6月最後の大一番。強さだけでは走れないレースがそこにある。選ばれた17人がその期待を背負い、2分と少しの時間を全力で駆け抜ける。
共に選ばれた17人ではあるが、一度コースへと出てしまえばそこにいるのは仲間ではない。同じように選ばれ、たった一つの祝福を奪い合う16人の相手がいるだけだ。コースにいるのは自分一人。
だが彼女らは一人で走り続けたわけではない。師弟のように、友人のように、家族のように、あるいはそれ以上の関係を築き、二人三脚でともに歩んできたパートナーがいる。
コースへと向かう前に一言、あるいは二言言葉を交わし、コースへと向かう。不安を吐き出す者、心意気や夢を語る者、無言で信頼を語る者など反応は様々だ。
そしてここに一人、純白のドレスを身にまとった少女がいた。耳飾りについている青いバラに触れ、言葉をこぼす。
「ライス、頑張るから。だから見ていてね……」
そして迷うことなくコースへと進む。
その言葉は誰の耳にも届かなかった。
始まりは一日中快晴で傘は不要と予報されていた日のことだった。ぽつりぽつりと雨が降り出し、数分の後にざあざあと本降りになってしまった。数秒前まで白の絵の具で何を描こうかと話せるほどの快晴は消え、その代わりに灰色の塊が埋め尽くしていた。
天気予報を信じて折り畳み傘さえも家の中に放り出した者の反応は様々だった。念のための折り畳み傘を差す者、急いでコンビニに駆け込みビニール傘を購入する者、手荷物を頭の上に乗せて濡れないようにしながら屋根のある場所へ向かう者、天気予報士のバカヤロー! と叫びながら全力で歩道を走る者。
そんな中、たった一人だけが差し傘を差して歩いていた。白のブラウスに黒のベスト、チノパン、スニーカーにリュックと鮮やかさに欠ける服装は仕事帰りのような、そうでないようなちぐはぐな印象を持っている。いうなれば、社会人一年目の梅雨時、というところだろうか。
そんな彼女は左腕に着けた時計をちらりと見て、それからスマホを確認する。
「予想よりちょっと早かったかな? まあ帰るのが遅れるよりはいいし……ん?」
「うぅ、降ってきちゃった……どうしよう」
時計から目を外して顔を上げた先、駅の屋根の下にいる人物を見つけてしまう。
紫色の眼に長い黒髪、青いバラの飾りがついた黒の帽子にわけあってよく見かける赤色のジャージ。身長は低く150cmもない。それから頭の上にしおしおと倒れている動物の耳と、これまた元気なく垂れ下がっている尻尾。普通の人間にはないそれは、彼女が
ウマ娘という種族についてはいまだ未解明な部分が多い。例えばなぜ生まれるのか。両親が普通の人間であってもウマ娘は生まれ、母親がウマ娘であっても必ずウマ娘が生まれるとは限らない。それから生まれるウマ娘に、生物学上オスである個体が生まれることは現在まで観測されていない。もしも男のウマ娘が生まれるとすれば名前はウマ息子になるのか、それとも両方をウマッ子と統一して呼ぶのか。ネットの奥でそんな議論が繰り広げられているとかいないとか。
そんなウマ娘が雨の中、どうにも困っている様子。周囲に傘を持っている人は少なく、困った様子のウマ娘を心配するそぶりをする人はさらに少ない。彼女自身が折り畳み傘やら合羽やらお金やらを利用して解決できれば問題はないが、見る限りでは手ぶらである。
傘を持つ女性は困っているウマ娘を無視できなかった。大きく息を吐いてから、目線を合わせるようにかがんで声をかけた。
「ねえ、か──」
「あ、後ろ!」
少女に指を差されて振り向こうとするが、それよりも早く水しぶきが彼女にかかった。雨が降り始めてまだ一時間も経っていないはずなのに、その自転車が通った場所が悪かったのか、バシャンと大きな水はねが彼女の背中から下を濡らす。
突然の状況に二人の間に一拍の無音の空間が生まれた。
「……おっと、濡れちゃった」
「ごごご、ごめんなさい! ライスのせいで、そんなにびしょ濡れになっちゃって」
「ライス……?」
ライスのせい、と言われて首を傾げ始める女性。その一方ウマ娘の少女は、まるで罪を犯してしまったこのように青ざめ、縮こまっている。
