今度は自分の番だ。
「スゥー·······ハァー·······」
明日奈は深く、静かに息を吸い込んだ。
凍てつくような静寂が包む世田谷の邸宅、その一階の突き当たりに位置する母親の書斎。
部屋の中から据え置きPCのキーボードを高い打鍵音と共に叩き続ける音が聞こえる。作業中に部屋に入り、そうなると彼女の母親の態度は僅かながら冷たくなる。
ノックしようにも、 明日奈の右手が凍りついたように震えて動かない。
ただ一枚のドアを隔てた母親に会う、 それだけで異世界に迷い込むような緊張が彼女を支配していた。
普通の家庭ならそこまでのものではないはずなのに。
そうして出来上がったのが、SAOの第一層で見せていた、他者を信じることができず孤立し、死に急ぐようにプレイする滑稽な自分だった。
「ッ!!」
だが。
今の彼女はあの時とは違う。
死に急いでいた彼女には大切な人ができた、仲間ができた、自分の居場所ができた。
何より。
「私も、変わらないとだね」
明日奈の脳裏に、別世界の住人の言葉が過ぎる。
『想いを伝えられるのは言葉だけじゃないよ、アスナ。ユウキがああやって私達を信じて全力でぶつかってきたあの【姿勢】こそが全部の本音なんだから、何も気にしなくても大丈夫。アスナの信じる通りに、この人にもぶつかってあげて』
かつて。
黒鉄宮の『剣士の碑』で言われた、ティファ・ロックハートの慈愛に満ちた言葉が鮮烈に蘇ってくる。
『俺は幻想の世界の住人だった。でも、もう幻想はいらない·······“俺は俺の現実を生きる”、そう決めた。だからお前も、どんなことがあっても自分の現実を生きてほしい』
そして。
一時期いなくなっていた親友に、自分の弱いところを曝け出して元気づけてくれた何でも屋。
クラウド・ストライフの言葉も、彼女の背中を押してくれたような気がした。
あれは自分に向けて紡がれた言葉ではない。
だが、親友を絶望の淵から救い上げたその響きは、明日奈の心にも消えない火を灯していた。
“俺は俺の現実を生きる”
その一言が、今の彼女にとって何よりも眩しい道標のように思えた。
クラウドは自分自身を弱いと言っていた。ソルジャーを夢見て故郷を飛び出したものの、肉体には適性があったが肝心の心の部分が壁となり、最終的には一般兵にしかなれなかった。
その後色々と苦難があったが、それでも彼は強く立ち上がれたのだ。
そんな彼を素直に尊敬していた明日奈は、ティファとクラウドの言葉を胸に、勇気を出してドアを数回叩いた。
「どうぞ」
叩く強さ、それだけで部屋の外にいるのが明日奈だと分かったのだろう。
彼女の母は機械的な声で返事をし、明日奈は口の中に溜まっていた唾を一気に飲み込む。
ノブに手をかける。今ならまだいつもの『従順な娘』へと引き返せる。
ごめんなんでもないと微笑めば、波風の立たない日常に戻れる。
けれど。
彼女はもう、その歩みを止めなかった。
「······!!」
いつまでも現実から逃げていてはダメだ。クラウドやユウキのように、自分も前に進まなければならない。
できるだけ作業の邪魔にならないように物音を立てずにドアを開け、ゆっくりと閉めた。
「またあのゲームをやっていたの?」
「············」
作業を一度中断するために、切りのいいところでキーボードを叩くのを止めた明日奈の母親、京子はブルーライトカットメガネを外す。
京子は仮想世界のゲームに対して特に嫌悪している。
当然と言えば当然だ、そのせいで大切な娘の大事な時間を奪われたのだから。
「それで? 用件は?」
「············」
「編入申請書のことなら期限は明日ですからね。朝までに書き上げておくのよ」
勝手に自分の用事を編入申請書だと決めつける、こういう所が彼女は苦手だった。
