第1章
四月。
陽気な春が新たな始まりを告げ、エッジの乾いた大地にも微かな暖気が混ざり始める頃、クラウド・ストライフは漆黒の愛機フェンリルに跨り、荒野を切り裂いていた。
「············っ!!」
連日の多忙によって突如として押し寄せる睡魔に、クラウドは思わず欠伸を漏らしそうになる。移動の最中に意識を失うわけにはいかないと、自らの思考を強引に引き戻すように首を激しく横に振った。
彼に課せられた現在の生業たる『運び屋』の任務は、この日も夜明け前から始まっていた。
前二輪、後一輪という独特の接地形状を持つ極太のタイヤがいつもの如く未舗装の険しい道を力強く噛み締め、排気口から放たれる聞き慣れた重低音の轟音を空間へと激しく反響させる。
かつて星の命を巡る過酷な闘争を潜り抜けてきたクラウドは、その腕を『運び屋』として生かし、文明の崩壊と再生の狭間にあるこの世界において今や人々の命を繋ぐための希望として、そこに存在していた。
激しく隆起した岩肌や、過去の爪痕を残す深い亀裂。
それらをフェンリルのサスペンションが正確に吸収し、生々しい硬質な振動がフレームを通じてクラウドの足腰、そして骨格へと直に伝わってくる。
配達業務を支えるためにリアキャリアスペースには工業用パーツの詰まった箱や、各地の集落が待ち望む食糧が厳重に固定され、車体との見事な一体感を維持していた。
崩壊したミッドガルの残骸から回収された精密機械の部品、あるいは不毛な大地では決して実ることのない貴重な保存食。それらは全てかつての魔晄都市の暗い影から離れ、自らの足で歩み出そうとする新しい世界の住人達にとって、一日の生存を担保するための必要不可欠な物資に他ならなかった。
鉄製のコンテナボックスが、走行の衝撃によって僅かに擦れ合う金属音を立てる。
クラウドはその音の僅かな変化だけで、荷物の固定に緩みがないかを正確に把握していた。長年の戦いの中で身体に染みついた『物資の管理』への執念は、日常の配達業務においても全く衰えることはない。
クラウドは革手袋でハンドルを握り締め、スロットルを僅かに開けることで、エンジンが齎す爆発的な推進力を強靭な体幹で受け止める。泥や砂利が激しく跳ね上がる悪路であっても、彼のゴーグルの奥にある魔晄の光を宿した瞳は、地平線の先にある座標を静かに見据えていた。
人工的な光に侵されることのない自然の荒野。
その道をフェンリルのタイヤが踏み締め、巻き上げられた無数の小石が車体を叩く乾いた音が連続して響く。
だが、その程度の衝撃や悪条件で彼の優れた運転技術が乱れることはなかった。
彼が視線で見据えているのは、単なる目の前の障害物ではない。さらにその先、過酷な環境の中で自らの生活を繋ぎ止めようと必死に生きる人々の待つ場所だった。最初の目的地であるとある仮設集落へ到着すると、フェンリルをアイドリングの地鳴りへと鎮め、サイドスタンドを力強く蹴り出す。
車体から立ち上る熱気が冷たい大気へと逃げていく中、クラウドは荷台の固定ロープを素早く解き、依頼主の元へと重量のある箱を運び込んだ。
集落の入り口には朝の寒気に身を震わせながら物流の到着を待っていた年老いた管理人が、その大きな影を見上げて安堵の息を漏らしていた。
辺境に位置するこの集落は、ストライフ・デリバリーサービスが運んでくる物資がなければ一週間の生活すら立ち行かなくなる。
決して大袈裟な話ではない。
その生命線の重みを、クラウドは誰よりも理解していた
「ストライフ・デリバリーサービスだ。荷物を届けにきた、サインを頼む」
「はいよ、いつもご苦労さん」
荷物の手渡しから受領書へのサインを受け取る一連の動作には長年の実戦で培われたおかげか、一切の無駄がない。
クラウドはペンを受け取り、確実な筆跡で処理を済ませると、すぐに荷物を固定していたスペースのロープを引き締めた。相手が労いの言葉を重ねるよりも早く、彼の意識はすでに次の目的地、あるいはその先に待っているスケジュールへと切り替わっていた。
『何でも屋』から始まった彼の歩みは形を変えて、この星の物流の根幹を支える存在となっていた。
配達を終えたら休む間もなく次の配送先へ向けて愛機のフェンリルを急加速させ、一気に駆け抜けていく。
