錆びた風が吹き抜ける高架の歩道橋の上は、広場の喧騒から隔絶された冷たい静寂に満ちていた。
そこは数分前まで秋葉原と呼ばれる凡庸な電気街のありふれた催事場に過ぎなかった場所だ。
しかし今、彼の瞳が捉えているのは───いや、『彼の画面』が捉えているのは、その退屈な現実の残像ではなかった。
頭上を覆うのは重苦しく澱んだ暗雲。
まるで大気そのものが毒素を含んで沸騰しているかのような、悍ましい空模様。
そして四方のビル群は不自然なほど歪んだ無機質な鉄骨の檻へと変貌を遂げ、息を吸い込むたびに鼻に古い機械油の焦げた匂いが幻覚となって容赦なく痛めつける。
それはかつての旧SAOとは思えない、まさに終末そのものの景色が、どういうわけかこの現実の東京のほんの一角へとせり出してきている。
「
手すりを握る指先に無意識のうちに力が籠る。
男の端正な顔立ちが不審と驚愕によって僅かに歪んだ。
事前に彼へ与えられていた計画内容が記載された書面、そしてこのオーグマー専用のARゲームに組み込まれていたはずの進行手順では、このエリアに現れるべきは旧SAOの第十層の守護者たる武者、『カガチ・ザ・サムライロード』であるはずだった。
和風の世界を模したステージに君臨する巨大な鎧を持つ怪物がここで暴れ回り、報酬を目当てに集まったプレイヤー達を追い詰める。
男はその混乱に乗じて、高みの見物から獲物を定める手はずだった。
だが。
今まさに広場の中央、大地を乱暴に爆砕して這い出てきたものは、生物の温もりなど微塵も持ち合わせぬ鋼鉄の塊だった。
巨大な蠍を模した、重厚な装甲。
関節が擦れ合うたびに火花と共に『ギギギ』と鼓膜を削るような嫌な摩擦音が空間を震わせる。頭部に見える光学センサーが不気味な光を放ちながら、右へ左へと不規則に小刻みな往復運動を繰り返している。その背後でのけ反るようにそびえ立つのは、大口径の砲身を兼ねたあまりにも巨大な鉄の尾だった。
カガチ・ザ・サムライロードではない。
オーグマーが読み取った結果、視界に表示されるのは───《ガードスコーピオン》。
「どういうことだ。こんなのが出てくるなんて聞いていないぞ、“先生”········」
男は左手を耳元へと這わせ、オーグマーの側面にある細い通信スイッチを人差し指で押した。
耳の奥で電子的な接続音が小さく鳴り響く。
彼は視線を下の機械の蠍に固定したまま、その口から低い声を絞り出した。
「“先生”········聞こえますか? エリアの同期に深刻なエラーが発生しているのか、モンスターのデータが予定のものと違うようです。それから、周囲の景観の変貌も想定外のもので············聞こえてますか?」
指を通信スイッチに押し当てて声をかけるも、しかし耳の奥から返ってくるのはザザッという不規則な砂嵐のノイズだけだった。
オーグマーの通信機能は通常の通信回線とは異なる特殊なものを使用している。
たとえ数千人のプレイヤーが一箇所で携帯電話を使用して電波が混雑しようとも、この秘匿回線が不通になることなどあり得ないはずだった。
つまりは。
「·······留守、か?」
男は不快そうに静かに舌を打ち、通信を遮断した。
通じないということは、今この瞬間に運悪く急用が入ってしまったのか、ただ単に手が離せないだけかもしれない。
あるいは、このイレギュラーな状況そのものが“あの人”の計画の一環なのだろうか。
疑念は尽きず、結局は分からなかったが、確認する術は今のところない。
電話を使用するという方法もあるが、ここで今スマホを出せば、オーグマーが主流となっている世の中で一人だけ時代遅れの端末を使用しているということで変に目立ってしまう可能性がある。それに“あの人”が今もスマホを使っているかどうかも分からない。
男は小さく溜息をつき、再び手すりから身を乗り出すようにして下の様子を観察することにした。
広場は狂乱と困惑の渦と化していた。
今回のステージの端には、歌姫であるユナの虚構の立体像がいつものように楽しそうな表情で皆に手を振っている。
周囲の一般プレイヤー達は、その応援に応えるように手を振り返している。
「すげぇ!! 今回はサイバーパンク風のステージか!?」
「運営気合入ってんな!!」
そんな的外れな歓声があちこちから湧き上がっている。
現実の秋葉原の街並みが一瞬にして荒廃した世界へと書き換えられたこの状況を、彼らはオーグマーの画面越しに都合のいい『ボーナスステージの派手な演出』として認識しようとしていた。
「··············」
愚かな奴らだ、と男は冷ややかに鼻で笑う。
異常事態が起きているというその危機感にも気付かないとは。
現実の平和に浸りきった現代人は、目の前の鉄の塊が放つ本物の殺意にすら感知できていない。
だが、次の瞬間。
その熱狂は、文字通り光の中に消し飛んだ。
キィィィィィン。
鋼鉄に作られた蠍の長い尾が、不自然な角度で天空へと向けて直立する。
砲身の先端に青白い電流のような火花がパチパチと集束し始めた。それは、歌い始めたユナの清らかな声を強引に圧し殺し、周囲の全ての音を吸い尽くすかのような嫌な高周波の重低音だった。
空気がちりちりと肌を焼くように振動する。
男の頬に冷たい汗が静かに伝い落ちる。
直後。
ドッゴオオオオオオンッ!!
