全天燃えるような夕焼けであった。
気付くと少年は、不思議な場所にいた。
「······?」
彼も状況が飲み込めていないらしい。
それもそのはずだ、目を覚ましたらいつの間にか見知らぬ場所に立っているのだから。視界の先に広がるのは、美しい光景。
「ここは······?」
自然物も人工物もない。
地平線の彼方まで赤く染まった空が続いている。
彼の足元には靴底が少し浸かるくらいの水面が果てしなく広がっている。それが水晶の鏡となり、美しい黄昏の空を写し出している。陸地も空も全てが同じ赤色で統一されているため、自分が本当に地面に足をついているのか区別がつかなくなる。
一周、三六◯度見回しても景色に変化はない。ひたすら平坦で、狂いのない平面が広がっている。
一体自分はなんでここにいるのか、前後に何があったのかがわからない。
先程までわけのわかんない場所で、わけのわからない『片翼の天使』と戦っていたはずだ。あの正体不明の自称『何でも屋』で、皆からは『救援プレイヤー』だと呼ばれていたあの青年と共に、肩を揃えて戦っていた、はず······
「······!」
ようやく、キリトは自分がその場に立っているということを自覚した。
慌てたように自分の状態を確認する。そして、絶句した。レザーコートや長手袋といった装備は未だに装着されたままであったが、身体全体が僅かに透き通っているのだ。夕焼けは少年の身体を通過し、その瞳に直接焼き付ける。
自分の身に何があったのか、分析しようにも素材不足で理解が追い付かない。キリトは癖になっているかのように右手を前へと出して軽く指を下へと振ってみた。聞き慣れている効果音と共にウィンドウが出現する。
その時知る、まだここはあの世界の中であると。
だが、その見慣れたウィンドウに映し出されたのはゲームメニューではなかった。自分のステータスを確認するための図面はなく、武器や防具を変更するためのボタンもなく、ただ『最終フェイズ実行中 現在54%完了』とだけ表示されている。
それが何を意味するのか、考えるまでもなかった。
「······キリト君」
「!」
そんな少年の耳に、愛する者の声が滑り込んできた。
身体全体に響かせるその声は、間違いなく彼女のもの。ずっとずっと一緒にいた少女の言葉。つい先程まで彼女も戦闘に参加し、死と隣り合わせで最低限の命の保証もされなかった。それでも戦いに参加し、あの強敵に立ち向かった少女の台詞。
その声色に、細いながらも芯が取り戻されたことをキリトは確信した。
揺らぎ、いつ消えるかもわからなかった。世界の崩壊はすでに始まっている。
なのに、その声を聞いただけでキリトは安定した。
これ以上、彼女があの死の世界に苦しめられることはない。
「······アスナっ!!」
キリトは振り向く。振り向いて、事実と共に奥歯を深く噛み締めた。そして、気がついた時には動いていた。『黒の剣士』という異名を持つ少年は、震える唇で彼女の名を呼び、手を伸ばして彼女の身体を抱き寄せた。
強く。
二度と離さぬように。
「······良かった」
ポツリと、言葉が漏れる。
彼の言葉は震えていた。一瞬でも目を離したら消えてしまいそうな少女の身体の温もりを感じた瞬間、笑みと共に涙も溢れ落ちた。
「良かった······本当に良かったっ!!」
本来の少年なら出てくることのなかった言葉かもしれない。
いつも孤独で戦い続けた少年に大切なものができたからこそ出てきた言葉。
前後に何があったのかわからないのは、少女も同じだった。
だが関係なかった。
抱き締められたアスナは、その手をキリトの背中に回し、ゆっくりと撫でる。
受け入れるように。
おそらくは、一番最初に彼の中でこの世に存在する何よりも美しいものを見つけた時と同じように。
