二◯二六年四月二四日。
アルヴヘイム・オンラインの広大な世界に佇む新生アインクラッド第二二層のログハウスでは、あの激しい死闘の舞台となった秋葉原の喧騒から逃れるようにして、キリト達はいつもの見慣れたメンバーと共に居間へ集まっていた。
窓の外に広がる静かな夜の森とは対照的に、暖炉の灯りに照らされた室内は、あの討伐イベントの余韻を語り合う仲間達の興奮と困惑が入り混じった声でせわしなく満たされている。
「にしてもよぉ、あれ何のゲームの敵だったんだろうな? 俺はてっきり噂通りSAOのボスが出てくるって思ってたのにさ」
ソファに深く腰掛けたクラインが大袈裟に首を回しながら、心底不思議そうにそう呟いた。
その言葉を皮切りに、居間に集まった仲間達の間で、あの時現れた奇妙な機械兵器に関する議論が一斉に沸き起こる。
「ネット掲示板でも結構騒がれてるが、誰もあの敵については知らないらしいぞ。SAOどころか、他のゲームでも見たことがないってさ」
エギルは仕事の都合上現場には行けなかったが、情報収集に関しては抜かりがないようで、腕を組みながら重々しく首を横に振った。
アインクラッド全一◯◯層に生息していたエネミーのデータを隅々まで把握しているSAOサバイバー達の情報網や、他のゲームの攻略サイトのログを以てしても、あの鉄の蠍に合致する記録はどこにも存在しないという。
ということは、つまり。
「じゃあオーディナル・スケールオリジナルの敵ってこと? まあSAOのボスどころか他のゲームの敵が現れること自体がおかしいし、そもそも噂程度のものだったわけだしね。運営も場所の告知だけで何かのゲームのコラボとかそういう他のアナウンスも一切なかったけど、それにしても初見の敵相手によく勝てたわね」
暖炉の熱に顔を火照らせながら、リズベットが感嘆と呆れを半分ずつ混ぜたような声を上げた。
そもそもの話だが、事前の広報活動もなしにこれほど大規模な戦闘イベントを突発的に発生させ、しかも完全新規のエネミーを投入してくるなど、現在のゲーム運営の常識からすればおよそ考えられない理不尽な仕様である。
大抵の場合、こういう集団で攻略するゲームのレイドイベントでは、事前に『こういうボスが現れる』という告知がされるものだ。ARだからと言って、運営がプレイヤーの動向を無視してゲリラ的に新種の兵器を投下するなど、通常であれば大きな不具合を疑われても仕方のない暴挙に他ならなかった。
「オリジナルの敵だったら攻略法も何もないですもんね。しかも周りは集団戦経験者がそこまでいなかったんですよね?」
「あぁ。あそこに集まっていたのは、大半が流行に乗っただけの新規プレイヤーだった。銃を構える銃撃班が多かったのも、多分敵の前に立つ恐怖があるからだろうな。どんな奴が相手でも、慣れていれば剣一本で向かっていける俺達とは感覚が違う。だから前線が機能しなくて大苦戦だったよ」
キリトの淡々とした、しかし核心を突いた分析に皆が一瞬言葉を失った。
銃を構えることでしか敵との距離を保てない一般のプレイヤーと、かつて死と隣り合わせの地獄で剣一本を頼りに敵へと挑み続けた自分達。
フルダイブ環境のシステム的な補助すら失われた現実世界において、その『感覚の違い』がどれほど残酷な実力差として現れるか、彼らは身を以て知っている。
「なるほどね·········まぁ、生身の体であんな未知のバケモノ共の前に立てって言われても、普通の人は怖くて動けないのが当たり前か」
「それだけじゃなくて、現実の身体能力も関係してるだろうな。たとえ怖くないとしても、人外相手にうまく立ち回るのは難しい」
リズベットは小さくため息をつきながら呟き、エギルは現代社会の人間達にとって足枷となっている部分を考察しながら言葉を重ねた。
ある意味、自分達は恵まれているのだと自覚した。
死と隣り合わせのデスゲームを生き延びたからこそ、彼らには人外が目の前に現れてもそう簡単には怯まない勇気が備えられ、そして戦うためのシステムによる完璧な姿勢制御や速度補助すらも、あの場所で過ごしたフルダイブ環境の恩恵が前提にあったことは否定できない。
しかし。
この現実世界で行われるオーディナル・スケールにおいては、頼れるものはアバターの電子データなどではなく、自分自身の本物の筋肉と骨格、そして磨き上げてきた生身の反射神経だけなのだ。
どれほど頭の中に鮮烈なソードスキルのイメージを描き、敵の攻撃を躱す軌道を理解していたとしても、それを体現するための現実の体がついていかなければ、あの圧倒的な質量と速度で迫り来る猛威の前ではまともな一歩を踏み出すことすら叶わない。
地球の重力にもどかしく足を縛られ、僅かな段差や路面の摩擦に喘ぎながら肺が悲鳴を上げ、関節が動きについていけずに拒否反応を示す。
それこそが、システムによる補正を一切剥ぎ取られた生身の人間が直面する、『限界』という名の残酷な真実に他ならなかった。
