三月。
二月中旬のあの大激突が幕を閉じてから三週間が経過してなお、アルヴヘイム全土を包み込む熱狂の波が収まる気配は微塵もなかった。
それどころか、時間の経過と共に事態の異常性が広く深く理解されるにつれ、仮想空間を構成するあらゆる界隈が未だかつてないほどの巨大な震撼に突き動かされていた。
ネット放送局の『MMOストリーム』を筆頭に、無数の動画配信プラットフォームや国内外の電子掲示板では、あの真昼の決戦を記録したアーカイブ映像が、驚異的な再生数を秒単位で更新し続けている。
画面の向こうで繰り広げられたのは、既存のゲームプログラムが用意した仕様の枠組みをその根底から叩き潰すような異次元の攻防であった。
西ブロックの覇者たる金髪の剣士が披露した、前代未聞の十五連撃──“超究武神覇斬”。
そして。
東ブロックを無敗のまま勝ち上がってきた《絶剣》と謳われた少女が放った、神速の十一連撃──“マザーズ・ロザリオ”。
この二つの大技が空中の只中で真っ向から衝突し、寸分の狂いもなく威力を相殺し合って両者同時にヒットポイントを消滅させたというリザルトは、熟練のプレイヤーであればあるほど自身の常識を根底から揺るがされるほどの衝撃を伴って受け止められていた。
───おい、冗談だろ·······っ!! と。
アルヴヘイムの熟練プレイヤーみんなが······いや、各種族の上位ギルドに所属する実力者達でさえも、現実の自身の作業部屋で配信画面を何度も巻き戻しながら半開きの口から乾いた息を漏らす日々を送っていた。
この仮想空間における剣技とは、システムが提供するスキルの発生速度とそれに対する硬直時間の精密な計算によって成り立つのが絶対の規約であったはずだ。
にも拘らず、あの金髪の男が放った十五回の軌跡には人が動ける以上の限界を超えた速度で動いていた。彼自身の純粋な身体能力と剣技、それがゲーム内の物理演算を力任せに捩じ伏せてリミッターを解除させたという事実は、各種族の領主達やこれまで最前線を走り続けてきたトッププレイヤー達のプライドを粉々に打ち砕いていた。
同時に、その規約外の暴力を正面から迎え撃ち、極限状態からの神速カウンターによってクリティカル判定を叩き込んだユウキに対しても、惜しみない賛辞が送られていた。
あの命懸けのゲームを二本の剣を手に生き抜いた“とある少年”は、そんな彼らをこう評していた。
『プログラムの判定が引き分けを示したんじゃない。二人の意思の強さが、あの瞬間に世界の限界値を完全に並び立たせたんだ』
その言葉に誰もが同意するように首を縦に振った。
そうした技術的な分析や考察は日々新しく立ち上げられる検証スレッドの底で、何万という書き込みとなって膨れ上がり続けていた。
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その熱狂をさらに加速させていたのは、各種動画配信プラットフォームで活動する影響力の高いゲーム実況者達の存在であった。
チャンネル登録者数が数百万を超えるようなVR世界の著名な実況者達は、こぞって二人の決勝戦の様子を独自の視点で解説する動画を投稿し、視聴者達の興奮を煽っていた。
『ほら皆さん!! ここ!! この十四手目から十五手目に移行する瞬間!!』
ある大物実況者は二人の激突の瞬間をスローモーションで再生しながら、マイクが割れんばかりの大声を張り上げていた。
『クラウドっていう人のこの十五連撃はアバターの筋力値を無視してるんですよ。アバターって言っても現実の物理法則の動きを限りなく本物っぽく再現してるから、本当ならこんな動き無理だし、それに普通ならこの風圧だけで相手の体勢は崩れるはずなんっスよ。でも見てよこれ!! ユウキって子は一歩も引いていない!! むしろ大剣の刃の僅かな隙間を縫うようにして自分のね、最大技を完璧なタイミングで滑り込ませている。これはもう人間の反応速度の設定を根本から疑いたくなるレベルよ!! ほんっと文字通りの神業ですよ!!』
別の対戦格闘ゲーム出身の実況者も、自身の番組内で興奮を隠せない様子で語っていた。
