秋葉原に構築されたステージを鮮やかに切り裂いて響き渡るのは、拡張現実の歌姫が紡ぎ出す清らかな旋律だった。
ステージの上で軽やかにステップを踏むユナの姿はいつものように可憐で、戦いに身を投じるプレイヤー達を鼓舞する純粋な応援の歌を届けている。デジタルの光を纏ったアバターの衣装が風に翻るたびに、美しく計算された光の粒子が広場へとキラキラと降り注いでいた。
だが。
その完璧に制御された笑顔の奥で、ユナの佇まいには、およそプログラムされただけのARアイドルには存在してはならないような、異様な気配が混ざり合っていた。
鋼鉄の蠍の猛威を前に、命の危険がないとはいえ必死になってライフを削り、傷つきながら逃げ惑うプレイヤー達の無様な立ち回り。
その愉快な死闘の様子を見つめながら、ユナの整った形をした唇の端が、不自然なほどに歪められていく。
それは誰もが癒されるような、可憐な微笑みなどでは決してなかった。
そこに浮かんでいたのは、まるで他者の足掻きを心の底から見下し、楽しそうに弄ぶかのような冷酷な愉悦。
「········ふふっ」
間奏中に、小さな嗤いの響きがその口から漏れ出た。
それはまるで、この後に訪れる運命への期待を隠しきれないかのような、悍ましい悪意の露呈。
歌姫の中にある『何か』が、戦場という名の歪んだ舞台を冷酷に睥睨していた。
<><><><><>
制限時間は残り一分。
そんなギリギリに降り立った一人の男。
そのプレイヤーに注目が集まるのは当然だが、こんなギリギリのタイミングで現れた理由は何なのかと誰もが思った。
皆が懸命にライフを削り、そして残り僅かになったところを狙う横取り目的のプレイヤーかとも思ったが、それにしてはどこか無欲な顔をしている。何より、クーポンとかそんな安っぽいものを求めてゲームに参加したにしては装備が整い過ぎている。
もしこれが生活の足しになるような高価な賞品を賭けた戦いであれば、他人の努力の成果を最後の最後で掠め取ろうとする卑しい執念も理解できたかもしれない。しかし誰もが周知している通り、このオーグマー専用のゲームが齎らす報酬はあまりにもささやかだ。
このオーディナル・スケールというゲームは、デスゲームだったあの世界とは違う。ここで敵にやられても命を落とす危険はなく、仮に敗北したとしても催事の景品や提携店舗のクーポン券といった恩恵に換えられるポイントを僅かばかり失うか獲得し損ねるという程度の手痛さでしかない。
広場に集まった群衆が命懸けのように見えて、その実どこかで安全な娯楽として楽しむ余地を残しているのはそのシステム上の保証があるからだった。
もちろん、現実の世界で行う以上は怪我をするリスクもあるが、それに関しては自己責任である。そこまで配慮しようにも個人の動き次第であるため、運営ができるのは精々広場や道路を一時的に封鎖して専用エリアを作ることだけだ。
要するに、命を懸けるほどの価値もなければ他人の成果を横取りしてまで固執するような大したデメリットも存在しない。
だからこそ、そんな生温い娯楽の範疇を遥かに超越した装備を纏い、凄まじい威風を放って降り立ったその男の存在はあまりにも場違いで異様だった。誰もがその謎めいた意図を測りかね、ただただ圧倒される。
しかし非情に刻まれていく制限時間の最中、今まさに皆の前に降り立った男の頭上には“二位”という数字。
鋭い光彩に縁取られたその階級の記号は、日本中にいるプレイヤーの頂点の一歩手前にいる存在であることを何よりも冷酷に示していた。
数十万人もの登録者がしのぎを削るピラミッドの最上層。
それが証明する事実────それはつまり彼がこのゲームの頂点の座に近い人間であり、この現実世界において人並み外れた身体能力を有しているという紛れもない真実だった。
システムによる姿勢制御や速度補助が一切働かないこのオーディナル・スケールでは、頼れるものは自分自身の本物の筋肉と骨格だけだ。
和人達がVR世界の感覚と現実の肉体の重さとのギャップに喘ぎ、地面の僅かな段差にすら足を取られて無様に転がっていたのは生身の人間として当然の反応だった。肺が悲鳴を上げ、関節が動きについていけずに拒否反応を示すのが、現実を生きる凡庸な人間の限界なのだ。
「ランク········二位!?」
だからこそ、その数字を見た瞬間に誰もが目を疑った。
明日奈でさえもその意味を理解し、同時に周囲のプレイヤー達も次々と声を失い、ただただ息を呑むことしかできなかった。
自分達が地球の重力にもどかしく足を縛られている中で、この男だけは完璧にこの世界の構造に適応している。
「········」
そして当の本人は淡々とゲームに参加するが、その佇まいは異様だった。
男は静かに剣を構え直し、爆煙の向こうでなお排熱の蒸気を吐き出すガードスコーピオンを見据えている。
周囲はこの時間ギリギリの乱入をラストアタック目当ての姑息なハイエナ行為だと思っているかもしれない。
(この時間ギリギリに乱入、ラストアタック目当てか?)
