もはや。
こちらの世界とあちらの世界を隔てる次元の壁は、あの哀れな研究者が禁忌のシーケンスを起動させた瞬間からバグによる融解を始めさせていた。
男は黒い革衣の袖から、実体のない仮想の手をゆっくりと前方へと差し出した。
誰の肉眼にも触れることのない、電子の海の底の出来事。
差し出されたその長い指先が空間に浮かぶ高精細な情報コードの連鎖に触れた瞬間、男の精神の奥深くから、この世の全てを滅ぼすかのような『黒い澱み』がじわりと滲み出し始める。
それは星の記憶を蝕み続けてきた邪悪な思念の残滓であり、データの記号を黒く塗り潰していくウイルスコードのようでもあった。
油のような光沢を帯びたその汚れは、正常に稼働を繰り返していたオーディナル・スケールの基幹プログラムへと音もなく滑らかに流れ込んでいく。
ザザッ、と。
電流の血脈に毒を流し込まれたかのように、整然と並んでいたデータが激しい歪みを生じ、侵食された区画の色彩が次々と未知の構造体へと変貌を遂げていった。
既存のシステムが規定する『カガチ・ザ・サムライロード』と呼ばれる鎧武者の立体プログラムが黒い澱みに呑み込まれてパチパチと切断され、その空虚な座標へと男の中に潜む『別世界の記憶』が波のように呑み込んでいく。
それは。
彼のかつての故郷において、巨大な大企業が自らの利益を守るために造り出していた────『赤き戦闘機械』の設計データであった。
男が指先を僅かに翻すと、黒い澱みはさらなる速度を伴って通信網の深層へと伝播し、東京の街中へと配置されている中継ドローンの制御信号までをも次々にハイジャックしていく。
防壁を書き換える赤いエラーコードの警告は羽虫の羽音ほどの手応えすら残さない。
それはまさしく正常に稼働しており、何も問題はなかった。
『さぁ、新たな痛みを刻もう·········』
男の縦長の瞳の奥に、感情の温もりなど欠片もない、凍てついた嘲笑の光が宿る。
自分の目的を果たすためには、まずはこの脆弱な電脳の玩具に群がる小さき人間達の戦場を思いのままに上書きしてしまえばいい。
男の手が静かに引かれると、歪められたデータは現実世界における討伐戦の開始時刻と寸分の狂いもなく完全に同調しながら、秋葉原の路上へと一気に解き放たれていった。
空間の土台そのものが、奈落の底から崩壊を開始する。
<><><><><>
電子の時計の秒針が、規則正しく分針と垂直の重なりを見せた。
夜空を切り裂くようにして聳え立つ秋葉原の巨大な高層建築群。
その壁面に埋め込まれたデジタルビジョンの発光ダイオードが滑らかに反転し、二一時丁度の文字を街の暗がりに浮かび上がらせる。同時に大気を震わせるようにして放たれた重低音の時報が、歩行者天国に渦巻いていた大衆の喧騒を強引に圧壊していく。
その一鳴りこそが、現実の秩序を一時的に開放する開戦の合図に他ならなかった。
「「「「「「「「「········!!」」」」」」」」」」
広場を埋め尽くしていたプレイヤー達が示し合わせたかのように自らの側頭部に固定された端末へと指先を滑らせる。
直後。
上空を整然と回遊していた中継ドローンの底面から不可視の電波網が放射され、地上にある全ての人々の知覚へと干渉を始めた。
パリッ! パリィン!! と。
空間の随所に潜んでいた情報コードが視界の内で実体化し、ざらついたノイズを帯びた青い燐光を放ちながら広場全体の色彩、その構造の模様を塗り替えていく。一昔前であれば液晶の画面の中に閉じ込められていた虚構のデータが、今は剥き出しの粒子となって現実の舗装道路を侵食していくのだ。
人工地盤のコンクリートやオフィスビルを構成するガラス張りの直線的なシルエットが、走る光の格子によって次々とパズルのように分解され、別の構造体へと再構築されていく。
ただの都市の広場であり、若者達がポイント欲しさに集まっていた路上は、瞬く間に天を衝く尖塔を連ねた古めかしい城郭都市の回廊へと姿を変えた。