『同時優勝という結末はあの第一回のBoB以来で、でも今回はGGOではなくて剣の世界のALOだし、これはゲームの歴史に残る奇跡です。それに考えても見てください。片やシステムを完全に無視するような実戦の捌き、片やシステムの最高到達点。限界を超えた連撃を持つ二人がぶつかり合い、しかもこの二つがあの場で一瞬の狂いもなく噛み合った。これを見せられて興奮しないゲーマーはいないでしょうね』
彼らの熱弁に呼応するようにコメント欄は瞬く間に無数の絶叫や拍手のエフェクトで埋め尽くされ、サーバーが一時的に過負荷で停止するほどの大騒ぎが連日繰り返されていた。
各種族の領主達や普段は公式大会の運営に携わるスタッフ達でさえも、この結果を受けて今後のゲームバランスの調整やオリジナル・ソードスキルの登録システムそのものの見直しを迫られるのではないかと、裏方で大慌てで動き回っているという噂さえ流れていた。
それほどまでに。
クラウドとユウキという二人の存在はこのアルヴヘイムという世界の住人全てを恐怖に近い驚嘆と、熱い歓喜の渦へと巻き込んでいたのである。
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仮想空間の全域が未曾有の喧騒に沸き返り、無数の電子の言葉が様々な掲示板の虚空を埋め尽くしているその最中。
熱狂の震源地となった当事者達は、すでにその喧騒の届かぬ遥かなる高みへと足を踏み入れていた。
ブルルルルッ!! と。
鉄の都市の境界線を遠く背後に置き去りにし、一筋の黒い軌跡が天を衝くような峻険たる山嶺のただ中を切り裂いていく。
荒い運転でも耐えられる強靭なエンジンを備え持つ漆黒の鉄馬、フェンリル。
前二輪・後一輪という独特な接地形状を誇る極太のタイヤが、未舗装の険しい山道を力強く噛み締め、黄金に彩られた排気口から放たれる重低音の轟鳴を山肌の岩盤へと激しく反響させていた。
エッジへの配達業務を支えるために増設されたリアキャリアスペースには、今は長旅のための最低限の資材を運ぶために活用され、車体との見事な一体感を維持している。
そんな規格外のマシンのハンドルを無骨な両手で握り締めているのは、特徴的な尖った金髪を風に靡かせた元ソルジャーを自称していた真の英雄、クラウド・ストライフであった。
彼の身を包むのは過酷な荒野の熱風やモンスターの奇襲にも動じない、機能性を最優先とした服だった。タイトなノースリーブのハイネック、黒のストレートパンツ。長いエプロンを横にずらして巻いたようなアシンメトリーな腰布。
跳ね上がる猛烈な加速の負荷を強靭な体幹で受け止めながら、クラウドは地平線の先を見据えていた。
その視線が向かう先。
彼のタイトなノースリーブのハイネックを締め上げる黒い特殊合成繊維のハーネスの土台には、直径七センチほどの半球形ガジェットが厳重に固定されている。
アルミを削り出して作られた堅牢な基部と、滑らかなアクリル製の透明なドーム。
キリトとチャドリーが叡智を結集させて現実化させた、《視聴覚双方向通信プローブ》である。
漆黒の車体が傾くたび、その内部に格納されていた極小のレンズがうぃぃんと繊細なハミングを響かせながら細かに角度を変え、流動していく峻険な大自然の座標へと正確にピントを合わせていく。
次元の壁を突破し、光速で連結された大容量のデータ通信の奥から試作機に組み込まれた小さなスピーカーが空気の震えを伴って、どこか深く息を呑むような少女の呟きを漏らした。
メディキュボイドを介して意識を送り込んでいる、あの少女の響きだ。
『すごいねクラウド!! チャドリーが改良したこのプローブ!! エンジンの響きとか、クラウドの身体を通じてボクの心の芯まで直接揺さぶってくるみたい!!』
スピーカーの振動板を心地よく震わせる少女の驚嘆は、まさにその電子の『眼』の裏側に施された、過酷な改修作業の成果を証明していた。
以前エッジで試運転を行った際の機体はネットワークの僅かな揺らぎや音声フィルターの脆弱性を抱えた、あくまで接続テスト用の初期段階に過ぎなかった。
しかし、神羅カンパニーの残した高度な技術データベースを統括するサイボーグのチャドリーの手によって、その構造は短期間のうちに劇的な進化を遂げていたのである。
