「アイツは、一体何を抱えている?」
クラウドの低い声が黒鉄宮の冷たく無機質な壁へと重々しく反響した、まさにその直後のことだった。
その鋭い瞳から放たれる一切の誤魔化しを許さぬ圧を前にして、アスナの傍らでただ事態を見守ることしかできなかったキリトも、元ソルジャーを名乗る青年が放つ尋常ならざる気迫に完全に圧倒され、言葉を失ったまま喉の奥を小さく鳴らすのが精一杯だった。
手を伸ばせば容易に触れられるほどの距離にありながら、今のクラウドの全身から立ち上る見えないオーラは、まるでかつて彼を蝕んでいた魔晄そのもののような、異質で冷酷で、そして圧倒的な暴力性を秘めている。
「「「「「「········ッ!!」」」」」」
その尋常ではない雰囲気に当てられたのか、ほんの数分前まで最前線突破の快挙に沸き立っていたはずのユウキのギルドメンバー、スリーピング・ナイツの面々も。
まるで鋼鉄の枷を嵌められたかのように固く口を閉ざし、黒鉄宮のひんやりとした静寂の中で立ち尽くすしかなかった。
「········」
クラウドはずっと黙り、アスナに対して無言の圧をかけ続けている。
今まで場違いなほどに明るく、眩い陽だまりのように笑っていたあの少女がログアウトの間際に見せたあの涙。
そこから垣間見えた彼女の剥き出しの本音と、周囲に心配をかけまいという健気なまでの努力のためにこれまで彼女がどれほど自らの精神を消耗させ、削り取ってきたか。
そのあまりにも痛々しい現実を突きつけられたからこそ、クラウドはムカついていたのだ。
ずっとユウキに余計な気を遣われ、そのSOSのサインにすら、同じ傷を持つはずの自分が今の今まで全く気付けなかったという己の決定的な不甲斐なさと鈍さ。
それに対して。
彼の頑なな沈黙の裏にあるのはユウキへの怒りなどではなく。
激しい悔恨と、自らを激しく苛む激昂の炎に他ならなかった。
「あ、あの·······クラウドさん」
アスナは。
そんなクラウドの胸の中に渦巻く複雑な思考の全てを完全に理解できているわけではなかった。
しかし、ただ一つ。
彼のその孤高な佇まいから明確に伝わってくるのは、自分から真実を聞き出すまでは絶対にこの場を動かず、一歩も退かないという退路を断った剣士の覚悟だった。
だがそんな彼を前にしても頭を過ぎるのは、大切な親友と交わした固い約束。
ユウキの誇りを守るためにこのまま黙秘を貫き、彼の追及を受け流すべきか。
それとも目の前で静かに激昂しているこの青年を信頼し、全てを打ち明けるべきか。
どちらの選択を選んだとしても、クラウドの瞳の奥で鮮やかに燃え盛る執念の焔が収まることはないだろう。
新生アインクラッドの原点であり、かつて数多のプレイヤーを絶望の檻へと縛り付けた第一層『はじまりの街』のエリアに聳え立つ黒鉄宮の闇の中で、クラウドが放つ圧倒的なプレッシャーの濁流に押し潰されそうになりながら、アスナは全身の酸素を強制的に搾り取られるかのような猛烈な閉塞感に囚われ、精神的な窒息状態へと陥りかけていた。
思考が混濁し、追い詰められて足元が崩れそうになった。
まさにその瞬間。
「もういいよ、アスナ」
「!!」
凛とした、だがどこまでも深い慈愛と絶対的な抱擁感を湛えた声が、張り詰めた二人の間に静かに割って入った。
ハッとしてアスナが顔を上げると、いつの間にかすぐ隣へと寄り添っていたスプリガンアバターのティファが、アスナの小刻みに震える細い肩をぽんと優しく、その温かい手の平で包み込んでいた。
その指先からVR世界のシステムを越えて伝わってくるかのような確かな温もりが、アスナの胸を締め付けていた葛藤の結び目を微かに解きほぐしていく。
彼女の美しい色の瞳には、アスナが抱える苦悩のすべてを肯定し、その身ごと受け止めるような、圧倒的な包容力が満ち満ちていた。
「ティファさん·······」
アスナの消え入りそうな声に、ティファは深く静かに頷いて見せた。
そして。
守るようにしてアスナの前に一歩踏み出すと、今なお刃のような視線を崩さないクラウドに対して、ゆっくりと、しかし確固たる意志を込めて自らの瞳を真っ直ぐにぶつけた。
言葉を交わさずとも、瞬時に互いの意図を通じ合わせることができる幼馴染みという関係。
