恋愛は謎解きのあとで   作:滉大

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早坂愛は伝えたい

「荷物をお預かりします」

 

 四宮かぐやは学高生活での必需品が入った鞄を、差し出された手に置いた。

 かぐやの使用人である讃岐光谷は、まるで宝石でも扱うかのように繊細な所作で、丁重に鞄を受け取った。

 そのまま広い、いや広大なとすら表現できる玄関をかぐやは進んだ。四宮かぐやは大財閥の長女。大財閥ともなれば別邸ですら巨大。

 その背後を讃岐が付かず離れずの距離で歩く。黒々とした衣服も相待って影法師のようである。学園から帰宅直後なので仕事着のダークスーツではなく、秀知院学園指定の黒い制服を着用していた。

 ふと気になって、かぐやは立ち止まり振り返った。

 

「貴方だけ? 早坂はどうしたの」

 

 普段は護衛も兼ねて一緒に車で帰宅しているのだが、今日車に乗っていたのは讃岐だけだった。

 主人の問いに従者は答える。

 

「他の仕事を済ませる為、私より先に帰宅しております。先程もお伝えしたのですが、思索に耽っておられるご様子でしたので、聞き逃したとしても無理はございません」

 

 些か皮肉げに聞こえるのはかぐやの被害妄想か、普段の行いがそう思わせるのか。

 

 後者ね。

 

 かぐやは決めつけた。何せこの男、国家の心臓たる四宮家長女であり、奉仕するべき主人である四宮かぐやに対して、ある時は暴言を吐き、ある時は伝書鳩代わりに使い、ある時は傀儡にして自分の言葉を代弁させたりと、とにかくやりたい放題なのだ。

 それだけなら、主人の権限を行使してクビにしてしまえばいいのだが、かぐやがそうしないのは讃岐の唯一の長所、名探偵顔負けの推理力と、極々ほんの稀に少しだけ頼りになる時があるからだった。

 従者が「思索に耽っておられた」と慇懃無礼に宣ったので、かぐやは学校での出来事を思い出した。

 

「はぁ、まったく困ったものね」

 

 ため息と共に呟いたかぐや。意を汲んだ讃岐がすかさず応答する。

 

「どうかなさったのですか? お嬢様」

 

 予想通りの反応。かぐやは続けた。

 

「今日会長にソーラン節を教えたのですけど」

「それはそれは。お嬢様の慈悲深いお心遣いには感服致します」

 

 過剰なまでの賛辞をかぐやは慣れた様子で受け取る。

 

「それはいいのよ。大した労力でもないですから」

「では何がよくないので?」

「邪魔が入ったのよ」

 

 放課後の出来事を思い出したかぐやのボルテージが上がる。対照的に讃岐は「はぁ」と気の抜けた相槌。

 従者の反応が芳しく無かろうと、かぐやは構いはしない。

 

 予定通り事を運べば、会長は絶対に私を意識する筈だったのに! 

 

 踊りを教えるとなれば、立ち姿や所作を中心的に指導する。そしてそれらを正そうとすれば、ボディタッチが発生するのは必然。白銀も健全な男子高校生、ボディタッチで意識しない筈がないというのがかぐやの思惑だった。

 

「お嬢様の邪魔をするとは、命知らずな方でございますね」

「藤原さんはいつもそうなのよ。会長は私が育てるとか、訳の分からない事を言って……」

「彼女でしたか。であれば命知らずなのも納得です」

「……藤原さんも貴方には言われたくないでしょうけどね」

 

 この男の言動は、最早命を捨てに来ているとしか思えない。仕えているのがかぐやではなく、兄達だったなら20回は死んでいる。かぐやは自分の寛大さを再認識した。

 ツッコミによりボルテージが下がって、落ち着きを取り戻したかぐや。そこに驚くべき言葉が投げかけられた。

 

「で?」

 

 で!? 

 

 その対応は、かぐやにとって人生で初めての経験だった。

 かぐやの使用人は四宮家が厳選に厳選を重ね選抜される。仕事の質は勿論、教養と礼節を兼ね備えたプロフェッショナル。それがかぐやの知る使用人である。

 怠惰、姑息、毒舌、無礼、そして……無駄に高身長。

 屋敷の内外、場所を問わず、やりたい事、言いたい事をとにかく実行する腐った性根。

 まるで主人への敬意を忘れたかのような自由さが、かぐやの腸を煮え返らせた。

 

「お嬢様、如何なされたのですか?」

 

 讃岐が心配そうにおずおずと尋ねる。

 