「······うん!」
ようやく取り戻した温もりを確かめながら、二人は思う。
確かに、この世界は死と隣り合わせで、理不尽で、冷たく、厳しく、どうしようもないほど悪意に満ちていた。
しかし、同時に救いもあった。
自らの意思で手を伸ばせば、歯を食い縛って前へと進み続ければ、その先には必ず光は存在する。その一筋の光すらも奪い去るほど、この世界は絶望的ではなかったのだ。
「なかなかに絶景だな」
「「!?」」
その時だった。
抱き締め合う二人に、一人の男の声が哀しそうながらも懐かしさを含む調子で言葉を紡いでいた。
首を回し、周囲の様子を確かめる前に二人は異変を感じ取った。
「······アインクラッド」
遠く離れた空の上に、それはあった。
薄い層がいくつも積み重なって全体を構築している巨大な孤城。二年もの間、長きにわたって戦い続けた剣の世界。
大空を埋め尽くす浮遊城が、虚空へと呑み込まれていく。
フロアの一部一部が次々と崩壊し、破片を撒き散らしながら剥がれ落ちていく。
その光景を、哀しみながら見つめる男が目の前に立っている。
今まで殺し合っていたというのに、彼のその様子を見たキリトは抱いていた怒りも恨みも忘れてしまっていた。
そんな彼は崩れゆく巨城から視線を外すと、二人の方へと振り返り、静かに口を開いてこう言った。
まるで、古い友として迎え入れるように。
「待っていたよ······キリト君、アスナ君」
<><><><><>
そこは夕暮れに染まる世界だった。
「······?」
自分は今、崩れゆく暗闇の中で、あの『片翼の天使』と戦っていたのではなかったか。理不尽に次ぐ理不尽的な状況に頭を悩ませるが、それ以上に両足で踏んで支えとなる地面がある事に安堵感が全身を包む。
何だかよくわからずひどく空虚というか、充足感を得ることができても心臓への圧迫を抑えられていない感覚がする。
クラウドは自分の手足を一つずつ動かし、とりあえずどこも切り落とされていない事だけ確認を取る。
「ここは······どこだ?」
「終わった世界だ」
終わった、何が?
疑問を挟むまでもなく、人の気配があった。クラウドの疑問を答えるべく、全く別の方向から男の声が響いてきたのだ。
「君を待っていたよ、クラウド君」
「!?」
クラウドはその呼び掛けに振り返る。
そこには、見知らぬ男が立っていた。その顔には疲れが見えている。白いシャツにネクタイを締め、長い白衣を羽織ってクラウドの前に立っている。
「······アンタは?」
「······私の本当の姿を知らないのを見ると、
「!?」
「失礼、そもそも自己紹介すらまだしていなかったね。名前くらいは耳にしたことがあるかもしれないが、改めて私の自己紹介をさせてくれ」
こちらは知らないのに、相手はこちらを知っている。
その異様なほどの違和感が高密度の緊張感を生み出し、しかしどこか安堵の空気が漂っている。緊張があるのはただの錯覚だ。目の前にいるのはもはや敵ではない。
その敵とも呼べない男は、白衣のポケットに手を突っ込みながらクラウドに自分の名を明かす。
「“茅場晶彦”、あの世界を創造した者だ」
「·······」
心臓が、ぎゅっと締まる。
クラウド自身か、あるいは名を告げた本人か。
「何しに来た?」
「別れを告げに」
空と海、二重の夕暮れの中、燃えるようなオレンジ色の世界で茅場はクラウドに話しかける。
この場において、あまりにも不釣り合いな状況にクラウドは面を食らっていた。
わざわざ、自分に別れを告げに来るなんておかしいとしか思えない。自分はただの一般人。無数の人間の一人に過ぎない自分に挨拶するなんて、思考がおかしいんじゃないかとすら思えた。
少なくとも、クラウド自身はゲームマスターに注目を置かれるような人間ではないと感じていた。
