魔晄都市、神羅が遺した巨大な廃墟。
鉄錆に塗れた鉄骨や配管が、大地に落とす影の境界線。
その領地を越え、幾度もの天災とテロの闘争によって崩落した瓦礫が連なる道を辿ったその果てに、目指すべき聖域はひっそりと佇んでいた。
かつて、荒れ果てた伍番街スラムの薄暗い片隅に人々の祈りの拠り所としてひっそりと建てられたという、“古びた廃教会”。
その木製の扉はすでに役割を果たせず、崩壊の影響か今や外界を吹き抜ける荒涼とした風を何一つの抵抗も拒絶することもなく、そのまま広い堂内へと迎え入れている。
先頭を行くクラウドと、その半歩後ろを歩むティファの足元。
戦禍を潜り抜けてきた分厚い革製のブーツが、腐食の進んだ教会の床板を静かに、けれど確かな足取りで踏み締めるたびに木材が微鳴を上げる軋んだ音が、遥か高い天井の梁に向けて反響していった。天井の大部分が崩落し、梁の隙間から剥き出しとなったその空間には、遮るもののない広大な空から西の地平へと傾く陽光が幾筋もの神聖な斜光の束となって一様に降り注いでいる。
燃え盛るような鮮烈な茜色から、夜の帳を予感させる静謐な紺色へと静かに移り変わる、穏やかな黄昏の光芒。
雲一つない薄暮の天空には、既に透明感のある紺色の浸食が始まっており、昼と夜との淡い境界線が教会の内部を優しく、そして慈しむように包み込み始めている。
それは、この地に擬似的に足を踏み入れた『異世界からの来訪者』の胸の奥に、遠い日の忘れ去られた記憶を静かに呼び覚ますような、温かくも懐かしい、
『?』
ユウキは僅かに何かの違和感を感じ取ったが、それもすぐに忘れるような出来事だった。
そして。
先頭を進んでいたクラウドが、その歩みを静かに止め、僅かに肩の力を抜くようにして振り返る。
人工的な魔晄の光を仄かに宿したその瞳が、夕闇の迫る大気の中で、静かにティファの姿と、その肩にある機械を見つめた。
「·········ここだ」
『!!』
彼の低く地響きのように沈んだ呟きが、教会の堂内を満たす静謐な空気の膜を優しく震わせた。
彼の案内に従って視線を巡らせたティファと、その右肩の衣服に据えられた小型ガジェットのレンズが、教会の最奥、最も深く光が差し込む祭壇の跡地へと向けられる。
崩れ落ちた石壁の足元。
その影の狭間には、この世界の平穏を象徴するかのような、清らかな水を絶え間なく満たし続ける『癒しの泉』が、星の奥深くから静かに湧き上がっていた。
その清冽な水面を優しく囲むように、鮮烈な黄金色の野花と純白の白百合が互いに身を寄せ合うようにして健気に群生し、夕暮れの淡い斜光の中で一際瑞々しい色彩を放っている。
周囲を囲む乾いた廃墟の荒涼とした大気とは裏腹に、その小さな花弁だけがこの地に眠る人々の無垢な祈りに応えたかのように、気高く、そして誇り高く咲き誇っていた。
そして。
その清冽な泉の傍ら、天から降り注ぐ光のただ中に、一振りの『巨大な大剣』が、まるで墓石のように毅然として大地に突き立てられていた。
かつて数多の激戦の地を駆け抜け、主の命を守る盾となり、敵の肉体を両断する矛となったその鉄塊。
その刀身は、今や銀箔の剥げ落ちた無骨な鍔を無防備に晒し、幾重もの深い刃こぼれと、幾星霜の過酷な風雨に曝されてきた歴史を物語る、赤茶けた鉄錆によって悉く覆い尽くされていた。
それは、均整の取れたデータ空間を絢爛に彩る、神話や伝説の武器が有する絵画的な美しさとは、およそ対極の位相に位置する鉄塊であった。
ゲームで言うところのどこにでもありそうな初期装備のデザインとして作られ、無骨で飾り気のないその一振りを『一人の男』がその背に背負い、そしてこの不毛にして過酷な大地を血に塗れながら駆け抜けた、確かに生きた歴史の痕跡。
それは、語られぬ闘争の過酷さを寡黙に、けれど雄弁に物語る、勇ましいまでの足跡そのものであった。
「·········」
クラウドは床板の上に自身の長大な陰影を静かに落としながら、その大剣の傍らへとゆっくりと、一歩ずつ確かな足取りで歩みを進め、ただ無言のまま佇んだ。
