「ここは、確かロシアの……」
記憶も虚ろな状況が長く続き、アリサの意識と現状認識が徐々に崩れ出していた。
囚われてからの時間の経過は最早認識する事も出来ず、最悪とも言える環境の中であれば、その状態に陥るのは時間の問題だと思われていた。洗脳にしろ、マインドコントロールにしろ本人の意識が混濁し始めれば容易に結果を出す事が可能となる。大車はあえてその方法を選択し、それを実行していた。
余程戦場の中に長期間身を置いた人間と言えど、時間の経過と共に認識の壁は崩れ、やがて精神はゆっくりと崩壊する。
そのままでは何の意味も成さない為に、その直前になってから、アリサは本来の予定していた行動を無意識にとり始めていた。
「アリサ、このままじゃダメ。ここから逃げて!」
「オレーシャを置いて逃げるなんて出来ない!」
「このまま時間を稼ぐから、アリサは応援を呼んで。それまでは何とか持ちこたえるから!」
これは一体現実なのか夢なのか。本来のアリサであれば間違える事無く答えを出す事は出来ていた。しかしながら、意識と行動の自由を奪われ徐々に思考が崩壊し始めているアリサにはその区別を着ける事は出来なかった。
「オレーシャはアリサを庇って捕喰されたらしいよ」
「らしいな。見つかった時には上半身は無かったらしいぜ」
「あいつって、アラガミをみた瞬間に体が竦んで動かなかったってさ」
囮となってアリサを庇ったあと、増援を呼んで現地に戻ったアリサが見た物はオレーシャだった下半身と神機が血だまりの中で残されていた後だった。
ゴッドイーターである以上、アラガミによる捕喰で殉職する事は日常の中では当たり前の話でもあり、その事実はゴッドイーターならば誰でも知っていた。
アリサにとっても全く知らない話ではない。事実、所属していた部隊の人間が同じような目に合った事も聞いていた。
しかし、自分とは何の関係も無い人物だからこその判断でもあった。今までの中で殉職した人間にも友人や知人はいた筈だが、アリサはどこか他人事の様にも思え、それは結果的には実力が足りないからだと勝手に判断していた。
そんな中での今回のオレーシャの殉職はあまりにも身近すぎた結果、精神的な負荷が襲い掛かり精神に異常をもたらし、そこに追い打ちをかけるかの様な誹謗中傷の声がアリサの精神を崩壊させる事に拍車をかけていた。
「アリサ……なんでもっと早く来てくれなかったの?」
「私の事を見殺しにして自分だけ助かるなんて……酷いよ」
「アリサ……アリサ……アリ……サ…ここは…寒いよ……早く…ここに来て」
「違う!私は…私は…違うの!オレーシャ!」
外部から今のアリサの心情を確認する術は何も無い。しかし、この時点でアリサの精神の改ざんを確信していた。そこには卑しい笑みを浮かべたまま画面を見つめていた大車が居た。
一旦方針を決めてからの行動は神速とも言える程の勢いで、内部を一気に進んでいく。ここまでの戦闘の中でアラガミの姿は何もなく、当初に見たサンプル以外にアラガミの気配は微塵も無かった。
しかしながら、ここまでの道程で多数の兵士との戦闘を繰り返し3人は既に返り血を浴びはするものの、気力が衰える事は何も無かった。
「あの後はアラガミの気配は何も無いけど、このまま行けるか?」
「可能性はゼロだな。あそこにあれがある以上、アラガミはどこかで必ず出てくるだろう。関連付けるのは難しいかのしれないが、アナグラの襲撃はここからだと考える以上、いずれ出くわすと考えるのが自然だ」
《無明。この先にまた大きな広場の様な物がある。だが、それに付随して小さな部屋が幾つか点在してる。ここからでは用途については不明だが、待ち伏せがあるかもしれん。気を抜くな》
ツバキのナビゲートにより、今後の状況を予測する。この時点で既に半分近くは進んでいる以上、そろそろ敵の動向も厳しくなると予想し改めて索敵し始める。
今までの戦闘において、丸腰で向かってきた者は一人もおらず、全員が何らかの銃火器を所持している事から、動きは格段に変わりつつあった。
「これで教団の線は無くなったな。まさか全員が武装していたのは想定外だが」
無明の発する言葉には重みがあった。ただでさえアリサの奪還が最優先だが、ここに来て先ほどのサンプルはあまりにも衝撃すぎた。あの場面を見たのであれば、可能性はほぼ一つに限られている。
「正直、その線だけは考えたくは無かったんだがな。でも、あれ見たら仕方ないな」
「でも、一体誰が開発を?」
「今の段階では何も分からん。まずは先を急ぐが、その前にこれを着けるんだ」
「兄様、これは何の為に?」
「簡単に言えば顔を隠す為だ。用途はそれ以外にもあるが、いくら何でも顔を出したままは何かあった際に困る可能性が高い。その防止の為だ」
「仮装パーティーじゃねえんだから、別に要らないだろ?」
「無理にとは言わないが、ここから先は確実に相手も分かっているはずだ。それと、ここからは旧居住区ではなくなるから、カメラも設置してある可能性が高い。下手に素顔を晒して困るのはお前だが、どうする?」
