厳しめやヘイト系は一切書いていないつもりです。今回はハーツラビュル篇です。
この学園で唯一魔法が使えないただの人間、ユウはナイトレイブン・カレッジの図書館の椅子に、難しい顔をして座っていた。
訳も分からないまま異世界の学園に通うことになって、早や半年以上が過ぎている。しかし、常に問題ごとを引き起こしてくれる見た目はかわいい謎の生物グリム、下手をするとグリム以上に厄介なものの憎めない友達のエースとデュース、その他曲者ぞろいの学生たちに囲まれ、元の世界を恋しく思う余裕さえなかった。だから、ホームシックにかかったという訳ではない。問題は別にあった。
(本が読みたい……!)
これである。
ユウは元の世界ではいわゆる「本の虫」と呼ばれる類の子供だった。古典文学からライトノベルまで手当たり次第に読み漁り、読書好きが嵩じて学校のビブリオバトルに参加、しかも初参加で優勝という、正直読書家以外にはあまりすごさが伝わらない経歴をもつほどだった。
そんな子供なので、ナイトレイブン・カレッジの学園生活が始まってすぐに学校図書館の蔵書を調べたのである。ところが。
(この世界、『文学』らしきものがない!)
そう、この世界にも当然小説はあるが、その全てがハッピーエンドだった。たとえ主人公が物語の中で苦難に見舞われ愛する者と引き離されようとも、結末は必ず愛の力によって苦難を乗り越え、愛する者と結ばれる。この「ワンダーランド」がおとぎ話によって形作られているためか、この世界の文学もはっきり言って元の世界のおとぎ話の範疇を出ないのだ。
(こんなことになるなら、『うたかたの日々』を肌身離さず持っておくべきだったなぁ……)
ちなみに『うたかたの日々』とはフランス人のボリス・ヴィアンが書いたファンタジックな恋愛小説である。奇想天外な世界観でありながら恋愛の美しさや儚さ、残酷ささえ描き切った20世紀文学の中でも異色と言える名作で、ユウの愛読書の一つだった。(そのためこの小説が世界的に見ても知名度が低いことはユウにとって大きな不満である)
「ユウ、君も図書館で勉強をしているのかい。感心なことだね」
ふいに後ろから少年らしい高音の、しかし気高さを感じさせる声が自分を呼んだ。振り返ると、ハーツラビュル寮の寮長、リドル・ローズハーツが重そうな本を両手に抱えて立っていた。
「リドル先輩、こんにちは」
ユウはすぐに立ち上がって挨拶をした。彼は厳格な家庭で育ったせいか、他人の礼儀作法にも恐ろしく厳しいため、彼と話すときはどうしても緊張してしまう。例のオーバーブロット事件以降はかつてに比べるとヒステリックさは弱まったらしいが、未だに「ウギーーー!」という彼の癇癪を起こした時の絶叫がハーツラビュル寮に響き渡っているのを何度も聞いているので、気を遣うに越したことはないだろうと思っている。
「それはなんの本ですか?」
「ああ、次の薬草学のテストに備えて参考文献を読んでおこうと思ってね。この学園の図書館は蔵書数が豊富で助かるよ」
(蔵書数が豊富な図書館でこういう小説しか見つからないなら、本当に悲恋物語や自然派小説なんてないんだろうな……)
リドルの言葉からそれまで感じてきた不満がほぼ事実であることが察せられ、ユウは肩を落とした。
「どうしたんだい。分からないところがあるなら、僕が教えてやってもいいけれど」
ユウの様子を見たリドルが声をかけた。どうしても怒りっぽさが目立ちがちだが、真面目に規則に従って過ごしている後輩には、彼は面倒見の良い先輩なのである。
「いえ、テストのことじゃなくて、読みたい小説がないな、と思って……」
「? 人文学コーナーに行けば小説は大量に置いてあるだろう」