だが、それはクラウド自身の話。第三者から見れば、彼は紛れもなく開発者に注目されるべき人物だ。
この期に及んで未だ自分の価値観をわかっていないクラウドに、茅場は笑いかける。
まるで、古い友のように。
「君とは、一度ゆっくりと話したかった」
茅場は、わずかに安堵の息を吐く。
「さて、と。何から話そうか」
クラウドは黙っていた。
かける言葉など見つからない。見つかるはずもない。それでも、クラウドは視線を外さなかった。たったの一度も、互いの命を懸けた死闘を繰り広げた相手から視線を外さなかった。
茅場の顔は、電池の切れたロボットのように表情がなかった。
あるいは、その素面が彼のデフォルトなのかもしれないが、少なくともクラウドには、目の前の男がいきなり何年も歳を取ったように見えた。
「まさか、私の世界に別世界の住人が紛れ込んでいるとは······馬鹿げた事だとは私自身も思っていたのだがな。こんな方法で私の願いが叶えられるとは思っても見なかった」
やがて、茅場は言った。
自分の犯した罪を、見つめ合うような表情で。
「彼に私のアバターを奪われた時、私の意識は一時的に彼と同化した。主導権はあちらが持っていたがね」
「······アンタは」
「心配はいらない、私はもうただの『データの残骸』だ。彼の意識どころか、本来の私すらも既にここにはいない」
その意味を、クラウドは咄嗟に理解した。
今目の前にいるのは、『あいつ』ではない。長い刀を持ったあいつの意識はなく、そこにいるのは確かにゲームマスターの茅場晶彦であった。
「······自分の魂もデータに変えたのか」
「何もおかしなことはない。君の宿敵もやってみせただろう?」
「······あいつから知ったのか」
「ああ。彼の存在には驚いたが、彼に身体を奪われた際に私は彼の記憶を覗き込むことができた。そして気付かされたよ······私の、私達の世界がすでに異世界だったということを」
茅場は、己の舌でも噛み切るような表情でそう言った。
悔しい、そんな気持ちなのかもしれない。自分が知らなかっただけで、実はもう自分の願いは叶っていた。
その願いがなんなのかは、クラウドには何となくわかっていた。あの世界を本物にしたい。彼はあの時そう言っていた。
「私は小さい頃からどこか、この世界じゃないどこか違う場所に現実世界とは別の違う世界があるんじゃないだろうかと考えるようになった。空に浮かぶ鋼鉄の城がある·······と、そんな事を考えていた」
「······」
「まさか、それを証明してくれる者が私の世界にやって来るとは」
クラウドは息を呑んだ。
茅場から表情が消える。
何が楽しいのでもなく。何が嬉しいのでもなく。
そこにあるのは、何もない。
「子供の頃から夢見た世界を、私は現実にしたかった。例えそれが人の手で作られた偽物だったとしても、限りなく本物に近いものにしたかった。そうするには実際に『生きる』という想いをあの世界に植え付けなければならない。だから、現実にいる人間が必要だった」
「·······あそこにいた連中は?」
「心配には及ばない。先程生き残った全プレイヤー、六一四七人のログアウトが完了した。先程までここにいたキリト君達も、今頃は現実の世界で目を覚ましていることだろう。あとは君だけだ、クラウド君」
つまり、キリト達は無事に元の世界へと帰ることができたのだ。感謝の言葉を告げたかったが、先にログアウトしたという事が聞けただけでも嬉しかった。
しかし、クラウドには無表情に言葉を紡ぐ茅場の感情が読めない。
きっと、それが茅場の狙いだろう。その仮面の裏に隠れる、押し殺すこともできないほどの渦巻く悔しさ。それだけは、決して見せたくないという、気持ちの表れだと思う。
「······死んだ連中は、どうなった?」