そう言うと彼女は作業に戻る。キーボードが再び素早い速度で文章が打たれる。
目が覚めたらまた彼女は厳しい教育を再開、明日奈が無事だと分かったらすぐいつもの日常に切り替えられるその冷たさ、その裏には彼女なりの子供に対しての愛情表現なのかもしれないというのは理解できる。
現実を見ろ、大人になれ。
仮想空間をまやかしと切り捨て、定められた軌道への従属を求める京子の厳しい視線が明日奈から外された。
その瞬間。
『想いを伝えられるのは言葉だけじゃないよ、アスナ』
「!!」
再びティファの優しい声が彼女の震える体を包んでくれていた。
そうだ。
言葉を尽くしても、理論を並べ立てても、この母親には何も届かない。
けれど。
自分の生きた証が、一体どこで培われてきたのかという『姿勢』そのものを突きつけることならできる。
明日奈の瞳の奥に、かつてアインクラッドの最前線で不器用に、けれど誰よりも真っ直ぐに手を繋いでくれたキリトとの出会いの情景が浮かび上がる。
そして、ムカつくタコ野郎に危ない目に遭わせられるところを救われ、偽りの自分から己の現実を生きる大剣使いへと還っていったクラウドや、そんな彼を支える仲間達の温もりが、彼女の弱気になっていた心を打ち砕く。
ユウキも、明日奈に対して『その剣でボクを叩き直して』と頼み、弱気になっていた自分の背中を思いっきり蹴ってほしいと最高の笑顔を咲かせたユウキの覚悟。
みんながあれだけの覚悟を見せてくれたんだ。
今度は、自分が頑張る番だ!!
「母さん」
明日奈は胸の内で強くそう意気込むと、歪んだ檻の如き空間の中で。
静かに、けれど一歩も退かぬ凛とした足取りで前へと踏み出した。
「編入の申請書は、書かないわ」
「············なんですって?」
京子の手がぴたりと止まり、部屋の空気が一瞬にして絶対零度へと氷結する。
何を言い出すかと思えば予想外のことを言い出した自分の娘に、思わず鋭い眼光を向けていた。
パソコンの中の文章の最後が誤字だらけになっている、それほど動揺したのだろう。
しかし。
彼女は怯まない。
「私のいる世界は、母さんが思うような現実から逃げるための安易な幻想なんかじゃない。あそこはね、もう一つの現実なの。壁に遮られることもなく、誰もが自分の本当の気持ちを伝えて、手と手を繋いで生きていける場所なの」
明日奈の声に熱が帯びていく。
「そこで出会った人達はみんな私よりもずっと過酷な状況と戦って、格好悪くても、どれだけ壊れても、もう一度前を向くために命を燃やしている。私はみんなと共に歩むことで、初めて自分自身の現実を生きる誇りを知ったの」
「それがどうしたと言うの? 他所は他所の事、明日奈には関係ないわ。何の説得力もない事を言ったって───」
「その生き方を今から証明してみせるから········VR世界に来て?」
明日奈はそう提案すると、手元に用意していた予備のアミュスフィアを静かに差し出した。
だがそれは、京子にとっては恐ろしいものでしかない。
自分の娘を仮想空間に縛り付け、そして本当に人の命を奪った、殺人兵器の後継機。
「嫌よ、そんなもの。ちゃんと口で話しなさい」
「お願い、母さん。五分だけでいいの。私の想いを伝えるには言葉だけじゃ全然足りない。だから母さんに、私が生きた世界を見て欲しいの!!」
「········」
京子は素直に言ってしまえば自分の娘の気持ちがわからなかった。
それはまるで、お菓子売り場の前で買って欲しいと駄々を捏ねる子供を冷ややかに見下ろしているような感覚に近かった。
困惑と拒絶の混ざった目で見つめていたが、娘の瞳に宿る、いかなる欺瞞も迷いもない純粋な輝きに気圧され、ついに小さく溜息をついてそれを受け取った。