雷を思わせるほどの轟音と共に、鉄の尾から純白のレーザー光線が照射された。
それはまさしく光の刃となり、広場に円を描くようにして容赦なく薙ぎ払った。
鋼鉄の世界を表現している仮想の地面が激しく爆砕し、数メートルもの高さまで電子で再現された黒い土砂と煙が噴き上がる。光線が触れた街路樹は一瞬で炭化し、周囲に屯していたプレイヤー達の体が一本の光に呑み込まれていく。
「え!? ちょ───ッ!?」
「ヤベぇ!! ど、どこに逃げれば─────ッ!?」
悲鳴を上げる時間すら満足に与えられなかった。
放たれたレーザーの熱線は直撃したプレイヤー達のアバターを容赦なく寸断し、その肉体を衝撃と共に吹き飛ばした。
オーディナル・スケールは現実の肉体を使ったゲームだ。
痛みはないものの、システム上のダメージはそのまま耳に装着しているオーグマーを通じて、視界を覆う画面に『HUNTER DOWN』という文字の羅列と共に、武装も解除される。
何人かの人間がまだ行動もしていないのに、いきなり攻撃を受けて一気にライフを削り取られ、そして退場させられる理不尽。
悲鳴と怒号が四方に炸裂し、先程までのお祭りのような熱狂は一瞬にして非難する場へと反転した。
煙が立ち込める中、何人ものプレイヤーがやられたことに対して野次を飛ばし、もしくは地面に項垂れて悔しさのあまりに顔を歪めて呻いている。
その光景を歩道橋の上から見つめていた男の視界に、一つの奇妙なシステムウィンドウがポップアップした。
ピロン、という軽い通知音。
「············ほう」
男は目を細め、眼前に浮かぶ半透明の画面を指先でスクロールした。
そこには幾つものプレイヤーネームが羅列されていた。
大半の欄は『一般プレイヤー・対象外』として薄い文字で表示され、処理がスキップされている。今の無差別な一撃に巻き込まれた人間のほとんどは、彼の目的である旧SAOのサバイバーではなかった。
しかし。
下から四番目の項目だけが、怪しく鮮やかに発光していた。
『プレイヤー名:Yoiti』
『進行状況:抽出完了───メモリ・コアへ保存』
「一人混ざっていたか··············」
男は唇を歪め、満足気でありながらもどこか退屈そうな笑みを浮かべた。
運悪くその場に居合わせ、ガードスコーピオンという謎のモンスターの先制攻撃の餌食となった群衆の中に、
オーグマーに隠された自動収集機能は、そのプレイヤーが受けたダメージによって脳波を乱した瞬間を正確に捉え、
視界を覆う画面の向こうでは、その『Yoiti』という青年が頭を押さえながら、魂を抜かれたかのような虚ろな目で地面に膝をついている。
周囲の友人が必死に声をかけているのが見えるが、彼の耳にはもう何も届いていないだろう。
あの世界で武器を握り、怪物を討ったという誇りも、その戦いの中で培った経験も。
計画の第一段階としては決して悪くない収穫だ。
たった一撃で、獲物を一人捕獲できたのだから。
しかし、エイジの胸の内にある不信感は、その程度の戦果では拭い去れなかった。
「ここにいる大半の奴らが目的のプレイヤーじゃない。それに、予定していたカガチ・ザ・サムライロードではなく、あんな訳のわからない機械が出てきた。それだけじゃない、街の景観まで別のものに変わるなんて聞かされてもいない·········これは想定されていたものなんですか、“先生”?」