腰に帯びた、合体するための基礎となる第一の刃の鉄肌は、崩落した天井から差し込む夕映えの残光を一身に浴びて、鈍く不気味な金属光を周囲の大気へと放っている。その広大な背中は、誰に明かされることもない過酷な巡礼の足跡を、ただ沈黙を以て背負い続けていた。
ティファの右肩へと固定された、小型の円筒形プローブ。
その内部にある微細な歯車の回転音がチチチと静かな規則性を持って静寂の中に響き渡り、目の前で繰り広げられる一連の厳粛な情景を、時空を超えた通信回線の向こう側へと一文字の歪みもなく転送していく。受信端末のスピーカーから漏れ聞こえるユウキの息遣いは、いつしか教会の奥底に湧き上がる深い静寂と同調するように静かに、そして深く沈み込んでいた。
構築された仮想世界の寸分の隙もなく均整の取れたデータ空間には、夕日の齎す郷愁を誘うような温度も、錆びゆく鉄の風化が呼び起こす生命の衰退も、そういうシステムの存在すら許されない。
永遠の美しさを法則によって約束された空の下で過ごしてきた一人の少女にとって、眼前に生々しく広がる、ただ一度きりの生命の激しい燃焼の痕跡と、それを優しく包み込む清らかな泉の色彩は、筆舌に尽くしがたい揺らぎとなって魂の深奥を激しく揺さぶっていた。
緩やかに朽ち果てていく鋼鉄の刀身と、その足元で運命を肯定するように懸命に花弁を開く黄金の植物。
その双方が放つ、実存としての圧倒的な気配に、ユウキは自らの胸の内で静かに刻まれるこれからの限られた未来への鼓動を、そっと重ね合わせていた。
『··········!!』
通信端末の振動板を通じて、少女の震えるような小さな吐息が、この教会の空気の中にしっとりと染み渡る。
それは決して、自らの境遇を嘆くようなものなどではなかった。
あまりにも儚く、同時に美しく巡る世界の仕組みの一端に初めて視界で触れた者の、深い得心と敬意に満ちた響きを確かに湛えていた。
彼女は肩のプローブのレンズをさらに深く引き寄せ、そこに悠然と突き刺さっている大剣の長い年月による風化の跡を見つめる。
『これって確か········ALOの世界でもクラウドが使ってた剣········?』
ティファの右肩にあるレンズが再び微細な音を立てながら、泉の傍らに佇む鋼鉄の塊へと正確にピントを合わせ直していく。
ユウキの視線の先には、ところどころが赤茶けた鉄錆に覆われ、黄昏の残光を優しく浴びて静まり返る『バスターソード』の無骨な刀身があった。
かつて仮想の空でクラウドがその手で逞しく、縦横無尽に振るっていたあの傷一つないデータ上の均整の取れた得物とは、明らかにその存在の重みが異なっている。
そのあまりにも無骨で、でもどこか神聖さすら帯びた光景を、プローブのレンズ越しに凝視していたユウキは、胸の奥底を直接衝くような直感に思わず息を呑んだ。
緩やかに朽ち果てていく刀身の佇まい、そしてその傍らへ手向けるようにして咲き誇る黄金の野花の色彩。
それは。
生者と死者の境界にひっそりと佇む、美しくも悲しい『墓標』のようであった。
『クラウド·········ここってもしかして、誰かのお墓なの?』
少女の紡いだどこか切実な問いかけの声が、夕闇の忍び寄る世界へと染み渡るようにして消えていく。
それは無機質な病室の冷たいベッドの上で、先の見えない重い病の淵に立ち、いつ終わるとも知れない孤独な戦いに自らの心をすり減らしていた自身の境遇と無意識のうちに共鳴してしまったかのような、痛々しい響きを含んでいた。
「·········いいや」
問いかけられたクラウドは、赤い夕日に照らされたバスターソードの刀身から一切の視線を外さぬまま、静かに、ゆっくりと首を横に振った。
黒い手袋に覆われた彼の指先が、銀箔の剥げ落ちた無骨な鍔へとそっと触れる。
錆びついた鉄の、骨まで染み渡るような確かな冷たさを手のひら全体で感じながら。
彼は人工的な魔晄の光を宿した瞳の奥に、遠い激しい雨の日の、あの痛烈な記憶の残光を静かに灯して言った。
「“
<><><><><>
彼の低く沈んだ、しかし一片の揺らぎもない確固たる言葉が、古い教会の隅々を吹き抜ける冷涼な風の波紋に乗って、堂内へと厳かに響き渡る。
それは、この場所で“