見上げるほどの高さを誇る石造りの城壁は、数万もの人々の尊い命を電脳の迷宮へと呑み込んだあの浮遊城の構造を再現しており、その不気味なほどの重量感を以て群衆を圧倒していく。
「これは········!!」
衣服が光の奔流によって上書きされ、白と黒を基調とした特殊戦闘服へと換装を終えた和人は、手にした剣の重みを手のひらに感じながら、空を覆う異世界の巨影を見上げて言葉を失っていた。
仮想世界における動きを基準にして現実の肉体を語るわけにはいかないが、このオーグマーが齎す臨場感は、彼の五感をかつての凄絶な戦場へと強制的に引き戻すだけの破壊力を秘めている。
吹き抜ける夜風の一吹きにさえ、あの鉄と石の迷宮が放つ冷酷な死の香りが混ざり合っているかのような錯覚に、彼の肺は微かに強張った。
「スゲェなやっぱ!! これがオーディナル・スケール、最新のAR機器であるオーグマーの真骨頂か!!」
傍らに立つクラインが顎に蓄えた不精髭を震わせながら、バンダナの下にある瞳を驚愕に丸めて声を絞り出した。
彼の背後に陣取るギルド『風林火山』の面々もまた、日常の風景が瞬時にファンタジーの古の戦場へと変貌を遂げた光景を前にごくりと唾を呑み込みながらも、あの世界を生き抜いた歴戦の剣士としての構えを整えていく。
「キリト君!!」
「あぁ·······来る!!」
すでに世界は一変している。
彼らの視線の先。
広場の中心部では、巨大な噴水が地鳴りを立てて吹き上がるかのように幾重もの光跡が激しく渦巻いていた。
地面の石畳を上書きした魔法陣の如き紋様から、まばゆい光の柱が天へと真っ直ぐに突き抜け、現実の夜空を電子の波で塗り潰していく。
あの悲劇の記憶を内包した世界の断片が、この現実の大都会の中に顕現しようとしていた。
<><><><><>
天へと突き抜けた光の円柱が激しく脈動を繰り返し、空間そのものを高熱の電子ノイズで歪ませていく。
広場の中心に刻まれた歪な紋様から溢れ出る輝きは、周囲の中世城郭を模した仮初めの石壁を白く染め上げ、夜の闇を切り裂いていく。あまりの光量の乱舞に集まったプレイヤー達は手にしたコントローラーを構えたまま、思わず額の前に腕をかざして顔を顰める。
いつもならば、この光が収まったその瞬間に彼らの目の前には専用のモンスターが現れる。
だが。
その視界を焼き尽くさんばかりの白光のカーテンの真裏で、明らかにゲームの仕様とは異なる『異変』が生じていた。
ザザッ、と。
突如として、上昇を続けていた光の奔流が内側から押し潰されるようにして激しく明滅を始める。
光の壁の向こう側に、光を強引に遮るようにして巨大な何かが形を成しつつあった。
それは、東京の夜景に溶け込むような、光を一切反射しない純然たる黒のシルエットだった。
単純にまだ処理が追いつかず、モンスターの色を再現できていないのか、まずはその形だけを再現する。
鋭利に尖った幾重もの突起を持ち、まるで無数の刃の群れを凝縮して組み上げたかのような、おぞましい巨影。本来のオーディナル・スケールのプログラムが規定するボス、あの浮遊城のフロアの一つを守っていた“太刀を携えた武者姿の怪物”が現れるはずの空間に、そのどれとも合致しない歪な巨躯が陽炎のようにゆらゆらと揺らめきながら密度を増していく。
システムが生成する演出としての炎や煙ではない。
空間そのものが何かのデータを処理した結果、その工程が突如として破綻し、データの底から湧き上がってきたかのような言葉にできぬ不吉な影の広がりであった。その輪郭が蠢くたびに、耳元のオーグマーからは耳障りな低周波の地鳴りが漏れ出し、周囲のプレイヤー達の首筋へと奇妙な悪寒を走らせる。
「あ? おい、待てよ·······」
クラインが手にした刀の柄を握る手のひらに、じっとりと冷たい汗が滲むのを覚えて呟いた。
バンダナの下の視線は、眼前の光の壁を切り裂くようにして膨れ上がる黒い影に釘付けになっている。彼の背後に陣取る『風林火山』の面々や、周囲にいた大勢の参加者達の間にも高揚感から一転して、言葉にならない困惑と警戒のざわめきが波紋のように広がっていった。
