ジュウゥゥゥウッ、と。
鉄板の上で脂の塊が弾け、小気味よい音が一月末の仮想空間の空気を震わせた。
続いて炭火の強烈な熱に晒された肉の表面が、見る見るうちに綺麗な褐色へと変色していく。じわじわと湧き出す肉汁が真っ赤に熾った炭へと滴り落ちるたび、香ばしい燻煙が立ち上り、その匂いは庭の隅々にまで広がっていった。
新生アインクラッド第二二層。
その精密なデジタル構築によって生み出された湖畔の丸太小屋、森の家の敷地は、いまや視覚と嗅覚の双方を限界まで刺激する至高の調理場と化していた。
この世界における『食』は、単なる視覚情報の羅列ではない。
味覚再現エンジンの高度な処理により、肉の焼ける匂い、煙の燻り、さらには舌の上に広がる濃厚な旨味の成分に至るまで、驚くべき精度で再現されている。五感の全てを満たすその精巧なシミュレーションは、現実の飢えを満たすことはできずとも、人々の精神をこれ以上ないほどに歓喜させていた。
芝生の上に並べられた三基の特大焼き台を囲むようにして、実に約三◯名を超える群衆が、手に木製のコップや大皿を携えて集まっている。
キリトやリズベット、リーファにシリカやクラインといったお馴染みの面々。
ユウキを筆頭とする『スリーピング・ナイツ』の仲間達。
さらにはアルヴヘイムの各領地を治めるサクヤ、アリシャ、そしてユージーンといった早々たる顔ぶれが種族の壁を越えて肩を並べていた。
皆の視線が、焼き台の傍らに立つ一人の美しい少女へと集まる。
アスナは満面に笑みを湛えながら自身の持つコップをそっと胸の高さまで掲げた。三◯人程の視線が彼女の動きに同調し、喧騒が水を打ったように静まり返る。
「えーそれでは、みんなの初顔合わせを祝して─────」
アスナは一度言葉を区切り、集まった大切な仲間たちの顔を一人ずつ愛おしそうに見つめていった。
最後に、力強く微笑んでいるユウキと視線を合わせる。
一拍の、溜め。
そして彼女の清澄な声が、アインクラッドの青空へと響き渡った。
「乾杯!!」
その瞬間、前庭を埋め尽くす全員の腕が一斉に突き上げられた。
「「「「「「「「「「乾杯!!」」」」」」」」」」
木々を震わせる地鳴りのような唱和に、木製の器同士がカツカツと小気味よくぶつかり合う音が重なる。
直後、笑い声と歓声が爆発した。
クラインが豪快に喉を鳴らして果実酒を煽り、リズベットが焼き上がった最上級の肉を皿へと盛り付け、シリカやリーファがそれを楽しそうに配り歩く。
ユウキはシウネーに手伝ってもらいながら受け取った串焼きを、小さなお口で大切そうに噛み締めた。
「美味しい········!! アスナ!! これ、本当においしいよ!!」
現実の彼女は未だメディキュボイドの冷たい機械の中で、微かな希望の兆しが現れ始めたばかりの極めて繊細な容態にある。
長時間のダイブは許されず、常に医療モニターの厳重な監視下にある身だ。
しかし、この仮想世界で仲間達と接し、同じ食事を分かち合う時間は彼女の精神に何物にも代えがたい生命の活力を注ぎ込んでいた。
その二つの瞳に宿る光は、病魔の影を確実に押し返しつつある。
「········」
そんな祝宴の喧騒から少しだけ離れた大木の根元。
腕を組み、背中に身の丈ほどもある大剣を背負ったクラウド・ストライフが、静かにその光景を見つめていた。
彼の持つ独特の寡黙な佇まいは、賑やかな場において一種の孤高を保っている。
「もう、クラウド。そんなところで突っ立っていないで、みんなと一緒に食べたら?」
隣で特製のノンアルコールカクテルをグラスに注ぎながら、ティファが苦笑交じりに声をかける。
彼女は先程からアスナ達の調理を手伝い、その抜群の面倒見の良さで周囲の信頼を勝ち得ていた。それで少し暇になったから離れたところで一人で食べているクラウドの方まで来たわけだが、彼はやはりと言うべきかこういう場では空気のように存在感を薄くさせる。
