「ふぅ~」
橘は選抜レースを抜け出し、トイレでスッキリした後に人の少ない学園内を歩いていた。
今日は選抜レース。トレーナーはもちろん、すでにデビューしている子もしていない子も応援や学習のために見学している。だから学園にいるのは警備員ぐらいであり、学園内を歩いていることはもちろん大声を出すことはありえない。
そう、ありえないはず。
けれどその声は橘の耳に届いた。蝶のように優しい声が、憂いを乗せて流れ着いた。
(この声は……ライスちゃん?)
ハンカチをポケットに入れ、声のする方へと歩みを進めた。
たどり着いた場所は学園の片隅、名物である大樹のウロがある場所。この大樹、元は樹齢100余年ほどとみられるもの。現在はスパッと切られて切り株だけになっているが、その樹齢故の太さは健在。ウロもそれに比例して大きく、人ぐらいなら簡単に入ってしまう。ウロの底は暗くて見えず、うっかり落ちてしまおうものなら助かることはないだろう。噂ではこの切り株の中に隠れてしまったせいで帰れなくなったウマ娘がいるとか。
そんな大樹のウロの裏に、ライスシャワーは隠れるようにしていた。影のように黒い髪のせいで、遠くからだと目を凝らしても見えにくい。だが、声を聞いてきた橘はライスシャワーの特徴である青いバラを目印にしたため、すぐに見つけることができた。
「バカバカバカ! せっかくブルボンさんが応援してくれたのに、応援してくれたのに! どうして逃げちゃうの!」
小さな口からウロに向かって吐き出されるのは情けない自分への恨みつらみ。
ウマ娘ほどの聴力はない橘だが、そのウロがやり場のない感情を吐き出すための場所であることを知っていた。なので何かしらのやり場のない気持ちを吐き出していることぐらいは察していた。だが近づく。近寄って声をかける。
「やっほー、ライスちゃん」
「あ……橘、さん?」
「お、よく覚えてるね。昨日ぶりだね、どうしたの?」
「えっと、その……」
橘とライスシャワーの視線が一瞬だけ交差する。ライスやわーの目元は真っ赤に染まり、先ほどまで抱えていた感情を物語っていた。橘は何も言わない。
ライスシャワーはしばらく
だがやはり、橘は何も言わなかった。へらへらとした笑顔で、ライスシャワーを責めることなく唯々見ているだけだった。
数分とも数時間ともかかりそうな間が二人の間で作られた後、遠くの方、選抜レースの会場でひときわ大きな声が上がる。
「始まったねえ。今回は誰が勝つのかな。ライスちゃんは行かなくていいの?」
「その、ライスは……えっと、ええ、と」
「んー、まあなんでもいいや。ちょっとくだらないお話に付き合ってよ」
「……話?」
「そ。別名世間話。何でも話していい話だよ」
そう告げてライスシャワーの隣、とはいっても人一人分の間を開けた場所に座る。ピクッとライスシャワーの方が震え、耳が反応し、声が漏れ出た。けれど橘は気にしなかった。
「実はね。なんと今朝、サブトレーナーからサブのつかないトレーナーに昇進しました!」
「っ……おめでとう、ございます」
「へへ、ありがとね」
ニコニコと話し始める橘だが、ライスシャワーは体をこわばらせる。警戒心がさらに高まった。
「で、さっきまで選抜レースを見てたんだけど、急にトイレに行きたくなっちゃって」
「トイレ、に?」
「そ、トイレ。皆行くでしょ?」
「え、えっと、はい」
不要な補足であるが、とあるウマドルはトイレに行かないと主張しているとか。一体何のサイレンススズカだろうか。
「だからトイレに行っちゃったんだ、開始直前で」
「直前で!? お、怒られないんですか?」
「あ、今更だけど例え話だから安心して」
「どこからどう聞いても橘さんの話なのに!? さすがに無理だよ!?」
少し前に出ていた声よりも大きな声を出してしまう。
だが、再びレース場から挙がった大歓声にかき消され、誰かの耳に届くことはなかった。まだ二人だけの時間は続くようだ。
「ダイジョウブ、ワタシ、カンケイナイ、ホント」
「ものすごく嘘っぽい……」
「まあまあ気にしないでって」
「は、はい」