「何だか様子がおかしくねぇか? ボスが現れるのに時間がかかりすぎじゃね?」
「「·······ッ!!」」
クラインのその呟きに、細身のレイピアを抜いた明日奈も隣に立つ和人へと一瞬だけ険しい目線を向けた。
不安を和らげようとしたのか、だが彼の顔を見ても何も解決しなかった。
彼らがかつて命を賭して戦い抜いたあの浮遊城の戦場において、数え切れないほどの怪物の出現を見届けてきた彼らの野生的な勘が、目の前で産声を上げようとしている存在に対してかつてないほどの違和感を示していた。
彼らが感じ取った違和感は、正常なものだった。
それは開発者が意図して仕込んだエンターテインメントの枠組みを、根底から踏みにじるかのような異質さ。
ボスの登場の処理を見ているのに、その先にある“何か”が彼らの感覚を刺激する。
まるで────
「·······」
和人は右手にあるコントローラーをさらに強く握り締め直した。
手のひらに伝わる振動機能の震えがいつもより不規則で、まるで悲鳴を上げているかのように荒々しい。
視界の端、肉眼では追いきれないほどの処理コードが小気味よい速度で明滅を繰り返している。
そして。
光の壁が、ついに限界を迎えたかのように中央から弾け飛ぶ。
まばゆい光が夜空へと散っていくその中心から、
「··············え?」
仲間達から聞いていた話とは全く異なる。
<><><><><>
そこにいるものを見た瞬間、和人はまるで走馬灯のような感覚に陥った。
目を焼き尽くさんばかりの光と、その中央で蠢く不気味な影を見つめながら、和人の意識は急激に数日前へと逆行していった。
それは学校の放課後、仲間達と共にファミレスとかゲームセンターとか、そういう何気ない平穏な日常の一幕のはずだった。
そこで聞いた話を、和人は鮮明に思い出す。
西日に照らされたデパートの中で、シリカこと綾野珪子がどこか不安げに眉を顰め、ツインテールを揺らしながら切り出してきた奇妙な噂話の断片。
『そういえばアインクラッドっていえば········例の噂は本当なんでしょうか?』
彼女の口から零れ落ちたその話題は、かつて数千の犠牲者を出したあの忌まわしき浮遊城の記憶を、時を経て再び現実へと引き摺り出す響きを秘めていた。
『オーディナル・スケールに、旧SAOのボスモンスターが現れるっていう················』
『『『!!』』』
隣を歩いていた明日奈が驚きに足を止め、その背後でユイが小さくホログラムの身体を揺らす。
単なる都市伝説や運営企業による大掛かりな宣伝活動の一環だろうと、その時は誰もが深く気に留めることはなかった。あの地獄から生還した者達にとって、かつての悲劇のデータがそのまま最新の拡張現実ゲームに流用されるなど、悪趣味の範疇に過ぎないと考えたからだ。
リズベットというアバター名で活動していた篠崎里香は、彼女の話題について事前に少し聞いていたようで『例の謎のイベントバトルね』と軽い反応を見せ、明日奈は当時知らなかったのか『何かのプロモーションとかなの?』と、そんな風に楽観的な憶測を交わして笑っていた光景が、今の緊迫した戦場のノイズの隙間から妙に鮮明に浮かんでは消える。
『うーん、それはわからないけど········出てくる場所がギリギリまでわからないから、足がない私達には難しいのよねぇ』
里香が小さな首を傾げながら残した、あの釈然としない言葉の余韻。
当時の自分はその懸念を大衆の気の迷いとして処理し、深く追及することをしなかった。
単なる噂、誰かが面白半分で流しただけのホラ話。
そんな風にしか思っていなかった。
そもそもそんなことをすれば、あのゲームから無事に帰還したプレイヤー達はあまりいい顔をしないだろう。トラウマを抱えている者も少なくなく、それなのに流行のためだけに過去の産物を持ち出してくるとか、そんな嫌がらせみたいな行為を運営がするなんてあり得ないっていうくらいにしか思わず、真面目に考えなかった。