<><><><><>
各地の物流を繋ぎ、人々の暮らしの基盤を支えるというティファの発案したスケジュール管理は徹底的に調整し尽くされており、彼の手元にある配送依頼の書状は、午後の陽光が天から傾き始める頃には全ての処理が完了していた。
西の空が徐々に橙色に染まり始め、荒野の影が長く伸びていく。
クラウドは最後の配達先となった所を後にし、帰路へと着くためのルートを選択した。
任務の完了を告げる書状を腰に巻いたポーチへと収めると、クラウドは再びフェンリルのスロットルを僅かに引き絞り、エッジの境界線に位置する帰るべき場所へと車体を向けた。
フェンリルが立てるロードノイズが荒野の砂利から見慣れた建物の敷地内へと変わり、小刻みな振動が収まった車体から、蓄積された熱気がふわりと冷たい大気へと逃げていく。
クラウドはバイクを定位置へと滑り込ませて完全に停止させると、サイドスタンドを力強く蹴り出してイグニッションキーを回し、長旅を共にしたエンジンを沈黙させた。
セブンスヘブンを取り巻くその周辺には、いつもなら子供達の騒ぎ声や仕入れの業者が行き交う気配があるはずだったが、今日の午後は奇妙なほどに静まり返っていた。
店先の看板が夕暮れの風に揺られて、キィイと少し耳が痛くなるような音を立てているだけだ。
「ふぅ·········」
一仕事を終えたクラウドはシートから腰を上げて、アスファルトの地面の感触をブーツの底で踏み締める。
革手袋を指先から一本ずつ引き抜くようにして外すと、長時間の運転で熱の籠もった手のひらに、四月の冷涼な風が心地よく吹き抜けていった。
過酷な運搬作業によって強張った筋肉が空気の冷たさに触れてゆっくりと弛緩していくのを感じながら、彼は自身の腕具合を確認するように肩を回した。
現実世界の肉体にかかる確かな疲労と、それでも確かにここで生きているという実感。
それが、彼の精神をこの現実へとしっかりと繋ぎ止めていた。
家の扉の前まで歩いて行き、金属製のドアノブに手をかける。
カチャリという静かな噛み合わせの音が響き、ゆっくりと押し開けられた扉の先には、外の喧騒から隔絶された静謐な空間が広がっていた。一歩足を踏み入れると、店内はティファの手によって美しく整えられており、エッジの強い日差しを遮る薄いカーテンの隙間から穏やかな落日の斜光が床板へと細い線を引いている。
カウンターの奥に置かれたグラスの磨き抜かれた表面が、その斜光を反射して小さく煌めいていた。
床の埃一つない様子からも、彼女がどれほどこの店と自分達の居場所を大切に維持しているかが伝わってくる。
「ん?」
と、ここでいつもと違うことに気付く。
この時間帯なら、ティファがすでに開店準備をしていてもおかしくないのに、食器を並べる音どころか声一つしない。
いつもなら厨房の奥から彼女の快活な挨拶や、仕込みの香ばしい匂いが漂ってくるはずだった。
店内の空気は清潔に保たれているものの、人の気配だけが完全に抜け落ちてしまっている。普段の彼女であればクラウドが戻ってくる時間を見計らって、冷たい飲み物や軽い食事を用意して待っていることが多かった。その当たり前の光景がないという事実が、店内の静寂をより一層深いものへと変えていく。
「!!」
クラウドは一瞬首を傾げるが、カウンターの上に何やら『手紙』のようなものが置いてあるのが見えた。
折り畳まれた白い紙切れへと歩いて行き、それを開く。
紙には彼女の几帳面な筆跡で、“先に仮想空間へと赴いている旨”と“自身にも迅速な合流”を促す言葉が簡潔に書き記されていた。
手紙の余白には急いで書き置きをしたためたのか、僅かにインクの掠れが残っている。
それを見たクラウドは彼女がただ事ではない用件、あるいはキリト達から何らかの重要な連絡を受けてあちらの世界へ向かったのではないかと推測した。
「·········」
理由はよく分からないが、どうやらティファは自室であちらの世界に行っているらしい。
クラウドは小さく息を吐き出すと、手紙を元の位置へと戻し、階段を登って自分の部屋へと向かう。
木製の階段がギィと軋む音が、無人の店内に不自然なほど大きく響き渡った。