彼はキリトが提案したオブジェクト偽装によるデータバッファ領域の理論をさらに拡張し、通信ユニットそのものに星のエネルギーである『魔晄』の固有振動数を逆位相で相殺する変調チップを直接組み込んだ。これにより、移動中の大気や天候のノイズだけでなく、漆黒の鉄馬が排気口から撒き散らす莫大な電磁負荷や環境負荷を完全に遮断することに成功したのだ。
さらに、超速度で流動していく周囲の光景によってユウキが酔わないよう負担を減らすため、クラウドが装着しているハーネスの固定基部には超小型のスタビライザーも追加した。
フェンリルが路面の陥没や砂利を噛んで激しく跳ね上がるたび、デバイスの内部ではミリ単位の姿勢制御が瞬時に行われ、レンズの光軸を常に水平へと引き戻していく。
物理的な衝撃を電子信号の最適な触感情報へと変換するその同調システムこそが、ユウキの精神へ『クラウドの身体を通じた振動』という、驚異的な解像度の現実感を齎している要因であった。
クラウドはゴーグルの向こうの瞳を僅かに細め、スロットルを握る手に微かに力を込めながら、短く応じる。
「これからはもっと道が荒くなるぞ、覚悟はいいか?」
その不器用な信頼の温度が混ざる警告を受け、彼の左肩に固定されたプローブのレンズがうぃぃんと小さくハミングを発して上方へと向けられた。
『へへっ、望むところだよ!! どんな悪路だってボクは一歩も引く気はないからね。クラウド直々に誘われた旅なんだから、どこまでもついていくよ!!』
通信の向こうでユウキが不敵に、そして悪戯っぽく微笑んだ気配が電子の壁を越えてクラウドの肌へと鮮烈に伝わってくる。
アルヴヘイムの空で互いの全てをぶつけ合った二人だからこそ、言葉の端々には旅の仲間としての心地よい距離感が確かに息づいていた。
「········フッ」
フェンリルは主の意志に応えるように、さらに深く絞り込まれた右手の動きに合わせてエンジン回転数を限界領域へと跳ね上げる。
枯れた山肌を真っ二つに切り裂きながら長大な傾斜を一気に駆け抜けたその瞬間、急に開けた視界の先に、ついにその目的地らしき場所が見えてくる。
そこは、周囲を峻険な岩山に囲まれた中にひっそりと息を潜めるようにして佇む、古い集落であった。
山嶺の隙間から差し込む西日の斜光を浴びて、青く鈍い煉瓦造りの屋根や木組みの古い家屋の列が歪にひしめき合っている。エッジのような無骨な鉄筋やプレハブの活気とはあまりにもかけ離れた、時間が凍りついたかのような錯覚を齎すほどの重苦しい静寂がその土地一帯を深く支配していた。
集落の中央付近を見上げれば、錆び付いた『巨大な給水塔』が、まるで過去の記憶を繋ぎ止める墓標のように空に向かってぽつりと聳え立っている。
クラウドはスロットルを緩め、フェンリルの爆発的な咆哮を静かなアイドリングの地鳴りへと鎮めながら集落の境界線を示す古びた入り口の路地へと滑るように車体を進入させた。
タイヤが奏でるロードノイズが荒野の砂利から古びた石畳のそれへと変わり、小刻みな振動が収まった車体から蓄積された熱気がふわりと山間の冷たい大気へと逃げていく。
「ここだ」
クラウドはバイクを完全に停止させ、サイドスタンドを力強く蹴り出すと、イグニッションキーを回して長旅を共にしたエンジンを完全に沈黙させた。
『クラウド········ここは?』
「········」
問いかけに、青年は無言を返した。
ただ、歪に再建された木組みの家々を見つめる横顔に、落日の陰影が寂しげな陰りを落とす。
路地の両側にひっそりと並び立つ、歪に再建された木組みの家屋には人の気配が極めて薄く、今はここは『療養施設』として、ただ山を吹き抜ける乾いた風が建物の隙間を通過していくだけであった。
もう夕方に近いからか、西日も沈もうとしているこの時間帯では『彼ら』はもう眠っている。
クラウドは自身の肩に固定されたプローブへ一度も視線を向けることなく、しかしその存在を確かに意識したまま迷いのない足取りで村の中心部へと向かって歩みを進める。