まるでそれが唯一の特技とでも言いたげに。
「こっちの世界でも一人で食べてたらクラウドの将来が心配で仕方ないよ。クラウドはもっと会話に参加する努力をするべきだよ。いつまでもそのままだと、みんなと仲良くできないよ?」
「!?」
クラウドはそんなことを言われて少しショックなのか、心外そうに目を見開いた。
「········俺は嫌われてない」
「え?」
ティファは急にそんなことを言い出したクラウドに思わず手に持っていたグラスを落としそうになりながら、目の前の彼の顔をまじまじと見つめた。
普段なら何を言われても『興味ないね』の一言で切り捨てるはずの彼が、まさかそんな風に子供染みた反論を口にするとは思ってもみなかったのだ。しかもその表情は冗談を言っているようには見えず、本気で自身の交友関係の正当性を主張しているようだった。
「ふふ、なにそれ。誰もクラウドが嫌われてるなんて言ってないよ。ただ、もうちょっと自分から輪の中に入っていかないと、みんな話しかけづらいよって言いたかっただけ」
ティファは口元を片手で覆い、肩を小刻みに揺らしながら笑った。
その様子を見たクラウドは居心地が悪そうに視線を泳がせ、手に持っていた串焼きの肉をこれ見よがしに小さく口へと運ぶ。
「·······キリトやクラインとは、それなりに話している」
「はいはい、分かったよ。でもほら、ユウキを見てみてよ」
ティファが視線で促した先には、賑やかな笑い声の中心にいるユウキの姿があった。
「ユウキ、あの時とは全然違うでしょう? 急にいなくなった時と違って、今はあんなに周りを明るくするくらい元気に笑ってる。未来に向かって一生懸命に変わろうとしてるユウキを見てたら、クラウドも少しは変わる努力をしなきゃって思わない?」
「·······」
ティファの言葉は決して責めるような調子ではなく、どこか慈しむような響きを秘めていた。
そして。
クラウドに言いたいことを言えたティファは、手にした空のグラスをトレイに戻すと、綺麗な黒髪を軽く揺らして、
「よし、それじゃあ私はアスナ達の手伝いに戻るね。クラウドもせっかく呼ばれたんだから、ちゃんと楽しまないとダメだよ?」
「·······あぁ」
クラウドはティファに短く応じ、視線をユウキへと戻した。
現実の彼女は過酷なリハビリに向けて準備を進めているため、まだ万全には程遠い状態のようだが、その瞳には迷いがない。
かつて彼女の身体を苛んでいた病は、今や過去のものとなりつつある。主治医すらも驚愕させたその回復劇は、彼女がこれから先、長く続く未来を確かに手に入れたことを証明していた。
しかし、未来を手に入れたからといって全てが容易に事が進むようになったわけではない。
長きに渡る闘病生活によって衰えきった現実の肉体は、未だ自由を制限されたままだ。神経の伝達や筋肉の衰退を取り戻すためのリハビリは想像を絶するほど過酷なものであるに違いない。今日もこうしてログインできている時間は限られており、医療モニターによる体調管理の下での一時的な休息に過ぎないのだ。
それでも、少女の表情に弱音や陰りは一切なかった。
目の前で仲間達と笑い合う彼女からは、ただ病が回復傾向に向かっているということに安住するのではなく、課せられた厳しい訓練の全てを乗り越え、自らの足で再び現実の大地を踏み締めようとする確固たる前進の意志が伝わってくる。
どのような事が彼女をそこまで強くしたのか、その詳細をクラウドは知らない。
ただ、病魔を退けながら次なる障壁へと毅然と立ち向かう彼女の姿勢に、一人の剣士としての深い敬意を抱かざるを得なかった。
守るべきもののために戦うことの難しさを知る彼だからこそ、与えられた命を全うしようと足掻く少女の輝きは、過去の感傷に囚われて歩みを止めそうになる自分にも手を差し伸べてくれるようでもあった。
