「サクヤ、落ち着いたか?」
リンドウの胸に顔をうずめたままサクヤは声には出さず、顔を左右に振ることしか出来なかった。おそらくは感情と理性がまだ安定しないのだろう。
しかしながら、風呂の中で抱き合う二人をそのまま放置する訳にも行かず、思案していた所で背後から声が聞こえた。
「あの~橘さん?服のままでは困るんですが」
声の主は先ほど応対してくれた女性だった。事のいきさつを知らないだけに、今の現状を見た上で声をかけたにすぎない。
見知らぬ女性からの呼びかけでようやく落ち着いたサクヤは慌てて湯船にの中に今居る事を理解し、慌てて出る事になった。
「ご、ごめんなさい。直ぐに出ますから」
「服はこちらで洗濯しますから、こちらに着替えて部屋まで来てくださいね」
「ありがとうございます」
「リンドウさんは何時まで裸でいるつもりですか?さっさと着替えて部屋に行ってください。当主がお待ちかねです」
サクヤは服を着たまま、リンドウは裸のまま抱き合うシュールな状態からようやく脱出し、案内された部屋へ行くことになった。
「リンドウ、また露天風呂か、ここは温泉宿じゃないんだから少しは自重しろ」
「固い事言うなよ無明。それよりもお前当主ってここでは呼ばれてるのか?」
「そうだ。ここは俺の屋敷だからな。それは良いが、もうすぐ榊博士も来るから、今後の事について少し真面目な話をする」
いつもの日常の様なやりとりをしているうちに、先ほど着替えを用意されたサクヤが部屋に入ってきた。服は既に洗濯されており、今は浴衣を着た状態でリンドウの横に座った。
「やあ、遅くなって済まないね。おっ。サクヤ君、浴衣が中々似合ってる様だね」
アナグラから榊がようやく来ることで、今後の話し合いの場が作られた。
今回の話の内容は今後のリンドウに対する処遇と現時点でのアナグラの内部情報だった。リンドウに関しては現在の所、神機そのものは消滅し、今は中心に添えられたコアしかない。
ここから新型の神機を作るには時間が圧倒的に足りない事が懸念材料ではあったが、既にリンドウには自身のオラクル細胞から神機らしき物が精製出来る観点からも、敢えて作り直す必要性が無い事から、結果的にはそのまま使用する事になり事無き事を得た。
それよりも問題なのは現状のアナグラの情報だった。既にリンドウと無明は今の極東支部内で起きている事、つまりはエイジス計画そのものが対外的な目くらましとなり、裏ではアーク計画が水面下で進行している事を公表した。
このメンバーの中ではある程度の認識はあった物の、改めてエイジス計画が虚構だった事にツバキだけではなく、サクヤも驚きを隠せなかった。
「我々がやってきた事が全て無駄だったと言うのか?」
「有り体に言えばそうなる。恐らく今回の件に関しては相当根深い所まで進んでいるのは確かだ。本当の事を言えばここ迄話が進んでいる物をひっくり返すには相当な時間と労力が必要だろう」
「しかしそれでは……」
突然伝えられた情報を安易に信じろと言われた所で、素直にそう考えるには抵抗があった。本来であれば内部から調べる事は不可能だったが、無明の諜報活動により本部経由の情報である事からも、裏付けを取るまでもなく信憑性は十分すぎた。
既にこのアーク計画を止める術は事実上存在する事は無いに等しい。故に高度な判断が必要になっていた。
「これからどうするんですか博士?」
「今はヨハンの行動を見る限り、キーとなる物が見つかっていない状況だから、ここから行動を起こす事は無いだろうね。ただし、それが見つかれば一気に動く事になるだろうね」
「博士、キーとはなんです?」
「キーは特異点と言う名のアラガミだよ」
この榊の一言でサクヤは動揺していた。特異点と言う名のアラガミ。それはすなわちシオの事を指している。
この時点でシオの存在はツバキとリンドウは何も知らされていない。
もし分かった時点でどうなるのかサクヤには想像する事すら憚られていた。
今の所はシオの存在は完全に隠蔽されている為に、第1部隊以外では知りえる人間は極めて少数なく、また、ここで公表する事で一体どうなるのかを考えるには些か材料が不足していた。
「博士、それでアラガミの目処はついているんですか?」
「それについてなんだけが、ツバキ君にもこの際だからハッキリと言っておいた方が良いだろうね。実は目処ではなく、保護しているんだよ」
榊の保護の一言で何を言わんとしているのかが簡単に理解できた。
