エントランスに足を踏み入れると、二人にとってはどこか懐かしく、とはいえそれはいい思い出とは言えない。
鼻の奥を刺激する、消毒薬の匂い。
二人はSAOに囚われていた時、フルダイブ状態で病院内に連れ込まれ、ずっとそこで命懸けのゲームをプレイしていた。
当たり前のことなのだが、ログインしている間は風呂にも入れず、そして栄養も取り入れられない状態となるわけで、ならばSAOの被害者達を一箇所に集め、常に体調を管理できる施設が必要なのは明白だった。
それで選ばれたのが病院、まあ妥当だろう。
だが、二人は病院に来ると嫌でも思い出す。
自分達の空白の二年間は────ずっとここで過ごしていたんだ、と。
子連れで検査にやって来た親子、足腰が悪くて内臓機能も衰弱しているであろうお年寄り達もやって来る中、明日奈と和人の二人は面会受付カウンターへと向かう。
窓口の横に備えられた用紙に、明日奈はやや震えた指先で住所氏名を書き込んでいく。
緊張でもしているのだろうか、親友に会えるかもしれないと思うと心が締め付けられる感覚に陥った。
「大丈夫かアスナ?」
「·······うん、大丈夫」
隣にいる和人の声、それを聞いたら自然と震えは治った。
彼がここにユウキがいるかもしれないと、この三日間の間に調べてくれたんだ。ならば緊張する理由はない。
そして。
明日奈は直線的な文字で面会を希望する相手の名前を書く欄へとペンを走らせた。
書き終えると、明日奈は隣にいる和人に強く頷き、まるで正解かどうか確かめるためにその用紙を持っていく。
「あの·······面会したいんですが」
「あ、はい。どなたに面会を希望で───ッ!!」
明日奈が記入済みの申請用紙を差し出すと、カウンターの向こうで端末を操作し作業をしていた女性看護師が顔を上げた。
その視線が用紙に書かれた“ユウキ”、そして“メディキュボイド”の文字に落ちた、その直後だった。
「·······ッ!?」
看護師の眉が僅かに、だが明確に跳ね上がった。
その親しみやすい笑顔が、一瞬にして部外者を強く警戒するような張り詰めた事務的な表情へと変貌する。
そのあからさまな態度の変化を、明日奈と和人は見逃さなかった。
(やっぱり·······ここにいるんだね、ユウキ)
胸の奥で確信という言葉を抱いた瞬間、鼓動が一気に早まったのを感じた。
「し、失礼ですが、お二人ともお名前は?」
「はい、結城明日奈と申します」
「桐ヶ谷和人です」
二人の名を聞いた瞬間、受付の看護師は分かりやすく慌てた。
しばらくお待ちくださいと短く告げて奥の受話器を取り上げ、内線でどこかへ小声で連絡を入れ始めた。明日奈と和人は指示された通りロビーの隅にある面会受付前のロビーチェアへと並んで腰掛け、その時を待つことになった。
アルコール消毒液や次亜塩素酸での頻繁な拭き取りに対応できる合成皮革の感触が、なんとなくキツく感じた。残っている消毒の跡、それがなんだか肌へと伝わり、ピリピリとした感覚を味わせる。
あらゆることに敏感になりすぎている、そう思えてならなかった。
背もたれに体を預けながら、明日奈はこの後ついに再会を果たすであろう親友に向けて、どんな言葉を投げかけるべきか、狂おしいほどに考え続けていた。。
────何故急に何も言わずにいなくなってしまったのか。
────どうしてあんなに悲しい涙を流して去ってしまったのか。
頭に浮かび上がるいくつもの疑問。
それを仮想空間ではなく現実の言葉に変換してぶつけようとするたびに、明日奈は頭痛を覚える。
傷つけたいわけではない。
かと言って病人として労るような薄っぺらい同情を口にすれば、あの誇り高き《絶剣》の心を、何よりも深く侮蔑することになってしまう。
どれほど言葉を選びまくっても、喉の奥から紡ぎ出されようとする文章はどれも上手くまとまらず、ただ未完成のまま崩れていった。
焦燥、そして混濁する感情。
気が付けば、明日奈の美しい横顔は氷山のように険しく強張り、唇をきつく噛み締めていた。
「アスナ」
その時。
隣に座る和人から、低くも穏やかな声が掛けられた。
明日奈がハッとして顔を和人に向けると、かつて自分を追い込んでいた所を救ってくれた時と同じ、温かい目で彼女を見つめていた。
「そんなに固くなることないよ。むしろずっとそんな顔をしてたら、せっかく連れ戻しに来たのにユウキがびっくりして本当に逃げ出しちゃうかもしれないだろ?」
和人は少しだけ悪戯っぽく微笑みながら、そっと明日奈の冷たくなっていた右手を自らの手の平で包み込んだ。
伝わってくる、大切な恋人の体温。