あの秋葉原の広場にいた大半の新規プレイヤー達が敵の放つ威圧感と自身の肉体の不自由さに足を竦ませ、ただ後方へと退避して武器を構えることしかできなかったのも、ある意味では生存本能に従った当然の反応だったと言える。
だが。
そんな平和な現代を生きる凡庸なプレイヤー達の限界を、圧倒的な身体能力だけで超越してみせた、あの“ランキング二位の男”の異質さ。
二位の座に就いてるのも納得だった。
動きがまともじゃない。
少なくとも、人間が動ける限界を超えている。
だからこそ、劣等感を抱いてしまいそうだった。
「キリトの奴バテバテだったんだぜ。走る勢いは良かったのに、途中で派手に転んでさ!!」
「·········AR戦闘に慣れてないだけだよ」
クラインが揶揄うようにそう言うと、キリトは珍しく落ち込むように俯いて言葉を詰まらせてしまった。
実際には慣れ不慣れという技術的な問題ではないことを、彼自身が誰よりも痛感している。
頭の中にあるアインクラッドでの戦闘経験は今も鮮明なままだ。
けれど、どれほど全神経を研ぎ澄まして全盛期の動きを再現しようとしても、それを具現化するための現実の筋肉やスタミナ、何より日頃の運動不足で鈍りきった生身の肉体がイメージの速度に全くついていってくれない。
ただゲームばかりを繰り返して現実の体力を鍛えることを怠ってきたツケが、あの極限の戦場で無残な形となって跳ね返ってきた。
その決定的な敗北感を突きつけられながらも、かつて黒の剣士として前線を駆け抜けたプライドが邪魔をして、自分の肉体的な衰えを素直に認めることだけはしたくなかった。
だからこそ、キリトは居心地の悪さに視線を斜め下へと落とし、苦し紛れの言い訳を呟くことしかできなかったのだ。
「あぁ、でも········」
しかしそこでキリトは痛いところを突かれた気まずさから逃れるように、ふっと顔を上げて強引に話題を切り替えた。
「あのユナって子が応援に来てくれてさ。最後にはご褒美で········」
「「えぇぇぇえええええッ!!???」」
その言葉が耳に入った瞬間、それまで和気藹々としていた女性陣の態度が一変した。
特に敏感に反応したのはリーファとシリカだった。
勢いよく立ち上がった二人の目が、驚愕と追及の色を帯びてキリトに突き刺さる。
「お、お兄ちゃん!? ユナとボス戦やったのッ!?」
「ホントですかッ!?」
「あ、あぁ········まぁ、な」
二人共至近距離まで近付いてきて、流石のキリトも予想以上の反応にたじろぎながらもそう肯定するしかなく、ポリポリと頬を掻きながらさらに居心地の悪そうに視線を泳がせてしまう。
まさかただの話題反らしのつもりで口にしたアイドルの名前が、これほどの爆弾になるとは夢にも思っていなかったのだ。
だが、理解はできる。
ユナは今話題のARアイドル、そんな彼女が普通に現れたと聞いたら色めき立つのは必然だった。
キリトが詰め寄られる様子をどこか他人事のように眺めていたクラインだったが、今度は自分が主役だと言わんばかりに胸を張り、秋葉原での戦果を自慢するようにニカッと笑った。
「生で見られて満足だったぜ········俺、ライブのチケット応募しそびれちまってよぉ」
秋葉原のステージで軽やかに歌い踊り、自分達の目の前で眩いデジタルの光を放っていたあの可憐な歌姫の姿。
ライブの抽選には外れて落ち込んでいたものの、まさかあんな間近で彼女のパフォーマンスを拝めるとは思ってもみなかったという幸運を、クラインは言葉の端々に興奮を滲ませながら語る。
しかしここで、それを上回る自慢話が居間の空気をさらに加熱させることになった。
「あ。あたしOSの登録キャンペーンでペアチケット当たったよ?」
「え········?」
クラインの隣に腰掛けていたシノンがその愛らしい猫耳をぴくりと動かし、大したこともなさそうに平然と言い放った。
あまりにも唐突に目の前で明かされた次元の違う幸運の報せに、クラインは思考が停止する。
自分がどれほど血眼になって恋い焦がれ、そして応募すら逃してしまったライブチケットを、目の前の少女が事も無げに引き当てていたのだ。
「それなら俺も当たったぞ」
「!?」
そんなクラインを他所に、紅茶のおかわりを楽しんでいたエギルまで悠然とそう呟いた。
二度目の衝撃的な事実、そこでクラインは完全に言葉を失った。
数万を超える登録者達が抽選という名の争奪戦を繰り広げ、自分は応募の機会すら逃して手に入らなかったというのに、そのチケットを二人も手にしているという驚きの事実。
「········ッ!?」
そして、その空間に満ちた凄まじい幸運の連鎖の影で、もう一人の少女が絶望の淵へと叩き落とされていた。
キリトに問い詰めていたリーファが突如として与えられたあまりの不公平さに、ガタッとその華奢な肩を震わせる。
お兄ちゃん達がボス戦を共にして、そこでユナから特別な『ご褒美』を貰った。
その事実だけでも胸の奥がざわついて仕方がなかったというのに、あろうことか目の前の二人はその歌姫のプレミアムなライブチケットを当然のように引き当てているのだ。