「五分だけよ········もしくだらない事だったら今後一切何を言われても編入してもらいますからね」
「········ありがとう、母さん」
明日奈は母親がようやく話を聞いてくれることに安堵したが、まだ戦いは終わりではない。
むしろ、ここからが本番だ。
「で、どうしたらいいの?」
「電源を入れたらそのまま自動で接続してくれるから、中に入ったら私が行くまで待ってて」
明日奈は素早く電源を入れ、そして京子がそれを受け取るとアミュスフィアを装着して椅子の背にもたれ、接続シークエンスに入るのを見届けてから、明日奈は全力で自室へと駆け戻った。
自分もベッドに横たわり、自身の使い込んだ端末を頭部に被せる。
電源を入れ、いつものワードを呟いた瞬間。
眩い光の奔流が意識を包み込み、現実の重力から解き放たれた。
<><><><><>
そこは自分にとってもう一つの現実。
自分の帰るべき場所。
大切な仲間と共に購入したログハウスにウンディーネの姿で降り立ったアスナは、すぐに部屋の食器棚に置いてある手鏡ほどの大きさの姿見鏡の前に立つ若草色の髪をしたシルフの少女を見つけた。
それはアスナが気分転換で作った別アカウントであり、その姿を借りてダイブしてきた母、京子だった。
エリカという名前で登録したアスナのもう一つのアバターの容姿を持った京子は、戸惑ったように自らの細い指先を動かし、それから振り返っていつもの厳しい視線をアスナへと向けてきた。
「なんだか、妙な感覚ね。私の知っている体とはまるで違うわ········さあ、見せたいものって何なの?」
「うん」
アスナは静かに微笑み、リビングの奥にある小さな窓へと母を導いた。
<><><><><>
アスナは物置部屋の古い木枠の窓を静かに押し開けた。
流れ込んできたのは、凍てつく冬の極寒の空気。
その冷気がエリカとしての京子の頬を白く撫で、シルフの細い体を小さく震わせる。
そんな空気が流れ込んでくる窓の向こうには一面の白銀に覆われた険しい針葉樹の森と、雪に隠れている草木と、その雪の下を静かに流れる小さな川の光景が、どこまでも広がっていた。
「········寒々しい場所ね。ただの精巧な絵画を見せられている気分だわ」
京子は腕を組んだまま、冷淡にその景色を切り捨てた。
「ほんとに?」
けれど、アスナは首を振った。
「絵なんかじゃないよ。お母さん、よく見て」
アスナは窓枠にそっと手をかけ、遠い雪原の先を見つめた。
「どこかに似てると思わない?」
「?」
自分の記憶に訴えかけるような事を言われても、京子はここにきたことはない。
だから似てると言われても何にも────
「────!!」
何故だろう。
初めて来た場所なのに、京子は今目の前にある光景が『現実のある場所』と重なった。
そのまんまと言ってもいいくらいに似ていた。
その光景をどこまでも見通す京子は、目の前の光景と共に『思い出』を心の中で見ていた。
「思い出すでしょ? おじいちゃんとおばあちゃんの家を」
明日奈の祖父母、つまり京子の両親はこういう風景の中に住んでいた。
今彼女は都心部に存在する大学の経済学部にて教授をしており、そして彼女の夫の実家である結城家は名家。
大人の今と違って、子供の頃に過ごしてきた世界はごく普通の農家だったのだ。小さな村で機械もほとんどなく、神の教えも行き届いている彼女の実家は本当に田舎と言ってもいいくらいに自然に満ち溢れていた。
それでも彼女がそこまでの地位を獲得できたのは、そこに住んでいた両親が必死に米を作っていたからだ。お金もなければ学校も行けない、大学にだって行けない。京子は両親に支えられ、どれだけ過酷であっても弱音を吐かず、必死に田んぼを耕していたのだ。
そのお金で彼女は勉強でき、今の地位を手に入れた。