「なんていうか……、この世界の物語はみんな結末がはっきりしていて、内容も明るいですよね。私が探しているのはこう、悲しい結末を迎えたり、曖昧なまま終わったりする物語なんですけど……、ありませんかね?」
「……君はもと居た世界でもずっと暗い話か曖昧なまま終わる物語を探し求めていた、と?」
「違います!」
リドルの自分を見る目が「まともな友人と信じていた相手が実はサイコパスだったことに気づいてしまった人」のようになってしまったのを見て、ユウは慌てて訂正する。
「私の世界の文学は、この世界の物語みたいな幸せな恋物語や、ワクワクするような冒険物語ももちろんありますが、胸を締め付けるような悲恋、主人公の結末がどうなったのかをあえて伏せ、読者の想像に委ねる物語も数多くありました。そういう様々な物語があるからこそ、文学は読む価値があると思うんです。それに!」
いきなりすごい勢いでまくし立てたてられ、たじろいでいる様子のリドルにはお構いなしにユウは言葉を続ける。
「文学は決して、起承転結のある物語のことだけを指すものではありません。自分の体験したこと、考えたことだけをひたすらに綴っていくものもあったんです。この世界にはそれも見つからないんですよ!」
「暗くて曖昧なうえに、自分の体験を綴るだけ……?それの何が文学なんだ?」
戸惑うリドルの言葉を聞き、ユウは思わずカッとなって叫んだ。
「では、私に私の国の文学のプレゼンをさせていただけませんか!?」
「プ、プレゼン?」
「はい!そうすればきっと、私がこの世界の文学だけでは満足できないのか、その聡明さでは他の寮長たちにも一切後れを取らないリドル先輩ならわかってもらえるはずです!」
リドルはむう、と唸る。そうまで言われて申し出を断っては、誇り高きハーツラビュル寮の寮長の名折れである。それに、勉強熱心なリドル自身、自分の世界とはまったく違うという文学への純粋な興味もある。
「……よろしい。そこまで言うなら、君の世界の文学について存分に語ってもらおうじゃないか。ただし、この僕が貴重な時間を割いてまで聞いてあげるんだ。下らない話だったら……お分かりだね?」
こちらを挑発するようなリドルの言葉に、ユウは胸を張って答える。
「お任せください!後悔はさせませんよ!」
ユウがオンボロ寮に帰ってきた頃には流石に興奮も冷めて、代わりに不安が襲ってきた。
(ああ言っちゃったけど、じゃあ何について語ろうか……)
まずこの世界にその現物がないのだから、全て口頭で説明しなくてはならない。つまり何も無くても語れるくらいによく読んできた話でないといけない。
(さすがに純文学を口頭で説明はしにくいな……じゃあ古典文学?)
ユウは幼い頃に親が買ってくれた学習漫画を入り口にして、説話集や歌物語なども普段から読んでいた。
だが問題はそれらからどの話を選ぶか、だ。
(『源氏物語』はさすがに難易度高すぎる。仮にうまく説明できたとしても内容がアダルティだからな……。『竹取物語』は……これも語るとなると結構難しいし。とっつきやすそうなもの……)
「ユウーーー!」
「うわっ!」
急に頭めがけて落ちてきた衝撃にそれまでの考えが吹き飛ばされてしまった。
「グリム、急に頭に乗らないでよびっくりするから!」
「腹が減ったんだゾーーー!ツナ缶寄こせ!」
「分かった、分かった」
グリムを頭にのせたまま戸棚のほうまで歩き、ツナ缶を取って渡した。
グリムがツナを美味しそうに頬張る光景を眺める時間をユウは気に入っている。小憎たらしいところもあるが、大人しくしているときはまさに可愛らしい小動物なのだ。
(なんで小動物ってこんなにかわいいんだろう、モフモフしてるからかな。いや、全体的に丸っこくて、小さめだから?……丸くて小さいから、かわいい……?)