その不器用な、けれど何よりも温かい慰めの言葉が、明日奈の中に溜まっていた重苦しい閉塞感を僅かに融かしていく。
「キリト君·······」
「言葉なんてさ、そのうちきっと後から湧き出てくるよ。それに·······
「!!」
和人のその言葉に、明日奈はあっとしたような顔になった。
あのALOで、ユウキ達と共にボス攻略を達成したティファの言葉が鮮明に蘇ってくる。
────思いを伝えられるのは言葉だけじゃないよ、アスナ。
────ユウキがああやって私達を信じて全力でぶつかってきたあの『姿勢』こそが全部の本音なんだから。
「······っ!!」
そうだ。
言葉だけで全てを構築し、納得させることだけが全てではない。
ユウキが自らの命を重みとして剣に乗せてぶつけてきたように、自分もまたこの三日間の間で研ぎ澄ませてきた『絶対に連れ戻す』という決意そのものを、真正面からぶつければいいのだ。
「うん······ありがとう、キリト君」
明日奈は深く息を吸い込むと、強張っていた顔を和らげ、和人に向けて頷いてみせた。
その瞳の奥には、彼女らしい揺るぎない閃光の輝きが取り戻されていた。
「やあ、ごめんなさい、申し訳ない。すみません、お待たせして」
「「!!」」
そんな二人の元へ、前方の通路から足早に近寄ってくる一つの影があった。
四種類の詫びの言葉を言って会釈をして来たのは、三◯代前半くらいの男性。
その人は白衣を着て、縁の太い眼鏡を掛けたその奥にある垂れぎみの目をにこにこと細めながら、明日奈達の方へと歩いて来ていた。
「はじめまして、結城明日奈さん、桐ヶ谷和人さん。僕は“倉橋”といいます。“紺野”さん────“ユウキ”くんの主治医をしております」
<><><><><>
「コーヒーで良かったでしょうか?」
「あ、はい」
「ありがとうございます」
明日奈と和人、そして倉橋医師は四階の受付前、待合スペースの奥にある席で向かい合って座った。
窓ガラスから降りかかる陽光は確かに暖かかったが、それだけでは冷えるだろうと倉橋医師が近くのカップ式自動販売機でコーヒーを淹れてきてくれた。お金を払おうとしたら手で遮ってきて、笑みを浮かべながら首を横に振ってきたので二人はその善意に甘えさせてもらうことにした。
明日奈は一口飲むと、その紙カップを微かな力で握り締め、喉の奥に溜まった疑問をどこから口にすべきか迷っていた。
が。
それよりも先に、倉橋医師が穏やかな微笑みを浮かべて話し出した。
「“紺野木綿季”さん────ユウキはね、ここ最近は毎日のようにあなた方の話ばかりしていましたよ。それはもう嬉しそうに、とにかくあちらの世界を楽しんでいるようで、僕との面談でもずっと笑顔を絶やさない子です」
倉橋医師は眼鏡の奥の垂れぎみな目を少しだけ細め、愛おしそうにユウキとのやり取りを語ってくれた。
明日奈と和人は特に何も言わず、彼女が普段どう過ごしているのかを知りたくて静かにその言葉に耳を傾けていた。
倉橋医師の言葉は続く。
「毎日毎日楽しそうにその日にあちらであったことを話してくれて、その中でも彼女が特に熱っぽく語る人物がいたんです······“ボクの剣をあっさりと打ち破った凄い男の人”がいるんだ、とね」
「········っ!!」
「············」
明日奈は隣に座る和人と一瞬だけ視線を交わし、小さく息を漏らした。
二人の脳裏に浮かぶ姿は同一の人物。あのツンツンとした金髪に、見る者をその眼光だけで黙らせるほどの圧を瞳に宿した、背中に巨大な大剣を背負う、あの“何でも屋”の姿が鮮明に浮かび上がっていた。
ユウキは倉橋医師に対して、クラウドが『別世界の住人』であるという世界の秩序を乱しかねないほどの致命的な禁忌の話題については固く口を閉ざし、内緒にしていてくれたのだろう。
しかし。
あのALOに彼が落ちてきたあの日から始まった、言葉を超えた剣士としての純粋な交流、それだけはどうしても語らずにはいられなかったのだ。
自分を病人扱いせず、ただ一人の対等な剣士として真っ直ぐに自分の剣を受け止めてくれたクラウドのあの姿を。
その一部分のみを、彼女はあちらの世界での宝物の一つとして、主治医に伝えていたのだ。
「··········ユウキ」
それほど楽しそうにしていたのに、彼女はあの時涙を流していた。
ティファに対して、あんなことを言ってしまったから。
「でも··········急に消えちゃったんです。私達の前から、何も言わず、唐突に」
明日奈は胸の奥底から湧き上がる切実な痛みを堪えるようにして、そう言葉を絞り出した。