そんな祖父と祖母は明日奈が中学の時に他界してしまった。
それと同時に棚田や山も売却され、彼女の実家は取り壊してしまった。
手放した故郷、だがどれだけ裕福な地位を獲得しても、『思い出』は残り続ける。
寂しがっていない、それは理解している。でも心残りはあるだろう。自分が生まれ育った故郷を手放しても、彼女の『思い出』は自分自身を育ててくれた宝物だ。
それは誰にも、神様にだって取り上げることはできない。
すでに約束の五分は過ぎている。
でも京子はその時間の流れさえも忘れてしまったかのように、目の前の光景をずっと眺めていた。
そんな彼女の隣で、アスナは語る。
「私が中一の時のお盆のこと覚えてる? 父さんと母さん、それに兄さんは京都に行ったけど、私はどうしても宮城に行きたいって言い張って、ほんとに一人で勝手に行っちゃった時のこと」
「·······覚えてるわ」
「あの時ね、私、おじいちゃんとおばあちゃんに謝ったの。お母さんがお墓参りに来れなくてごめんなさい、って」
「あの時は·······結城の本家でどうしても出なきゃいけない法事があったから·······」
「ううん、責めてるんじゃないの。だってね、おじいちゃんは言ったわ·······『母さんは自分達の大切な宝物なんだ』って」
その言葉、アスナから出た言葉なのに、京子の耳には父親の声で再生された。
すると京子の瞳に、いつもの厳しい視線からどこか寂しげな想いが伝わってくる。
アスナは生前の祖父が残してくれた言葉を思い出のように語る。
「村から大学に進んで学者になって、雑誌にたくさん寄稿して立派になってく姿を見るのが凄く嬉しくって、だから忙しくて帰ってこれなくても不満に思ったことは一度もない、って」
「··············」
「それで私にその母さんの活躍が載ったアルバムを見せてくれながら、おじいちゃんはこうも言ってた·······『母さんもいつかは疲れて立ち止まりたくなる時がくるかもしれない。いつか後ろを振り返って、自分の来た道を確かめたくなるかもしれない。その時のために自分達はずっと、この家を守っていく。もし母さんが支えを欲しくなった時に、帰ってこられる場所があるんだよって言ってやるために、ずっと家と山を守り続けていくんだ』って」
アスナがそう言うごとに、京子の心の奥から何かが湧き上がってくる。
京子の父、アスナの祖父はずっと自分の娘を見守ってくれていた。どれだけ遠くに行ってしまっても、絶対に目を逸さなかった。
今はもうこの世のどこにも存在しない実家、でも彼女の中でそれは生き続ける。
実際、それがあったから今目の前の仮想空間の光景を見て、京子は過去の実家を思い出したのだ。
心の帰る場所、支えてくれる場所。
それは絶対に誰にも奪えない、永遠に自分と一緒にいてくれる大切なものなのだ。
この光景もいつかは終わる日が来るかもしれない。SAOの時のような事件がまた起これば、今度こそVRゲームは全て違法となってサービスを終了するという決断をし、もう二度とこの世界には来れないかもしれない。
だが、そうなっても失うことはない。
今京子が抱いているように、思い出はずっと残り続けるのだから。
「最近になって、おじいちゃんの言葉の意味が分かってきた気がするんだ」
アスナはようやく伝えられる。
自分の生きた世界、もう一つの現実がどのような所なのか。
「ここはね、私達が涙を流し、血を流し、それでも必死に手を繋いできた、もう一つの生きた現実なの。キリト君と出会って、絶望の中で互いの存在だけを信じて歩いたあの日々も。自分の弱さを全て曝け出して『自分の現実を生きる』って誓ってくれた仲間の覚悟も。そして、この世界で生きて前を向けるようになった親友の最高の笑顔も········その全てが、この中に刻まれている」