もちろん、和人も最初はそう思った。
だがこのゲームをやるリスクにしては見返りが安すぎる気もするし、そしてその顔をじっと見た和人は思考の奥に形容しがたい違和感を覚えていた。
(いや·······違う。あいつの目、あれは景品やポイントを求めている奴のそれじゃない·······)
和人は両手に握り締めたコントローラーの感触を確かめながらそう悟った。
あの男がこの攻略の場に身を投じたのは報酬目的などではない。目の前にいるこの規格外の鉄の怪物を確実に倒すための、純粋な攻略目的に近い。
それもただゲームの記録を更新するためではなく、現実の手では触れられないような別の『何か』を求めているかのような、執念に近い強固な意志。
ギギギギギギッ!!
二位の弾き返しによって頭部装甲を木端微塵に打ち砕かれたガードスコーピオンが、最後の排気音を響かせながら長い尾の砲口を再び激しく稼働させ始めた。
残り時間はもう残り僅か。
ポイントの損得で動く周囲のプレイヤー達が恐怖で後退する中、ランキング二位の男と初めての実戦に足を踏み入れた和人、そして剣を握り直した明日奈の視線が、同時に鉄の蠍の亀裂へと突き刺さった。
<><><><><>
周囲の空気すらも焦がすような三人の視線を受け、鋼鉄の蠍の巨体が不気味に低く震え始めた。
すでに限界を超えているのは誰の目にも明らかだった。ランチャーの重砲弾を頭部に至近距離で叩き込まれたガードスコーピオンは装甲の随所からバチバチと激しい電子の火花を撒き散らし、内部の油圧回路から漏れ出た可燃性の焦げたオイルがあちこちで赤黒い火を上げて燃え上がっている。
金属の関節が擦れ合うたびにまるで悲鳴のような不快な摩擦音が響き渡り、ライフゲージは今にも消え入りそうなほどに細く、危険信号を送る赤い光を点滅させていた。
言うまでもなく、これはただの演出なので本当に燃えているわけではない。だがそのリアルさが目の前の敵がもう限界寸前であることを告げている。
しかしこの兵器には、恐怖や痛みに怯む心も存在しない。
ただシステムに書き込まれた『眼前の敵を全て殲滅する』という冷徹なプログラムを最優先に遂行するためだけに、鉄の蠍はその残された力を強引に絞り出していた。
ギギギギギギギギッ!!
頭部の光学センサーはすでに半分近くが溶け落ちていたが、残されたレンズが怪しく点滅し、標的をただ一人の存在へと定めた。
それは周囲で立ち回っていた和人達でも、後方の銃撃班でもない。
狙いは明確だった。
外したプレイヤーの弾を剣の一振りで弾き返し、致命的な一撃を与えた張本人────ユナの前に立つ男だ。
背後でのけ反るように直立したあの巨大な鉄の尾の砲口が、怒りのように眩い純白の熱量を集束させ始める。
先程広場をモーセの海割りの如く吹き飛ばしたあの最悪のテイルレーザーの充填音が、空間を圧迫するように再び響き渡った。
熱風が前髪を激しく揺らす中、しかしその標的となった男は驚くほどに平然としていた。その端正な顔立ちには焦りも死線に臨む緊張すらも見当たらない。彼はただ静かに手首を返し、手元にある剣の柄を握り直すと周囲のプレイヤー達へ向けて、低いながらもよく通るような声を投げかけた。
「大技が来るぞ!! タンクの奴はついて来い!!」
有無を言わせぬ強気な命令だった。
言い捨てると同時に彼の体が音もなく前方へと滑り出した。
その立ち回りは信じられないほどに滑らかであった。ある意味予想通りとも言える。
二位という座にいる以上、あの身のこなしには何故か納得してしまっていた。
和人達が地球の重力にもどかしく足を縛られ、一歩を踏み出すたびに筋肉の重さに喘いでいたのとは根本から何かが違っていた。足裏がアスファルトを捉える微細な衝撃を骨格の連動だけで完璧にいなし、空気抵抗そのものを削ぎ落としたかのような異様な速度で前線へと躍り出る。
キィィィィィン。
空間が沸騰した。
次の瞬間、ガードスコーピオンの尾から一直線に引き絞られた凶悪な純白のレーザー光線が照射された。
大気を一瞬で蒸発させる熱線が射線上の全てを焦がしながら、男の体目掛けて真っ直ぐに突き進む。
直撃すれば、アバターの防具ごとライフを根刮ぎ消し飛ばされる破滅の光。
だが。
「ふっ!!」
彼はその光の槍に対し、跳んで逃げることもしなければ腕を盾にして構えて耐えることもしなかった。