彼は再び広場の中央で悠然と煙を吐き出す鉄の蠍を見つめた。
その装甲の隙間から漏れ出る緑色の光は、まるで見えない触手のように秋葉原のデジタルネットワークへと根を張り、刻一刻と領域を拡大しているように見える。
これは、オーディナル・スケールのシステムが起こしたバグなどではない。
もっと異質で、もっと根深い。
別の『何か』が───この場に介入している。
そんな気がしてならない。
「一体········何がどうなっている?」
男は手すりから手を離し、歩道橋の最も暗い陰の中へと一歩身を引いた。
ここで自分が不用意に飛び出せば、あの未知の機械兵器のターゲットが己に向く可能性がある。
あの時の『大切な記憶』───これだけは絶対に奪わせてはならない『思い出』のために、わざわざ今飛び込む必要はない。
「しばらくは様子を見させてもらおう、ガードスコーピオン。お前がどれだけ『帰還者』どもを蹂躙してくれるのか、ここで見物させてもらう」
男はオーグマーの音量を最小限に絞り、自身の気配を周囲へと完全に同化させた。
冷たい風が彼の灰色の髪を乱暴に揺らす。
眼下では二撃目のレーザーを充填し始めた蠍の尾が再び不気味な音を───いや、金属の軋み音を立てて動き始めようとしていた。
そう。
ここからが本番だった。
<><><><><>
その光が秋葉原の広場に激突した瞬間、まるでモーセの海割りの如く路面が吹っ飛んだ。向こう数十メートルに渡って曲線を描いて放たれたレーザーの残光は、たとえ電子で再現された幻想であってもプレイヤー達の脳に記憶として焼き付いている。
「マジかよ········ッ!?」
「あんなの当たったら一発で終わりじゃんか!?」
「あんなのと戦うのかよ········無理じゃね?」
鉄と錆に覆われた空間、運良く生き残ったプレイヤー達の声が虚しく散っていく。
あの機械、ボスとしての格を見せつけるように一発目で大技を繰り出し、そして圧倒的な破壊力を秘めたレーザーを振り回した。
その威力をさらに誇示するように、あちこちの背景にあるボルトが弾けるか飛ぶような音が演出として鳴り響く。
「················ッ!?」
今回のゲームに初参加することとなった和人は、今の一撃をなんとか避けられたようだが、その威力を見て思わず全身が凍ったように固まっていた。
得体の知れない相手に冷や汗が噴き出る。
「キリト君!! 大丈夫!?」
「!!」
アスナの声が、凍りついていた和人の鼓膜を激しく叩いた。
「アスナ······ッ!! ああ、なんとか無傷だ!!」
ハッと我に返った和人は激しく上下する胸を押さえながら、明日奈を見る。
彼女の手にはまだオーグマーが生成した美しい細剣が握られており、そしてその身には防具が纏われている。つまり彼女はまだ無事である。やられてライフがゼロにならない限り、武装が解除されることはない。
そして周囲を見渡せば路面は電子の火花を散らしながら大きく抉れ、濛々とした煙が視界を遮っていた。
その煙の向こう側で、ガードスコーピオンという機械の頭部にある光学センサーが、次の獲物を求めて無機質に左右に動いている。
(なんなんだあいつ············今の攻撃といい、SAOのボスって聞いてたのに、初見の相手じゃ何してくるか分からないから下手に動けない······ッ!!)