かつてこの教会で“
クラウドは自らの人生の転換点となった『英雄の剣』の無骨な刀身を、旅立った“親友”の面影を慈しむように手のひらでそっと愛おしむようになぞりながら。
その不器用で、しかし一言一言全てに血が通った発声のまま、静かに言葉を重ねた。
「アイツは········誰よりも強かった。どんな窮地にあっても、決して諦めなかった。俺はアイツから、この剣と一緒に·······『夢と誇り』を受け取ったんだ」
激しい豪雨が容赦なく大地を叩き、泥と血に塗れた荒野の片隅。
息も絶え絶えになりながらも、己の全てを託すように、この『英雄』の象徴とも言える大剣を力強く握らせてくれた、無二の“親友”が最期に遺した命の温もり。
混濁する意識の境界で彼の心に深く灼きつけられた、永遠に色褪せることのない最期の遺言。
────お前が、俺の生きた証。
あの時、意識も定かではない自分の心を確かに震わせた『願い』が、今もなお彼を支える『誇り』として宿っている。
かつてはその約束の持つ途方もない重みに押し潰され、自らを見失い、偽りの仮面を被って迷走した時期もあった。
しかし。
数多の熾烈な戦いと奇跡的な出会いを経て、その言葉は彼を縛る不自由な鎖ではなく、崩れそうな自分自身の心を、内側から支える確固たる意志へと変貌を遂げていた。
「だから、消えてなくなったわけじゃない。俺が生きている限り、アイツの夢も誇りも、この胸の中で生き続けている。これは········アイツの魂と共に、俺達が進んでいくための道標なんだ」
クラウドのその言葉には、悲哀などという不粋な感情は微塵も存在しなかった。
そこに遺されたのは、命を賭して自身を暗冥の底から引き揚げ、『俺の分まで生きろ』と魂の灯火を託した“親友”への、至高の敬意と無上の誇りであった。
錆びついた大剣から伝わる重みは、彼が今もなおこの地で地に足をつけ、明日という未来を掴み取ろうとするための何よりの『生きた証』であった。
廃墟を吹き抜ける風が教会に湧く癒しの泉の水面を優しく撫で、傍らに群生する黄金色の花弁をサラサラと揺らす。
その微かな波紋と植物の営みは、ティファの肩にある小型プローブの精密な集音マイクを通じて、通信端末の向こう側にいるユウキへと言葉以上の確かな重みを以て伝わっていた。
『道標、か·······』
スピーカーの振動板を震わせた少女の呟きはどこか遠く、けれど不思議なほどの温かみを宿していた。
ずっと病院から出られず、仮想空間の住人として過ごして、孤独な世界を生きていたユウキにとって、見えない将来への怯えは常に心を支配する冷たい暗雲のようであった。
しかし。
この不思議な泉の前に突き立てられた、傷だらけで錆びついたバスターソードの佇まいは、そんなユウキの心を力強いものへと変えていく。
この場所で、この世界で────『一人の剣士』が命の灯火を激しく燃やした。
かつてそこにあったはずの輝きは失われ、刀身は幾星霜の風雨に曝されて朽ちつつある。
それでもなお、この大剣から放たれる気高き気配は決して消滅などしていなかった。
むしろ、目の前で静かに佇むクラウドという男を通じて、その『夢と誇り』が今もなおこの大地を見守り、未来へ向かって進み続けていることを雄弁に示している。
それは、失われていく悲劇の象徴などではない。
誰かへと意志のバトンを託し、受け取った者がその足で新天地へと踏み出すための、大いなる始まりへの道標なのだ。
「·······クラウド」
ティファは、黄昏の斜光が自身の黒髪を僅かに赤く染めていくのを感じながら、クラウドの横顔を見つめた。夕映えの残光に縁取られた彼の表情には、かつての迷いや葛藤を払い落とした、透き通るような逞しさが宿っている。
彼女はそっと右手を肩のプローブに添えた。
まるで端末の向こう側で自らの運命と対峙する少女の手を優しく包み込んで、その背を押すかのように。
「ユウキ」
ティファの安心させるような声が、古い教会の空気の中にしっとりと染み込んでいく。
「誰かが遺してくれた想いは·······形を変えて、受け取った人の中で生き続ける。だから、ここは寂しい場所じゃないの。未来へ進むための、一番大切な約束が残された場所なんだよ」