ティファもまた、かつて“忘らるる都”という神聖な地で、『大切な仲間を失ったあの悲劇』をクラウドと同じ痛みに身を焦がしながら、今日まで共に共有し続けてきた唯一無二の理解者だった。
だからこそ。
彼女の鋭い直感は、この黒鉄宮に漂う不穏な空気の正体がクラウドの過去のトラウマに起因していることを正確に察知していたのだ。
そもそも彼女は、かつてライフストリームの奔流の中で、クラウドの崩壊しかけていた精神世界と直接繋がり、互いの意識が深く混ざり合った経験がある。
クラウドが本当の自分を見失い、自我の闇の中へと沈み込ませていた時、ティファはアルテマウェポンの襲撃による大崩落に巻き込まれながらも、彼の精神の最奥に広がる記憶の欠片を一つずつ拾い集め、本物のクラウド・ストライフの存在を現実へと繋ぎ止めた。
目に見えない魂の結び付き。
その超常的な絆の影響が今なお二人の間に残っているからこそ、ティファには分かってしまうのだ。
無言で圧をかけるクラウドの·······その頑なな沈黙の裏にある焦燥と、ユウキへの不器用な想い。
それがここでアスナが真実を隠し通し、ユウキがこのまま一人で現実世界の闇の彼方へと消え去ってしまえば、クラウドはまた『自分が救えなかった』『また力を尽くせなかった』と過酷な責任をその身に独りで背負い込んでしまう。
かつて星痕に侵され、“彼女”と初めて出会った廃墟となった教会の片隅で、大切な人達の面影に縛られながら塞ぎ込んでいたあの頃のように、彼は再び暗い日陰の底へと自ら堕ちていってしまうだろう。
────二度と彼をあの暗い場所へ行かせはしない。
ティファの瞳に宿る確固たる覚悟が、クラウドの発する魔晄の如きプレッシャーを真っ正面から受け止め、その張り詰めた空気を優しく霧散させていく。
「クラウドも一回落ち着いて? 気持ちは分かるけど、そんな顔してたら説明したくてもできないよ」
「··············」
幼馴染みのその凛とした声に、クラウドの鋭い視線が微かに揺らいだ。
ティファはクラウドの心を宥めるように見つめながら、その背後にいるアスナへと、優しく、しかし力強く語りかける。
「思いを伝えられるのは言葉だけじゃないよ、アスナ。ユウキがああやって私達を信じて全力でぶつかってきたあの『姿勢』こそが全部の本音なんだから、何も気にしなくても大丈夫。アスナの信じる通りに、この人にもぶつかってあげて」
「!!」
────言葉で無理に誤魔化すんじゃない。
ティファからその果てしない人生観を授かったアスナの瞳に、再び強い『閃光』が宿る。
それはユウキとの約束を破る不義理でもなく、クラウドの圧に屈した敗北でもない。
親友の背負うあまりにも過酷な真実を、同じ苦しみを知るこの剣士と『共有』するための覚悟。
アスナは静かに息を吸い込み、一歩前へと踏み出した。
「クラウドさん··············」
震える声を意志の力で張り詰めた響きへと変え。
アスナはついに、秘匿され続けていたユウキの真実を語り始めた。
「ユウキは────心配させたくなかったんです。クラウドさんや········私達みんなに」
先程セブンスヘブンでの打ち上げでティファが美味しい料理を運んでくれたあの温かい空間。
シウネーが懐かしそうに『ユウキとクラウドの最初の出会い』を語り、ユウキが照れくさそうに自分の剣と彼のバスターソードと火花を散らした記憶を愛おしむように話していた、あの幸せな時間の裏側。
アスナの脳裏には、ボス攻略の前にユウキの手によって連れて行かれた宿屋の静けさと、自分を蝕んでいる過酷な苦しみを打ち明けてくれたあの日の一言一言が一つずつ蘇っていた。
それはとてもじゃないが、気軽に人に話せるような生易しい内容ではなかった。
『後天性免疫不全症候群』·············通称『AIDS』という病。
その進行を極限まで食い止め、生きるための微かな希望を繋ぎ止めるため。
医療用フルダイブ機『メディキュボイド』の試作一号機が設置された無菌室の中で、彼女が今なお孤独な生命維持の戦いを現実世界で続けているという、あまりにも無慈悲で理不尽な現実。
何より、ユウキが『クラウドには絶対に内緒にしておいてね』と強く望んだ理由そのものが、クラウドへの健気なまでの気遣いと剣士としての矜持だったのだ。