剣士の碑の前で親友が見せた、あのポロポロと静かに涙を流した姿が今もなお瞼の裏に焼き付いて離れない。
するとそれまで穏やかだった倉橋医師の顔が、急激に重々しい翳りを帯びて暗く沈み込んだ。
テーブルの上で組まれた医師の両手に、微かな力が込められる。
おそらく話すことを躊躇っているのだろう、ユウキの状態は気軽に第三者に話せるような内容ではない。
そのせいで彼女は一度孤立してしまったのだ、HIVキャリアであるという噂が広まった瞬間にユウキの周りにいた者達は距離を取るようになり、誰も寄り添おうとはしなかった。
けれど、そんなことはすでに承知の上。
その程度のことで切れるような友情ではないと示すために、二人はここに来たのだ。
「俺達は··········メディキュボイドが唯一ここで臨床試験を行われていることは知っています」
「!!」
沈黙を引き裂くようにして放たれたのは和人の確信に満ちた、極めて静かで低い声だった。
その並外れた思考回路で、ゲームシステムと現実の医療技術の繋がりを瞬時に看破した少年の鋭い瞳が、倉橋医師の眼鏡の奥を射抜く。
「アミュスフィアとも初代機であるナーヴギアとも違う、でもその超強化版によって外界からの刺激を全て遮断し、脳の深部までVR世界とリンクすることができる世界初の医療用フルダイブ機器··········ユウキが今どのような状況でいるのか、俺達はそれを分かった上でここに会いに来たんです」
「··········」
「私達はユウキとは変わらずにいるつもりです。たとえ急にいなくなっても、たったそれだけで壊れるような関係ではないと、そう伝えに来たんです」
倉橋医師は驚愕のあまり完全に思考を停止させたかのように一瞬だけ目を見開き、そしてすぐに冷静になった。
二人の瞳に宿る何ものにも揺るがない固いその『覚悟』の光を見た瞬間に、今目の前にいる子供達は本物であると確信を得られたのだ。
医師は諦めたように深く長く息を吐き出し、静かに語り始めた。
「そこまで把握されているのなら隠す意味はありませんね。確かに彼女の病状は以前に比べれば奇跡的な回復傾向にあり、非常に好調な推移を見せています。ウイルスの活動も弱まり、生命維持の危機という最悪のフェーズは脱しつつある··········ですが────」
倉橋医師はそこで言葉を切り、悲痛な響きを伴って言葉を重ねた。
「それでもまだ彼女はあの無菌室、クリーンルームから外へ出ることは許されません。これから先、自分の足で大地を踏みしめて歩くためには、現代の医学の限界に挑むかのような、気の遠くなるほど過酷なリハビリが彼女を待ち受けている。推定で··········およそ二◯年。木綿季くん自身もその過酷な現実を理解しています。だからこそ··········彼女は怯えてしまったんです」
「怯え、て··········?」
明日奈は言葉を詰まらせた。
いつでも元気で、誰よりも前を向いて笑っていたユウキが怯えて逃げ出したという事実が、胸の中を激しく抉る。
「あちらの世界であなた方というあまりにも眩しい、本物の強さを持った仲間達に出会ってしまった。それはとても素晴らしく、僕自身も嬉しかったです。けれど、リハビリが始まれば彼女の現実は二◯年もの間ずっと縛り付けられる身となります··········この先自分があの過酷なリハビリを乗り越えたとして、その時にみんなに追いつけるか分からない。置いていかれてしまうのが怖い。そんな脆弱な自分を見せて、今まで通りの対等な関係が変わってしまうのが、彼女は何よりも怖かった。それにね、明日奈さん。木綿季くんのご両親は二年前、そして“お姉さん”は一年前に亡くなっています。彼女は今、この世界で天涯孤独の身なのです。独りでその恐怖の全てを背負い込むには··········あの子はまだあまりにも幼すぎる」
「あ··········っ!!」
明日奈は衝撃のあまり声を失い、紙コップに入ったコーヒーに視線を落とすように深く俯いた。
天涯孤独。
独りで抱え込むという、並ならぬ恐怖。
その言葉の重みが、明日奈の心の中に潜んでいた最も生々しい傷口へと容赦なく突き刺さる。
明日奈自身もまた、つい数日前まで現実世界において母親と激しく揉め、進路を強制され、学校を変えさせられようとしていた。
仮想空間にも来られなくなるかもしれない。キリトに二度と会えなくなるかもしれない。
そんな現実の重圧に押し潰されそうになりながらも、明日奈は和人にでさえその弱さを打ち明けることがどうしても出来なかった。和人、キリトが愛してくれたのは、SAOを生き抜いた強い『閃光のアスナ』のはずだから。