一体何が狂えば、これほどの殺意の塊が秋葉原に現れるというのか。
和人は自身の右手にある剣の柄を強く握り締めた。
だがその瞬間に手の平へ伝わってきたのは、あのデスゲームと化した仮想空間で感じていた、己の体の一部となったかのような吸い付く感覚ではなかった。
ただの、冷たいプラスチックの塊。
当然だ。
ここは現実、正式なダイブ環境のVR世界ではない。
自分の肉体で走り、自分の本物の筋肉を動かさなければならない、リアルな戦場。
今回が初めてのゲーム参加となる和人にとって、この『現実の肉体の不自由さ』は、想像を絶する足枷だった。
頭の中にある戦術のイメージに現実の足や腕の動きがまったく追いつかない。
単に運動不足なのだろうが、そのもどかしさと得体の知れない機械への脅威で、冷たい汗が頬を伝っていく。
「キリト、アスナ!! 二人とも平気か!?」
「「!!」」
電子の煙を割って飛び出してきたのは、風林火山の羽織をARの光で纏った遼太郎だった。
その額にあるバンダナにはびっしょりと汗が滲み、いつもは軽妙なその顔が今までにないほど強張っている。
「クライン!! 他のメンバーは!?」
「おう、全員無事だ!! だけどよ、今の一発で他の周りの連中は完全に戦意を喪失してやがる。あんなバカみたいな大技、どうやって防げってんだよ」
遼太郎の言う通り、広場に残された一般プレイヤー達は、風の前の塵のようにしてステージエリアの境界線へと逃げ惑っていた。
しかし。
鋼鉄の蠍は逃げる群衆を逃がすつもりなど毛頭ないようだった。
ギギチチと嫌な音を立てて、いくつもの鉄の足がアスファルトを削り、巨大なハサミを模した銃器が奇妙な唸りを響かせ、そして再び長い尾が天空へと構えられる。
砲身の先端に禍々しい青白い電流が弾け始めた。
その砲口は向きを変え、二撃目が来ることを知らせる場で固定される。
「今は攻略法を考えてる暇はない·······とにかく避けるんだ!! クライン、風林火山のみんなを率いて左右に散れ!! 正面からまともに受けるな!! アスナは俺と一緒に、あの巨体の懐に潜り込むぞ!!」
「了解·······!!」
「おう!! お前ら!! 左右から注意を引くぞ!!」
「「「「「おおぉぉぉオオオオオッ!!!!」」」」」
和人の指示によって明日奈が鋭い踏み込みと共に地を蹴り、遼太郎達風林火山のメンバーも左右へと素早く散開していった。
「ッ!!」
和人もその場から動くが、もうすでに体のあちこちが悲鳴を上げ始めている。
さっきのレーザーの回避、彼はそれを前転するようにして避けたが、よくよく考えればここは硬い地面の上だ。仮想空間内でも地面は再現されていたが、現実ほどの痛みはない。しかし今はリアルな世界であり、無論そうなれば動かすのも本物の肉体であるのだから、前に転がれば硬い地面の感触に骨がダメージを負う。
それに、体力はまだ残っていても、足の関節や肺の機能。
それらがアバターのキリトとは全く別のようで、その違和感が和人の身動きを不自由にさせている。
走るだけで足の筋肉が重く悲鳴を上げる感覚に、和人は歯を食いしばりながら片手剣を斜めに構えて追従する。
直後、二度目の純白の熱線が放たれた。
真っ直ぐ、和人と明日奈の二人の足元を狙った照射だ。
その空想の攻撃によってアスファルトが一直線に激しく爆ぜる中、和人はVR世界での反射神経の記憶を強引に現実の筋肉へと叩き込み、全力で右側へと体を捻って地面を転がった。肩を硬い地面に激しく打ち付けながらも、視線だけは敵の動きから外さない。
「ヤアッ!!」
すぐ側では明日奈が紙一重のステップで熱線を躱し、すでにガードスコーピオンの右前脚の関節へと肉薄して高速の連撃を突き刺していた。
金属が激しくぶつかり合う高音が響き、足を穿たれたガードスコーピオンの巨体が僅かに傾く。
和人と明日奈、そして遼太郎達が死に物狂いで敵の注意を引き、前線で激しい死闘を繰り広げている。
まさにその隙を突いて、後方のプレイヤー達が動き出した。
「よっしゃ!! 近接班が引きつけている間、遠距離から蜂の巣にしろ!!」
後方の鉄骨の影から、拡声器を通したような鋭い怒号が響いた。
見れば、今回のイベントに参加していた他のプレイヤー達が十数人で即席の陣形を組み、一斉に武器を構えていた。
彼らの手にあるのは剣や槍ではない。