クラウドがかつて魔晄中毒や星痕症候群といった、常人であれば精神が崩壊するほどの過酷な病に二度も苛まれ、その苦しみを誰よりも知っている彼だからこそ、もし自分の病気のことを知ればクラウドはユウキに対して今まで通りの『対等な剣士』としての接し方ではなく、病人を労るような、変な気を遣った態度になってしまうかもしれないと恐れていた。
かつてクラウドが皆に心配をさせたくないがために一人で姿を消し、教会の固い椅子の上で苦しんでいた過去をティファから聞いて知っていたユウキは、同じ暗闇を知る彼にだけは絶対に余計な心配をかけたくなかった。
最後まで、無敵の《絶剣》のままで、彼の心に自らの生き様を焼き付けておきたかったのだ。
その少女の秘めたる美しき矜持と優しさの全てを、アスナは一文字ずつ、クラウドへと叩きつけるようにして言葉を紡いでいく。
黒鉄宮の冷たい空気の中に、ユウキが背負う二◯年もの永い戦いの重みが。
確かな輪郭を持って具現化していくようだった。
<><><><><>
アスナが真剣な表情で語り明かした、親友の過酷な現実。
医療用フルダイブ機『メディキュボイド』の無菌室の中で、彼女が今なお孤独な生命維持の戦いを続けているというその事実。
クラウドがかつて魔晄中毒や星痕症候群といった過酷な病を経験したからこそ、変な気を遣わせたくない、最後まで無敵の《絶剣》としての対等な距離感のままでいたいと強く望んだ、ユウキの健気なまでの気遣いと誇り。
その全てを、アスナは確かにクラウドの魂へと伝えるように語り終えた。
「───ッ!!」
クラウドの眉間が、微かに歪む。
悔しさのあまり拳を作った手袋のその指先が、きしりと不穏な音を立てた。
彼が知るユウキは、あのSAOの崩壊と同時にALOに転送されるという異常事態に陥った際のバグによって、空から落ちてきた自分を『ほっとけない』と笑い、デュエル申請の作法すら忘れて夜まで純粋に剣を交え、冒険の楽しさと剣を振るう喜びを教えてくれた少女だった。
目立ちたくない、称賛されるに値しないと自らを卑怯者と蔑んでいた自分に対して『凄いんだねクラウドは!』と一点の曇りもない瞳をキラキラと輝かせてくれた少女。
『デート、一回っていうのはどうかな?』
手持ちの金がないからと言いつつ、クラウドの無茶苦茶な報酬を自分とのデート一回で返すことを笑顔で提示し、自分の人見知りな性格をあっさりと飛び越えてフリーズさせた、あの初々しくも温かな記憶。
それらの情景が、黒鉄宮の無機質な闇の背景に鮮明に浮かび上がり、クラウドの心を激しく揺さぶる。
「ユウキ·········ッ!!」
クラウドは静かに目を瞑り、指示を待つ人形のように動かなくなっていた自らの唇をゆっくりと割るようにして深く息を吐き出した。
憧れたソルジャーになれず、現実に裏切られ、絶望の底を這いずり回った自分。
だが、ユウキは違った。
『AIDS』という、現代の医学を以てしても二◯年という途方もない歳月をかけて病室のベッドに縛り付けられる過酷な運命を背負いながら。
彼女は一歩も引かずに、この世界に生きた証を残すために勇敢に立ち向かっていたのだ。
その二◯年という気の遠くなるような歳月は、常人であれば精神を崩壊させかねない絶望の檻。
だが。
今のクラウドにユウキを哀れむ気持ちなど微塵もなかった。
むしろ。
(·········舐められたものだな)
病人だと知った程度で見る目が変わるとでも思っていたのか。
もしそうなら、アイツはとんでもない愚か者だ。
そんな風に思うクラウドは、ユウキのその過酷な現実を悲劇や諦めの道具にするのではなく。
前を向いて未来を進むための────彼女の誇りと共に一つの『挑戦』として受け止めた。
「アイツを連れ戻してくれ」
「え?」
クラウドはゆっくりと両の眼を開くと、アスナを見据えた。
その低く響く声には、先程までの刺すような冷たさは消え失せ。
一人の剣士として、仲間として。
そして戦友としての、震えるような切実さが込められていた。
「どうしても·········言っておきたいことがある」
クラウドの瞳の奥で、静かに、しかし絶対に消えない意志が灯る。