ユウキも必死に隠そうとしていた。
でも、彼女が無意識に甘えたがっていた部分が、ティファの優しさに触れて暴発してしまった。彼女のことを『姉』と呼んでしまい、それで自分の弱い部分が表に出て来てしまったのだ。
ユウキも自分と同じく、こんな現実の弱い自分を見せたら皆が離れていってしまうかもしれないと独りで抱え込んで、ただ泣き寝入りすることしか出来なかったのだ。
(やっぱり··········同じ、だったんだ。ユウキも、私も··········)
弱い自分を見せるのが怖くて、大切な人の隣から離れてしまうかもしれない恐怖に怯えて独りで檻の中に閉じ籠っていた。
だから理解できる、同情も共感もしてしまう。
しかし。
あのアインクラッドの黒鉄宮で、誰に対しても冷たいようで不器用な優しさを見せる元ソルジャーは、ユウキの真実を知っても労るような同情など微塵も見せなかった。
むしろ、病人だと知った程度で見る目が変わると思うなと激昂し、病程度で自分達の関係は変わらないと、彼らしい誇りをそこに固定してみせたのだ。
キリトだって、『ユウキの手を引っ張ってでも絶対に連れ戻してくる』と、世界線を越えた最高の信頼をクラウドと交わしていたではないか。
────弱くたっていいんだ。
一人で抱え込まなくていい、誰も見捨てたりしない。
かつて和人がずっと目を覚まさずにいた自分を探しに来てくれたように、今度は自分が独りで戦っている親友の元へ直接手を伸ばし、その心を救い出す番だった。
「先生········お部屋に、ユウキのいる部屋に行かせてください」
明日奈は涙が出るのを意志の力で振り払い、倉橋医師に向けて顔を上げた。
その瞳の奥には現実世界の檻をも容易く穿つ、かつてないほど強靭な『閃光』の覚悟が灯っていた。
「私達はもう友達なんです········だから、ユウキがどんなに置いていかれるのが怖いって泣いてても、絶対に手を離したりしない。今度こそ本当の話をして、力尽くでだって連れ戻してみせます」
<><><><><>
倉橋医師は二人の覚悟を訊くと微笑み、大きく頷いて彼らをユウキの元まで連れて行ってくれると言ってくれた。
倉橋医師の案内に従い、明日奈と和人の二人は中央棟のロビーに並んだ三機のうち、一番右のスタッフオンリーと表示されているエレベーターに乗り込むと、最上階に位置する白いパネルに覆われた無機質な通路に出て、そこを静かに進んでいった。
窓もなく、ただ白い通路が続くその光景はなんだか天国のような、そんなあの世に近い世界を歩いている感覚になる。外界の音は一切聞こえない。それはつまり、ここは一般の患者が入れるようなところではなく、予想以上に重い病を患った人々が連れ込まれる特殊な場所であることを証明していた。
しばらく進むと、倉橋医師が足を止めた。
その辿り着いた場所に嵌め込まれている金属プレートには『第一特殊計測機器室』という、そこが通常の病室ではないことを告げる文字が並んでいた。
スライドドアが電子音と共に炭酸が抜けるような音を響かせて開き、室内に足を踏み入れた瞬間、明日奈は目の前の光景に目を見開いた。
左側の壁一面に広がる、横長の大きな窓硝子。
まるで海外ドラマなどで見かける取調室で、こっちからはそちらの様子を見られないがあちらからは丸見えとなる、監視用のマジックミラーにも見える巨大な硝子。
「この硝子の先はエア・コントロールされた無菌室なので入ることはできません。了承してください」
そう言ってパネルを操作し、その黒い遮光膜が倉橋医師によって急速に薄れ、完全な透明へと変化した瞬間。
ずっと謎だった彼女の真実が、白日のもとに晒される。
硝子の向こう側、様々な精密機械が電子音を鳴らして埋めつくす、そのクリーンルームの中央。
青いジェルベッドに半ば沈むようにして、顔は見えないが見覚えのある“小柄な身体”が横たわっていた。
胸元まで掛けられた白いシーツから覗く裸の肩は痩せ細っており、両腕には無数のチューブが繫がり、周囲の機械類へと文字通り命の線を伸ばしていた。
そして。
彼女の頭部のほとんどを飲み込むように、ベッドと一体化した白い直方体────『メディキュボイド』と呼ばれる巨大な装置が、その顔を深く覆い隠している。
見えるのは、全く動く気配のない薄い唇と、小さい顎だけだった。
「········ァ!!」
明日奈は思わず口許を両手で覆い、その場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。