自分はキリト達の戦いにも、そして世界中が熱狂するライブへの招待券すら当たっていないというのに。
その残酷な現実が、彼女の心を容赦なく嫉妬と苦悩で蝕んでいく。
チケットの格差が齎したあまりにも無慈悲な現実にクラインとリーファの二人は正気など保っていられないといった様子であり、そしてどうしようもないことへの叫びがログハウスの壁を文字通り粉砕せんばかりの勢いで同時に響き渡った。
「「うそぉぉぉオオオオオッッッ!!!!!????」」
驚愕と羨望。
二つの感情が渦巻いて限界を超えた二人の叫び声は、それまで居間を包んでいた穏やかな空気を一瞬にして狂乱の渦へと引き摺り込んでいった。
あまりの音量と鼓膜を震わせる凄まじい風圧に、リズベットとシリカは思わず両手で自身の耳を塞ぎながら小さく身を竦める。そして嫉妬と羨望に苦しんでる当の本人達は、まるでこの世の終わりでも迎えたかのように天を仰いで身悶えを繰り返していた。
だがどれほど凄まじい怨嗟の咆哮をぶつけられようとも、紅茶のカップを手にしているスキンヘッドのエギルは姿勢を崩さなかった。
というか、大の大人が子供のように泣きついてくる展開を一秒でも早く終わらせたかった。
クラインが馴れ馴れしく腕にしがみついてきて、エギルは半分鬱陶しそうに、
「あーあー分かったよ!! ったく、一枚はお前にやるよ!!」
「マジで!!?」
地獄から一転して天国へと引き揚げられたかのような、あまりにも現金な叫び声を上げたクラインの顔が一瞬にして歓喜の輝きに染まった。
一緒に戦ってきた仲間としての絆すら壊してしまいそうな恨みを抱えた表情はどこへやら、ライブへ行く権利が得られることを約束された瞬間、今度は子供のように破顔して拳を天へと突き上げている。
そんなクラインのあまりにも極端な一喜一憂を見守っていたシノンも呆れたように小さく肩を竦めると、自分の隣で今もなお指を咥えて見ているリーファへと視線を向けた。
「あたしもリーファにあげるね」
「!!」
ぱあぁっ!! と。
その効果音が物理的に響き渡りそうなほどの速度で、リーファの表情が鮮やかな歓喜へと塗り替えられていく。喉から手が出るほど欲しかった最上級の贈り物を、何でもない日常の挨拶のようにシノンが差し出してくれたのだ。
そんなことをされてしまっては思わず抱きつきたくなるではないか。
「やったぁぁぁあああ!! ありがとシノンさぁぁぁあああんッ!!」
「きゃっ!?」
喜びが限界を超えたリーファは弾かれたような勢いでシノンに向けてがばっと飛びかかった。不意を突かれたシノンは胸元へと飛び込んできたリーファの勢いに思わず小さく可愛い悲鳴を漏らしながらも、彼女の歓喜に満ちた笑顔を見て優しく受け止める。
がっしりとシノンに抱きつき、まるでこの世の全てでも手に入れたかのように上機嫌になってるリーファの姿をキリト達は微笑ましそうに眺めていた。
·······だがしかし。
現実はそう甘くはなかったのだ。
「あ·······しまった·······」
「え?」
シノンに抱きついたまま、突如としてリーファの身体が硬直した。
その口元から漏れ出たあまりにも不穏な呟きに、がっしりと受け止めていたシノンが不思議そうにその愛らしい猫耳をぴくりと動かして小首を傾げる。
さっきまでの世界を手に入れたかのような輝く笑顔は消え去り、リーファの顔は一瞬にして血の気が引いたように青ざめていった。
ある決定的な事実が脳裏を過り、せっかく手に入るはずだったチケットがまるで幻想へと変わってしまったかのようにその瞳が絶望に染まっていく。
「私·······来週剣道部の合宿があったんだ·······」
今度こそこの世の終わりを迎えたかのような表情で、リーファはがっくりと首を落とした。
現実というのはやはり無慈悲で残酷、そして空気を読まない。
そのあまりにも絵に描いたような悲喜劇的なオチに、キリト達は我慢しきれないといった風な笑い声を一斉に上げる。
「「「「「はははははははは!!!!!」」」」」
暖炉の薪がパチパチと心地よく爆ぜる音を掻き消すようにして、仲間達の屈託のない笑顔が包み込んでいく。
現実世界のほんの些細な不運を全員で笑い合えるその時間は、かつてのデスゲームの記憶など微塵も感じさせない、穏やかな現代の平和そのものだった。
「··············」
ただ、その中で一人だけ。
笑顔と歓声が忙しなく交錯する賑やかな空間で、時が止まったかのように凍りついている者がいた。
あの時、ユナからのご褒美を受け取った彼女の視線は、誰もいない虚空を微動だにせず見つめ続けている。
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「それにしてもユナが来てくれるなんてねぇ。それ知ったら今後も参加者増えるんじゃない?」
リズベットは感心したような、あるいは今後の混雑を予期して少し呆れたような声を上げた。