それは、勝手に自分との距離を置いて逃げ出してしまった不届きな剣士に対する、元ソルジャーとしての究極の回答だった。
病人として労るつもりなど毛頭ない。
「俺は安くないと言ったはずだ。一割の報酬を突き返したままで終わらせるつもりはない。アイツを連れ戻して、その時にこう伝えてくれ·········“逃げるな”、と」
クラウドのその不器用で、けれど誰よりも真っ直ぐな言葉を聞いた瞬間。
スリーピング・ナイツの傍らでずっと祈るように手を合わせていたシウネーの目から、堪えきれずに一筋の涙が溢れ落ちた。
「クラウドさん·········ユウキは、ずっと怖かったんです。貴方やアスナさん達に自分の弱いところを見せて、これまで通りの関係が終わっちゃうのが本当に怖くて·········だからそんな風に今までと何も変わらずに、ユウキを待っててくれるなんて·········ッ!!」
シウネーは声を詰まらせながら、何度も何度も深く頭を下げた。
「あぁ·········本当、その通りだよ」
これまでじっと黙ってクラウドの覇気を受け止めていたキリトが、ここでようやくいつもの穏やかで、しかし確固たる意志の宿る声を響かせた。
キリトは自らの背を預け合ってきた別世界の仲間の顔を真っ正面から見据え、小さく微笑む。
「ユウキがどんなに強くてみんなから心配されないままでいたくても、やっぱりあいつは一人の女の子だからさ。アスナやティファの温かさに触れてつい甘えたくなっちゃったんだと思う。でも、これで分かったよクラウド。お前がそうやって待っていてくれるなら·········あいつの帰る場所はこの世界にちゃんと残り続ける」
キリトはそう言うと、クラウドの胸の奥にあるもう一つのもどかしさを、その賢敏な頭脳で正確に察知していた。
自分は別の世界の住人。
この仮想世界の中でしか彼らに干渉できない。
現実世界のどこかで今も戦っている少女の元へ直接手を伸ばしてその手を引いてやる力は、この最強のソルジャーにはない。
だからこそ。
ユウキの世界で生きる二人に、全てを託すしかないのだ。
「現実世界のユウキのところには、俺とアスナが責任を持って会いに行く。あいつの細い手を引っ張ってでも、絶対にこの世界へ連れ戻してくるからさ·········だからお前は、
「·········言われなくてもそのつもりだ」
キリトの少し茶化すような、けれど一◯◯パーセントの信頼が篭った約束に、クラウドはわずかに口元を緩めてフッと短く鼻を鳴らした。
「クラウドさん·········ティファさん·········それにみんな!!」
アスナの目から堰を切ったように、大粒の涙が溢れ出た。
しかしそれは、先程までの押し潰されそうな閉塞感の涙ではなかった。
隣で優しく肩を抱いてくれるティファとキリトの温もり。
そして。
不器用ながらも、自らの生き様を以てユウキの誇りを一◯◯パーセント承認し、仲間として呼び戻してくれと乞う最強のソルジャーの言葉。
さらに、ユウキの背負う過酷な運命を共に背負い、涙を流しながらも前を向くスリーピング・ナイツの絆。
五感の全てを以て知覚するこの圧倒的な一体感が、アスナの心の中に巣食っていた怯えという名の不純物を跡形もなく消し去っていく。
ユウキは、悲劇のヒロインなんかじゃなかった。
彼らと全力でぶつかり合い、認め合えた奇跡の象徴だった。
黒鉄宮の冷たい床から立ち上る冷気さえも、いまの彼女の胸の内を焦がす熱量の前には、容易く掻き消されていった。
─────ぶつからなきゃ、伝わらないことだってある。
相手が譲らないっていうなら自分の精一杯の想いを見せつけなきゃいけない。真剣な想いには真剣な想いをぶつける。
あの回廊での大ギルドの理不尽な占領に対し、自分の精一杯の想いを拳に込めて道を切り拓いたティファの姿勢。
言葉だけで伝わらないのなら、真正面からぶつかっていかねば理解してもらえない時だってある。その瞬間、アスナの精神には地殻変動にも似た劇的な変化が巻き起こっていた。
ユウキは、二◯年という果てしないリハビリの戦線へ、絶剣としての誇りを胸に真っ正面から立ち向かっていくつもりだった。
クラウドは過酷な過去を背負いながらも、大切な仲間を守るために再びその手に剣を取った。
────なら自分は?