オーグマーの光が作り出した、重い突撃銃や機関銃の数々だった。
「撃て! 撃ちまくれッ!!」
合図と共に、激しい銃声が広場に鳴り響いた。
和人達が前線で立ち回っている間に、数百発もの光の弾丸が放物線を描いて空間を走り、ガードスコーピオンの装甲へと次々と着弾していく。鼓膜を激しく突き破るような銃声の嵐と共に、金属が激しく弾け飛ぶエフェクトが周囲を派手に彩る。
だが。
これだけの集中砲火を浴びているにも拘らず、鋼鉄の蠍のライフゲージは目視できるほどには全く減っていなかった。
「クソッ!! やっぱりこのゲームの銃の威力はお粗末かよ!!」
「安全圏からの狙撃で倒せたら近接武器の奴らの立場がないもんな······だとしてもゲームバランスが鬼すぎるだろ!!」
引き金を弾き続けながら銃を持つプレイヤー達が悔しそうに声を荒らげる。
このオーディナル・スケールにおいて、遠距離からの銃撃は『安全な場所から一方的に攻撃できる』という利点がある反面、その一発一発の威力は極めて低く設定されていた。もし銃の威力が剣と同じであれば、誰も身の危険を冒して前線へ突っ込まなくなる。
ゲームとしての面白みを損なわないためのバランス調整。
しかし。
その焼け石に水ほどの銃撃であっても、ガードスコーピオンにとっては、自身を脅かす不快な羽虫の羽音に等しかったらしい。
ギチチチチ、と光学センサーが激しく点滅する。
鉄の蠍は正面にいた接近戦担当の和人達から視線を外し、銃声を響かせている後方のプレイヤー達へとその身を向けた。
「おい!! こっちを見たぞ!?」
「防壁の後ろに隠れろ! 柱や街路樹の陰に入れ!!」
狙撃チームの面々が慌てて広場のあちこちにある太い鉄骨の支柱や、変貌した背景の街路樹の陰へと身を隠した。
だが。
殺戮兵器の行動は、彼らの予測を遥かに超越していた。
ズゥゥゥゥンッ!! と。
巨大な金属の脚がアスファルトを力任せに踏み抜く。凄まじい風圧と共に数トンはあるはずの巨体が、まるで重力を無視したかのように宙へと高く跳ね上がったのだ。
「なッ!? ジャンプした!?」
銃を扱うプレイヤーの一人が驚愕の声を上げ、思わず頭上を見上げた。
巨大な影が視界を遮り、次の瞬間ガードスコーピオンは広場に隣接するビルの垂直な壁面へと鋭い脚先を突き立てて強引に張り付いた。鉄筋が砕け散る不気味な音が響き、壁にへばりついたまま蠍の背中にある対のハッチが不気味に左右へと開かれる。
そこから覗いたのは、無数の『小型ミサイルの弾頭』だった。
「マズい·······!! あいつ壁の上から狙ってくるつもりだ·······!!」
危険を感じたプレイヤーの一人が叫ぶのと、機械の背中から無数の白煙が噴き出すのはほぼ同時だった。
機械の光学センサーが物陰に隠れている弱虫どもを的確に捉え、そしてロックオンを終えると、
バシュバシュバシュバシュバシュッ!!
放たれた十数発の小型ミサイルが不規則な軌道を描きながら、柱や樹木の影に隠れているプレイヤー達を目掛けて一斉に降り注ぐ。
「うわぁぁぁあああああああああッ!?」
「盾が、盾が持たねえ············ッ!!」
激しい爆発音が連続して炸裂し、安全な遮蔽物であったはずの石柱や鉄骨が一瞬にして木端微塵に粉砕された。
爆炎の突風が広場を吹き荒れ、隠れていたプレイヤー達のライフが次々と減っていく。
彼らのオーグマーの画面に次々と『HUNTER DOWN』の非情な文字が表示され、防具が霧のように虚しく散っていった。何人ものプレイヤーがやられ、頭の上にあるランキングも無慈悲にダウンしていくのが見える。
ビルの壁面から見下ろす鋼鉄の蠍は、まさに戦場を支配する兵器そのものだった。
「············ッ!!」
煙が立ち込める中、和人は大剣を構えたまま、その圧倒的な理不尽さに歯を食いしばった。
───あんな奴どうやって倒せばいいんだ。
いつもであればあれくらいの相手、すんなりと倒せそうなものなのに。
やはり、この体の重さが原因か。
どんどんプレイヤー達がやられていく中、和人は仮想世界との違いに思わず舌打ちをする。
「本当、嫌になるな··········」
「おい、大丈夫かキリの字?」
と、そんな彼の元に遼太郎がやってきて声をかけてくる。
「気ぃつけろよ。HPがゼロになった途端にペナルティ、ランキングも下がって貰える特典も少なくなるぞ」