そこまで考えて、ユウはハッと目を見開く。
「『枕草子』!!!!」
「ふなっ!?急に叫んでなんなんだゾ!?」
その数日後の放課後、ユウはリドル寮長の部屋の前にいた。
「オンボロ寮のユウです。リドル寮長はいらっしゃいますか?」
ドアが開いたと思うと、目の前に立っていたのはケイト・ダイヤモンドだった。
「やっほー、ユウちゃん!今日はなんか、本のプレゼンしてくれるんだってー?」
「え、ケイト先輩も聞いてくれるんですか?」
「別の世界の物語を聞けるなんて機会、そうそうないじゃん。トレイ君もお菓子作って持ってきてくれるってさー」
「トレイ先輩まで……!頑張りますね!」
「おー、めっちゃ気合入ってんねー」
「そこで話していないで、早くおはいり。」
部屋の奥で机の前に座ったリドルに声をかけられたので、ユウは慌てて向かいの椅子に腰を掛けた。
「てっきりあの2人もついてくるかと思っていたんだがね」
「エースとデュースですか?一応誘ってみたんですが、説明してみたら『難しそーだからパス』って言われました。代わりにグリムの面倒を見てくれています」
「……デュースは?」
「……薬草学の追試試験を受けるそうです」
「異世界の文学を学べるというチャンスを……彼らはもう一度首をはねる必要がありそうだね……」
眉間に浮かんだ青筋をぴくぴく震わせながらリドルが呟いたその時、トレイ・クローバーがケーキの入った箱を持って部屋に入ってきた。
「やあ、ユウ。今日はマスカットのタルトにしたんだ。……リドルは何かあったのか?」
「いや、なんでもないよ。不真面目な寮生への特別補修を今度開催しようかな、と考えていただけさ」
エースとデュース、ごめん。でも追試の件はどうせ後でバレるし……。恐らく後日こってり絞られるであろう2人の友人に心の中で黙とうを捧げつつ、ユウは咳ばらいをした。
「本日語らせていただくのは、清少納言の書いた『枕草子』。厳密には物語ではなく随筆ですね」
「セイショウナゴンって人の名前か?」
「マクラノソウシ?」
「ズイヒツってなに―?」
3人が一斉に首を傾げたので、ユウは慌てて補足説明を始める。そう、ここは日本という国の存在しない異世界なのだから、「相手は何も知らない」ことを前提に説明しなければならない。
「えっと、清少納言はこの女性作者の名前です。名前と言っても『少納言』はこの人の役職名なんですが……、とにかく、そう呼ばれていたってことをご理解いただければ問題ありません」
「女性だったのか……分かった」
『清』は父親の清原元輔の苗字から取られている。つまり彼女の名前は存在しないのだが、そういった歴史的経緯まで含めると時間がいくらあっても足りないので、あえて省くことにした。
「『枕草子』という題名は、この清少納言さんがこの本を夜遅くまで書き続けて、時には紙の束を枕にして寝てしまったことさえあった……という逸話から生まれています。『草子』は、紙の束、つまりこの本のことです」
「成程、エピソードがタイトルになっているのだね」
「随筆というのは、ある意味ケイト先輩がアップしていらっしゃる『マジカメ』の投稿に近いです。自分が見て感動したこと、感じたことを短い文章で表現していくんですね」
「えー!リドル君からも聞いてたけど、本当にそんなのもユウちゃんの世界じゃ文学になるんだ!」
「そうなんです。早速その『枕草子』の説明に入りたいところなんですが……、この本は私の国では古典文学に当たります。つまり大昔に書かれた本なので、背景となる人々の暮らしや政治のあり方も現代とは大違いで、解説がないとよく分からない部分も多々あります。私の国を知らない皆さんにはさらに分かりにくいと思うので、簡単にこの時代の説明から入らせてください」
「分かった」
「オッケー」
「長くなるようなら紅茶も淹れてやるから、ちゃんと水分補給しながら話すんだぞ」
「ありがとうございます!」
「まず、私の国は日本といって、約2000年の歴史があります」
「へえ!ユウちゃんの国ってすごい歴史あるんだね」
「はい、私の世界でも1000年以上続いてる国は珍しいんですよ!それはともかく、この『枕草子』が書かれたのは今からおよそ1000年前、平安時代と呼ばれる時代です。この国が平和であるようにと願いを込めて首都を平安京と名付けたことがその由来です」