ほんの数センチメートル。
迫り来る熱線の軌道を視界の隅で完璧に見極め、上体を僅かに、それこそ紙一重の角度で傾けただけ。
ヒョイ、と。
そう表現するほかないような、限界まで無駄を削ぎ落とした最小限の身のこなし。
レーザーの激しい光芒が、彼の防具の襟元を僅かに焦がしながら虚しく真後ろへと通り抜けていく。突風と熱波が男の灰色の髪を乱暴に煽ったが、彼の足取りの軸は一ミリのブレすらなく前方へと加速し続けていた。
熱線が通り抜けた直後、彼の体はさらに低い姿勢へと沈み込んだ。
ガードスコーピオンが放ったレーザーの残光がまだ大気をちりちりと震わせている中、彼は速度を落とすことなく剥き出しになった敵の懐目掛けて滑り込むように地を滑った。
アスファルトの地面を滑走する鋭いスライディング。
それは現実の肉体の摩擦や抵抗を完全に無視したかのような、あまりにも無駄のない流麗な一連の運動だった。
巨体の真下を通り抜けるまさにその一瞬、彼の右腕が容赦なく突き出された。
「ハッ!!」
鋭い気合と共に手にした剣の切っ先をガードスコーピオンの最も脆弱な部位、先程の爆発で亀裂が入り、火花が散っていた下部装甲の隙間へと正確に深々と突き刺した。
ガギィィィィィンッ!!
金属が激しく抉れる悍ましい音が蠍の腹の下で密閉された衝撃音となって周囲へと響き渡る。
彼は突き刺した刀身に全身の推進力を乗せ、そのまま力任せに横一文字へと引き裂くように一閃を加えた。装甲の継ぎ目からはまるで怪物の血液を模したかのような、大量のエフェクトの火花と黒いオイルの光彩が激しく噴き出す。
ギ、ギギギ、ギギギギギギッ!!
内部の駆動中枢を完全に切り裂かれたガードスコーピオンが狂ったような電子の悲鳴を上げ、その巨体を大きくのけ反らせた。
激しい光の粒子を撒き散らしながら、そのプレイヤーはそのまま兵器の背後へと滑らかに突き抜け、何事もなかったかのように静かに立ち上がった。
彼の衣服には汚れもなく、手元にある剣はただ淡々と次の獲物の息の根を止めるかのように冷たい光を宿したままだった。
「おぉ!! やるじゃん!!」
日本刀を構えながらも見ていることしかできなかった遼太郎は、思わず感嘆の声を漏らしていた。
それは広場にいた全員の気持ちを代弁する一言だった。
ランキング二位の座は伊達じゃないということが目の前の圧倒的な剣技によって完全に証明されたのだ。それまで鉄の蠍の理不尽な火力の前に絶望しかけていたプレイヤー達の胸に、一気に勝利への闘志が燃え上がる。
「おし!! 俺達も行くぞ!! 今度こそあいつを叩き潰すんだ!!」
「「「「「おおぉぉぉオオオオオッ!!!!」」」」」
前線の熱気が爆発すると同時に、ステージの安全な境界線の外から見守っていたゲームに参加していない大勢の観客達からも、地鳴りのような凄まじい声援が沸き起こった。
「すっげえええ!! あの二位マジで半端ないッ!」
「やれるぞ!! いけ!! 倒しちまえッ!!」
興奮は最高潮。
だからお祭りのような歓声が鉄骨の檻を揺らす中で、和人の隣にいた明日奈もまたその手に握られた細剣へともう一度鋭い光を宿らせた。
「よぉーし!! 私も!!」
凛とした叫び声と共に明日奈の体が白い閃光となって再び前線へと突っ込んでいく。その踏み込みには迷いがなく、二位の男が切り拓いたガードスコーピオンの懐の亀裂目掛けて、神速の突きを放つべく地を滑るように駆け抜けていった。
だが。
その熱狂の渦の中で、和人だけはその場から一歩も動き出そうとはしなかった。
「········ッ!!」
和人は自身の右手に握られた剣の柄を見つめたまま、ただ立ち尽くしていた。
さっき無様に転んだ際に激しく路面へ打ち付けた肩がじくじくと熱い痛みを訴えている。今はアバターの防具を身に纏ってるから分からないが、今日着てきた衣服の破れた隙間から覗く皮膚は赤く擦り剥けており、現実の肉体が発する本物の痛覚が和人の手足を鉛のように重く縛り付けていた。
(動けない········今この体で無理に飛び出しても、足手まといになるだけだ········)
頭の中には敵のハサミの腕を躱し、装甲部を正確に両断するためのアインクラッド流の剣技のイメージが完璧に保存されている。
思い出の向こうの自分なら、明日奈の後を追って今すぐにでも駆け抜けているはずだった。
けれど。