「それで話の続きなんだけど。私の知人のTさんの話なんだけど。選抜レースを抜け出しちゃったから怒られるなーって思ったTさんは、その途中で泣いているウマ娘さんを発見したのです。黒くて長い、お姫様みたいに綺麗な髪と、とってもきれいな青いバラの髪飾りが似合ってる、お人形さんみたいにかわいいウマ娘さんなんだって」
「そ、そうなんだ」
当然ライスシャワーのことである。そんなこと本人もわかっているので、べた褒めされてうれしくなる。耳はピコピコと動き、尻尾も左右に大きく揺れる。ほんの少しの照れが彼女の頬を桃色に染める。
当然だが橘の話はまだ終わらない。嬉しそうなライスシャワーを堪能して、再び口を開く。
「そこでTさん思いつきました。この迷子のウマ娘さんを案内したことにすれば怒られないのでは、と」
「たしかに、偶然見つけて遅くなった……なら、注意だけで済むかも?」
「でしょ? 我ながらいい考えだと思うんだ。ま、たづなさんからは減給じゃあ済まないから覚悟するようにって言われたけど」
「だ、だったらダメだよ!」
「やっぱり? いけると思ったんだけどなあ」
やはり世間は難しいと訳の分からないことを言いながら頭を掻く橘。それに対し何とも言えない表情をするしかないライスシャワー。彼女の中で橘に対する印象はよくわからない人に変化した。
「でも何もないよりは多少マシになる気がしない?」
「それは、そうだけど」
「じゃ、決まりね! そうすることにしました! そのウマ娘さんが選抜レースを抜け出したのは何か事情があるみたいで。その事情を解決してあげないといけないなーって思うわけですよ。Tさん優しいからね」
「自分で言う人初めて見た……」
「まあまあ。でもTさんはサブが付くトレーナーさんだからね、ウマ娘さんの気持ちはわからないわけですよ」
「……あれ? サブじゃなくなったんじゃなかった?」
「そういえばそうだった。Tさんがサブがつかないトレーナーさんであってもウマ娘さんの気持ちはわからないわけですよ」
やれやれ、と言ってわざとらしくため息をつく。そしてこれまたわざとらしくウインクをした。
された側であるライスシャワー。ちょっとドキッとしたが、橘の意図を組み切れず、頭の上に
補足しておくと、橘の顔面偏差値は中の上から上の下といったところである。つまるところ、そこそこ美形である。なお、ウマ娘たちは美形が非常に多い。顔面偏差値は上の中が平均というほどのため、橘も比較的ふつうというぐらいに落ち着いてしまっている。
「で、そこでライスちゃんに聞いてみたいんだけど、このウマ娘さんがどうして抜け出したのかってわかる?」
「えっと……」
ライスシャワーはようやく橘の、この雑談の意図に気づいた。
橘はライスシャワーがどうしてここにいるのかを聞きたかったのだ。ただ、どうして走らないのとは聞きたくなかった。走れなかったのか、とも聞きたくなかった。この両者のどちらかを聞いて、走らなかったと、走れなかったと
きっと何か思うところがあって選抜レースに来なかったことぐらい誰だってわかる。それにウロのそばで捨てたい思いを吐き出していたのだ。きっとそのまま聞いても何も話せないだろう。そう思って
なお、ライスシャワーをべた褒めする必要があったのかは不明である。
ともかく、そんな意図をくみ取ったライスシャワーは
「ライスは、自信がなくて、走るのが怖いから……かな」
「走るのが怖い?」
「うん……ブルボンさんみたいに速いわけじゃないし、それにライスはみんなを不幸にするから」
「皆を不幸にする、ねぇ。私はそう思わないけど」
「……そう、なの?」
「うん。だって私が不幸になってないもん」
「ホント……?」
「もちろん。ま、この後不幸になる可能性は高いんだけどね」
「や、やっぱりライスのせいで!」
「事前にトイレに行かなかった人が悪いんじゃない? それか誰かに下剤とか飲まされて……ハッ! まさかライスちゃん、盛った!?」
「し、してないしてない!」
「でもそうじゃないとライスちゃんのせいにならなくない? 否定するってことは怪しい……もしかして共犯者が!?」
「い、いないです!」
「じゃあライスちゃんのせいじゃないね、一安心。私はライスちゃんのせいで不幸になったわけではありませんでした、めでたしめでたし」