「そんな名前が付けられたってことは……あんまり平和じゃなかったってことか?」
「この時代には大きな戦争はありませんでしたが、勢力争いやクーデターなどの貴族同士の争いはかなりありました」
「1000年前とは言え、君の国は随分と物騒だね」
戦争という言葉をあっさりと口に出したユウにリドルは眉を顰める。このワンダーランドの歴史上、争いは一切ないという訳ではなかったが、首都に平和への願いを込めた名前を付けなければならないほどに戦乱が吹き荒れたことなどない。
「確かにこの世界の基準だと物騒かもしれません……しかし清少納言が活躍していた頃は国内もその名の通り平安で、貴族たちの宮廷文化が最も華やかだった時代でもありました。彼女はその時代の最高権力者の妻の女房……女性の従者として働いていたんです」
「成程。それほど身分の高い人の従者であれば、文学が書けるほどの教養も必要とされるだろうね」
「リドル先輩のおっしゃる通りです。また、当時の結婚制度にも関係してきます。この時代の最高権力者は天皇、その妻は皇后と呼ばれていたんですが、天皇は一夫多妻制だったんです。たしかカリム先輩のお家もそうでしたよね」
「ユウの世界にも同じ制度があったんだな。正直かなり特殊な制度だと思っていたんだが」
「まあ、私の世界でも主流派という訳ではないんですけどね。一夫多妻制であるということはつまり、愛を競うライバルが多いということです。娘を天皇の妻にしたいと思う貴族たちは、娘本人だけでなくその世話を任せる従者にも気を遣いました。なので、この時代には清少納言以外にも優れた文学や詩を残した女性の従者が沢山いるんですよ」
「インテリな女性ばかりが宮廷に勤めている、ってことか。すごいな」
「でも賢い女の子ばっかりな職場って大変そうじゃない?ドロドロしてそう~」
素直に感心するトレイとは対照的に、姉が2人いるケイトはこの男子校の中でも女の怖さを身に染みて理解しているようで、げんなりとした表情になる。
実はケイトの指摘は結構鋭い所を突いているのだが、それについてはこの随筆の本質に関わってくるため、ユウは少しぼかして答える。
「そういった大変なこともあったかもしれませんが、清少納言がここに書いているのは、主に自分の仕える女主人である定子とのやり取り、彼女の体験、感じたことについてです。自分の宮廷生活をユーモラスに描いているんですね」
一度コホンと咳払いをして、ユウは説明を再開した。
「この随筆は、私の国では必ず古典文学の授業のテキストに使用されるほど有名な作品です。今から読み上げる部分は、日本人なら誰もが知っていますね」
ユウは目を瞑って、一度深呼吸してから暗唱する。古典の授業で強制的に暗記させられた部分だから、今でも言える。
春はあけぼの、やうやう白くなりゆく、山ぎはすこしあかりて、
紫だちたる雲の細くたなびきたる
よく通る声で唱えられたそれは、古代の日本語を知らない3人にはまるで音楽のように聞こえた。意味は掴みきれなくても、テンポよく文章が綴られていることは分かる。
「春で最も美しい瞬間は、夜明けである。次第に空が白くなり、山際が明るくなって、紫がかった雲がたなびく景色がよい……といった意味です。もっと砕けた表現だと、『春は夜明けの瞬間が映(バ)える!』ですね。」
「ほんとにマジカメじゃん!」
ケイトが笑いながら言う。
「私は結構好きな箇所なんですが……、正直、『授業で覚えさせられる文章』という印象が強すぎて、却ってこの本自体が敬遠されるようになってしまったという点は否めません」
「僕は、純粋に美しい文章だと思うけどね」
「学生皆がリドル先輩くらいリテラシーの高い人たちなら問題ないんですが……。しかしですね!この本の魅力は教科書では説明されない部分にこそあるんです!今日はそのことを語るために来たので!」
「今日はいつもより元気だなあ」
トレイが笑いながらタルトを切って、ユウに渡す。有難く一口戴いてからユウは続ける。
「『枕草子』」の一番の魅力は、『率直さ』だと思ってます。先に挙げた一文もそうですが、彼女は自分が好きなもの、嫌いなものも、分かりやすい言葉で率直に書いたんです」
「結局一番バズる投稿も、『巧い』じゃなくて『エモい』写真だもんね!」
「バズ……?エモ……?」
「バズる、はその投稿が大人気になること、エモい、は見て感動する、って意味だな」