現実のこの鈍い肉体は、和人のイメージを何一つとして体現してはくれない。
今ここで自分が不用意に動けば、周囲の完璧な連携の足にブレーキをかけ、破滅を招くかもしれないという冷たい理性が和人の足を地面に縫い留めていた。
戦場で一人、ただの少年へと成り下がった恐怖ともどかしさに歯を食い縛りながら、和人は前線で火花を散らす明日奈達の背中をただ見つめることしかできなかった。
<><><><><>
オーグマーの画面の端に表示された制限時間は、三◯秒となっていた。
「ヤアッ!!」
突撃した明日奈の細剣が火花を撒き散らすガードスコーピオンの側面へと猛烈に斬りかかっていく。
その可憐な猛攻が前線に新しい光の道を拓き、連動するように遼太郎ら風林火山の面々も一斉に接近して刀を力任せに叩きつけた。
「オラァッ!! 畳み掛けろおぉッ!!」
ガギンガギンガギン!! と。
硬い装甲がどんどん剥がされていく。
四方八方からの生身の人間による容赦のない連続攻撃が、瀕死の機械の巨体を激しく滅多打ちにする。装甲部を完全に破壊されかけたガードスコーピオンは、それがシステム上の断末魔の演出であるかのように、周囲を巻き込んで自爆せんばかりの最後の足掻きとも言える苛烈な防衛行動を開始した。
キィィィィィン。
制御を失ったあの鉄の尾の砲口から、純白のテイルレーザーが見境なく放出される。
それは特定の標的を狙ったものではなく、周囲の全てを道連れにするかのように、乱雑に振り回された。
熱線の光刃が広場を円を歪めて薙ぎ払い、鋼鉄のビルが斬り裂かれて激しく爆裂し、あらゆるところから爆炎が吹き荒れる。
「ヤベ!? 一旦離れろぉッ!!」
「おわわわわっ!?」
遼太郎達が悲鳴を上げながら、迫り来る光の刃から必死の思いで後方へと退避していく。
遮蔽物のない剥き出しの戦場で巻き込まれれば、一発で退場させられる理不尽な光の嵐。
だが。
その破滅の弾幕の中へ躊躇なく突っ込んでいく影があった。
二位のプレイヤー。
彼は四方へと狂ったように振り回されるレーザーの軌道を恐るべき肉体の制御力で完璧に看破していた。
光の刃の隙間をすり抜け、ガードスコーピオンの懐へと一瞬で入り込む。
「ハッ!!」
鋭い覇気と共に放たれた彼の凄まじい斬り上げが、激しくレーザーを撒き散らしていた鉄の尾の根元へと正確に炸裂した。
ガギィィィン!! という強烈な衝突音が響き、無理やり銃口を遥か天空の暗雲へと向けさせる。そのまま熱線が虚しく天を焦がす中、男は軽やかに地面へと降り立ち、何事もなかったかのようにその場に静かに立ち尽くした。
ボスの最大の武装が完全に無力化され、装甲の継ぎ目から最後の光の粒子が血のように噴き出す。
「よぉーし!!」
繋げられた最後の一瞬の隙。
背後から駆け抜けてきた明日奈が勝負を決するラストアタックを叩き込むべく、立ち尽くす彼のすぐ横を弾丸のような速度で通り過ぎる。
最後の重要な役割を任されることで集中力が極限まで高まったのか、明日奈の視界の向こうでは世界の時間が急激に遅くなり、ゆっくりとしたスローモーションへと変貌を遂げた。
周囲の観客達の喧騒も、立ち込める爆煙の熱風も、全てが遥か彼方の底へと遠ざかっていく。現実の地面を蹴る自身の足音さえもが、水中に沈んだかのように低く籠って引き延ばされていく。
そこで。
「───
明日奈は一瞬自分の耳を疑った。
その単語を聞いた時、明日奈の全身の血の気が一瞬で引いていく感覚さえもあった。背筋を冷たい悪寒が駆け抜け、呼吸の仕方を一瞬で忘れてしまうほどの強烈な衝撃が、彼女の脳を直接殴りつけたようだった。
“スイッチ”
それはあの忌まわしいアインクラッドのデスゲームを生き延びたSAOプレイヤーであれば、誰であってもそのシステム的な意味、そして戦術的な重要性を心に刻み込んでいる特別な単語だった。
互いの命を預け合い、前衛と後衛を瞬時に入れ替えながら敵の硬直時間を執拗に攻め立てる、命を繋ぐための命令。敵に対して強力なソードスキルを使った後は数秒間身動きが取れない硬直時間が発生するため、その隙に敵から攻撃されないよう控えの仲間が前に出てカバーするための連係行動の合図。
あの血と絶望に染まった仮想世界で何百回、何千回と交わし、数々の仲間を救い、そして失ってきた、あの『思い出』の戦術。
フルダイブ環境でもないこの現実世界で、何故この男がその言葉を口にしたのか。