彼女が未来へ向かってあれほど力強く一歩を踏み出しているのなら、自分もまたただ斜めに構えて時を過ごすわけにはいかない。彼女が再び現実の世界で羽ばたくその日まで、その歩みを遮るものがこの仮想世界にあるならば、その時はこの背中の大剣を以て道を切り開く手助けをしてもいいのではないか。
そんな名もなき誇りが、彼の内に静かに、だが確かに芽生え始めていた。
クラウドはふと、思考を遮るように賑やかな宴の喧騒へと再び意識を戻し、視線を前方へと走らせた。
キリト達が提供したバーベキュー会場の家の庭の一角で、何やら奇妙な人だかりが形成されつつあった。
その中心にいたのは、さっきまでアスナやシウネー達と楽しそうに会話していたはずのユウキである。しかし今の彼女は、背後から近づいてきた二人の大物によって、完全に退路を断たれるような形で囲まれてしまっていた。
赤い鎧を揺らし、その巨体を折り曲げるようにしてユウキを覗き込んでいるのは、サラマンダーの将軍ユージーン。
そしてその隣では、緑の長髪を優雅に揺らしたシルフの領主サクヤが、艶やかな笑みを浮かべながら彼女に何かを熱心に語りかけている。
「どうだ? よければオレ達のところに────」
ユージーンの地響きのような大声が、周囲の空気を震わせる。
それに負けじとサクヤもまたユウキの細い肩にそっと手を添え、甘く誘いかけるような口調で言葉を重ねた。
「おいおい待て、抜け駆けはよくないぞユージーン将軍。ユウキ、と言ったかな? どうかな、個人的興味もあるので是非シルフの領地に────」
「そっちこそ急に無理やり割り込むとは、領主としてどうかと思うがな。この剣士は今オレと話してるんだ。用があるなら後にしろ」
「人のこと言えた義理か? 私達の資金を無理やり奪おうとするために会議の場を襲撃しようとした時のこと、忘れたとは言わせんぞ」
かつてアルヴヘイムの歴史を揺るがしかけた大事件の火種が、この穏やかなバーベキューの場で再び小さな火花を散らす。
二人の大物によるあまりにも強引かつ政治的な思惑の交錯する熱烈なスカウトの波。
それは、現在この世界における最強の一角たる《絶剣》の価値を誰よりも理解しているからこその挙動であったが、当のユウキにとっては災難以外の何物でもなかった。
「え、ええっと········あ、あのね、二人とも。気持ちはとっても嬉しいんだけれど、スカウトとか、そういうのだったらちょっと────」
ユウキは両手を胸の前で小さく振りながら、困った表情を浮かべて左右に視線を泳がせた。
普段の彼女であればどんな強者が相手でも怯むことなく剣を交える気概を持っている。しかし、戦いではなく種族の威信や過去の因縁を懸けた熱烈な歓迎を前にしては、その天真爛漫な性質も役立たずだった。助けを求めるように周囲を振り返るが、キリトはリズベット達に捕まって肉の追加を要求されており、アスナもまた遠くの焼き台で手が離せない様子だった。
シウネーが心配そうに一歩前へ出ようとしたその瞬間、ユウキの鋭い感覚が木陰からこちらを静かに見守っている一つの視線を捉えた。
背中に背負われた巨大な大剣、そして全てを見通すような魔晄の瞳。
「あ!! そ、そうだ!! ボク、ちょっとクラウドに用事があるんだった!!」
ユウキは名案を思いついたと言わんばかりに顔を輝かせると、言い争いに夢中になり始めたサクヤとユージーンの間を器用にすり抜け、風のようにその場を駆け抜けた。
「あ! おい待て絶剣!!」
「残念、逃げられてしまったか」
背後から上がる驚きと落胆の声を置き去りにしたまま、ユウキは逃げるようにクラウドの方に走ってくる。
未だ現実世界でのリハビリの途上にあり、限られたダイブ時間の中での一時ではあったが、アバターを動かすその足取りは驚くほど軽快で、そして必死だった。
タタタと草を踏みしめる乾いた音が近付き、クラウドの目の前でぴたりと止まる。
「ふぅ、助かったぁ········ありがとう、クラウド!!」
「·······」