彼が向かった先は広場の真ん中に異様な存在感を放って直立している、あの錆び付いた『給水塔』であった。
「ちょっと揺れるぞ」
クラウドは低く、掠れた声をスピーカーへと届けると、給水塔の側面に垂直に設置された細い金属製のハシゴへと手をかけた。
革手袋で鉄格子の冷感を受け止め、一歩ずつブーツの底で段を踏み締めながら高い位置へと身体を引き上げていく。ノースリーブの背筋が規則正しく緊張と緩和を繰り返すたび、彼の肩にハーネスで厳重に固定された半球形デバイスもまた、ゆっくりと高度を上げていった。
レンズの保護ドームが斜光を浴びて鈍い燐光を乱反射させる中、チャドリーが追加した超小型のスタビライザーが『チチチ·······』と細かなハミングを響かせ、クラウドの細かい動きによる小刻みな衝撃を完璧に相殺していく。
ダイブしているユウキの三次元的な感覚への負担をできる限り減らしながら、プローブの視界は瞬く間に村の全貌がある程度見渡せる高さまで到達した。
ハシゴを登りきり、狭隘な床板と足を踏み入れたクラウドは、眼前に広がる小さな『故郷』の全貌を見下ろした。
遮るもののない山間の強風が彼の鋭い金髪を激しく靡かせ、黒い衣服をはためかせる。
『すごくいい景色だね········この光景を見ていると、本当にここが異世界なんだって改めて実感するよ』
スピーカーの振動板を震わせるユウキの声は、チャドリーの変調チップのおかげで周囲の猛烈な風鳴りのノイズを完全に遮断し、驚くほど鮮烈にクラウドの耳へと響き渡った。
プローブのレンズがうぃぃんと滑らかに回転し、斜光に照らされた煉瓦の色彩や、どこか不自然に整えられた家々の屋根を正確な座標で捉えていく。
クラウドは腰を下ろすと、その端正な横顔を僅かに曇らせながら静かに口を開いた。
「ここはかつて·······
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その低い呟きには、アルヴヘイムでの熱狂から遠く離れた、彼の魂の最深部に眠る消えない記憶の温度が微かに滲んでいた。
夕闇が盆地の端からじわじわと這い上がり、眼下に広がる木組みの家屋を暗がりへと包み込んでいく。スピーカーの奥でユウキは息を潜めるようにしてその言葉の重みを受け止めていたが、やがてレンズがうぃぃんと小さなハミングを立てて微動し、沈滅を守るクラウドの輪郭をじっと捉えた。
『ここが、クラウドの·······故郷』
肩で、ユウキの長い吐息が聞こえる。
クラウドは思わず左手の指を伸ばしてプローブの基部に添えながら囁く。
「故郷と言っても·······似せてはいるが、全然違う。面影はあっても、ここはもう俺の故郷じゃない」
その掠れた言葉を聞いた瞬間、固定されたガジェットの奥から再び僅かな寂しさを滲ませた少女の声が聞こえてくる。
『そっか·······』
夕闇の冷たい風に混ざるユウキの呟きは、スピーカーの奥にある彼女自身の過酷な現実へと、その意識を静かに引き戻していた。
無機質な病院のベッドの上で、ただ電子の光だけを頼りに日々を繋いできた少女の脳裏に、今も遠い場所で揉め事に揺れている実家の姿が、やるせない重みを伴って浮かび上がる。
『今ね·······現実のボクの家は、親戚じゅうが奪い合っていて結構揉めてるらしいんだ。ボクには、もう帰りを待ってくれる家族は誰もいないからさ』
吹き抜ける夜風の冷たさに耐えるように、クラウドはガジェットの基部に指先を添えたまま、魔晄の光を宿した瞳を僅かに動かした。
『取り壊してコンビニにするとか、更地にして売るとか、このまま貸家にするとか·······みんな勝手なことばかり言ってるみたい。こないだなんか、パパのお姉さんだって人がフルダイブしてまでボクに会いに来たんだよ。病気のことを知ってからは、リアルじゃずっと避けてたくせにさ·······ボクに·······遺言を書けって·······』
スピーカーの振動板を微かに震わせるその言葉には、大人達の身勝手な都合によって自身の生まれ育った場所を引き裂かれようとしている、やるせない孤独と痛みが過剰なほどに込められていた。
彼女にとって、現実の生家は消え去ろうとしている。