「どうもこうもないわよ!! 『で?』って何よ! でって!?」

「お、落ち着いて下さい、お嬢様! 他の者達が驚いてしまいます」

「誰のせいよ!」

 

 そこでかぐやはある可能性に思い至る。  

 

「貴方もしかして、私がまた妙な事件を持ち込んだと期待したの?」

「いえ、決してそのようなことは……」

「それなら『で?』にはどんな意味があったのよ」

「……正直に申しますと、その様な気持ちが無かったとは言えません。ですが私、お嬢様のどの様なお話にも耳を傾ける所存です。……ただ」

「ただ?」

「何と言うか、少々、本当に少しだけですが、真面目に聞いて損したと言いますか……」

「ぶん殴るわよ」

 

 申し訳なさそうに何ふざけた事言ってるのかしら、この不調法者は。

 

 その声が聞こえたのは、かぐやが思わず握り拳を作り、視線の先に讃岐の顔面を捉えた瞬間だった。

 

「えっ、本当に来れるの!?」

 

 喜色を帯びた声音。普段聞き慣れている筈の声だが、かぐやは一拍遅れて声の主が誰か理解した。

 

「あら?」

「おや?」

 

 讃岐も珍しそうに片眉を上げた。

 かぐやにとっては姉のような存在であり従者。讃岐にとっては同僚に当たる彼女の普段からは考えられない歓声。かぐやと讃岐の野次馬根性は大いに刺激させられた。

 2人は廊下の角からひっそり顔を出した。廊下の先では早坂愛が笑顔で電話していた。

 

「嬉しそうね。……まさか彼氏かしら。讃岐、貴方は何か知ってる?」

「いえ、存じ上げておりません。というか変わり様が凄いですね」

 

 満面の笑みを浮かべる様に、クールで完璧な近侍の面影は無い。

 

「うん! 約束だよ、ママ」

 

 マザコン……。

 

 電話の相手は早坂の母親、早坂奈央であるらしい。

 早坂の知られざる一面を目の当たりにしたかぐやと讃岐は、目の前の光景を見なかった事にして、その場を静かに離れた。

 

「奈央さんはお嬢様にとって義理の母のようなものだと伺いました」

 

 幅の広い廊下を進みながら、讃岐が口にする。

 

「ええ、そうね」

 

 かぐやの母親は、かぐやが産んですぐに心臓病で他界している。以降は奈央が母親代わりとしてかぐやを世話していた。

 

「ではやはり、幼い時分から命をすり減らすようなスパルタ教育を?」

「何がやはりなのか全く分からないのだけど。貴方は奈央さんと何だと思っているの?」

「鬼か妖魔ですね」

 

 讃岐は間をおかずに即答した。

 

「随分な言いようね。というか鬼は妖魔に含まれるでしょう?」

「では悪鬼羅刹です」

「ランク上がってるわよ」

 

 頭痛を抑えるように額に手をやったかぐやは、深くため息を吐いた。

 

「どうせ貴方が無礼な言動で奈央さんを怒らせたのでしょう? 少しは自分の行いを省みなさい」

 

 讃岐は心当たりがない、と言わんばかりの惚けた顔で首を傾けた。

 

 

 ◯

 

 

「誠に申し訳ありません。本邸より呼び出しがありましたので、明日は留守にさせていただきます」

 

 讃岐がそうかぐやに伝えたのは、体育祭を翌日に控えた夜だった。

 最近では早坂だけでなく讃岐も、かぐやの自室に呼び出される頻度が多くなった。当初よりは信頼しているからなのだろう。それが良い事なのか悪い事なのかは判断できない。

 髪を下ろし、服装もワンピースと寛いだ様子のかぐやは、椅子の肘掛けに手を置いた。

 

「それは構わないけれど。明日の体育祭は欠席するのね」

「はい。お嬢様の勝利に貢献できないのは、私としても非常に残念でなりません」

 

 体育祭は紅白対抗で行われる。かぐや達が所属する2年A組は白組に配置された。白銀と藤原の居るB組は赤組、石上、伊井野のクラスもも赤組なので生徒会では唯一の白組。

 会話を聞いた早坂は、悪い予感に襲われた。

 自分の母親である早坂奈央と讃岐が、仕事で行動を共にしているのは既知の事実。讃岐に仕事があるのなら、奈央も同様の可能性が極めて高い。

 

「早坂? どうかしたの?」

 

 心配が表情に出ていたらしい。早坂は心配事を頭の隅に追いやって、持ち前のポーカーフェイスを作った。

 

「何でもありませんよ。かぐや様」

 