あの一瞬のすれ違いの間に向けられた、二位の男の氷のように冷たい声の意味は何なのか。
驚愕と戦慄。
そして得体の知れない恐怖が明日奈の思考を激しく揺るがし、今すぐにでも足を止めて真実を問い詰めたいという衝動が全身を駆け巡った。
だが、明日奈の剣士としての攻略への本能と執念が、その戸惑いを力尽くでねじ伏せた。
ここで自分が立ち止まれば、遼太郎達が繋いでくれた一瞬が、二位の彼が切り開いてくれた奇跡が無駄になる。
何より。
後方で怪我を負って自分を見つめている和人のためにも、ここで剣を止めるわけにはいかない。
「ハアァァァアアアアアアアッッッ!!!!!」
明日奈は喉が裂けんばかりの気合の咆哮と共に、スローモーションの世界を自らの意志で強引に引き裂いた。
現実の肉体が発する重さや拒絶反応を限界まで置き去りにして、残された体力を全て靴底へと叩き込み、アスファルトを鋭く踏みしめて前方へと突っ込む。
最後の一突き。
剣の先の威力を極限まで集束させ、純白の光を纏ったその細剣の刃は大気を真っ二つに切り裂いた。
そして。
ガードスコーピオンの中心、緊急事態の発生を知らせるために赤く点滅している、機械としての最大の弱点。
光学センサーのレンズを、容赦なく貫いた。
<><><><><>
明日奈の細剣が貫いた光学センサーの奥から、一瞬この世のものとは思えないほどの耳を聾するような高周波が響き渡った。
直後。
ガードスコーピオンの巨体が内側から湧き上がる莫大なエネルギーに耐えかねたように、激しくガタガタと震え出す。
装甲の随所の隙間からまるで火山が噴火する前触れのような猛烈な純白の光の粒子と、バチバチと空間を切り裂く電子の火花が四方八方へと一気に噴き出した。
ズガァァァァァンッッッ!!!!!
広場全体を真昼のように白く染め上げる大爆発と共に、鋼鉄の蠍の巨体は木端微塵に粉砕され、色鮮やかな多角形の光の破片へと還りながら散っていった。
それはオーディナル・スケールのシステムが再現した、最大級の討伐エフェクトだった。
周囲にあるドローンから凄まじい爆風を模した突風が広場に吹き荒れ、立ち込めていた黒煙や古い機械油の焦げた匂いを強引に押し流していく。それと同時に、頭上を覆っていた重苦しい暗雲や、サイバーパンク風のステージを模した歪んだ鉄骨の街並みが、まるで蜃気楼のようにサラサラと崩れ去り、いつもの退屈で平和な秋葉原の夜の景色へと静かに書き換えられていった。
視界の向こう、鮮やかなファンファーレの音と同時に『CLEAR』という巨大な光の文字が浮かび上がる。
その壮麗な演出が秋葉原の街中に溶けていった瞬間、これまでの戦いを見守っていた周囲の観客達から、鼓膜を激しく震わせるほどの凄まじい熱狂の歓声が沸き起こった。
「うおおおおおっ!! すっげええええッ!!」
「あぁ!! 完璧なラストアタックだったぜ!!」
広場の境界線の外側にいた人々が一斉に割れんばかりの拍手と歓声を広場へと降り注ぐ。
命の危険がない安全なエンターテインメントだからこそ、その熱狂はどこまでも純粋でお祭りのような騒ぎの空気が瞬く間にその場を支配していった。
誰もが今目の前で繰り広げられた最高峰のトッププレイヤー達による死闘に、興奮を隠しきれずにいた。
「よっしゃあぁぁぁぁッ!! 攻略完了だコノヤローォッ!!」
プレイヤー達の中でも、刀を構えた遼太郎が真っ先に野太い咆哮を上げ、刀を鞘に納めながら拳を天へと突き上げた。
「ナイス一撃だったぜアスナ!! 最後のはマジで痺れたぜ!」
風林火山の仲間達も次々と安堵の息を漏らし、互いの健闘を称え合って力強くハイタッチを交わしていく。
誰もがこの想定外の機械兵器を時間ギリギリで討伐できたという、その勝利の余韻に酔いしれていた。
「········」
だがトドメを刺した張本人である明日奈は、歓声と拍手が幾重にも渦巻く広場の中央でどこか落ち着かない様子で静かに周囲を見渡していた。
最高難度の機械兵器を撃破したというのに、一番活躍したはずの彼女の顔には勝利の喜びは微塵も浮かんでいない。
今の明日奈の頭の中を占めていたのは、そんな勝ったことの達成感などではなく、さっきのすれ違いざまに耳に入ってきたあの響きだった。
(どうしてあの人が········あの言葉を········?)