だが。
目の前で産声を上げようとしている構造体は、単なる過去のデータの使い回しなどという生易しいものでは断じてない。
かつてアインクラッドの各階層を統括していたカーディナル・システム。
その闇の中に眠っていたはずの怪物が何者かの手によって持ち出され、今時を超えてこの東京の路上へと解き放たれようとしている。
あの時、珪子や里香達が感じ取っていた漠然とした不安は、彼らに再び『絶望の思い出』を蘇らせるための前兆だったのではないか。
そう思えてならないからこそ、目の前で起きている現象に違和感を感じた。
「あれが、SAOの···········!?」
現実に引き戻された和人の喉の奥から、乾いた呻きが漏れる。
目の前の光の壁が罅割れ、そこから漏れ出す電波の圧迫感は、かつて彼が命を賭して戦った迷宮区の恐怖を遥かに凌駕していた。
彼女達から聞いていた噂。
それは今この瞬間を以て、最悪の形で目の前の現実と噛み合おうとしていた。
<><><><><>
光の防壁がガラスのように細かく砕け散り、夜空へと溶けていくその中心部。
もう誰もがあの世界から這い出てきたボスの出現を確信し、そのための戦術を頭の中で組み立てていたはずだった。
最新の拡張現実ゲームが提供する、現実に現れたあの仮想ゲームの世界の怪物を迎え撃つための準備を。
しかし。
まばゆい光の霧が晴れた後にそこに居座っていたのは、彼らの想定を遥かに裏切る、異質な『鉄の塊』であった。
「なんだ·········あれ?」
「「「「「「「「「「???」」」」」」」」」」
最初に誰かが漏らしたその声は、周囲の熱狂を瞬く間に冷ややかな沈黙へと引きずり込んでいった。
出現したのは、中世の迷宮に蠢くような有機的な魔獣でも、伝説に語られる甲冑の戦士でもない。
それは────“
赤錆びた鈍い輝きを放つ堅牢な装甲板で全身を覆い、何本もの鋭利な金属の脚でアスファルトを踏みしめる、無骨極まりない『戦闘機械』の威容であった。
その中央部には昆虫の眼球を模したかのような不気味な緑色の発光部がいくつも怪しく明滅し、左右に突き出した巨大な一対の鋏の先端には、明らかにファンタジーの世界観には存在し得ない銃身の長い重火器が鈍く据え付けられている。背後から天へと高く反り返った巨大な尾の先には、高圧のエネルギーを充填するための太いパイプと、禍々しい放射口が獲物を狙う蠍のようにそそり立っていた。
秋葉原の路上を上書きしていたはずの中世の城壁や石畳が、その機械の存在そのものが放つ異質な気配によって、まるで上層のデータが侵食されるかのように激しく揺れる。
広場を埋め尽くしていたプレイヤー達は手にした剣型のコントローラーを構えた姿勢のまま、一斉に思考を停止させていた。
誰もが呆然と口を開き、眼前の鋼鉄の怪物とオーグマーから放たれる仮想の画面を交互に見つめ、互いの目を疑うようにして視線を泳がせる。
「おいおい、あれが今回のボスなのか?」
「いつもはもっと、ファンタジー世界らしいモンスターだよな?」
「どう見てもロボットだし、しかも蠍みたいな見た目してんな」
「それになんか、周囲も別のフィールドに変わってるし」
「あれか? なんかのサイバーパンク系のゲームの敵ロボットか?」
行き交う言葉の数々には、戦いへの警戒よりも先にあまりの場違いさに対する強い困惑と動揺が色濃く混ざり合っていた。
彼らが知る情報、ソードアート・オンラインの舞台であるアインクラッドに現れるというボスモンスターの面影をどれだけ探しても、こんな近代的な軍事技術の結晶のような兵器のデータなど存在しない。
何より、周囲の空間も一瞬で変わった。
さっきまでオーグマーの視界に展開されていた中世の城郭都市の幻影が、まるで重いハッキングを受けたかのように激しいノイズと共にパチパチと弾け飛んでいく。