 尚も怪訝そうな表情だったが、かぐやは「そう」とだけ呟く。讃岐の黒曜石のように澄んだ瞳が、一瞬、早坂に向いた気がした。

 

 早坂の主観として、讃岐光谷は体育祭なんて下らないと吐き捨てる程、捻くれてはいない。かといって、積極的に参加するかといえば、それ程素直でもない。過度に手を抜いたりはしないけれど、全身全霊を持って競技に臨んだりはしない。程々に楽しむスタンスであるのは読み取れた。

 讃岐は体育祭に深い思い入れはない。そこまで分かっていても、早坂は踏ん切りがつかないでいた。

 体育祭に参加できなくなった讃岐に対して、自分の母が体育祭に来れるか尋ねるのは申し訳がない気がしたからだ。

 聞こうか、聞きまいかと迷いながら、黒い背中を追う。何も言い出せないまま、とうとう玄関に到着した。

 ダークスーツの背中が180度回転する。

 

「君が見送りなんてね。明日は雪かな?」

 

 失礼な言いようだ。確かに見送りが目的ではないけれど。

 

「認識に誤りがあるようですね。私だって見送りくらいしますよ。一般的な礼儀として」

「そりゃあ、どうも」

 

 皮肉っぽく返した早坂に、わざとらしく大袈裟にお辞儀をして、薄く笑みを浮かべる讃岐。

 

「明日は体育祭だし、実際雪が降ったら困るよね」

「そう、ですね」

 

 ポーカーフェイスには自信がある。だから表情は変わらなかった筈。しかし、声音は僅かに沈んだ。

 聞くなら今しかない。意を決した早坂が口を開くより早く、讃岐は声を発した。

 

「体育祭には奈央さんもくるんだろう? 偶には家族水入らずで楽しむといいよ」

 

 保っていた鉄仮面が崩れ、青い瞳を見開いた。

 この男は人の心が読めるのだろうか。そう思えるくらいに、適切なタイミングで望んだ言葉が送られた。

 

 ズルいし。

 

 内面を見透かされた気恥ずかしさと疑問も相まって、早坂は思っている事とは別の言葉が口を突いて出た。

 

「……母が来るの、よく知ってましたね」

「あー、えっと、風の噂とか?」

「何故疑問形? まあ、何でもいいですけど」

 

 讃岐は気まずそうに逸らした視線を戻す。安堵して胸を撫で下ろす。そして軽く右手を持ち上げて、

 

「それじゃ、明日頑張って……や、前言撤回。君が頑張りすぎると一方的になっちゃうから、奈央さんの前とはいえ程々にね」

「そんなヘマしませんよ。…………貴方も気を付けて」

「そうするよ。じゃあね」

 

 ひらひらと手を振りながら、讃岐は玄関扉を開けて出て行った。早坂は扉が閉まった後も、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 

 

 ◯

 

 

 体育祭当日、早坂奈央は朝早くから電車に揺られていた。揺られていた、とは適切な表現ではないかもしれない。新幹線なので揺れは少なかった。

 カチカチと時折、向かいの席からマウスをクリックする音がする。ノートパソコンを真剣な顔で睨む部下の讃岐光谷は漆黒のスーツではなく、くたびれた紺色のスーツに上まできっちりと閉めたネクタイ姿。入社したてのビジネスマンにも、うだつの上がらない探偵にも見える。

 車内は奈央と讃岐の他に、誰一人として乗客が見受けられないのは、偶然などではなく四宮家が金に物を言わせた結果だ。

 

「大袈裟ですね。座席全て買い上げるなんて」

 

 ノートパソコンから顔を上げ、半眼で周囲を見渡す。

 

「必要がなければ、こんな無駄遣いしませんよ」

 

 奈央の物言いたげな視線が讃岐を射抜く。

 

「仕事は早く終わらせたい主義でして」

 

 電車での移動を提案した張本人は、バツが悪そうに目を逸らした。

 

「そもそも仕事を伝える為だけに、本邸まで呼び出す必要は無いと思うのですが」

 

 情報化社会の現代において、遠方への連絡手段は数多に、それもお手軽に存在する。

 携帯電話1つ、パソコン1つでやり取りできるのに、わざわざ京都まで足を運ばされたのだから、讃岐の遠回しに苦情には目を瞑る。

 

「電話やパソコンでは、傍受される可能性がありますから。結局古典的な方法が1番有効なんですよ」

「確かに、それもあるでしょうね」

 

 奈央は幾許か鋭さの増した瞳で、目の前の男を見据えた。

 

「それ以外に何があると?」

 

 うんざりするという感情を全面に出してネクタイに指を掛けた。まるできつく絞められた首輪を緩めるように。

 