別にこちらは何もしていないが、という風に目を細めるクラウドだったが、ユウキはクラウドのすぐ側まで辿り着くと木の幹に小さな背中を預け、追っ手から逃れてきたかのように小さく胸を撫で下ろす。
クラウドは自身の真横で肩を上下させている小柄な少女を、視線だけで静かに見下ろした。彼女の額には、仮想空間のシステムが再現した微かな汗の粒子が浮かんでおり、その必死な様子が単なる冗談ではないことを物語っている。
ユウキは元気が取り柄の性格であるが、どうもああいう勧誘には弱いらしい。
「·······随分と大物に気に入られたな」
クラウドが低く淡々とした口調で応じると、ユウキは苦笑いを浮かべながら木漏れ日の隙間から遠くの焼き台の方を恐る恐る窺った。
そこではなおも不満げに腕を組むユージーンと、片手で口元を隠しながらそんな彼を可笑しそうに微笑むサクヤが、まだこちらを諦めていないような視線で見つめている。
「もう、本当に大変だったんだよ!! 二人とも、ボクを自分の種族の代表にして二月の『デュエル・トーナメント』に出したいって、全然引いてくれなくって!! ボクはただ、みんなと美味しいお肉を食べて楽しくおしゃべりしたかっただけなのにさ」
ユウキは唇を少し尖らせ、木の幹に後頭部を預けてふぅと大きな吐息を漏らした。
その言葉を聞いたクラウドは組んでいた腕の指先を僅かに動かし、彼女が口にした二月の『デュエル・トーナメント』というものがなんなのか知らないが、
「リハビリは·······順調なのか?」
クラウドの口から出たのは、不器用ながらも彼女の身を案じる短い質問だった。
彼は彼女がどれほど重い病と闘い、そしていま現在も回復へと向かっているとはいえ、現実の肉体を取り戻すためにどれほど厳しい訓練に身を投じているかを理解している。この場にログインできている僅かな時間すら、奇跡の積み重ねであることも。
その大会の詳細は知らずとも、彼女がそんなものに出て大丈夫なのか不安だった。
まだ回復傾向にある途中の身体で激しく刃を交え、競い合うような舞台に立つことが彼女の現実の肉体や精神に過度な負担を強いるのではないかという懸念が、彼の胸を過ったのだ。
ユウキはクラウドの問いに驚いたように丸い瞳を瞬かせ、それから弾けるような笑みをその表情いっぱいに広げた。
「うん! すっごく大変だけど、ボクの主治医さんですらびっくりするくらい順調だよ。毎日身体が鉛みたいに重くて、指一本動かすのにも信じられないくらい体力がいるんだけど·······でもね、不思議と嫌じゃないんだ。だって、一歩進むたびに自分が本当に生きてるんだって実感が湧いてくるからさ!!」
「·······そうか」
クラウドは微かに口角を上げた。
彼女のその言葉、そこにはかつて病に怯えていたような弱さは存在しない。
前を見据えるその強い意志は、現実世界の過酷な訓練という障壁さえも、自らの足で乗り越えていくための糧に変えているようだった。
「だからボク、絶対に諦めたくないんだ。二月の大会の時までには、もっともっとたくさんログインできるようになるくらいに元気になって、いつかは絶対に現実の世界を自分の足でしっかりと歩いてみせるよ。それで、キリトやみんなと·······絶対に直接会って話すんだ!!」
小さな拳を胸の前で握り締め、未来の目標を語るユウキの横顔は、木漏れ日の光を浴びて一際眩く輝いていた。
クラウドはそんな彼女の姿を静かに見つめ、瞳の奥に灯った強い心を感じ取っていた。
失うことを恐れ、歩みを止める言い訳ばかりを探していた過去の自分とは違う。
目の前の少女は、どれほど不自由な現実を突きつけられても、決して下を向くことなく、手に入れた未来へ向かって確実に進み続けている。
「·······お前ならやれるさ」
クラウドの口から漏れたのはお世辞でも慰めでもない、確信に満ちた静かな言葉だった。
「へへっ、ありがと!! クラウドにそう言ってもらえると、この先何があっても大丈夫な気がするよ!!」