代わって現実に重なり合うようにして急激に密度を増していったのは、皆が思い描くような幻想世界とは程遠い、乾いた産業文明の陰鬱な風景だった。
広場を囲むビルの壁面や路上には赤錆びた無骨な鉄骨が幾重にも複雑に入り組み、巨大な歯車や剥き出しの太い配管パイプがパズルを組み立てるような小気味よい速度で張り巡らされていく。頭上を覆う夜空の色彩さえもが大都会の光を遮るようにして、排気ガスの混ざったような不気味な分厚い雲へと塗り替えられていった。
その光景を一言で言い表すのならば、スチームパンクの景観そのものであった。
建物の隙間からは人工的な蒸気がシューシューと白い煙を上げて噴き出し、空気そのものが湿った鉄の錆と古い機械油の匂いを孕んでいるかのような錯覚をプレイヤー達に齎す。彼らが集まっていた秋葉原の人工地盤は、いつの間にか鉄板を継ぎ接ぎしただけの無機質な巨大建造物の構造体へとすり替わっており、足元からは巨大な発電機が回るような、低く不快な地鳴りが絶え間なく伝わってきた。
ファンタジー世界の冒険者を気取っていた参加者達は、この冷たく無機質な工業地帯の背景の中で、酷く滑稽で場違いなものへと貶められていく。
それは、和人や明日奈にとっても全く同様であった。
「何、これ·········?」
明日奈の顔から先程までの歴戦の剣士としての落ち着きが急速に引いていく。
細い指先で握られたレイピアの柄が、未知の機械が放つ異様な威圧感によって微かに震えていた。
彼女がこれまでの闘争の中で培ってきた知識のどれを検索しても、目の前で冷たい金属音を立てている鋼鉄の塊に該当する名前は見つからない。
そして。
視界に投影されているこの都市のグラフィックは、開発企業が用意したアインクラッドのどの階層のデータとも一致しない。
隣に立つ和人もまた、目を大きく見開いたまま眼前の光景に激しい困惑を隠せずにいた。
(何だこれ·········急に背景が変わった? それにアイツ、SAOのボスじゃない·········なんだあれ?)
ゲームの不具合によるデータの取り違えなのか、あるいは運営側が仕掛けた全く別の意図によるサプライズなのか。
現実の東京の路上という舞台の上で、あまりにも兵器としての実用性に特化しすぎているそのデザインは、最新のARゲームという娯楽の枠組みそのものを奇妙に揺るがせていた。
何故ファンタジー世界から一変して突如としてスチームパンクの世界観に変わり、さらにはあんな近代的なロボットが現れるのか。
無論、その答えを知っている者はこの広場に一人もいなかった。
だが。
彼らの戸惑いを余所にして、その赤い鉄塊はゆっくりと左右の銃身をこちらへと向け始めた。
ギチギチと。
重い金属同士が擦れ合う生々しい軋み音がオーグマーの音響システムを通じて周囲の空気を重く震わせる。それはゲームの演出用に調整された軽快な音響効果などではなく、真に命を刈り取るために設計された兵器だけが放つような実体感を伴っていた。
視界の内に表示されているボスの名称パラメータは激しく文字化けを起こしていたものの、バグ特有の明滅を経て視界を上書きするように、《Guard Scorpion》という文字列が不吉な宣告のように現れる。
誰もが目の前の赤い鉄塊と周囲を囲む無骨な鉄骨の檻に思考を奪われ、広場全体が不気味な膠着状態に陥ろうとしていた。最新ゲームの常識を遥かに逸脱した光景に、戦いへの気概さえもが困惑によって崩壊しかけていた。
その時だった。
上空を滞空していた一つの中継ドローンの照射レンズから、唐突にまばゆいスポットライトの光が地上へと投げかけられた。
パッ、と。
ホログラムによって再現された分厚い雲を背にして夜空から光の尾を引いて舞い降りてくる、一つの“小さな影”。
それは人型、そして誰もが知る仮想の偶像。
「“ユナちゃん”!?」
クラインが手にした刀を構えたまま驚愕の声を上げ、その場にいた一同が一斉に上空へと視線を跳ね上げる。