「生半可な覚悟で他人の命を扱うつもりはないよ。彼らの意識は帰ってこない。死者が消え去るのはどの世界でも同じさ」
「·······」
「私の勝手な願いのために皆を巻き込むなら、それ相応の覚悟を持たなければならない。そのおかげで私も、こうして魂だけの存在となった」
ただの自業自得だった。当然の罰を受けた。
それはよく分かっている。
茅場は自分の目的を達成するために、あまりにも多くのものを利用しすぎた。世界中の世論を激怒させ、命の重さをまだよくわかっていない一般市民までも恐怖に陥れ、同じ会社に所属する者達さえも踏みにじった。
茅場が勤めていた製作会社も、彼の個人的な目的を知れば反旗を翻すだろう。
そんな事のために今までゲームを作ってきたんじゃない、と。
茅場は静かに思いをはせながら、静かにこちらを見る。
オレンジ色に染まる世界は、地獄で燃える炎に似ていた。炎の中で、一人の男はただ凍えるような無表情でいることしかできなかった。
だからこそ、彼はクラウドにこう聞いた。
頭上で崩れゆく城を見据えて、
「君は後悔しているかい? あの世界、『ソードアート・オンライン』に来たことを」
「······」
うっすらと笑う。
また一層のフロアが、落ちる。崩壊が進んでいく、まさにその一瞬前の出来事だった。
彼の表情を見た瞬間、茅場の表情も微かに変わっていた。確かに、この世界に閉じ込められたとき、彼は他のみんなと同じように絶望した。彼の元々の目的はネットワークに発生した未知の領域の調査、ただそれだけのはずであった。なのに、何の脈絡もなくこの世界に迷い混み、さらには何の説明もなくデスゲームに参加させられ、そして挙げ句の果てには救援プレイヤーだと周りに勝手に決められて追いかけられたりもした。理不尽に次ぐ理不尽にクラウドはうんざりしていた、それは間違いない。
なのに、何故だろう。それなのに彼はこの世界を醜いものだとは思えなかった。全ての出来事が、必ずしも不幸だとは思えなかった。
故に彼は、古い友として迎え入れてくれた茅場に応えるように、まるで旧知の仲のように短くこう告げたのだ。
「興味ないね」
それだけだった。
おそらくは、笑みを浮かべて。
獰猛で、野蛮で。
それでいて上品さの欠片もない。けれど、確かに最高に最強な笑みを浮かべて、クラウドはそう宣言した。
「·········」
茅場は。
茅場晶彦は、言葉も出ない。
その言葉の真の意味を、理解してしまったから。
オレンジ色に染まる世界で、ただ崩壊の音を聞きながら、茅場は笑っていた。笑って、笑って、笑って笑って薄く引き伸ばしたように笑って。
ふっ、と。
その時、初めて本当に、茅場晶彦は心の底から小さく笑っていた。
「······そうか」
気の抜けたような声でそう言った。
茅場は、何か大きな荷が下りたという表情を浮かべて、
「君に会えて良かった、クラウド君」
崩壊の音が進む。
そして、それは他のところにも及んでいた。
世界の創設者、茅場晶彦。彼の身体も徐々にこの世界から離れていっている。
「君に、伝えておくことがある」
それを悟った彼は、クラウドに大切なことを伝えておく。
これから先の未来、一体何が起こるのかを予知するような口調で。
「
「!」
「今の彼は私と同じように器のない魂だけの存在となって、私達の世界へと足を踏み入れようとしている。今はまだ意識だけがネットワークに溶け、しかし拡散することなく私達の世界を巡っている······止められるのは君だけだクラウド君」
現在進行形で奴の状態を教えてくれた茅場は、それだけを言い残すとクラウドに背を向ける。
あとは頼む。そう背中が語っているようであった。
そんな茅場に対してクラウドは、ただ唇を僅かに動かしただけであった。言葉は聞こえなかった。言う必要も聞く必要もなかったからだ。