その言葉を心の一番深い場所で噛み締めるように、プローブのレンズがゆっくりと上下に揺れた。
ユウキの脳裏には、仮想世界で仲間達と共に見上げたあの日の晴れ渡った青空、開かれた世界、そしてアスナが現実世界の凍てつく扉を叩いたという勇気ある選択が鮮やかに蘇っていた。
誰もがそれぞれの現実という荒野で、必死に明日を掴み取ろうと足掻いている。
そして今。
自分の目の前には、命を懸けて誇りを繋いだ『英雄の足跡』と、それを受け継いで前へ歩み続ける『剣士』の背中がある。
『うん··············改めて、分かった気がする』
この世界を見て、何度思ったことだろう。
何度、胸に響いたことだろう。
スピーカーから漏れる少女の呟きには一片の震えも、未来への怯えもない。
その魂の奥で、かつてないほどに力強い生の灯火が赤々と燃え上がり始めていた。
『ゲームの世界みたいに、現実はいつまでも綺麗で変わらないわけじゃない。どんな人だって、いつかは死ぬ。だけど傷だらけで、錆びまみれになっても、こうやって誰かの心の中にずっと残り続けるんだね。消えてなくなるんじゃなくて、誰かの力になって、その人を一生懸命走らせるんだ·······!!』
ユウキの瞳の奥で、『見知らぬ英雄』の遺志と、自身のこれからの運命が確かな一本の輝かしい線となって結びつこうとしていた。
キリトの姿を借りてユウキの前に現れたことなど、彼女は覚えていないだろう。だが、それでいいと思えた。
姿が見えないからこそ、欠けた記憶に残る幻影を追い求めるのではなく、彼女に遺していった『家族』の意志の重みを他人事ではなく自分自身の願いとして引き継ぐことができる。
────まだ終わらない。
自分も現実の世界で、絶対に明日を掴み取ってみせる。
少女の内に宿ったその静かなる決意は、廃墟を吹き抜ける風よりも遥かに頑丈な意志となって、彼女を未来へと繋ぎ止めていた。
<><><><><>
そのユウキの内に宿った、未来を見据える力強い決意の余韻を非情に破るように。
ティファの右肩に厳重に固定された小型プローブの内部から、高周波の電子音が小さく、そして規則的な警告音を伴って静寂の中に鳴り響いた。
それは、異世界間を繋ぐプローブの稼働限界を冷酷に告げる、非情な残量アラームの警告に他ならなかった。
通信回線を維持するための歯車が、充電の限界を迎えて悲鳴を上げるような微細な音へと変調し、少女の意識をこちらの星へ繋ぎ止めるための猶予が今や残り僅かであるという現実を突きつけていた。
『あ···········そろそろ時間だね』
受信端末のスピーカーから漏れ聞こえたユウキの声には、心の停滞や将来への怯えは微塵も存在せず、ただ心地よい名残惜しさだけが静かに宿っていた。
円筒形のレンズが名残惜しそうに祭壇の跡に湧き上がる癒しの泉の輝き、そしてそこに毅然と佇む大剣の気高い姿を、最後の一瞬までその目に焼き付けようとするかのように細かく動く。
『クラウド、ティファ。今日はこの世界を案内してくれてありがとう』
少女の心の一番深い場所から紡がれた感謝の言葉が、古い教会の高い天井の梁に優しく吸い込まれるようにして消えていく。
クラウドは腰にある合体剣を微かに鳴らし、人工的な魔晄の光を宿した瞳が、仲間を大切に想う温かさを以て和らぐ。
「ああ·······」
クラウドは一人の気高き剣士として認めたユウキに、敬意を込めて短く応じる。
彼のその横顔は、どれほど離れた場所にいようとも、同じ過酷な現実をそれぞれの足で戦い抜く同志としての絆を、無言のまま雄弁に物語っていた。
不器用な彼に代わるように、ティファが肩の機械へとそっと優しく手を添え、幼い子供を慈しむように、そして抱擁するような温かい声を堂内へと響かせる。
「ううん。私達の方こそ、ユウキと一緒に街を回ったおかげで大切なことを思い出させてもらったよ。あっちに戻っても、どうかその気持ちは忘れないでね」
『うん!! ボク、絶対に忘れないよ。みんなと一緒に、もっとたくさんの景色を見るんだから!! じゃあまた、あっちで会おうね!!』