流行に疎いリドルにトレイがすかさずフォローを入れる。
「リドルくんはもっとマジカメに興味持ってもいいと思うよー?……ほら!」
ケイトは急に自分のスマホを取り出し、しばらく画面をいじっていたが、おもむろにその画面をユウたちに見えるように画面を突き出す。
「セーショーナゴンさんが書いてる景色ってさ、こういうことでしょ?」
そこには、太陽が昇り始めた頃の山の風景を撮った写真が映し出されていた。真っ白な空の中で山際が輝いている。まさに、清少納言が書いた景色そのものだ。
「すごい……」
思わず呟いたリドルを見たケイトがニッと笑う。
「そのすごいって言葉が思わず出ちゃうのが、エモいって気持ちだよ!僕たちはさ、写真のおかげで簡単に楽しめちゃうけど、文章でその美しさを再現させちゃった、って考えてみたらすごいことだよね」
「そうなんです!!!!」
「うわ!?」
いきなり立ち上がって大声を出したユウに3人は一瞬体をびくりとさせる。
しかしユウは興奮せずにはいられなかった。ケイトが言ってくれたことこそ、まさにユウが『枕草子』を読む人に分かってほしいことの一つだったからだ。
授業で習う『枕草子』では、確かに文法と意味を正しく知ることはできるが、学校がしてくれるのは基本的にそこまで。その文章の「何が面白いのか、何が素晴らしいのか」まで教えてもらえることはまずない。
しかし、1000年前とは言え同じ人間が書いた文章で、ましてや随筆は難解な思想書という訳ではない。まさに現代人がスマホのカメラで見たものを撮り、保存するようにして、清少納言は「春はあけぼの」の段を残したのだ。それが理解できれば、この古典文学との距離はもっと近くなるはずだ。そんなことをユウはかつての同級生が「古典なんて分かんない」とぼやいているのを聞きながら考えていたのだ。
(語れて、しかもそれを理解してもらえるのはやっぱり素晴らしい……!)
ユウは感動を噛み締めていた。
一方3人はいつになく興奮しているユウに少々面食らっていたが、自分たちの反応を心底嬉しそうに聞いてくれる後輩の姿に微笑ましさを感じていた。この曲者ぞろいの学園で、他人の態度を素直に嬉しいと感じ、しかもそれを素直に表現できる子は貴重だ。ユウの他にはカリムと、素直に自分の楽しさを表現できるウツボが一匹この学園にもいるが、あれのいう「楽しい」はたいへん物騒なので彼は除外される。
「す、すみません。分かって頂けたことが本当に嬉しくってつい……」
「……タルトをもう少し食べるか?」
「紅茶のおかわりもあるよー」
「随分語ってくれていたからね。一度休憩をとろうか」
我に返って恥ずかしそうにするユウに3人はそれぞれかなり年下の子供を相手にしたような態度をとるが、差し出されたおいしいタルトに夢中なユウは、生まれたての子ヤギを見守るような彼らの表情には気づかなかった。
「ところで、『枕草子』は体験や感想が書かれていると言っていたけど、なら他には何について言及しているんだい?」
しばらくは全員でトレイのタルトを堪能した後で、紅茶を飲みながらリドルはユウに尋ねる。
「マジカメの投稿に近い、って言うんだったら……これがカワイイ!みたいな話があったりして?」
「いや、流石にそれはないだろ」
「ありますよ?」
「「「あるの!?」」」
あっさりと答えたユウに3人が異口同音に叫ぶ。
「『うつくしきもの』……ずばり、『かわいいもの』という章が本当にあります」
「なんでもありだな……」
目をぱちくりさせるリドルに、ユウはまた解説を再開させる。
「清少納言が可愛いと言っているものを分かりやすく言うと……、瓜に書いた子供の顔、チュッ、チュッと鳴きまねをすると寄ってくる雀の子、2,3歳の子供が這ってくる最中に小さい埃を見つけて、指でつまんで大人に見せる姿。髪を肩のあたりで切りそろえた子供が、目にかかる髪をかきのけもせずにじっと何かを見つめている姿、人形遊びのおもちゃ……とにかく、小さくて丸いものはみんな可愛らしい」
「ははは、確かにそうだな」
トレイが顔をほころばせる。幼い兄弟たちがいる彼には、子供の細かい仕草の描写は想像しやすかったのだろう。
「分かるわー、子供と動物の投稿写真には絶対勝てないもん。あれずるいよねー」
「ケイト……君の物事の判断基準は全てマジカメなのかい?」
依存症じゃないだろうね、と白い目を向けるリドルに、ケイトは「違うって!」と否定し、慌てて話題を変えようとする。