彼の願いは、ちゃんと『何でも屋』に聞き届けられた。
それでもう十分だった。
「ああ。最後に私から、私達の世界の代表として言っておこう」
「?」
彼は振り返る。
振り返って、優しい笑みを見せながらクラウドにこう言ったのだ。
「君もこの世界に生きる命、ゲームプレイヤーの一人だ。この世界に来てくれて、私のゲームを遊んでくれてありがとう······そして、ゲームクリアおめでとう。“元ソルジャー”、クラウド」
そうして。
最後まで、その言葉の末尾まで茅場は紡ぎ続けた。
それが礼節だと思ったから。
そして、世界の創設者は風と共に消え去った。
そんな最後の言葉を残して消えた茅場に、クラウドはそっと息を吐くようにして答えた。
「······“自称”、な」
<><><><><>
······ようやっと、クラウドは全てを見届けた。
役割を終えたのか、もうここにはあいつの影はない。
「······」
一人残されたクラウドは、いつでもこの世界から抜けることはできた。
しかしクラウドはまだここに残っている。
世界の崩壊さえも、彼は見届けたかったからだ。
この世界はもう保たない。
改めてその事に気付かされたクラウドの耳に、女性の声が響いてきた。
誰もいないはずの世界の中で。
『······クラウド』
「!」
聞いたことがある声だった。
七十五層を攻略するきっかけを作ってくれた依頼人の声。
そして······
『クラウド』
ゆらり、と。
空気から浮かび上がるように、透き通る女性の体が生じた。重力を無視し、それは真っ直ぐクラウドを見ている。
その声に、クラウドはゆっくりと振り返る。
赤いローブを羽織った女性の瞳は、とても綺麗な緑色を帯びている。
そう、クラウドは既に気付いていた。セフィロスの精神がネットワークに紛れ込んでいるのなら、『彼女』だって迷い込んでいる可能性だってあったはずだ。
だからこそ、彼女はクラウドの前に現れることができた。
「······っ!」
くらり、と視界が歪んだ。
名を口にしたいのに、唇が震えて言葉を上手く紡げない。
だから先に話し出したのは、彼女の方からであった。
『······やったね、クラウド』
「······ああ」
ようやく会話ができた。
それだけでも彼は嬉しかった。二度と話すことができないと思い続けたのに、まさかこんな形で再会できるとは思わなかったからだ。
彼女は言う。
『なんで······あなたはまだログアウトしないの?』
「アンタと、話したかったから」
クラウドはそう言うと、ふと表情を曇らせた。
ずっと伝えたかったことを、今なら言える。これまで生きてきた中で、ずっと解消しきれなかったことを。
「······ごめん」
助けられなくて。
今までずっとその責任を背負ってきたが、それは本当に彼女が望んでいることなのか、ということを。
彼女を忘れたくなかった。だからそれを罪として縛り続けて忘れないようにしていた。しかしそれは言うなれば言い訳に過ぎない。立ち直れない理由に都合よく彼女を使っていただけの最低な行為だった。
自分を戒めて、一生許されるはずもないと、そう思っていた。
でも、本当はクラウドは許されたいとは思っていない。
ただ彼は、彼女に謝りたかったのだ。
セフィロスとの戦いを終えた今なら分かる。
本当に彼女のためを思うなら、伝えなくてはならない。
今度は立ち止まらず、足を踏み出して。
「あの時俺は、あいつが怖くてアンタを助けられなかった。一歩も動けなくて、助けられなかったことを今でも後悔している」
ほんの僅かにクラウドは俯いた。
「······めん」
ぽつりと。
クラウドは俯いたまま、静かに口の中で呟いた。
それでも告げる。