和人もまた、手にした剣の柄を握り直しながら、視界の端で急激に再構築されていく視覚データに目を見開いた。
白と黒を基調とした豪華な舞台衣装を夜風に靡かせ、デジタルエフェクトの眩い煌めきを周囲に撒き散らしながら、『オーディナル・スケール』の象徴であるARアイドルの少女“ユナ”は、鉄骨の欄干の上へと軽やかにその身を滑り込ませた。
彼女の傍らでは小さなマスコットプログラムが無邪気に宙を舞い、歌姫の降臨を祝福するように可憐な電子音を響かせている。
「みんなー!! がんばってるー?」
「「「「「「「「「「おおぉぉぉおおおおおおおおおおッッッ!!!!」」」」」」」」」」
拡声された彼女の声が広場に響き渡った瞬間、それまで場を支配していた重苦しい沈黙は一転し、地鳴りのような歓声の渦へと変貌を遂げた。
男達の野太い声が一つとなり、一気に緊張感は払拭される。
「何だ、やっぱりただのプロモーション企画か!!」
「つまり今回はこういうステージってことか!!」
「全く、マジでビビったぜ!!」
行き交うプレイヤー達の声には先刻までの戸惑いは微塵も残されていなかった。
彼女の登場、そしてそのあまりにも堂々としたいつもと変わらぬ満面の笑顔こそが、この異常な空間変貌のすべてを『運営が用意した特別な演出』であると大衆に誤認させるための何よりの証明として機能したのだ。
聞いていた噂話、アインクラッドを守護していたボスではなく、その代わりに現れた蠍型のロボットも、この無機質な鉄の街並みも、全ては新時代を謳うゲームが仕掛けたファンの度肝を抜くためのサイバーパンク風の特別仕様なのだと誰もが都合よく納得してしまった。
仮想の歌姫が現れただけで皆が安心し、目の前のゲームに集中する。
鉄骨の上ではユナがマイクを携えた右手を大きく掲げ、弾けるような笑みをその顔全体に咲かせてみせた。
「さぁ!! 戦闘開始だよ!!」
彼女の華やかな宣言を合図にするかのように、赤き殺戮兵器の背後にそそり立つ尾の先端に膨大なエネルギーの輝きを一挙に増大させていく。
「ミュージック、スタート!!」
鉄骨の上でユナが華やかに両手を広げてステップを踏む。
彼女の頭上に音符を模した鮮やかなアイコンがいくつも浮かび上がり、それと同時に秋葉原の夜空を覆う雲を裂くようにして、軽快で高揚感を誘う旋律がオーグマーの音響システムから一斉に流れ出し始めた。
「よっしゃ!! ユナが歌い始めた!!」
「おお·········っ!」
「ボーナス付きのスペシャルステージ!! これでアイツにトドメ刺した奴は一気にポイントもらえるぞ!!」
周囲の参加者達の興奮は一気に最高潮へと達し、広場のあちこちから歓声が湧き上がる。
歌姫のライブが始まったということは、これまでのイベントと同様に彼女の歌声がプレイヤーのステータスに強化の恩恵を齎す最高の合図に他ならなかった。
ピピッ、ピピッと。
小気味よい電子音が一同のオーグマーから響く。
和人や明日奈の視界の端でもユナの歌声に同調するようにして、攻撃力や防御力の上昇を示す臨場感あふれるシステムエフェクトが表示される。
目の前に聳え立つ蠍型の巨大な戦闘機械がどれほど場違いで奇妙なデザインであろうとも、この歌姫の演出が入った以上、これが運営の用意した特別なボーナスバトルであることは間違いなかった。
「·········」
なのに、この違和感は何なのか。
和人はこの風景を見て、どこか胸を締め付けられる思いに苛まれていた。
ユナの歌声に狂熱する群衆の歓声も、耳元で鳴り響くステータス向上の電子音も、今の彼の意識には届かない。
視界を覆う、この不気味な街並み。
周囲のビルを侵食するようにして、急速にその骨組みを露わにしていった無骨な鉄の群れ。
シューシューと音を立てて噴き出す白い蒸気と、鼻の奥を刺激するような、錯覚にしてはあまりにも生々しい機械油の匂い。
秋葉原に投影されたこの風景、それが和人の頭にある思い出を酷く刺激する。
(この街並み········俺は、知っている········?)