上着を壁のフックへと掛け、疲労の残る四肢を伸ばしながら、彼は枕元に置かれていたフルダイブ端末、アミュスフィアへと手を伸ばす。
まだこの世界には数台しかないゲーム機器を両手で持ち上げると、精密機械特有の微かな重量感が手のひらへと伝ってくる。
かつて、あの世界で人々の命を脅かし続けた『ナーヴギア』という殺人兵器の脅威を経て、安全性を最優先に開発されたこの後継機は、今や異界の者達とクラウド達を繋ぐ唯一の架け橋となっていた。
金属製のフレームの冷たい感触が指先を刺激する。このデバイスが個人の脳波をスキャンし、意識を完全に別の空間へと転送する仕組みは、何度経験しても科学の奇跡というよりはライフストリームの現象に近い異質さを感じさせるものだった。
クラウドは寝椅子へと自身の頭部を深く沈め、仰向けの姿勢のまま、その頭部を覆うようにしてデバイスを装着した。
小さな電源スイッチを指先で押し込むと、内部に組み込まれた微小な電子回路が瞬時に駆動を始め、チチチッという短い電子音を耳の奥へと響かせた。
アミュスフィアのセンサーが装着者の脳波パターンを正確に検知し、現実の神経伝達を一時的に遮断するための安全なスキャンプロセスが始動する。
頭部を包み込むリング状のパーツから、微弱な電磁波が脳の感覚野へと干渉を始める。クラウドの身体からゆっくりと重力が失われていくような、奇妙な感覚が四肢の末端から広がっていった。
そして最後に。
「リンク・スタート」
異世界へ渡る呪文。
クラウドの視界を覆っていた自宅の天井の色彩が、デバイスの内側に埋め込まれた発光ダイオードの淡い光へと塗り替えられていく。
五感が現実の肉体から静かに引き剥がされ、意識が電子の海へと沈んでいく奇妙な浮遊感が彼の精神を満たした。
手足の感覚が次第に薄れていき、エッジの風の冷たさも、フェンリルを運転していた時の振動の余韻も、全てが虚空へと溶けていく。暗闇の中にシステムが要求するデータの読み込みを示す無数の文字列が明滅し、彼の精神を仮想世界の構造体へと再構築していく。
直後。
数多の色彩が光の奔流となって前方から押し寄せ、瞬きを禁じるほどの速度で幾重ものデータを形成していく。
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ログイン完了。
視界を司る脳の奥でフラッシュした無機質な文字列が次元の彼方へと位置を変えて瞬いた瞬間、グラフィックデータが急速に収束し、前回ログアウトした宿屋へと一つのアバターが降り立った。
ここにどういう経緯で寝泊まりしたのか、その時の記憶はあまり覚えていないが、多分ゲーム攻略のために手伝わされて時間がなかったから、適当に近場の宿屋に泊まってログアウトしたというところだろうか。
キリト達にお願いされるままにフィールドを駆け回り、戻ってきた時には現実世界の配達スケジュールの限界が近づいていた。そんな直近の慌ただしい記憶の断片が、データで構築されるこの室内の景色と共に蘇ってくる。
ベッドのシーツの質感、窓から差し込む仮想の光。
それらは現実と何ら変わりのない精度で再現されているものの、やはりどこか記号化された無機質さが感じ取れる。
「·········」
クラウドのアバターはベッドから起き上がると、久々にログインしたせいで僅かな違和感を感じるが、それも数秒で消え去った。
背中に固定された大剣の圧倒的な重量感、あるいは肌に触れる衣服のテクスチャの感触。
それらがゲームシステムによって脳へとダイレクトに書き込まれ、現実世界と何ら変わりのない『もう一つの現実』が完全に機能し始める。
彼は自身の両手を軽く握り締め、アバターの同期率が正常であることを確認すると、部屋の隅にある鏡に一瞬だけ視線を向けた。そこに映る自分の姿は昔とは全く違う。ソルジャーだと思い込んでいた偽りの姿ではなく、この世界における彼そのものだった。
正常に動くことを確認すると、そのままクラウドは泊まっていた部屋から出て、階段を降りて外へと出る。
仮想空間への久々のダイブ、その違和感をどうにか取り除いて、
「ん?」
そこで。
宿屋の扉を開けた直後、クラウドの細められた瞳は、新たな違和感を捉えていた。