与えられた価値観に盲従し、現実の檻の中でただ怯えて立ち止まっているだけでいいはずがない。
ティファから授かったあの言葉の通り、自分の精一杯の想いを、現実の壁にだって真っ正面からぶつけてみせる。
全力でぶつかってこそ、その手に持つ剣は初めて現実を切り拓く本物になるのだから。
「ありがとう、みんな·······私、ユウキを絶対にここに連れ戻してくる!!」
アスナは涙を拭うと、みんなに一点の曇りもない真っ直ぐな信頼の笑みを返した。
現実世界の困難を打ち破るための真の覚悟が、彼女の魂に灯った瞬間だった。
アスナはメニューウィンドウのログアウトボタンへと指を伸ばしながら、すぐ隣に立つ黒の剣士へと弾んだ声と共に視線を向けた。
「キリト君! 私先に行ってるね!! あっちで合流しよ!!」
アスナのその眩しいほどの覚悟に満ちた表情を見て、キリトもまた頼もしい仲間としての。
そして。
大切な恋人としての、一◯◯パーセントの信頼を乗せた笑顔で力強く頷いた。
「ああ!!」
二人の短くも確かな約束の言葉が黒鉄宮に響くと同時に、アスナはログアウトボタンに触れた。
世界の全グラフィックが超高速で消失していき、五感の全てが急速に遠ざかる。
キリトのアバターが微笑みながらこちらを見つめるのを見届け。
明日奈の意識は急激な落下感覚と共に、本当の現実世界へと引き戻されていく。
<><><><><>
アスナがログアウトを選択し、その身体が淡い光の粒子となって空間に溶けるように消失すると、それに続いてキリトもまた彼女を追うようにして速やかに仮想世界から姿を消した。
残されたユウキのギルドメンバーである『スリーピング・ナイツ』の面々も、張り詰めていた緊張の糸が切れたかのようにそれぞれ一息つくと解散していく。
シウネーは最後に溢れんばかりの感謝と祈りを込めた眼差しをクラウドとティファの二人へと向け、ユウキの帰る場所を守ってほしいという無言の願いを託して、静かにその場から去っていった。
誰もいなくなった黒鉄宮の寒々しい広間に、再び重苦しい沈黙が戻ってくる。
鉄碑の反射光だけが落とされる無人の空間で、ティファは隣に立つ幼馴染の名をそっと静かに呼んだ。
「クラウド」
微動だにせず、腕を組んだまま佇む彼に向けて。
彼女は慈愛に満ちた瞳を向け、理解しているけれども彼の口からちゃんと訊くように、核心を突く問いを投げかける。
「もしユウキが帰ってきたら·······クラウドは何を言うつもりなのかな?」
「··············」
病人として労るつもりなど毛頭ないと考えている彼のその頑なな瞳の奥に灯る、ちょっと不器用な気遣い。
病程度で自分達の関係は変わらないと、いずれ自らの大剣を以て示すであろう元ソルジャーの真意を測るように、ティファは彼の横顔を見つめた。
クラウドはすぐには答えず、ただ頭上の無機質な天井を睨みつけるようにして、短く鼻を鳴らしてこう言った。
「·······
不器用な言葉の裏に隠された一人の剣士としての最大級の称賛と、『必ず戻ってこい』という切実な願い。
ティファはその答えに満足したように、微かに口元を綻ばせるのだった。
<><><><><>
「··············」
フルダイブの遮断プロセスを経て、意識が現実世界へ完全に戻った。
アミュスフィアのゴーグルの内側で、明日奈は両眼をしっかりと見開いた。