「……分かった」
そこまでハッキリ言われると流石にリンドウも素直に仮面を着ける事に応じるしか無かった。本来であればこの任務は極秘事項でもあり、いくら腕輪でゴッドイーターだと判明しても顔が分からなければ大事にはならない。
念には念を入れる。そんな思惑があった上での判断だった。
「大車博士、どうやらここにネズミが紛れてるみたいだ。我々としてはそれを駆除する事になる。済まないが例の装置を貸してくれないか?」
巡回していた配下の人間と連絡を取る事が出来ず、調査した結果エイジス島に侵入者が居る事に気づかれていた。この時点で、その現場には人の気配は無く、ただそこには交戦した形跡だけがあった。
本来、大車はここの武装集団の事は信用していない。お互いの利害関係が一致した結果、元々噂レベルだった教団を上手く利用し、その結果として狂気とも思える実験を繰り返していた。
狂気の科学者と、武装集団では本来接点とも言える部分は何も存在していない。
偶然エイジス島に武装集団が侵入し、互いの利害関係で結ばれていただけだった。
武装集団はそもそもテロ組織とも言える物で、反フェンリルの反旗の元に集まっていたに過ぎない。しかしながら、そのトップのカリスマ性から現在に至り、その状況を判断した結果として単なる烏合の衆を自分の手足の如く運用出来るならばと組んでいた。
「これはまだ、検証の途中で渡す事は出来ない。仮に利用した結果が希望に共わない可能性もあるが、どうする?」
「……ならば仕方ない。それは諦めるとしよう。だたし、こちらからの要望に関しては確実に実行してくれたまえ」
「それは当初からの契約だ。確実に履行しよう」
そう言いながら、武装集団は部屋から去って行った。装置とはアラガミをコントロールするものだが、実際には既に完成していた。しかしながら一時的な共闘に全幅の信頼を寄せる事は無く、結果的には互いが牽制しあう一面もあった。
アラガミのコントロールは現在の所では中型種以上はまだ完全ではない。その部分を強調する事で自分に価値を持たせるだけでなく、身の安全の為に大車は要求を拒んでいた。
「ネズミの事はあいつらに任せよう。そろそろアリサも受け入れやすくなっているはずだ。直に確認しに行くか」
誰もいないその場所で、一人呟くと同時にアリサのもとへと向かう事を決めた。
「なあ、あの扉ってどう考えても何か出ますって雰囲気しかないんだけど、やっぱり突っ込むしかないのか?」
「本来ならそんな事はしたくないが、残念ながら遮蔽物が無い以上、ある意味仕方無いだろう。時間から考えればそろそろ向うも気が付くはずだ。いい加減ここで腹を括れ」
「そんな事はとうの前に終わってる。出来る事なら穏便に行きたいだけだ」
「リンドウ、この際ハッキリ言っておくが、こちらがその意識があると言う事は相手からも同じ意識を向けられる事になる。今回の任務は本来ならば俺一人が請け負うものだ。それをやる以上、余計な同情はこちらの死を招く事になる。
それと、これは推測だが今回の一連の流れはアナグラの襲撃で終わる様な話にはならないはずだ。ここでの失敗はアナグラにも大ダメージを負う事になる。その事は常に頭の中に入れておくんだ」
戦いの前に改め士気の低下を防ぐのと同時に少しでも有利な展開に持ち込む為に索敵を開始した。幾つかの扉がある中で、一つだけ完全に閉まりきっていない扉から一人の話声が漏れている。この襲撃による警戒かと当初は思われていたが、僅かに聞こえる声から、話ている内容が漏れる。
「こんな事に使うなんて聞いていない。お前は一体何を考えているんだ!俺はもうここで降りる。後は勝手にしろ!」
誰かと口論になっているが、相手は誰なのか分からない。このまま遭遇すれば何かと具合が悪い事を察知し、少し時間を開けた後に話かけた。
「お前はここで何を研究していたんだ。命はだけは助ける。何を研究していたんだ?」
怒りに任せて歩いていた研究員は背後からの声に緊張感を高め警戒していたが、声をかけられた時点で既に何かを突きつけられていた事だけは察知できていた。
本来であれば荒事には一切無縁の存在だったはずが、一転して戦場と化す。
その時点で研究員は言われた事をただ話す事しか自分の命を守る手立ては無かった。
「ここでアラガミの制御を研究していたんだ。最初は人類の為にと思ってたのが、あいつらが突如裏切ったんだ。俺はそれ以上は何も知らない。頼むから助けてくれ」
これ以上の事は何も聞き出す事は出来ない。そう判断した時だった。
研究員の背中からナイフとも思われる物が突き出ている。周りには何も見えないが気配だけは確実に感じる。そう判断した後の動きは素早かった。
「光学迷彩だ。気を付けろ!」
無明が叫んだ瞬間、周囲にいくつかの気配が感じられていた。見えない気配は無数に存在している。ここに来て一つの山場を迎えようとしていた。