いつもならば各種族の精鋭や腕に自信のある者達のアバターが行き交い、どう攻略するかとか次どこに向かうかなどといった言葉で溢れ返り、足の踏み場もないほどに賑わっていた場所には、数えるほどの影しか見当たらない。
いつもなら色とりどりの装備を身に纏った冒険者達が武器の性能について議論を交わし、あるいは次のイベントの作戦を立てる声で、耳が痛くなるほどの喧騒が空間を支配していたはずだった。それが、今はただ石畳を踏む自分の足音だけが孤立して響くほどに静まり返っている。
街を歩いていくと、それがさらに浮き彫りになる。
石造りの街並みを行き交う旅人の足取りはどこか散漫で、商業区の露店からも活気が失われている。
店員として配置されているNPCのプログラムされた台詞だけが、賑わいを失った空間で変わらぬ動作を繰り返しているのが却ってその異常性を際立たせていた。いつもなら商品を大声で宣伝しているはずの露店の店主達も、買い手のいない通りを見つめて沈黙を守っている。
システムが描く世界の構築処理や建物には変化はないはずなのに、空間の密度そのものが薄くされてしまったかのような、冷たい殺風景さが辺り一帯を深く支配していた。
空を見上げれば、新生アインクラッドの巨大な鋼鉄が天を覆っている。グラフィックの美しさは完璧であり、太陽の光を模したエフェクトも正常に動作している。
バグによる遅延ではない。
プログラム上の欠陥によって処理が滞っているわけではないのだ。
世界は完璧に稼働しているにも拘らず、そこに住まうべき人間だけが、まるで最初から存在していなかったかのように消え去っている。
背負った大剣の確かな重みを足裏での大地の踏み込みへと変え、首に巻いた赤いマントの裾を小さくはためかせながら、クラウドは誰もいない路地を探索するように静かに歩く。
ゲームのプログラムそのものに不具合が生じているわけではない。
しかし。
かつて星を救うために仲間達と共に渡り歩いてきた『ソルジャー』としての野生的な勘が、この仮想世界に忍び寄る未知の停滞を鋭く察知していた。
それは、背後から音もなく忍び寄る敵の気配を察知する瞬間の感覚に酷く似ていた。
この世界の裏側で、自分達の感知し得ない何かが確実に動き始めている。
そんな不吉な予感が、クラウドの胸の奥で黒い染みのように広がっていく。
「あ!! クラウド!!」
「!!」
重苦しい沈黙に包まれかけた通路を切り裂くようにして、遥か後方から聞き馴染んだ“少女”の叫びが響き渡った。
クラウドが即座に体を反転させ、その声の主へと鋭い視線を向ける。
人がいなくなった大通りの向こう側、見間違えるはずのない鮮やかな紫色の髪を激しく揺らしながら、こちらへと一直線に急接近してくる少女の影がその瞳へと映り込んだ。
腰にある剣が彼女の激しい跳躍に合わせてシステム上の慣性を正確に描きながら上下に揺れている。その一連の動作の滑らかさは、彼女がこの世界においてどれほど卓越した戦闘センスを持っているかを、無言のうちに証明していた。
「クラウド!! やっぱり来てくれたんだ!!」
「ユウキ」
《絶剣》の二つ名を冠する少女、ユウキが仮想の身体を元気よく動かしながら一直線にこちらへと走ってくる。
一ヶ月前のトーナメントにおける激闘を経て、一人の対等な強者として魂を交わし合った少女の瞳には、病で明日を恐れていた翳りなど、微塵も残されてはいなかった。
アバターに設定されているシステムアシストなんかに頼ることなく自身の意志で仮想の肉体を動かし、力強くこの世界の大地を駆けるその安定した足取りは、現実世界における彼女の過酷な肉体再生訓練が担当医師をも驚愕させるほどの驚異的な歩みを遂げている何よりの証明であった。
あのメディキュボイドという無機質な檻の中で孤独に過ごしていた少女が、今や現実の肉体に力を取り戻しつつある。
その生命力が、ユウキのアバターの細い足首が石畳を蹴る確かな衝撃音となってクラウドの耳へと伝わってきた。
現実世界の回復が、ダイブ時のアバターの挙動のキレをさらに鋭いものへと進化させているのだ。
だが。