「事あるごとに手綱引っ張らなくたって、自分が四宮家の走狗であると自覚はしていますよ」

「そうだと助かりますね」

 

 毎回本邸まで出向かせるのは、讃岐光谷が四宮家の従属下にあると意識させる為。そう言いたいのだろう。

 実際、呼び出した張本人、四宮雁庵の狙いは大方讃岐の言う通りに違いなかった。雁庵自身、大した効果を期待して行っている訳ではない。やらないよりはマシなら、やる。

 その程度にはまだ少年と呼べる年齢の男の特殊な才能を警戒し、それ以上に重宝していた。

 

「無駄話はこれくらいにして、仕事の話に移りましょう。現場を見たいと言うくらいですから、資料には目を通していますね?」

「無論です」

 

 頷いて、讃岐は事件の概要を語った。

 

 2日前とある屋敷で悲劇が起きた。その日、父親の遺産についての話し合いで一家は勢揃いしていた。事件当時家に居たのは長男とその妻、次男、長女の4人に家政婦1人の計5人。

 話し合いが纏まらず、一旦夕食を摂ることにした。長男の妻と長女、家政婦が用意した料理とグラスを広いテーブルに並べる。照り焼きチキンの甘い匂いが食欲を誘った。

 ふとした切っ掛けで、長男と次男の間で議論が再発。ちょっとした騒ぎになったが、すぐに収まった。異変が起きたのは食べ始めてから20分が経過した頃だった。突然長男がめまいを訴えた。長男の顔は紅潮しており汗も浮いていた。ウイスキーの飲み過ぎか、興奮し過ぎたのだろうと周囲は思った。

 トイレで激しく嘔吐する長男の姿に違和感を抱き、救急車を呼んだ時には既に遅く、病院に搬送されたが長男は帰らぬ人となった。

 後の警察の捜査で長男のグラスに入っていたウイスキーから致死量を軽く超えるアコニチンが検出された。瓶の中のウイスキーも同様。警察は長男は毒殺されたとして調査を続けている。

 

 事件の簡単なあらましを語り終えた讃岐は、奈央に問いを投げかける。

 

「この事件がどう四宮の利益と繋がるんですか?」

「貴方が知る必要はありませんよ。長男以外に毒入りウイスキーを飲まずに済んだのは、不幸中の幸いでしたね」

「家族の中でウイスキーを嗜むのが長男だけなのは、家政婦を含めた全員の共通認識だったようなので、被害者だけに毒を飲ませるのは容易だったでしょう。警察も計画的犯行を疑っています」

「計画的というと?」

「アコチニンの中毒症状は10~20分以内に症状が発現します。被害者の症状が発現した時間から考えても、事前にウイスキーに毒が入っていた可能性が高い」

「毒物の入手経路は分かっているのですか?」

「ええ。極めて近くに植えられていました」

 

 アコニチンを含有する植物。真っ先にある植物の名が思い浮かんだ。

 

「トリカブト」

「はい。被害者の父親は園芸が趣味で、生前様々な植物を育てていたそうです」

 

 被害者一家の家族関係を知っている訳ではないが、遺産の話合いの最中に父親が残したトリカブトが原因で死亡するとは、何やら怨念めいたものを感じる。

 

「警察は誰を容疑者として疑っているのですか?」

「長男の妻と家政婦です。ウイスキーに事前に毒を入れられるのは屋敷に住んでいる被害者とその妻、そして家政婦くらいです。家を出て暮らしている次男と長女は事件当日に屋敷を訪れており、毒を仕込む時間的余裕はありませんでした。もっとも、証言からウイスキーの瓶が未開封であった可能性が高く、事前に仕込んだとは考え難いのが現状です」

 

 淡々とした口調で讃岐は説明した。そんな様子から讃岐には違う考えがあるのが分かった。

 

「貴方は誰が犯人だと考えているのですか?」

 

 思った通り讃岐は自信を覗かせる笑みを口の端に浮かべて、奈央の質問を煙に巻いた。

 

「それを今から確かめにいくんですよ!」

 

 

 

 

 四宮本邸ほどではないが、大きな和風建築の屋敷。屋敷の前で奈央と讃岐は黒光するリムジンから降りる。

 事件において部外者でしかない2人を出迎えたのは、正真正銘の警察官だった。

 

「事件のあった現場を見たいのですが」

 

 部外者の提案に警察官は何の文句も言わず、2人を事件現場へと先導した。

 警察官に連れられて、奈央と讃岐は和室に着いた。部屋の中央には飴色の大きなテーブル。壁にはいかにも高級そうな掛け軸。部屋の隅には座布団が重ねられている。事件当夜容疑者達が使っていたのだろう。