弾けるような少女の生命力に満ちた声が教会に満ちた直後、プローブのレンズの淡い光がふっと中心へと収束し、微細な歯車の回転が余すところなく停止した。
通信の切断を示す淡い光の粒子が、『癒しの泉』の清冽な水面へと、静かに融けて消えていく。
<><><><><>
異世界を繋ぐ通信が切断された、まさにその直後のことであった。
「········あれ?」
ユウキの意識は、現実世界の病院がメディキュボイド利用者の精神的負担を和らげるために用意してくれている、いつもの無機質な管理用仮想空間へと引き戻されるはずだった。
微かな電子音と共に視界に見慣れたシステムウィンドウが展開され、深い睡眠を促すための穏やかな空間が広がるはずが、その想定は唐突にして無慈悲に裏切られる。
彼女の意識を満たしたのは、天も地も、果てを告げる境界線すらも存在しない・
どこまでも広がる────圧倒的な『翠』の世界であった。
それは病院のシステムエラーや機器の不具合を疑うような、冷たい機械的な空間では決してなかった。
そこはどこか、『星の深淵』を思わせるような、温かく瑞々しい生命の気配に満ち満ちていた。仮想の肉体すら持たないはずの剥き出しの魂が、まるで清らかな泉の中に優しく抱かれているかのような、奇妙な懐かしさと安らぎ。
ここがどのような場所なのかを認識しようと、ユウキの意識が微かに揺らいでいく。
『
その時。
遮るもののない翠玉の空間から、どこからともなく、鈴の音よりも優しい麗らかな春の陽の光を思わせる温かい声が響き渡った。
それはかつて。
あの古い教会で美しい黄金の花を愛し、“
空間そのものが優しく微笑みかけてくるかのように、その声は少女の魂へと直接、染み込んでいく。
『
光の向こう側から。
目に見えない優しい手が、ユウキの背中をそっと押し出すような、至高の温もりが伝わってきた。
『
<><><><><>
慈愛に満ちたその『星の声』が境界のない空間へと染み渡るように溶けていくと、温かな光の波動がユウキの魂を優しく包み込み、上方へと押し上げるような不可思議な感覚が訪れた。
星の紡ぐ息吹そのもののような残響が彼女の意識を穏やかに揺らし、病魔によって閉ざされていた道へと新たな活力を注ぎ込んでいく。
視界を覆っていた眩い光は、徐々に淡い現実の色彩を取り戻し、ふっと現実の重みが肉体へと戻ってくる。
微かな医療機器の作動音と、一定の周期で刻まれる電子音が、静まり返った無菌室の乾いた空気を震わせていた。
メディキュボイドのある密閉された室内、無機質なシーツの上で横になっていたユウキは、ゆっくりとその瞼を押し上げた。
「········」
視界に飛び込んできたのは、メディキュボイドの画面バイザーを通して見上げる病室の天井の色彩と、管を通じて自らの肉体に注ぎ込まれる冷たい薬液の不快感である。
しかし。
先の見えない病の暗い影に怯え、孤独に心をすり減らしていたかつての彼女は、もうそこには存在しなかった。
胸の奥で、彼らの『英雄』から受け取った気高き矜持が、そしてそんな英雄の想いを受け継いだクラウドとティファが示してくれた世界の美しさが、すでに彼女の記憶に鮮烈に灼きついている。
鼻腔から吸い込んだ現実の空気は、仮想世界のデータが模したそれよりも幾分か冷たく、そして重い。
それでも。
その重みこそが、自らがこの過酷な現実で確かに前を向いて生きているという、何よりの証であった。
「ボクの、ボクだけの道標········」
ユウキはログインの余韻を払うように、微かに動くようになった右手の指先をそっと胸元へと当て、自らの心臓が刻む、力強い鼓動を確かめた。
どれほど病魔に侵されようとも、魂に刻まれた『誇り』は決して風化しない。
あの『錆びついた大剣』が『清らかな泉』の前で気高く佇んでいたように、自分もまた、この現実という荒野でどこまでも気高く生き抜いてみせる。
その頑丈な意志は、彼女を暗闇の底から確実に引き揚げ、明日へ向かって走らせるための何よりの道標となっていた。
そして。
それぞれの場所で明日を信じて懸命に生きる、仮想の世界で出会った大切な仲間達。