クラウドとの再会を無邪気に喜ぶ彼女の満面の笑顔が放つ眩しさとは裏腹に、彼女の背後に広がるガランとした世界の色彩は、やはりどこか歪な静寂を保ったままであった。少女の笑顔が眩しければ眩しいほど、それを取り巻く無人の街並みの寒々しさが、より一層不気味に強調されていく。
勢いよくクラウドの目の前まで辿り着いたユウキは小さく弾む息を整えながら、腰に両手を当てて誇らしげに胸を張ってみせた。
「ティファからの手紙読んだんでしょ? クラウドもこっちにダイブしてくるってティファから聞いてさ。それでボクずっと待ってたんだけど、全然来ないから退屈しちゃって、ちょっとそこらへんを散歩してたんだ。そしたら遠くにクラウドのツンツンとした頭が見えたからさ、すぐに分かっちゃった!!」
「··············そうか」
ユウキはそう自信満々に言うも、クラウド的には複雑な気分だった。
ツンツンとした頭で認識してるのか·······と。
別に髪型についてはコンプレックスも抱えていないし気にしてはいないが、でもいろんな人からツンツン頭と言われるとちょっと胸の辺りがチクっとしてしまうのは気のせいだろうか。
ミッドガルで神羅と戦っていた頃からこの独特の金髪は彼の代名詞のようなものではあったが、異世界の少女からここまで真っ直ぐに指摘されると、彼の自尊心が僅かに揺らぐのを感じざるを得なかった。
彼は無意識のうちに、自身の前髪をグローブのついた指先で軽く整えるような仕草を見せた。
·······そんなにこれが目立つのだろうか。
そんなことを考えているクラウドのことなど放っておいて、ユウキは彼の手を取ると、振り返って強引に連れて行こうとする。
「じゃあ行くよクラウド!! ティファも待ってるからさ!!」
「お、おい!!」
相変わらずユウキは行動も早く、そして元気だった。
仮想空間の五感の再現を通じて、少女の快活な意思が確かな圧力となって彼の手のひらへと伝わり、そのまま大通りの奥へと力強く引き連れられていく。
小柄な体からは想像もつかないほどの強靭な活力。
それはシステムによる数値上の筋力ではなく、彼女の魂そのものが放つ、生きることへの純粋なエネルギーの現れだった。
クラウドは苦笑を浮かべながらも、その細い手のひらから伝わってくる温もりを拒むことなく、彼女の歩調に合わせて自分の足を前に進めた。
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転移門へと飛び込み、浮遊城の各階層を接続する幾重もの光跡を渡って辿り着いた先は、新生アインクラッドの第二二層であった。
多くの冒険者達がその素朴な自然風景に心を和らげ、あの“黒の剣士”や“閃光の少女”が穏やかな日常を紡いだ、あの森の領域。
頭上を覆う針葉樹の隙間から木漏れ日が地面の苔を照らし出し、清涼な水の匂いが風に乗って鼻腔をくすぐる。その昔、この場所で多くのプレイヤーが武器を置き、ただ平穏な時間を過ごすために集まっていたという歴史が穏やかな環境音の中に息づいている。
しかし、木々の葉を優しく揺らす仮想世界特有の環境エフェクトの隙間から伝わってくるのは、先程までいた場所以上に行き場のない冷え切った虚無感であった。
いつもならば、この階層の入り口周辺や木漏れ日の差し込む小道には、豊かな大自然を好むプレイヤーや釣りを嗜む旅人達の姿が至る所に見られ、各種族の穏やかな言葉や笑い声が幾重にも重なって響き渡っているはずであった。それにも拘わらず、湖の周囲を見渡しても、木々の隙間を探索するように足を踏み入れても、他のプレイヤー、滞在者らしい影は一切見られない。
ただベンチに座って何気ない会話を楽しむ恋人達や、新米の冒険者に釣りのコツを教える大人達の姿で賑わっていたはずのこの周辺も、今はただシステムプログラムが自動生成する小鳥の囀りだけが虚しく響く空間へと成り下がっていた。
誰の足跡もない柔らかな土の上が、現在のこの階層の、ひいては世界そのものの静かな変化を無言で訴えかけている。
ゲームグラフィックが表現する緑の鮮やかさや、水面を煌めかせる陽光の処理には何一つの不具合も混ざっていなかった。