 讃岐はテーブル目がけて脇目も振らず歩み出した。しゃがみ込んで畳に顔を近付け、這いつくばるようにしてテーブルの周りを這い回る。

 

「刑事さん。ウイスキーが零れた跡はこれですか?」

 

 警察官はこくりと顎を引く。部外者を現場に入れ、捜査状況を明かす。ミステリに付きもののご都合主義を実現させるのが四宮家の権力だ。

 

「ウイスキーが零れた?」

「ああ、説明していませんでしたね。夕食時のちょっとした騒ぎというのがこれです。興奮して瓶を倒してしまったみたいですね」

 

 説明した後、讃岐は警察官に指示を出した。

 

「この畳は保存しておいて下さい」

「分かりました」

「それと、次男夫妻に聞いて欲しい事とお願いがあるのですが──」

 

「はぁ……それはどういう?」

 

 質問内容を聞いた警察官は生真面目な顔に戸惑いが混じる。奈央にも質問の意図が分からなかった。

 

 

 

 

 リムジンの扉を閉じて、奈央は切り出した。

 

「説明して貰いましょうか。貴方の質問と事件の関係を」

 

 夕食に出た照り焼きチキンは切り分けられていたか? そう讃岐は質問した。全く意味不明な質問にも律儀に対応する警察官は流石だ。警察官は切り分けられていたと答えた。

 

「おや、奈央さんは照り焼きチキンがお嫌いですか?」

「……」

「さ、さて。では僕の推理を聞いて頂きたく存じます」

 

 奈央の冷たい青い瞳にじっと見つめられた讃岐は、怯えたように軽い口を震わせた。

 次の言葉を待つ奈央の耳に、低いエンジン音が響く。

 

「僕は警察の捜査能力を侮ってはいません。常道の捜査で解決できる事件であれば、僕の出る幕はありません」

 

「まぁ、僕としてもその手の事件に出張るのは御免ですが」と讃岐は続ける。

 

「そんな彼らでさえ、どうやってウイスキーに毒を入れたか分からない。だとすればこう考えざるを得ません。事件の鍵は別にあるのではないか?」

「言いたい事は分かります。けれど被害者が毒入りウイスキーを飲んで死亡した事実は動かせません」

「何故ですか?」

 

 奈央は推理を円滑に進める為、分かり切った問いに答えた。

 

「被害者が飲んでいたウイスキーと、瓶に入っていたウイスキーに毒が入っていたからです」

「奈央さんの言う通り、ウイスキーには致死量を超える毒が入っていました。僕はここに疑問の余地があると考えました」

 

 意味が分からず、奈緒は首を傾げた。

 

「トリカブトの毒は即効性があります。致死量を軽く超えた量を経口摂取したのなら、被害者は数十秒で死亡したとしてもおかしくありません。ですが、中毒症状が出たのは20分後」

「ウイスキーの毒は無関係だと?」

「まさか! 被害者が同じ毒で死亡している以上、無関係ではありません。ただ被害者の死亡した原因が毒入りウイスキーでは無いだけで」

 

 讃岐の推理通りだとすれば、犯人は何故ウイスキーに毒を入れたのだろうか。他にも疑問はある。

 

「ウイスキー以外から毒が検出されていない事実に対しては、どう考えているのですか?」

 

「無くなったからです」と指先で自分の腹部を指した。

 

「まさか」言わんとするところを察した奈緒は思わず呟いた。

 

「だから照り焼きチキンが切り分けられていたか尋ねたのですね」

「はい。犯人は切り分けられた内の1つに毒を仕込んだ。切り分けられた照り焼きチキンは一口で食べられるでしょうから、毒が仕込まれた一切れを被害者が食べてしまえば、食卓から毒は消え失せます」

 

 一口サイズの料理でなければ、食べ終える前に毒で死んでしまう可能性があった。そうなれば毒を仕込んだ本当の場所が判明してしまう。

 

「ウイスキーに毒を入れたのは、本当に毒を仕込んだ場所を隠す為の偽装工作です。被害者に中毒症状が発症し、一家が慌ただしくなったタイミングを狙えば、毒を入れるのは容易だったでしょう。一家が入手し易いトリカブトを用いたのも、偽装工作の一部です」

 

 容易とはいっても、グラムを測って悠長に入れる時間は無かっただろう。だからこそグラスのウイスキーから過剰な毒物が検出された。

 