「あぁ·······わかってるよ」
和人は剣の柄を握り直す手の平の汗を、自身の衣服で無造作に拭った。
その直後、ビルの壁面に張り付いていたガードスコーピオンが不気味な光学センサーを激しく点滅させた。獲物の戦力を削り落としたと判断したのだろう、巨大な金属の脚がビルの壁を力任せに踏み砕き、再び地上へと強引に飛び降りてきた。
ズゥゥゥゥン、と。
やはり数トンはあるように見せるための演出として、降り立った直後に広場の中央に激震と共に周囲に電子の砂煙を巻き上げる。
「よっしゃ!! お前ら!! びびってんじゃねえぞ! 俺達も行くぜぇぇぇええええッ!!」
「「「「「おおぉぉぉオオオオオッ!!!!」」」」」
「私も!!」
遼太郎の野太い声が、爆音の余韻が残る空間に響き渡った。
明日奈もその声を合図に走り出す。
「·······」
皆が勇敢に立ち向かっていく中、和人だけはやっぱりこのゲームのデメリットに苦しめられていた。
手に持っている剣を虚しく眺めるも、ここでは彼はただの少年、どこにでもいる普通の人間と成り下がるのだ。
純粋な身体能力だけを頼りにこのゲームをクリアしなければならないというのは、彼にとってはどんなゲームよりも難易度の高い、絶望的な攻略だった。
アバターの補助もなく、スキルもない。
システムによる姿勢制御も剣速の加速補正も存在しない。
ただのプラスチックの柄から伝わる手応えは酷く心細く、地を蹴るたびに足首に走る鈍い衝撃が嫌というほど現実の肉体の限界を突きつけてくる。
自分が走らなければ一歩も進めない、自分が腕を振らなければ剣はただの残像と同じだ。
頭の中には、数々の死線を潜り抜けた時に培った無敵の戦術が、完璧に記憶として保存されている。敵の攻撃の軌道も、避けるべきタイミングも、思い出の向こうで正確に予測できている。
しかし。
そのイメージを体現するための本物の筋肉があまりにも重く、追いつかないのだ。どれだけ頭の中でこう動くんだとイメージしても、現実の肉体は再現してくれない。
アクロバットな動きをしようにも、脳が『無理、できない』という信号を送ってその動作を遮断する。
だが鋼鉄の蠍は、そんな少年の葛藤を待ってはくれなかった。
地に降り立ったガードスコーピオンが、巨大なハサミに仕込まれている機関銃を構えてくるのが見える。ハサミの先端にある銃口が不気味に回転を始めた。和人がその危険を直感した瞬間、凄まじい発射音が広場を圧壊せんばかりに轟いた。
バラバラバラバラバラバッ!!
放たれたのは遠距離用の光線ではない。
懐に潜り込もうとする近接班を、容赦なく駆逐するための実弾の掃射エフェクトだった。アスファルトが激しく弾け飛び、凄まじい密度の弾幕が明日奈や遼太郎達の進路を強引に塞ぐ。
「前衛位置につけッ!! ここで受け止めるぞォ!!」
「よっしゃ任せろッ!!」
遼太郎の叫びに応え、風林火山の仲間の一人が大きな金属製の盾を前に突き出した。
ガギギギギギガガガガガッ!!
機関銃の猛射が金属の盾へと真っ向から衝突し、耳を聾するような火花が周囲に吹き荒れる。
「おらぁぁぁああああッ!!」
盾役が歯を食いしばり、顔を真っ赤にしながら腕を強張らせるが、ガードスコーピオンの放つ銃弾の衝撃圧は凄まじく、靴底が地面を削りながら後方へとずるずると滑っていく。
しかし男は深く膝を折り曲げて地面を踏みしめ、仲間を守るためにその防壁を必死に維持してみせた。
「ナイスだ!! 銃撃の隙を突くぞ!!」
前衛が弾幕を受け止めた一瞬の隙を見逃さず、背後で刀を構えていた遼太郎が地を這う姿勢から一気に跳躍した。
彼の刀がオーグマーのシステムによって鮮やかな光を纏いながら、大きな円を描く。
「ッらぁぁぁアアアアアアアアッッッ!!」
遼太郎の刀が気合の一閃によって、ガードスコーピオンを保護する装甲へと激しく叩きつけられた。
ガァァァアアアアンッ!! という重い手応えに火花が四方に飛び散る。
刀身から放たれた一撃が機械の表面を焦がし、ガードスコーピオンの巨体が左側へと傾いた。
機関銃の掃射が狂い、システム上のライフゲージが少しばかり減少する。
「どうだ!! 効いてるだろ!?」
遼太郎は着地と同時に、現実の膝にかかる負担を逃がすようにして一歩後退した。
しかし、蠍の報復は冷酷なほどに早かった。
ギギギギギッ!!