頭の隅で引っかかり続けている疑念を少しでも晴らしたいのか、もう一度あの男を探して明日奈は視線をあちこちへ鋭く巡らせる。
しかし、どれだけ人々の隙間や建物の陰を見渡しても、先程まで圧倒的な存在感を放っていたあの二位の男の姿はどこにも見当たらなかった。まるで初めから参加していなかったかのように、男は音もなくこの狂乱の場から掻き消えていた。
周囲のプレイヤー達が『勝った勝った!!』と無邪気に手を取り合っている中で、明日奈一人だけがかつてのデスゲームの悍ましい死の匂いが残る過去の記憶に囚われ、冷たい孤立感の中に置き去りにされているようだった。
明日奈は小さく唇を噛み、違和感に震える。
すると。
「ボスモンスター攻略、おめでとう!! ポイントサービスしておいたよ!!」
「!!」
広場を包む喧騒を、弾むような清らかな声が綺麗に塗り潰していく。
ステージの端にいた歌姫ユナの立体映像が、いつもと変わらぬ楽しそうな笑顔で両手を大きく広げていた。
その愛らしい祝福の声と同時に、今回の過酷な攻略イベントに参加していたプレイヤー全員のオーグマーが、ピロン!! と一斉に軽い通知音を奏で始める。
次の瞬間、明日奈達の視界の向こうに、今回の討伐報酬であるイベントポイントが加算されたことを告げるためのシステム画面が鮮やかに照射された。
視界を埋め尽くした半透明の画面の隅には、オーディナル・スケールのスポンサーとなってくれているいくつかの企業の一部クーポンや割引券のデジタルデータが特典として色鮮やかに添付されている。それは現代の平和な日本を生きる人々にとっては、何よりも嬉しい安全な娯楽の成果に他ならなかった。
「うおっ! ポイント多めに入ってんじゃん!!」
「クーポンもついてる! 今夜の打ち上げはこれ使って安く済ませられるな!!」
周囲のプレイヤー達が画面をスクロールしながら現金な歓声を上げる中、しかし明日奈の胸の奥にある違和感は消えない。
そんなプレイヤー達の喧騒をよそに、ユナの立体映像は、その不自然なほど美しいデジタルの視線を真っ直ぐに明日奈へと定めた。
「今回、一番頑張った人にご褒美をあげるね!!」
「「「「「「「「「「おおっ!!」」」」」」」」」」
ユナの歌姫らしい可憐な声が広場全体に響き渡る。
デジタルの光の粒子を足元からキラキラと撒き散らしながら、その虚構の身体は現実の重力を無視してふわりと宙へと浮き上がった。
そして。
そのまま真っ直ぐ、立ち尽くす明日奈の目の前へと優雅に降り立った。
「え?」
明日奈は自分のことだと思っていなかったのか、目の前に降り立ったARアイドルがこちらに近づいてきていることに気が付くと、思わず変な声を漏らしてしまっていた。
驚きのあまり言葉が喉の奥で痞え、ただ目を丸くすることしかできない。
周囲のプレイヤー達からは驚愕と、それから最大級の功労者に対する羨望が混ざり合った凄まじい歓声が上がっている。
「マジかよ、ラストアタックを決めたあの細剣の女の子か!?」
「いやまあそりゃそうだよな。あの機械に最後の一撃を叩き込んだんだから」
周囲の興奮のどよめきが熱波のように押し寄せる中、ユナは明日奈の至近距離までその可憐な顔を近づけてきた。
不自然なほど左右対称で美しいその瞳が、明日奈の困惑を全て見透かしているかのように優しく見つめてくる。
「今日のMVPはあなた!! おめでとうー!!」
ユナは歌うような声でそう告げると。
「え!?」
女性であっても、これほど端正な立体映像の顔が至近距離まで迫れば、反射的に身を硬直させてしまうのは仕方のないことだった。
明日奈はユナが何をしようとしているのか分からずさらに戸惑うも、構わずその頬に彼女の唇が触れ、
ザザッ!!