「ここまで分かれば犯人は絞り込めます。犯人は照り焼きチキンに毒を仕込んだ事を知られないよう偽装工作を行った。つまり犯人は料理をしていた女性陣3名の中に居ます」

 

 長男の妻、長女、家政婦。顔も知らない3人の女性が、奈央の脳内に姿を見せた。

 

「次の絞り込むポイントはウイスキーに毒を仕込んだという偽装方法。長男の妻と家政婦は、ウイスキーに毒を仕込んだとして警察に疑われていましたが、せっかく偽装して疑いを逃れたというのに、また自分に疑いが掛かる方法を取るとは思えません。よって2人は除外。残るは1人」

 

 讃岐はゆっくりと自信を持って宣言した。

 

「被害者を毒殺した犯人は長女です。トリカブトは庭の物ではなく、持参したのでしょう」

 

 暫くの間、車内は静かになった。何度も事件の解明には立ち会って来たが、推理を聞き終えた後は何故だか直ぐに言葉が出てこない。本来発言すべき犯人がこの場に居ないからだろうか。

 

「動機は何だったのでしょう?」

「さぁ? 僕はあの一家と四宮家の関係も教えて貰っていませんからね」

 

 奈央は嫌味ったらしい発言を受け流す。主人が望んでいるのは犯行の証明。動機は重要ではない。

 

「証拠としてウイスキーが零れた畳を保存させたのですね」

「ウイスキーが零れたタイミングで、毒は入っていなかったでしょうからね。何にせよ現状結果待ち。僕達の仕事はこれで終わりです」

 

 ブレーキ音が耳に届き、リムジンはゆっくりと停車した。

 そういえば車は何処を走っているのだろう。目を向けた窓の先には高い壁。そして壁に囲まれた西洋屋敷。

 いつの間にか四宮別邸に到着していた。

 

「何故別邸に?」

「仕事も早めに終わりましたし、空いた時間はゆっくりしようかと。奈央さんもせっかく浮いた時間ですから、ご自由になさっては? 今日は何かとイベントもありますし」

 

 奈緒は耳を疑った。イベントが秀知院学園の体育祭を指しているのは明らか。そして今日のやたらと急いで仕事を終わらせようとする態度。まるで奈央を体育祭に行かせようとしているかのような。

 以前、讃岐がかぐやを気遣う発言をして、雁庵に疑惑の視線を向けられた時、奈央は多少不憫だと感じた。

 しかし、いざ自分がその立場になって思う。

 

 何を企んでいるのかしら、この子。

 

「……僕が友人に気を使うのはそんなに変ですか?」

「変ですね。とても」

「僕だって手短に済んで、気が向けば、思い出作りの手伝いくらいしますよ」

 

 讃岐はハァと、深いため息と共に肩を落とした。

 

「奈央さんには借りがありますからね。借りを返す為とでも思って下さい。身軽に生きたい僕としては、貸すのも借りるのも嫌いなので」

 

 貸すのも借りるのも嫌い。讃岐がこの主義を掲げているのは知っていた。なるほど。案外本当に気遣っているだけかもしれない。

 もし何らかの企みで奈央を体育祭に行かせようとしたのなら、最初からこの理由を使えば良かったのだ。友人の為なんて、疑われるであろう理由を使うより自然だし信憑性が高い。

 

「それでは遠慮なく返してもらいます」

「そうして下さい」

 

 一足先にリムジンから降りた讃岐に続いて、奈央も車のドアを開けた。

 

「貴方も今ならまだ間に合いますよ」

「生憎と途中参加するだけの熱意は持ち合わせていませんねぇ。今回の件、娘さんには内密にお願いしますよ。貸しを作るのは嫌なので」

 

 残念だが讃岐の願いは叶わないだろう。口止めした程度で娘を欺けると思っているのなら、それは甘く見過ぎというものだ。

 

 

 

 平時は硬く閉ざされた箱庭の黒い門も本日は開け放たれ、来訪者を歓迎している。

 門の傍には警備員が待機していて、招かれざる客に目を光らせている。何ら後ろ暗いところのない奈央は、警備員達を横目に門を潜り、私立秀知院学園へと足を踏み入れた。

 天気は快晴。半袖でも心地よいくらいの日差しは、体操服の着用を義務付けられている生徒達からしたら喜ばしいだろう。

 校庭の運動場にあるトラックの外側には椅子から並べられた生徒用の席と、見学に来た保護者用にテント付きの席がある。今は昼休憩中でどちらの席にも人はまばらだった。

 奈央は周囲に視線を巡らせた。お目当ての人物はあっさり見つかった。

 不安気に揺れる金色のサイドテールが目に映る。早坂愛は学校指定の体操服の裾をへその上辺りで結んでいる。似たような着こなしをしている生徒は道中何人か見かけた。親としては些か心配になるが、娘の学校でのキャラは知っているので、上手く溶け込めていると良い風に考える事にした。