話題の拡張現実アイドルの歌声を間近で聴くことができるだけでなく、運が良ければ特別な演出にまで立ち会えるのだ。そんな破格のファンサービスがゲリラ的に発生したと世間に知れ渡れば、ただの攻略目的のプレイヤーに留まらず、彼女を一目見ようとする数万、数十万の観客が次のステージへと殺到することは目に見えていた。
その言葉に、それまで学校の予定や場所の都合上行けずに悔しがっていたリーファとシリカが、同意するように手を挙げる。
「ホント、ユナと一緒に戦えるのなら私も参加したいです!!」
「私も!!」
声を揃えて手を挙げた二人の表情には、一刻も早く華やかな戦場へ飛び込みたいという純粋な憧れがこれ以上ないほどに満ちていた。
ただ、興奮気味に身を乗り出しながらも、リーファには剣道部の合宿という現実のスケジュールが重くのしかかっている。 どれほど気持ちが昂ぶろうとも、実際にオーグマーを起動して前線へ赴くことができるのは、来週の厳しい練習日程を全て消化し、現実の自宅へと帰還してからのことになるのはどうしようもない事実だった。
対するシリカが今回行けなかったのは、時間帯と開催場所の距離という、純粋に物理的な不都合が原因だった。
突発的な通知に対応できるだけの迅速な移動手段さえ確保できていたなら今回の戦いにも、そしてファンサービス満載の歌姫のステージにも最初から参加することができていたはずなのだ。
「そして今度こそキリトさんのバイクのうしろに··········」
そんな口惜しさが思考の端を掠めたからこそ、彼女は微かに頬を朱に染めて独り言のように呟きを漏らした。
かつて窮地を救ってくれた少年の後ろに乗るという贅沢を思い浮かべ、送り迎えしてもらえるような都合のいい奇跡を願う少女らしい甘えと期待がその小さな声には宿っている。
「··········」
そこで。
シリカと同じ種族であり、優れた聴覚を備えたシノンがその愛らしい猫耳をぴくりと動かして彼女の方を向いた。その瞳には敵対心や怒りなどなく、ただ同じ少女としての微笑ましさと、どこか遠い異世界を羨むような深い寂しさを孕んだ静かな眼差しが宿っていた。
シリカの想いはよくわかる、憧れの人の背中に抱きつきたいという気持ちはシノンにだってある。
だからこそ、シリカの純粋な恋の囁きを耳にした瞬間、彼女の胸の奥にある、誰にも明かしたことのない秘められた憧憬が静かに波立ってしまったのだ。
(·········“アイツ”の、後ろ·········)
シノンの脳裏を過ったのは、この世界には存在しない、“赤黒いマントを翻して銃を構える寡黙な男”の背中だった。
決して交わることのないその姿を思い、自分もあんな風に、誰にも言えない特別な想いを抱いて誰かの背中を追いかけてみたいという、切ない感傷。
そんな自身の少女らしい心の揺らぎを隠すように、シノンはただ優しく目を細めてシリカを見つめ返すことしかできなかった。
ある意味、羨ましいと思ったのかもしれない。
シリカの場合はちゃんと手が届く場所にあり、しかし自分はどれだけ想っても、決してその気持ちが届くことがないのだから。
そんな少女達の間で流れる微かな緊張感を払拭するように、リズベットは自身のショートヘアの毛先を弄びながら言葉を吐き出した。
「できればもう少し参加しやすい時間のイベントにしてくれないかしらねぇ」
髪の毛先に指を絡めながら、リズベットは学生としての日常や世間の生活リズムを一切考慮しない運営のゲリラ的な方針に対して、呆れたような言葉を吐き出した。
開催される時間帯は、そもそも学生を配慮したものではなかった。
現実の各種施設における補導基準を鑑みても、カラオケやゲームセンター、ボウリング場、ネットカフェ、映画館などは各自治体の青少年健全育成条例により二二時以降、一八歳未満の入場や滞在が厳しく禁止されている。通常であれば二一時半頃から店内でアナウンスが流れ始め、一斉に退店を促されるのが当たり前の時間なのだ。
ましてや、オーディナル・スケールは街そのものをステージにする拡張現実のゲームである。
深夜に端末を起動してあのような広場を彷徨いていれば、それだけで付近の警察官による夜間補導の対象となり、保護者への連絡や指導が行われるのは免れない。命の危険こそないものの、現実の法や社会規範というフルダイブ環境には存在しなかった固有の足枷が、一八歳未満のプレイヤー達の前に重く横たわっているのは明白だった。
「あ、それならよ」
未成年故の法的な縛りや夜間の移動制限という、現実の壁に頭を悩ませる少女達の会話を、対面のソファからじっと聞いていた男がいた。すでに成人し、現実世界で運転免許も移動手段も有している彼にとって、その社会的な足枷はあってないようなものである。
クラインは今こそ大人の余裕と頼れる年長者としての甲斐性を見せる絶好の機会だと確信したのだろう。
ニカッと白い歯を覗かせ、ここぞとばかりに自信満々な様子で身を乗り出してきた。