ただの最新ゲームの演出、ただのサイバーパンク風の特別仕様。
誰もがそう都合よく納得している中で、和人の記憶の底に静かに沈んでいた『最悪の思い出』が徐々に蘇ってくる。
ガンゲイル・オンラインとは違う、もっと別の何か。
SAO以上に自分達を恐怖で支配した存在········あの“長い銀髪の男”が構築した空間にそっくりなこの世界観に、和人は喉が干上がった。
(ま、さか·······!?)
気のせいで片付けたい。
なのに、あの時の思い出が鮮明に蘇ってそれをさせてくれない。
天を覆う雲が割れ、火の塊が降り注ぐ、あの終末の光景。
命を賭して戦っていたはずの世界が全く別の異物によって破壊されていき、自分の常識が全く通用しない恐怖が、今まさに目の前に広がる鉄骨の檻と最悪の形で重なり合っていた。
これは────遊びではない。
運営が用意したサプライズイベントなどではない。
そう思えてならない和人は、顔中から冷や汗が噴き出す。
かつてアインクラッドのゲームマスターのアバターを奪って自分達を追い詰めた、あの『イレギュラー』の面影が、時を経てこの現代の東京に再び這い出てこようとしている。
その確信に近い予感が、彼の精神を冷たく硬直させていった。
「キリト君·······?」
「───ッ!!」
そんな時、隣に立つ明日奈が異様なほどに強張った彼に気付き、不安げに声を漏らす。
彼女の声によって意識は戻り、和人は明日奈の顔を見る。
現実の彼女の顔。
それはオーグマーの電子データが再構築した記号の集合体などではなく、同じ空気を吸い、隣で同じ地面を踏みしめている、生身の少女の姿だった。
「大丈夫?」
「············あぁ」
彼女の肌に滲む微かな心配と、自分を案じるひたむきな眼差しが、停止していた和人の思考の歯車を強引に回し進める。
守らなければならない。
あの地獄を共に生き抜き、ようやく掴み取ったこの平穏な日常を、あの世界の悪夢に再び蹂躙させるわけにはいかなかった。
「何でもない······大丈夫だ。よし!! いくぞ、アスナ!!」
「え? う、うん!!」
和人は首を振ると、右手に握ったコントローラーを限界まで締め直した。明日奈はそんな彼に短く応じると、自分も姿勢を正して戦いに備える。
恐怖を傲慢なまでの闘志へと塗り替え、目の前の赤い機械へと視線を据え直す。
制限時間は一◯分。
視界の端で無慈悲なカウントダウンが刻まれ、ゼロに至る前にこの鉄の塊を沈めねばならない。
「よっしゃぁ!! 行くぜお前らぁぁぁアアアアアアアアッッッ!!!!!」
「「「「「「「「「「おおぉぉぉおおおおおおおおおおッッッ!!!!」」」」」」」」」」
クラインのその掛け声で、全員がやる気に満ちて立ち向かっていく。
だが。
彼らが迎撃の陣形を整えるよりも早く、尾らしき場所から放つ青白き輝きが限界を超えて周囲の空間を爆発的に照らし出した。
ギギギギギ、と。
不快な重低音を響かせながら、蠍の尾を模した巨大な砲身が地上に向けて固定される。
次の瞬間。
ユナの軽快な歌声を力強く圧殺するようにして、鼓膜を激しく引き裂く発射音が秋葉原の路上に炸裂した。放たれたのは、彼らがファンタジーの世界で見てきたような、魔法の火球や光の矢などではなかった。
尾の先端から直線状に放たれたのは、戦う者達を容赦無く両断する───レーザーの破壊光である。