 母親譲りの絹のような金色の尻尾がピタリと止まる。早坂の方も奈緒を見つけたらしかった。

 早坂は奈緒に駆け寄ると、喜色満面の笑顔を浮かべた。

 

「ママ! 来てくれたんだ」

「約束しましたからね。少し遅くなりましたが、弁当も用意しましたよ」

「ありがとう! ママのお弁当久しぶりだから楽しみ!」

 

 奈央は弁当箱の入った畳を早坂に手渡した。受け取った早坂は、不意に運動場へと視線を向けた。

 その先に居るのは四宮家の長女、四宮かぐや。かぐやは先程の奈央と同じく、誰かを探しているように見えた。

 

「ママ。雁庵様は……」

 

 奈央は返答に窮した。娘の問いは、淡い期待を込めて父親を探す主人をおもんばかっているに違いなく、そこにある娘の気持ちも、父親を求める娘同然に世話をした少女の期待も、少女の父親であり自身が仕える主の心境も、それら全てを察しているだけに奈央は安易に答えを返せない。

 表情の暗くなった娘の頭を撫でて回答を誤魔化す。手に持ったもう1つの風呂敷を持ち上げて、

 

「かぐやお嬢様の分も用意してあるから、私の方で届けておくわ」

「うん。ありがとう……」

 

 昼食を取る場所を探し移動しようと一歩踏み出した時、早坂が再び、今度はためらいがちに口を開いた。

 

「ねぇ、ママ。えっと、その彼は……」

「彼?」

「あー、いや、やっぱり何でもない!」

 

 早坂は慌てた様子で目を逸らし、話を打ち切った。

 どうやら讃岐の口留めに意味は無かったらしい。娘の反応を見て奈央は悟った。

 

「讃岐なら仕事を終えて別邸に戻っている頃でしょうね」

 

「別にそれを聞こうとしたわけじゃ……」早坂は口ごもる。

 

「ママは知ってるんだよね。その……アイツの昔の事とか」

 

 讃岐光谷。一般的な富裕層の家に生まれ、紆余曲折あって四宮家の使用人となった少年。奈央は少年の特殊な経歴を知っていたので、早坂の質問に答えるのは難しくない。

 けれど、質問の答えを自分が与えるべきではない気がした。

 

「そうね」

 

 呟きながら、頭の中で伝えるべき言葉を整理する。ただ単に過去を知りたいだけなのか。1人の人間を理解する為に過去を知りたいのか。後者だと判断したからこそ、奈央は言葉を選ぶ。

 足を止めると、早坂も同じように立ち止まった。奈央は娘と向かい合う。

 

「もし讃岐光谷の真実に近付きたいのなら、1つだけアドバイスをあげるわ」

 

 娘は魅入られたように黙ったまま、母親の言葉を待つ。

 

「鋭い観察眼に高い推理力、特殊な精神性。確かに讃岐は探偵の素質を有しており、実績もある」

 

 言葉が浸透するまでの間を置いてから口を開く。

 

「でも、例え彼が灰色の脳細胞の持ち主だったとしても、所詮は十数年生きただけの少年に過ぎないの。彼は決して、推理小説に出てくる完全無欠の名探偵(ヒーロー)ではありません」

 

 

「大丈夫。それは多分、私が1番分かってるから」

 

「そう」短く柔らかい返事。

 

「だって隙があれば仕事サボるし! ちょこちょこミスるし。何度私が尻拭いしたことか……。この前だって──」

 

 娘の口から滝の如く同僚への愚痴が溢れ出る。腹立たしそうに、そしてどこか楽しそうに語る様子を前に、奈央は複雑な心境だった。娘とあの少年を引き合わせたのが吉と出るか凶と出るか。

 

 願わくば良い方向に向かって欲しいですね。

 

 それはそうと讃岐には、元教育係として改めて勤務態度について、お話する必要がありそうだ。

 

 

 〇

 

 

 体育祭も終わり、四宮別邸に戻った早坂が仕事を終えて自由な時間を確保した頃には、時計の針は22時を回っていた。

 本来なら自室で色んな物をプレス機で潰す動画を鑑賞しているであろう時間に、早坂はとある人物を探して屋敷内を徘徊していた。

 長い廊下を進みながら考えるのは昼間の出来事。実のところ、体育祭に母親が来るとは思っていなかった。母親との約束を疑っていたからではなく、讃岐が仕事で本邸に戻ると聞いたのが切っ掛けだ。