<><><><><>
「────え?」
あまりにも唐突なシステムのエラーと戸惑いの中での出来事。
視界の端々で電子の砂嵐が荒れ狂い、世界がぐにゃりと歪んでいく。
そしてほんの一瞬だけ、ノイズの向こう。
「────
ユナの声。
いや·········違う。
「────ッ!?」
秘匿回線から個人に向けて囁くような────
明日奈は息を呑み、砂嵐のように狂う画面の向こうへ、ゆっくりと顔を上げた。
「────
ノイズの隙間を縫って耳元でその不気味な“そいつ”が、明日奈の全てを嘲笑うかのようにそう囁いた。
歪んだ画面の向こう側、明日奈は確かにその目で見た。
(あ·······ああ·······ッ!!???)
その瞬間。
明日奈の頭に『あの世界』での“最悪の出来事”が────
あの全ての常識を覆すように仮想世界を大きく変えた、未知の空間での死闘。
アインクラッドのゲームマスターの肉体を乗っ取り、世界を終わらせるための隕石を呼び寄せて世界を壊そうとした、あの“片翼の天使”の悍ましい姿。
自分達の運命を掌握し、データの闇へと消え去ったはずの、絶望の元凶。
その“銀髪の男”の幻影を目にした瞬間、明日奈は喉の奥から小さな悲鳴を漏らす。
押し寄せる圧倒的な恐怖と、精神への激しい衝撃に現実の肉体の制御が完全に吹き飛び、明日奈は冷たいアスファルトの上へと無様に尻餅をついてしまっていた。
「ひっ、あ······あぁ······ッ!!」
肺の空気を力任せに搾り取られたかのように、明日奈の喉からは引き裂かれた喘鳴しか出せなかった。
目の前で歪む電子のノイズ。
その砂嵐の隙間から明日奈の視界に直接突き刺さってきたのは、とてもこの世界の生物とは思えない、縦一文字に細く裂けた猫のような怪しく冷たく輝く緑色の瞳だった。
光を反射させるためだけの水晶の如く冷酷極まりないその眼差し。
そこには、ただ目の前の生命が絶望に狂う姿を最上級の娯楽として眺め回す、愉快さに満ちた悪意だけが広がっている。
その氷のような眼光を正面から見てしまった瞬間、明日奈の全身の細胞が恐怖で一斉に命の危機を感じ、骨の芯までが瞬時に凍りついた。現実の肉体が発する異常な反応が、容赦なく彼女の生存本能を侵食していく。
「が、はっ······あ、あ············っ!!」
歯の根がガタガタと激しく衝突し、息すらも止まってしまいそうになる。
全身の筋肉が過剰な緊張でカチカチに硬直したかと思えば、次の瞬間には嫌な汗が噴き出し、指先の一本一本がまるで深刻な痙攣を起こしたかのように異様に震え始めた。あまりの恐怖に心臓が不気味な脈動を刻み、頭の中が割れそうなほどの衝撃が明日奈の全身を締め上げる。
思い出の奥に封じ込めていたはずの怪物。
その絶望の残像が、今この現実の東京の、そしてオーグマーという薄っぺらい機械から視界へと照射される画面を通じて、自分を再びあの地獄へと引き摺り込もうとしている。
アスファルトを爪が剥がれるほどの勢いで掻きむしりながら明日奈はただガタガタと激しく震え、その人外の眼差しから逃れるようにして、必死に後ろへと這いずることしかできなかった。
「────ナ」
「はぁ·········はぁ·········ッ!!」
「────スナ」
「は·········は·········ッッッ!!!!!」
「アスナッ!!」
「ッ!?」
その声。
その声を聞いてようやく、明日奈は正気を取り戻した。
「アスナ!? 大丈夫かッ!?」
「き·········キリ、ト·········君?」
和人の必死な呼びかけが鼓膜を震わせ、明日奈は辛うじて現実に意識を留める。
いつの間にか和人がアスファルトに膝をつき、必死の形相で自分の肩を両手でしっかりと支えてくれていた。
その手の確かな温もりと衣服を通じて伝わる彼の鼓動だけが、今自分がいる場所が血の匂いに満ちたあの仮想世界ではなく、現実の日本なのだと辛うじて証明している。
「はっ·········はぁ·········っ」
冷や汗で濡れた前髪の隙間から明日奈は怯えを隠せないまま、恐る恐る周囲へと目を向ける。