「·······大袈裟な」
「大袈裟じゃないってば!! ボク、本気でそう思ってるんだからね!!」
ユウキが嬉しそうに白い歯を見せて笑った、その瞬間。
周囲の長閑な空気を一瞬にして切り裂くようにして、芝生を力強く踏みしめる重厚な足音が二人のいる木の木陰へと急速に近付いてきた。
等間隔に響き渡る金属の擦れ合う乾いた音が、それまで保たれていた静かな空間にただならぬ緊張の糸を張り巡らせていく。赤い大鎧の隙間から屈強そうな筋肉を覗かせ、その大きな深紅の瞳の奥から執念の炎をぎらぎらと宿すサラマンダーの将軍、ユージーンがついに逃げたユウキを追い詰めてこの場所へと姿を現したのだ。
しかし、その巨躯から放たれる凄まじい威圧感は小柄な少女には向けられていなかった。
ユージーンの射抜くような鋭い視線。
それはユウキのすぐ真横に佇み、身の丈ほどもある大剣を背負った金髪の男───クラウド・ストライフを明確に捉えていた。
アインクラッドの梢を抜けてくる柔らかな木漏れ日を完全に遮るようにして、深紅の影が二人の前に立ちはだかる。ユージーンはその背にある自慢の魔剣の柄に太い指先をかけ、まるで戦場における宿敵と対峙したかのような、抑えきれない高揚感を周囲の空間へと放射していた。
その巨躯が動くたびに鎧の金物同士が不気味な音を立て、周囲の芝生を不可視の風圧で押し潰していくかのような錯覚さえ覚えさせる。
「久しぶりだな。肉を喰う勢いは衰えていないようだが·······その腕の方は鈍っていまいな?」
地響きを思わせる低い風圧を伴った言葉が、木陰の平穏を跡形もなく吹き飛ばす。
かつてアルヴヘイムの広大な天空において、ユージーンはクラウドという存在の前に文字通りの完敗を喫した。
当時最強の称号を背負っていた彼にとって、それは生涯消えることのない敗北の傷跡であり、同時にこれ以上ない至高の壁として記憶に深く焼き付いていたのである。
『いつかあの男を自らの力で叩き伏せ、失った誇りを取り戻す』
それだけが、将軍を突き動かしていた。
周囲に漂う香ばしい肉の匂いなど、今の彼の意識には一滴すら残されていない。
その視線は、ただ一振りの凶器のようにクラウドの胸元を狙い定めていた。
「·······」
食事を終えていたクラウドは組んでいた腕を解くこともせず、ただ視線だけをユージーンへと向けた。
その瞳には怯えもなければ、過剰な敵意もない。
ただ、風のない湖の水面のような、凪の如く揺れ動くことのない落ち着きだけが秘められていた。
背負った大剣の重みを感じながら、彼はただ嵐が過ぎ去るのを待つ巨木のように、その場で微動だにせず静かに立っている。
「用件は何だ?」
吐き出された冷淡な応対に、ユージーンは怒るどころか、むしろその肉厚な唇をさらに大きく歪め、獰猛な笑みを深く刻み込んだ。
「単刀直入に聞こう。二月に開催される『統一デュエル・トーナメント』、種族の垣根を超え、この世界の真の頂点を決めるあの舞台に、貴様も当然出るんだろう?」
統一デュエル・トーナメント。
それはこの世界における最大の祭典であり、全ての剣士が憧れる、『プレイヤー最強』の称号を手にいれるための唯一の道筋であった。
各領地の威信と全ての剣士の意地が激突する戦場。
ユージーンが突きつけたその問いかけは、穏やかであったはずのバーベキューの場に一筋の鋭い火花を走らせるに充分な重みを持っていた。
彼が発する言葉の圧力は、まるで物理的な熱量となって周囲の空気の密度を塗り替えていくかのようだった。
しかし。
クラウドの答えは、そんなユージーンの熱量を嘲笑うかのように冷ややかなものだった。
「興味ないね」
あまりにも簡潔で、そして素っ気ない一蹴。
彼はこれまでにも、名誉や地位といった浮ついた報酬のために剣を振るったことなど一度もなかった。
ただ、守りたい人がいるから強くなりたかった。