 早坂とて、ただ讃岐についての情報を集めていた訳ではない。数少ない情報から讃岐の仕事とは探偵のようなものであり、監視の為自分の母親が同行しているのではないかと推測した。

 讃岐と奈央がセットで仕事に当たっているのなら、奈央が体育祭に来れる筈がなかった。しかし早坂の予想はいとも簡単に覆され、母は体育祭に来た。

 代わりのお目付け役を出したのか? 否。お目付け役自体、使用人として高い地位にいる奈央がするような仕事ではない。それでも奈央が付いているのは、奈央にしか務まらないからだ。

 讃岐が屋敷を出発する前に交わした会話を思い出す。『体育祭には奈央さんも来るんだろう』と讃岐は事も無げに言った。

 早坂の脳内に信じ難い推論が浮かぶ。讃岐は奈央を体育祭に送り出す為、仕事を手早く終わらせたのではないか。

 我ながら有り得ないと思う。あの男が他者を慮るところなど想像もできない。だが、どんな思惑があったにせよ、讃岐のおかげで奈央が体育祭に来られた事実に対して、自分は彼に伝えなければならなかった。

 屋敷を彷徨う事約10分。早坂の瞳はようやく、黒い長身の後姿を捉えた。

 讃岐はまだ気付いていない。一歩づつ距離を詰める度に脈が速くなる。

 早坂はこれから行おうとしている行為に、特別な意味を見出した事はなかった。かぐやは軽薄だなんだと騒ぐが、早坂はかぐやは堅すぎるのだと苦言を呈していた。

 足音が聞こえたのだろう。讃岐が振り返る。早坂だと分かると足を止めた。声をかけるのに適切な距離まであと3歩。

 向かい合い、高い位置にある顔へと目線を上げる。心拍数が高くなった。ここまで来たら、もう後には引けない。

 

「やあ、お疲れ様。遅くまで大変だね」

「いえ、もう仕事は終わりましたので」

「相変わらず仕事が早い。体育祭はどうだった? 白組は勝ったかい?」

「負けました」

「そりゃ残念。やはり僕の抜けた穴は大きかったようだね」

 

 飄々と漏れる小憎らしい軽口。自然体な友人の様子に肩の力が抜ける。本題に入る前に早坂は確認の意味も込めてジャブを放つ。

 

「ですが、楽しめましたよ。お陰様で」

 

 讃岐は一瞬真顔になったが、次の瞬間には表情を緩めて肩をすくめた。

 

「お陰ねぇ。何かした憶えはないけれど、礼なら受け取っておくよ」

 

 讃岐は極めて無関心を装う。本当に格好が付く時はカッコつけないのだから捻くれている。

 

「ではついでにもう1つ受け取ってください」

「遠慮して──」

 

 意を決した早坂は、讃岐の返答を遮って言った。

 

「今日はありがとうございました────光谷君」

 

 沈黙が降りた。

 他者の名前を呼ぶ事を特別視しない早坂にとって、讃岐光谷は唯一の例外。讃岐が特別なのではない。言うなれば自分への戒めだった。

 本邸からやって来た異物を受け入れないという拒絶の意思表示であり、彼我の間にある境界線を目に見える形で示す方法として、早坂は讃岐を彼やアイツと呼称し、名前呼びを避けていた。けれどその枷も徐々に綻び始めていた。

 昼休みに弁当を食べた。夜の危険な冒険に出かけた。主人に花火を見せるのに協力した。放課後喫茶店や水族館に行った。様々な経験を重ねたからこそ分かってしまう。讃岐は不明な点こそ多いが、拒絶する程の人物ではないと。

 受け入れるのが自分にとって良い選択では無いと早坂は自覚していた。讃岐がどの様な人物であったとしても、必ず後悔する。けれど早坂は彼我の境界線を一歩踏み出した。讃岐光谷という存在に近付く為に。

 讃岐はきょとんとした表情で目を瞬いており、全く言葉を発さない。そんなに驚かなくても、と思いつつ、自分の行為がどれだけ珍しかったかが如実に反応に現れていて、猛烈に気恥ずかしくなった。

 

「……それだけです。では」

 

 赤くなっているであろう顔を隠すように一礼し、俯いたまま足早に讃岐の横を通り抜けた。

 

「早坂さん」背後から呼び掛けられて足を止める。

 

 言葉の続きを待つ時間が、妙に長く感じた。

 

「おやすみ」

 

 なんて事のない夜の挨拶を返せずに、早坂は前を向いたまま小さく頷いた。


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