「いつでもどこでも行けるように俺達風林火山が車出してっから、送迎くらいしてやるよ。大人である俺達と一緒にいりゃ補導もされねぇだろ?」
かつてのギルドメンバー達と現実の車両を融通し合い、夜道を歩く女の子達を安全に送り届けるという彼なりの純粋な善意と男気からの提案だった。
確かに成人の保護者が同伴していれば、警察官に呼び止められたとしても事件性がなければ夜間補導の対象からは外れる可能性が高い。しかしそれを聞いた瞬間、女性陣から返ってきたのは、クラインが脳内で描いていたであろう感謝や羨望の眼差しではなかった。
「何ソレ、そっちのが心配じゃない·········」
リズベットの容赦のない、心底呆れ果てたようなツッコミが炸裂する。
いくら大人が一緒で補導が避けられるからといって、むさ苦しい男だらけの車内に未成年の女子が少数で乗り込むなど、客観的に見れば補導されること以上に防犯上のリスクや世間体の悪さが際立ってしまう。
親切心であることは理解できても、そのあまりにも配慮に欠けた男所帯のノリそのものが余計に危なっかしく、夜道で車に乗せてもらうなど到底信用に値しないと一瞬で却下されてしまったのだ。
「えぇっ!? そんなぁ·········!!」
良かれと思って出した大人の特権を無惨に踏みにじられ、またもや項垂れるクラインの無様な姿に、キリト達は再び盛大な溜息と哀れみに満ちた冷ややかな視線を注ぐ。
「いや、クライン·········こればっかりは流石にデリカシーがなさすぎるだろ」
「そうですよ! むしろ事件性を疑われて風林火山ごと一網打尽に職質される未来しか見えません!!」
キリトの呆れ顔に続き、シリカからも容赦のない正論が飛んでくる。
ネットゲームの世界では頼れる兄貴分であり、数々の死線を共に潜り抜けたギルド『風林火山』のリーダー。
その男気と純粋な善意だけは本物なのだが、現実世界の、しかも年頃の少女達に対する防犯意識としてはあまりにも致命的だったと言わざるを得ない。
「俺の心のオアシスはユナちゃんだけだぜ········さらば現実········」
容赦のない少女達の洗礼に脆くも打ちのめされ、クラインは涙を拭うような大袈裟な動作を交えながら、情けなくそう呻いた。
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そんな賑やかな一幕を最後に、今夜の集まりもいよいよお開きの時間を迎えることとなった。
次またゲリラ的なレイドイベントの開催告知がシステムから配信された際には、まずは全員のグループチャットに情報を集約して相談し合うこと。そして、その時点で現実世界の時間帯や場所に都合がつく人だけが、無理のない範囲で現地の出現ポイントへと駆けつける。
かつてのように全員で義務的に前線を維持するのではなく、あくまで安全な現代のライフスタイルに合わせた、緩やかな協力体制を敷くという形に落ち着いたのだ。
方針が決まったことで、一同はそれぞれのメニューウィンドウを開き、次々とログアウトの操作を行っていく。
一人、また一人と淡い光の粒子に包まれてログハウスの居間から姿を消していき、さっきまでの耳を劈くような大爆笑の残響は夜の森の静けさの中へと静かに溶けていく。
「················」
静寂に染まった空間。
そこでもまだ静かに黙っている者が一人いた。
「じゃあ、アスナ。また明日、あっちで─────」
キリトは痛いところを突かれて落ち込んでいた気まずさをようやく振り払い、いつもの軽い口調で別れの言葉を告げようと彼女の方へ視線を向けた。
その手をウィンドウのログアウトボタンへと伸ばしかけた、まさにその直前の出来事だった。
「待って··········キリト君」
遮るようにして彼を呼び止めたアスナの声は、いつもの穏やかな響きとは決定的に異なっていた。
暖炉の残火がパチパチと爆ぜるだけの静まり返った室内で、その言葉はまるで硬く凍りついた氷の針を喉の奥から絞り出したかのように細く、それでいて切実な緊迫感を孕んで響き渡った。
「何だアスナ··········?」
キリトは差し出しかけた言葉を呑み込み、空中でログアウトボタンへ向けられていた指先をピタリと静止させた。
ただ事ではないその声に、かつて数々の修羅場を潜り抜けてきた剣士としての鋭い直感が瞬時に反応する。
クラインが秋葉原の戦果を自慢げに語っていた時も、リーファ達がチケットの話題で色めき立っていた時も、彼女がずっと不自然なほどに口数を減らし、微動だにせず虚空を見つめ続けていたその異様さ。
それが単なるゲームの疲れや運動不足による疲弊などではなく、何かもっと根深い悍ましいものに彼女の魂が囚われていることに、キリトもまた胸の奥をじわじわと侵食するような不穏な予感を覚えていたのだ。
「パパ、ママ··········?」
空中を器用に浮遊するユイもまた、二人の間に突如として張り詰められた目に見えない糸のような緊張感を察知したのか、その小さな半透明の翅を僅かに揺らし、不安げに二人の顔を見つめている。