一方で、眼前の青年が持つ故郷は『神羅』という組織の都合によって不気味なレプリカへと書き換えられている。
形は違えど、大切な『家』の存在を理不尽に奪われ、心の拠り所をなくしていく二人の歩みは、この凍りついた給水塔の頂上で奇妙な一本の線となって重なり合っていた。
『あ、ごめんね、変な愚痴言っちゃって』
「··············」
ユウキの申し訳ない声にクラウドは組んだ膝に少しだけ力を込め、暗がりに沈む偽りの故郷を見つめたまま、静かに口を開いた。
「ティファも·······村が元通りになったことを喜ばなかった。当然だ、故郷を奪われたんだからな」
その低く掠れた声色には、神羅カンパニーという巨大な存在によって自らの凄惨な過去ごと故郷を『無かったこと』にされ、巧妙な作り物で上書きされたことへの、静かでありながらも深い怒りが底流していた。
肩の上でプローブのレンズが方向を変えるように動き、クラウドの暗い横顔を真っ直ぐに映し出す。スピーカーの向こうのユウキは、その言葉に自身の剥き出しの現実を重ねるように、小さく息を漏らした。
『うん·······そうだよね。形だけを真似して、まるで最初から何も無かったみたいに誤魔化されるなんて、本当に許せないよね。でもね·······クラウド。ボクはたとえ作り物の街並みだったとしても、こうしてクラウドがボクをここに連れてきてくれたこと、すごく嬉しいんだ』
夕闇が完全に盆地を覆い尽くし、冷え込みが一段と厳しさを増していく中、ユウキの声は不思議なほど澄み切った温かさを帯び始めていた。
『たとえ病気が治っても、ボクの世界の実家はきっともうすぐ完全に無くなっちゃう。親戚の人達の欲張りな都合で、更地になって、誰もボクの家族がそこにいたことを覚えていられなくなっちゃうかもしれない·······それがたまらなく怖くて、寂しかったんだ』
メディキュボイドを介して流れ込んでくる少女の震えるような胸の内を、クラウドは黙って受け止めていた。
『だけど、クラウドが教えてくれたこの世界の景色は、ここで生きている人達の足跡が本物なんだって教えてくれた。この給水塔の上から見る光景も、夕焼けの暗さも、ボクにとっては絶対に消えない本物の思い出だよ。だから·······クラウド達の過去の傷跡も、ボクのこの『眼』で、ちゃんと心に刻んでおくからね』
不器用な元ソルジャーを励ますような、一人の好敵手としての力強い誓い。
その無垢な言葉にクラウドは魔晄の光を宿した瞳を僅かに見開き、静かに息を吐き出した。
彼は添えていた左手の指先をプローブの基部からそっと離すと、少しだけ口元を緩め、不器用な口調のまま静かに応じる。
「そう言われると·······悪くない気がしてくるな」
二月中旬の死闘から三週間。
互いの限界を超えた連撃を交わし合った二人の魂は、かつての『故郷の思い出の場所』で、静かに共鳴し合っていた。
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『ところでクラウド?』
「うん?」
『ティファから聞いてたけどさ·······クラウドって子供の頃ずっとティファのこと避けてたんだって?』
「!?」
不意を突いた少女の指摘に、元ソルジャーの強靭な身体が一瞬にして動きを止めた。
魔晄の光を宿した瞳を大きく見開き、動揺を隠しきれないまま彼は慌てたように視線を夜闇の底へと泳がせる。鋭い金髪の隙間から覗く耳の尖端が、夕闇の暗がりの中でもはっきりと分かるほどに一瞬にして紅く染まっていく。
「ティファ·······余計なことを·······ッ!!」
『へへっ、やっぱり本当なんだ!! 声をかけても無視されたとか、目があったらすぐに逸らされたとか、ティファは当時すっごく寂しかったんだからね? どうしてそんなことしちゃったの?』
「·······」
スピーカーから漏れるクスクスという子供らしい追及を受け、クラウドは暫しの間、言葉を無くしたように夜闇を見つめていた。耳の尖端の赤みは引かないまま、彼は組んでいた膝をゆっくりと伸ばし、狭隘な床板の上へ自らの背中を預けるようにして仰向けに寝そべった。