バグによる描写の破綻や遅延が発生しているのであれば、まだ納得の仕様として割り切ることができた。システム上のエラーコードが視界の端に明滅しているならば、それは技術的な問題として処理できたはずだ。
しかし、眼前に広がるのはプログラム上の安定性を保ったまま、世界の住人そのものが根こそぎ消失してしまったかのような、ただただ奇妙な空白であった。
まるで、美しい『動く絵』を見せられているかのような、そんな不気味さを感じ取った。
見た目はどこまでも精緻で、本物以上に美しい自然が描写されているにも拘らず、そこにいるべき人間の営みだけが完全に剥ぎ取られてしまっている。
「·····················」
クラウドは己の手を掴んで先を急ぐユウキの軽い足取りに視線を落としつつ、胸の奥で膨らみ続ける違和感を、とうとう抑えきれなくなっていた。
────何かが起きている。
ゲームのシステムや運営側の都合という範疇を超えた、この世界の土台そのものを揺るがすような巨大な変化が、すでに自身の知らぬ場所で起きているのではないか。そんな皮膚にまとわりつくような不気味な予感が、クラウドの現実の脳をじわじわと侵食していった。
彼がかつて神羅カンパニーの暗部や星のエネルギーを貪る実験の数々に直面した時に感じた、あの根源的な嫌悪感。
それと酷く似た何かが、この一見平和に見える湖畔の森の裏側で、確実にその正体を形成しつつあるように思えてならなかった。
立ち並ぶ木々の隙間から、異世界の仲間達が拠点としている見慣れた小屋の屋根が見え始めたその直前。
彼はその場に足を止め、自身の手を引いていた少女へと声をかけた。
「··········ユウキ」
「ん? なあにクラウド?」
低く掠れた声に応じて振り返った少女の瞳を見つめながら、クラウドは周囲を包む凍てついた殺風景を噛み締めるように、静かに問いかけた。
「····················人が少なすぎる気がする」
「!!」
「····················何かあったのか?」
その鋭い質問を正面から受け止めたユウキは一瞬だけ驚きに肩を揺らし、掴んでいた彼の手首から微かに行き場のない力が抜けていくのを、仮想の皮膚に伝えてきた。
ユウキは小さな唇を微かに震わせ、周囲を包み込む広大な森の静寂を見回すようにしてアバターの大きな瞳を僅かに地面に落とした。
その表情には、クラウドの問いかけを拒絶するようなものはなく、むしろ自分自身もずっと抱え続けてきた不安を、ようやく誰かと共有できたことへの安堵のような色彩が混ざっていた。
「あぁ··········やっぱりクラウドも気付いちゃうよね。ボクもね、ここ最近この世界にダイブしてくるたびになんだかずっと寒気が止まらなくて。バグじゃないのにみんな急にどこかへ消えちゃったみたいでさ··········ちょっと怖かったよ」
彼女の声の所々には、共にこの世界の頂点としての地位を獲得した気概とは裏腹に。
「みんなね··········今は現実世界の『外』のほうに夢中なんだよ」
「? 外?」
「キリトやアスナもさ··········現実で今月から新しく始まった、
ユウキは再び顔を上げると、クラウドの大きな手を今度は少しだけ強く握り直し、不安を吹き飛ばすような健気な笑みを無理矢理に咲かせてみせた。
その細い指先から伝わってくる微かな震えは。
現実世界で命を繋ぎ止めた彼女だからこそ、今度は自分が愛したこの仮想世界が静かに息を引き取ろうとしている兆候に、誰よりも敏感になっていたのかもしれない。
キリト達が現実世界の『新しい何か』に夢中になっている間、彼女は一人、この仮想空間の空を見上げながら、かつての賑やかだった日々の幻影を追いかけていたのだ。
その孤独の深さが、クラウドの手を握る力加減から痛いほどに伝わってきた。
「詳しい事情はみんなから聞いた方が早いよ。さあ、みんな待ってるんだから行こう!!」
再び少女の足取りに連れられるようにして、森の開けた場所に佇む見慣れた小屋まで歩いていく。
草を踏み締める二人の足音だけが、遮るもののない静寂の中に規則正しく刻まれていく。
そんな二人の背後。
何もないはずの無人の地面へと。
一枚の『黒い羽根』が音もなく不吉に落ちていった。