あまりにも残酷な、現実の重み。
あの仮想世界でずっと笑顔を絶やさず、元気一杯で駆け抜けていたあのユウキが、これほどまでに小さな体で無数の機械に埋もれながら孤独に病と日々闘い続けていた。
「ユウキ········ッ!!」
彼女から聞いてはいたものの、それでも理性よりも先に感情が揺らぎ始め、明日奈の瞳の奥から熱い雫が今にも溢れ出しそうになっていた。
彼女から語られたものは頭で理解できても、それが受け止められるかどうかは別問題。
『これが実用化されたら麻酔はほとんど手術で必要なくなるし、脳の活動が正常であるにも拘わらず肉体の麻痺によって意思があることを示せない患者さんともコミュニケーションが取れるようになる。それでボクはメディキュボイド試作機がバイオクリーン室に設置された時、被験者にならないかって提案されたんだ。バイオクリーン室には入ればAIDS患者が何よりも恐れねばならない、日和見感染リスクを大幅に低減できる。だからボクはその提案を了承して、それ以来ボクはほぼ仮想空間の住人。バーチャルワールドでほとんど暮らしているからか、皆より自由に動ける。ボクの強さの秘密はそれ、皆より多くの時間ダイブしてるから。キリトは戦っている最中にそれに気付いてしまったから誘いにくくなったんだ』
明日奈はボス攻略を頼まれた時に言われたあの言葉を思い出す。
和人もキリトとしてユウキと戦い、そしてそこで気付いてしまった違和感。
二人はユウキの真実を改めて知るも、その事実の重さに思わず息を呑んだ。
過酷な環境で長時間、ずっとここで一人闘っている。
皆が知らぬ間に、この誰とも触れ合えぬ空間で。
「二四時間、フルダイブしたまま········三年間」
明日奈の何もかもを察した声。それはとても震えていて、悲しそうだった。
フルダイブ技術が開発され、アミューズメント用途以外でも研究が進められ、日本ではここでしか医療用試験を行っていない。
それから分かる通り、彼女はずっと仮想世界で過ごしており、そしてそこから導き出せるユウキの剣士としての強さの秘密。
「ユウキの強さはそこにあったんだな。俺達SAOプレイヤーよりも、世界の誰よりも········
<><><><><>
その時だった。
直方体の側面に埋め込まれたモニタパネルのインジケーターが、二人の接近を感知したかのように不規則な点滅を刻んだ。
アミュスフィアの数倍の密度を持つ電子パルスを脳の深部へと送り込み、二四時間、三年間もの途方もない時間を仮想世界に捧げてきた旅人の五感。
それが分厚い隔離硝子の向こう側に、今まさに自分に会いにやってきた二人の気配を明確に捉えていた。
(嘘、でしょ········!? キリトに、アスナ········?)
メディキュボイドの暗闇の奥底で。
ユウキ───紺野木綿季の魂は、驚愕のあまりその思考を停止させていた。
現実世界の居場所なんて、誰にも教えていなかった。
スリーピング・ナイツの仲間達だって、自分のプライバシーに関する詳細は病の事以外は何一つ知らなかったはずなのだ。
それなのに、どうして二人がここにいるのか。
だが。
木綿季の胸の中で、その驚きはすぐに静かな納得の鼓動へと変わっていった。
あの並外れた思考回路を持つ黒の剣士なら、フルダイブ環境の申し子である自分の戦闘速度から臨床試験の場所を割り出すことくらいやってのけるかもしれない。
なにより。
ログアウトボタンを押してあの世界から逃げ出す瞬間の、自分のあまりにも不甲斐ない涙。
それを見た二人が、そのまま自分を放っておくはずがないと、心のどこかではずっとそう信じていたからだ。
見つけてくれるかもしれない。
自分から繋がりを断ち切った身勝手な自分を、それでも追いかけてきてくれる人がいる。その圧倒的な事実が、凍てつきかけていた彼女の心を激しく揺さぶる。
『ユウキ········あなたにもう一度。もう一度だけでいいから会いたいよ········ッ!!』
二つの部屋を隔てる硝子に両手を押し当て、限界まで顔を近付けじっとベッドに横たわる自分の本体を凝視するアスナ。
その目から堪えきれなくなった一粒の涙が、頬を伝って床へと零れ落ちようとした。
「────泣かないで、アスナ」
<><><><><>
その瞬間。
どこからともなく────いや、彼らの頭上にあるスピーカーを介して、聞き覚えのある柔らかな声が静かに降り注いだ。
それは紛れもなく、あの世界で一緒に冒険をし、そして親友になった、あの大好きな少女の声の響きだった。
「ユウキ········!? そこに、いるの········?」