ノースリーブに包まれた屈強な肩が床へと落ち着くと同時に、彼の肩に固定された半球形デバイスのレンズもまた遮るもののない天上の全貌へと真っ直ぐに向けられる。
組み込まれた超小型スタビライザーが静かに駆動し、揺らぎを補正しながらその先にある星の海を映し出す。
『わぁ·······ッ!!』
視界に飛び込んできた満天の星々を前に、ユウキが感嘆の息を呑んだ気配が電子の海を越えて伝わってくる。
クラウドはその降るような光屑の海を見つめたまま、ぽつりぽつりと遠い記憶の底に眠る少年時代の独白を紡ぎ始めた。
「·······昔から、よく眠れない夜があったんだ。三時間くらい眠れば充分なはずなのに、目を閉じるとまた悪夢を見るんじゃないかと思って·······何で夜ってこんなに長いんだろって、ずっと一人で考えていた」
低く、掠れたその声音には、強靭なソルジャーの身体を手に入れる遥か前、ただの無力な少年だった頃の孤独な温度が微かに滲んでいた。
「そんな夜はいつも一人でこの給水塔に登って、ずっと星空を見上げていた。昼間も、ティファとよく遊んでいた他の奴らを見下ろしながら、『俺はアイツらとは違う、いつかここを出て有名なソルジャーに、英雄になるんだ』って、そればかり考えて見栄を張っていた·······そうでもしないと、自分の弱さに押し潰されそうだったんだ」
それを語るのは彼にとってかなり勇気がいることだった。
不器用な照れ隠しではなく、周囲に馴染めず、独りきりで夜の長さに耐えていたガキのちっぽけなプライド。クラウドの口から語られた本物の過去の重みに、肩の上のプローブは悪戯っぽさを引っ込め、静かに耳を澄ませていた。
「別にティファのことも避けていたわけじゃない。ただ、眩しすぎたんだ·······ソルジャーになるとあの夜に伝えた時も、本当は自分のことで手一杯で、アイツの寂しさに気付く余裕なんてなかった。星は一緒に見られたけど·······俺はアイツの気持ちから、ずっと逃げていただけなんだろうな」
仰向けに寝そべったまま、自らの不器用な性格を自嘲するように呟くクラウド。
星屑の海が天上で静かに瞬き続ける中、彼の肩の上にあるデバイスのスピーカーからは、先程までの悪戯っぽい気配が完全に消え去っていた。
ただ。
山を吹き抜ける風の音に混ざって、少女の小さく、どこか深く染み入るような吐息が漏れ聞こえてくる。
『·······そっか。クラウドも夜が長いって、ずっと一人で思ってたんだね』
その静かな声には、からかいの意図など微塵もなく、ただただ深い理解と慈しみの温度だけが満ちていた。
病院のベッドの上で無機質な計器の音だけを聴きながら、終わりの見えない暗闇と一人で戦い続けてきたユウキにとって、その『眠れない夜の長さ』という言葉は、何よりも生々しく胸に刺さるものだった。
『ボクもね、あの無菌室の中でずっと同じことを考えてたよ。体中が痛くて、目を閉じると明日が来ないんじゃないかって怖くて、どうして夜ってこんなに終わらないんだろうって、何度も涙が出そうになった·······けどね、クラウド』
プローブが方向を変えるための音を響かせ、仰向けになった彼の端正な横顔へと焦点を合わせる。
『クラウドはその長い夜から抜けるために強くなろうとしたんだ。弱い自分からなんかじゃないよ。そうやって見栄を張ってでも、一人でこの高い場所に登って前を向こうとしていたクラウドは、やっぱりすごく格好いいじゃん。ティファがそんなクラウドの背中をずっと追いかけたくなる気持ち、ボクにはすっごくよく分かるよ·······』
デジタルノイズの欠片もない瑞々しい少女の肯定は、凍りついた故郷の思い出の場所で佇む元ソルジャーの心を優しく包み込んでいくようであった。
ユウキは一拍の間を置くと、スピーカーの振動板を再び快活に震わせ、彼を元気づけるように声を弾ませた。
『それにさ!! 星は一緒に見られたんでしょ? だったらその時のクラウドの想いは、ちゃんとティファに届いてるよ。ボクも今日、こうしてクラウドと同じ星空を見られて、長い夜の寂しさが全部吹き飛んじゃったもん!!』