「最初に好きなものや嫌いなものについて率直に書いてる、って言ってたよね。じゃあ嫌いなものはどんなふうに書かれてるの?」
ユウは一つ頷き、『にくきもの』の段をかいつまんで現代語に訳していく。
「急の用事のある時にやって来て、長々とおしゃべりするお客。気を遣わなくていい人なら、『また後で』と追い払うこともできるが、そうもいかない人の場合は、本当に厄介だ」
ケイトとトレイは思わず吹き出す。厚かましい客相手に顔を真っ赤にして怒るリドルの姿を想像してしまったのだ。一方リドルはとてもよく分かる、と言いたげに頷いている。
「眠いと思って横になっていたら、蚊が小さな声で『ぶーん』と言いながら顔のあたりを飛び回ること。小さな体でご丁寧に羽風まで送ってくるのが憎らしい」
「どうにかして見つけ出して退治するまでは寝られないやつね」
「夏場あるあるだな」
「虫は首を刎ねてやることもできないし、本当に厄介だね」
「寮生だからって簡単に首を刎ねていいってわけでもないからな?リドル……」
額に手を当てながら呟くトレイの心労に同情しつつ、ユウは話を続ける。
「他にも、1000年も昔に書かれたとは思えないような『あるあるネタ』のようなものが多いんです。
胸がドキドキするもの。雀の子を飼うこと。……ちゃんと育つかどうか心配になる、という意味です。人が子供を遊ばせている場所の前を車などで横切ること」
「子供って予測のつかない動きをするもんな……」
トレイが遠い目をして呟く。学園ではリドルの面倒を、実家に帰っても兄弟たちの面倒を見ているトレイを見て、ユウは本気で彼に学校を休んで温泉にでも浸かってもらいたいと思い始める。この世界に温泉があるのかどうかは知らないが。
「他には、上等のお香を焚いて1人で横になっていること、ですね」
「お香?」
「あー、この世界だと……アロマが一番近いですかね」
「成程、さっきの2つはハラハラする、の意味だったがこれはワクワクする、の意味かな。確かに上等なアロマを使う時は嬉しいものだね」
「たしかサムさんの店にもアロマが置いてあったよな。今度買ってみるか?」
「いいなー俺にも使わせてよー」
男子学生とは思えない発言と彼らの端正な顔立ちも相まって、女子高生のように見える3人を見てユウは笑いをこらえる。とにかく共感してもらえたなら何よりだ。
「ハッとさせられる言葉もありますね。
人に馬鹿にされるもの。土塀の崩れ。あまりにもお人よしと知れ渡った人」
今までの和やかな空気が一瞬固まる。これまでに挙がった例は笑いながら聞けたが、これはもしかすると自分にも当てはまるかもしれないと思わせる言葉だ。
実際に土塀の崩れほどでなくとも、家の壁の汚れや雑草の抜き残しなどというのは他人の目にはかなり目立つ。
(今度寮の周りを点検してみようかな)
完璧主義のリドルは早速我が身を振り返るための教訓にしようとする。
また、「あまりにもお人よしと知れ渡った人」が馬鹿にされるというのは酷なようだが真実だろう。人の言うことに全く逆らえずニコニコしているばかりの人間は軽んじられるのが世の常というもの。それはもはやお人よしではなく単なる愚か者だ。ワンダーランドとはいえこの学園の学生はヴィランを模範として称える価値観の下で過ごしている。世の中を見つめる目はちゃんとシビアなのだ。
「なかなかいい言葉だね。これこそ教科書に載せるべきではないのかい?」
「私もそう思うんですが、偉い先生たちはここを『子供向けではない』と考えてるんですかね。でもそういうことをするから子供が古典を読まなくなるんですよ……」
話が愚痴になってしまいそうなのでユウは気持ちを切り替える。
「この本のもう一つの見どころは、清少納言とその主人、定子の主従関係を超えた友情です。『枕草子』を読むと、彼女がどれほど定子を敬愛していたかがよく分かるんです」
「主従関係を超えた友情」という言葉にリドルが少し反応する。寮長と副寮長という関係は決して主従関係という訳ではないが、トレイはまるで主君に仕える騎士のようにリドルを守り、寮長としての仕事をほぼ完璧に支えてきたし、リドルも幼馴染であるトレイを心から信頼してきた。そういった意味ではリドルとトレイ、清少納言と定子の関係は近いのかもしれない。しかし。
(……僕は、トレイにとってまだ友人だろうか?)