そのために口を開くことが、こんなにも勇気がいる事だと思ったのは、これが初めてだった。
しかし今度こそ、声が届く距離で言う。
クラウドは今まで溜め込んできた涙を、ぽろりとこぼして呟いた。
「あの時、助けられなくてごめん。アンタを言い訳にして、逃げたりしてごめん······」
次々と漏れ出てくる懺悔の言葉。それに対して彼女は顔を俯かせているクラウドの元まで歩いていき、ずいっと身を寄せた。
下手に動くと唇と唇がくっつきそうな距離まで近づいて、彼女は言う。
少し意地悪に。
『あなたの望みはなに? クラウド』
「······」
『聞かせて、あなたの願い』
簡単な質問だった。
とても簡単で意地悪な質問だった。
言える。言えるのに、その言葉はまだ出せない。
しかしやがて。
やがて。
やがて。
クラウドは彼女の瞳を見つめて、ゆっくりとした動きで震える唇を動かした。
凍った涙腺から涙をこぼすように。
こう言った。
「許してくれ·········“エアリス”」
その瞬間、彼女が羽織っていたローブは光となって消え去った。
そしてそこには、ずっと会いたかった“彼女の姿”が確かにあった。
その言葉を聞いた彼女は、ゆっくりと、そして優しく彼の頬に手を当てていた。
クラウドという人間の胸の内から噴き出した言葉を、静かに受け止めていた。
それはきっと、とても醜い姿勢だったかもしれない。
だけど。
『いいよ』
遮るように、彼女の声が聞こえた。
『そんなの、もう、気にしてないよ。クラウドが自分を取り戻してくれた。それだけでも、私は、嬉しいから』
彼女独特の喋り方を聞いて、クラウドはまた涙を流す。
そしてほんの僅かに、彼は黙った。
黙って、そのまま両腕を使って華奢な体を抱き寄せた。
背中に手を回す。
胸の真ん中を、あの正宗が貫いた箇所で両手を固定する。
そして。
そして。
「会いたかった······エアリス」
『······うん』
その耳元で、クラウドは囁いた。
クラウドの想いを受け取った彼女は、黙って彼と同じように背中に手を回す。
その直後、光があった。
光の粒子であった。
長い髪が、端からほどけていくように白く輝いていた。
本質的に、その体は元々肉体を持っていない。その世界から剥がれ落ちるように、見えない何かがバラバラと分解されていく。
黄色い花弁のような何かが、夕暮れの世界へと散らばっていく。
『私も、会えて嬉しかったよ······クラウド』
抱き寄せられたまま、クラウドの腕の中にいる彼女は目を細めた。
幸せそうに。
本当に、幸せそうに。
『でも、そろそろお別れみたいだね』
ピシリ、という音が徐々に早くなっていく。
小さな音が連続しているのが聞こえていても、クラウドは逃がさないようにその手を離さない。
『ねえ、クラウド』
「?」
『私も、これだけは伝えておくね』
そのクラウドの願いを聞いたかのように、彼女はまだ消えない。途切れることはない。自分の体が舞い散っているのを自覚しながらも、彼女も伝えたかったことを告げる。
笑って、クラウドのその綺麗な瞳を見てこう言った。
『また、会おうね······クラウド!』
その言葉を最後に、彼女は姿を消していた。
クラウドがようやく異変に気付いた途端、それまで抱き寄せていた彼女の感覚が消失した。
華奢で今にも消えてしまいそうな彼女の体が、光となって空へと昇っていったのだ。崩れていった彼女の体は雪よりも儚くて、そして咲き散る花のように美しかった。
風に乗るようにしてクラウドの前から去っていった彼女を未だに抱き締めるように、彼は涙を溢していた。
涙腺から溢れ出る涙が重くて、思わず膝をついてしまう。
彼女の先程の言葉の意味を理解していくにつれ、流れゆく涙が水晶の床へと落ちていく。その言葉はあまりにも彼女らしく、それを聞いただけでクラウドは救われた気がした。