彼らの存在を胸に抱くたび、内なる灯火はさらに輝きを増していく。
「········うん!!」
離れた場所にありながらも、今や同じ星の空の下で、全員が等しく未来を見据えている。
「ボクはもう、迷わない。この現実で生きて········自分の道を切り拓いてみせる!!」
無菌室の静寂を打ち破るように少女の口から放たれたその言葉は、一片の揺らぎもない確固たる誓いとなって形を成した。
それは。
過酷な運命の鎖を木っ端微塵に打ち砕き、自らの足で走り出すための、大いなる決意の産声のようでもあった。
<><><><><>
ユウキの視線の先。
そこにあるモニターの数値は、さっきまで死の縁を彷徨うようにして微弱な波形を描いていたはずの生命力が、まるで奇跡に触れたかのように力強く、そして安定したリズムを刻み始めていることを証明していた。
おそらく、『異世界への渡航』というもののせいで、彼女の意識は本当の意味で体からログアウトしていたのかもしれない。魂という生命の制御中枢を一時的に失った肉体は、自衛のために代謝を極限まで抑制し、冬眠に近い仮死状態へと心拍数を減少させていた。
しかし。
彼女が三年もの間仮想空間で過ごしてきたこともあってか、その慣れで魂が時空の狭間へと行こうとも、精神と肉体を繋ぎ止める微細な糸を、彼女の魂は決して見失うことはなかった。
通常の人間の精神であれば、意識が肉体の制御圏を逸脱した瞬間に生命維持の均衡が崩壊し、そのまま終わりを迎えてしまうところを、彼女が過酷な闘病の中で培ってきた電子の海での巡航経験が、一種の精神的な防護外殻となって魂を食い止めていたのだ。
それどころか。
時空の彼方、あの星の血とも言える『ライフストリーム』が、彼女の魂へと僅かながら影響を及ぼしていた。
異世界の未知なる法則。
現実への帰還と共に肉体へと持ち帰られたその星のエネルギーの残滓は、機械を通してでも、彼女の微弱な精神神経系へと爆発的な電気信号を走らせ、細胞群へと強烈な活力を注ぎ込んで免疫系の劇的な反転攻勢を引き起こしていたのだ。
『木綿季くん!?』
「!!」
クリーンルームを厳重に隔てる透明な隔離ガラスの向こう側から、内蔵されたスピーカーを通じて、主治医である倉橋医師の驚愕に満ちた叫びが、静まり返っていた室内に響き渡った。
彼の研究室にある集中モニターに表示された、それまでの医学的常識では測り知れない異様なバイタル波形。
まるで魂の不在を示すかのように急激に低下していた心拍数が、帰還の瞬間に爆発的な快復を見せたという異変に突き動かされるようにして、彼は慌ただしく廊下を駆けつけてきたのだ。
しかし、ガラスの前に立ち止まった瞬間、倉橋はその場に縫い付けられたかのように動きを止め、さらなる衝撃に目を見張ることとなった。
厚いガラスの向こう側で、ユウキは自らの頭部を覆い続けていた重々しいフルダイブ用の接続装置であるメディキュボイドを、点滴の繋がった細い両手で自ら取り外していたのだ。
本来であれば、指先一つ動かすことすら病魔によって遮られていたはずの衰弱しきった彼女の肉体。
寝たきり生活によって筋力はとうに衰え、自力でその重量を押し上げるなど、医学的には絶対に不可能であった。
だが。
その精神に宿った『ライフストリーム』の奇跡的な干渉と、これからの現実を自分の足で歩むのだという強い覚悟は、一時的に肉体の限界を完全に凌駕させていた。医療スタッフの手を一切借りることもなく、自らの明確な意思で現実の肉体への束縛を解き、こちら側の世界へと力強く顔を上げていたのだ。
「あ、えっと········」
『········ッ!!』
ユウキは思わず苦笑を浮かべるが、長年彼女の闘病を見守り続けてきた倉橋にとって、それは容易には信じがたい、けれど紛れもない快挙の光景であった。
ガラス越しに見つめる倉橋の瞳に、熱い希望の光が宿る。
もしかしたら。
医学的な常識を遥か彼方へと置き去りにしていく少女の生命力を前に、倉橋は確信する。
ユウキの視線の先にある、まだ見ぬ輝かしい未来を、彼もまた静かに見据えていた。