確かに一時は『英雄』というものに憧れたことがあったが、ソルジャーの適性がなくその夢は儚く散った。だが、彼が本当に求めていたのはそんなものではなく、大切な人々、仲間達を守るための強さが欲しくて彼はソルジャーを目指したに過ぎない。
だから、この異世界における『最強』という椅子にも、彼の心を動かすほどの価値は見出せない。
その冷ややかな拒絶は、対峙するユージーンの熱情を正面から拒絶する。
どれほど多くのプレイヤーがその頂を夢見ようとも、過去の深い喪失と痛みを背負う彼にとって、戦いとは己の存在を誇示するための道具では決してなかった。その抜く気もない大剣の柄から伝わる冷たい感触だけが、彼の嘘偽りのない興味のなさを無言のままに肯定しているかのようであった。
「なんだと·······?」
ユージーンの太い眉がぴくりと跳ね上がる。
サラマンダーの実質的なトップを前にしたそのあまりに無関心な態度に、周囲で見守っていたスリーピング・ナイツの面々やキリト達の方の空気も一瞬にして凍りつく。将軍の背中から静かながらも強烈な怒気の波動が立ち上り、周囲の空間を重苦しく支配しようとした。
キリトやリーファ、アリシャやサクヤは知っているが、ユージーンにとってクラウドは一種の目標。いつか二人だけで手合わせをしたいということをずっと望んでおり、そのためにこれまで必死に強くなってきて、そしてようやくその機会が巡ってきたのだ。
それを平然と断られて、ユージーンは自分のこれまでの努力を否定されたような気分になるのも理解できる。
だが、その重苦しい硬直を鮮やかに吹き飛ばしたのは、誰あろうクラウドのすぐ隣にいた少女だった。
「いいじゃんクラウド!! 出ようよ!!」
ユウキはクラウドの腕を両手でぐいぐいと引っ張るようにして、身を乗り出してきた。
さっきまでユージーンやサクヤの強引な勧誘に困り果て、逃げるようにしてこっちの方へ避難してきたはずの彼女が、今度は一転してその瞳を爛々と輝かせながらクラウドを熱烈に誘う立場へと回ったのだ。
小柄な彼女のどこにこれほどの力が残されているのかと思うほど、クラウドの腕を引く手には強い力が込められていた。
「······ユウキ?」
予期せぬ方向からの熱烈な追撃に、クラウドは驚いたように視線を落とした。
自身の感情を滅多に表に出さない彼が、この時ばかりは微かに眉を寄せ、困惑の色を滲ませる。
「だって一番強い人達がいっぱい集まる大会なんだよ? キリトも出るって言ってたし、ユージーン将軍もこんなにやる気満々だし、何よりクラウドのあの凄い剣技をボクも直近で見たいもん!! 誰かの為に出るのは流石にちょっと遠慮したいけど、クラウドが出るんだったらボクも出る!! ボクもリハビリを一生懸命頑張って二月には絶対にその大会に出るようにするから、クラウドも一緒に出ようよ!!」
小さな手で彼の拳を強く握りしめ、クラウドを真っ直ぐに見上げてくるユウキの表情。
そこにはただ祭典を楽しむという以上の、自らの復活を証明せんとする強い決意が宿っていた。彼女の瞳の奥で揺らめく灯火は、現実世界の過酷な治療やリハビリの苦痛すらも全て焼き尽くしてしまうほどに眩しく、そして強烈な光を放っている。
その目はこの場にいる誰よりも高く、遠い未来を見据えていた。
「············」
クラウドはそんな少女の姿をじっと見つめ、
(ユウキは、前を向いている············)
現実世界の不自由を抱え、自由の身体を取り戻すための過酷な訓練の只中にありながらも、彼女は二月という未来の季節を自らの歩むべき道標として見据えているのだ。
まだ病の影響が残り、ログインするだけでも時間がなくて精一杯の少女が、これほどまでに力強く前進しようとしている。
ならば、過去の後悔や感傷に囚われている自分が、その果敢な挑戦から目を背けるわけにはいかないのではないか。