明日奈はその声が聞こえて来た瞬間に顔を上げ、極限まで自分達を隔絶する硝子の表面に右手を強く押し当てた。微かに震える指先に力を込めながら、その声の出処を探すように必死に視線を動かす。
無論、その体は全く動いていない。
しかし。
それでもこちらからは見えていると言うように、
『うん········直接は見ることができないけど、レンズ越しに見えてるよ』
スピーカーから聞こえるユウキの声は、現実の肉体の脆弱さを微塵も感じさせないほどに、あの時と変わらない、どこまでも澄んだ響きを保っていた。
『アスナ、キリト········ありがと········来てくれて』
機械によって電子音へと加工された声は無機質なノイズを僅かに発しながらも、ユウキの声色はきちんと表現され、柔らかなトーンで紡がれる。
「ユウキ········私········!!」
明日奈が震える右手を硝子の表面に強く押し当て、その存在を確かに愛おしむように凝視する中、スピーカーの向こうの少女は二人の訪問を心の底から待ち望んでいたかのように、小さな唇を小さく動かした。
『アスナ、キリト········隣の部屋にアミュスフィアがあるんだ。アプリ起動ランチャーにALOも入ってる。中で待ってるから、ログインして········来て。ボク達が闘ったあの場所で、待ってる』
彼女はここでは動けない。
体は目の前にあっても、心は仮想空間にある。
だから。
「うん········わかった!! キリト君、行こう!!」
「うん········」
明日奈と和人は深く息を吸い込むと、互いに頷きを交わした。
硝子越しに言葉を費やすのではなく、あの広大な妖精達の世界の空の下、自分達の精一杯の想いと『生き様』をぶつけ合える場所。
そこで本当の言葉を交わすために、二人は倉橋医師の許可を得て、二◯分という制限時間の中すぐ隣に備えられた面談に使っているフルダイブ用シートとアミュスフィアがある部屋へと素早く移動した。
並んで横たわった医療用のベッドの上。
別の人のものであっても、慣れ親しんだ感触を持つアミュスフィアを頭部へと滑り込ませ。
二人はそっと目を瞑って、意識をあちらへと移す言葉を同時に告げる。
「「リンク・スタート」」
<><><><><>
意識が急速に現実世界から切り離され、視界の全てを眩い光の粒子で満たしていく。
次に明日奈が眼を開いた時、彼女は水妖精族のアスナになっていた。
隣にいる和人も彼女と同じくキリトとなり、二人は無言で頷くと、翅を鳴らして宙へと飛び出していく。わずか三分ほどで主街区にある転移門へと移動すると、周囲の目など気にせずに『パナレーゼ』と叫んだ。
転移もまた一瞬、勢いよく放り出された場所は二四層の主街区の中央広場。
二人は一々周囲のことを気にする素振りも見せずに走り出し、助走をつけて跳躍、翅を展開して小島を目指す。
全速力で向かい、そして目的地が見えてくる。
そこはかつて、ユウキが《絶剣》と呼ばれて自らの命の叫びを剣に乗せてあらゆるプレイヤーに模擬戦を挑み、そしてアスナとティファに最高の信頼を持ってギルドへと誘った、あの始まりの場所だった。
頭上には現実世界の冬の雲とは異なる、だが彼女にとっては本物に感じられる空がどこまでも広がっている。
大地の真ん中。
そこにはインプの種族を選んだ小柄な少女────ユウキがあの日と変わらない凛とした、けれどどこか寂しげな微笑みを湛えて、静かに二人の到着を待っていた。
「ユウキ·······」
間違いなく、あの時自分達の前から姿を消した少女の姿だった。
その背中はとても寂しそうで、アスナの声が聞こえてもすぐには振り向こうとはしない。
「あはは·······何でかな? 来てくれる気がしたんだよ。現実の居場所、教えてなかったのに。やっぱり、キリトが勝手にボクの居場所を調べちゃったんだよね。勝手に人のプライバシーを探るなんて相変わらずやること凄いっていうか·······」
アバターを介して響くユウキの声には、もう現実の機械のノイズは混ざっていなかった。
キリトは黒いコートを風に揺らしながら、頭を掻いて小さく苦笑を返す。
「·······ごめん。仮想空間の監視を担う機関の知り合いにちょっと無理を言って、メディキュボイドの臨床試験のデータを聞き出したんだ」
ズルをした、普通ならそれは責められることだった。
でも、ユウキは彼を恨んだりしない。
「ううん、いいよ·······だってボクも心の奥では、アスナやキリトに来て欲しかったんだと思うから。自分で勝手にいなくなっちゃったのに、身勝手だよね」