仲間達の姿、それが走馬灯のように蘇る。
「言葉でいくら説明してもきっと母さんには伝わらない。でも私はこの世界で、みんなの隣で、自分の力で歩く強さを教わったの。格好悪くても、どれだけ壊れても、もう一度前を向くために命を燃やす人達の想いを、この世界で確かに受け取った。今度は私が、その誇りを胸に頑張る番なんだよ」
アスナは振り返り、真っ直ぐに母の瞳を見据えた。
その凛とした『姿勢』には、かつての怯えも、言い訳も存在しなかった。
そして。
「自分の為に走り続けるだけが人生じゃない。誰かの幸せを、自分の幸せと思うような、そういう生き方だってあるんだって。私·······周りの人達みんなを笑顔にできるような、そんな生き方をしたい。疲れた人をいつでも支えてあげられるような、そんな生き方をしてみたい。そのために今は、大好きなあの学校で、勉強や色々なことを頑張りたいの」
京子は驚いたように目を見開いた。
そう語る自分の娘の背後に、目に見えぬ数多の強者達の揺るぎない気迫を感じ取ったかのように、そのアバターの唇が微かに震える。
彼女はこの世界で大切なものを見つけた、居場所を見つけた。
ただ現実から逃避するための遊び場だと信じて疑わなかった電子の檻の中で、誰よりも誇り高く、気高く成長した娘の『現実』が、静かに母の凍てついた心を溶かしていく。
「·······?」
長い沈黙のあと。
エリカの滑らかな頰を、澄んだ一筋の雫が静かに伝い、 足元へとぽたぽたと滴り落ちた。
それは電子の雪原を溶かす、 あまりにも人間らしい本音の跡だった。
「·······何よ、これ?」
京子は困惑を隠せぬように呟き、指先で目元を何度も拭った。
しかし、一度決壊した心の泉を塞ぐことはできなかった。
「母さん、この世界では感情の制御とか通用しないの。悲しくなった時、その涙を止めるシステムは誰にも用意されていないんだよ」
アスナが語りかけると、京子は視線を彷徨わせ、自らの脆弱な内面を否定するかのように頑なに唇を噛み締めた。
「·······本当に、嫌な世界」
悪態をつくような言葉だったが、この世界には感情を抑制するシステムなんてない。
SAOと同じく、もう一つの本物の世界を作るために設計されたのだ。
そこに生きる者達は、本物らしくあらねばならない。
怒りや喜び、楽しみや悲しみだってプログラムのような不粋なもので奪ってはならない。
張り詰めた糸が切れたかのような低い声を漏らす彼女は何度も指の腹で目蓋の端を強く擦り続けた。
京子は溢れ出る感情を押し止めることは叶わないと悟ったのか、やがて力なく両の掌を顔に当て、自分の視界を遮るように深く覆い隠してしまった。
アスナが作ったもう一つのアバターは、その中にいる京子の想いを嘘偽りなく再現する。
幾ばくかの静寂が物置部屋を満たした後、その指の隙間からこれまで決して他者に見せることのなかった微かな心の震えが、断続的な嗚咽となって静かに漏れ始める。
幻想なんかじゃない。
全てはもう一つの現実。
アスナは母親のその細い肩が脆く揺れる様子を前にして、数瞬の躊躇の後にゆっくりと一歩を詰めると、貸してあげたアバターの柔らかな肩へと、自らの手のひらをそっと優しく添えた。
<><><><><>
再びアルヴヘイムの世界へと降り立った彼女は、今までにないほど晴れやかな心地に満たされていた。
自分の母親と真っ正面から向き合い、自らの意志を毅然とした姿勢で伝えた。
そして涙を覆い隠せないあの空間で互いの本音を重ね合わせた結果、母はアスナが自分らしく生きること、そして今の学校にいる事を許してくれて、全力で駆け抜けることを確かに認めてくれたのだ。
もちろん成績を落とせばの条件付き。