ある意味ではあの一件のおかげで、リドルは今までの自分を振り返ることができるようになった。
(ずっと、ルールを厳守することが正しいことだと信じてきた。だから、みんなをルールに従わせることが僕の務めだと思ってきたんだ。でもそれは、寮長としての振る舞いで)
リドルはちら、とトレイの顔を見る。その視線に気づいたのか、トレイがどうした、と言いたげに片眉を上げる。これまでとまったく同じ表情と態度だ。リドルは視線をユウの方に戻す。
(僕はきっとあの日から、トレイの友人として振る舞えてない)
語りたい部分を頭の中で整理していたため、ユウはリドルの微妙な表情の変化に気づかないまま、話を続ける。
「ある日のこと、侍女たちと話しているときに定子は急に清少納言に『私のことを好き?』と聞いたそうです。もちろん彼女は『嫌いなわけありません』と勢い込んで答えましたが、その時誰かがくしゃみをしました。当時くしゃみをするというのは不吉なことと思われていましたから、定子は『まあ、残念だわ。あなた嘘をついたのね』と奥に引っ込んでしまい、清少納言は嘘なんてつくわけないのに!と悔しがったとか」
「あはは、リドル君だったらどうする?トレイ君が言ったことが嘘かもしれない、って思ったら」
「……変なことを言うんじゃないよ、ケイト。まず僕はそんな馬鹿なことを聞かないし、トレイは僕にそんな嘘をつかない」
「そりゃそうだろうけどさぁ。もしもの話じゃん」
「まあ確かに、リドルにそんなことを聞かれるなんて想像したこともないな」
ケイトは肩をすくめて苦笑し、トレイも笑う。しかし、今のリドルは笑い飛ばす気にはなれなかった。
(そうだ。僕には聞けない)
自分のことが好きか、などという台詞は、相手は当然自分のことが好きだと信じているからこそ出てくる言葉だ。
もちろんリドルはトレイが自分のことを嫌っているなどとは思っていない。しかし、今の自分にさらりとそんな言葉を吐けるくらいの自信はなかった。
「……ねえユウちゃん。ひとつ質問していいー?」
「はい、ケイト先輩」
「確かにこの本は面白いなー、って思ったよ?自分の考えとか経験だけをひたすらに書いてく本なんて初めて聞いたし、文章だけでエモい景色を表現できたなんてすごいな、って思ったんだけどさ」
ケイトは軽く肩をすくめて見せる。
「ぶっちゃけそれだけなら、文学として面白い、ってことにはならなくない?工夫としての面白さなら分かるんだけど。ユウちゃんはさ、なんでこの本にそこまでハマったの?」
物思いに沈んでいたリドルは、ケイトの直截な言葉に思わず彼の方を振り返った。だが、ケイトの言うことももっともであった。
この世界の物語とはそもそも形式の違う随筆という文学、その面白さは理解できたが、ケイトの言う通り、そこから得られる感動自体はマジカメでも得られるものだし、更に言うならマジカメの方が文章と共に画像が見られるという点では随筆よりも優っている。この本の文学としての魅力とは、一体何なのか。
しかしこの手厳しい指摘にもユウはケイトから目を逸らさず、落ち着いた声で答える。
「おっしゃる通りです。確かにこの本の魅力は、彼女の確かな観察眼と、気取らず自分と自分の周囲を正直に描いた彼女の筆力ですが、それだけならまさにマジカメでもできること。そこだけを指して優れた文学、とは言い切れないと思います」
だからこそ、とユウは続ける。
「『枕草子』は、なぜ書かれたかを知るべきだと思うんです。これを書くことが、彼女にとってどんな意味があったのかを」
「リドル先輩、最初にこの本の時代背景の説明はしましたよね。覚えていらっしゃいますか?」
「ああ。宮廷文化が花開いた時代で、清少納言は当時の天皇の后、定子に仕えていた。だったね」
「はい。定子は複数いる天皇の妻の中でも、最も美しく聡明な人だったと言われています。そのためか、彼女は夫の一条天皇から一番に愛されていました。清少納言はこの随筆を、定子のために書き上げたと言われています」
「それは、女主人を楽しませるために、という意味かい?」
「いいえ」
一拍置いてユウは続けた。まるで、辛い真実をそれでも打ち明けようとするかのように。
「死んだ定子の名誉と美しさを守るために、です」