よかったねと言いながら小さく拍手をする橘とは対照的に、ライスシャワーは困った顔をする。
遠くの方では再び大きな歓声が上がった。
「ライスちゃんが皆を不幸にするしないの話はこれで解決したことにして、そのウマ娘さんは足が速くないから選抜レースに出なかったのね。なるほどなるほど」
「うん……みんなが頑張るよりもっと多く走らないと。そうじゃないと一着になれないから」
「ふむ、なるほどね」
そう言いながらお膝の小山に顔を埋めようとした。だが、その前にふっふっふと不敵な笑みが耳に入る。前方に視線を向けると、仁王立ちしている橘がこれ見よがしに眼鏡を強調しながら笑っていた。ちなみに伊達メガネである、さっきポケットから出して装着した。
「橘さん……?」
「ライスちゃん、一つ大きな勘違いをしているから教えてあげよう。さっきから向こうで選抜レースをやっているわけだけど、その勝者が一レースにつき何人かわかる?」
「えっと、一人?」
「正解!」
再びこれ見よがしに眼鏡のフレームを持ち、クイクイと上下させる。させすぎて眼鏡がまともに機能していないぐらいには何度もした。
ライスシャワーには何も伝わらなかったため、何度も眼鏡をクイクイするだけで終わってしまった。
「さっきライスちゃんが当てたみたいにレースの勝者は一人しかいない。そしてレースは一人で行うものでもない。今回の選抜レースは一回で18人出走だったね」
「え?」
「ん?」
「ライスの記憶が確かなら10人だったはずだよ?」
「じゃあ10人だったね。サブのないトレーナーになると思ってなかったからまったく気にしてなかったんだ。現地に行けば基本的な情報はわかるだろうって思ってたし」
「ええ……ちゃんと見なきゃダメだよ?」
「次からしっかりするから大丈夫。ともかくレースは10人で勝者は一人。これが重要なの」
「ライスからすると当たり前のことなんだけど、それがどうして重要なの?」
「だって、ライスちゃんはそんなレースに勝ってきたわけでしょ?」
橘がしゃがむと自然と視線が同じ高さになる。距離は先ほどよりさらに近づいて、顔と顔との距離が拳半分ほどになる。
してやったり、といった感じの笑顔を浮かべる橘とは対照的に、ライスシャワーは小首をかしげてそれがどうしたとでも言いたそうな顔ぶりだった。頭の上に記号を付けるのであれば
だが橘は気にしない。ここまで来たら無知か無遠慮かただのバカかの三択だろう。
「つまり、みんなと比べて早かったからここまで勝ってこれたんだよ。これまでしてきた自主練ももちろん無駄じゃなかったってこと」
だからみんなより遅い、なんて言っちゃだめだからねと笑って付け足した。
トレセン学園の入試試験で行われるものは三種類ある。筆記試験、面接、そして模擬レース。この三つを総合して結果が決められる。特に模擬レースの割合は非常に多い。筆記試験と面接である程度の点数を得ても、この模擬レースで優秀な結果を残せなければ落ちてしまう。逆に言えば模擬レースで圧勝すれば他二つがある程度悪くても入学できるということになる。春麗らかと笑顔を引き連れ、面接だけで通った例もあるがそれは特例である。
ともかく、橘が言いたかったのはそれだけであった。頑張らなきゃ勝利は遠のき、頑張れば勝利は近づく。一度入学テストのレースを勝っているから、その時の誰かよりは確実に強いはず。だから遅くなんてない、頑張ればきっと勝てるはずだ、と。
優しく背中を押され、ライスシャワーの胸はほんのりと暖かくなった。
「それに、負けてない人なんていないからね。ライスちゃんはルナちゃんって知ってる?」
「ルナ……?」
「ルドルフちゃんなんだけど」
「ルドルフ……生徒会長さん!?」
ライスシャワーの耳と尻尾はピンと天を指し、尻尾の毛はボワボワと逆立っていつもの倍ほどの大きさに膨らんだ。一目でわかるがかなり驚いている。リアクションである。