(今日の朝は菓子パンだったはず。昼はサンドイッチで……やけに量が多かったし次から気を付けるようにしないと。ともかくお米は口にしてないはず。ならどうしてお米のせい……? まさか、呪いとかその類で、この子はそれが見えるとか? いやでも……うん、わかんないや)
少し悩み、わからないという結論がはじき出された。いまだ怯える少女を落ち着かせるために、なるべく優しい声で話しかけた。
「よくわからないけど。お米のせいではないと思うよ。朝食はパン派だし、今日はパンしか食べてないし」
「そ、そうじゃないです! ライスがいなかったら雨も降らなかっただろうし、あなたが濡れることも、なかったはずって……」
「あー、ライスって君のことだったのね。てっきりお米の呪いのことかと思っちゃったよ」
「お米の、呪い?」
きょとんとする少女の隣に、そうそうと頷きながら女性が並ぶ。屋根の下に入ったが傘は閉じない。
傘を弾きコンクリートの上を跳ねる音は変わらずあちらこちらから響き続ける。雨脚が弱まる気配はない。
「お米を食べないと不幸にしちゃうぞ~みたいな? 今日はパン系しか食べてなかったから呪われちゃったのかなって思っちゃった。そんな呪いがあったら困っちゃうよね。ところで君は? ちゃんとご飯食べた?」
「ライスは、朝はパンだけどお昼はハンバーグ定食で……どっちもしっかり食べたよ」
「なら呪いの心配はなさそうだね、うんうん。私もしっかり食べた、というよりは食べすぎちゃったかなあ。胃薬がなかったらまずいぐらい」
「えっと……何かあったんですか?」
「それがさー、もう少し向こうの方に喫茶店があるのって知ってる?」
「喫茶店……最近できたあの喫茶店のこと?」
「そうそうそれそれ。買い物ついでにちょっと寄ってみたんだけど、出されたサンドイッチが予想より大きくてさ。こんだけあるんだよ?」
顔の倍ほどの大きさはあるというジェスチャー。話を聞いていなければ、最近釣れた魚の話にしか見えないジェスチャーだ。
そんなバケモノサイズのサンドイッチがあるという情報に、少女はあまり驚かなかった。驚きはしたが、それよりも興味と期待が上回ったのだ。目を輝かせ、話の続きを待つ。
「君みたいなウマ娘からすれば昼食にぴったりだろうけど、私は普通の人だよ? そんな量食べられないって言ったのに提供したから食べてくださいって言われちゃって。詳しく話を聞いてみたらね、店長さんがウマ娘で『トレーナーさんっていう人種はいつも適当に飯を食べてるから、動けなくぐらい食わしてやる』だって」
「ふふっ、優しい店主さんだ」
妙に太い声で再現されたやり取り。その声がツボだったのか、それともやり取り自体が面白かったのか。そのどちらかはわからないが、何かに引っかかり、ライスシャワーが笑みを浮かべたのは事実だ。
「確かに優しかったよ。けど、これ以上食べられません、持ち帰りでーって言おうとしたらすごい顔で睨みつけてくるの。私の覚悟を無礼るなよ! っって感じの気迫に圧倒されちゃって、やっぱり食べますって言っちゃってさ。おかげさまでお腹いっぱい、晩御飯がいらないようになっちゃった」
「それで、歩いて帰ってたの?」
「まあね。少しでも動いて、寝苦しくならないようにしないと。それに、いつもウマ娘みたいにたくさん走るわけじゃないし、体重管理が大変になっちゃうもん。たくさん食べても太らないウマ娘の体が羨ましい。君は食べる方?」
「うん」
「そっかそっか。しっかり食べて、自主トレにランニングもして、速く走る下準備は100点満点。これからどんどん速くなりそうだね。三冠も夢じゃなさそう」
「……! ライスでも取れるかな?」
「きっと取れるよ。それだけ準備できているなら、あとは君に合うトレーナーを見つけるだけだね」
話をして気がまぎれたのか、それとも彼女が不幸な出来事を気にしないように明るい話題に変えたためか。少女の表情からは恐怖や不安といったネガティブな感情は一切感じなくなっていた。二人ともが笑顔で、先ほどあった不幸もなかったかのようだ。
「ところで今はランニング終わり? 良かったら一緒に帰らない?」
「一緒に? ライスはトレセン学園の寮に帰るけれど……」
「私もトレセン学園に帰るよ。実はトレーナーだったりするからね」
「と、トレーナーさん!?」
突然の告白に目を白黒させる少女。その一方で女性は苦笑いしながら頬をかく。
