だから今回の事件で堂林を犯人にすれば、ドラマチックな出会いで二人を演出できると考えた……なんてな」
「何をどう見てそうなったのさ」
「最後、魚見は堂林に言われて反論を
「そうだったね。まだ逃走後の経路だとか議論の余地はあったのに……」
「あれはたぶん堂林が魚見の狙いを察して『そんなことをしなくてもいい』って伝えた結果だと思ったんだ」
「なるほどね……まあ、何はともあれ、これにて一件落着だ。人魚姫は王子様と幸せに暮らしました……ってなるといいね」
「……そうだな」
理由はどうであれ、魚見がした行為は泡へと消えなかった。横からやってきた他のお姫様に手柄をさらわれることもなかった。
後は皇が思うがまま、想いを告げられたのなら……俺たちとしては大変満足だ。「めでたしめでたし」と本を閉じられる。そうなることを願って、部室の引き戸に手をかけた。
1章「その初恋は泡に消えるのか」 了
ベリー疲れた。