センサーの眼が彼女の影を捉え、自動的に点いた冷たい照明の下、自室のベッドの上で上体を起こした彼女の瞳には、かつてないほどの強靭な意志の光が宿っていた。
────“逃げるな”と伝えてくれ。
胸の奥で煮えたぎる、あの最強の元ソルジャーから託された不器用で真っ直ぐな言葉。
その意思を託され、彼の孤高なる剣士としての矜持の全ては、いまや明日奈の血肉となってその全身を突き動かしていた。
「待ってて···········ユウキ!!」
このまま何も言わずに逃げようとするなんて、そんなの許せるはずもない。
結城明日奈はベッドから起き上がり、その覚悟を持った足で一歩を踏みしめるように、自室の重い扉をその手で力強く開け放つ。
<><><><><>
それから。
瞬きをする間にも等しい、けれどきちんと現実世界の容赦のない秩序の下で刻まれた三日間という歳月が静かに経過していた。
この三日の間、明日奈の精神を支配していたのは怯えや躊躇いといった脆弱な不純物ではなかった。
結城家という名の息苦しい檻、進路の強制、学校を『矯正施設』と蔑む母親の冷徹な言葉。
それらの圧迫を完全に遮断し、明日奈はただひたすらに黒鉄宮で交わした彼との約束を果たすために、ずっと前を向いていた。
「ここに···········いるんだよね?」
「あぁ········ここが唯一、ユウキが受けてるっていうメディキュボイドの臨床試験をしている場所だからな」
キリトこと桐ヶ谷和人とは、ログアウトの直後から現実世界の通信回線を通じて緊迫した連絡を取り合っていた。
彼もまた、別世界の住人であるクラウドの『現実世界のどこかで今も戦っている少女の元へ直接手を伸ばせないもどかしさ』を、その並外れた思考回路で正確に察知し、責任を持ってユウキの手を引っ張ってでも連れ戻すという覚悟をその胸に抱いていた。
そして、三日目の昼下がり。
現実世界の空はあの仮想空間のような模倣した青空とは異なり、微かに寒々しい冬の雲を浮かべながらも、どこまでも広大に、仲間を連れ戻そうとする二人を迎え入れていた。
明日奈と和人の二人が立っていたのは、とても首都圏とは思えない、神奈川県横浜市都筑区に位置する『横浜港北総合病院』の正面玄関の前だった。
コンクリートと巨大な硝子障壁で構築されたその医療施設の佇まいは、数多くの病魔と人間が死線を交える、現実世界における最も苛烈な戦場そのものだった。病院の外壁を見上げる明日奈の横顔には、かつて最強のギルドを率いた剣士としての鋭さはなく、ただ大切な友を想う親友としての情愛が滲んでいた。
アミュスフィアという電子経路を介さず、自らの足でこの冷たい大地を踏みしめ。
ただ一人の女の子として、そして何よりも対等なる仲間として。
今まさに病室のベッドの上で孤独な生命維持の戦いを続けている少女、ユウキの元へとついに辿り着いたのだ。
「········行こう、キリト君」
明日奈は隣に立つ黒いコートを纏った少年に向けて、一切の揺らぎのない張り詰めた響きを伴った声をかける。
「ああ········絶対に連れ戻そう」
和人もまた。
彼女の眩しいほどの覚悟に満ちた表情を受け止め、一◯◯パーセントの信頼を宿した力強い瞳で頷きを返す。
何も言わずに去ろうとした者に遠慮はしない。
二人は呼吸を合わせ、迷うことなく病院の二重自動ドアの先へと踏み込んでいく。