国内G1を七回勝利し、絶対を冠する皇帝として名をはせたウマ娘。勝利より三度の敗北を語り、これが絶対であると豪語する者もいれば、絶対の強さを証明して見せた一度の勝利を引き合いに出し、これが皇帝たる所以であると熱弁する者もいる。現在は生徒会長として生徒会を運営する一方、ドリームリーグにも出走し、マルゼンスキーをはじめとする猛者たちに勝利し、より技術が洗練された者が勝つという世論に対し刃を向けた。
トレセン学園では一目置かれ、雲の上の人物とまで言われるような人物。憧れを背負い、理想を掲げ、夢のために今もなお進み続けるウマ娘。それがシンボリルドルフである。故に近寄りがたい存在でもある。
言ってしまえば、そんなすごい人物と、目の前にいるサブなのかそうじゃないのかわからないようなトレーナーが何かしらの関係があるとは思えないための驚きだった。さらに付け加えるならば、あの形式とか礼儀を重んじそうな会長が渾名で呼ばれているのを想像できなかった。
「どの生徒会長かわからないけど、トレセン学園に生徒会長は一人しかいないからその生徒会長かな」
「……」
驚きすぎて口を開けたまま固まってしまうライスシャワー。あっけらかんとしすぎている橘が悪い。
「で、その生徒会長も三回は負けてるんだよ? だったら負けることも当然だと思わない?」
「……えっと、話が飛びすぎて。というか、ライスそこまで言えるほど強くないし」
「じゃあ強くなればいいじゃん? 重要なのは勝つことだけでなく、敗北からも貪欲に学ぶことだって言ってたし」
「それも生徒会長さん?」
なにも言わず、笑顔で親指を突き立てた。
「ま、なーんにも深く考えないで走ってみたら?」
「うん……でも、誰にもスカウトされなかったらって思うと怖くって……」
「そっか、それもあるのか……」
ライスシャワーは再び小さくなる。たとえ勝てたとしてもトレーナーがつくとは限らない。ついたとしてもそれがいいトレーナーだとは限らない。不安は山積みだ。
手を顎に当ててて何かを考えていた橘。「あ」と声を漏らし、思いついたことをライスシャワーに話し始めた。
それから小一時間が経過した選抜レース会場。スカウトされたウマ娘は明日以降に備えてまっすぐに帰宅し、やりきれない思いを抱えたウマ娘たちは足りない要素を補うべく自主練へと向かっていた。スタッフたちはレースの片付けを勧め、明日以降もウマ娘たちが快適に走れるように整えている。スカウトできたトレーナーたちは新たな夢を後押しするための構想を練り、今回スカウトできなかったトレーナーたちは明日以降の選抜レースの情報収集に励み、爲山はコースの隅の方で正座させられ、たづなに笑顔で睨まれていた。
「……いやホントすみません」
「橘さんが逃亡した件について、あなたに非がないことやむしろあなたが止めようとしたことは十分に理解できました。そこはご安心ください」
「じゃあ!」
「それはそれとして。出走するウマ娘たちが最も集中する時間帯に橘さんと大喧嘩し、さらには進行を止めてしまったことも事実ですよね?」
「……はい」
「ではそれを鑑みて、今月中に橘さんが誰もスカウトしなかった場合のみ減給とします」
「それ絶対に無理だから、減給確定では?」
「二人で力を合わせて頑張ってくださいね」
「あの、たづなさん。救いを……救いを!!」
正座から土下座へと速やかに移行し、どうにか助かろうと目の前の女神に祈る爲山。その女神はただ微笑むだけで、救いの手を差し伸べることはなかった。
「お、おっちゃん。それと、たづなさん。お疲れ様です」
「おや、橘さん」
「橘!? お前、逃げたんじゃ」
「逃げてませんー。長めのトイレに行ってただけなんですー」
「長めって……何出してきたんだよ」
「それはセクハラになるけど大丈夫? 目の前の人に訴えちゃうよ?」
「出す必要があるのは自然の摂理だもんな! 健康な証拠だ! 問題ない!」
「その発言は、それはそれでセクハラに近いのですが……」
それはともかく、とたづなは橘の方を向く。相変わらずの笑顔を向けているが、弧を描いた瞳の奥からは凄まじい圧を感じる。先ほど爲山を睨んでいた時の倍ぐらいの圧がある。
「あー、勝手に抜け出した件についてはごめんなさい。でも、仮契約を結んだのでその報告に来たんです」
「仮契約……?」
知らない単語に対し、爲山は頭上に