頭部のセンサーを明滅させたガードスコーピオンが銃撃を中断すると同時に、その巨大な左のハサミを乱暴に横へと振り払った。
本物だったら風圧だけで周囲の煙が吹き飛ぶほどの、凄まじい払い手。
「あぶね───!!」
防戦に回る余裕は与えられなかった。
遼太郎が立ち上がって避けようとした、その瞬間に白い閃光が走る。
タタタタタタッ、と。
軽やかで高速の足音が地面を刻む。
「はぁぁぁぁッ!!」
凛とした声、明日奈が鋼鉄の蠍の死角へと滑り込んでいた。
彼女の細剣はオーグマーの光を極限まで集束させ、肉眼では捉えきれないほどの残像を空間に残しながらガードスコーピオンの装甲の継ぎ目、剥き出しになったケーブルへと正確な高速の突きを繰り出していく。
シュバババババババッ!!
電光石火の五連撃。
金属の弾ける高音が連続して空間に裂け、突かれた箇所から火花と黒いオイルを模したエフェクトが激しく噴き出す。
明日奈の『閃光』としての異名に恥じぬ、現実の肉体の限界を越えるような神速の立ち回り。
その一撃一撃が、確実にガードスコーピオンの挙動を狂わせていく。
目の前で繰り広げられる風林火山の必死の防戦、遼太郎の放った一撃の重み、明日奈の文字通り命を懸けた華麗な突撃。
そんな戦いを目にして、自分だけがただの少年だからと足を止めているわけにはいかない。
「ッ!!」
ダッ!! と。
和人は重い地面を力任せに踏みつけ、明日奈達の背中を追うようにして走り出した。
前線で敵を引きつける仲間達のために、自分も何か役割を果たさなければならない。頭の中のシミュレーションでは滑るように敵の懐へ入り込み、剣をその装甲の隙間に叩き込む。
だが。
何度も感じている通り、現実の肉体は恐ろしいほどに融通が利かない。
イメージ通りに上がらなかった足先が、無惨にも地面の僅かな段差に引っかかった。
「いッ───!?」
姿勢を制御するシステムの手助けなどない世界だ。
和人は前方に投げ出されるようにして、硬い路面へと激しく突っ込んだ。
ガッと激しい衝撃が肩を襲い、そのまま勢い余ってザザザーッ!! と地面を無様に滑っていく。手の平や膝が擦れ、じくじくと焼けるような痛みが脳に直接届いた。
仮想空間の痛覚設定とは違う。
本物の生身の衝撃に、喉の奥が詰まって呼吸が一瞬止まる。
ギギギギギッ!!
そんな無様に転がった少年を、ガードスコーピオンが見逃すはずはなかった。
好機と見た機械の蠍が和人の頭上に向けて、銃が仕込まれた巨大な鉄のハサミを、容赦なく振り下ろしてくる。
避ける動作すら間に合わない、終わりの一撃。
「うわぁぁぁアアアアアアアアッ!!???」
「キリト君!!!」
その破滅の軌道の前に、間一髪で割り込んできたのは明日奈だった。
彼女は鋭い叫び声を上げながら細剣を両手で支え、頭上から迫る巨大なハサミを正面から受け止めた。
ガキィィィンッ!!