キリトは静かにメニューウィンドウを閉じると、自身の乗る椅子の向きを彼女の方へと真っ直ぐに向け直した。
静寂が支配するログハウスの中で、二人の視線が真っ向から交錯する。
アスナは膝の上で自身の指先が白くなるほど強く握り締めていた。
そのアバターの肩は微かに震えており、先程まで仲間達が紡いでいた現代の平穏を、完全に拒絶するかのような冷たい汗が彼女の額を伝う。吐かれる息は僅かに荒く、先程までこの部屋を満たしていた賑やかな団欒の余韻にどうしても馴染めないかのように、じっと床の一点を見つめている。
「どうしたんだアスナ? さっきからずっと黙ってて··········?」
「··············」
キリトはただならぬ気配を察し、椅子の背もたれから身体を起こすと、膝の上の指先を固く強張らせたまま微動だにしないアスナのすぐ側へとゆっくりと近づいていく。
彼女の横にそっと身を寄せ、その強張った手を自身の両手で下からそっと掬い上げるようにして優しく包み込んだ。
肌を伝うアバターの感触。
しかし手のひらを通じて伝わってきたのは、彼女の全身が内側から激しく軋んでいるかのような、尋常ではない微細な振動だった。
「アスナ·········?」
キリトは床へ向けられたままの彼女の視線を捉えるため、そのまま静かにその場に膝をついた。
下から覗き込むようにして彼女の表情を確かめようとした瞬間、その視界に映し出された彼女の顔色にキリトは息を呑んだ。
暖かい橙色の暖炉の光に照らされているはずの彼女の肌は、まるで全ての血の気が引いてしまったかのように白く、痛々しいほど蒼白に染まっていたのだ。その瞳は恐怖の残像に染まったような色を帯びており、今なお何かの脅威に怯えているのは一目瞭然だった。
アスナは何かを語ろうと、その青ざめた唇を微かに震わせる。
だがその原因である存在の、あまりにも悍ましい『その存在』を言葉にすることすら、今の彼女の生存本能が激しく拒んでいた。
その名前を頭に思い浮かべ、言葉として空間に吐き出すこと自体が、再びあの絶望のデスゲームへと自分を引き摺り戻す引き金になるのではないかと恐れているのだ。
それでも。
自分の中に澱みのように溜まっていくこの悍ましい戦慄を、目の前の戦友であり、最愛の少年にだけは、どうしても打ち明けなければならないという強い使命感が彼女の胸を突き動かしていた。
「キリト君、私あの時··········見ちゃったの」
ようやく喉の奥から絞り出された、今にも消え入りそうな細い呟き。
「? 何を?」
キリトがその手を握る力を少しだけ強めながら、静かに問い返す。
アスナはそこで再び言葉を詰まらせてしまった。
何度も、何度も、瞳に焼き付いたあの最凶の悪夢を説明しようと口を開きかけるのだが、そのたびに胸を突く激しい拒否反応に襲われ、言葉にならないままきつく唇を結んでしまう。語らなければならないという焦燥と思い出すことへの根源的な恐怖が彼女の内側で幾度も衝突し、呼吸の乱れとなって彼女の胸元を忙しなく上下させていた。
だが、ふと視線を上げた瞬間、下から自分をじっと見つめているキリトの、あの数々の修羅場を共に戦い抜いてきた黒い瞳が飛び込んできた。
どんな窮地にあっても決して諦めず、自分を守り、世界を切り開いてくれたその確かな眼差し。
彼の瞳の奥にある揺るぎない強さと温もりに触れたことで、アスナの心を支配していた冷たい霧がほんの少しだけ払拭され、張り詰めていた強張りが微かに和らいでいく。
その僅かに生まれた心の隙間に、彼女は残る全ての勇気を振り絞るようにして、一気に言葉を解き放った。
「あの子、ユナちゃんが私の頬にキスしてきた時·········」
そこでアスナは言葉を区切り、空気を張り詰めさせるような一拍の沈黙を置いた。
暖炉の薪がパチッと小さく爆ぜ、ログハウスの室内が異様なまでの緊張感に包まれる中、アスナはキリトの目をじっと見据えたまま、その最大の禁忌を告げた。
「あの旧SAOの七五層のボス部屋に現れた········“銀髪の男”の姿を」
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今いる場所は結構暑い。
まあそもそも太陽の楽園と呼ばれるリゾート地なのだから当然だし、それがなくなったらリゾート要素が崩壊してしまう。
観光客にビジネスマン、どこを見渡してもほとんどの人達の首には花の首飾りがある。
皆が休暇を満喫するためだけに集う、南国の陽気に満ちた港町だ。
雲一つない蒼穹の下、容赦なく降り注ぐ陽光が白の地面や碧く澄み渡った海面を眩しく照り返している。潮風に乗って運ばれてくるのは焼けた砂浜の匂いと、露店で売られている南国特有の果実の甘酸っぱい香り、そして観光客達の屈託のない笑い声だった。
数日に及ぶ長旅の果てに辿り着いたこの街は、かつて星を巡る旅の途中で立ち寄った頃と比べても、見違えるほどの活気と平穏に満ちている。