彼女の伝えたかった言葉は『さよなら』なんかではない。
『ずっと傍にいるよ』
そこで消えてしまった彼女の声を、もう一度だけ聞いたような気がした。
それが本当に存在したのか、単なる幻聴だったのか。
そんなの言うまでもない。
クラウドはそこで、ゆっくりと空を見上げた。
一点を見据える。
崩壊し終わった城の跡だった。
彼はその景色を最後に、そのまま静かにゆっくりと瞳を閉じた。
<><><><><>
いくつもの夢を見ていた。
真っ白な世界で、彼は意識を手放しながら落ちていく。
その光景はまるで、光が戻ってきたということを表しているようにも感じた。
それに合わせて、彼も光となって消えていく。
自分の役目が終わった、そう考えた。
そして今。
長かった、と思うことができる。
ここまで来る間の出来事は、決して楽しいことばかりではなかった。
何度も何度も理不尽に傷つけられ、その際に剣を握って戦って、そんなことを繰り返してきた。
だけど、それもようやく終わる。
あの世界に思い入れはないが、それでもどこか悲しい気分になる。
ここまで来るまでにあった色々なことは、今となっては全てが美しいと感じられる。嫌な記憶があったとしても、それが終わるとなるとどこか懐かしいと感じてしまう。思い出したくないことも、今ではそれも大切な記憶の一つとなっていた。
全てはもう一つの現実。
それを感じるように、クラウドは身を任せるように落ちていく。
「─────ッ!」
意識がない中で、誰かの声が聞こえた気がした。
おそらくは、懐かしむ思い出の中の何かが映像となって鳴り響いているのだろう。
その証拠に、映し出される映像には現実世界で待っている『彼女』の姿があった。
黒髪のロングストレートで、赤い瞳を宿した彼女の姿。
彼女も今頃心配しているはず。二年もの間家を空けて、何の事情も伝えずに一方的に出ていってしまって、おそらくは相当怒っているかもしれない。
心配を掛けた分、帰ったらきっちりと働かなくてはならない。
「─────! ······も~し?」
視界に徐々に光が差し込むにつれ、彼女の姿も明確になっていく。
目の前に彼女がいる。
懐かしい姿がその瞳に映った瞬間、彼は元の世界に戻ってきたんだなという実感を得る。
「······もしも~し?」
彼女の声が聞こえる。
遠くの方で、自分を呼んでいる。
多分、ずっと眠っている自分に付き添ってくれていたのかもしれない。二年間も行方不明となれば彼女だって心配する。
彼女の性格上、おそらくは色んなところに聞き込みをして、最終的にはチャドリーの元にいるという情報を掴んだのかもしれない。
そういえば、チャドリーにも少なからず文句は言わせてもらおう。それくらいのことはしてもバチは当たらないだろう。
だがその前に、自分を待ってくれている目の前の彼女に一言謝らねば。
彼女の姿を捉えるべく、クラウドはゆっくりと目を見開く。
「もしも~し?
「······?」
一瞬、
目の前には誰かがいる。ロングヘアーで赤い瞳であることからおそらく目の前にいるのは『彼女』のはずだ。
しかし、声が少し違う気がした。
可愛らしい女の子のドリームボイスと共に、心配そうな台詞が鼓膜を震わせる。
「······?」
クラウドはそこで目を覚ました。
目を覚ました瞬間、彼は首に力を込めると、辺りを見渡すべく首を右左へと動かす。
まず、最初に入ってきた光景は、『青空』だった。その次に周りを見渡して、何か手がかりとなるものはないかと探してみると、辺りにあったのは木や草、そして花といった植物ばかりであった。
場所はつまり、自然の中ということか?
本来なら目を覚ませば、施設の中にいて無機質な天井が見下ろしているはずだが。
(何だ、ここは······?)