通信の壁を越えて響くユウキの迷いのない言葉は、冷え込み始めた山間の強風をも一瞬にして暖かなものへと変えてしまうような、圧倒的な生命力に満ち溢れていた。
その瞬間であった。
仰向けに寝そべり、降るような星屑の海を見つめていたクラウドの鋭い魔晄の瞳の奥で、天上の光の粒子が奇妙な揺らぎを伴って静かに収束し始める。
彼の脳波がプローブの電子信号と深く同調し、あるいは魔晄の光が齎す独特の知覚の悪戯か。
天を埋め尽くす無数の星々の輝きがまるで一本の光の糸となって虚空へと編み上げられ、
それは、白一色の無菌室にいる拘束された身体ではない。
あのアルヴヘイムの青空の下で、アバターを通じて誰よりも元気いっぱいに満面の笑顔を咲かせ、自分と対等に刃を交え合った、あの気高き《絶剣》の姿そのものであった。
満天の星空の下で、まるで実体を持ったかのようにこちらを見下ろしてくるユウキの幻覚は、その眩しい瞳をクラウドへと向け、悪戯っぽく、しかし心からの親愛を込めて確かに微笑みかけていた。
「·······」
クラウドは呼吸を忘れたようにその美しい残像を見つめたまま、胸の奥底へと染み渡っていくその温かさの余韻を静かに噛み締めていた。
少年時代からずっと彼を縛り続けていた、あの孤独で長い夜の記憶。
それが、同じように暗闇と戦い抜いてきた『もう一人の友の姿』と重なり合い、今、静かに救い上げられていく。
「·······そうか」
彼は頭の後ろで組んでいた両手をゆっくりと解くと、視界の只中で星屑へと還っていく少女の幻影を惜しむように見つめ、少しだけ口元を緩めて不器用な声のまま、静かに応じる。
「ユウキがそこまで喜んでもらえるなら······ここに来た甲斐があったな」
『えへへ············!!』
短く、掠れたその呟きには先程までの自嘲の色はどこにもなく、一人の友人へと向けられた確かな感謝の温度が微かに滲んでいた。
クラウドは床板の上からゆっくりと身体を起こし、衣服に付着した僅かな砂を手で払うと、眼前に広がる光景を見下ろした。
「そろそろ降りるぞ。夜になると、ここはさらに冷え込む」
『うん!! すっごく楽しかったよ。ありがとね、クラウド』
ユウキの感謝の言葉を聞いたクラウドは微笑み、垂直に伸びる細いハシゴへと手をかけ、革手袋で凍てつく鉄格子の冷感をしっかりと受け止めながら、一歩ずつ慎重に落ちないように降りていく。
ハシゴを降りきり、広場の中心部へと再び足を着けたクラウドを迎えたのは、昼間よりも一層暗さを見せる、山間特有の静かな夜の静寂であった。
周囲の木組みの家の窓からは漏れ出す明かりの影すらも極めて薄く、ただ冷たい風が建物の隙間を通り抜けていくだけであったが、先程までの長い夜の孤独は今の二人の間にはもうどこにもなかった。
『········』
クラウドが宿に入る前に、ユウキはカメラのレンズを動かして上を向いた。
かつて、現実の病床からはずっと見ることが叶わなかった、本物の空だ。
異世界であっても、その煌めく星達の輝きを目にしたユウキは思う。
世界は─────美しい。
生きていれば、このような美しい光景を目にすることができる。
生きているだけで、この世に生まれただけで、幸福だと思えた。
今この瞬間も、死んでいく人々もいる。
だからこそ、自分達は生きなければならない。
スピーカーの奥で静かに繰り返される少女の呼吸は、かつて白一色の無菌室で抱えていた凍てつくような焦燥を、今や完全に過去のものへと追いやっていた。
メディキュボイドとプローブを介して脳内へとダイレクトに流れ込んでくる圧倒的な光の瞬きは、ただのゲームプログラムが描いたデータではなく、生身の人間達が必死に未来へと歩みを進めている、もう一つの現実の息遣いそのものであった。
どれほど身体が痛みに軋もうとも、どれほど過酷な運命が行く手を阻もうとも。
繋がった魂の温もりと、胸を打つ本物のこの鼓動は、決して彼女を孤独な暗闇へと戻しはしない。
クラウドの肩の上で、プローブの極小レンズは降るような光屑の海をいつまでも愛おしそうに凝視し。
その電子の瞳の奥に、消えない生への灯火をこれまでになく強く燃え上がらせていた。