「なんだ? どうしたんだ急に?」
「調子悪いのか? 救急車とか呼んだ方が·········」
「ユナにキスされておいて何だあの反応?」
「あまり言ってやるな·········多分疲れてんだろ」
「にしておかしくね? 急にあんな過呼吸になるとか」
広場を満たしていたはずの歓声は、いつの間にか奇妙な静寂へと変貌を遂げていた。
境界線の外側にいた大勢の観客も、先程まで勝利を称え合っていた遼太郎達プレイヤーも、一斉にこちらへと視線を注いでいる。
突如として勝利の栄誉を投げ打ち、微かな悲鳴を上げて地面を這いずり回った少女の異常な挙動。
その突然の崩壊に対し、事情を知らない周囲の人々はただ事ではないと心配そうに眉を顰める者から、ゲームの演出に過剰に怯えたのではないかと不審な目で凝視する者まで、戸惑いの混ざった視線を容赦なくぶつけていた。
現代の平和な都市において、明日奈一人だけが完全に浮き彫りになって取り残されている。
「あ·········」
明日奈は息を呑み、さっきまであの恐るべき人外の眼光が自分を射抜いていたその場所へと、ゆっくりと視線を戻す。
そこにはもう銀髪の影も、あの不気味な囁きも存在しなかった。
「えっと··········大丈夫?」
「··········ッ!!」
砂嵐のノイズは綺麗に消失しており、代わりに佇んでいたのは困惑したように小首を傾げている歌姫のユナだった。
デジタルの光を纏ったARアイドルは、プログラムされた通りの愛らしい仕草のまま明日奈の異変をただ静かに見つめている。さっきまでの世界を滅ぼさんとするような愉快さに満ちた悪意の気配など微塵も感じられない。
「う、うん··········大丈夫」
明日奈は額から流れる冷や汗を拭うこともできず、引き攣りそうになる頬を必死に動かして、痛々しいほどの笑みを作りながらホログラムのユナへとそう答えた。
恐怖で震える喉の奥を強引に押し潰し、絞り出すようにして紡いだその声には、現実の悲鳴を覆い隠すための虚勢が痛いほどに詰まっている。
和人の腕の中で未だに全身の細胞が命の危機を訴えて痙攣を繰り返しているというのに、これ以上この平和な街の群衆に不審な目を向けられるわけにはいかないという一心だけが、彼女にその偽りの安堵を演じさせていた。
そんな明日奈の必死の応答を、オーグマーのシステムはただの音声認識データとして処理していく。
「そ·······良かった!!」
明日奈の尋常ではない怯えの表情など最初から見ていないかのように、ユナの立体像は再びプログラム通りの満面の笑みを咲かせた。
歌姫としての可憐な役割に戻った彼女は、そのまま広場の四方を取り囲む大勢の観客やプレイヤー達へと向き直り、胸元で両手を大きく小刻みに振り返した。
「じゃ!! またねみんな!!」
そんな誰もが癒されるような清らかな声を秋葉原の夜風に響かせると同時に、ユナの身体を構成していたデジタルの光の粒子が、天へと向かって鮮やかに消えていく。
何事もなかったかのように静かに虚空へと溶けていくその消滅のエフェクトは、まさにこの大規模な討伐イベントが幕を閉じたことを告げるための合図に過ぎなかった。
「·······」
歌姫が消え去った広場にはいつもの退屈で静かな現実だけが静かに戻りつつあったが、明日奈は未だに表情を暗くさせている。
最後の一突きを叩き込んだはずの明日奈の胸の奥に残された、あの記憶から蘇ってきた怪物が齎した戦慄だけは、どれだけ周囲の熱気が引いていこうとも決して消えることはなかった。
「·······本当に大丈夫か、アスナ?」
「··············うん、大丈夫」
明日奈はなおも仮初めの笑顔を貼り付け、安心させるように和人に微笑んで見せたが、和人は気付いていた。
その細い肩が衣服越しにもはっきりと伝わるほど異様に震え、まるで冷たい海の底に放り込まれたかのように生気を失い、そして顔面蒼白になっている彼女の様子。
明日奈は心配をかけないように必死に隠そうとしたが、彼女の指先の震えはどれだけ力を込めても止まらなかった。