人を支えるにはまず自分が強くないといけない。大学に行くこと、そのためにも三学期と来年度は今まで以上の成績を取ると約束した。
その大きな一歩。
それを誰よりも早く最愛の少年に報告したくて、アスナは自分の背中を押してくれた人が営む『セブンスヘブン』があるエリアを、弾むような足取りで進んでいた。
店に上がるための階段を登るごとに胸の奥から喜びが溢れてくるのを感じる。
キリトのいるであろう酒場に差し掛かり、扉に手をかけようとした。
その瞬間だった。
「それ本当か!?」
木製の扉を容易に透過して、外までビリビリと響き渡るほどの大声が聞こえてきた。
間違いなくキリトの声だった。
いつも冷静にシステムや状況を見極める彼が、これほどまでに感情を露わにして驚愕の声を上げるなど滅多にあることではない。
「!?」
アスナは一瞬、何事かと思って目を丸くした。
部屋の中でトラブルでも起きたのだろうか。胸を騒がせながら彼女は慌てて扉を開け、店の中へと踏み込んだ。室内へと一歩足を踏み入れたアスナの視界に飛び込んできたのは、いつもの光景ではなかった。
部屋の中央に浮かび上がる数多の半透明なホログラムウインドウ。
その中央で黒衣の剣士、キリトが身を乗り出すようにして机に両手を突いている。その傍らでは、小さな羽を小刻みに震わせるユイが真剣な眼差しで画面を見つめていた。
そして。
キリトの正面に座っていたのは、ユイと同じくらいの年齢に見える、白衣に身を包んだ男の子だった。
クラウドのナビゲーション・ピクシーとしてこの世界に存在している異世界のAIサイボーグ──チャドリーである。
普段は淡々と機械のように冷静にデータを分析しているはずのチャドリーが、その時はいつになく頬を紅潮させ、手元の演算モニターを激しく明滅させながら、子供らしく熱を帯びた口調でキリト達に何かを語りかけていた。
アスナの入室に気づかないほどの熱量が、その小さな空間に渦巻いている。
チャドリーは小さな拳を握りしめ、キリトを見上げて声を張り上げた。
「はい!! キリトさんが開発したその技術を応用すれば可能です!!」
その言葉と同時に、チャドリーが操作するウインドウに直径七センチほどの半球形ガジェットがあった。それは、キリトが現実世界の課題のために試行錯誤して設計していた、透明なアクリル製の通信装置の図面が大きく映し出された。
あまりの緊迫感と、部屋を支配する奇妙な興奮に圧倒されながら、アスナは数歩前へと進み出た。
「な、なに? どうしたの?」
「!! アスナ!!」
困惑を隠せないままアスナがそっと声をかけると、その音でようやくキリトが弾かれたように振り返った。
彼女が母親との対話を終えて戻ってきたという事実すら、今の彼の頭から一瞬吹き飛んでしまうほど、少年の瞳には尋常ではない輝きが灯っていた。
キリトは興奮を抑えきれない様子で立ち上がると、肩を小刻みに震わせながらアスナの両肩をがっしりと掴んだ。その漆黒の瞳の奥で、無数の電子の計算式と未来への希望が激しく明滅しているのが分かった。
息を荒くしたまま、キリトは驚愕と歓喜の混ざり合った声をアスナへと打ち明ける。
「凄いことだぞアスナ!! チャドリーが持ってきてくれた向こうの世界の波長データと、俺の《視聴覚双方向通信プローブ》の通信同調をユイのシステムで繋ぎ合わせれば、『次元の壁』に完全に干渉できる!! 旅をするための『新しい目』をあっち側に置けるんだ!! つまり────!!」
専門用語ばかり吐き出すキリトは言葉を一度区切り、胸の高鳴りをそのままぶつけるように。
満面の笑みを浮かべて言った。
「
その一言が室内に響き渡った瞬間。
アスナの思考は真っ白に染まり、新たな冒険の予感が、時空を越えて開き始めようとしていた。