「ユウキ·······」
ユウキは仮想世界の風をその小さな体に受けながら、自嘲するように視線を落とし、そしてぽつりぽつりと、自分が何も言わずに去ってしまったわけを語り始めた。
「アスナ、キリト·······ずっと本当のことを言えなくてごめんね。聞いているかもしれないけど、スリーピング・ナイツがもうすぐ解散しちゃう本当の理由はね·······長くても、あと三ヶ月って病院から告知されちゃってるメンバーが、二人いるからなんだよ」
「·······っ!!」
アスナは理性が宿る意識の最深部を、冷たい刃で深く抉り取られたかのような猛烈な衝撃に完全にその場に縫い付けられた。
あと三ヶ月。
それがあの時、シウネーとユウキがアスナのギルドに加入したいというその提案を断ったことの、残酷な真実。
そして何より、彼女が消えてしまった理由。
前を向いて未来を歩むためのリハビリの日々。
二◯年という果てしない過酷さ。
その途方もない歳月を迎える前に、すでに意思そのものが限界を迎えようとしているという現実の理不尽さに、アスナは現実世界にある体の空気を全て搾り取られるかのような閉塞感に囚われ、精神的な窒息状態へと陥りかけていた。
「だからね、ボク達はどうしてもこの素敵な世界で最後に最高の思い出を作りたかった。そんな時、MMOトゥモローの記事のことを知ってさ。あれに載って、『ボク達がここにいたよ』っていう生きた証をこの世界に残したかったんだ。そのたった一度きりのチャンスをどうしても逃したくなくて、それで手伝ってくれる強い人を探してたんだ」
ユウキの声はどこまでも健気で、けれど胸を焦がすほどの剣士の誇りに満ちていた。
風に揺れる紫の髪をそっと抑えながら、彼女は切なげにその瞳をアスナへと向ける。
「でもね。もしボク達の本当の事情を知られちゃったら、その人に凄く迷惑をかけちゃう。嫌な思いをさせちゃうからって、ギルドでも反対意見があったんだよ·······実際にほら、本当にその通りになっちゃったでしょ? アスナをこんなに悲しませて、泣かせちゃって」
「·······」
「ごめんね、アスナ·······もしできることなら、今からでもボク達のことは全部忘れて────」
「できないよ·······ッ!!」
ユウキの放った、世界を諦めるような言葉を引き裂くようにして、アスナの痛烈な叫びが全方位に響き渡った。
アスナは瞳の奥から大粒の涙を溢れ出させながら。
一歩。
また一歩と地面を踏みしめて親友へと近付き、その想いの全てをぶつけた。
「できないよ、そんなこと·······っ!! 私、絶対に諦めない!! 迷惑なんてこと、これっぽっちも思ってないし、嫌な思いなんてしてない!! ユウキ達と出会えて、ボスの攻略を一緒に手伝うことができて、私、心の底から凄く嬉しかったんだから·······っ!!」
「·······アスナ」
「それだけじゃないよ!! 覚えてる? 私がこの世界に囚われていた時、ユウキは何も関係ないのに私を助けてくれた。キリト君達と一緒に、私の元まで来て、ボロボロになっても助けてくれた!! それなのに忘れるなんて、そんなのあんまりだよ!!」
与えられた価値観に盲従し、現実の檻の中でただ怯えて泣いていた自分。
そして、その現実に生きる汚い大人によって仮想世界に二度も囚われていた自分。
そんな弱い自分を打ち破るための覚悟を心に灯してくれたのは、紛れもないユウキ達のあの全力の『姿勢』だった。
それなのに。
今さら忘れることなど、到底できるはずがない。
「ユウキ·······クラウドさんから、伝言を預かっているの」
「え·······?」
ユウキの綺麗な瞳が一瞬にして驚愕に染まった。
アスナの一切の揺らぎのない閃光の眼差しが、親友のその両目を真っ直ぐに射抜く。
アスナは、動揺する彼女の気配を正面から受け止めながらも構うことなく。
最強の“ソルジャー”から託された言葉を、そのままぶつけた。
「“逃げるな”──── だって」
「··············ッ!!!!!」
その一言がアスナの口から放たれた瞬間、ユウキの胸に大きな激震が襲った。
アスナとティファが────
その事実を彼女は一瞬にして悟ったのだ。
同じ傷と過去を知る彼にだけは、自分のこんな脆弱な姿を知られたくなかった。
一番知られたくなかったその人物に、全てが知られてしまった。
しかし。
ユウキの全てを知った上で、あの不器用な何でも屋がアスナに託した言葉は、憐れみでも労りでもなかった。
彼はただ一言───