トレーナーと聞くと服のことを思い浮かべる人もいるだろうが、同時にスポーツ選手やジムに通う人の手助けをするスポーツトレーナーのことを思い浮かべるだろう。彼女はそのトレーナーである。
ウマ娘は足が速い。車より早く、道路上にはウマ娘のためのレーンがあるぐらいである。その上走ることが好きな場合が多い。本能レベル、遺伝子レベルで刻まれたその衝動は、ウマ娘同士で走って優劣を決めたい、一番に駆け抜けたいという強い思いに変わる。そんなウマ娘のためにレースが開かれる。中には格式あるレースも存在し、その内容もほぼすべてのラジオやテレビ放送されるほどに注目される。言ってしまえば、全国民が熱中する娯楽となっている。そんなレースに出るためやさらに速く走ってレースで勝つためにはトレーナーが不可欠である。
「その前に
「は、はい!」
彼女が身分を明かしたと同時に、ウマ娘の少女は緊張をし始める。ウマ娘からするとトレーナーは自分を選んでもらう立場にある。先ほどレースに出るためにトレーナーがいると書いたが、裏を返せばトレーナーがいなければレースに出ることはできない。それだけ重要なトレーナーが、頭にサブが付くとはいえ隣にいるのだ。何か気を悪くするようなことをして、他のトレーナーに悪評を流されないようにと緊張することは当然である。
「じゃ、帰ろうか」
「でも、ライスは合羽とか持ってきてなくて」
「こっちの傘の中に入ればいいよ。それとも対人アレルギーとか……あ、私が怖かったりする?」
「い、いえ! 怖くないです!」
「ならよし。ついでに傘に入ってくれると嬉しいんだけど」
「あ……ライスが入ったらトレーナーさんが濡れちゃうから」
「それ今更じゃない? もうびしょびしょだし、気にしないよ。さ、入った入った」
そう言って少女の手を引いて傘の中へと引っ張りこみ、歩き出す。最初は遠慮気味にしていたが「私はもう濡れちゃったけど、濡れてない君が濡れるのは嫌だな、悲しいな」という一言で大人しく傘の中心に近づくようになった。
「よし、しゅっぱーつ」
そんなやり取りがあって、二人一緒にトレセン学園へと帰り始めた。トレセン学園は二人があった場所からはある程度距離はあるが、日が落ちるまでには十分余裕がある距離である。日が暮れるあたりがウマ娘の寮の門限、それから少しして日付が変わるあたりがトレーナー寮の門限とされているである。
門限に関して、トレーナー寮のルールはかなり緩い。日付が変わるまでと決められているが飲み会やら介抱やらで遅れた場合はお目こぼしをもらえる上、遅れた場合でも後日遅れる理由を申請し、受理されればおとがめなしとなる。受理されなかった場合は反省文を書かされ、仕事が増えるという噂もある。だが、噂になるほど遅刻の罰を受けた者は少ない。
その一方、生徒の門限は厳しい。少しでも遅れると寮に入ることができなくなる上に反省文を複数枚書かされる。悪質だと判断された場合、寮長の判断で追加の罰が課せられることもある。場合によっては遅れたウマ娘だけでなくトレーナーも責任を負わされるらしい。その例として、テスト前に成績が悪いウマ娘の勉強を見ていたら門限が過ぎてしまい、監督不十分という判断がなされた、というものがある。
(間に合わなかったら私が監督不十分で怒られる……いや、それはないか。トレーナーでもないし、雨具がなくて困ってるところを助けただけだし。褒められることはあっても怒られることはない、よね?)
と、考え事をしていると、ウマ娘の少女がためらいがちに声をかけた。
「……えっと、サブトレーナーさん」
「ん、何かな」
「ライスは、ライスシャワーって言います……それで、サブトレーナーさんの名前を、聞いてもいいですか?」
「私は橘だよ。気軽に橘さんって呼んでね」
「橘……サブトレーナーさん」
「『さん』だけでいいって。サブトレーナーなんてただの役職なんだから。ね?」
「でも」
「それに長い名前って噛んじゃいそうじゃない? シンボリルドルフって名前が言いにくいって話はよく聞くし、呼び方が長くなってもいいことないって。だからふつうに橘さんでお願いするよ。ね? 私はライスちゃんって呼ぶから、それに合わせる感じで」
「……はい、橘さん!」
「よろしくね、ライスちゃん」
二人は雨の中、トレセン学園へとむけて歩みを進める。