バナージ・リンクスの受難【完結】 作:PureFighter00
食卓を後にした母と娘は娘の部屋に入る。ぶすっとした娘はベッドにはしたなく倒れ込み、枕に顔を埋める。この私の可愛い娘は自分の不機嫌に戸惑うばかり……残念な気持ちと愛おしさが募る。そっと髪を撫でながら、どうしたものかと思案する。始めが肝心だ。
子の心の内に宿った顔のない化け物、感情。
人は誰でも最初はその扱いに苦労する。もやもやと心の内に蠢く影。彼女はその名を知らない。しっかり見つめて名付けをし、それが何であるかを知らぬと長い間苦しむ事になる。それは何かと教えることは容易いが、それではその怪物は私の物になってしまう。それは貴女の物だから。見つめなさい、貴女の心を(倒置)
「随分パソコン増えたわね……」
「うん、バナージが選んでくれたの……」
「いい子ね。お母さんは好きよ、あの子」
歳経て魔女となったゼナならば魔法が使える。彼女は己の中に湧き上がるもやもやとした影に即座に名付けできた。愛するドズルが教えてくれたのだ、この感情が好意である事を。
「貴女は好き? バナージ君」
「わかんない、なんかちくちくする……」
ゼナは一層ツヤテカした。肌にハリが充満する。一気に5歳は若返った……娘と恋バナ。
「パソコン買いに行くのは楽しかった? バナージ君と話すのは? 折角来てくれたのに、貴女話さなかったわね。照れちゃった?」
「そ……そんな事ない! ちょっとパパのせいで……」
「パパは本気よ」キッパリとゼナは言い放つ「パパはバナージ君を男と見込んだわ。ミネバのボーイフレンドとして相応しいか見極めてる。命懸けよ」
「そんな大袈裟……な。そんなんじゃないの! 違うの!」
「男親だもの。娘の近くに変なのいたら命もかけるわ。それがただ一緒に散歩する程度の男でもね」優しい目でミネバを見やると目が潤んでいた。この子は気付きつつある……
「……どうしよう、私……」
「どうしたの?」
「私、バナージ好きかもしれない……」
はじめにことばありき。
マタイ福音書の冒頭に掲げられたこのことば。感覚的なその顔のない怪物を人は
「やだ、どうしよう……なんかドキドキする」
羽交締めにされていたゼナの内心のゼナ自身は、縛を引きちぎりシャドーボクシングを始めている。居ても立っても居られない。嗚呼、やだ、私すっごい幸せ! まるで発情期のゴリラだわ! 心の中のスタープラチナがオラオラ状態よ!
一度言葉を与えられたその感情はミネバの中で猛威を振るう。ならばあれも好き、これも好き。心の中を好きが塗りつぶして行くスプラトゥーン。今ミネバは漸く恋に落ちた。若々しく瑞々しく、初心な恋心。また別の戸惑いがミネバを襲い、頬を涙が濡らす。
「どうしようお母さん、私バナージが好きになっちゃった!」
好きだった事に今気がついただけで、あなたとっくに恋に落ちてたのよ!とゼナの心のスタープラチナは見開き2P一杯にオラオラし始めた。でも合格! 恋愛偏差値50はあるわ! そうよ、それが恋なのよ! 好きになって泣くあたりがまだまだね。背景ピンクにしてハートを飛ばしまくったら偏差値60! だがそれがいい(前田慶次)
「ちょっと好きな子見に行かない?」ゼナは遂に母の威厳をかなぐり捨て、悪戯っ子の様に振る舞い始めた。アラフォーらしからぬ挙動である。
「あの子は生まれた時こんなにちっちゃくてなぁ……」
「3206g 小さくは無かったわ」
「俺の娘がこんなに小さくて大丈夫かと思ったわ」
「産んだのは貴方じゃなく私よ」
酒瓶を片手にバナージに語るドズルの言葉にゼナの的確なツッコミが冴える。既に娘を嫁にやる前日の父と化したドズルは静かに杯を傾けながらバナージにトクトクと娘を語る。
ハラハラし通しだった。今にも壊れてしまうのではないかと魘された夜は数え切れない……生まれてきた時から愛されていたミネバは愛されていることが常態であった。人を愛し愛されるのはもう少し先。その時貴女は改めてパパの愛の重さや凄さを理解するでしょうね。
バン!と感極まったミネバが襖を開けると、彼女は涙を浮かべながらドズルにしがみついた。
「自慢の娘だ。これからも宜しく頼む」
バナージからすると……殴られて謝罪され、味のしない飯を食って初見のおじさんの涙酒に付き合い、最後に好きな子が泣きながらおじさんに抱き付くという、よく分からず翻弄され続けた3時間と少しであった。まだ年若い彼には理解の追いつかない話であるが、幼き日に実父と別れたバナージには、ドズルは少し懐かしい匂いがした。
「波間さすらう難破船」と言った風情ですなぁ。