心臓が不気味に脈動するほどの衝撃だった。
驚いて周囲を見渡しても、そこにあるのは外の景色だった。多少視界がぼやけてふらついているが、まだ体は動く。問題は、ここがどこであるか、だ。セフィロスを撃退し役目を終えたというのなら、目を覚ました先に広がるのは、元の世界であるはず。しかしここにはそれらしいものは見当たらない。どこまで行っても、広大な大地が広がっているだけだ。
何か。
嫌な予感がする。
「
「え?」
すぐ近くで、少女のような声が聞こえた。
何だ何だ? とクラウドが首を巡らせていると、
「お兄さん大丈夫? 立てる?」
「!?」
唐突に、自分の顔を覗き込むようにして膝を曲げた『少女』の姿が目の前に現れた。
その急な展開に思わずクラウドは慌てたように立ち上がった。誰なのかもわからない少女は小柄で、立ち上がったクラウドを尚も覗き込んでいる。興味深そうに見てくる少女にクラウドはたじたじとしたような素振りを見せるが、少女の方は気にせずに笑って見つめてくる。
そして、少女の姿を見てクラウドは思わず息を呑んだ。
瞳の色が、『彼女』と同じように『赤色』だった。
さらに、髪が長くてその毛質も柔らかそうであった。
しかし、その髪の色に違和感を抱く。
彼女の髪の毛は『紫』だった。
現実らしくないその髪色に猛烈な違和感を抱き、いまいち状況把握ができていないクラウドは警戒しながら目の前にいる少女が何者なのか尋ねた。
「あ、あんたは?」
「うん? “ボク”? ボクは────」
一人称にまで違和感を覚えるが、そんなクラウドを他所に、目の前にいる少女は上目遣いでクラウドの顔を覗き込みなから自己紹介をする。
「“ユウキ”! ボクの名前はユウキって言うんだ! よろしくねお兄さん!」
<><><><><>
少年の目蓋が動いた。
それは自分の意思で動かしているとは思えないほどわずかなものだ。
目蓋は開いたが、体のほとんどがまともに動かない。そこかしこに何かの装置が付けられている感触があるが、それさえもただの気のせいとして片付けられるほどのものだった。
目蓋は細く開く。
それでいて、視界は数秒間確保されなかった。
瞳孔の遠近が揺らぎ、ようやく視界に天井らしきものを映し出したことを脳が認識する。
そしてやたらと消毒液のような匂いが鼻につく。
「······」
渾身の力を込めても、首が一切動かない。
それは果たして自分の力不足か、それとも頭に覆い被せるように付けられている『装置』のせいか。
それでもふらふらとした思考回路の中で少年は腹筋に力をいれて起き上がり、両腕を頭へとやって頭に固定されている装置を取る。
それを前へと持ってこようとしたが、何かに阻まれた。
それは点滴のチューブに、電極のコードなどだった。
肘を中心に腕全体に配線されていて、命を繋ぎ止めるためのいくつもの線が体を維持させるために固定させてしまっている。
少年は手に持っている装置『ナーブギア』を溢れ落とすように枕の横に置くと、力もないのにそのまま立ち上がる。
点滴のスタンドに手をかけて、床に足を下ろす。
冷たい感触すらも曖昧で、ベタベタと音を鳴らしながら歩いていく。
スライド式の扉を手の摩擦で強引に開くと、そのまま彼は外へと出ていってしまう。
「あ······す······な······」
ふらふらと、少年は白い廊下を歩き続けた。
あれだけ強大で死と隣り合わせだった世界に背中を向ける形になったが、もはや、直接的な命の危機を感じとることさえできなくなっていた。
「······あすな」
呟く。
辺り一面は狭い壁で、廊下は一直線に伸びていて人が隠れるような起伏や遮蔽物は何もない。
誰かが立っていれば、すぐに見つかるはずだ。故にここから先は発見次第確保される。
「······アスナ」
だからその前に、彼は最愛の人を追い求めて歩き続ける。
「······アスナ」
ただただただただ、いつまで歩いてもどこまで歩いても全く同じ廊下が続いているが、少年は歩き続ける。
最愛の人を探し求めて、
キリトは、“桐ヶ谷和人”は。
彼女の名を呼びながら、白く長い廊下に吸い込まれるように消えていった。
<><><><><>
かつん、と。
固い足音が響いたのはその時だった。
そこにいるのは少なくとも人間と呼べるものではなかった。
「······ふっ」
空気が変わる。
主導権を奪う······とでも思っているのだろうか。
常人には見えない何かを抱いている怪物は、その手の中でこの世界に生えていた一輪の花を握り潰し、彼は口を歪めてこう言った。
躊躇なく、挑みかかるように。
「さあ、クラウド······楽しもうか」