石畳の坂道を下り、潮騒が間近に聞こえる浜辺の遊歩道へと足を踏み入れたクラウドは、歩みを緩めて辺りを見渡した。
「·········そろそろ起動しても大丈夫だろう」
独り言のように小さく呟くと、クラウドは肩に固定されたまま沈黙を保っていた小型の球体端末へと指先を伸ばした。長距離の移動に伴う通信負荷と電力の消耗を抑えるため、道中の大半は休止状態に設定していた《視聴覚双方向通信プローブ》の起動スイッチを押し込む。
ピピッという軽快な電子音と共に、球体の中央に埋め込まれたレンズが滑らかに回転を始めた。
周囲の眩い光量を感知して絞りを調整する微かな作動音の直後、端末の向こう側から弾けるような少女の声が鼓膜を震わせる。
『わあっ!! 眩し!?』
端末のスピーカーから飛び出したのは、眩い光に思わず目を細める仕草さえ目に浮かぶようなユウキの素っ頓狂な悲鳴だった。
通信が再開された瞬間にレンズへと飛び込んできた南国の強烈な直射日光は、暗く静かな待機状態に慣れていた彼女の視覚センサーにとって、少々刺激が強すぎたらしい。
「急に起動したからな。すぐに光量が調整されるはずだ」
クラウドが淡々と告げると、球体の内部で微かな機械音が鳴り、レンズの絞りが自動的に最適化されていく。
やがて映像の白飛びが収まり、視界の全てが鮮明な色彩を取り戻した瞬間、端末の向こう側から再び感嘆の吐息が漏れ出した。
『うわぁ·········!! すごい、すごいよクラウド!! 本当に海だ!! それに空もすっごく広くて、雲一つないんだね!!』
興奮を抑えきれないといった様子で弾む少女の声に合わせ、肩の上の球体が上下左右へと忙しなく首を振る。
身体という器を持たず、電子の信号として異なる世界の観測を続けるユウキにとって、潮風に揺れる椰子の並木も、白の壁面を連ねる建築物も、全てが新鮮な驚きに満ちた未知の風景なのだろう。
普段は無口で感情を表に出すことの少ないクラウドも、肩口から伝わるその無邪気な高揚感に釣られるように自然と口元の緊張を緩めていた。
「ここがコスタ・デル・ソルだ、ここなら誰にも邪魔されずにゆっくりできると思う」
『うんっ!! ねぇねぇ、もっと海の方まで近づいてみてよ!! 波打ち際とか、砂浜の様子も近くで見てみたいなぁ!』
「わかった。ただあまり波飛沫がかかる場所まで行くと潮風で精密機器が傷むかもしれない、砂浜に降りる前の階段辺りまでにしておくぞ」
『はーい! それでも充分だよ!! ありがとうクラウド!!』
軽やかな返事を受け、クラウドは石畳の遊歩道から砂浜へと続く石造りの階段へと歩を進めた。
数段ほど下りた踊り場の辺りで足を止め、手すりに片肘をついて視線を前へと向ける。
目の前にはきめ細かな白砂の浜辺が弧を描くように広がり、その先では透き通った海水が穏やかなうねりを伴って波打ち際を洗っていた。砕けた白波が涼やかな水音を立てて砂に吸い込まれ、太陽の光を反射した水面が宝石を散りばめたように煌めいている。
周囲では色鮮やかな花柄のシャツを着込んだ観光客や、麦わら帽子を被った家族連れが思い思いの時間を過ごしており、浜辺のあちこちでビーチバレーに興じる若者たちの歓声や露天商が客を呼び込む陽気な掛け声が響き渡っていた。
かつて神羅カンパニーの支配下で、どこか張り詰めた空気を孕んでいた時代とはまるで違う。
誰もが明日への不安に怯えることなく、ただ目の前にある穏やかな時間を享受している光景は、この星がようやく手に入れた平穏そのものであった。
水平線の彼方まで遮るもののない大海原を眺めながら、クラウドは深く息を吸い込み、潮風の混じる爽やかな空気を胸いっぱいに満たす。
『わぁ·········風が吹いてる音まで聞こえるよ。なんだか本当に自分がそこに立って海を眺めてるみたいな気分になるなぁ』
プローブの高性能な集音マイクが拾い上げる潮騒と風の音色に耳を澄ませながら、ユウキは心底満たされたように柔らかく微笑んだ気配を漂わせる。
「そうか。チャドリーが改良を重ねた甲斐があったな」
『うん! キリトとチャドリーには、今度会ったらお礼を言わなきゃね!!』
「あぁ·········そうだな」
短く相槌を打ったクラウドは、水平線の彼方から吹いてくる心地よい海風に身を預けながら、肩の上の球体端末と共に目の前に広がる大海原の光景を静かに堪能していた。
『ねぇクラウド、あっちの方で大きなパラソルの下に人がいっぱい集まってるよ!! 何かの屋台かな? すごくいい匂いがしそうだよね!』
レンズの焦点を海岸線の奥へと向けたユウキが、弾むような調子で次々と視界に飛び込んでくる景色に歓声を上げる。
ホント、ユウキといると退屈しない。
陽気な音楽が流れる浜辺では、砂の城を築いてはしゃぐ幼い兄弟や、木陰のハンモックに揺られて午睡を貪る旅人達がそれぞれ楽しい時間を過ごしている。容赦なく降り注ぐ真夏の光の下、誰もが過ぎ去った戦乱の記憶を忘れ去ったかのように、ただこの穏やかな祝祭のひと時に身を委ねている。