金属が激突する強烈な衝撃波が、周囲の電子の煙を吹き飛ばす。
細剣の刀身から激しい火花が散り、手に持っているコントローラーが衝撃の再現として一気に重くなる。それでも彼女は決死の力でハサミの軌道を横へと受け流し、自身もその反動で後方へと大きく弾かれながら着地した。
「キリト君!! ちょっと大丈夫!?」
明日奈はすぐさま和人の元へと駆け寄り、彼の肩を必死に抱き起こした。
彼のその表情には、これまでにない焦りが浮かんでいる。
和人は激しく咳き込みながらなんとか上体を起こした。痛む腕をさすりながら、己の不甲斐なさに歯を食いしばる。
「体が重い············やっぱり仮想世界とは何もかもが違うな」
頭で分かっていても、体が動かない。
その現実の壁の厚さに絶望しかける和人に、明日奈は思いっきりツッコむ。
「ただの運動不足でしょ!?」
「これからだよ!!」
仲睦まじいやり取りに離れた所にいる遼太郎達は何やってんだアイツみたいな憐れそうな目で見てきている。
そんな視線に気付くこともなく、二人は急いで離れるように後ろへと走り出す。
そこに。
「オラ!! どいたどいたァー!! 特大の一発喰らいやがれぇッ!!」
「「!!」」
後方から体格の良い虎の姿をしたプレイヤーが、巨大なランチャーを抱えて飛び出してきた。
遠距離の銃撃が効かないのなら、至近距離から最大の火力を叩き込むまでだと言わんばかりに、ガードスコーピオンの目の前へと躍り出る。
ドォオオオオオオンッ!!
凄まじい反動と共に放たれた光の重砲弾が、ガードスコーピオンの胸部装甲へと正面から向かっていく。
最後の一撃、ラストアタックによるポイントを独り占め。
そう確信したが、しかしその必殺の一撃が鋼鉄の胸へと激突するよりも早く、殺戮兵器の光学センサーが冷酷に最適の回避制動を演算していた。
ズゥゥゥゥンッ!!
巨大な六本の金属脚が地面を爆砕し、ガードスコーピオンはその巨体を再び宙へと高く跳ね上げ、砲弾の軌道上から完全に消失した。
驚異的な跳躍によって、鉄の蠍はそのままプレイヤー達の陣形の反対側、後方の路面へと轟音を立てて降り立った。
「なっ!? 外した!?」
ランチャーを抱えた虎のプレイヤーが顔を引き攣らせる。
だが、本当の後悔はそこからだった。
標的を見失い、行き場を失くした特大の砲弾は、凄まじい速度を維持したまま広場の奥。
「あッ!!」
「ヤベッ!?」
周囲の誰もが息を呑んだ。
オーディナル・スケールにおいて、彼女は攻撃対象ではない。しかし放たれた砲弾は容赦なくユナの華奢なアバターへと迫っていく。
防具も纏わぬ彼女にこれが直撃すれば、まず間違いなく何かしらの被害を受ける。
明日奈も和人も、現実の肉体の不自由さに足を縛られ、その破滅の軌道に割り込むことは絶対に不可能だった。
その絶望の塊が歌姫へ直撃しようとした、まさにその直前。
タンッ!!
“機械的な防具を身に纏った男”
彼は重力など最初から存在しないかのように、あまりにも軽やかな身のこなしで、ユナの前へと躍り出る。
「ハッ!!」
彼の右腕が鋭い一閃を描く。
剣が完璧なタイミングで空間を切り裂き、迫り来る特大の砲弾の側面へと正確に叩きつけられた。
ガギィィィィィンッ!!
金属が激しく擦れ合うような高音が炸裂する。
彼の剣が一瞬にして砲弾の軌道を強引に捻じ曲げ、ランチャーの弾はまるで逆再生されていくように真後ろへと弾き返された。
「········ッ!?」
和人が目を見開く。
弾き返された砲弾は、たった今プレイヤー達の背後へと着地し、体勢を立て直したばかりだったガードスコーピオンの頭部へと真っ直ぐに吸い込まれていった。
ドッゴオオオオオオッ!!
今度こそ、逃げ場のない正面衝突だった。
凄まじい爆炎がガードスコーピオンの頭部装甲を木端微塵に打ち砕き、広場全体を白煙と激しい火花が包み込んでいく。
煙の向こう側で鉄の蠍が苦悶のような音を響かせる中、男は剣を静かに構え直したまま、ただ一人冷たい目でその爆炎を見つめていた。
「················」
その男の頭上。
オーグマー装着者、そしてこのオーディナル・スケールに参加していれば、そこに表示されている意味が分かるはず。
“
それはオーディナル・スケールという広大なゲームの頂点に座す者にのみ許された、絶対的な順位の表示だった。
現在この拡張現実のゲームに登録されているプレイヤーの数は、日本国内だけでも数万人、あるいは数十万人に達しているという。
その膨大な群雄が犇めくピラミッドの最上層、頂点の一歩手前に、この男は君臨しているのだ。
現実の肉体の制限に苦しみ、地面を這うことしかできなかった一般プレイヤー達にとって、その数字はもはや同じゲームを遊ぶ人間のものではないようにすら思えた。