(あはは········やっぱり、クラウドはどこまでも容赦ないな)
ユウキが抱える過酷な現実を知った時、普通の人間なら『可哀想に』という憐れみや『よく頑張ったね』という労りの想いを抱くはずなのに、彼は自分を病人扱いなど最初からする気のない、むしろ一人の剣士として認めた最高の言葉を寄越した。
それを肌で理解したユウキの唇が、ほんの僅かに愛おしそうに微笑んだ。
しかし。
その微笑みのすぐ裏側には、これまで独りで天涯孤独の檻を背負い込んってきた少女の、隠しきれない小さな震えがまだ確かに残されていた。
「でもね、アスナ········やっぱり少し怖いんだ、クラウドに会うのが。あんなに格好良くて、あんなに強い人が、ボクのこんな姿を知っちゃったんだもん。クラウドに会ったら、どんな顔をしてボクを見るのかな········今まで通りに剣を交わしてくれないかもしれない。それが、ボクはどうしても怖くて」
ユウキの声が急激に幼い子供のように弱々しさを帯びていく。
現代の医学の限界に挑むかのような、二◯年という果てしないリハビリ。
置いていかれてしまう恐怖。
そして。
互いに認め合った剣士に自分の脆さを見せてしまうことへの怯え。
その少女の心の叫びを、アスナはもうただ言葉だけで宥めていることなど出来なかった。
アスナは再び一歩前へと踏み出すと、インプのアバターでこの世界に降り立っている少女の華奢な身体を、自らの両腕で優しく、そして絶対に離さないという強い意志の力を込めて、その胸へと強く抱きしめた。
「ア、アスナ········!?」
アバターを通じて伝わる、温かい魂の震えがアスナの胸元に直に触れる。
「怖がらなくていいんだよ、ユウキ········わかってるでしょ? クラウドさんはそんなに安い人じゃないって。ユウキがどんなに過酷な現実と戦っていたって、そんなの最初から関係ないんだって、あの日ユウキが消えていった時に怒ってくれたの。病人扱いして手加減するような真似は絶対にしないって、一割の報酬を突き返したままで終わらせるつもりはないって········一人の剣士としてユウキを待ってるんだよ」
「········ッ!!」
「ユウキが一番わかってるでしょ? クラウドさんの性格を。誰に対しても平等に依頼を引き受けて、そして誰よりも仲間想いだって」
アスナの頬に、限界を迎えたように溢れ出た涙が伝っていく。
しかしそれは、現実の檻に怯える絶望の涙ではなかった。
隣で同じ覚悟を胸に、静かに佇むキリトの温もり。
そして。
不器用ながらもユウキの誇りを全部認め、一緒に戦う仲間として呼び戻してくれと願う、この世界で最強のソルジャーの言葉。
その全てを、自らの想いを以て、ユウキの心へと直接伝えていく。
「弱くたっていいんだよ。独りで抱え込まなくていい········ユウキがどんなに遠くへ逃げたって、置いていかれそうだって泣いたって········私達が何度でもユウキの手を引っ張って、この世界へ連れ戻してあげるから。だから、信じて。私達を、あの人を!!」
「うん········うん········ッ!! アスナ········ッ!!」
ずっと病魔と闘って来たユウキの魂を縛り付けていた怯えという名の枷は、アスナの想いによって跡形もなく消失していく。
仮想空間を超えて現実の手を引っ張り、帰るべき場所をこの世界に作ると約束したキリトとアスナ。
そして、
病人扱いをせず、対等な剣士として待つと誓ってくれたクラウド。
この最高に頼れる仲間達が、自分の生き様そのものを全て肯定して、ここに来てくれている。
「ありがとう········ボク、もう逃げない。ちゃんとみんなのところに戻って、あの人に········クラウドに会いに行くよ。今度こそ、ボクの気持ちを全力でぶつけるために!!」
ユウキのその声には。
あの圧倒的な強さを誇る《絶剣》としての剣士の覇気が、完璧に蘇っていた。
現実世界の理不尽さや孤独の檻を打ち破るための、真の覚悟が彼女の中へと宿った瞬間だった。
アスナは涙を拭うと、仮想と現実、二重の世界の向こう側にある未来を。
そして。
自分達とは住む世界が違っても、ずっと待っていてくれているクラウド達の顔を思い浮かべるようにして。
最高の笑みを浮かべた。
「あぁ·······一緒に行こう、ユウキ」
キリトもまた。
二人の眩しいほどの覚悟に満ちた表情を受け止め、力強い瞳のまま頷く。
全力でぶつかってこそ、その手に持つ剣は初めて現実を切り拓くものになる。
たとえ生きる世界が違っても。
彼らを隔てる壁など、どこにも存在しなかった。