保護と名が付く以上、榊の目の届く所に匿っている事になる。しかも榊が保護するとなれば、はどう考えてもアナグラ内部に居る事に他ならなかった。
榊の暴露により隠蔽していたはずの情報が簡単に公表されていた。何も無い所での公表は色々と問題が発生するが、全てを発表した上での追加の公表となれば、話の内容は同じだとしても、感情のレベルは違いすぎる。
ましてやエイジス計画が虚構であり、しかもその背後のアーク計画には本部の上層部の人間までもが関与していた。
この時点でのフェンリル上層部は完全にシックザール支部長の支配下にあり、そして計画の要でもあるアラガミは榊の手元にある。
これでは完全に計画通りに履行するには、大きな障害が発生しているのと同義だった。
この時点でツバキも話の大きさとその進捗状況を鑑みればアラガミの隠匿など大した抵抗にすらならなず、また、人類の残された時間が事実上のカウントダウンに入っている事を肌で感じ、しばし声を発する事が出来なかった。
「もちろん、ヨハンには見つからない様に偽装しているから簡単には見つからないのと、ラボはセキュリティそのものが独立しているから心配は少ないよ。とりあえずの所は気にする必要は無いはずだよ。あと、リンドウ君には暫くの間今の状況に対しての検査をしたいから、しばらくはここに居てもらう事になるが良いね?」
この榊の発言に対して流石にリンドウも嫌とは言えず、現状に関しては右腕がアラガミ化の影響により、異形の物へとなったままだった。
過去の事例から判断しても一旦アラガミ化した人間がそのまま元に戻った症例は一つもなく、仮に復帰するにしても今のままでは難しいと判断された。
「あとは神機が無くなった以上、お前の戦闘力の判断をする必要が出てくる。暫くの間は諦めろ」
「うへぇ。俺は実験モルモットじゃねえぞ」
「お前の右腕を見て何も有りませんでは説得力は皆無だ。となればデータ的に確立する事が出来れば信憑性が格段に増す事になる。それとも本部で本格的な検査をされたいのか?」
「よせやい。これ以上は勘弁してほしいだけだ」
「心配しなくても、殆どの検査は終わっている。後は経過による確認事項だけだ」
「なるほどな。で、いつまでここに居れば良いんだ?」
「少なくとも1週間程度は必要だろう。それまではここを好きに使え」
無明の言葉をそのまま鵜呑みにすれば、寝ている間に粗方検査されている事だけは理解できた。リンドウとしてもこのまま何もしないよりはマシとは言え、これ以上の検査は精神的にも肉体的にも苦痛以外の何物でも無かった。
「ツバキ教官、お願いがあります」
「どうしたサクヤ?用件はなんだ?」
「わたしも暫くはここに居ても良いでしょうか?」
「それはダメだ。戦闘員は緊急時には動ける状態でいる事が最優先される。ましてや、先ほどの話からすれば近いうちに局地的な戦闘が起こる可能性も否定できない。
リンドウを慕う気持ちは姉としても嬉しいが、上司としての立場からは容認出来ない」
ハッキリ理路整然と言われると、それ以上の反論をする事は出来なかった。
先ほどの話からすればリンドウも検査があるのは勿論なのと、今のアナグラに置かれている状況を鑑みれば、容易に許可出来る物では無かった。
しかしながら先だってのディアウス・ピター戦での休暇そのものはまだ残っている。ツバキ個人としはこのまま容認したかったが、立場としては反対せざるを得なかった所に助け船が出た。
「まだ、休暇は継続中だからこのままでも良いんじゃないかな。神機の整備もまだ完了していないならば出動も出来ない。何より事実上第1部隊は完全休養中なんだからね」
「しかし博士、それでは他に示しがつかないかと思われますが?」
「サクヤ君、君の休暇の残りがあと少しあるようなら、その期間中ならどうだい?それ以上となると少しばかり困る事になるんだが?」
完全に一緒に居る事は出来ないが、時間の許す限りが前提での許可。生きて会えた事が最善だったのであれば、これ以上の事を望む事が出来ないのはサクヤも分かっていた。
となれば、言われなくても自ずと答えは出ていた。
「休暇期間中だけでもお願いします」
「……仕方ない。それではあと3日だけ許可しよう。ところで無明、勝手に決めたが良いか?」
「今更何言っても仕方ないだろう。日程的には困らないから問題ない」
「ありがとうございます」
リンドウが行方不明になってから、サクヤの顔にようやく笑顔が戻ってくる。
残すは第1部隊への報告だけ。無明達3人は改めてアナグラへと戻る事になった。