クラウドもまたそんな平和な光景をぼんやりと眺めながら、肩の上の端末から聞こえるユウキの弾んだ声に耳を傾けていた。
行き交う人々の群れを無意識のうちに目で追い、波打ち際から砂地の中央付近へと視線を移していった。
そこで。
「·········ん?」
クラウドの視線が、ふとピタリと止まった。
思わず眉根を寄せ、微かに首を傾げる。
そこには、この陽気なリゾート地の雰囲気とはあまりにも不釣り合いな異物が存在していた。
強い日差しを遮るパラソルもささず、照りつける砂地の中央にただ一人────
南国の開放的な服装で賑わう周囲の人々の中で、その白を基調とした厚手のパーカーのような衣類は、まるでそこだけ季節が切り取られたかのように浮き上がって見える。
周囲では水鉄砲を構えて駆け回る子供達や、談笑しながら歩く恋人たちがすぐ傍を通り過ぎていく。にも拘らず、誰一人としてその季節外れな格好の人物に一瞥をくれることも、避ける素振りを見せることもない。まるで最初からそこに誰も存在しないかのように、周囲の人間達はその影を素通りして行き交っていた。
そして何より、クラウドの背筋に冷ややかな違和感を走らせたのは、その人物の『視線』だった。
深く被られた白いフードの奥から覗く顔立ちは、強い日差しが作る濃い陰影に遮られて判然としない。
それでも、そいつが首の角度を微塵も動かさず、階段の踊り場に立つ自分の方をじっと見据えていることだけは、長年の戦場で培われた鋭敏な感覚がはっきりと捉えていた。
(誰だ·········?)
見覚えのない白い衣装を纏った人物。
だが。
どこか現実の肉体を持たないような、陽炎めいた希薄な気配が全身から漂っている。
『ん? どうしたのクラウド? 急に黙り込んじゃって』
異変を察知したのか、肩の上の端末からユウキの不思議そうな問いかけが響く。
クラウドは答える代わりに目を細め、砂地の中央に佇む白いフードの正体を見極めようと視線を凝らした。
まさに、その直後のことだった。
陽気な笑い声を上げながら浜辺を歩いていた一人の大柄な観光客が、クラウドの視線と白いフードの人物との間を横切るようにして、その目の前を通り過ぎた。
ほんの一瞬、視界が遮られる。
そして、その観光客が通り過ぎた後には。
「!!」
先程まで確かにそこに立っていたはずの白いフードのそいつは、陽炎が霧散するかのように影も形もなく消え失せていたのだった。
焼けつくような砂の上には、誰かが立っていたことを示す足跡すら残されていない。
「·········」
クラウドは息を呑み、信じ難い光景を前にして再び周囲の浜辺へと鋭い視線を走らせたが、あの異質な白い影はどこにも見当たらなかった。
『ねぇクラウド? 本当にどうしたの? 何かおかしなものでも見つけた?』
「··········いや、何でもない」
クラウドは目の前の砂浜から視線を逸らすと、肩の上の端末から心配されないよう何事もなかったかのように普段と変わらぬ落ち着いた調子でそう答えた。
せっかくのリゾート地を楽しみにしていたユウキに、正体も知れない不気味な幻影のことで余計な不安を与えたくはなかったのだ。
『そう? ならいいんだけど·········あ、そうだ!! ねぇクラウド、今度はあっちの露店が並んでる通りも歩いてみようよ! 南国ならではの珍しいものがたくさん売ってるかもしれないし!!』
幸いにも、少女はそれ以上深く追及することなく、すぐにまた無邪気な好奇心を弾ませながら次の目的地へと意識を向けたようだった。
「ああ、そうだな。行こうか」
クラウドは静かに頷くと、階段の手すりから身を起こし、賑やかな街並みへと続く石畳の道へ再び歩みを進めた。
背中で遠ざかっていく穏やかな波音と、観光客達の屈託のない歓声。
しかし。
歩き出したクラウドの胸の奥には、先程視界に焼き付いた奇妙な光景が冷たい棘のように突き刺さったまま残っていた。
強い日差しの下でも、誰一人として気付く素振りを見せなかった季節外れの白い衣。
そして。
大柄な通行人が横切った僅かな隙に、砂の上に一片の痕跡すら残さず消え去ったあの不可解な現象。
(今のは一体··········?)
周囲の誰にも気付かれず、一瞬だけ姿を見せては跡形もなく消えるその様子は、まるで星へと還った者達の魂が思念となり、ライフストリームに導かれて形を成し、現世に姿を現す現象によく似ていた。
だが、あの白いフードの人物にはまったく見覚えがない。
拭い去れない疑問を胸の奥に残したまま、クラウドは肩の上で弾む少女の声に耳を傾けながら、賑やかな通りへと歩みを進めていった。
雲一つない蒼穹の下、眩い陽光に照らし出されたこの平和な楽園のすぐ隣に、決して交わるはずのない異質な何かが静かに足を踏み入れている。
それがやがて遠く離れたもう一つの世界をも巻き込む大きな歪みへと繋がっていくことを、今はまだ誰も知らない。