彼女が再び現実の世界で羽ばたくその日まで、その歩みを遮る障壁がこの仮想世界にあるならば。
「はぁ·········」
その時は、この大剣を以て道を切り開く手助けをすべきだ。
そう判断したクラウドは、諦めたように小さく溜息を吐いた。
胸に宿ったその静かなプライドを、しかし彼は無骨な態度で覆い隠すようにして、ユウキの手が握られたままの自身の腕へと視線を落とした。
「·········依頼なら、引き受ける」
低く、ぶっきらぼうに放たれたその言葉。
それは、『何でも屋』としての彼が、一人の少女の願いを何物にも代えがたい確かな契約として受け入れた瞬間であった。
「·········!! やったぁ!!」
ユウキは一瞬だけ驚いたように目を見張ったが、すぐにその言葉の持つ意味を理解し、満面の笑みを咲かせた。
クラウドはユウキに引っ張られていた腕の力を抜くと、背後にある大剣の柄へとゆっくりと手を伸ばした。
引き抜くことはしなかったが、その動作一つで彼の周囲に漂う空気の密度が明確に変化した。
強者が放つ独特の威圧感が木陰の芝生を微かに揺らし、正面のユージーンが放っていた気配を綺麗に押し返していく。
「二月だな」
クラウドの低い声が、再びユージーンの注目を一点に集める。
「あぁ。東ブロックと西ブロック、それぞれのトーナメントで勝ち残った剣士が最後に激突する。各領地から集う猛者達を蹴散らし、最後に残った二人だけが真の頂点を決める最終決戦の舞台に上ることを許される。予選から本戦に至るまで、生半可な腕では一歩たりとも進めぬ過酷な戦場になるのは違いない」
ユージーンはそう言うと、自身の背中にある魔剣の重みを確かめるように肩を大きく揺らした。
その眼光はただルールを説明しているのではなく、すでにその決戦の枠に自分が入り、そして目の前のクラウドを迎え撃つ瞬間を確信しているかのような、凄まじい気迫を宿していた。
周囲の風が、木々の葉をサァと鳴らして吹き抜けていく。
焼き台の方から聞こえる賑やかな歓声が、一瞬だけ遠のいたかのような奇妙な静寂が木陰を支配した。ユージーンの放った戦意の余韻が空気中に残り続ける中、クラウドはすぐに言葉を返さず、ただ静かに視線を落とした。
自身のすぐ隣でこちらを上目遣いで見て期待に胸を膨らませ、じっと返答を待っている少女の気配を感じる。
(最後の二人、か················)
その座に自分と、そしてあの少女が並び立つ未来。
あるいは、かつてあのデスゲームで背中を任せあった黒の剣士が、その壁として立ちはだかる景色。
様々な思考が頭の中を巡り、それが一つの確固たる意志へと収束していく。
クラウドは背中の大剣の重みを肩で受け止め直し、ゆっくりと顔を上げた。
「そうか········分かった」
クラウドの鋭い瞳が、再びユージーンへと向けられる。
「その大会、俺も出る」
クラウドの明確な参戦表明。
それはユウキという顧客の熱烈な依頼によって引き出された、確固たる決意の言葉だった。
その言葉を聞き届けた瞬間、対峙するユージーンの表情に剣士としての猛々しい歓喜がその顔に溢れた。
「言ったな!! その言葉、忘れんぞ!!」
ユージーンは満足げに大笑いし、背中の魔剣を軽く叩いた。
「このアルヴヘイムの頂点で貴様の全てを叩き潰してやる。精々、それまで腕を鈍らせないことだな!!」
遠くの焼き台の方では二人のやり取りを遠巻きに注視していたキリトが不敵な笑みを浮かべ、クラインやリズベット達が『おいおい、本当にクラウドが参戦するのかよ!!』と驚きと興奮の声を上げて大騒ぎを始めていた。
この場にいる誰もが、これから始まるであろう未曾有の戦いの予感に、一斉に沸き立っていく。
二月に開催される『統一デュエル・トーナメント』という巨大な目標へ向けて。
全員の闘志が静かに、だが熱く燃え上がり始めている。
木々の葉が擦れ合う音が、まるでこれから始まる激闘の序曲のように、いつまでも響き渡っていた。